2016年7月31日日曜日

梅ヶ枝餅のはじまり

梅ヶ枝餅の始まりに関しては、大宰府市ふれあい館HPに次のようにある。

「太宰府の名物、「梅ヶ枝餅」は、その昔、菅原道真(すがわらのみちざね)を募うおばあさんの優しさから生まれたものです。
  平安時代、無実の罪で大宰府に左遷された道真は、ある時、刺客に襲われて近くの麹屋(こうじや)に逃げ込みました。罪を言い渡されてやってきたものをかくまえば、自分にも咎(とが)が及ぶかもしれないというのに、その家のおばあさんは、道真をもろ臼の中に隠し、その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしたのです。
  道真の命の恩人ともいえるこのおばあさんは、その後もこっそり配所の館にいき、不自由な暮らしをする道真のお世話をしたといいます。その時、麹の飯を梅の枝に添えて差し入れたものが、今に伝わる梅ヶ枝餅の始まりとされています」


ところで、江戸時代の文献『西遊日記』(柳田玄策著、天保2年に京都をスタートし、長崎までの道すがら大宰府に立ち寄った)には、

「(天満宮)社内に乙女らおおく、ここかしくに茶店をもうふけて『梅香餅』をひさぐ。名ぶつなりといふ」

とある。

柳田が漢字表記した「梅+香+餅}は「うめ+か+もち」と読むべきか、「うめ++か+もち」とあるいは「うめ+か+の+もち」とすべきか、「うめ+の+か+の+もち」とすべきか、さらには誤記とすべきは、後考を俟ちたい。すくなくとも、「うめがえもち」とは読めないようである。
 ただし、確たる根拠を持たないが、私見では「うめ++か+もち」ではなかったかと想定している。

「水城」関係資料

(資料)『歌枕名寄』8904番歌
「水城 良玉  俊頼

くもりかくすむと思ひし水城より闇に迷ひて立ち帰りぬる」

「染川」関係資料ーー逢染川・

(資料)『大和物語』第22段

「良少将立ちの緒にすべき革をもとめければ、監の命婦なむ「わがもとにあり」と言ひて、久しく出ださざりければ、
あだ人の頼めわたりし染川の色の深さを見でや止みなむ
となむ言へりければ、監の命婦、めでくつがえりて、求めてやりけり」

(資料)『伊勢物語』61段「染河」
「むかし、男、筑紫までいきたりけるに、「これは、色好むといふすき者」と、すだれのうちなる人のいひけるを、聞きて、
染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ
女、返し、
名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島浪のぬれぎぬ着るといふなり

(資料)『能宣集』180番歌
「染川のなに流るればわかるらん衣の色をまいてこそこめ」

(資料)『重之集』7番歌
「染川の錦寄せくる白波は聞くにもたがふ色にざりける」

(資料)『馬内侍集』103番歌
「人語らふと聞き給ひて、中関白(藤原道隆)、
あやしきは濡れぬ人なき染川のかからぬ袖も朽ち果てぬべし」

(資料)『大弐高遠集』186番歌
「染川
恋しさは色に出でぬと染川の心をくみて人は知らなむ」


(資料)『嘉言集』140番歌
「筑紫より上りたる女に
染川を渡りてきたる君ならばいかならむとも思ほゆるかな」

(資料)『四季恋三首歌合』27番歌

「恋ひわたる程の深さに染川の色浅からじと思ほゆるかな」

(資料)『兼澄集』22番歌
「筑紫より来たりし人に車の簾革こふに、今と言へば
ありとのみ人のいふめる染川は心づくしにこひやわたらん」

(資料)『経信集』90番歌

「螢
いさり火の波間わくるに見ゆれども染川わたる螢なりけり」


(資料)『散木奇歌集』1448番歌  沙弥能貧上
「おもひわび落つる涙は紅に染川とこそいふべかりけれ」

(資料)『堀河百首』1213番歌  遇不逢恋
「人心かねて知りせばなかなかに逢染川も渡らざらまし」


(資料)『歌枕名寄』8957番歌

「良玉  光任
我妹子に逢染川の水を浅み心づくしにさて止みなん」


(資料)『親宗集』121番歌

「恋部 頼政卿のもとへ革をこひにやるとて、伊豆国しる時なり

筑紫なる逢染川を東路の道知る人に尋ねつるかな」

(資料)『重家集』351番歌
「疑行末恋
ながらへて住まむ住まじをあやぶむは逢染川は渡りなむとや」

(資料)『拾玉集』273番歌
「百首 堀河院題 恋十首 初逢恋
ひまもなく落つる涙の積もりては逢染川となりにけるかな」


(資料)『拾玉集』4515番歌
「百首 堀河院題 恋十首 初逢恋
こよひよりまた濡らすべき袂かな逢染川の末の白波」

(資料)『弘長百首』477番歌
「初逢恋
行く末の淵瀬ぞ見えん嘆きわび逢染川の水の白波」



















2016年7月30日土曜日

大宰府名物のお寿司を、ご賞味あれ!!ーー寿し栄



長浜鮮魚市場から厳選したネタを仕入れた、本当に美味しい寿司店。お薦めのお店。

老舗の寿司屋でありながら、敷居の高さを感じさせず、女性同士でも入りやすいような雰囲気。若い大将は2代目。もちろんつまみから握りにいたるまで、江戸前の技が光る美味しいお寿司を味わえます。

そのご主人が丹念に作り上げた大宰府名物。大宰府ならではの味。

1,小鳥居小路巻 650円
2,筑紫巻      650円
3,宰府巻      780円

ぜひご賞味あれ!!

なお、私が注文するのは、決まって「ランチメニューのミニ会席」

 
所在地〒818-0117
福岡県太宰府市宰府3丁目3−6


松尾商店の「梅ヶ枝餅」

太宰府参詣には、梅ヶ枝餅はかかせないスイーツだが、販売するお店が多くて迷いがちである。

どこで買うかを迷ったならば、

*松尾商店

はお勧め。

西鉄太宰府駅から天満宮に向かって右側のお店であり、四つ角に位置する。

このお店の特徴はお二人のご婦人がすでに数十年にわたって作り続けた経験を持つ、梅ヶ枝餅の美味しさを知り尽くしたパティシエ(?)であることだ。ベテランのお二人が丁寧に一つ一つに餡を入れながら、美味しさを奏でているように思える。

おすすめのお店である。一個、120円。

このほかにも、おすすめしたいお店が満載。


2016年7月29日金曜日

大宰府の卵

信州に「いちど食べたらもうたま卵(らん)」という特産品があると聞いた。
その名に負けない卵が大宰府にある。美味しい。こだわりの卵である。

*大宰府 すやまの卵

である。宝満山の自然豊かな養鶏場で、朝一番の産みたて卵をすぐにパッケージして販売する。ご主人の陶山さんに伺うと、いたずらに卵生産量を拡大するよりも、むしろ美味しさを増す企業努力に傾注してきたという。そのこだわりが美味しさの秘訣だろう。
ご主人は2代目だそうだが、すでにご子息が三代目として事業継承の道を歩んでおり、「卵にかける」情熱はなみなみでない。

生産部:すやま養鶏場
販売部:トップラン 092-922-2750



2016年7月28日木曜日

鑑真が大宰府に

鑑真は大宰府に滞在した。
*天平勝宝6年正月12日丁未
鑑真が同年2月1日に難波津に到着しているので、僅か数日であったに違いない。かれは観世音寺に宿泊したと伝わる(『沙石集』巻3,「律学者の学の行と相違せる事」)。

ただし、『鑑真和上』3,異事では同年12月26日だと伝える。

鑑真(감진)이 다자이후에

감진은 다자이후에 머물렀다.
*텐페이 카츠타카 6년 정월 12일 정미
감진이 동년 2월 1일에 난바즈에 도착했으니, 불과 며칠이었을 것이 틀림없다.그는 관세음사에 숙박했다고 전해진다(『사석집』권3, 「율학자의 학행과 다를 일」).

단, 『감진화상』3, 이

2016年7月27日水曜日

白村江とはどこ?

白村江の戦いは有名である。日本史を学べば、冒頭に登場するが、その場所が未詳。

まず、百済国のフィナーレをめぐって、整理をしておきたい。

ところで百済は、支配層が扶余(Tungus)族系、被支配層が韓族系の二層構造で構成されていたと知っておきたい。つまり民族も言語も風習なども大きく異なる民族による二層構造でスタートした国家であっただろう。そして同じ扶余族系の高句麗国と血脈を同じくしていたはずである。

(1)660年3月、左武衛大将軍蘇定方らは13万の軍勢を率いて合流した唐・新羅連合軍が百済を攻撃した。
(2)滅亡--660年7月18日--百済の義慈王・太子隆らが降服
(3)660年10月(もしくは661年4月)--日本は国内に滞在していた義慈王の子扶余豊璋を帰還させ、百済復興運動を起こさせる
(4)661年9月、中大兄皇子、扶余豊璋に織冠を与えて、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津ら5千余の軍を朝鮮半島に派遣。
(5)662年5月、大将軍大錦中阿墨比羅夫連等、船師170艘を率いて扶余豊璋を日本から百済に送る。
(6)663年3月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中将軍巨瀬神前臣訳語・三輪君根麻呂・後将軍安倍引田臣比羅夫(筑紫太宰帥)・大宅臣鎌柄が2万7000名を率いて、朝鮮に進軍。
(7)663年8月27日、日本軍と唐軍との戦闘が始まる
(8)663年8月28日、日本軍が大敗。
(9)663年9月24日、日本軍と百済の残党が日本に向かう。


博多駅から大宰府へGo(直行バス運行)


博多駅~福岡空港国際線ターミナル~太宰府をつなぐ太宰府ライナーバス「旅人」便利です。(西鉄太宰府駅前にて))

水城の復元図(森公章『「白村江』以後」165頁、1998年

森公章先生が指摘するように、この軍事的防御施設は元寇の役の時代でも充分に活用できたようである。




2016年7月26日火曜日

大宰府に立ち寄った唐人

630年の第1回遣唐使から最後の894年にいたる間に15回の遣唐使が派遣されたが、
1,第1回632年--高表仁
2,第12回761年--沈惟岳
3,第14回778年--趙宝英
の三回には、唐人が付き従って来日した。
当然ながら、彼等は大宰府に日本最初の足跡を残した。

「○辛卯。唐使之行。左右建旗。亦有帯仗。行官立旗前後。臣等稽之古例。未見斯儀。禁不之旨。伏請処分者。唯聴帯仗。勿令建旗。又奏曰。往時遣唐使粟田朝臣真人等発従楚州。到長楽駅。五品舍人宣勅労問。此時未見拝謝之礼。又新羅朝貢使王子泰廉入京之日。官使宣命。賜以迎馬。客徒斂轡。馬上答謝。但渤海国使。皆悉下馬。再拝舞踏。今領唐客。准拠何例者。進退之礼。行列之次。具載別式。今下使所。宜拠此式勿以違失。」(《宝亀十年<779>)4月辛卯)

ところで、この記事に照らし合わせると、大宰府から畿内までの行列はどのようなものであっただろうか。


勝尾城を見に行こう

勝尾城の「惣構」は見逃さないように。


2016年7月25日月曜日

周船寺の地名は?

福岡県に周船寺の地名がある。「しゅせんじ」と読む。

この地名は「主+船+司」が原義であり、その当て字である。


2016年7月24日日曜日

料膳にし川

店名料膳 にし川
TEL
050-5870-7700
092-921-8827
福岡県太宰府市向佐野1-3-5
お勧め懐石料理
コメントこんな場所に有名店が、というほどにひっそりと営業。しかし味は絶品。
ただし、お値段は少々高い。


那津はどこに?

継体天皇21年(527)6月に、加羅国救援にむかうために近江毛野臣に率いられた6万の軍勢が博多津に集結した。その時に勃発したのが、著名な筑紫君磐井の乱である。それが終息し、継体天皇22年12月に磐井の子葛子は糟屋屯倉を大和朝廷に献上した。そのことで糟屋屯倉の名が登場する。後の糟屋郡であると推測して良いものの、その位置は正確に把握しがたい。
さて、磐井の乱から9年後である宣化元年(536)5月に、那津宮家(「那津の口に設けた宮家」)の地名も出現する。

この糟屋屯倉と那津宮家との関係は不明であるとはいえ、那津宮家は比恵遺跡(福岡市博多区博多駅南五丁目付近)に比定して無理はない。

大宰府が建設される前には

7世紀に、日本が派遣した百済国救援軍の敗北によって、逆に新羅・唐両軍による海峡を越えた反撃の可能性が生じた。博多の津は日本の進撃基地から新羅・唐両軍の侵攻地となるおそれが有ったために、
*筑紫太宰らは那津から内陸部へと後退する
こととなった。
 その時の不思議さは、博多湾から約7キロしか離れていない内陸部である大宰府に、筑紫太宰らの居館を建設したことである。もっと内陸より奥に入った地に建設すれば良かったはずである。

(1)博多湾から内陸部に辿れば、最狭小部が大野城ー水城ー小水城ー基肆城ー基山築堤と続くラインであり、その背後に筑紫太宰らの居住地が創られた

と考えられてきた。それを否定する根拠はない。

それに加えて我が想像であるが、

(1)大宰府の四王山から博多湾を見渡すことが可能であり、また大宰府北谷から志賀島方向も眺める

ことができる眺望=外国軍侵攻の監視が充分に可能な場所も、適地の理由であったにちがいない。


2016年7月19日火曜日

蔵司地区は倉庫であったか?

昭和8年、大宰府市蔵司地区は別荘地として開発されることとなり、地面が掘り返された。その時に数々の礎石が出現したために、古代の建築址であると判明したが、はたしてそれがいかなる機能を持つ建物であったのかは不明であった。多くの方は、その名から「蔵」、つまり倉庫群だと推測しがちであるが、現段階の発掘の成果では、必ずしも倉庫跡だと推測することは出来ないという。「SB5000」と称される建物址は「身舎が桁行9間、梁行2間、南北に廂がある2面廂付きの建物であった。

13世紀、中国に漂着した大宰府民72人

12世紀から東アジア海域に於いて盛んに海に乗り出した大宰府民。
「即墨移風砦於大船中、得日本国大宰府民七十二人、因飄遇飄風飄至中国、有司覆験無他、詔給以糧、俾還本国」(『金史』巻15,本紀15,宣宗中、興定元年12月戊申(5日)条)

とあり、72人が乗船した大宰府船籍の船が中国に漂着した。「詔給以糧」とあり、東アジア漂流民送還ルールが出来上がっていたらしい。
ただし、この72人全員が日本人であるとかぎらず、むしろその一部は太宰府在住の宋人であった可能性も有る。


2016年7月18日月曜日

大宰府は、昔々、天台宗派と東大寺派に二分されていた

平安時代以来、天満宮安楽寺や有智山寺(大山寺。竈門神社の神宮寺。「竈門山寺」とも称す。元暦元年=1184年頃、平氏政権に反発する臼杵氏らの武士らによって破壊か)、原山八坊(「原八坊」とも称す。四王寺別院。大宰府市連歌屋付近に建立。比叡山延暦寺円珍が中国にて修行をするとき、彼に同行した華台坊らが開寺)など大宰府には天台宗が勢力を広げていた。
そのライバルは東大寺の末寺である観世音寺であった。二つの宗教的勢力が拮抗していた。

2016年7月15日金曜日

御笠郡とは


宗祇、大宰府を行く


大野城の城郭図


和食ビストロ 橙橙 (だいだい)

和食ビストロ 橙橙    (だいだい)を紹介しよう。

時々、天拝山自然公園で遊ぶが、福岡から福岡農林高校を通過して、そのお店が突然に見えてくる。公園へ行くのは火曜日が多いだけに、和食ビストロ 橙橙 が定休日である.。偶然に火曜日以外に大宰府へ行く機会に恵まれ、launch時間帯に予約も無しに出かけ、launch(1500円)を賞味した。予約の女性群であふれかえっていただけに、人気店であるにちがいない。雰囲気の良いインテリア(京都風)に、味が良い。次は、ゆっくりと夜のメニューを満喫したい。

2016年7月14日木曜日

平清盛、大宰大弐に

保元3年(1158)8月10日、平清盛、大宰大弐に任じられる。
「非参議、正三位平清盛、保元3、8,10,任太宰大弐」

太宰帥は親王任官である。三位以上であれば、権帥。平清盛は正4位下であったので、大弐に任じられた。永暦元年(1160)12月30に日に辞任。
ただし、清盛は遙任であった。つまり保安元年(1120)に決定したルールであり、現地に赴任しない任命である。清盛の代理人である「府目代」は藤原能盛。当然ながら清盛の太宰大弐着任の狙いは、外国貿易の巨大な利益にあると推測してもかまわないだろう。経済官僚であったに違いない。

竈門神社、焼失

平治元年(1159)8月2日、大宰府の竈門神社が焼失。
「陣定、竈門宮焼亡、并高麗商人、播磨国伊和社焼亡事」(『百練抄』巻7)

伊能忠敬、大宰府を測量する

文化9年(1811)9月25日、伊能忠敬らの幕府測量隊が到着。第2次九州測量時である。9月28日朝、出発したときまでの滞在期間の様子を知る。(『測量日記』)
(1)9月25日、肥前国田代から到着。
(2)同行は、坂部貞兵衞・門谷清次郎・今泉又兵衞とその弟子達であった。
(3)測量の途中、彼等は「観世音寺、都府楼之跡、天満宮、戒壇院」などを観光している。

もっとも興味深いのは、伊能忠敬らの測量に御笠郡全体で協力していることである。

<参考>
伊能忠敬
1,手代坂部貞兵衞、下役永井甚左衛門、今泉又兵衞、門谷清次郎、内弟子尾形顕治、箱田良助、保木敬蔵、侍加藤嘉平治、宮野善蔵、坂部付きの侍1名、竿取は佐助、甚助、長持宰領久保木佐右衛門、その他従僕5名、合計19


2016年7月9日土曜日

古本即売展の齋藤秋圃の絵画

平成28年5月に開催された「第4回美術古本即売展--天神丸善ぎゃりー」目録に掲載された齋藤秋圃。晩年を大宰府で過ごした齋藤秋圃だけに、彼の総目録作りを目指している。




今川了俊の大宰府制圧

応安3年(1370)6月、今川了俊は九州探題に任ぜられる。管領細川頼之の推薦もあって引付頭人 の今川了俊に自羽の矢が立った。了俊はすぐさま九州下向の準備に着手し、7月1日には阿蘇惟 村と田原氏能宛てに西下の報を通告すると共に、軍事的な支援を依頼した。つぎに10月27日には 宇都宮経景に対しても同一な依頼をしている。 応安4年2月20日に京都を出発し、大宰府をめざした。失墜した幕府の権威復活と大宰府を拠点に勢力を張る南朝の制圧が目的で京都を出発したはずであったが、了俊の道中はノンビリしていた。そもそも幕府の命令を受けてから半年以上の準備期間に見られるように、慌てず騒がずの了俊であったが、さらに大宰府までの行軍に時間をかけた。応安4年10月9日に本州の果てである長門国の国府に到着したものの、一衣帯水の地である九州になかなか渡海しなかった。そこでも2ヶ月ほど滞留する。
いわばじわじわと大宰府に近づく用意周到な計画であった。

応永5年8月12日に、大宰府の有智山城に籠もる菊池氏を撃破して、了俊は大宰府を制圧した。

字「安養院」とは?

戒壇院の北側に「安養寺」という字がある。この字名も、分からない。現存する遺構からも見当が付かないらしい。安養寺という寺院が存在したのか、それとも安養院という建物が存在していたのか。観世音寺に関連する建築物であったことは間違いないだろうが、浅学につき、思いつかない。

字「御所の内」とは?

観世音寺の隣接地に「御所の内」という小字がある。観世音寺に軒を並べて建築された御所とは、何で有ろうか。この地の北には崇福寺が接続していた。

筑前国衙跡想定図(木原武雄氏作図)


この木原先生の作図は、地名からの推測に過ぎず、発掘資料からの論証を欠いていることである。

天保11年ごろの観世音寺まえを歩く庶民14名


齋藤秋圃が天保11年ごろに描いた絵に観世音寺を見る。正殿があり、その横にも社屋があるものの、かって、華麗に甍を並べていた寺院群は見あたらない。興味深いのは、さいふ通りを歩く14名である。左から紹介すれば、天満宮参りの女性3名、物売り1名、馬で運搬するもの1名、その横の1名は不明、道ばたで金持ち風の商人2名に物乞いをする乞食、そしてその商人風に引きつられて遊ぶ芸妓3名、最後は旅人2名である。さまざまな風俗を映し出しているが、なぜ秋圃の関心を呼び起こしたのだろうか。

観世音寺前の茶店、そして観世音寺周辺が農地化していることに注目しておきたい。


大宰府の大庄屋

福岡藩では、江戸初期から「触口」と呼んできたが
*享保8年(1723)4月3日から
「大庄屋」に改称された(「大庄屋留書」『九州文化史研究所史料集』第4巻、2000年)。
しかし、
*慶応4年(1868)6月から
再び「触口」に戻されたが、
*明治4年(1871)から明治5年6月までに廃止されるまで
またまた「大庄屋」が復活した。

大宰府の場合、高原家・竹森家・大賀家などが著名である。

なお、寛延2年(1749)から大庄屋は脇差帯刀が許されている。

そもそも江戸時代の大宰府は?


(1)現在の太宰府市域は、北谷村、内山村、宰府村、観世音寺村、片野村、通墓村、坂本村、水城村、国分村、書松村、向佐野村、大佐野村の12村から構成された。
黒田長政が筑前国入部直後の慶長七(一六〇二)年に実施した検地「慶長年中洞各村別石高帳」に12の地名が確認できる。ただし宰府村は、宝暦期(1751-1761)ごろに、宰府社領分と宰府蔵納分に分村し、さらに近世後期に片野村から片野新村が分村した。

(2)そもそも江戸時代の大宰府は、博多から天領日田(九州5ヶ国の接点)までの日田街道の沿線であり、しかも大宰府天満宮の門前の宰府村前の門前町として知られていた。

(3)博多・福岡から下肥を調達し、大宰府の村々は農業を生産してきた。



  

大宰府と参勤交代

江戸時代、長崎奉行や九州の諸大名の参勤交代ルートは
1)本通り・本宿通り(長崎街道)--黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山屋・原田
2)内宿通り(唐津街道)--黒崎・赤間・畔町・青柳・箱崎・博多
である。


天保4年、通古賀触大庄屋竹森善次の願い書

 御笠郡通古賀村大庄屋善次横折を以申上候覚
一薩摩中将様内宿御通行に付、両糟屋宗像より難渋の趣申し出、当郡の所難渋等はこれ無きや御詮義仰せ付けられ畏れ奉り候、二日市宿近年相痛み、殊に百姓家にて家居等手狭く、是迄御駕度度御昼在りなされ候に、御立宿定て御不都合に遊ばさるべし、人馬継は何れを御通行に相成り候ても、御笠人馬継方仕る義に付、難渋の義申し上げ難く候得共、二日市宿役不馴れに付、山家宿之継立便利宜しき義に御座候、然るに初て内宿筋御通駕之後ハ、薩州御家中様御通行烈敷、全体継方多き宿柄に面役等少く、右御難渋之趣に相聞へ申し候、猶又御泊り等の義に相成候はば、自然は御差支相成るべく存じ上げ奉り候、右申し上げ候通宜しく御聞き通り仰せ付けられ下され候様願い上げ奉り候己上
通古賀村大庄屋善次
天保四年十二月
神代助左衛門様

畑山伝兵衛様」(『筑紫野市史』下巻、1999年)

大宰府の崇福寺は

永楽3年(1560)に、大宰府の崇福寺の堂塔が焼失。

大鳥居氏と小鳥居氏

永禄2年(1559)12月25日、大友義鎮が大宰府天満宮の大鳥居氏を留守職に任命した。
ところが永楽3年になると、天満宮では大鳥居信渠と小鳥居信元とが抗争を繰り広げた。所領争奪が原因であった。その抗争は高橋鑑種の調停で和解したようだが、その和解条件は不明である。相互の所領が確定したと推定される。
しかし、永禄6年3月23日に、鑑種は大宰府天満宮留守職に小鳥居氏を任命した。

この間、大鳥居氏は不遇であったらしく、天正11年に改めて大友氏に接近するが、天正13年3月に島津軍が大宰府に進軍するや、このたびは大宰府天満宮社家大鳥居信寛は島津氏との友好関係を深める。




大宰府と高橋鑑種

永禄4年(1561)11月には、高橋鑑種は九州進出を目指す毛利元就と接近し、大友氏配下から離反し、宝満城・岩屋城で挙兵した。鑑種が両城督に任じられたのは弘治3年(1557)頃であったらしい。
永禄10年(1567)4月に大友宗麟は高橋鑑種征討のために軍を派遣する。同年7月に大友軍が大宰府に到着した。そのために高橋軍にくみした太宰府天満宮は大友軍によって破壊された。天満宮の神官達はご神体と神宝を宝満城に運搬し、守り抜いた。大友氏は宝満城・岩屋城を攻撃し、岩屋城が落城するものの、宝満城は依然と高橋氏が守り抜いた。毛利氏も高橋氏応援に軍を派遣し、毛利方の吉川元春・小早川隆景軍が大友氏の軍事的拠点である立花城攻防戦で、ついに立花城は落城した。永禄12年閏5月3日であった。その毛利軍の勝利も長続きせず、むしろ手薄になった山口に対して大友氏が進軍することで、毛利氏は劣勢に立ち、いったん筑前から撤退をやむ得なくなった。同年11月21日、立花城を奪還した大友氏に抗して、高橋鑑種も小倉に立ち去った。

この後、毛利氏の後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏の配下に降り、鑑種は高橋家から放擲された。高橋家の家督継承者は吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)であった。

天正2年(1574)頃の大宰府は、毛利方から大友氏に鞍替えした筑紫氏が統治した。

しかしながら天正5年11月12日の耳川合戦で、島津軍に敗戦した大友氏の筑前における権勢低下を見破った高橋氏は再び岩屋城を占拠した。毛利氏の将来を見切った筑前の秋月氏と筑紫氏は大友氏から離脱し、秋月種実と筑紫広門は岩屋城を攻撃したが、岩屋城は落城しなかった。

この頃の大宰府を巡る統治者はめまぐるしく交代したようである。天正7年ごろは筑紫氏であったようだ。

なお、天正6年12月に、大宰府に進軍した秋月氏によって天満宮は焼失した。




大宰府の特産品「抹茶と梨」

大宰府に特産品が無いと言われて久しい。

文明10年(1478)10月3日と5日の両日、宰府観世音寺留守房顕が大内政弘に面会し、政弘に
「有智山の抹茶と梨」
を進上した。この梨は「病気好物」だとして、家臣の杉重道に授与した。むかし、大宰府の抹茶と梨は特産品であった。

大宰府の岩屋城史

(1)大宰府の岩屋城は、文明10年(1478)頃に築城されていたようである。

「深野図書允重親 
下す
筑前国夜須郡山家庄内5町地(砧綿右馬允跡)の事
右、件の地の事、充て行うところなり、岩屋に在城せしめ、領地を全うすべきの状、件のごとし
文明10年1月13日」(『正任記』文明10年10月18日、大内政弘下文)

なお、『正任記』は「しょうじんき」と読み、その著者は大内政弘の奉行であった相良正任(さがらただとう)と呼んだらしい。日本語は難しい!!

なお『正任記』は『山口県史ー史料編中世1』(1996年)に翻字されているので、便利。

(2)天正9年(1581)7月に、筑紫広門は宝満城・岩屋城を攻撃するために進撃し、7月27日に観世音寺前で合戦があった。しかし、その攻撃は失敗に終わった。

(3)天正11年、再び筑紫広門は肥前国勝尾城から進軍し、岩屋城を攻撃した。『豊前覚書』によると、その時の策略が伝わっている。筑紫氏は茶売り人に化けた兵士を送り、岩屋城に侵入させ、「たまご火」を投げ込んだという。この計略で岩屋城下の民家は焼失したために、筑紫勢は岩屋城攻撃を強め、観世音寺前で再び戦火を交えたが、宝満城の援軍で筑紫軍は退却を迫られた。


高橋紹運と戸次道雪は反大友氏掃討に筑後に進撃したために、島津軍との軍事的均衡が破れたために、大友氏・島津氏の友好関係は破綻した。運悪く道雪は筑後国北野で客死したために、劣勢の高橋氏が守る宝満城も、天正13年9月に筑紫広門の攻撃で落城した。

(4)さて、岩屋城攻防である。

薩摩から進軍した約2万の島津軍は天正14年(1786)7月に、筑紫広門が拠点とする肥前国勝尾城を攻め落とし、その余勢で筑前に北上した。筑前国の最重要拠点は立花城である。その最前線が岩屋城。
7月22日:島津軍、岩屋城から「一里」離れた長尾村に着陣
7月24日:豪雨にて、城攻めを延期
7月25日夜:島津軍は鉄砲隊による攻撃を開始。羽柴秀吉来援の噂が漂う。
7月26日朝:岩屋城攻撃をするが、岩屋城を取り巻く
7月27日:島津軍による総攻撃により、岩屋城が落城
      「かくて午未之刻に、悉城内之敵被討納候也。」
『上井覚兼日記』下巻、
1,攻撃:150、151、154
2,下拵え攻略:156
3,落城:160
4,岩屋攻防戦:161-167
*************
ちなみに勝尾城とは、鳥栖市の北西部の牛原町、山浦町、河内町にまたがる城山(じょうやま)山麓一帯に存在した。鳥栖市のHPによると、「勝尾城を中心に麓の館跡をはじめ、谷をぐるりと取り囲むように鬼ヶ城(おにがじょう)、高取城(たかとりじょう)、葛籠城(つづらじょう)、鏡城(かがみじょう)、若山砦(わかやまとり)の5つの支城、さらに館跡からはじまる谷間には家臣の屋敷跡、寺社跡、町屋跡や土塁、空堀等の城下跡が良好な状態で残されています。その規模は東西約2.5km、南北約2kmに及びます。」とある。

https://www.city.tosu.lg.jp/1342.htm






文明10年9月25日に、大宰府で大内氏と少弐氏との戦闘あり

豊後の大伴氏は鎌倉時代後期に筑前国怡土荘志摩および香椎を獲得した。怡土では柑士岳城が、そして香椎では立花城が軍事的拠点であった。
その後、建武政権から博多息浜も与えられる。

文明10年(1478)9月に、山口の大内政弘が九州に進軍し、9月25日に大宰府で少弐政尚軍に勝利し、筑前国を征討した。その後、文明10年(1478)10月に、大内政弘は代官として、
1,怡土荘志摩--谷川和泉守親貞
2,香椎ー大和次郎常長
3,博多息浜ー田原河内守貞成
を任じた。大宰府地域の行政官は誰であっただろうか。

その手がかりは、飯尾宗祇の紀行文にある。飯尾宗祇が太宰府に到着し、宿坊満盛院に宿泊したとき、大宰府の郡代深野筑前守(重貞か?)と面会したとある(『筑紫道記』)。

2016年7月8日金曜日

第二期太宰府政庁建設

第二期太宰府政庁を建設した時のリーダーは、和銅元年(706)に太宰帥の中納言粟田真人。


和銅年間(708-715)に造営がスタートし、霊亀年間(715-717)には完成していたと推定されている。その広さは東西約111.6m、南北約211m
(ちなみに藤原宮の広さは東西約925m,南北約907m)

しかしながらその第2期大宰府政庁は、天慶4年(941)に、藤原純友によって焼き討ちされ完全に焼失する。


大宰府関連の遺跡は市域面積の16 %

ご存じですか?

大宰府関連の遺跡は市域面積の16 %(市:29.58 ㎢、史跡:4.82 ㎢)を占め、さらに今後保護を要すべき範囲が130haほどであると。現状でも、残りの84%しか宅地などに活用できないが、むしろ16%以上の乱開発を禁止するほどに「文化遺跡を愛する市」であると理解すべきであろう。

秀吉と大宰府

豊臣秀吉はその生涯でたった一度、大宰府に滞在した。
天正15年(1587)6月6日であった。その時に、都府楼・観世音寺・天満宮・若杉山・染川などを巡遊したらしい(『黒田家家譜』)。その当時、9年前に天満宮は焼失していたので、わずか仮殿が存在したのみであった。
秀吉は観世音寺隣接する仮寓で宿泊し、島津義久の茶を賞したことが知られている。翌日の7日、秀吉は大宰府から箱崎宮へ向かい、6月7日から同月29日まで滞在した。

大宰府の祇園祭

中世大宰府の町屋地区では、6月15日の祇園祭が盛行していた。京都の祇園祭を宗教モデルとした例に漏れず、大宰府でも祇園祭をスタートさせたらしい。『大宰府旧跡全図』によると、祇園社は五条交差点付近に建立された。

大宰府特産品「鍋とガラス」の復活を

大宰府条坊東部の鉾の浦遺跡や観世音寺周辺(主に左郭9条6坊など)に同時期に鋳造工場が存在した。大宰府は九州最先端のテクノタウンであった。13世紀後半から14世紀初めのことである。砂型鋳造とは、溶かした金属(溶湯)を砂で作った鋳型に流し込んで製造する方法。冶工具に原材料をセットし、プレス機(ハンマー)で叩きながら、成型をするので、少量多品種の素材形状を得たい場合に適切である。したがって、小ロットでもコストメリットが出る。
さて花瓶・錫杖・環・鈴などの小型仏具は2カ所で製造されたが、愚見では観世音寺では高級品、鉾の浦では廉価品を製造したとみている。大伽藍を誇った観世音寺では多数の仏具が使用されただろうし、信者達も争って求めたに違いない。

ただし鉾の浦では梵鐘・灯籠座などの大型仏具なども制作されたらしいが。それは大量生産の必要も無く、また大型の製作スペースも必要となったので、観世音寺周辺で製作しなかったようである。
注目すべきは鉾の浦では鍋などの生活品を、観世音寺周辺ではガラス製品などの奢侈品を特産品としていたことである。当然ながら巨大な宗教タウン観世音寺への納品でもあり、また大宰府内の生活実用品でもあったが、九州全域への販売も視野に入れるべきであろう。
突然の提案であるが、もう一度、「大宰府特産品」として鋳造された生産品やガラス工芸品を復活してはどうだろうか。我と思もわん方は、大宰府商工会などに問い合わせてみたならば、どうだろうか。

なお、文治5年(1189)に大宰府鋳物師蔵人平井宗明が九州鋳師政所職に任ぜられたことが判明している(真鍋文書)。忘れてはならないのは、大宰府の名工丹治恒頼である。



2016年7月7日木曜日

大宰府の日本遺産「西の都」

注目すべきは、博多湾から大宰府に伸びる2本の路である。しばしば官道と呼ぶが、そのような堅苦しい言葉よりも、National highwayである。当時、博多海岸より大宰府までの中間地点がどのような状態であったか不明であるが、ともかく2本のHighwayが一直線に伸びていた。


太宰府の名菓ジャン・ドゥ

太宰府の名菓ジャン・ドゥのオーナー陶山忍氏を紹介したい。

http://www.jean-doux.jp/start/suyama_owner.html

同店には、多くのスイーツがあるが、私のわがままを言えば、

ダックワーズ(キャラメル味)

がお勧め。


2016年7月6日水曜日

出土した銅矛11口

天明4年2月6日に、牧童清太が立岩山六反田に西「高尾山の南の尾筋の樵路にて銅矛11口掘出せり、だいなるは長壱尺五尺広3寸、小なるは長壱尺弐寸5分広弐寸五分あり」
とある。(『筑前国続風土記拾遺』巻16、418頁)

五卿と大宰府

文久3年(1863)8月18日の政治的クーデター(公武合体派の勝利)で京都を追放された尊攘派公卿7名は長州萩に辿り着いた。その間の詳細は著名であるので、省略に努める。結局、元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで勝利した幕府は、5卿を福岡・久留米・佐賀・熊本・鹿児島の5藩が預かることで、それぞれ向った。しかしながら幕府は五卿を大宰府に幽閉した。
 五卿は慶応元年(1865)1月15日に長州三田尻の福浦を出発した。その日に轟灘を渡り、若松港に到着し、そこから黒田藩差向の船に乗り換えて、申の刻に黒崎に辿り着いた。出迎えたのは、黒田藩家老の久野四郎兵衛。五卿に同行した長州藩家老柳沢備後・同家老迫田伊勢之助らも、黒崎の御茶屋(本陣)に宿した(現在、御茶屋石碑が立つ場所からJR九州黒崎駅付近の鉄路を挟んだ両側)。

五卿は輿に乗り、黒田藩の藩兵が輿の前後を守護して、行進した。1月18日寅の刻、黒崎を出発し、木屋瀬で昼食、そして赤間駅に到着し、その場の通称赤間御茶屋に宿泊した。

以上、*『維新起源大宰府紀年編』(明治26年12月、東京博聞社・福岡盛岡書店)--九州大学図書館所蔵)からの紹介。

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五卿は元治2年(1865)2月に大宰府入りをし、慶応3年(1867)12月の王政復古後に帰京するまで、約3年間、大宰府に滞在した。

この間、大宰府と縁を持った勤王の志士には、
1,西郷隆盛
2,高杉晋作
3,大久保利通
4、桂小五郎
5,伊藤博文
6,坂本龍馬
らの幕末のスターがいた。例えば、坂本龍馬の場合、
*慶応元年(1865)5月23日~5月28日
に大宰府に滞在し、薩摩藩士渋谷彦介らの斡旋で三条実美に面談している。


<『長崎街道』42頁、前山俊治先生作成図>


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2016年7月4日月曜日

なぜ、「大野城」なのか?

大宰府政庁の背後にある四天王山全山に山城がある。それを大野城と表記する。それは、いつから、誰が、なぜ「大野城(おおのじょう)」と表記し始めたのだろうか?


延喜5年 (905) の筑前国観世音寺資財帳には, 次のように記されている。
「御笠郡 大野城山壱處従寺以北限大野南騙辺遠賀下道 東限大野 至 川野」
とあり、905年にはすでに「大野城」という表記が成立していたことに留意しておきたい。





愚説は、こうである。まず、上掲した地図に見るとおり、「扇屋敷」とある。「扇=おうぎ」であると理解したい。

とすれば、次の図式が想定される。

「おおぎ」(大+城)の和名⇒「大城」の漢字表記⇒「おお+の+ぎ(大城)」の「の」挿入⇒「大+の+城」の「城」の音読み⇒「大+野+城(jo)」の「の」の漢字表記⇒大野城(oo + no+jo)の成立

愚考するに、四天王山に山城を建設したとき、大宰府の人々にとって、その城は「大城」であり、「小城」は基山に築かれた「基肄城」(筑紫野市)であったにちがいない。とすれば、

「こぎ⇒このぎ(小城)⇒小+の+城(しろ)⇒子野城(このじょう)」であったにちがいないが、残念ながらこの語形を持つ地名は見あたらない。後考を俟ちたい。

水城の建設で用いられた物差しは?

一般的な知識として、

*水城:全長約1キロメートル、基底部幅40メートル、高さ13メートル

であるが、では、古代の土木設計担当者が手にしていた「尺」はどのような物であったのか。

なぜ、13メートルか。

九州縦貫自動車道路建設に伴う、1972年6月から9月にかけて実施された水城の構造調査では、

1,土塁の台形状幅40メートル
2,高さ3メートルの積み土の中央部に幅23メートルに高さ7メートルの台形を積み重ねる2段築成
3,この積土をさらに切断すると、粘土と山砂を向後に積み上げる工法、つまり版築。
4,積土の最下層に基礎として厚さ0.8メートルの黒色粘土を使用

とあるが、この土木担当者ははたしてどのような物差しを使用しただろうか。


2016年7月3日日曜日

徐公祐と『高野雑筆集』--852年頃の大宰府

大中6年(852)の大宰府鴻盧館の動静を知る資料がある。


大谷大学所蔵の『高野雑筆集』がそれである。

解説
空海の遺文を集めた書簡集。全72編。編者・成立年は未詳。内容は、空海が唐から請来した密教経論の複写や仏法流布への援助、紙や筆の所望などで、空海の思想が窺える。奥書から平安後期の勧修寺理趣院範杲の書写で、朱印記から高山寺旧蔵であることがわかる。本品は現存最古の写本。


員数
2冊
材質
紙本墨書
形状
粘葉装
法量
各縦28.0×15.9
時代
日本・平安時代(承安元=1171)

本書は空海研究に重要だが、その一方で本書下巻に義空宛書翰18通が所収されていることに注目したい。

高木訷元氏の研究によって判明していることであるが(「唐僧義空の来朝をめぐる諸問題」『高野山大学論叢』16合、1981年)、

1,徐公直から義空(5月27日)
2,徐公直から義空・道昉(5月27日)
3,徐公祐から義空(9月11日)
4,唐僧雲叙から義空(大中3年6月7日)
5,日本僧真寂から義空(9月13日)
6,李隣から義空(4月3日)
7,唐僧志円から義空(3月29日)
8,唐僧趙度から義空(5月27日)
9,唐僧趙度から義空(5月27日)
10,唐僧法満から義空(月日欠)
11,唐僧無無から義空(10月14日)
12,廖公著から某(9月14日)
13,徐公直から義空(大中6年5月22日)
14,徐公祐から義空(閏11月24日)
15,徐公祐から義空(10月15日)
16,徐公祐から義空(6月30日)
17,徐公祐から胡婆(6月30日)
18,徐公祐から義空(10月21日)


この16番(下巻27丁うら)には
「吾6月初発明州之□(弐拾)到鴻盧館」

とあり、徐公祐は明州を6月初めに出発し、20日に大宰府鴻盧館に到着したという。なお、同書簡には、徐公祐の「蘇州田稲32年全不収、用本至多」とあり、彼の出身地が蘇州であったと推定して良いだろう。17番には「州宅中婆満福、何父母並満福」ともあり、蘇州の自宅に一族が居住していたと考えて誤りは無い(「天台宗延暦寺座主円珍伝」『続群書類聚』巻212)参照のこと)。


18番(下巻28丁おもて)には、

「即此公祐在客之下、諸弊可悉、前月中京使至、竟謝垂情、特賜札示」

とあり、9月に京から唐物使が大宰府に到着した。それゆえに、徐公祐は6月20日から同年10月21日頃までは確実に大宰府に滞在していたらしい。その確実な滞在期間は不明であるが、例年、唐人商客らは6月に来訪し、10月から11月に帰国したので、それに反しない。貿易商人にとって、京都からの唐物使による購入が完了すれば、大宰府滞在の要はない。

ところで『日本三大実録』元慶3年(879)10月13日に、
「先是、府司申請、毎唐人来、募貨物直、借用庫物、交関畢後、以砂金、准官給綿、惣計返納」
とあり、その唐物購入の支払い方を推測させる。


張保皐研究の基本文献

延暦寺僧侶・円仁による唐巡礼日記『入唐求法巡礼行記』には,唐代後期(830~840年代)の中国沿海岸部に展開した在唐新羅人社会を記述する貴重な文献である。


張保皐の海上ネットワー クの一端が、大宰府に見ることが出来る。

(1)蒲生京子「新羅末期の張保皐の台頭と反乱」(『朝鮮史研究会論文集』18,1979
(2)李永沢「張保皐海上勢力に関する考察」(『韓国海洋大学論文集』14,1979)
(3)金文経『唐代の社会と宗教』(崇実大学出版部,1984)
(4)李基東「張保皐とその海上王国」(『張保皐の新研究』,莞島文化院,1985;『新羅社会史研究』一潮 閣,1997
(5)坂上早魚「九世紀の日唐交通と新羅人-円仁の『入唐求法巡礼行記』を 中心に」(『MUS EUM KYUSHU 文明のクロスロード』28 号,1988)・
(6)佐伯有清『円仁』(吉川弘文館, 1989)
(7)李宗勳「中国山東半島における張保皐と新羅人たち」(『張保皐海上経営史研究』イジン出版 社,1993)
(8)金文経「張保皐海洋王 国の人々」(『張保皐海上経営史研究』イジン出版社,1993)
(9)李炳魯「九世紀初期環シナ海貿易圏の考察」(『日本学誌』15,1995)
(10)金光洙「張保皐勢 力の興亡の歴史的意味」(『張保皐と清海鎮』慧眼,1996)
(11)呉洙政「張保皐在唐活動の背景」(『淑明韓 Kyoto Sangyo University NII-Electronic Library Service 166 近藤 浩一 国史論』2,1996)
(12)金文経『張保皐研究』(図書出版淵鏡文化社, 1997)
(13)堀敏一「唐代新羅人居留地と日本僧円仁入唐の由来」(『古代文化』50-5,1998a)
(14) 同「在唐新羅人の活動と入唐交通」(『東アジアの中の古代文化』研文出版,1998b)
(15)権悳永「在唐新 羅人社会の形成とその実態」(『国史館論叢』95,2001a)
(16)権悳永「在唐新羅人社会と赤山法花院」(『史学 研究』62,2001b)
(17)権悳永『在唐新羅人社会研究』(一潮閣,2005)
(18)許逸・チェジェス・姜祥沢・李昌億 共著『張保皐と黄海海上貿易』(国学資料院,2001)
(19)李侑珍「9 世紀在唐新羅人の活動について」(『中 国史研究』13,2001)
(20)曺凡煥「張保皐と赤山法花院-赤山法花院と 9 世紀の東アジア世界-」(『対外文物交流研究』海上 王張保皐記念事業を会,2002
(21)李鎔賢「張保皐の貿易活動-その交易組織面からの接近-」(『対外文物交流研 究』2,2003)
(22)徐侖希「清海鎮大使張保皐に関する研究-新羅王室との関係を中心に」(『震檀学報』 92,2001)
(23)田中俊明「アジア海域の新羅人-九世紀を中心に-」(『東アジア海洋域圏の史的研究』京 都女子大学研究叢書,2003)

大宰府のフードライフ

大宰府のフードライフ(裏道編)

WEB上のグルメ情報には、確かに「Restaurantエッセンス」のような高級店が数多く紹介されている。しかし、大宰府の裏道で、しっかり頑張っている「地元のお店」も多い。
今回は、太宰府市役所近辺を紹介したい。
1,軽食さくらーー日替わりランチは、おばちゃんの苦心作。
2,そば処一耕ーー8割そばは美味
3,松井ーー鰻丼がよい
4,都府楼珈琲ーーご主人の品が漂うランチは絶品



木村製麺所の「天ぷら明太子天うどん」がお勧め

うどん屋さんといえば、今や2極化していよう。高級店もしくは廉価なチェーン店である。日本国内に数多くあるうどんチェーン店が、どこでも、いつでも均一の味であるのに対して、このうどんは大きく異なる。

*宰府うどん

大宰府の木村製麺所は本店こそ別な場所にて製造しているが、そのアンテナショップが大宰府参道通りにある。いわゆる小鳥居小路の一角にひっそりとある。「ひっそり」と書くのは、西鉄太宰府駅から天満宮に向かう道で、左側の小路に大宰府館が見えたならば、その道を進めば良いが、なにせ人通りがない。まばらであるので、勇気がいるものの、お店に飛び込んだならば、満足すること請け合い!!

オーナーが太宰府市内に製麺所「木村製麺」を経営する方であり、その製麺所から直に運び込んだうどんに、オーナー夫人手作りの絶品のスープが加われば、美味しくないはずがない。加えて、オーナーのうどん茹でがまた心にくい。うどんチェー店や立ち食いうどん店などと違い、額に大粒の汗を流しながら、一杯一杯のうどんを丁寧に茹でている。
狭い調理場では、オーナー夫人が天ぷらを揚げている。

私のお勧めはトッピング「明太子天ぷら」。」(260円)である。

望むらくは、「さいふうどん」の特徴を教えて欲しい。






刀伊ーー同一時期に日韓海峡圏の対岸を震撼させた海賊は?


大宰府を襲撃した「刀伊」とは何かを考えるときに、参考となる資料は次の通りである。
1,同一時期に、日韓海峡圏の向かい側を震撼させたのは、女真人であったこと
2,女真族の氏名に「曰押閒伊·曰惱一伊·曰排門異·曰佛徐逸·曰滿尹伊」とあり、「刀伊」の意味は不明とは言え、無関係とは思えないほどに語形の類似が想像できること


(1)『高麗史』卷四世家 卷第四顯宗 210118
「東女眞百餘艘寇慶州」

(2)『高麗史』卷四世家卷第四顯宗 310122
「壬子 三年 春二月 甲辰 女眞酋長麻尸底率三十姓部落子弟來獻土馬三十姓曰阿干頓·曰尼忽·曰尼方固·曰門質老·曰弗遮利·曰居質阿·曰黏閒逸·曰尼質阿·曰耶邏多·曰邀揭囉·曰要悅逸·曰鬱唁·曰烏臨大·曰蒙骨拽·曰暈底憲·曰徒怠·曰耶兀逸·曰拏乙信·曰拏乙晏·曰冬骨逸·曰支闍逸·曰魚瑟殷·曰麽乙逸·曰塗沒尼·曰云突梨·曰押閒伊·曰惱一伊·曰排門異·曰佛徐逸·曰滿尹伊.


(3)『高麗史』卷四世家卷第四顯宗 310125 


「五月 己巳 東女眞寇淸河·迎日·長鬐縣遣都部署文演·姜民瞻·李仁澤·曹子奇督州郡兵擊走之.


参考までに、『大鏡』中、道隆の条に
「かの国におはしまししほど、刀夷国の者、にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、~~」


毎年2月に大宰府を来訪した中国人商人

『朝野群載』巻5,朝儀下には、「宋国の商客王瑞、柳忩、丁載」の名が見える。その交易品の名前は未記載であるが、彼等は大宰府に「上古待二八月之順風、所往反也」(同書)とあり、2月に来訪し、半年間大宰府に滞在した後、8月に旅立ったという。

蕃客所に関して

国立公文書館所蔵文書には、「応徳2年9月蕃客所注進案」が保存されている。本来は観世音寺所蔵文書であっただろう。
蕃客所とは、大宰府に設置された「外国人担当の役所」、つまり外務省と法務省を兼ねる役所である。そこで、「注進呉楽所役事」とあり、「呉楽」によって、大宰府を来訪した外国人の無聊を慰めるエンターテインメントを提供していたようである。

2016年7月2日土曜日

大宰府と契丹

(1)『 百 練 抄』 寛 治 6 年 (1092)6月27 日 条
「 諸 卿 定 申 本 朝 商 客 渡 契 丹 事」

(2) 『 中 右 記』 同 日 条
「 有 陣 定、 是 大 宰 府 解 状 也、 唐 人 隆 現 為 商 客、 初 通 契 丹 国 之 路、 銀 宝 貨 等 持 来、 子 細 見 解 状」

(3) 『 中 右 記』 同 年9 月13 日 条
「 検 非 違 使 等 於 左 衛 門 府、 勘 問 商 人 僧 明 範、 件 明 範 越 立 趣 契 丹 国、 経 数 月 帰 朝、 所 隨 身 之 宝 貨 多 云 々、~中略~ 契 丹 者 本 是 胡 国 也、 有 武 勇 聞、 僧 明 範 多 以 兵 具 売 却 金 銀 條、 己 乖 此 令 歟

(4)『 後 二 條 師 通 記』 同 年10 月22 日 条
「昨 日 陣 定 事 ~中略~ 被 定 最 初 契 丹 事~中略~ 或 随 勅 定、 或 猶 可 被 拷 明 範 僧 也、 或 明 範 陳 詞、 可 被 問 帥 者」

大宰府権帥藤原伊房が「 商人僧 明範」を代理として契丹国に対して「以 兵 具 売 却 金 銀 條」とある。今風に言えば、武器輸出である。

なお、『遼史』道宗本紀、大安7年9月己亥の条には、「 日 本 国 遣 鄭 元 鄭 心 及 僧 応 範 等 二 十 八 人 来 貢」とある。

王則貞とは誰か?

『 朝 野 群 載』 巻 20 「 異 国」
「 高 麗 国 禮 賓 省 牒 大 日 本 国 大 宰 府
 貴 国 有 能 理 療 風 疾 医 人。 今 回 商 客 王 則 貞 廻 皈 故 郷、 回 便 通 牒、 及 於 王 則 貞 処、 説 示 風 疾 縁 由、 請 彼 処、 選 擇 上 等医人、 於 来 年 早 春 発 送 到 来、 理 療 風 疾、 若 見 功 定 不 輕 酬 者。 今 先 送 花 錦 及 大 綾 中 綾 各 11 段、 麝 香10 臍、 分 附 王 則 貞、 賚 持 將 去 知 大 宰 府 官 員 処、 且 充 信 儀。 到 可収 領 者。」

とある。

『高麗史』文宗27年7月丙午の条には、
「東南海都部署奏、日本國人王則貞松永年等四十二人來、請進螺鈿‧鞍橋‧刀‧鏡匣‧硯箱‧櫛書案‧畵屛‧香爐‧弓箭‧水銀‧螺甲等物、壹歧島勾當官、藤井安國等三十三人、亦請獻方物東宮及諸令公府、制、許由海道、 至京」
とある。しかし、日本人にしても、「王」氏を名乗るのは奇妙であり、高麗人たちにしても、不思議だと感じたはずである。



大宰府に届いた医師派遣要請


(1) 『 朝 野 群 載』 巻 20 「 異 国」
「 高 麗 国 禮 賓 省 牒 大 日 本 国 大 宰 府
 貴 国 有 能 理 療 風 疾 医 人。 今 回 商 客 王 則 貞 廻 皈 故 郷、 回 便 通 牒、 及 於 王 則 貞 処、 説 示 風 疾 縁 由、 請 彼 処、 選 擇 上 等医人、 於 来 年 早 春 発 送 到 来、 理 療 風 疾、 若 見 功 定 不 輕 酬 者。 今 先 送 花 錦 及 大 綾 中 綾 各 11 段、 麝 香10 臍、 分 附 王 則 貞、 賚 持 將 去 知 大 宰 府 官 員 処、 且 充 信 儀。 到 可収 領 者。」

(2)『朝野群載』
 大 宰 府 解 申 請 官 裁 事 、 言 上 高 麗 国 牒 壹 通 状 右 商 人 往 反 高 麗 国、 古 今 之 例 也、 因 茲 去 年 當 朝 商 人 王 則 貞、 為 交 関 罷 向 彼 州 之 間、 禮 賓 省 牒 壹 通、 相 副 錦 綾 麝 香 等 所 送 也、 是 則 聞 医 師 経 廻 鎭 西 之 由、 牒 送 旨、 件 則 貞 所 申 也 者、 異 国 之 事、 為 蒙 裁 定、 未 検 知 件 錦 綾 麝 香 等、 何 況 不 請 取、 先 相 副 件 牒 状、 言 上 如 件、 謹 解、 承 暦 4 年 3月5日


(3) 『 帥 記』 承 暦4 年 9 月4 日 条
「次 匡 房 申 云、 付 誰 人 可 遣 乎、 殿 下 宣 云、 若 遣 王 則 貞 者、 子 細 語 示 彼 朝 歟、 有 如 此 往 反 之 輩 乎、 ~中略~ 少 選 帰 参 云、 随 人 々 申、 可 候 返 牒、 至 于 王 則 貞、 永 不 可 遣 高 麗、 若 竊 往 反 者、 可 誡 所 由 之 日、 可 下 知 歟 者、


(4) 『 本 朝 続 文 粋』 巻11「 牒」
「 日 本 国 大 宰 府 牒 高 麗 国 禮 賓 省 却 廻 方 物 等 事 ~中略~ 况 亦 託 商 人 之 旅 艇、 寄 殊 俗 之 単 書、 執 圭 之 使 不 到」

(5) 『 師 守 記』 貞 治6 年5月9日 条

 承 暦 4 年10月2日 大 宰 府 官 符。
「略 右 大 臣 宣、 奉 勅、 所 請 医 人 輙 難 差 遣、 所 送 方 物、 宜 被 返 却、 早 以 府 司 之 返 牒、 擇 使 者 発 遣、 但 至 商 人 王 則 貞 者、 宜 任 法 罪 科」


結果的に、『本朝続文粋』巻11に見るとおり、高麗の医師派遣要請を断ることとなるが、傑作なのは「日本的な落としどころ」である。いったんは医師丹波雅忠を派遣することに決定するが、万が一高麗国に於いて丹波雅忠の医療行為に効なければ日本国の面目が立たないという理由で、高麗の要請を断る。しかもその断りにしても、国家の名ではなく、大宰府からの返書としてである。


大宰府解文と「鶏 林 府」

『 権 記』 長 徳3 年 (997)10 月1 日 条

「乂 申 高 麗 国 案 内 事、 定 申 云、 先 日 言 上 府 解 不 注 到 鶏 林 府 成 犯 者 交 名、 今 日 解 文 巳 注 其 名、 仍 須 追 討 彼 成 犯 則 矢 等 類 之 由、 注 載 報 府 」

とある。その「鶏 林 府」とは朝鮮政府であるが、その朝鮮半島で犯罪を犯した日本人の氏名が大宰府に届き、その外交的交渉は大宰府の業務で有ったと知る。

対馬と朝鮮半島とのトランスボーダー

(1)『三代実録』貞観十二年(870)2月12日条
「先是大宰府言、 対馬島下県郡人卜部乙屎麻呂、 為捕二鸕鳥、向新羅。乙屎麻呂為新羅国所執、 縛囚禁土獄。 乙屎麻呂見彼国、挽運材木、構作大船、撃鼓吹角、簡士習兵。乙屎麻呂竊問防援人、答曰、為伐取 対馬島也。乙屎麻呂脱禁出獄、纔得逃帰。」

この記事を見ると、対馬人卜部氏が自由に朝鮮半島に渡航している。

(2)『朝野群載』巻20・異国  承暦4年(1080)3月5日大宰府解、 大宰府解申請官裁事、言上高麗国牒壹通状、右商人往返高麗国、古今之例也。因茲去年当朝商人王則貞、為交 関罷向彼州之間、礼賓省牒壹通、相副錦綾麝香等所進也。是則聞医師経廻鎮西之由上。牒送旨、件則貞所 申也者。異国之事為蒙裁定、未検知件錦綾麝香等。何况不請取。先相副牒状言上如件、謹解。

とあり、「右商人往返高麗国、古今之例也」の記事に注目すると、これまた商人は自由に日韓海峡圏を自由に往来している。
とあり、「

源俊頼の『散木奇歌集』所載「唐人」

源俊頼の『散木奇歌集』には「はかたにはへりける唐人とものあまたもうてきてとふらひける」とある。

この歌の含意は、博多に存在したチャイナ・タウン居住の「唐人」たちが弔問に大宰府に来訪したと言う。

前大宰大弐藤原惟憲は大富豪

藤原実資の著『小右記』(長元2年7月)には、
「11日、戊辰、昨夕前大弐惟憲妻入京、即参内云々、惟憲明後日入洛、随身珍宝不知其数云々、9国2島物掃底奪取、唐物又同、已似忘恥、近代以富人為賢者、惟憲献白鹿于関白云々」
とあり、大宰大弐の惟憲は、九州各地の品々を「奪取」し、さらには「唐物」交易で富を蓄積したとある。その権限の大きさを知る。

大宰府を襲撃した「刀伊」は女真族か?ーー「野蛮な民族」を意味する「되」(トゥエ)とは、九州大学付属図書館のホームページ

九州大学付属図書館のホームページには、

刀伊の入寇~九州を襲った異民族」の特集があり、


1019417日に、京都の藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに2通の手紙が到着しました。
その手紙の送り主は当時、大宰府に赴任していた藤原隆家(ふじわらのたかいえ)からで、日付はそれぞれ47日と48日でした。受け取った藤原実資は自身の日記である『小右記』に、刀伊の来襲を伝える部分を引用して書き残しています。
「刀伊国の人が、50余艘で対馬島にやってきて殺人や放火した。要衝の地を警備し、兵船を派遣した。」
「異国船(=刀伊の船)が乃古嶋(能古島)に到着した。」(『小右記』寛仁3年(1019年)417日条)
 現在ならば新幹線で数時間で着いてしまう京都ですが、当時はおよそ10日ほどかかって、手紙が都へ伝えられています。この手紙によって、はじめて刀伊の来襲が都に伝えられました。
 日本側に残された史料では、日本を襲撃した主体を一貫して「刀伊」(とい)と表現しています。
この刀伊の正体は、中国の満州地方を中心に居住していた「女真族」のこと指しています。
ただし、日本側が「刀伊」の正体を「女真族」であると見破っていたのかは定かではありません。
その証拠に、当初、日本の朝廷は襲撃の主体を当時、朝鮮半島にあった高麗王朝ではないかと疑っていました。
日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」

とある。

関連記事は『朝野群載』巻20、「異国」の条にも、
「大宰府解申請官裁事  言上刀伊賊徒或撃取或逃却状」
とあり、ほぼ同文が掲載されているが、『小右記』がさらに詳細である。

『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条

同年七月十三日大宰府解

言上対馬島判官代長岑諸近越二渡高麗国、隨下身為刀伊賊徒被虜女捨人上帰参状、中略、件 諸近以去六月十五日、晦跡逃亡、仍其由言上先了、而以今月七日諸近到来、申云、~略~不如下相尋老母委 中命於刀伊之地上。欲レ申事由於島司、渡海制重、仍竊取小船、罷向高麗国、将近刀伊境、欲問存亡。爰彼国通事仁礼罷会。~中略~即申云、 ~中略~欲罷還本土之~」


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さて、ここで問題は「刀伊国」とは何かである。九州大学の説明では、

日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」


とあるが、「朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「」(トゥエ)」とは何だろうか。

そもそも1019年頃に、「野蛮な民族」を意味する「」(トゥエ)などという語形はもつ言語学的資料はない。2点の語学的知識の不足のために、この説明はいささか勇み足である。

確かに、
①白鳥庫吉「オランカイ及び刀伊の名義について」『白鳥倉吉全集』第5巻所収
②池内宏「刀伊の賊」『満鮮史研究』中世第1冊、吉川弘文堂、1979年
とあることに依拠しており、九大図書館の欄執筆者も異見なく、踏襲したに違いない。