応安3年(1370)6月、今川了俊は九州探題に任ぜられる。管領細川頼之の推薦もあって引付頭人 の今川了俊に自羽の矢が立った。了俊はすぐさま九州下向の準備に着手し、7月1日には阿蘇惟 村と田原氏能宛てに西下の報を通告すると共に、軍事的な支援を依頼した。つぎに10月27日には 宇都宮経景に対しても同一な依頼をしている。 応安4年2月20日に京都を出発し、大宰府をめざした。失墜した幕府の権威復活と大宰府を拠点に勢力を張る南朝の制圧が目的で京都を出発したはずであったが、了俊の道中はノンビリしていた。そもそも幕府の命令を受けてから半年以上の準備期間に見られるように、慌てず騒がずの了俊であったが、さらに大宰府までの行軍に時間をかけた。応安4年10月9日に本州の果てである長門国の国府に到着したものの、一衣帯水の地である九州になかなか渡海しなかった。そこでも2ヶ月ほど滞留する。
いわばじわじわと大宰府に近づく用意周到な計画であった。
応永5年8月12日に、大宰府の有智山城に籠もる菊池氏を撃破して、了俊は大宰府を制圧した。
0 件のコメント:
コメントを投稿