2023年12月28日木曜日

上野誠著「万葉考古学」とは何か

 新学説の樹立は容易ではない。

欧米の学界では、たとえ「Culture Fashion」だと揶揄されようとも、常に目新しい学説、Theoryを求める研究風土にある。だから研究者間での競争は激しい。うかうか昼寝をしていることはできない。。

とはいえ、学説だと標榜する以上、一つの事象を科学的方法論で、妥当な資料を以て、だれが検証しようとも、同一な結論もしくは仮説に至る必要がある。

日本文学界においても、幾多の学説の興亡を知るだけに、どうしても自説へのこだわりが強く、客観性を欠く人文学では、ともすると学説などそもそも存在するかという議論さえある。

なるほど「万葉考古学」の定義は、同著に認める。

私の立場から申し上げれば、意気込みは良い。確かに伊藤博氏の注釈書『萬葉集釈注』(集英社、全10巻別巻3、1995年)以降、まったくレベルが低くなった万葉集研究にあって、その再興を果たしたいという上野氏の志は良し。

 新学説の主導者である上野誠氏の論文を拝見しても、面目を一新する研究成果が提示されているだろうか。「ここまでわかると、なぜ蘆城駅家、水城、夷守で万葉びとたちが送別宴を催したか、明らかにできるのである」〈109頁〉という。これを「万葉考古学」の精華だと誇示するが、それだけの貧弱な主張で万人を納得させる新学説樹立とは程遠い。

何よりも、諸氏の論文を拝見しても、一貫する分析視点で考察されているとは思えず、バラバラであり、はたして新学説だと自らがファンファーレを吹くほどの価値があると認定できない。鈴木喬氏の論文に至っては、「万葉びととの対話」を試みた結果〈42頁〉を報告しているが、それは新学説「万葉考古学」の分析視点を導入した考察とは思えない。むしろ従来の凡庸な枠組みに他ならない。

 すでに、奈良県立万葉文化館によって、「万葉古代学」とは

『万葉集』を中心とした総合的古代学。文学・歴史学・民俗学・宗教学・考古学などの隣接諸科学が有機的に連携しつつ、その研究領域と方法を越えて『万葉集』を広く古代文化の一環として位置付け、様々な角度からその総合的な価値を問うもの。

万葉古代学研究年報|奈良県立万葉文化館 (manyo.jp)


とあり、たとえ平凡であると言えど、その越境する学問的枠組みで万葉集を読み解けばよいのではないか。


あえて「万葉考古学」などと旗揚げするまでもない。何かの外部資金や受賞を目当てに立ち上げを狙ったのだろうか。そうでなければ、「羊頭狗肉」と嘲笑されかねないだろう。


一昔前の森浩一著『万葉集の考古学』がより刺激的であり、教わることが多い。


ただし、次のお三方の考古学者による分析は、凡庸な国文学者にない意欲的で、しかも斬新な解釈を提示する。


万葉の都、久邇・難波・紫香楽

  山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所)

   


大宰府の内と外の万葉集

  小鹿野亮 (筑紫野市教育委員会)


大伴旅人が旅した松浦郡
  菅波正人 (福岡市埋蔵文化財課)


の三つの論は興味深い。一読をお勧めしたい。



なお、別稿で、論評をするつもりである。


ところで、忘れてならないが、


赤司善彦氏の高論「大伴旅人の館跡(太宰帥公邸)を探る」


こそが、「万葉考古学」の適切な先例である。





****************


話題は全く別であるが、我が知る万葉学者は畏敬の対象であった。

 まず先生の頭の中には万葉集全歌が格納されていた。万葉集中のどの句からでも、全句をそらで読み上げられた。

 しかも表記された一文字一文字の万葉仮名までも、先生の頭の中にインプットされていた。例えば,あの歌の「木」は「コ」と読み、あの歌では「キ」と読むとか。

 いわば万葉集のすべてを入力した、最先端の無数のCPUを搭載したスーパーコンピュータの万葉学者であった。

単に性能が高いだけでなく、先生の頭脳は多様な計算タスクに対応できるように設計されており、古代諸学に精通した異なるアプリケーションや計算ニーズに対応することができる柔軟性と拡張性をお持ちであった。

 今、先生のような研究スタイルは時代遅れかもしれない。インターネットでのデータベース検索やAIがあると反論されそうである。その信奉者に反論はない。

 だが私が敬愛してやまないのは、恩師の万葉集研究は「命がけ」であったことである。太平洋戦争中、1兵卒として徴兵され、銃火飛び交う戦地で、万葉集を読み続けた先生の執念に畏敬の念を持つ。

 生涯で先生の自著は一冊のみ。加えて、先生は数々の勲章などを辞退され、栄誉・栄達とは無縁であった。しかしわが師の論文は他の追随を許さぬものに仕上がっていた。

 先生と同様に、太平洋戦争中に過酷な体験をなさった河野六郎先生(中国音韻学および朝鮮語研究)、榎一雄先生(中央アジア史)も異口同音に、「俗に堕すな、学問に生きよ」の生き方を貫徹された。このお三方は旧制一高・東京帝国大学卒業で、ほぼ同年配であるという共通点を持つ。その上に、英独仏語は言うまでもなく、ラテン語・ギリシャ語などさまざまな外国語に精通されていた。いったいいくつの言語を習得なさったのか、私のような凡人の想定域を超えていた。学問の奥行きが大きく異なるからである。

 わが浅学菲才を恥じ入る次第である。

 





2023年12月23日土曜日

「百済」の読みは、「くだら」か?

 「百済」は朝鮮半島に存在した古代国家の一つである。百済国滅亡時だけでなく、「渡来人」・「帰化人」などと呼称される百済人が多数いた。周知のとおり、彼らは仏教・技術などを日本に持ち込んで、日本文化形成に大きな影響を与えた。

さて、日本の教科書では、「百済」の漢字には「クダラ」と読むと教えられる。

それは正解であろうか。

すでに古代日本語研究者から、この警鐘は発信されてきたが、古代史研究者は完全に無視してきた感がある。

*「百済」の読みが「くだら」でない説はすべて「くだらない」なのだろうか。

ところで、『類聚名義抄』図書寮本に注目したい。

『類聚名義抄』図書寮本といえば、平安時代院政期の成立である。内容は、一文字または二文字以上の漢字を掲出語とし、その発音・意義・字体を漢文で説明し、片仮名の和訓と字音をも表示した部首分類体の、今日でいえば漢和辞典である。本文343頁に、3,675項目を収録する。

 その『類聚名義抄』図書寮本の「百済琴」の項目に、

*百済瑟、久太良古度

箜篌百済国琴也 和名、久太良古止

とある。

この両語には、明白に「くタら」と清音「太」で表記されている。

 平安時代には濁音「ダ」ではなく、清音で発音されていた。とすれば、古代に遡っても清音で、「くたら」と呼んでいたと可能性が高い。

くく この復元を今後ともに無視するのか、検討に着手するのか、

 たとえ孤軍奮闘と言われたとしても、持論に従って、私は「くたら」と読み続けたい。




2023年12月19日火曜日

大宰府のラーメンを食べ歩く

「大宰府にも、ラーメン屋があるとね」と言われそうである。 それが、たしかにうまいお店がある。

以下の評価はあくまでも個人的なもの、どうか参考程度に。食べログなどをどうか参照してください。


1)水城ラーメン

  • 住所:福岡県太宰府市水城3-4-24
  • 私が福岡方面から大宰府に向かうのは、いつもは車。
  • 国道3号線から大宰府方面に行く112号線に曲がって、最初に出会うラーメン店。だからか、何度も空腹時に立ち寄った。
  • 見た目は必ずしもおしゃれとは言えないが、そのコクのあるスープに魅了されている。飾り気のない、町のラーメン屋さん。店主もお世辞一つ言うわけでもなく、淡々と麺をゆでるだけ。
  • しかし、私の口に合う。

評価は、Bプラス・プラス


(2)麺屋 醤油塩之助


  • 住所:福岡県太宰府市水城3丁目4-6

水城ラーメンさんから100メートルも離れているだろうか、水城ラーメンさんの競争店。

私は毎週大宰府に通って、市内を隅々歩きまわり、観光開発・地域振興の視点から市内観察していた時があった。その時には、確かなかったはず。

先日、大宰府に足を踏み入れた時に見かけ、ついつい物珍しさで足を踏み入れた。いつオープンしたのかわからないが、店内はきれい。

福岡だから、豚骨スープという先入観を打ち破るコンセプトを前面に押し出し、塩と醤油味で勝負のお店。私は背脂塩ラーメンに挑戦。

食通ではないだけに点数をつけられないが、私の感覚では、Bプラス。

(3)餃子の王将 築紫野店

言うまでもなく、餃子チェーン店。可もなく不可もなし。

ただし、評判通り餃子はおいしい。

(4)黒船亭

福岡県太宰府市梅香苑1丁目1-5

お店の前の大きなのぼり旗「担々麵」にひかれて、入店。テーブルの上のメニュー板にびっくり。担々麺オンリーのお店と思っていたのに、予想が外れ、豊富なメニュー。私は白ごま担々麺セットが一番人気だということで、定番商品を注文。評価はBプラス


(5)暖暮 大宰府駅前店

福岡県太宰府市宰府1-14-24

このお店もラーメンチェーン店。一風堂や一蘭などと同様に、博多ラーメンのチェーンを国内外に展開。

 だからこそかもしれないが、店主の意気込みはもう一歩。北九州の「石田一龍本店」社長のようなエネルギッシュな戦闘スタイルは見られないが、この味、一筋という気概は欲しい。チェーン店の宿命か。

仮にフランチャイズ店であれば、後に引けないはず。がむしゃらに美味しいラーメン作りと「お客様、第1」主義に徹すること。

評価はB。




2023年12月18日月曜日

大宰帥の謎ーーその4:藤原浜成

 太宰帥であった藤原浜成の軌跡が奇妙である。浜成といえば、藤原不比等と藤原五百重との間に生まれた京家の藤原麻呂の子である。

浜成は桓武天皇即位直後に昇位しなかった一人である。その理由は、延暦元年(782)閏正月に発生した氷上川継謀反事件に求められるだろう。なぜならば浜成は氷上川継の義父だからである。すなわち祖母を同一にする藤原五百重が天武天皇との間に生まれた新田部皇子の子である塩焼王と、聖武天皇の子でである不破内親王との間に生まれた氷上川継の妻が浜成の娘・法壱である。桓武天皇を擁立した藤原式家(藤原百川など)と藤原京家との対立があったのは、事実である。こうした政治的背景にして、浜成が大宰帥に左遷され、その3か月後にさらに員外官にされ、しかも正員の三分の一に減俸された。

その直前に桓武天皇は員外官を廃する命令を下した。しかし桓武天皇はみせしめのように浜成をあえて員外官を命ずる。

ところで、大宰帥に左遷された藤原浜成が都にいる婿である氷上川継の反乱の謀議に加担したという桓武天皇の主張は憎悪の標的となった感を持つ。もはや無力化された浜成に追い打ちをかけるように、あらぬ嫌疑をかけて、浜成を貶めたと思われる。

 それほどに、天武天皇直系のプリンス浜成や川継に対して、百済人の血を引く桓武天皇の強い敵愾心であったと理解してよいだろう。

さて、私の関心は別なところにもある。桓武天皇即位の裏事情である。他の有料候補者を押しのけて、桓武天皇が選出された強い理由である。誰が最終決定者なのだろうか。






2023年12月12日火曜日

大宰府に常駐した新羅語通詞3名と中国語通詞4名

 『延喜式』民部下には、大宰府 に配置された職業別役人は、次の通りである。

「帥三○人、大弐二〇人、少弐一二人、大少監各八人、主神・主工・大少典・博士・明 法博士・主厨各六人、音博士・陰陽師・医師・算師・主船各五人、大唐通詞四人、史 生・新羅訳語・弩師・傔仗各三人、府衛四人、学校二人、蔵司二人、税倉二人、薬司 二人、匠司一人、修理器仗所一人、守客館一人、守辰六人、守駅館一人、儲料二○人 また主船一百九十七人、厨戸三百九十六烟」

とある。

我々の関心事である通詞に関していえば、

*新羅語通詞3名と中国語通詞4名

に自然と目が向く、新羅語通詞と中国語通詞が常駐していたとすれば、

1、その言語習得法:学校で習得したのか、指導者はだれか、教材はなにか、試験制度はあったのか、学校があったならば、その場所はどこかなどなど

2,通詞に段階があったのか:大通詞や稽古通詞などの身分上の区別

3,通詞は単なる語学翻訳者だけであったのか、それともその能力を駆使して、貿易などにも関与したのか

などなど。

気になるのは、中国は「通詞」、新羅語は「訳語」の使い分けである。

そして、新羅語と百済語、任那語、高句麗語の違い。さらに大唐語であっても、今でもそうであるけれども、マンダリン(北京官語)と中国南部諸方言は誰が通訳したのかなど気がかりである。


****************

以下は、陸 迪 氏の論文「古代日本の大唐通事をめぐる一考察 A study of Daito Tsuji in ancient Japan」『東アジア文化研究』巻 7,2022年、 91-108頁に依拠した。


2023年12月9日土曜日

豊後国速見郡二見郷(現在の別府市)を襲った土石流

 『続日本紀』宝亀3年(772)10月丁巳【10】条に、

○丁巳。大宰府言上。去年5月23日。豊後国速見郡二見郷。山崩填澗。水為不流。積十余日。忽決漂没百姓27人。被埋家二三区。詔免其調庸。加之賑給。

とある。この記事によると、宝亀2年(771)5月23日に豊後国速見郡二見郷に土石流が発生し、河川をせき止めた、10余日経過後、そのせき止められた水が激流となって下流に流れ、流域を水没させたとある。人的被害は27名、大宰府からの報告で「詔免其調庸。加之賑給。」とある。

豊後国速見郡二見郷とは、今の別府市でに属す。


さて、この大宰府発信の都への報告であるが、このように管内諸国の自然災害たるまで逐一朝廷へ報告していたことは興味深い。

しかしながら、なぜ、いまさらに前年の災害を1年半後に報告したのかは不明である。愚案なし。

2023年12月6日水曜日

東大寺大仏制作に従事した銅工 宗形石麻呂

今でこそ、「宗像市」・「宗像神社」に代表されるので、「ムナカタ」の表記は「宗像」だと思い込みがちである。

しかしその表記が定まったのは後世である。古代には、一般的に「宗形」とも書き表された。

「太宰帥宅牒 東大寺造司

銅工宗形石麻呂 上日卅

牒、件人十二月上日勘注、申送如前、以牒

 天平宝字7年12月卅日

知宅事大師家職今資人高来造広人」(484頁)

この記事で最も注目したいのは、東大寺造司から天平宝字7年(763)時点の太宰帥であった藤原朝臣真先宅へ銅工の宗形石麻呂が派遣されていた事実と、そして宗形石麻呂の同年12月の上日(出勤日数)が30日であったと分かる。ほぼ皆勤である。

日本高僧伝要文抄』所収の「延暦僧録」(思託、延暦7年・788年) に 

「銅2万3千7百18斤11両、自 勝宝2年正月迄7歳 正 月、奉 鋳 加所用也 」

(著者注:当時の1斥は180匁で675g)

 とあ るように、こ の鋳かけに5年の 歳 月と約16ト ンの銅を費 してい る。

ところで、東大寺大仏鋳造に用いられた銅の大半は長門国長登銅山で採掘されたことはすでに周知のとおりである。

さて、1989年に京都府大山崎町の「山崎院跡」から出土した銅のインゴットは注目される。最大で22.5㎝、重さ2680グラムの円錐形銅地金6枚である。大山先町教育委員会と奈良文化財研究所の調査によると、この6枚のインゴットは山口県長登銅山産であり、鉛同体比の分布が奈良の東大寺大仏鋳造に使われた銅と同一であるという。

 そもそも山崎院といえば、東大寺大仏制作に大きな貢献をした僧行基が建立した。したがって、東大寺大仏完成後、余った銅の一部が山崎院に分与されたと大山崎町教育委員会は推定する。

 想像の域を超えないが、陸路で長門国長登銅山から奈良の東大寺へ運搬されたときには、このような「精錬」状態であった。つまり、長登銅山は銅を発掘し、銅鉱石から「製錬」をし、それを銅のインゴット状にして、東大寺に輸送していた。銅製品などを加工するためには、さらに「精錬」するプロセスが必要である。それでは「銅工」宗形石麻呂らが銅製品に加工していた場所は、東大寺内のどこであっただろうか。

 奈良文化財研究所による、東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の二つの遺構の発掘結果から考えて、9812区から炭化物や青銅精錬作業の廃棄物が、そして9813区から洗い銅などの金属選別作業時の廃棄土や出土品の中に連弁状の青銅製品発掘されている。

この指摘から推測して、発掘担当者の平松義雄氏は、

「土器の年代からみれば、東大寺創建期に構築 、廃絶されたものばかりである。このエリアには 堀池春峰氏の指摘のとおり 、造東大寺司鋳所の現業部門が設置されていた蓋然性が高いといえよう」(https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/9047/1/AN00396860_24_010_013.pdf)

と報告している。この東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の両区を含めた一帯で、東大寺司鋳所の現業部門の一人のスタッフである宗形石麻呂が動き回っていた可能性を提出しておきたい。


さて、なぜ、筑前国宗形を離れて、宗形氏が平城京の東大寺造仏制作のために銅工として働いたのであろうか。この時に、全国から青銅精錬作業経験者を招集しただろうが、宗形氏と青銅精錬との関係はどこにあったと考えればよいだろうか。

 想像の域を超えないが、「■(匈+月)形箭」を想起する。

『続日本紀』天平宝字5年7月の条に、

秋七月甲申,西海道巡察使-武部少輔-從五位下-紀朝臣-牛養等言:「戎器之設,諸國所同。今西海諸國,不造年料器仗。既曰邊要,當備不虞。」於是,仰筑前、筑後、肥前、肥後、豐前、豐後、日向等國,造備甲刀弓箭,各有數。每年送其樣於大宰府。」

とあり、大宰府管内の諸国で兵器が製造されることとなり、その「様(ためし、サンプル)」が大宰府に送付された。天平8年(736)の「薩摩国正税帳」には、

「運府兵器料鹿皮担夫

とあり、大宰府に刀剣の柄に使用する鹿皮が運搬された。

このことからしても、大宰府管内でも兵器が製造されていたことは間違いなく、その一つが「■(匈+月)形箭」であると想像する。


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通説の通り、東大寺大仏は、百済からの渡来人国骨富の孫である国中真麻呂を大仏師とし、大鋳師高市真国、高市真麻呂ら技術者など、延べ42万3,000余人、役夫(雑役)218万人を使って、大仏本体の鋳造に3年、らぼつの鋳造と組立てに2年、仕上げと塗金に6年、計11年の歳月を費して完成した。

『続日本紀』天平宝亀5年10月条に、

冬十月,丁卯朔己巳,散位-從四位下-國中連-公麻呂,卒。本是百濟國人也。其祖父-德率-國骨富,近江朝庭歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工,無敢加手者。公麻呂頗有巧思,竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寶字二年,以居大和國葛下郡國中村,因地命氏焉。」

とある通りである。

銅加工の専門職業集団の集まりである東京都鍍金工業組合

 (東京都文京区湯島1-11-10)のホームページによると、

めっきの歴史 奈良の大仏と表面処理 (tmk.or.jp)

次に鋳凌いといって、鋳放しの表面を平滑にするため、ヤスリやタガネを用いて凹凸、とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し、彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し、さらにト石でみがき上げている。台座の蓮弁に残された有名な「蓮華蔵世界」の彫刻も、この時作られたものである。

 鋳放しの表面をト石でみがき上げてから、この表面に塗金が行なわれたが、大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるように、鋳かけ、鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれた。

 これに用いた材料について延暦僧録には、「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖、右具奉「塗御体如件」とあるが、これは金4,187両を水銀に溶かし、 アマルガムとしたもの2万5,224両を仏体に塗ったと回読している。

 すなわち,金と水銀を1:5の比率で混合してアマルガムとし、これを塗って加熱し、塗金を完了するのに5年の歳月を要している。

 これは第1に、鋳放し表面を塗金できるまで平滑にすること、第2に塗金後の加熱を十分慎重に行なわなければ、加熱時に発生する水銀の蒸気は非常に有毒なので、すでに751年、大仏殿の建造も終っている状況では、殿内は水銀蒸気が充満し、作業者にとって非常に危険な状態だったのであろう。

 大仏の鋳造は749年に完成し、その後に金メッキが行なわれ752年、孝謙天皇の天平勝宝4年に大仏開眼供養会が行なわれた。大仏の金メッキは、この開眼供養の後になされたが、アマルガムによる金メッキが行なわれはじめたときから、塗金の仕事をする人々にフシギな病気がはやりだした。この不思議な病気の原因は、まさに水銀中毒であった。

 蒸発する水銀をすうことが中毒であると真相をつきとめた大仏師国中公麻呂は、東大寺の良弁僧上とともに今日の毒ガスマスクを工夫して、病気の発生を予防したとのことである。科学技術の進歩は公害が付きもので、これを克服していかなければ人類の進歩はない。すでに8世紀における大仏建造で、水銀アマルガム鍍金の公害が発生したが、人類の恵知はこれを克服している。」


なおちなみに


藤原朝臣真先
(もしくは光)
天平宝字6年12月1日(762年12月20日)任
*藤原仲麻呂の男子。
「《天平宝字六年(七六二)十二月乙巳朔》
○十二月乙巳朔。授従四位上藤原恵美朝臣真光正四位上。
以御史大夫正三位文室真人浄三為兼神祇伯。従三位氷上真人塩焼。
従三位諱。従三位藤原朝臣真楯為中納言。真楯為兼信部卿。
正四位上藤原恵美朝臣真光為大宰帥。


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参考資料

『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝

延暦僧録文

勝宝感神聖武皇帝菩薩伝 〈以御願文十二月二日〉

法名勝滿。在奈良朝庭御宇。

(中略)

又発使入唐。使至長安。拝朝不払塵。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝云。彼国有賢主君。観其使臣趍揖有異。即加号日本為有義礼儀君子之国。復元日拝朝賀正。勅命日本使可於新羅使之上。勅命朝衡領日本使。於府庫一切処遍宥。至彼披三教殿。初礼君主教殿。御座如常荘飾。九経三史。架別積載厨龕。次至御披老君之教堂。閣少高顕。御座荘厳少勝。厨別龕函盈満四子太玄。後至御披釈典殿宇。顕教厳麗殊絶。龕函皆以雑厠填。檀沈異香荘校御座。高広倍勝於前。以雑宝而為燭台。々下有巨鼇。載以蓬莱山。上列仙宮霊宇載宝樹地。𢜈々紅頗梨宝荘飾樹花中。一々花中各有一宝珠。地皆砌以文玉。其殿諸雑木尽鈷沇香。御座及案経架宝荘飾尽諸工巧。皇帝又勅。摸取有義礼儀君子使臣大使副使影。於蕃蔵中以記送遣。大使藤原清河。拝特進。副使大伴宿弥胡万。拝銀青光禄大夫光禄卿。副使吉備朝臣真備。拝銀青光禄大夫秘書監及衛尉卿。朝衡等致設也。

開元皇帝御製詩。送日本使〈五言〉

日下非殊俗。天中嘉会朝。

朝爾懐義遠。矜爾畏途遥。

漲海寛秋月。帰帆駛夕颷。

因声彼君子。王化遠昭々。

特差鴻臚大卿蒋挑捥送至揚洲看取。発別牒淮南。勅処致使魏方進。如法供給送遣。其大使私請揚洲竜興寺鑒真和上等渡海。将伝戒律。自勝宝六年二月四日至聖朝。勅安置東大寺。即其年四月。勝宝感神聖武皇帝。於盧舎那仏前。天皇菩薩請鑒真和上。登壇受菩薩戒。皇太后皇太子並随天皇受菩薩戒。後為沙弥澄修等受戒。此及伝戒事円。至其年五月。大和上衆僧。即貢如来舎利二千粒。西国瑠璃瓶盛念珠菩提子三斗。青蓮花葉二十茎。珉海畳子八面。玉環水精幡八条。王右軍真跡行書一帖。小王献之真跡行書三帖。少僧都良弁及佐伯今毛人共進内。斯実希代勝貺。前王罕逢。其僧法進即伝道宣律師行事抄六巻。大胝弥迦蔵本。又沙門法励。嵩岳鎮国道場義記三本。助天皇菩薩之揚化。聖武皇帝宜膺帝録。天受雄図。徳副乾坤。明均日月。化家為国。志康雷雨之長。翼聖承天。果就経論之業。六竜感御。八表惟寧。握鏡垂仁。懸大明而下燭。凝流拱代夢花胥而上昇。万徳長綿莫攀雲駕。百神幽賛永隔軒台。天平仁政皇后。克纂洪福。丕垂耿光。翹叡心於仏乗。申景福於仙鶴。創茲金地。而未畢功。克日就功。忌辰赴慶。莫我烈聖憑斯正因。妙業増暉。開化蓮於浄国。玄珠契道。獲大宝於春池。裕不尽之威霊。垂無之福祐。勝宝八歳々次丙申五月二日。崩於平城宮矣。〈巳上僧録文〉