(1)大宰府の岩屋城は、文明10年(1478)頃に築城されていたようである。
「深野図書允重親
下す
筑前国夜須郡山家庄内5町地(砧綿右馬允跡)の事
右、件の地の事、充て行うところなり、岩屋に在城せしめ、領地を全うすべきの状、件のごとし
文明10年1月13日」(『正任記』文明10年10月18日、大内政弘下文)
なお、『正任記』は「しょうじんき」と読み、その著者は大内政弘の奉行であった相良正任(さがらただとう)と呼んだらしい。日本語は難しい!!
なお『正任記』は『山口県史ー史料編中世1』(1996年)に翻字されているので、便利。
(2)天正9年(1581)7月に、筑紫広門は宝満城・岩屋城を攻撃するために進撃し、7月27日に観世音寺前で合戦があった。しかし、その攻撃は失敗に終わった。
(3)天正11年、再び筑紫広門は肥前国勝尾城から進軍し、岩屋城を攻撃した。『豊前覚書』によると、その時の策略が伝わっている。筑紫氏は茶売り人に化けた兵士を送り、岩屋城に侵入させ、「たまご火」を投げ込んだという。この計略で岩屋城下の民家は焼失したために、筑紫勢は岩屋城攻撃を強め、観世音寺前で再び戦火を交えたが、宝満城の援軍で筑紫軍は退却を迫られた。
高橋紹運と戸次道雪は反大友氏掃討に筑後に進撃したために、島津軍との軍事的均衡が破れたために、大友氏・島津氏の友好関係は破綻した。運悪く道雪は筑後国北野で客死したために、劣勢の高橋氏が守る宝満城も、天正13年9月に筑紫広門の攻撃で落城した。
(4)さて、岩屋城攻防である。
薩摩から進軍した約2万の島津軍は天正14年(1786)7月に、筑紫広門が拠点とする肥前国勝尾城を攻め落とし、その余勢で筑前に北上した。筑前国の最重要拠点は立花城である。その最前線が岩屋城。
7月22日:島津軍、岩屋城から「一里」離れた長尾村に着陣
7月24日:豪雨にて、城攻めを延期
7月25日夜:島津軍は鉄砲隊による攻撃を開始。羽柴秀吉来援の噂が漂う。
7月26日朝:岩屋城攻撃をするが、岩屋城を取り巻く
7月27日:島津軍による総攻撃により、岩屋城が落城
「かくて午未之刻に、悉城内之敵被討納候也。」
『上井覚兼日記』下巻、
1,攻撃:150、151、154
2,下拵え攻略:156
3,落城:160
4,岩屋攻防戦:161-167
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ちなみに勝尾城とは、鳥栖市の北西部の牛原町、山浦町、河内町にまたがる城山(じょうやま)山麓一帯に存在した。鳥栖市のHPによると、「勝尾城を中心に麓の館跡をはじめ、谷をぐるりと取り囲むように鬼ヶ城(おにがじょう)、高取城(たかとりじょう)、葛籠城(つづらじょう)、鏡城(かがみじょう)、若山砦(わかやまとり)の5つの支城、さらに館跡からはじまる谷間には家臣の屋敷跡、寺社跡、町屋跡や土塁、空堀等の城下跡が良好な状態で残されています。その規模は東西約2.5km、南北約2kmに及びます。」とある。
https://www.city.tosu.lg.jp/1342.htm
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