2026年6月10日水曜日

出雲国「大原『采女』勝部鳥女還本郷。」采女+勝部*

 『続日本紀』《天平十二年(七四〇)六月庚午【丙辰朔十五】

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

この記事は前後と文とは無関係に挿入されているために、ともすると見逃しがちであるが、事実は、采女勝部鳥女が「本郷」である「出雲国大原郡」に帰「還」したいう内容である。その理由は明記されていないが、『続日本紀』に特記している以上、特別な理由があったとみるべき だろう。

 ところで見逃しがちな論点は、

*采女には任期規定が存在しない

ことである。一度、都へ貢進されるとほぼ終身の任期であったと考えてよい。それは仕丁と同一である。


さて、出土した木簡には、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します。

とあり、すくなくとも大原郡佐世郷に郡司として「□智麻呂」ら勝部一族が居住していた。『出雲国風土記』から、

大原郡:大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣

は判明しており、しかも同風土記には、

【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄) 

とあることから

大領勝部臣虫麻呂 

*少領額田部臣伊去美+従父兄であり前少領額田部臣押島

の3名の名前を知る。

『出雲国風土記』大原郡条

「 所三以号二大原一者、郡家東北〔正西〕一十里一百一十六歩、田一十 町許平原也。故号曰大原。往古之時、此処有郡家、今猶追旧 号大原〈今有郡家処号云斐伊村〉 。 (中略)斐伊郷、属郡家。 」

とあり、大原郡では、郡家の移動があった。

 我々の関心を引くのは少領額田部臣の存在である。欽明天皇の娘額田部皇女(推古天皇)の額田宮への貢納で獲得した額田部臣(職名+臣)は、元来勝部臣よりも上位の豪族であった。その証拠に、岡田山一号墳出土大刀銘に「各田卩臣□□□□□大利□」も登場する額田部臣であり、岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣であったはずだが、大刀銘文に記されたのは「額田部臣」であった。したがって、額田部臣が出雲を支配する一大勢力であったとも考えられるが、その傍証はないので、断定は避けなくてはならない。

 ところで、誰しもが思い出す大化改新の詔には、

凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。」(『日本書紀』二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。)

とある、律令制下の日本では、全国を五畿七道に分け、その国には都から国司が派遣されたが、郡では律令制以前から支配していた在地豪族が終身の郡司に任命されていた。これは、各国において、郡司の郡支配を保証するとともに、その一方で中央政権の一端に組みこまれていたともいえよう、

こ 采女は天皇による郡支配の保証書であると言え、人質であるともいえよう。

つまり采女は郡司(大領もしくは少領)の姉妹もしくは子女で、しかも形容端正(容姿端麗)の者を貢進せよとある。今ここでは大化の改新の詔の信ぴょう性に関しては論じないが、すくなくとも采女は誰でもよかったのではなく、中央と地方の支配隷属関係を裏付けるものであったと考えたい。

 しかも「以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁」とある限り、采女の出身国の農民100戸から「庸布」を物納させたとある。1戸につき五斗の庸米であるので、100戸で500斗、穀で100斛。和銅大升では穀100斛が稲1000束。とすれば、田2町歩に該当する面積の稲田を郡司は農民に耕作させ、そして都の采女に送付して生活費に充当させていた。

何よりも、『続日本紀』に

《天平十四年(七四二)五月庚午【廿七】》○庚午。制。凡擬郡司少領已上者。国司史生已上、共知簡定。必取当郡推服。比都知聞者。毎司依員貢挙。如有顔面濫挙者。当時国司、随事科決。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。」

とあり、その当時550郡存在したので、この記述通りに進めば、550人の采女が都に送られた。


付記)

【綱文和暦】
大同2年5月13日(08070050130)
【綱文】
出雲国の采女勝部真上が病で郷里に帰り、稲五百束を賜る。

2026年6月7日日曜日

松江市(旧東出雲町)古城山古墳出土「位至三公鏡」ーー23例目か

 位至三公鏡(双頭龍文鏡)は、後漢末〜六朝前半に中国北部で流行した鏡である。

例えば、この 位至三公鏡(双頭龍文鏡)を中国故宮博物館所蔵品で、以下に紹介したい。

出典:「位至三公」鏡 - 故宮



「位至三公」鏡

Weizhi sangong mirror

銅器

東漢晚期至魏

直徑9.8公分

圓形鏡,半球鈕,連珠紋座。鏡背飾兩個相對的變形動物紋,中夾有「位至三公」銘文,外圍一周斜線紋。鏡緣寬闊平素。鏡身薄。 此鏡鏡銘的排列方式打破了漢代銅鏡流行的重環式佈局,將主紋以直行方式排列。相似的銅鏡多出土於西漢晚期及魏晉時期的墓葬中。

文物統一編號故銅001960N000000000
品名「位至三公」鏡
Weizhi sangong mirror
分類銅器
時代東漢晚期至魏
西元3世紀    
尺寸直徑9.8公分
說明圓形鏡,半球鈕,連珠紋座。鏡背飾兩個相對的變形動物紋,中夾有「位至三公」銘文,外圍一周斜線紋。鏡緣寬闊平素。鏡身薄。 此鏡鏡銘的排列方式打破了漢代銅鏡流行的重環式佈局,將主紋以直行方式排列。相似的銅鏡多出土於西漢晚期及魏晉時期的墓葬中。


いつ、いかなるルートで、だれが中国から日本に搬入したかは不明であるが、現在は東京国立博物館所蔵の山口県山口市・赤妻古墳出土品で、その一つを紹介しておきたい。




  • 出土、東博蔵)共通、 位至三公鏡(「 <文字>位至三公</文字>」、完形8.8cm)、倭製五弧内行花文鏡(完形7.4cm)、捩文鏡(完形10.9cm)、 伴出、碧玉製管玉+メノウ製管玉+硬玉製勾玉+メノウ製勾玉+ガラス製切子玉+ガラス製小玉+櫛+鉄製針+鉄刀+鉄鏃+人骨+有孔貝製品、 その他、赤塚古墳出土と伝えるものに、倭製六弧内行花文鏡(銘文なし、完形7.4cm、1908年出土か、山口県立山口博物館蔵)がある。
    発掘概要 :
    その他概要 : 〈全国遺跡地図_位置〉d4/〈全国遺跡地図_旧番号〉915/〈全国遺跡地図_県番号〉13-19/<全国遺跡地図番号>11-74。<25000分の1地形図>NI-52-3-11-2。  91map13-19。若林勝邦「周防国山口附近赤妻村の古墳及び発見品」『考古学雑誌』2-7(1898)。和田千吉「周防国吉敷郡赤妻の古墳」『考古界』8-5(1909)。 弘津史文「周防国赤妻古墳並茶臼山古墳(其1)」『考古学雑誌』18-4(1928)。同『防長漢式鏡の研究』(1928)。『図解考古学辞典』1959(「赤妻古墳」)。樋口隆康『古鏡』(1979)、歴博報56(1994)。 

    データ管理機関 : 山口市 - 山口県遺跡名:赤妻古墳

  • 所在地(山口市赤妻町所在)

  • 副書名 :
    巻次 :
    シリーズ番号 : 67
    編著者名 : 古賀 真木子
    発行(管理)機関 : 山口市 - 山口県
    発行機関 : 山口市教育委員会
    発行年月日 : 19970331
    世界地域 : 日本
    作成日 : 2019
  • https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/469679?utm_source=copilot.com

「三公」とは中国後漢〜魏晋期の中央官制における最高位の三職を指す語であり、一般に太尉(軍事最高責任者)・司徒(民政・教育)・司空(土木・建設)を示す。したがって、「三公に至る」とは、皇帝に次ぐ役職に至ったことを物語り、栄職への称賛の文言であった。

銘文は以下のような祝願句を持つ:

  • 出世祈願(昇進・繁栄)

  • 贈答品としての祝福文句

  • 権威の象徴としての装飾性

 したがって、位至三公鏡は単なる日用品ではなく、身分・権威・吉祥を象徴する呪具的性格がある。しかも中国製鏡の輸入品またはその模倣品であるために、 その所有は政治的地位・宗教的威信を強化する象徴であった。それを墳墓に埋葬することは、被葬者の権威を裏付ける副葬品となった。

西村俊範によると、1983年現在での調査で、日本国内における位至三公鏡出土例は22であると報告している。

<西村俊範「双頭龍文鏡(位至三公鏡)の系譜」『史林』66巻1号、1983年。95-115頁>

本稿の目的は、西村氏の調査に1例を追加するに過ぎない。

『全国文化財総覧』奈良文化財研究所編

古城山古墳 - 全国文化財総覧

[RecNo:260145] 古城山古墳
所在 : 島根県松江市東出雲町出雲郷
市町村 : 松江市 ( 32201 )
種別 : 古墳
主な時代 : 古墳
遺構概要 : 歴博報56、古墳前期-古墳(方墳、木棺直葬)、方墳辺20.0m。 県発掘調査一覧2000、古墳。古墳-古墳(方墳、割竹形木棺(直葬))。
遺物概要 : 古墳前期-銅鏡(小型倭製内行花文鏡)「 <文字>位至三公</文字> 」銘+鼓形器台。 歴博報56、内行花文鏡(八弧)(銘帯「 <文字>位至三公</文字> 」、欠損16.3cm、1969年出土、島根県立八雲立つ風土記の丘資料館蔵)、 伴出、土師器(鼓形器台)。 県発掘調査一覧2000、古墳-内行花文鏡+土師器(器台脚部)。
発掘概要 : 県発掘調査一覧2000、1969年11月10日から1969年12月15日発掘調査。
その他概要 : 旧、八束郡東出雲町。 東出雲町誌編纂委員会「古城山古墳」『東出雲町誌』(1978)。埋文研究会20-1986。石井悠「東出雲町の遺跡調査」『東出雲町誌』(1978)。歴博報56(1994)。『県発掘調査一覧』(2000)。
データ管理機関 : 松江市文化スポーツ部埋蔵文化財調査課 - 島根県

この古城山古墳に関しては、残念ながらこれ以上の情報を提供できないが、少なくとも奈良文化財研究所編『全国文化財総覧』に依拠する限り、その出土例を確認できる。




2026年5月28日木曜日

下総国「水上交通国家」論の提出ーー香取海・利根川・東京湾を中心に

以下は、 沖松信隆「千葉県における縄文時代丸木舟の出土例について」

に全面的に依拠したことをあらかじめお断りしておきたい。

 まず、縄文時代の丸木舟は、『千葉県史』によれば、

「弥生時代以降を除 く縄文時代の出土例は、時期不明を合わせて100例以 上になる(鈴木・山岸 2004)」

という。その報告から約20年経過した今、その数の増加を知らないが、相当な数に達していると推定する。

さて、沖松氏によると、栗山川流域遺跡群(香取郡多古町多古字九蔵503-1ほか)から出土した丸木船は

*かや材製で、「全長6.51m、最大幅0.57mで、舷側の残りも良く、 最大内深は25㎝である。大方の部位で舟縁まで遺存し ている。舟体の厚みは舟縁で2~6㎝、舟底で3~7 ㎝を測る。」

という。

*******************

さて、ここからは本稿の論者の管見である。

この船を排水量・喫水・かや材の浮力・乗船する人間の体重(約60~70㎏)などを勘案して、造船学の計算では3名~4名が妥当で、最大限6名までは乗船可能であるという。

理論上の上限(ハル・スピード)は、水線長 L(m)から

Vhull4.5×L (km/h)

で計算して、水線長を約 6.0m とすると、

Vhull4.5×6.011km/h
となる、つまり、時速11kmが理論上の数値である。

 しかしながら、このスピードはあくまでも一時的な最大速度さであり、平均して4km程度であっただろうと予想される。舟の幅は0.57mと細く不安定、しかもパドル/櫂が不明であり、その効率を測定できない上に、漕ぎ手の体力・技術、川か湖か湾か、潮流・風・波の条件などで、大きく異なる。専門家によると、この船で海上を航行するに、その自然条件の制約を想定しなくてはならないものの、沿岸航行では、逆風・逆潮では:3 km/h 以下になると想定した上で、漕ぎ手・波・風の条件さえよければ、一日で

*通常は20~30km、最大で40kmの行程

は可能だそうである。

 これまでの検討材料を前提として、

古代下総国における丸木舟の交流圏」

の検討に移りたい。スタートは下総国府である。 

(1)1日圏(2030km)=河川・潟湖・内湾の日常圏

中心となる水域

①下総台地の縁辺部に広がる水郷地帯

②手賀沼

③印旛沼

④内海(「香取海」「霞ヶ浦」など))

⑤利根川・江戸川・常陸川・鬼怒川・小貝川などの下流域

 

● 特徴

①丸木舟での移動が最も効率的な地形

②河川・沼沢・湿地が連続し、徒歩より舟の方が速い

 

行動の性格

①日常的な漁撈・採集・農業

②村落間の交流

③物資の小規模流通

 

(2) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①古代の巨大内湾全域

②鹿島神宮(常陸国)

③下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

④利根川を遡って、古代の常陸国南部

⑤鬼怒川・小貝川流域の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・水位・流速の読みが重要

③香取神宮・鹿島神宮の祭祀圏

④国府行政圏 と密接に連動

 

行動の性格

①広域の祭祀交流(香取・鹿島)

②交易(塩・魚・木材・黒曜石・土器)

③国府への物資輸送

④古墳時代の首長間交流

 

(3) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①香取海(古代の巨大内湾)全域

②下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

③利根川を遡って、古代の常陸国

④武蔵国の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・潮待ちよりも、水位・流速の読みが重要

 

(4)1週間圏(120150km)=東京湾・常陸国・上総国へ

到達可能範囲

①東京湾沿岸(市川〜船橋〜浦安〜品川)

②上総国(市原・木更津・袖ヶ浦)

③常陸国(鹿島灘沿岸)

④利根川を遡って、古代東国の内陸部(下野国・上野国) 

特徴

① 東京湾は内海として航行可能

②「政治的・儀礼的」航行が中心

③国府と周辺国の物流ルート

④大規模祭祀(香取・鹿島・安房の海上交流)

⑤交易(塩・鉄・布・木材)

⑥古墳時代の首長間の儀礼的往来

⑦律令時代における租調などのモノ輸送・ヒトの交流・情報の往来などに活用


古代大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸)に関する仮説

 本稿の目的は、古代における大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸を中心として)に関する仮説を提出することにある。

(1)前提条件

1,船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

2,速度: 巡航 6 km/h
3、1日行程  2030 km程度
4、航法: ①岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ②昼間航行・夜間は泊地

(2)同一政治勢力圏
  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸→日向国府へ

  6.  停泊地

    ①志布志湾奥救仁院高浜庄・志布志港周辺:古代の水門

    ②志布志湾西岸大崎町海岸砂浜・:台地上に遺跡分布

    ③唐仁海岸唐仁古墳群背後:古墳群=海上勢力のHinterland
    港や集落などの背後にある供給・流通の地域)
   ④肝付川河口高山周辺:河川の結節点
     
   ⑤内之浦湾 浦内之浦港:黒潮系海流の北上ルート。奄美大島などとの外洋接点

   ⑥大隅南端大泊・佐多:岬回りの風待ち

   ⑦串間福島・串間湾都井岬:安全港
 
   ⑧日向灘油津 :豊前国・日向国からの南下ルートの寄港地

(3)区間別「潮流・風向」モデル

実効速度の考え方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

気象庁のデータによると、日向灘〜志布志湾口は、外洋側に向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されるという。

1. 志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸「古代沿岸航行ルート図」

想定する基本条件

  • 船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

  • 速度: 巡航 46 km/h、1日行程 2030 km(好条件で40km)

  • 航法:

    • 岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ

    • 昼間航行・夜間は泊地

  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾(内之浦宇宙空間観測所周辺)

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸へ

行程モデル(潮流・風向を含む)

基本パラメータ

  • 船速(静水): 46 km/h

  • 行動時間: 1日 57 時間(休憩込み)

  • 静水での行程: 2030 km/日

潮流・風向を加味したモデル

  • 追い潮+追い風(+2〜3km/h)

    • 実効速度: 68 km/h

    • 1日行程: 3040 km

  • 逆潮+向かい風(−2〜3km/h)

    • 実効速度: 23 km/h

    • 1日行程: 1015 km(場合によっては「ほぼ進めず」)

  • 現実的な平均モデル(良悪条件混在)

    • 長期平均として 1日20〜25km を「設計値」とみなすのが妥当。

このモデルを、

  • 志布志湾奥〜唐仁海岸:約20〜25km → 1日行程

  • 唐仁海岸〜内之浦湾:約25〜35km → 1〜2日

  • 内之浦湾〜大隅南端(大泊など):約30〜40km → 1〜2日


3. 古代の丸木船の「航海可能範囲」推定

時間スケール別の範囲

  • 日帰り圏(往復)

    • 片道 1015 km 程度

    • 志布志湾奥を起点とすると:

      • 湾内の対岸・湾奥の別河口まで

  • 1泊2日圏(片道1日+復路1日)

    • 片道 2030 km

    • 志布志湾奥 → 唐仁海岸/大崎海岸/肝付川河口 など

  • 数日〜1週間圏

    • 片道 60120 km

    • 志布志湾奥 → 内之浦湾 → 大隅南端 → 都井岬周辺 → 日向灘沿岸

    • 途中で必ず複数回の「風待ち・潮待ち」を挟む前提

「政治圏」としての解釈

  • 志布志湾を拠点とし、ヤマト王権と政治的関係を有する勢力が、

    • 日向南部〜大隅東岸〜大隅南端までを

    • 「数日〜1週間スケールの往来圏」として持ち得た、というモデルを設定できる。

これは、

  • 志布志湾沿岸の古墳分布

  • 唐仁古墳群・内之浦周辺遺跡 などと重ねると、「海上ネットワークとしての政治圏」

西:志布志湾モデル】 飯盛山(初期)──→ 横瀬(中期ピーク)──→ 唐仁大塚(後期巨大化) │ │ │ │(海上交通) │(王権承認) │(地域巨大化) ↓ ↓ ↓ 大隅海峡・日向灘 西日本海上ネットワーク 南九州支配の中核

4. 古代の港・泊地の候補地リスト(一次案)

表:志布志湾〜大隅東岸の古代港・泊地候補

区分地域・地名機能イメージ根拠の方向性
A志布志湾奥(救仁院高浜庄〜志布志港周辺)中核港・荘園水門・政治拠点水門・古代〜中世の港記録・飯盛山古墳との対応
B志布志湾西岸(大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸)中継港・湾内泊地・古墳背後の海上拠点唐仁古墳群・沿岸遺跡分布・砂浜と背後台地の組み合わせ
C肝付川河口周辺河川交通と海上交通の結節点大隅東岸の大河川河口・背後の古代遺跡群のHinterland・沖合の志布志湾航路との接続
D内之浦湾安全な良港・外洋(日向灘)との接点入り組んだ湾形・現在も港湾・古代〜近世の良港としての地形条件、奄美大島などの外洋ルート
E岸良〜根占〜大中原〜大泊(佐多)周辺の小湾列南端回航前後の「風待ち・潮待ち」泊地小湾・砂浜・背後台地・貝塚・遺跡分布(縄文〜古代)
F都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)日向側の玄関口・対外接点日向南部の古代港湾候補・岬回り前後の泊地としての地形条件、豊前国・ヤマト朝廷へのルート

古代沿岸航行モデル

速度前提

  • 丸木船の巡航:4〜6 km/h

  • 航行時間:5〜7時間/日

  • 1日行程:20〜30 km(好条件で40 km)

志布志湾 → 唐仁海岸(東串良)

距離;22〜26 km

所要:1日

地形・泊地

  • 志布志湾奥(救仁院高浜庄)=出発点として最適

  • 湾西岸の砂浜列(大崎町〜東串良)=連続する安全な寄港帯

  • 唐仁古墳群背後の海岸は古代の海上拠点候補

コメント

志布志湾奥を起点とする政治勢力が、日帰り〜1日圏の海域支配を持ち得た範囲。

唐仁海岸 → 肝付川河口(高山)

距離:18〜22 km

所要:1日

地形・泊地

  • 唐仁海岸の砂浜

  • 高山・肝付川河口=河川交通と海上交通の結節点

コメント

河口は必ず泊地になる。淡水補給・物資交換・内陸との連絡が可能。

肝付川河口 → 内之浦湾

距離:25〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 岸良・高山の小湾

  • 内之浦湾=外洋(日向灘)に面した良港

コメント

ここが志布志湾勢力の東端1日圏。 内之浦は古代〜近世まで天然の良港として評価されてきた地形。

内之浦湾 → 大隅南端(大泊・佐多)

距離:28〜35 km

所要:1日(条件が良ければ)/悪条件なら2日

地形・泊地

  • 岸良〜根占〜大中原の小湾列

  • 佐多(大泊)=岬回り前の風待ち・潮待ちの要地

コメント

ここは風向きの影響が大きい区間。 向かい風・逆潮ならほぼ進めないため、泊地で待つのが前提。

大隅南端(佐多) → 串間(福島・都井岬北側)

距離

22〜28 km

所要:1日

地形・泊地

  • 都井岬は岬回りの難所

  • 福島・串間側の小湾は岬回り後の安全泊地

コメント

ここを越えると日向灘の北上ルートに入る。

串間 → 日向灘沿岸(油津・日南)

距離:20〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 福島・串間の砂浜

  • 油津港(古代の入り江地形)

  • 日南海岸の小湾列



<参考資料>

区間別の「潮流・風向」補正モデル

実効速度の求め方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

日向灘〜志布志湾口は、外洋側に日向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されると考える。

例えば志布志湾奥 → 唐仁海岸では

  • 潮流: 湾内は弱い(±0〜0.5km/h 程度)

  • 風: 夏季は海風(南〜南東)でやや追い風気味、冬季は北西季節風で向かい風気味

  • 補正モデル:

    • 良条件:+1km/h → 実効 5〜7km/h

    • 悪条件:−1km/h → 実効 3〜5km/h

2026年5月18日月曜日

古代上総の政治的動向(試案)

 1)要約

上海上国造と下海上国造は現在の千葉県中部に存在した「海上国(国は国家ではなく、強力な政治的指導者によってガバナンスされる地域の通称)」をルーツとする国造である。
養老川・小櫃川の段丘縁辺に建設された巨大古墳群に見るように、東京湾航路と内陸水運を掌握し、ヤマト王権に接近した湾岸首長権力者が登場。5〜6世紀ごろに、海上国は2分割され、さらにヤマト王権によって、武社国造が樹立されたことによって、おのずと海上国造は分離した。

>>市原市の「海上郷・海部郷」は、伊勢湾から航海に長じた人々が黒潮に乗って、 はるばるこの地にやってきた海人集団であっただろうといわれている。古代における航海や 漁撈などに携わる人々を指していた。海部は「航海・漁撈などに従事した朝廷の部」で、房 総に進出してきた大和政権が海部としての居住地にしていったと考えられる。天長5年 (828)の正倉院庸布銘文に「海部郷戸主刑部小黒人」とみえる



(2)時系列による理解

【3世紀後半〜4世紀】 ・海上国(首長連合)が成立 ・中心:養老川流域(姉崎古墳群) ・ヤマト王権との早期接触(稲荷台1号鉄剣) 【5世紀前半】 ・海国の最盛期(関東広域に影響力) ・海上国造(単一)として機能 【5世紀後半〜応神朝】 ・海上国が二分される → 上海上国造
→ 下海上国造 ・分割理由:王権の政治的再編(香坂王・忍熊王事件後の処分説か、存擬) 【6世紀前半】 ・武社国造の成立(海上国造領域にヤマト王権がくさびを打つ) ・菊麻国造の台頭(南部で独立) 【6世紀後半〜7世紀】 ・海上国造勢力の縮小 ・国造制の再編(上総国成立へ)

(3)系譜モデル
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)

(4)国造別特徴
  • 上海上国造:古墳規模最大、王権との接触最も早い⇒東日本(関東~東北)における物流の拠点

  • 下海上国造:上海上の南側に派生

  • 武社国造:王権が意図的に「中央にくさびを打ち込んだ可能性」⇒東国支配の中核

  • 菊麻国造:地域勢力の自立

(5)ヤマト王権の戦略
① 内的要因(海上国の巨大化) ・養老川流域の首長連合が肥大化 ・内部統治のための分家化 ② 外的要因(ヤマト王権の政治介入) ・香坂王・忍熊王事件後の処分 ・関東の軍事・海上交通の掌握 ③ 地域要因(房総南部の独立化) ・菊麻国造の台頭 ・武社国造の成立(ヤマト政権の強制的配置)
(6)結論に代えて

++++++++++++++++++

2026年5月14日木曜日

相模国司リスト(『続日本後紀』版)→承和7年「相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時

 相模国司リスト(『続日本後紀』版)


1,《承和元年(八三四)正月癸亥【十二】》  「參議從四位上藤原朝臣常嗣爲兼相摸守右大辨如故。」

2,《承和元年(八三四)正月丁卯【十六】》參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上」

3,《承和元年(八三四)正月庚午【十九】》  「是日。任遣唐使。以參議從四位上右大辨兼行相摸守藤原朝臣常嗣爲持節大使。」

4,《承和二年(八三五)八月丁亥【十四】》○丁亥。從四位下滋野朝臣貞主爲兵部大輔。相摸守如故。

5,《承和四年(八三七)六月甲寅【廿三】》 「左衞門督從四位上百濟王勝義爲兼宮内卿。相摸守如故。」

6,《卷八承和六年(八三九)正月甲子【十一】》 「從五位上藤原朝臣貞成爲相摸權守。」

承和7年(840)2月壬申【25】条に見る「壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時の国司

7, 《卷十一承和九年(八四二)正月戊申【十三】》從三位百濟王勝義爲兼相摸守。宮内卿如故。」

8, 《卷十三承和十年(八四三)正月辛丑【十二】》從四位下藤原朝臣長良爲兼相摸權守」

9, 《卷十三承和十年(八四三)六月戊辰【十一】》參議從三位勳六等兼越中守朝野朝臣鹿取の卒年記事 「(弘仁)十年加正五位下。遷兵部大輔。兼相摸介。少將如故」

10,《卷十五承和十二年(八四五)正月戊午【十一】》從五位下紀朝臣眞高爲相摸介」

11, 《卷十五承和十二年(八四五)二月戊寅朔》 「河内國讃良郡人相摸權掾從六位下廣江連乙枚賜姓大枝朝臣」

12, 《卷十五承和十二年(八四五)二月丁酉【廿】》の散位從四位下善道朝臣眞貞卒年記事 「(大同)十一年以明經。改授從五位下。兼任越前大掾相摸權介等」

13,《卷十六承和十三年(八四六)九月壬子【十四】》

從四位下藤原朝臣富士麿爲相摸權守。」

14, 《卷十七十承和十四年(八四七)七月己丑【廿六】》

「參議正三位藤原朝臣綱繼の卒年記事弘仁元年授正五位下。五年四月叙從四位下。職歴内外。兵部大輔。右京大夫。左兵衞督。武藏相摸守。」

15, 《卷十八承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月甲辰【十四】》

參議從四位上橘朝臣峯繼爲兼相摸守

16,《卷十九嘉祥二年(八四九)正月戊辰【十三】》

 「從五位下藤原朝臣直道爲相摸介。」

17,《卷十九嘉祥二年(八四九)九月丙子【廿六】》

「參議從四位下藤原朝臣良相爲兼右大辨。左近衞中將相摸守如故。」


江戸時代、高木善助のメモーー伝道真筆「紫紙金字法華経」が北九州でゴミ扱い

紫紙金字法華経断簡が捨てられずに、保管されたことに関するエピソードが伝わっている。江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残している。

この紫紙金字法華経は太宰府天満宮へ奉納されたという。

=================

紫紙金字法華経断簡ししきんじほけきょうだんかん

「紫紙金字金光明最勝王経」が国分寺経と呼ばれるのに対して、「紫紙金字法華経」は、諸国の国分尼寺に安置されたため、国分尼寺経と呼ばれる。紫紙に金字で『法華経』巻第8・陀羅尼品(だらにほん)第26を書写した断簡で、天平写経を代表する遺品として貴重である。

詳細情報

種別
文化財指定
員数1幅
作者伝菅原道真筆
時代世紀平安時代・11世紀