2026年5月14日木曜日

江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残した「紫紙金字法華経」(国宝)

 この紫紙金字法華経断簡が捨てられずに、保管されたことに関するエピソードが伝わっている。江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残している。

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紫紙金字法華経断簡ししきんじほけきょうだんかん

「紫紙金字金光明最勝王経」が国分寺経と呼ばれるのに対して、「紫紙金字法華経」は、諸国の国分尼寺に安置されたため、国分尼寺経と呼ばれる。紫紙に金字で『法華経』巻第8・陀羅尼品(だらにほん)第26を書写した断簡で、天平写経を代表する遺品として貴重である。

詳細情報

種別
文化財指定
員数1幅
作者伝菅原道真筆
時代世紀平安時代・11世紀

2026年5月13日水曜日

相模国大住郡の大領壬生直広主の窮民に対する行為は、「慈善事業」か?

 1)本稿の問題の所在:大住郡大領外從七位上壬生直廣主の代納は善行か?

《巻9承和7年(840)二月壬申【廿五】》○壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣主。代窮民輸私稻一萬六千束。戸口増益五千三百五十人此善状。假外從五位下。」(『続日本後紀』巻9)

 この記事によると、本来は徴税請負人であったはずの、大住郡の大領壬生直広主は「窮民」に対する共済策として、彼が私物する稲1万6千束を国衙へ代納したばかりではなく、大住郡の戸口が5350人増加したという。この「善状」で、外従七位上であった彼は外従五位下を3階級特進して授けられたという。

2)この善行記事で記述されていない論点はなにか?

まず、第1に、なぜ調を献納できない「窮民」が出現したのか?

第2に、なぜ、大領壬生直広主だけが稲1万6千束を個人的に所有できたか?観点を変えれば、人々は「窮民」、しかし大領だけは富の蓄積さえ可能であったのは、なぜか?

第3に、なぜ、「窮民」は逃亡・離散しないで、その逆に「戸口増益五千三百五十人」であったのか(仮に1戸約20名だとすれば、約260戸)。つまり、大住郡の「窮民」に加えて、「戸口増益五千三百五十人」の食糧や住居などはどのように調達したのか?

第4に、「戸口増益五千三百五十人」は、どこから大住郡に流入してきたのか?逆な見方をすれば、大住郡のみ「窮民」が出現するほどに「凡田有水旱蟲霜、不熟之処」などの事由があり、郡外は、あるいは国外はいかなる稲の生育状態であったのか?

第5に、なぜ、戸口増益五千三百五十人」の流浪人(?)などを、大住郡の大領壬生直広主は本籍地に帰還させなかったのか?

第6に、なぜ、大住郡以外の地で戸口増益五千三百五十人」が発生したのか?

第7に、戸口増益五千三百五十人」の調庸はどうしたのか?それによって一定の公地に加えて、戸口増益五千三百五十人」分の土地の配分は可能であったほど、新たな開拓地が出現できるのか?

第8に、「稲1万6千束」の代納は大住郡の何人分に該当するのか?

第9に、「稲1万6千束」はあくまでも「代納」であり、慈善事業ではなかった。「贈与」ではない以上、翌年の調庸はどのようになったのか? つまり、相模国大住郡大領壬生直広主のメリットは何であっただろうか?仮に、として短銃計算するだけで、相当な利益が生じたはずである。それは暴利をむさぼるというべきか、それとも慈善事業であったか。

第10に、窮民にとって、本年の「稲1万6千束」は翌年の調庸に加算されるのであれば、その利子分を含めて、その翌年は返済できるほど、豊作であったのか?

第11に、なぜ平安京の朝廷側はも徴税請負人を高評価するのか。ここでの問題関心は相模国司と相模国大住郡大領壬生直広主との関係性である。借外五位に推薦されるのも、さらには外從五位下が大住郡大領壬生直広主に授与されるのも、相模国司の推挙であった。

 『続日本後紀』承和10年(843)3月壬子条 

  「相摸国大住郡大領借外從五位下壬生直広主授外從五位下。以去承和七年国司  

  褒挙。今依 格所 授也」

 →佐藤早樹子「八・九世紀の財物貢献と報賞制度」『史観』182冊、23-42頁、2020年

第12に、本稿の筆者の貧弱な知識では、承和10年〈843)当時の相模国司の名を提示できないのは残念である。しかしながら、『続日本後紀』承和13年(846)正月乙卯【13】》には

參議從四位下橘朝臣岑繼爲兼右衞門督。相模守如故。」

とあり、参議・従四位下の官位のままで、新たに中央の朝廷では宮中警備を司る「右衛門府督(長官)」に任命するが、地方官である相模守はその職位を継続するという。

念のために掲出すれば、

1,《承和元年(八三四)正月癸亥【十二】》  「參議從四位上藤原朝臣常嗣爲兼相摸守右大辨如故。」

2,《承和元年(八三四)正月丁卯【十六】》參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上」

3,《承和元年(八三四)正月庚午【十九】》  「是日。任遣唐使。以參議從四位上右大辨兼行相摸守藤原朝臣常嗣爲持節大使。」

4,

《卷十六承和十三年(八四六)九月壬子【十四】》從四位下藤原朝臣富士麿爲相摸權守。」

2, 《卷十七十承和十四年(八四七)七月己丑【廿六】》參議正三位藤原朝臣綱繼の卒年記事弘仁元年授正五位下。五年四月叙從四位下。職歴内外。兵部大輔。右京大夫。左兵衞督。武藏相摸守。」



2,

 3)

ここまで書くと、日本古代史のプロの方々からお𠮟りを受ける前に、『養老令』賦役令の、

「凡田有水旱蟲霜、不熟之処、国司検実、具録申官」

とある記事を末尾に載録しておきたい。

残念なのは、この相模国大住郡大領壬生直広主の具体的報告書は今日まで残されていないので、彼を顕彰できないことである。




なお、壬生直に関する拙論は別には発表したので、関心のある方はご笑覧ください。


 

防人らのパレードは

 律令時代、防人たちは東国で招集され、部領使に引率されて、難波に向かう。

彼らはバラバラに行進したわけではなく、

*2駅ごとに、つまり約32キロメートル(16キロメート×2)

に移動しては、宿泊したと記録にある。

相模国司牒の写真資料の紹介<参考資料、早稲田大学図書館所蔵>

 <参考資料>

相模国司牒



請求記号 Call No.
リ05 03740 0002 0005

タイトル Title

出版事項 Imprint
写, 天平勝寳7[755]
sha

形態 Description
1通 ; 30×49cm

内容等 Notes
重要文化財
東大寺薬師院文書
→造東大寺司 天平勝寳7年5月7日
表装:巻子装(31cm 紙継目裏印:東大寺印)
印記:相摸国印
田中光顕旧蔵

キーワード Keywords
古典籍 / 歴史-日本史(通史・時代史・地方史)

公開者 Copyright

2026年5月12日火曜日

日本の初期横穴式石室墳は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人の墓か?

  井上主税 2023「大和地域の百済系渡来人の様相」『都市と宗 教の東アジア史』(アジア遊学280)勉誠出版

を読む。

 代表作『朝鮮半島の倭系遺物からみた日朝関係』(学生社2014年)の著書を持つ井上主税氏によると、百済漢城期の古墳に関する最近の調査成果が蓄積することに判明したのは、ミニチュア炊飯具(竈・甑・釜・鍋)や釵子(かんざし)を副葬した5世紀後半の日本の初期横穴式石室墳は、楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人の墓であるという。

 その典型は、真弓鑵子塚古墳(真弓鑵子塚古墳発掘調査報告書 : 飛鳥の穹窿状横穴式石室墳の調査、明日香村文化財調査報告書 ; 第7集)や観覚寺遺跡(高取町観覚寺)や清水谷遺跡(高取町清水谷)に代表される、飛鳥周辺に分布する穹窿状(ドーム状)天井をもつ横穴式石室墳であり、それらは東漢氏を代表と する中国系百済人の墓域ではないかと推測する。

 相当に踏み込んだ井上氏の仮説の提出だが、大歓迎したい。

 それまでの行政報告書では、例えば明日香村の場合、

 「渡来系の人々が生活していたとされる大壁住居やオンドル(暖房施設)遺構等も検出されています。また彼らが使用していたとされる陶質土器や韓式系土器等も出土しています。村内からは島庄や岡、奥山といった地域でも確認されており彼らの活動の広さを知ることができます。また檜隈地域には東漢氏の氏寺とされる檜隈寺(大字檜前)や呉原寺(大字栗原)が造営されており、渡来系の人々の住居や寺院、古墳といった遺跡が村内でも数多く確認されています。」真弓遺跡群の調査 | 明日香村 公式ホームページ

とあるだけで、調査者の本意は別として、行政報告である性格上、慎重に仮説の提出を留保している。

「渡来系の人々」までは言及しても、「東漢人」だと断定的に書けないジレンマを示す。もちろん考古学関係者は大人なので、そのあたりは「阿吽の呼吸」で察してはいるはず。

 しかしながら、よもや「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」だとまでは、言い切れないので、それを井上主悦氏が代弁しているだろう。

 井上氏の驥尾に付して、「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」説に私は賛同する。現在の韓国史学会では、百済国に韓国民族以外の人々が混在していたと認定することは、politicalな流れに逆らうことに不可能である。しかしいずれにせよ、百済が民族的にハイブリッドであったと理解することに躊躇してはなるまい。

蛇足の余談)井上主税氏は韓国大邱にある慶北大学校で研修なさったという。大邱方言の使い手であろう、

*<백 번> 맞심더!



 

2026年5月10日日曜日

相模国に関する2,3の覚書き

冒頭でのお願いーー「相模」と「相摸」の表記に関しては、「相摸」を採用したい。しかし、我が貧弱なコンピュータリテラしーを考えると、便宜上「相模」を表記する。

1)相模の読み

  古名は「さがむ」(「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒迩 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」<記歌謡24>。「Sagamu→Sagami」への母音交代は、古代日本語では

神(Kamu > Kami    を例証としたい。

  例えば、神風:Kamu+風>Kami+風 

 最古の例とは断定できないものの、『古事記』中巻に

加牟加是能(かむかぜの) 伊勢能宇美能(いせのうみの) 意斐志爾(おひしに) 波比母登富呂布(いはひもとほる) 志多陀美能(しただみの) 伊波比母登富理(いはひもとほり) 宇知弖志夜麻牟」

などとある。

2)

上記の考察で、「さがみ」の古形は「さがむ」であったとするのが、わが仮説の出発点である。『先代旧事本紀』「国造本紀」に見る「相武国造」もその漢字表記であった。

とすれば、「さがむ」の語義を解明するためには、単語自体をどのように分析すればよいであろうか。賀茂真淵・本居宣長に始まる語源説は十分に知っているが、ここでそのおさらいをするまでもないので、割愛したい。
 そこで思い浮かぶのは、「酒匂川」である。神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は
「Sakawa川」と呼称されている。
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。先の引用からも判明するように、現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「酒匂」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかと不要なチャチャを入れる方がおいでだからである。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、「o+o」→/øː/(o の長母音)の母音へと交代する。したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さか+わ」であると理解できよう。


3)これまでの(1)と(2)の調査を通して、確認をしたかったのは、相模と酒匂の2単語に共通する

*語根 Saka

の取り出しであった。Sakaを語根に持つ語彙として

*さかひ(Saka)+ 合ひ(Afi) → Saka+Fi  →意味(区画をつける、境界を決める)

*仮説:Sakaは「境界」の意。

つまり、 東海道ルートでのヤマト王権の東国進出時に、既知の駿河国と未知の東国の境界に位置する箱根の峠をイメージすると理解する。駿河国側から見れば箱根、相模国側から見れば足柄であった。

 次に考察すべきは、相模=「さがみ」の古形「さがむ」の 「さか+Mu」の「Mu」である。

我々の目には、『日本書紀』の

*「斉明天皇紀2年「嶺、冠以周垣田身山名、此云大

が飛び込む。つまり「」である。

‐「身中化為中山祗〈中 久呂〉(神代紀上。私記乙本)

などで傍証できるように、「さか+む」が古形であると考えて間違いない。

しかしながら、肝心な「む」の意味が皆目わからない。「武蔵(Mu+さし)」との関連も伺わせるが、それも根拠のない話である。

『倭名類聚抄』高座郡の項では、

*大庭郷:於保無波+郷

と読めという。「於保=大」だとしても「無+波=Mu+場」の図式を適用できるとすれば、そのMuは何だろうか。すぐさまの反論として、「NI→Mu」の通音だという古代史家の常套句に出くわすだろうが、それが正解ではないことは、当方も反論を準備した上での「思いつき」である。

後考を俟ちたい。

追伸)信濃の「金刺(サシ)」と「武蔵(サシ)」とは無関係であろうか。







相模国「酒匂川」の「匂」に関するエッセイ

「酒匂川」

神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は

「Sakawa川」と呼称され、
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「さかわ(酒匂)」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかという関連質問に備えて、その対策である。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、古代語において、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、「o+o」→/øː/(o の長母音)の母音へと交代する。

したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さかわ」であると理解できよう。

 ここで不思議なのは、漢字「匂」を使用する漢字語構成となっていることである。木簡庫での用例を探せば、出土した木簡には、

①「川匂廣公○辟秦」(平城京、年代未詳)

②「□□□〔匂郡ヵ〕」(平城京、年代未詳)

として、奈良時代においても漢字「匂」を使用している。この漢字「匂」は果たしてどのように読まれたか万葉仮名を持たないだけに、正解に至る道はない。

正倉院文書に

鎹一用経師等曹司門戸打料

「匂(にょう)」の用例を見る。この漢字は「条・箇・本」などに近い数量語であり、細長いもの・釘類・金具類の単位の意味である。

 ここで視点を変えて、Bernhard Karlgren の中古音を紹介したい(上古音は未記載)。
中古音を反映した『広韻』系では:
  • 匂 :女救切

とあり、

  • 声母:娘母(n 系)
  • 韻:尤韻
  • 声調:去声
であり、「njuHもしくはniəuH」(Hは去声)」と再構できる。したがって、古代日本語では
*呉音「ニュウ」漢音「ユウ」
であったので、当然である。「鎹一匂 」は呉音で「にゅう」と読む。

だからと言って、これで「酒匂」は「シュ+ニュウ(もしくはユウ)」だと読んでほしいと要望できないのも、事実とは異なる。

 ところで静岡県磐田市匂坂(さぎさか)」の現存地名での「匂」を「さぎ」と読む例に関心を振り向けてもよいだろう。地名では「さぎさか、さきさか」と読むが、人名となると「こうさか」とも読むようである。この磐田の地は奈良時代には遠江国府・遠江国分寺・遠江国分尼寺が置かれ、遠江国の中心地であった。

この「サキザカ」の読みが時代をいつまで遡るのかは不明であるが、興味深いのは、「匂」を「コウ」と読む事例である。

 遠江国:「匂+坂」を「こう+坂」と読むならば、「川+坂」の意味

 相模国:「酒+匂」を「さ+こう」

と見れば、「こう」→ k+/øː/(o の長母音)→ Ka+a  → KaWa →KaFa→KaPa の音変化を予想させる。したがって、「こうさか(匂坂)」とあれば、「川+さか(坂)」の語形まで想像させるが、その確証はまったくない。磐田市匂坂は天竜川沿いにあるので、この川と意味は合うが、それは「他人の空似」であるかもしれない。

その一方で、「匂坂」を「さき+坂」と読むならば、

「さき:<しり(後・尻)の対>。前方へ突き出ている部分。先端。転じて前途、将来の意。類義語マヘは目方(まへ)で視覚的に前方の位置。

 ①(前方への)突出部

 ②前方

 ③先頭

 その他」(『岩波古語辞典』559頁)

の意味を持つ。したがって、「さき+坂」であれば、「前方の坂」の意味に解する。

とはいえ、いずれにせよ、相模国「酒匂(川)」の「酒匂」の意味は依然として不明であると言わざるを得ない。
あらためて、「さかわ(川)」の語源をさかのぼれば、かりに「さこう(川)」を出発点としても
 *Sak+/øː/(o の長母音)→ SaKa+a  → SaKaWa →SaKaFa(→SaKaPa)
までの道のりを辿りえる。
 すでに別稿で、Saka(さか)は、
 *古語「坂(酒)迎ひ」(①新任の国司が任国に入るとき、国府の役人が国境まで出迎えて
             饗応(「さかもり(酒盛り)」する儀式
            ②(「酒迎へ」ともかく)長途の旅から帰ってきた人を出迎えて饗
             応すること。」
とあるように、「境界」の意味に解しうる。つまり「境界を出入りすること」の意味である。
したがって、「酒匂」とは「さか+Fa(端)」と理解して、
*箱根の山を越えて、東国の最初の国である相模国に入国したときに、東国の「端に位置する場所」と解して、その場で「さか合ひ」の饗宴が行われた。「酒匂川」はその場を流れる河川と理解したい。だからこそ、歓迎・送迎の饗宴の場にふさわしい「酒+匂い」が漢字化されたと考えるのは、偶然であろうか。

付論)『源氏物語』に「匂宮」が登場するように、「匂(現代語は「におい」、古典語は「にほひ」)」の意味は
 「<二は丹で赤い色の土、ホは抜きんでて現れているとこと。赤く色が浮き出ている意味」(『岩波古語辞典』1014頁)
とある。つまり視覚的に美を称賛するイメージを持つ感じである「匂」が、古代に珍重されたとも想定できないだろうか。
ちなみに、相模国は関東ローム層といわれる赤土の層の上にある。

 おっと、忘れるところであったが、相模国足下郡に
*駅家郷
があった。『延喜式』に記載する「小総駅」がそれであるとしてよいだろうが、酒匂川口付近に位置したと考えて良い。『大和物語』144段「今は限りの門出なりける」は、在原業平の子が東下りをするときに、この駅家を通過している。
 我々の推測が的外れでないならば、ここ駅家で
*「さか合ひ」の歓迎・送迎の饗宴
が実施されたとみて良いのではないだろうか。



 





仮に「こう+坂」と分析できるならば、この「こう」は


<参考文献>

磐田市教育委員会文化財課 2014 『特別史跡遠江国分寺跡発掘調査概報』磐田市教育委員会文化財課