2026年3月15日日曜日

下野国「三家」は「ミヤケ」とだけ読むべきか?

 ある古代史研究者が最近発表された論文の中で、

「ミヤケは屯倉・三家・三宅」

とも表記されるという前提で、自説を展開された。

私の仮説は、3つの用字の中で

*三家は「ミヤケ」とも読み、「ミ+の+べ」とも読む

である。なるほど当然な主張として

*「大伴家持の『家』をヤカと読めば、三家もミヤカと読める」

そうであれば、古代史家の特有用語「通音」で「ミヤカはミヤケ」だと。たしかに「ミヤケ(ケの乙類) MIyaK ëであり、「ミ+ヤカ(家もしくは宅)」だとする通説に異論を唱えるものではない。

しかし、もう一つの読みの可能性をあえて提出したい。『倭名類聚抄』上総国の条に

周淮郡  : 山家[也万以倍(iF ë)

とあり、また、南房総市千倉町には日本で唯一、料理の神様を祀った高家(たかべ)神社もある。つまり

Takai+iF ë⇒Taka+iF ë⇒Taka+B ë

であると考える。そうであれば、

*三家=ミ(御・接頭語「ミ Mi」)+ B ë

⇒ 道 ミチ(Mi +ち)

⇒ 宮 ミヤ(Mi+や)

⇒ 「ミ(Mi)+ 一音節語」の図式

と読んでも奇妙ではない。

朝鮮半島南部の勒島遺跡と楽浪郡との交易ルート

   楽浪郡との交易ルートの復元

 1. 交易ルート復元の根拠となる考古資料

(A)弥生土器の分布(倭 → 勒島)

勒島遺跡では弥生中期前半〜後半の大量の弥生土器が出土

九州北部系が中心、山陰系も混在

→ 倭の海民が定期的に往来した証拠


(B)無文土器・三韓土器(半島 → 倭)

壱岐・北部九州の遺跡から無文土器が出土

→ 半島側の人々の移住・往来を示す


(C)楽浪土器・中国銭貨(楽浪郡 → 三韓・倭)

勒島遺跡では楽浪土器と中国銭貨が日常生活域から出土

西日本の海村でも同様の銭貨が多数出土

→ 楽浪郡から南下する交易ルートの存在


D)北部九州系漁具(倭の海民の移住)

勒島遺跡からアワビおこし・結合式釣針など北部九州特有の漁具

→ 倭の海民(倭の水人)が勒島に移住し、交易を担った


2. 時期別にみた交易ルートの変化

Ⅰ期:弥生前期末〜中期前半(勒島 I期)

倭(北部九州) ↔ 勒島が中心

主な動き:倭人の移住・海民ネットワークの形成


Ⅱ期:弥生中期後半(勒島 II期)

交易範囲が拡大

倭 ↔ 勒島 ↔ 三韓(加耶)

山陰地域もネットワークに参加


Ⅲ期:弥生後期前半

楽浪土器・中国銭貨が南下

倭—三韓—楽浪郡の三者が直接つながる

→ 楽浪郡との政治的・経済的交渉が本格化


3. 交易ルートの実態:何が運ばれたのか?

4. 総合結論:楽浪郡との交易ルートの姿

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していた。

倭の海民が勒島に拠点を築く

勒島が「中継港」として機能

三韓(加耶)が鉄と物流のハブ

楽浪郡が中国文明の供給源

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していた。





平壌市楽浪区域貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」の「レ」形符号

    漢代の木簡や竹簡などに「返り点 」が見いだせることは、居延漢簡・里耶秦簡などの出土簡牘で周知の事実である。

*「/」「レ」「∨」「・」などの符号

さて、平壌市楽浪区域の貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」にも、字の右下に「レ」形の符号が付された簡があると報告されている。

「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とは、前漢・初元4年(紀元前45年)に作成された楽浪郡の戸籍木簡(木牘)である。漢四郡支配下の朝鮮半島で実際に運用されていた行政文書に見られる「レ」形の符号は確かに「返り点」と認定するには、その場所が不自然である。

文書フォーマットの基本構造

前漢スタイル標準的書式:

1. 年号(初元四年など)

2. 郡名(楽浪郡)

3. 県名(○○県)

4. 戸数・人口

5. 身分分類(吏民・庶人など)

6. 署名(吏の名前)

7. 校記(レ形など)


2026年3月14日土曜日

竈門神社と最澄

福岡県太宰府市内山にある竃門神社の創建に関する私案はない。通説のように、その創建は8世紀後半に遡ると考えて良いのではないだろうか。

現祭神は玉依姫命・神功皇后・応神天皇。同社は『延喜式』10神祇10/神名下/に、「明神大」と記載され、全国に点在する名神神社の一つである。

 本来の竈神社の祭神は玉依姫ではなかっただろうか。

ただし、この竈門神社は下宮であり、社殿は上宮が宝満山山頂に、かつては山中の捌ごうっめ付近に中宮もあったが、明治に廃絶したという。

<資料①>『叡山大師伝』延暦22年閏10月23日条

<資料②>『扶桑略記』延暦22年閏10月23日条の竈門山寺、

     承和7年4月丙寅(21日)条には、竈門神社が従五位下から従五位上に昇叙した

     とある。

<資料③>『日本紀略』寛平8年9月4日条

     従四位上竈門神に正四位上を授く(大日本史料、1編2冊351頁)

この神社を有名にした要因の一つが、延暦22年閏10月23日の最澄の

*「僧最澄、遣唐使に随行して大宰府竈門山寺に到り、ここで渡海の無事を祈って薬師仏像を造り、また法華経など講説する。ついで翌年七月、遣唐使第二船に乗り、中国明州に到る。」(『太宰府市史・古代資料編348頁)

であろう。

ここでは、宝満山竈門山寺と修験道界・山伏信仰に関しては言及しないで、文久3年 (1863)に竈門山寺 (大山寺)か ら聖護院に提出した 『筑前国竈山末山同派修験名書帳』によると, 山内に 26坊, 筑前一円に37の 組下山伏を擁 していたとだけ紹介しておきたい。

本稿の狙いは、竈門山寺で、なぜ渡海の無事を祈ったかを究明することにある。



<参考資料>

ちなみに、筑紫国の名神大社は次の通りである。

宗像郡:宗像神社(三座) — 大社・名神大社、織幡神社 — 大社・名神大社

那珂郡:筥崎宮(八幡大菩薩筥崎宮) — 大社・名神大社・一宮、住吉神社(三座) — 大社・名神大社・一宮

糟屋郡:志加海神社(三座) — 大社・名神大社、

御笠郡:筑紫神社 — 大社・名神大社、 竈門神社 — 大社・名神大社

下座郡:美奈宜神社(三座) — 大社・名神大社


<参考文献>

森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」『英彦山と九州の修験道』(山岳宗教史研究叢書一三)名著出版 一九七七年、

 中野幡能編『筑前国宝満山信仰史の研究』名著出版 一九八〇年、

 森 弘子『宝満山歴史散歩』葦書房 一九八一年、

小田富士雄編『宝満山の地宝―宝満山の遺跡と遺 物―』太宰府天満宮文化研究所、1982年 

小田富士雄 ・ 石松好雄 ・ 小西信二『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』財団法人太宰府顕彰会、1984年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡』(太宰府市の文化財第12集)太宰府市教育委員会、1989年、

小西信二 「宝満山祭祀遺跡群」『太宰府市史』考古資料編 太宰府市、1992年

森 弘子「大宰府竈門山寺考」『山岳修験』第三〇号 日本山岳修験 学会 二〇〇二年、

森 弘子「宝満菩薩の誕生」『山の考古学通信』№一七 二〇〇五年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群4』(太宰府市の文化財第79集)太宰府市教育委員会 2005年、

山村信榮「考古学から見た 太宰府宝満山」『山の考古学通信』№17、2005年、

山村信榮「大宰府における国境祭祀と宝満山 ・ 有智山寺」『仏教芸術』282号、毎日新聞社 2005年

山村信榮「発掘調査からみた宝満山について」『都府楼』第39号、財団法人古都大宰府保存協会 2007年、

 岡寺 良「宝満山近世僧坊跡の調査と検討―山岳寺院の平面構造調査―」『九州歴史資料館研究論集』33、2008 年、

森 弘子『宝満山の環境歴史 学的研究』財団法人大宰府顕彰会、2008年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群6』太宰府市教育委員会、2010年、

森 弘子「宝満山―大宰府鎮護の山―」『山岳信仰と考古学Ⅱ』同成社、2010年

 時枝務 「筑前宝満山における山頂祭祀の成立 」『立正大学文学部論叢 』2013年

菅谷文則 - 「山岳信仰遺跡としての宝満山 (国内山岳信仰遺跡における位置付け)」『太宰府市の文化財: 宝満山総合報告書』 2013年


2026年3月9日月曜日

紹介、森公章氏の力作「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」⇒素晴らしいリスト

 森公章氏の著「唐物・南島産品と小野宮流・御堂」に掲載された「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」は素晴らしい労作である。多くの方々に知っていただきたいので、あえて転載する。

誤りが多々あるので、必ず原論文にあたって確認してほしい。

 正暦2・1・27任:大弐藤原佐理*〜長徳1・10・18停任 

長徳1・10・28任:大弐藤原有国#〜長保2 (長徳2・4・24任:権帥藤原伊周*〜長徳3・4・8)

 長保3・1・24任:権帥平惟仲#〜寛弘1・12・28停任

 寛弘1・12・28任:大弐藤原高遠*〜寛弘6・8・14停任 

寛弘7・2・16任:大弐平親信#〜長和3・11辞任 

長和3・11・7任:権帥藤原隆家*〜寛仁3・12辞任

 寛仁3・12・21任:権帥藤原行成#〜寛仁4・11辞任

 寛仁4・11・29任:権帥源経房#〜治安3・11・2薨 

治安3・12・15任:藤原惟憲#〜長元2・5・4応召 

長元2・1・24任:権帥源道方#〜長元6・12辞任 

長元6・12・30任:権帥藤原実成〜長暦1・10停任(→2・1:除名) 

長暦1・8・9任:権帥藤原隆家*〜長久2

 長久3・1・29任:権帥藤原重尹〜永承1・2・26停任 

永承1・2・26任:権帥藤原経通*〜永承5・5辞任 

永承5・9・17任:大弐源資通〜天喜2・11・28辞任 

天喜2・12・6任:大弐高階成章#〜康平1・2・16薨

 康平1・4・25任:権帥藤原経輔〜康平6・2・27停任

 康平6・2・27任:大弐藤原師成〜治暦3・2・12辞任

 治暦3・7・1任:大弐藤原顕家*#〜延久3・3辞任 

延久3・4・9任:大弐藤原良基〜承保2・④・19薨

 承保2・6・13見:大弐藤原経平*&〜承暦3カ 

承暦4・1・28任:権帥藤原資仲*&〜応徳1・4辞任 

応徳1・6・23任:大弐藤原実政〜寛治2・?辞(→11・28:伊豆配流) 

寛治2・8・29任:権帥藤原伊房〜寛治6・7・18入洛

 寛治6・9・7任:大弐藤原長房〜嘉保1・?入洛

 嘉保1・6・12任:権帥源経信〜承徳1・①・6薨 

承徳1・3・24任:権帥大江匡房&〜康保4・1得替 

康保4・1・23任:権帥藤原保実&〜3・4薨

 康保4・6・23任:権帥藤原季仲*&〜長治2・11・1停任

 嘉承1・3・11任:権帥大江匡房&〜天永1 

天永2・1・23任:大弐藤原顕季&〜永久3 

永久4・1・30任:権帥源基綱〜永久5・11・30薨

 永久5・12・30任:権帥源重資〜保安2・⑤辞任

 保安2・6・26任:大弐藤原俊忠〜保安4・7・9薨

 保安4・12・20任:大弐藤原長実&〜大治3・1・24得替 

大治3・1・24任:大弐藤原経忠〜長承1カ 

長承2・1・29任:権帥藤原長実&〜8・19薨

 長承3・2・22任:大弐藤原実光〜保延5・1得替

 保延5・1・24任:権帥藤原顕頼&〜永治1・12・2辞任

 永治1・12・2任:大弐平実親〜天養1・1・24辞任

 天養1カ:大弐藤原重家&〜久安4カ 

久安5・3・18任:大弐藤原清隆&→8・2:権帥〜仁平3・⑫・23辞任 

仁平3・⑫・23任:権帥藤原忠基〜保元1・7薨 

 保元1・9・17任:大弐藤原忠能〜保元3・3・6薨 

保元3・3・13任:藤原季行〜8・10停任

 保元3・8・10任:大弐平清盛&〜永暦1・12・30辞任

 永暦1・12・30任:大弐藤原成範〜応保2・4・7辞任 

応保2・4・7任:権帥藤原顕時&〜長寛2・1・1辞任

 長寛1・2・8任:兼大弐藤原永範〜仁安1・7・15兼任停任

 仁安1・7・15任:大弐平頼盛&〜仁安3・11・28解却

 仁安3・12・13任:大弐藤原信隆〜承安1・12・8止

 承安1・12・8任:大弐藤原重家&〜安元2・6・17出家

 安元2・12・5任:大弐藤原親房(→改名:親信)〜治承3・11・17解官 

治承3・11・19任:兼権帥藤原隆季〜寿永1・3・26辞任 

寿永1・3・26任:大弐藤原実清&〜寿永2・11・28解官 

元暦1・3・27還任:大弐藤原実清&〜12・21出家 

《文治1・7・28:源頼朝の使中原久経・藤原周平が鎮西の事を沙汰する》

 文治1・10・11任:兼権帥藤原経房&〜建久1・1・24辞任 

《文治2・12・10:藤原(天野)遠景を鎮西九国奉行人とする》 

(備考)人名の後の記号は次の通り。*=小野宮流またはそれに近い立場の人物、#=摂関家に 近侍する者またはそれに近い立場の人物、&=院近臣。


<補記:小生も細々と藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」を作成していたが、この森公章氏の力作を知り、早々と手じまいするとともに、我が遅々と進まない調査に比して、森氏のお仕事の迅速さに驚嘆した。

下野国府跡から発見された木簡「陳廷荘」は唐人か?

遣唐使は630年の犬上三田耜・難波薬師恵日らの使節を第1回として、 894年に停止されるまで、20回の任命があった。その中で746、761、 762、894年の使節は派遣を停止したので、現実には16回派遣されたと考えておきたい。

今、ここで取り上げたいのは、その回数ではなく、遣唐使のように日本から唐へ向かった日本人が存在したように、その逆ルートをたどった、つまり唐から日本へ向かった唐人がいたのではないかという問題関心である。

 この関心に関しては、すでに鈴木靖民氏が、

「735年の袁普卿、761年の沈惟岳、徐公卿などがよく知られる。下野国府(栃木県)出土木簡に 見られる同国に員外史生として赴任していた陳廷荘も唐人の可能性がある。736年、唐楽を奏す る皇甫東朝とともに来た皇甫昇女は唐人女性である。また『唐大和上東征伝』などに知られる通 り、754年、遣唐使にともなわれて来日した唐僧は鑑真と法進、思託以下の弟子、高僧、優婆塞 たちが余りにも有名である(葛継勇『《続日本紀》所載赴日唐人研究』〈浙江大学博士学位論文〉 2006年など)。なかには安如宝のような西域(ブハラ)人、軍法力のような崑崙(東南アジア) 人の系統も含まれていた。それ以前、渡来して東大寺大仏開眼にも関与したバラモン(インド) 僧菩提遷那や林邑(ベトナム)僧仏徹もいる。736年の遣唐使の帰国に従った前述の李密翳は波 斯(ペルシャ)人である。彼らは直接母国から来たのではなく、唐の長安や洛陽、揚州、広州な どに来住して活動していた唐社会の異国人である。」

と指摘しており、確たるエビデンスはないものの、「陳廷荘」唐人を主張する鈴木説に賛同したい。

 これまで渡来人であるとの理解では、諸氏の認識は一致しており、「陳廷荘」の唐人説を支持する方々が大半である。

 私の観点からすれば、下野国府跡から発見された木簡「陳廷荘」が「員外史生」として下野国の国衙で勤務していた事実を念頭におけば、

*仮説:下野国に移住した朝鮮系渡来人の中に、唐国出身の唐人が混入していた可能性

を想定しても良いのではないだろうか。

この仮説にも確実なエビデンスなどはない。したがって、大胆に想像の翼を広げた妄説に近い。

 前述の鈴木靖民氏も慎重に筆を運び、軽挙な考えを提示していないので、

①唐人が唐国から遣唐使船などで日本に渡来した

と想定するのが常識的で妥当だろう。しかし、仮にそうだとすれば、たとえ「員外」だとしても「史生」の官職を得るには「お雇い外国人」では無理があったのではないかという前提で、わが仮説を立てている。わが仮説が1%の可能性を有するならば、

*新羅軍とともに、高句麗国を攻撃した唐軍に従軍した兵士の一人

*朝鮮半島に存在した楽浪郡に居住していた中国人であった一人

を視野に入れて検討を進めてはどうだろうか。

 私の仮説は「朝鮮系唐人」の存在である。確かに一顧だにすべき仮説ではないものの、いかなる理由かは不明であるが、朝鮮半島にルーツを持つ唐人が高句麗人・新羅人・百済人の中に紛れて日本に渡来して、その一団が下野国に移住したと想像したい。後考を待つ。

 




URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK006074000306
木簡番号4140
本文□〔去ヵ〕上○員外史生陳廷荘
寸法(mm)(214)
(29)
厚さ4
型式番号081
出典下野国府跡7-4140(日本古代木簡選・木研6-74頁-3(6))
文字説明「員」は「厶」の下に「貝」の異体字。
形状上欠(折れ)、下欠(腐蝕)。
樹種 
木取り板目
遺跡名下野国府跡
 
所在地栃木県栃木市田村町
調査主体栃木県教育委員会・(財)栃木県文化振興事業団
 
発掘次数18
遺構番号SK023
地区名44区
内容分類文書
国郡郷里 
人名陳廷荘
和暦 
西暦 
遺構の年代観 
木簡説明 
DOI

2026年3月5日木曜日

天平15年(741)10月8日の韓国人とは?

 天平15年10月8日に「千手経一千巻」を写経する「写経所解 申奉写経并装潢等送紙事」の記述がある( 正集9断簡11裏  2/341~343)

<資料①>
写経所解 申奉写経并装潢等送紙事
合奉写千手経一千巻
 惣送上紙一千八十三巻〈九百卅二巻別十七枚継 百五巻別十六四十六巻別十五〉
 所継紙一万八千二百十四枚
  百五十八枚、空并破料、
  一万六千八百七十張、正用料、
 残一千一百八十六枚
  六百六十八枚、依政所宣、用雑経卅五巻料、
  百六十枚、依犬甘命婦宣、用法花一部料、
  五十四枚、蔵人秦万呂借用弥勒経三巻、千手経一巻料、
  七十枚、借用雑経七巻料   知小野令史
  二百卅四枚、見残、〈即見充二百廿九張、法花五十部料、十五年六月八日受装潢治田石万呂
 自天平十三年六月廿三日至七月廿九日送紙百廿六巻〈卅巻別十七 六十巻別(十六巻カ) 卅六巻別十五〉合
二千十枚
  八月送五十八巻〈別十七〉     合九百八十六枚
  九月送廿九巻〈別十七〉      合四百九十三枚
  十月送六十八巻〈別十七〉     合一千百五十六枚
  十一月送五十九巻〈別十七〉    合一千三枚
  十二月送十三巻〈別十七〉     合二百廿一枚

 十四年二月送百十二巻〈百巻別十七十二巻別十七〉  合一千八百九十二枚
  三月送八十七巻〈七十八巻別十七九巻別十六〉   合一千四百七十枚
  四月送五十九巻〈別十七〉     合一千三枚
  五月送七十一巻〈別十七〉     合一千二百七枚
  自六月至七月送八十六巻〈六十五巻別十七 十四巻別十六 七巻別十五〉 合一千四百卅四枚
  自十月至十(一脱カ)月送七十一巻〈六十一巻別十七十巻別十六〉 合一千四百九十七枚
  十二月送六十四巻〈六十一巻別十七三巻別十五〉 合一千八十二枚
 十五年三月送八十二巻〈別十七〉   合一千三百九十四枚
  四月送九十八巻〈別十七〉     合一千六百六十六枚
以前、起十三年六月廿三日至十五年四月、奉写経并用紙等、顕注如前、以解、
             天平十五年十月八日韓国人成」

史料情報

紙質】
楮紙
【紙数】
2
【紙高|紙幅】
27.4|23.7/40.3

本稿の問題の所在は、はたしてこの「韓国人」とはだれか、にある。

 資料に「数筆墨注文」とあるので、千手経一千巻写経に必要な物品を請求するための造東大寺司に対する注文書であると想定される。それゆえに韓国人は写経生であるらしいとは見当がつく。

「韓国人」の用例は、これ以外にも

<資料②>

(続々修27ノ4断簡2  8/53~54)

始天平十四年二月五日至于廿九日装潢等送紙事

 合一百四十四巻〈白百十二巻■■■■■ 黄卅二巻〉

  枚一千七百四十七〈千百三枚千手経料 六百四十四雑経卅五巻料〉・已上白紙

  黄六百四十枚

三月送一百六十巻〈八十三巻白■■■■■ 七十七巻黄〉

 白紙一千四百十一枚・既千手経

 黄紙一千五百四十枚・一切経

  右、件充黄白紙状、具顕注如前、以申、

             天平十四年三月廿九日・韓国人

(異筆)「四月送黄并白紙一百三巻〈四十九巻巻(マヽ)黄 五十四巻白)

            四月廿九日勘人成

                  知川原」


などでも確認できる。

<資料③>

〈十月二日題了〉巽集百喩(縁カ)経十巻〈用百七十八 破一空一〉 〈三日上〉〈《十月二日題了》〉无尽意菩薩経三巻〈用五十八〉

〈題了〉安楽集二巻〈用六十四破一〉   〈三日上日〉三弥底論三巻〈用四十二〉

〈題〉宝雨経五巻〈用九十二〉   〈題了〉僧羅刹集経三巻〈用九十一〉

〈三日上〉大樹緊那羅王←経経(衍カ)四巻〈用八十〉 〈題了〉阿毘曇甘露味論二巻〈用五十二空二 破一〉

〈三日題了〉三法度論二巻〈用五十八破一 ■■■〉  〈三日上〉菩薩度人譬喩如巧乳母経二巻〈用卅一空二〉

〈三日上〉道神足无極変化経第下巻〈用廿九〉〈三日上〉勝思惟梵天所問経第六巻〈用廿〉

〈三日上〉菩薩界本一巻〈用廿二〉    〈三日上〉梵志波羅延問種経一巻〈用八空一〉

〈三日上〉萍沙王五願経一巻〈用九〉  〈三日上〉摩鄧女解形中六事一巻〈用四空一〉

〈題了〉立世阿毘曇一帙〈十巻 用百九十七破一〉 〈三日上〉大孔雀王呪経第上巻〈用廿三〉

〈十月二日題了〉因果経五巻〈用百十六〉   〈三日上〉頼宅和羅王←経一巻〈用十三〉

〈三日上〉梵志阿颰経一巻〈用十三巻〉  〈三日上〉信力入印法門経四巻〈一帙五巻〉〈用九十二 第四巻先充〉

〈十月二日題了〉別訳雑阿含経〈第二帙〉第六巻〈用廿五〉 〈三日上〉陀羅尼雑呪経第一第二第三巻〈用五十九〉

合六十八巻 用紙壱仟参佰漆拾漆枚〈空六 破四〉

 右、経充秦大床、勘如前、

              九月廿日韓国人


                  知大伴民」

これ以外にも「韓国人」の用例は散見する。この3文字の漢字を

仮説1:韓(姓)+国人(名)<朝鮮半島出身>

仮説2:韓(姓)+国人(名)<中国大陸出身>

仮説2:韓国(国名)+人(一般名詞の「属性・所属・地域・文化」を示す語と結びつくときの「人」)

古代朝鮮半島において、「金・李・朴」などは大姓であったものの、「韓」はそうでなかっただけに、可能性として仮説1であれば、関係する人名は多くない。







が、興味深いのは、同じ「カラ国人」と呼んだと思える資料に「辛国人」がある。

「写官一切経所告朔解案」に見える、たとえば次の史料である

<資料④>

「 写官一切経所解 申告朔事 合請物紙一百七十四張一百張敷紙并式下纏敷料 卅四張檻子間塞料 筆墨直銭一千七百文筆十七墨十七料便充経師等 筆卅箇 墨廾九廷 紙刀子四柄既充装 堺筆十一箇便充装 布三丈一丈手巾二條料 二丈筆拭卅條料 辛五合 机卅六前廾六前従薬師寺来 廾六前充堂 十前従官来 卅八合 由加二口 一口堂 一口経師息所 杓二柄 (中略) 十前充写疏所 以前、七月以往行事、顕注如前、以解、 七月廾九日王国益 辛国人成」

とあり、どうやら「韓国人」と「辛国人」との併用を想定すると、同一の読み「カラ+国人」であったと思われる。

 そこで栄原永遠男氏の論文(「 写経所の施設とその変遷」)などを参照しながら、 天平15年前後の写経事業を編年体で取り上げたリストが下記の<資料5>から<資料13>である。

<資料5>天平11年の写経事

①百部法華経八〇〇巻、

②福寿寺大般若 経六〇〇巻(天平11年3月頃か)

③五月一日経の大般若経六〇〇巻(以下、五月大般若経)


<資料6>天平14年6月頃の写経事業

天平14年6月ごろから天平19年末まで存在した金光明寺写一切経所は福寿寺写一切経所と合併したのち、五月1日経や千手経1000巻の写経がスタートし、千手経は天平15年春に終了したらしい。同時に5月1日経のみならず偽疑経、録外経などの写経も始まった。


 この資料群からして、「韓国人」の勤務場所は

天平13年3月頃であれば、福寿寺写一切経所

天平十五年十月八日時であれば、金光明寺写一切経所

であったと推定されるだろう。

さらに天平十五年十月八日時の「韓国人」の勤務内容は、

*天平15年4月以前であれば、一切経

*天平15年4月以降であれば、聖武天皇発願の大官一切経

のそれぞれ写経に従事した専門書であった。

本稿では、具体的な人名まで解明できなかった。しかし誤りを恐れず私見をいえば、

*新羅系渡来人

だとは想像できる。一歩、想像の世界に足を踏み入れて、具体的な人名まで特定できそうであるが、ここでは控えておきたい。

<参考論文>

*福山敏男「奈良朝に於ける写経所に関する研究」(福山敏男著作集2『寺院建 築の研究』中、所収、中央公論美術出版、1982年。初出は1932年)、

*栄原永遠男「初期写経所に関する二三 の問題」(同『奈良時代の写経と内裏』所収、塙書房、2000年。初出は1984年)

*山下有美『正倉院文書と写 経所の研究』第1章第1節(吉川弘文館、1999年)など

以下は、参考情報。

<資料7>天平勝宝6年~7歳

大皇太后藤原宮子の菩提を 弔うための連続して行われた写経事業

①梵網経一〇〇部二〇〇巻、

②法華 経一〇〇部八〇〇巻、

③新旧華厳経各五部七〇〇巻)、

天平勝宝7歳の大納言藤原 仲麻呂の宣による二千巻経

④華厳経一〇〇〇巻

⑤観世音経一〇〇〇巻



<資料8>天平宝字2年の大規模な写経事業

天平宝字2年(合計3600巻)

①6月16日の紫微内相宣による金剛般若経一〇〇〇巻(千巻経)

②7月4日の同宣による千手千眼経一〇〇〇巻・新羂索経一 〇部二八〇巻・薬師経一二〇巻、合計一四〇〇巻(千四百巻経)

③8月16日の同宣による金剛般若経一二〇〇巻(千二百巻経、 後金剛)


<資料9>

「写千巻経所銭并衣紙等下充帳」( 13 ノ 257 ~ 260 、 260 ~ 265 、 265 ~ 266 、 371 ~ 373 、 383 ~ 384 )

 ①(6月 22 日条)又下手巾条五条堂料 二条曹司料( 13 ノ 258 ) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等納帳」(4ノ 278 ~ 280 、未修、 13 ノ 252 ~ 253 ) ②九月三日自宮来綺廾六丈一尺使宮門日野麻呂 即下紙屋受能登装(未収) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等下充帳」( 13 ノ 364 ~ 371 、 267 ~ 268 、 269 ~ 283 )

 ③(7月9日条)又下手巾伍条四条堂料充 一 十 条東曹司料充( 13 ノ 366 ) ④(8月4日条)四日下紙一万一百張(中略) 五千五十張四千百 九 張紙屋作八百廾一張麻紙七十張穀 付宍人百村又充凡紙五十張端継料 五千六十張四千三百卅一張紙屋作穀紙六百七十九張七十張綜( 13 ノ 269 )凡紙五十張端継料付綾部忍国 (下略) 「後金剛般若経料雑物収納帳」( 14 ノ 71 ~ 80 ) 

<資料10>天平宝字四年の一三五部経の写経事業 

 天平宝字四年正月十一日に太師藤原仲麻呂:一百卅五部経 (法華 経・金剛般若経・理趣経各四五部、合計四五〇巻)の「御願経」の写経


<資料11>天平宝字四年の一切経の写経事業 

太師藤原仲麻呂の宣にある一切経3433巻の写経事業 (「坤宮官紙墨筆及雑物送文〈太師恵美押勝宣〉」続々修1 ノ6④、 14 ノ 30 8 )。


<資料12>天平宝字4年6月7日)周忌斎一切経の写経事業

 天平宝字四年六月七日に光明皇太后が崩御し、7月26日 の七七斎に向けて称讃浄土経一八〇〇巻の写経が開始。(続々修14 ノ 403 ~ 404)


<資料13>天平宝 字四年八月三日

光明皇太后の一周忌にむけて周忌斎一切経の写経事業(「後一切経料雑物納帳」続々修2 ノ6、 14 ノ 42 1 0 ~ 44 、 15 ノ 85 ~ 8 0 7 、 14 ノ 44 2 ~ 44 )、

 天平宝字5年3月上旬、五三三〇巻の書写了。

などをリストアップできよう。