2026年9月6日日曜日

「4日で動く国家」 ――『続日本紀』にみる平城京・大宰府間の情報伝達と律令国家の危機対応

 

「4日で動く国家」

――『続日本紀』にみる平城京・大宰府間の情報伝達と律令国家の危機対応――

はじめに――問題を「通信速度」から「国家の時間」へ

古代律令国家における中央と地方との情報伝達について考えるとき、しばしば問題となるのは、「何日で情報が届いたのか」という通信速度である。

たしかに、平城京と大宰府との間には約640kmもの距離があり、その間を緊急情報が数日で移動したとすれば、それは古代国家の交通・通信能力を考えるうえで興味深い。

しかし、ここで一つの根本的な疑問が生じる。

本当に問題なのは、640kmを何日で走ったかなのであろうか。

たとえば養老4年(720)に大宰府から隼人の反乱と大隅国守殺害が奏言され、その4日後に朝廷が征隼人軍の大将軍・副将軍を任命した記事がある。

この二つの日付だけを取り出せば、

2月29日 大宰府奏言
3月4日 征隼人軍の大将軍・副将軍任命

となる。ここから「大宰府から平城京まで4日で情報が伝達された」と考えることができる。しかし、そのような理解には重大な問題がある。

2月29日の奏言が大宰府をいつ出発したのか。
いつ平城京に到着したのか。
太政官でいつ奏聞されたのか。
誰がその内容を検討したのか。
天皇の裁可はいつ行われたのか。
将軍の選定にはどの程度の時間を要したのか。
さらに、3月4日に将軍を任命したとして、実際の軍隊はいつ九州へ向けて出発したのか。

『続日本紀』は、この過程を行政日誌のようには記録していない。したがって、

「4日で情報が届いた」

と、

「2月29日の奏言を受け、4日後の3月4日に朝廷が派兵を決定した」

とは同じことではない。本稿では、ここを出発点とする。問題は古代の使者が一日に何km走れたかではない。むしろ、

なぜ律令国家は、地方で発生した反乱・挙兵について、数日のうちに中央の軍事的意思決定を成立させる必要があったのか。

さらに、

なぜ『続日本紀』は、こうした短い時間間隔をもって国家の危機対応を記録したのか。

という問題である。ここには、古代律令国家が自らをどのような国家として表現しようとしたのか、という問題が潜んでいると考える

1 720年隼人反乱――「4日」という数字

養老4年(720)、南九州で隼人が反乱し、大隅国守陽侯史麻呂を殺害した。『続日本紀』では、2月29日に大宰府からその事実が奏言され、3月4日には大伴旅人が征隼人持節大将軍に、笠御室・巨勢真人が副将軍に任命される。二つの日付の差は4日である。

この事例は、古代律令国家の情報伝達能力を考えるうえで重要な材料である。しかし、ここで「4日」という数字を直ちに通信時間とみなしてはならない。2月29日という日付は、少なくとも史料上は大宰府が奏言した日を示す。それは、

反乱発生の日

とも、

大宰府から奏言が実際に出発した日

とも、

平城京に奏言が到着した日

とも必ずしも同一ではない。さらに3月4日は、

征隼人軍の大将軍・副将軍が任命された日

である。これは、

軍隊がその日に大宰府へ向けて出発した日

ではない。

ここで、我々が強調したいのは、「情報伝達」「意思決定」「軍事動員」という少なくとも三つの時間が存在することである。したがって、2月29日から3月4日までの4日間を丸ごと「通信時間」とすることには慎重でなければならない。

2 4日間に何があったのか

ここで問題を逆転させる必要がある。通常の説明では、

「4日しかかからなかった。律令国家の通信制度は優秀だった」

となる。しかし、むしろ問うべきなのは、

「4日間に何があったのか」

である。

仮に大宰府からの奏言が非常に迅速に平城京へ届いたとしても、その後には少なくとも、

  1. 奏言の受領
  2. 内容の確認
  3. 政治・軍事上の意味の判断
  4. 将軍の選定
  5. 軍事命令の発出
  6. 節刀などの準備
  7. 動員命令
  8. 兵員・武器・兵粮等の準備
  9. 実際の出発

という行政・軍事上の過程が存在したはずである。誰が考えても、すべての手続きが4日目もしくは4日間に行われたとは限らない。しかし重要なのは、『続日本紀』がそれらをほとんど記録せず、最終的な国家意思だけを日付とともに提示していることである。ここに『続日本紀』の史料としての性格が現れると喝破したい。『続日本紀』は、現場の行政処理を一分一秒単位で記録する「行政ログ」ではない。そこに記録されるのは、国家にとって重要な事件と、その事件に対する国家の決定である。したがって、我々が見る「4日」という数字は、古代国家の実務時間そのものではなく、国家が危機に対応した時間を、正史が圧縮して示したものである可能性を考えなければならない。換言すれば、国家の「理想的な反応速度」を演出する時間であったと考えたい。


3 「誰が、何のために、4日を必要としたのか」

この問題設定を立てると、一気に「通信速度」から「国家の時間」へのパラダイムシフが求められる。 従来の古代交通史が陥りがちだった「1日何km走れたか」という純技術的・物理的な論議を切り捨て、「受領・判断・動員」という行政・軍事プロセスを含めた「対応時間」として再定義を可能にするからである。つまり、「4日で通信できるか」という問いは、主として交通技術の問題である。しかし、

「誰が4日を必要としたのか」

という問いは、国家制度の問題になる。

第一に、それを必要としたのは大宰府である。大宰府は西海道における軍事・外交・行政の中心であり、重大な反乱を自らの判断だけで処理できるとは限らない。反乱が発生すれば、

「中央に知らせ、天皇の国家意思を得る」

必要がある。

第二に、それを必要としたのは中央政府である。中央にとって地方の反乱は、時間が経過するほど危険性が増す。反乱勢力が拡大すれば、

  • 兵力を増強する
  • 拠点を確保する
  • 周辺地域を巻き込む
  • 交通路を遮断する
  • 中央の対応を予測する

ことが可能になる。

したがって、中央政府に必要なのは単純な「高速通信」ではなく、地方の危機を、中央の軍事的意思決定がまだ有効である時間内に把握することである。

ここに「国家の時間」という概念を導入したい。

4 国家にとって必要なのは「通信時間」ではなく「対応時間」

この観点からすると、国家の危機対応は、

事件発生
→ 情報化
→ 通信
→ 中央での認知
→ 判断
→ 命令
→ 動員
→ 現地への軍事行動

という一連の過程になる。したがって、

通信速度 ≠ 国家の対応速度

である。国家にとって重要なのは、通信そのものではない。最終的には、

「地方で事件が発生してから、国家として有効な軍事行動を開始するまでの時間」

である。この意味で、「4日」という数字は、通信史の数字としてだけではなく、律令国家の危機対応時間として読むことができないだろうか。当然ながら、我々に要求されるのは、史料としての『続日本紀』のメタ構造への着眼である。『続日本紀』を「行政ログ」ではなく「国家意思の顕現(正史による国家像の構築)」と捉えた視点を構築することで、史料批判は別なステージへと移行する。

5 740年藤原広嗣の乱――「4~5日」をどう読むか

具体的に、天平12年(740)の藤原広嗣の乱では、この問題がさらに鮮明化する。8月29日、広嗣は上表し、時政の得失を論じ、吉備真備・玄昉の排除を求めた。そして9月3日、広嗣が兵を起こしたことが朝廷に伝えられ、朝廷は大野東人を征討軍の大将軍とし、諸道から兵を徴発することを決定した。

ここでは、

8月29日 上表

9月3日 挙兵情報・軍事対応

という約5日間の時間差が存在する。しかし、この5日間も単純な「大宰府→平城京の通信時間」とみなすべきではない。8月29日の上表と9月3日の挙兵情報は、そもそも情報の質が違うからである。前者は政治的要求である。後者は実際の挙兵という軍事的危機である。この違いは決定的である。

卑見によると、朝廷は「広嗣が政治的要求を上表した」という段階と、「広嗣が兵を起こした」という段階とで、国家としての対応を変えている。つまり、律令国家の通信システムは、単純に「すべての情報を速く伝える」ためのものではなかった。我々の観点からすれば、情報の重要度・緊急度に応じて、異なる速度で処理するシステムだったと考える必要がある。

ここで飛び込んでくる言葉は、「飛駅」という制度である。

6 飛駅とは「速い人間」ではなく「速く動く国家」である

「一日十駅以上」という公式令の規定を考える場合にも、同じことがいえる。これは、

「一人もしくは複数の使者が一日に160km走る」

という身体能力の規定として理解しては、それはアスリートの運動能力を論じることとなる。駅伝制の本質は、駅ごとに、

  • 駅馬を供給する
  • 使者を受け入れる
  • 文書を受け渡す
  • 次の駅へ送り出す

という連続的な作業を行うことにある。したがって、使者個人を高速化するのではなく、

人間・馬・駅・道路・文書をネットワーク化することによって、情報を高速移動させる

のである。すなわち「飛駅」は「速い飛脚」ではなく、むしろ、

国家が情報を高速に移動させるために、あらかじめ構築しておいたネットワークを緊急時に最大稼働させる仕組み

と理解すべきことを教える。

7 ここでさらに重要な問題がある

では、なぜ律令国家はそのような高速通信ネットワークを必要としたのか。単に行政を便利にするためだけではない。最大の理由の一つは、

「京政府が全国を把握し、必要なときには全国を動かすことができる」

という国家の実効性を確保するためであったとの作業仮説を提出したい。

   地方で反乱が起きる。

   その情報が中央に届く。

   中央は将軍を任命する。

   節刀を授ける。

   兵を動員する。

   そして中央の命令が地方へ伝わる。

この一連の流れが成立して初めて、

「中央集権国家が全国を支配している」

という事実を全土に公告することになる。したがって、通信網は国家支配の「補助施設」ではない。国家支配そのものの一部である。

8 「国家の威信」という視点

ここで提起したいのは、「国家の威信=国家の自己表象(アイデンティティと威信)」」という視点の導入である。『続日本紀』の読者が現代の意味で「全国民」だったとはいえない。しかし、少なくとも朝廷・貴族・官人、さらに地方官人などの識字層に対して、

「天皇を中心とする律令国家は、全国の異変を把握し、必要ならば直ちに軍事力を発動できる」

という国家像を示すことには意味があった。これこそ国家の威信そのものにかかわる。

もし、

九州で反乱が起きても、中央に届くまで何週間もかかる。

中央が知ってから軍隊を動かすまで何か月もかかる。

という国家ならば、地方に対する中央政府の支配力は弱く見える。

反対に、

「地方で反乱が起きても、数日で中央が把握し、将軍を任命し、軍事力を発動できる」

と記録されれば、

「この国家から逃れることはできない」

という強烈な国家像を提示することができる。だからこそ、「4日」「翌日」「即日」という時間表現の政治的意味を考える余地が生じる。

9 720年陸奥――「翌日・即日」はさらに強烈である

この問題を考えるうえで、同じ720年の東北の事例は極めて重要である。周知のように、720年9月、陸奥国から蝦夷の反乱と上毛野広人殺害が奏言される。そして翌日には、征夷将軍・鎮狄将軍が任命され、さらに「即日授節刀」と記される。

ここでは、

奏言

翌日、将軍任命

即日、節刀授与

という、極端に圧縮された国家対応が描かれている。これを文字通り、現実のすべての行政過程が24時間以内に完了したことを意味すると考えるなら、かなり慎重な検証が必要になる。しかし、別の読み方も可能である。すなわち、

「地方の反乱情報が届けば、中央国家は翌日には軍事指揮権を発動できる」

という国家像を、『続日本紀』が提示していると考えることである。そして「即日授節刀」という表現は、その国家像をさらに強調している。

これは単なる年代記的記録ではない。国家が危機に対して停止しないことを示す記述として読むことを求めているに違いない。

10 南九州と東北――「4日」と「7日」

ここで、東北の事例に着目する。

  秋田方面から平城京まで約690km。

  大宰府から平城京まで約640km。

直線距離だけを比較すれば、両者はほぼ同程度である。しかし、秋田方面からの情報伝達について「7日」という数字が確認できるならば、

約640km → 4日
約690km → 7日

という差が生じる。この差は、単純な距離だけでは説明できない。なぜなら、律令国家の交通速度は、

  • 道路の整備状況
  • 駅家の配置
  • 駅馬の数
  • 地形
  • 河川
  • 山岳
  • 積雪
  • 海上交通
  • 季節
  • 情報の緊急度

などによって大きく変化するのは当然だからである。したがって、ここで重要なのは「640kmを4日」「690kmを7日」という速度競争ではない。むしろ、

律令国家は、異なる地域の異なる交通条件のもとで、中央の軍事意思決定を可能にする情報伝達時間を確保しようとしていたのではないか

という問題である。

11 「全国一律の速度」ではなく「国家として許容できる時間」

ここからさらに一歩、我々の考察を進めたい。律令国家が必要としたのは、

全国どこからでも同じ速度で情報を送ること

ではなかったのではないか。むしろ、

地域ごとの交通条件を前提として、それぞれの地域で国家として許容できる危機対応時間を確保すること

だった可能性がある。

  大宰府からは4日。

  東北からは7日。

それでも中央は、

「反乱を知る」
「将軍を任命する」
「軍事力を発動する」

ことができる。

つまり、「4日」「7日」は、国家の通信能力そのものを示す数字ではなく、

国家が地方の危機を中央の軍事意思決定へ接続するために必要とした時間幅

なのかもしれない。


12 『続日本紀』の「日付」は本当に行政時計なのか

ここで、だれしも『続日本紀』そのものに対する史料批判を要求するだろう。いうまでもなく、我々は通常、正史に記された日付を、そのまま現実の出来事の時間軸として利用する。

しかし、

「奏言した」

「将軍を任命した」

という二つの記事が数日離れて記されているからといって、その間に何が起きたのかがすべて復元できるわけではない。むしろ正史は、国家にとって意味のある出来事を選択して記録している。すると、

『続日本紀』が作る時間

と、

現実の行政現場で流れた時間

とは明確に区別しなければならない。この区別ができれば、「4日」という数字に新しい意味が生まれる。それは、

国家が実際に4日間で全行政過程を完了したことを証明する数字

ではなく、

国家の危機対応が、4日という短い時間のなかで完結したように見える形で記録された数字

である可能性がある。もちろん、これはまだ作業仮説である。しかし、720年・740年・東北の事例を横断して比較することで検証可能な仮説になる。


13 「記述ルール」あるいは「暗黙の約束」という仮説

ここで、本稿の核心となる仮説を提示したい。それは、

『続日本紀』には、地方の危機と中央の対応との時間的距離を短く示すことによって、律令国家の機動性を表現する、何らかの記述上の原理が働いているのではないか

という仮説である。これを「記述ルール」と呼ぶには、なお多くの事例検証が必要である。

しかし、少なくとも、

  • 翌日
  • 即日
  • 数日後

という極めて短い時間表現が、反乱・軍事危機の記事に集中しているならば、それは偶然ではなく、一定の国家像を表現している可能性がある。多弁を要しないが、

「危機が起きれば国家は動く」

という国家像である。

さらに言えば、

「危機が起きれば国家はすぐ動く」

という国家像である。

14 「情報→判断→動員」という国家の三段階

この観点から、古代律令国家の危機対応を三段階に整理できる。

第一段階 知る

地方で何が起きたのかを中央が知る。

第二段階 決める:得られた情報をもとに、中央が国家意思を形成する。

第三段階 動かす:将軍を任命し、節刀を授け、兵を徴発し、軍事力を地方へ向ける。

つまり、

情報 → 判断 → 動員

である。そして国家の威信は、この三段階が切れ目なく接続されていることによって成立する。単に「情報が届く」だけでは国家は強くない。情報を得ても判断できなければ意味がない。判断しても軍隊を動かせなければ意味がない。したがって、

「速い通信」ではなく「速く反応する国家」

こそが、律令国家にとって重要だった。

15 「動いている国家」という視点

この問題は、律令国家研究に対して別の視角を提供する。

律令国家を、

戸籍を作る国家
租税を徴収する国家
官僚を配置する国家
法令を制定する国家

として捉えるだけでは、その実像の一部しか見えない。他所でも我々が強調してきたように、国家は同時に、

情報を集め、情報を送り、判断し、命令を出し、人と物と軍隊を移動させる存在

でもある。これを、我々は

「動いている国家」

と定義付けたい。その国家を動かしていたのは、道路や駅だけではない。文書制度、駅伝制、官僚制、軍事制度、意思決定制度が一体となって作動していた。したがって「飛駅」を研究することは、交通史だけを研究することではない。それは、

律令国家が情報をどのように処理し、その情報をいかに国家意思へ変換したか

を研究することに直結する。

16 今後検証すべき課題

この仮説を「そうかもしれない推測」に終わらせないためには、『続日本紀』の軍事・反乱記事を網羅的に調べる必要がある。

特に次の項目を一覧化することが重要である。

項目調査内容
①事件発生日反乱・挙兵・殺害等がいつ発生したと記されるか
②奏言日地方官衙が中央へ報告した日
③通信方式奏言・飛駅・使者など
④中央到着日明記される場合の到着日
⑤中央決定日将軍任命・征討決定等
⑥節刀授与即日か、後日か
⑦動員兵員徴発の開始
⑧出発実際の軍事行動開始日
⑨地域九州・東北・東海等
⑩距離発信地から平城京までの距離
⑪所要日数情報→決定までの時間
⑫記述形式「翌日」「即日」「数日後」等

この表を作れば、「4日」「7日」「翌日」「即日」が本当に偶然なのか、それとも一定のパターンを示すのかが検証できる。さらに、『続日本紀』だけではなく、他の史料を使って、

任命日 → 実際の出発日

を追跡する必要がある。ここで初めて、「国家の決定」と「現実の軍事行動」との間にどの程度の時間差があったのかを明らかにできる。

結論――「4日」とは何だったのか

 以上の検討から、養老4年の「4日」を単純な通信速度として理解することには慎重でなければならない。2月29日の大宰府奏言から3月4日の征隼人軍将軍任命まで4日。

しかし、その4日間に、

情報の伝達
情報の確認
中央での判断
将軍の任命
軍事命令
動員準備

のすべてがどのように行われたのかは、『続日本紀』だけからは明らかではない。したがって、「4日で640kmを走った」という交通速度の問題だけに還元することはできない。むしろ重要なのは、

なぜ『続日本紀』は、地方の危機と中央の軍事的対応との間に、このような短い時間を示しているのか

という問題である。

  720年の隼人反乱。

  720年の陸奥の蝦夷反乱。

  740年の藤原広嗣の乱。

  そして、東北方面から中央への緊急情報。

これらを比較すると、「翌日」「即日」「4日」「7日」といった時間表現が、単なる交通記録ではなく、国家の危機対応能力を示す記述として機能している可能性が浮かび上がる。予防線を張るつもりはないが、

「『続日本紀』には、4日以内に国家が軍事対応できることを示す明確な編纂ルールが存在した」

と現段階で断定することはできない。しかし、少なくとも次の作業仮説を提出することはできると考える。

『続日本紀』における地方反乱記事では、情報の到達から中央の軍事的意思決定までの時間を短く表現することによって、地方の危機に対して即応できる律令国家の姿が描き出されているのではないか。

その意味で、「4日」は単なる数字ではない。それは、

「地方で何が起きても、中央は知ることができる」

という国家の能力であり、

さらに、

「知ったならば、中央は決定できる」

という能力であり、

最終的には、

「決定したならば、国家は人間と軍隊を動かすことができる」

という国家の威信を示す数字(日数)である。

重ねて確認したいのは、本当に問うべきなのは、

「古代人は640kmを4日で移動できたのか」

ではない。問うべきなのは、

「律令国家は、なぜ『4日で動く国家』でなければならなかったのか」

である。そしてさらに、

「『続日本紀』は、なぜそのような『4日で動く国家』を私たちに見せるのか」

である。ここに、古代交通史を越えて、律令国家の情報処理・意思決定・軍事動員、そして国家自身による自己表象を統合的に考える新たな研究領域が開ける。「飛駅」とは、単に速く走る使者ではない。それは、

情報を知る国家、
情報を判断する国家、
そして判断した国家が実際に動くための仕組み

である。要するに、「飛駅」とは「飛ぶ使者」の制度ではなく、「動く国家」の制度だったのである。


 

(改稿)「大原」は本当に「大きな原」なのか ――『出雲国風土記』大原郡と古代製鉄をめぐる試論

 

「大原」は本当に「大きな原」なのか

――『出雲国風土記』大原郡と古代製鉄をめぐる試論

『出雲国風土記』は天平5年(733)に成立した。そこには出雲国九郡の地理・産物・交通・地名伝承などが記されている。そのなかで、以前から私が気になっているのが大原郡である。大原郡は、現在の雲南市大東町・加茂町・木次町を中心とする地域にあたる。この地域を実際に歩いてみると、素朴な疑問が生じる。

例えば斐伊川に架かる里熊橋付近、あるいは雲南市木次町里方の城名樋屋山(標高117m)などから周囲を見渡しても、「大原」と呼ぶにふさわしい広大な原野が眼前に展開しているわけではない。大東町や加茂町についても事情は大きく変わらない。

そこで生じたのが、

   「大原」とは、本当に「大きな原」という意味なのだろうか。

という疑問である。もちろん、これは単なる地形観察から生じた素朴な疑問にすぎない。しかも、この疑問に対して『出雲国風土記』は明快な答えを与えている。

大原郡の郡名由来について、風土記は、

「郡家東北一十里一百一十六歩、田一十町許、平原也。故號曰大原」

すなわち、郡家の東北十里余りの場所に「田十町許」の平原があり、「故に大原と号した」と説明している。したがって、「大原=大きな原」という風土記の説明を否定するつもりはない。むしろ着目したい問題は、その「平原」が何を意味していたのかである。現在の景観だけを見て「大きな原がない」と結論するのは早計であろう。古代の地形と現在の地形は同じではない。いうまでもなく河川の流路、沖積地、湿地、耕地、森林などは長い時間のなかで大きく変化する。したがって、私の当初の疑問は、

「大原という名前に対応する広大な土地が現在見えない」

というところから、

「古代の人々が、どのような景観を『原』と認識していたのか」

という問題へ組み替えたい。

1, 「大原」という地名を、漢字だけから理解してよいのか

地名研究で注意しなければならないのは、現在使用されている漢字が、必ずしも古い地名の語義をそのまま保存しているとは限らないことである。『出雲国風土記』には、「本字」を示したうえで、神亀3年(726)に字を改めたとする地名も少なくない。

大原郡の記事でも、

  • 屋代郷――本字「矢代」
  • 屋裏郷――本字「矢内」
  • 阿用郷――本字「阿欲」
  • 海潮郷――本字「得塩」

など、表記の変更が確認できる。

したがって、「大原」という現在の表記を見て、最初から「大きな原」という語義を想定することには慎重でなければならない。ただし、ここでさらに重要なのは、風土記が「大原」の由来を「平原」と説明していることである。つまり、

①古い地名の語義そのもの

②天平5年の風土記編纂者が、その地名をどう理解していたか

とは区別しなければならないと考えたい。

2 ところが大原郡には「鐵」が登場する

ここで、別の問題が浮上する。大原郡の記事には、次の二つの河川記事がある。

「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」

「飯石小川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」


つまり、大原郡の記事には、鉄資源の存在が明記されている。もちろん、ここから短絡的に飛躍して、

「大原」という地名は製鉄に由来する

と結論することはできない。『風土記』が「大原」の語源として鉄を挙げているわけではないからである。しかし、逆に言えば、「大原」という地名の問題と、「大原郡における鉄資源」の問題を切り離してしまう必要もない。この二つが同じ地域空間に存在すること自体を、一つの検討課題として提示することはできる。

3 「大原」という地名に注目したもう一つの理由

この問題を考えるようになった直接のきっかけは、伯耆国に複数の「大原」が存在することを知ったことであった。

例えば、

  • 伯耆町八郷大原
  • 日南町下阿毘縁大原
  • 日野町上菅大原
  • 倉吉市大原

などである。

これらの地域には、古代・中世の製鉄や鍛冶との関係を示す遺構・伝承が残っている。例えば伯耆町大原周辺については、鳥取県教育委員会による生産遺跡の分布調査で古い製鉄遺跡が確認され、近年の踏査でも鉄滓が多数確認されている。県は、周辺の立地から中世以前に遡る可能性にも言及している。

また、日南町の大原周辺でも近年発掘調査が進められ、中世の木炭窯や製鉄炉が検出されている。

倉吉市大原についても、安綱・真守などの鍛冶伝承とともに、「真守屋敷」「鉄山屋敷」「たたら窪」など、製鉄・鍛冶を想起させる地名・伝承が残る。

ここから、

「大原」という地名と製鉄との間に何らかの歴史的関係が存在するのではないか

という疑問が生じる。

しかし、ここでも慎重でなければならない。現在確認できる伯耆の「大原」と製鉄との関係は、地名成立時期まで遡って証明されているわけではない。したがって、

「大原=たたら生産地」

という一般法則を立てることは、現段階では慎重でなくてはならない。

4 それでも出雲の大原を考える価値はある

では、なぜこのような弱い仮説にこだわるのか。それは、出雲の大原郡については、単なる地名類似以上の材料があるからである。大原郡には、先述したように二つの河川について「鐵あり」と明記されている。しかも大原郡は、斐伊川水系を中心とする山間地域に位置し、仁多郡・飯石郡・神門郡など、古代の鉄資源と深く関係する地域に接している。さらに、『出雲国風土記』は大原郡について、単に山川を列挙しているだけではない。郡内には八郷二十四里が置かれ、郡家、正倉、新造院などの存在が記されている。そして交通記事を見ると、仁多郡、神門郡、備後国などへ通じる道路が記されている。

つまり大原郡は、

鉄資源を含む山間地域と、斐伊川を介してより広い地域とを結ぶ交通・行政空間

として見ることができる。ここに私は注目したい。

5 「大原=たたら」という仮説を一度、棚上げする

私は以前、

「大原」という地名には、製鉄・たたら生産との関係があるのではないか。

という仮説を考えたことがある。しかし現在では、もう少し慎重な形に修正したい。

すなわち、

「大原」という地名と製鉄との間に直接的な語源関係があるかどうかは、まだ分からない。

ただし、

「大原」と呼ばれた地域が、古代の製鉄・鉄資源・交通・土地利用の歴史を考えるうえで重要な空間である可能性がある。

というところまでは、十分に検討する価値がある。これは似ているようで、実は全く違う。

前者は「語源仮説」である。後者は「地域構造仮説」である。現段階では、後者の方がはるかに強い。


6 2025年の雲南市の最新研究の紹介

この問題を考えるうえで、重要な研究を紹介したい。

倉内勝・角田徳幸・松尾充晶「雲南市の製鉄遺跡とその年代」(『雲南市文化財調査研究報告』第1集、2025年)

である。同研究は、日本列島の鉄生産が6世紀後半に中国・北九州・近畿で始まり、7世紀には北陸・関東・東北南部へ、9世紀には東北北部へ展開したという全国的な動向を確認したうえで、出雲地域の製鉄遺跡について検討している。特に重要なのは、雲南地域の製鉄を、近世たたらの歴史だけから見るのではなく、古代まで遡る長期的な生産史のなかに位置づけようとしていることである。

これは、私の仮説を検討するうえで大きな意味を持つ。私が列挙する

  • 羽森第3遺跡
  • 瀧坂遺跡
  • 鉄穴内遺跡
  • 寺田Ⅰ遺跡
  • 芝原遺跡

などの製鉄関連遺跡についても、単なる「たたら跡の存在」という以上に、いつ、どのような原料を利用し、どのような技術で鉄を生産していたのかという年代・技術史の検討が必要になる。つまり、今後の課題は、

「大原という地名が鉄に由来するか」

だけではない。むしろ、

「大原郡という行政空間のなかで、鉄資源・製鉄・河川交通・集落・郡家がどのような関係を形成していたのか」

を問うべきなのである。

7 「たたら」という言葉

さらに、私は「たたら」という言葉そのものにも注意したい。『出雲国風土記』の「鐵あり」という記事を、そのまま近世の「たたら製鉄」と同一視してはならない。風土記が記す「鐵」は、まず鉄資源の存在を示す記事として読むべきであり、それが近世たたらと同じ製鉄技術によって生産されたことを意味しない。したがって、

『風土記』に「鐵あり」

そこに近世型たたらがあった

「大原」はたたら地名だった

という推論は成立しない。しかし、

『風土記』に「鐵あり」

古代に鉄資源が認識されていた

雲南地域に古代製鉄遺跡が存在する

鉄資源・製鉄・河川交通・集落の関係を検討する

という推論なら成立する。この違いは大きい。


8 私の作業仮説

以上を踏まえて、次の作業仮説を提出したい。

『出雲国風土記』の大原郡において、「大原」という地名の成立と、地域の土地利用・鉄資源・製鉄・河川交通との間に、何らかの歴史的関係が存在しなかったか。

この問題を検証するためには、地名だけを調べても不十分である。

必要なのは、

①古代の地形復元
②「原」「大原」などの地名分布
③砂鉄・鉄鉱資源の分布
④古代製鉄遺跡の年代
⑤河川交通
⑥郡家・正倉・集落の位置
⑦鉄製品・鉄滓などの出土状況
⑧『出雲国風土記』における「鐵」の記載

を一つの地図上に重ねることである。

もしこれらが一定の空間的対応を示すならば、「大原」という地名を単なる「大きな原」という景観語として理解するだけでは不十分になる。逆に、まったく対応しないのであれば、この仮説は潔く捨てさりたい。

おわりに――「大原」という小さな疑問から

「大原」と呼ばれているのに、なぜ現在見ることのできる土地は、それほど「大きな原」には見えないのか。最初は、それだけの素朴な疑問だった。しかし、『出雲国風土記』を読み直すと、大原郡には「鐵あり」と記された河川があり、山間部には古代製鉄の痕跡があり、さらに仁多・飯石・神門などの周辺地域と交通によって結ばれている。そして近年の考古学的調査によって、雲南地域の古代製鉄についても新しい資料が蓄積されつつある。そうであるならば、「大原」を単に「大きな原」と理解して終わるのではなく、

「この地域で古代の人々は、どのような土地を、どのような資源生産の場として認識していたのか」

という問題へ進むことができるのではないか。「大原=たたら」説は、現時点では、これはまだ証明されていない。しかし、

「大原」という地名を手掛かりとして、出雲の古代製鉄・土地利用・交通・行政空間をもう一度組み直してみる作業には、なお十分な研究上の価値があると思う。

博雅の士の教えを俟ちたい。

(新稿)「辰砂ロード」の提唱

 

「辰砂ロード」の提唱――弥生時代の日中交流を考える

ここで、ひとつの仮説を提唱してみたい。私はこれを仮に**「辰砂ロード」**と呼ぶ。これは、弥生時代後期に、中国大陸から日本列島へ辰砂がもたらされた交易・交流ルートである。

この着想を得たきっかけは、古代の日中交流に関する論文を検索していた際、偶然見つけた一論文であった。島崎英彦「古代辰砂の故郷」『資源地質』59-1、2009年、73~76頁である。地質学・鉱床学を専門とする東京大学名誉教授の論文を、それまで私が読む機会はほとんどなかった。その意味でも、この偶然の出会いは僥倖であった。

島崎論文が特に興味深いのは、弥生時代後期の日本列島で使用された辰砂について、硫黄同位体比という自然科学的な方法から、その産地を追究している点である。島崎氏によれば、島根県西谷3号墓、鳥取県紙子谷門上谷1号墓、京都府大風呂南1号墓、福岡県春日立石遺跡など、弥生時代後期の日本海側・北部九州の遺跡から出土した辰砂の硫黄同位体比は、+7~+8‰前後を示す。これは、日本国内の主要な辰砂鉱床の値とは一致しない。さらに、従来よく知られていた中国湖南省・貴州省の辰砂とも一致しなかった。

ところが、2007年に島崎氏らが中国秦嶺山地の水銀鉱床を実地調査したところ、青銅溝鉱山や公館地域一帯の辰砂が+8‰前後を示し、日本の弥生時代後期の遺跡から出土した辰砂とほぼ一致することが判明したのである。もちろん、同位体比が一致したことだけから、直ちに「中国から日本へ辰砂が運ばれた」と断定することはできない。 同じ数値を示す鉱床が他にも存在する可能性があり、また採掘・選鉱・加工などの過程についても検討する必要があるからである。しかし、少なくとも「日本国内で採取された辰砂」という従来の説明だけでは処理しにくい資料が存在し、その供給源候補として秦嶺山地の辰砂鉱床が浮上していることは、極めて重要である。

さらに注目したいのは、地理的条件である。

島崎氏によれば、青銅溝・公館地域から北へ向かえば秦漢の都・長安(西安)に至り、南へ向かえば漢水に達する。漢水はさらに武漢付近で長江につながり、長江から東シナ海、日本海へと至る水上交通の可能性が考えられる。島崎氏自身も、このルートを念頭に、弥生時代後期に日本海側・北部九州の勢力との交易品として辰砂が日本列島へ運ばれた可能性を論じている。

ここから、私はひとつの作業仮説を提出したい。それが「辰砂ロード」である。すなわち、弥生時代後期の日本列島と中国大陸との交流を考える際、単に「中国文化が日本へ伝来した」という抽象的な文化伝播論ではなく、特定の物質が、どこで産出され、誰によって集荷され、どの水系を経由し、どの地域へ運ばれ、そこでどのような社会的・祭祀的意味を与えられたのかという、具体的な物流の視点から考えてみるのである。その場合、「辰砂ロード」は一本の直線的な交易路を意味するものではない。

むしろ、

秦嶺山地の辰砂産地
→ 漢水水系
→ 長江流域
→ 東シナ海
→ 日本海
→ 北部九州・山陰・若狭・畿内

という、複数の河川交通・沿岸航路・海上交通が連結した広域的な交流ネットワークを想定すべきであろう。そして、ここで私がもう一歩踏み込んでみたいのは、この「辰砂ロード」を、単なる鉱物資源の移動ルートとしてではなく、文化要素が移動するネットワークとして捉えることである。

 私は以前から、中尾佐助らによって提唱された照葉樹林文化論に関心を持ってきた。照葉樹林帯に分布する諸文化要素の類似性を考えるとき、それらを単純な「文化の伝播」として理解するのではなく、人・物・技術・信仰・儀礼などが複合的に移動する交流圏として捉える必要があるのではないかと思う。もしこの視点を辰砂に重ね合わせるなら、辰砂だけが単独で中国から日本へ運ばれたのではなく、辰砂を必要とする祭祀・葬送・権威表象などの文化的要素とともに、辰砂そのものも移動した可能性を考えることができる。もちろん、ここにはまだ確証がない。しかし、だからこそ「辰砂ロード」を作業仮説として提示する意味がある。重要なのは、「中国文化が日本へ伝わった」と結論づけることではない。

むしろ、

どの地域で辰砂が採掘されたのか。
誰がそれを入手したのか。
どのようなルートで運んだのか。
どの地域の勢力がそれを受け取ったのか。
なぜ大量の辰砂を必要としたのか。
そして辰砂とともに、どのような文化的・宗教的・技術的情報が移動したのか。

――これらを一つずつ検証していくことである。

そう考えると、「辰砂ロード」は単なる辰砂の交易路ではない。それは、弥生時代後期の東アジアにおける、人・物・情報・信仰の移動を復元するための一つの窓になるのではないか。

偶然に一読した論文から始まった小さな着想である。しかし、弥生時代の日中交流を「文化伝播」ではなく「物質の移動」から捉え直すなら、この小さな「辰砂」が、意外に大きな歴史の流れを示しているのかもしれない。

(再論)海上国造の分立とヤマト王権 ――東京湾岸における地域権力の再編―

 

海上国造の分立とヤマト王権

――東京湾岸における地域権力の再編――

1 要約

上海上国造と下海上国造は、現在の千葉県中部から東部にかけて展開した「海上(うなかみ)」地域を基盤とする国造である。

ここでいう「海上」は、後世の律令制下における「国」と同じ意味での国家ではない。むしろ、東京湾岸から内陸部に広がる水上交通・生産・軍事・祭祀などを掌握した在地首長層の政治的領域として理解する必要がある。

とくに養老川流域には、姉崎古墳群をはじめとする大型古墳が集中しており、早くから強力な首長権力が形成されていたことがうかがえる。また、稲荷台1号墳出土鉄剣に象徴されるように、この地域の首長層がヤマト王権と早い段階から接触していた可能性も指摘されている。

この地域の重要性を考えるうえで、最大のポイントは「海」である。

東京湾は、単なる漁撈の場ではない。

それは、

房総半島―武蔵―相模―上総―下総を結ぶ海上交通路

であり、さらに養老川・小櫃川などの河川交通によって内陸部へ接続する交通ネットワークでもあった。

したがって、海上地域の首長権力は、単に一地域の農業生産を支配するだけではなく、

海上交通・河川交通・物資輸送・人間の移動

を掌握することによって政治的・経済的な力を形成した可能性がある。

『国造本紀』によれば、上海上国造は天穂日命八世孫の忍立化多比命を祖とし、成務朝に国造に任じられたとされる。一方、下海上国造については、上海上国造と同祖であり、久都伎直が応神朝に国造に任じられたとされる。つまり、伝承上は両者が同じ祖先系譜につながりながら、国造として成立した時期には差がある。

このことは、海上地域が最初から二つの独立した国造によって支配されていたというより、

一つの強力な地域権力を基盤として、後に複数の政治単位へ分化した可能性

を考える手掛かりとなる。


2 「海上」をどう理解するか

「海上」という地名は、単純に「海に近い土地」を意味していたのではない可能性がある。

この地域では、東京湾岸と河川交通が密接に結びついていた。

とくに養老川・小櫃川は、房総半島内部へ向かう重要な水上交通路となり得る。

したがって「海上」という地域名称の背後には、

海と河川を利用した交通ネットワーク

が存在していた可能性がある。

この観点から見るならば、海上地域の首長権力を「農業を基盤とする地方豪族」とだけ理解するのは不十分である。

むしろ、

海上交通と内陸交通との接点を掌握した水上交通型の首長権力

として捉えることができる。

ここで、市原郡に残る「海部郷」に注目したい。

『和名類聚抄』には上総国市原郡の海部郷が見え、さらに天長5年(828)の庸布銘文には、

「上総国市原郡海部郷戸主刑部小黒人」

と記されている。したがって、「海部」という地域名称が8世紀を超えて残存していたことは確認できる。

ただし、ここから直ちに、

「伊勢湾から航海に長じた海人集団が黒潮に乗って房総へ移住した」

と結論づけることには慎重でなければならない。

海部という名称は、古代国家が海上交通・漁撈などに関わる人々を組織した「部」の名称である可能性があり、その成立過程については、在地の海民集団と王権による編成の双方を考える必要がある。

したがって、本稿では、

「海部=外部から移住した海人集団」

とは直ちに断定せず、

「海上地域における海上交通・漁撈・水運などに従事する人々が、王権の支配組織に組み込まれていった可能性」

として扱いたい。


3 時系列による理解

【3世紀後半~4世紀】

  • 養老川流域を中心として有力な首長勢力が形成される
  • 姉崎古墳群など大型古墳の築造
  • 東京湾岸と内陸部を結ぶ交通ネットワークの形成
  • ヤマト王権との接触が始まった可能性

【4世紀後半~5世紀】

  • 海上地域の首長権力が成長
  • 東京湾岸の海上交通における影響力を強める
  • ヤマト王権との政治的関係が深化

【5世紀~6世紀】

ここで大きな転換が起こった可能性がある。

『国造本紀』の伝承によれば、上海上国造と下海上国造は同祖であるが、国造としての成立時期が異なる。

  • 上海上国造
  • 下海上国造

という分化を想定することができる。

ただし、これは「5世紀に実際に国土が二分された」という意味ではなく、

海上地域を支配した首長権力が、王権との関係の変化のなかで複数の政治単位へ再編された

と理解する方が適切である。

【6世紀】

房総半島では、上海上・下海上だけではなく、武社・菊麻・馬来田・須恵・伊甚など複数の国造が確認される。

この状況は、房総半島全体が単一の政治勢力によって支配されたのではなく、

複数の地域首長権力が並立し、その上にヤマト王権との政治的関係が形成されていった

ことを示唆する。

【6世紀後半~7世紀】

  • 国造層の王権への組み込み
  • 評・郡制への移行
  • 旧国造系豪族の郡司化
  • 「国造」から「郡司」への政治的役割の転換

という大きな再編が進行する。


4 系譜をどう読むか

『国造本紀』の系譜は、次のように伝える。

天穂日命
   │
   └─(八世孫)忍立化多比命
              │
              └─ 上海上国造
                   
   └─ 上海上国造と同祖
          │
          └─ 久都伎直
                 │
                 └─ 下海上国造

ここで重要なのは、これをそのまま実際の血縁系譜として読む必要はないということである。

古代の系譜は、

政治的な正統性・同族意識・王権との関係

を表現する装置でもある。

したがって、「上海上国造と下海上国造が同祖である」という伝承そのものが、

両者が別個の起源を持つのではなく、同じ地域的政治勢力から派生したことを記憶していた可能性

を考えさせる。

ここに私は、海上地域の政治構造を考えるうえで重要な手掛かりがあると考える。


5 国造別にみた房総の政治構造

上海上国造

養老川流域を中心とする地域に形成された有力首長権力を背景として成立したと考えられる。

大型古墳の存在、東京湾へのアクセス、内陸河川との接続を考えると、

房総中部における海上交通・物資移動の重要拠点

であった可能性がある。

下海上国造

上海上国造と同祖とされながら、異なる時期に国造として成立する。

したがって、

上海上地域の政治的分化、あるいは王権による再編の結果として成立した政治単位

という仮説を提示できる。

武社国造

武社国造は、房総半島北東部に位置する。

その成立を単純に「ヤマト王権が海上国にくさびを打ち込んだ」と断定することはできない。

しかし、房総半島に複数の国造が配置されている状況を考えるならば、

ヤマト王権が房総各地の在地首長を個別に編成し、政治的ネットワークを構築していった

可能性を考えることはできる。

菊麻国造

菊麻国造は、現在の市原市北部付近を中心とする地域に比定される。

その存在は、海上地域周辺においても複数の政治勢力が形成されていたことを示す。

したがって、「海上国」という一つの地域名から、単一の政治権力を想定するのではなく、

複数の首長勢力が競合・連携する政治空間

として理解する必要がある。


6 ヤマト王権の戦略

ここで、房総におけるヤマト王権の関与を考えてみたい。

従来のように、

「ヤマト王権が房総を征服し、国造を置いた」

という一方向的なモデルだけでは、地域の複雑な政治構造を説明しにくい。

むしろ、次の三つの要素が重なっていたと考えたい。

① 在地勢力の巨大化

養老川・小櫃川流域では、農業生産だけでなく、水上交通を利用した物資・人間の移動が可能であった。

これを掌握した首長は、周辺地域に対して大きな政治的影響力を持つことができた。

② ヤマト王権によるネットワーク化

ヤマト王権にとって房総は、

  • 東国への交通
  • 太平洋側への海上交通
  • 人員・物資の移動
  • 軍事的動員

という点で重要な地域であったと考えられる。

したがって、巨大な在地勢力を単純に排除するより、

在地首長を王権の政治秩序に組み込み、その地域支配力を利用する

という方法が合理的であった可能性がある。

③ 地域勢力の分化

上海上・下海上・菊麻・武社などの複数の国造が存在することは、

房総の政治空間が一つの巨大首長権力から、複数の政治単位へ再編された

ことを示す可能性がある。

ここに、国造制の本質を見ることができる。

国造とは単に「地方官」だったのではない。

むしろ、

在地首長権力を王権の政治秩序の中に編成するための制度

として理解する必要がある。


7 「海上国の分割」という仮説を再考する

以上から、本稿では次の作業仮説を提示したい。

海上地域には、東京湾岸と養老川などの内陸水運を掌握する有力な在地首長権力が形成されていた。

その政治的勢力が成長する一方、ヤマト王権の東国への関与が強まることによって、海上地域は単一の首長権力としてではなく、複数の政治単位へ再編されていった可能性がある。

上海上国造と下海上国造が「同祖」とされながら異なる時期に国造として成立したという伝承は、この政治的分化の記憶を反映している可能性がある。

さらに、武社・菊麻など周辺地域に別個の国造が成立することによって、房総半島の政治空間は、複数の地域首長を王権のネットワークに組み込む構造へと変化した。

ここで重要なのは、「ヤマト王権が一方的に地方を征服した」と考えるのではなく、

在地勢力の成長 → 王権との接触 → 政治的提携 → 地域勢力の分化 → 王権秩序への編成

という相互作用として考えることである。


8 結論に代えて――「海」を支配した者

上海上国造・下海上国造を考える場合、最大の問題は「国造」という制度そのものではない。

むしろ、その前提となった、

なぜこの地域に強力な首長権力が成立したのか

という問いである。

その答えの一つとして、本稿は「水上交通」に注目した。

養老川・小櫃川などの河川と東京湾を結ぶ交通網は、房総半島の内部と外部を接続する。

そこでは、

人が動き、物が動き、情報が動く。

そして、それを掌握する者は、農地そのものを支配する以上の政治的力を持つことができる。

したがって海上地域の首長権力を、

「農業生産を基盤とする地方豪族」

という一面的なモデルで理解するのではなく、

「海と河川を媒介として、人・物・情報の流れを掌握した水上交通型の地域権力」

として捉え直す必要がある。

この視点から見るならば、上海上国造と下海上国造の分立は、単なる国造の「配置」の問題ではない。

それは、

一つの巨大化した地域権力を、ヤマト王権がどのように政治的ネットワークへ組み替えていったのか

という問題になる。

そして、この過程で形成された複数の国造が、後に評・郡制の成立によって郡司へと転換していくならば、古代房総の政治史は、

「在地首長制 → 国造制 → 評・郡制」

という単純な制度交替としてではなく、

「地域交通を掌握した首長権力 → 王権との政治的連携 → 複数の地域権力への再編 → 王権行政への組み込み」

という、より長期的な政治構造の変化として捉えることができる。

上海上国造と下海上国造の問題は、その変化を読み解く重要な窓口なのである。

(再論)なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのかーー中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性

 

結論:中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性


1 問題の所在――なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのか

「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いを立てるとき、問題は単に「なぜこの文書が保存されたのか」という保存史の問題にはとどまらない。むしろ、なぜ一地方の財政帳簿が中央へ送付され、その後も一定期間保持され、最終的に東大寺写経所で反故紙として再利用されるに至ったのか、という問題として考える必要がある。この問いをさらに掘り下げれば、律令国家における地方財政文書の作成・提出・照合・審査・保存・廃棄という、文書行政そのものの仕組みに到達する。

とりわけ重要なのは、越前国郡稲帳が単なる地方内部の業務帳簿ではなく、中央に提出されることを予定した正式な公文書であったという点である。天平5年(733)閏3月6日付の継目裏書には、

「越前国郡稲帳 天平五年潤三月六日 史生大初位下阿刀造佐美麻呂」

とあり、その作成日と担当者が確認できる。また、郡稲帳には越前国印が多数押され、国司による署名も認められる。したがって、これは郡衙内部でのみ使用された私的な作業帳簿ではなく、国司の責任において正式に作成された公的帳簿であったと考えられる。さらに重要なことに、同じ阿刀造佐美麻呂は天平3年(731)2月26日付の越前国正税帳にも登場し、正税帳の中央への提出を担当している。すなわち、郡稲帳と正税帳には、作成・提出実務の段階から人的な連続性が認められる。

ここから、次の問題が生じる。中央政府は、なぜ正税帳だけでなく、郡稲帳をも必要としたのであろうか。

2 天平4年度郡稲帳が示す「郡別財政モデル」

天平4年度の越前国郡稲帳をみると、各郡の財政状況がかなり具体的に把握されている。

敦賀郡

  • 定郡稲 3,086束6把
  • 出挙 1,036束(利518束)
  • 死馬皮 1張=10束
  • 都合 3,614束6把
  • 用 726束5把
  • 残定 2,888束1把

丹生郡

  • 定郡稲 1,294束5把4分
  • 出挙 1,294束5把4分
  • 利稲 617束2把7分
  • 加賀郡からの移入 2,000束
  • 死馬皮 3張=30束
  • 都合 3,881束8把1分
  • 用 2,437束7把
  • 残定 1,444束1把1分

足羽郡

  • 定郡稲 15,598束3把8分
  • 出挙 7,360束
  • 利稲 3,605束
  • 合納 18,015束
  • 残 8,230束3把8分

江沼郡

  • 定郡稲 7,296束
  • 出挙 6,246束
  • 利稲 3,123束

加賀郡

  • 定郡稲 37,882束8把3分
  • 出挙 12,111束
  • 利稲 5,890束

これらの数字から重要なのは、単に各郡の「財政規模」が判明することではない。郡稲帳では、

定郡稲 → 出挙 → 利稲 → 郡間移送・雑収入 → 用 → 残

という形で、郡ごとの稲の増減過程が追跡可能になっている。したがって郡稲帳は、単純な「残高表」ではなく、

  郡に存在する官稲が、どこから入り、どのように運用され、何に使用され、最終的にい 

  くら残ったのかを追跡するための財政記録

として理解することが可能である。特に丹生郡については、加賀郡から2,000束が移送されている。これは郡単位で完結した会計ではなく、郡と郡との間で財源が移動していたことを記録する帳簿でもあったことを示している。

3 郡稲帳は正税帳の「下位帳簿」なのか

ここで我々の作業仮説を提出したい。

  「天平4年度の郡稲帳は、単独で完結する財政帳簿であると同時に、国単位で作成される

  正税帳を成立させるための基礎的な情報を含んでいたのではないか。」

正税帳が国単位の収支を把握する帳簿であるのに対し、郡稲帳はその内訳を郡単位で示す。

したがって両者の関係を、

  郡稲帳 → 国衙で集計・整理 → 正税帳 → 中央へ提出

という情報処理過程として考えることである。ただし、この段階では「郡稲帳が正税帳作成の唯一の基礎資料であった」と断定することはできないにしても、むしろ、

郡稲帳は、正税帳を作成・確認するための基礎的な下位帳簿ないし関連帳簿の一つであった

とするのが妥当であると悟るからである。

4 中央政府はなぜ郡稲帳を必要としたのか

ここで、冒頭の問題設定に戻りたい。文書の流れを、

第1段階 郡稲帳には何が記録されているのか

第2段階 郡稲帳はどのような目的・機能をもつ文書なのか

第3段階 なぜ郡稲帳は中央へ送付されたのか

第4段階 中央では、それをどのように利用したのか

という四段階に分けて考えるならば、次のような知見を得る。このうち、第3段階については、少なくとも越前国郡稲帳が中央へ上進された事実は確認できる。したがって、問題はもはや「中央へ送られたのか」ではなく、「中央は何のためにそれを必要としたのか」である。

ここで、いくつかの可能性が考えられる。

  1. 正税帳記載数値の照合
  2. 地方財政の収支状況の確認
  3. 出挙の運用状況の把握
  4. 郡間移送を含む官稲の移動状況の確認
  5. 国司・郡司の財政責任を確認するための資料
  6. 後日の再計算・再照合に使用する資料

これらは相互に排他するものではない。むしろ、郡稲帳という帳簿の構造を考えるならば、中央政府にとって重要だったのは、単に「いくら残ったか」という最終残高ではなく、

  その残高が、どのような収入と支出の積み重ねによって形成されたのか

を確認できることであったちがいない。

5 「監査証拠」という作業仮説

ここで本稿では、あえて「監査」という概念を作業仮説として導入したい。

ただし、これは現代の会計監査制度をそのまま奈良時代に投影するという意味ではない。

重要なのは、郡稲帳そのものが、

  • 数量を記録する
  • 収入と支出を区別する
  • 残額を計算する
  • 郡間の移送を記録する
  • 郡司の氏名を記載する
  • 国司が関与する
  • 国印を押す
  • 数字を大字で記載する

という構造を備えていることに、改めて思い出さなくてはならない。というのも、このことで後から第三者が数字を確認し、責任の所在を追跡できる文書構造になったからである。特に数量を記載する帳簿に大字を使用することは、数字の改竄を防ぐという文書技術上の意味を持っていたと考えられる。したがって、郡稲帳は、

「数字を記録するための帳簿」

であるだけではなく、

「誰が、どの数量について、どのような責任を負って報告したのかを固定し、後日の照合を可能にする帳簿」

として理解すべきであると教える。この意味で、郡稲帳を「財政監査の裏付け証拠」と捉えることは、現時点では有力な作業仮説となりうる。


6 ここで「人間」を入れる

さらに注目したいのは、こうした帳簿制度を、単純な行政技術の問題としてだけ理解しないことである。官稲を管理するのは人間である。

そこには、

  • 善意による奉仕
  • 組織への忠誠
  • 私的利益の追求
  • 背任
  • 横領
  • 窃盗
  • 数字の操作

など、さまざまな人間行動が入り込む可能性がある。したがって、律令国家が細かな数量を記録し、責任者を明記し、印判を押し、数字を大字で記すという仕組みを整備した背景には、単なる「行政の合理化」だけではなく、人間が管理する財物には、必ず誤謬と不正の可能性があるという、極めて現実的な行政上の認識が存在した可能性がある。この視点からみると、郡稲帳は単なる「地方財政史料」ではなく、

  「律令国家が、地方官人によって管理される財物をどのように可視化し、記録し、責任化

  し、中央から確認可能な状態にしたのか

を示す史料として再評価したい。

7 人事記録との接続

さらに郡稲帳には、財政情報だけでなく、国司・郡司などの人名・官位・勲位が記載されている。

たとえば、

  • 新任能登国史生少初位上大市首国勝
  • 新任大目従七位上勲十二等中臣高良比連新羅
  • 従六位上勲九等坂合部宿祢葛木
  • 敦賀郡少領外従八位上勲十二等角鹿直綱手・主帳無位螺江比良夫
  • 丹生郡大領外従七位下勲十二等佐味君浪麻呂
  • 足羽郡少領外正八位上勲十二等海直大食・主政無位品遅部広耳
  • 大野郡か、郡司大領正八位下勲十二等江沼臣武良士
  • 検舶使従六位上弟国若麻呂

などの名前を確認できる。これらは単なる「人名録」ではない。誰がどの財政単位を担当していたのかという財政責任者の特定と、誰が現地行政に関与していたのかという行政組織の把握が、同じ文書の中に組み込まれているのである。したがって、郡稲帳には、

  財政情報+人事情報+責任者情報+公的認証

が一体となっているとの考えて良いだろう。ここに、この帳簿が単なる郡衙内部の業務帳簿を超えて、中央政府にとっても意味を持つ理由の一端を見ることができる。


8 現段階での結論

以上を踏まえるなら、現時点では次のように結論づけるのが妥当ではないだろうか。

越前国郡稲帳は、各郡の官稲について、その収入・運用・移送・支出・残額を記録するとともに、郡司・国司などの責任主体を明示し、国印によって公的文書として認証された財政帳簿であった。

そのため、郡稲帳は国衙内部の業務にのみ使用された帳簿ではなく、中央政府が国単位の財政状況を確認し、正税帳その他の財政情報を照合する際にも利用しうる文書であった可能性が高い。

したがって、郡稲帳を「中央における財政監査の証拠資料」と位置づけることは有力な作業仮説となる。ただし、現存史料だけから、太政官・民部省・主税寮のいずれが、どの段階で、具体的にどのような照合・審査を行ったかを確定することはできない。

今後必要なのは、正税帳と郡稲帳との数値的対応関係を具体的に検証するとともに、他国の郡稲帳・正税帳、さらに中央官司に残る勘会・審査関係文書を比較し、地方帳簿が中央でどのように利用されたのかを明らかにすることである。

その作業によって初めて、「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いは、「律令国家はいかにして地方財政を中央から検証可能なものにしたのか」という、より大きな問題へと展開することになる。

「摂津国正税帳」を読むーー「正税帳の会計アルゴリズム」

 『摂津国正税帳』断簡の冒頭は、

都合定穀陸仟弐伯漆拾陸斛伍斗捌升陸合
〈振入五百七十斛五斗九升九合〉

そして、

定伍仟漆伯伍斛玖斗捌升漆合
不動弐仟捌伯弐拾肆斛伍斗玖升
動用弐仟捌伯捌拾壱斛参斗玖升漆合

とある。ここで非常に重要なのは、本正税帳において、

   「都合定穀」=「振入」+「定」

という計算構造が明瞭に見えることである。実際、

5,705斛9斗8升7合+570斛5斗9升9合=6,276斛5斗8升6合

となる。この帳簿は単に「倉庫にこれだけあった」というレポートではなく、

当該郡で確定した穀+他所から振り入れられた穀=当該会計単位で扱うべき総穀量

という会計上の組み替えを記録したといえるだろう。

 次に興味深いのは、他の正税帳にも記述されており、摂津国でも、

振入

という項目が明記されている用語に注目したい。摂津国における郡の穀倉は、

    収穫・徴収 → 郡倉 → そこで完結

という閉じたシステムではなく、むしろ、A地点からB地点へ穀を移す→ B地点の帳簿に「振入」として計上するという、

  郡を越えた物流・会計ネットワーク

になっていると考えるべきではないだろうか。したがって正税帳を読むとき、「この郡には何斛あったか」だけでは不十分であり、「その穀はどこから来て、どこへ振り替えられたのか」を見る必要がある。

3 「定→不動+動用」

最初のデータは、

定 5705斛987
不動 2824斛59
動用 2881斛397

である。これも、

2,824.59 + 2,881.397 = 5,705.987

で完全に一致する。つまり、

定穀=不動穀+動用穀

という明確な二分構造となっている。この点を注目することで、私たち正税帳を単なる「財産目録」と見るより、「穀を用途・管理状態によって再分類する帳簿」だと考えたい。

つまり、

穀を数える

総量を確定する

不動・動用に振り分ける

という会計処理の工程が見えてくると信じる。


4 ところが西成郡では、さらに一段階複雑になる

一方、西成郡を見ると、

天平七年定穀壱万弐仟弐伯弐拾肆斛……

その内訳が、

不動 4331斛7斗8升9合
動用 7892斛8斗7升1合7夕5撮

である。ところがその後、

量乗陸拾漆斛壱斗参升陸合壱夕伍撮

が上げられている。そして、

合漆仟玖伯陸拾斛漆合玖夕

となる。そこで、再検討すべきは、「動用」という大きなカテゴリーの内部で、さらに計量・処理を行った痕跡があることに注目するからである。つまり帳簿の世界は、

定穀

不動/動用

で終わらずに、動用穀についても、実際の計量・処理を経て次の数字が作られているからである。これは「正税帳=最終結果だけを書く帳簿」という一面的な理解に疑問を投げかける。


5 「高年・鰥寡惸独……」は「社会福祉」ではない

西成郡には、

高年鰥寡惸独等人伍伯拾参人

として、

九十歳已上十三人
八十歳已上四十四人
七十歳已上二百三人
鰥寡惸独篤疾癈疾不能自存等二百三十五人
今病七人
病僧十一人

とある。合計すると、513人。そして彼らには、

給穀肆伯伍拾玖斛壱斗

つまり459.1斛を給付している。そこで発想の転換を求めたいのは、この事業を単なる「社会福祉関連記事」と見てはならないことである。正税帳の中では、

    人的情報 → 給付対象者数 → 給付穀量

という形で、人間が財政計算の入力データに変換されている。だから、我々は以前から繰り返し述べてきたように、「正税帳を情報処理システムとして読む」という視点の有効性を傍証する。

6 「人」と「穀」が同じ帳簿の中で接続

西成郡の記事を改めて見直すと、

人の把握

513人

給付基準による計算

459斛1斗

穀倉からの支出

となる。

つまり正税帳は、

穀の帳簿

であると同時に、

人間を数量化し、それを穀の支出に変換する帳簿

でもある。これは「律令国家の救済政策」という政治史的説明だけで予断してはならないと、自らを戒める点である。

7 「遺」とは

西成郡では、

遺壱万壱仟捌伯参拾弐斛陸斗玖升陸合玖夕

とある。そして、

振入一千七十五斛六斗九外九合九夕

を付す。さらに、

定壱万漆伯伍拾陸斛玖斗玖升漆合
不動参仟玖伯参拾漆斛玖斗玖升
動用陸仟捌伯壱拾玖斛漆合

となる。

ここで、

3,937.99 + 6,819.7 = 10,757.69

となり、「定」の数字と対応します。つまり、

遺=振入+定

という前年からの繰越・残存量と当年の計上量を結合する構造が見えるように、帳簿内の設計がなされている。


8 「正税帳の時間構造」

正税帳は一時点の写真とか、定点測定記事ではないことを、もう一度思い返したい。むしろ、

前年度からの「遺」

当年度の「定」

振入・振出などの移動

不動/動用への再分類

給付・酒・雑用などの支出

最終的な「遺」

という「一年間の財政活動を処理した動態的な帳簿」なのではないかと考えるのが、妥当だと思う。この認識に立ては、正税帳は「在庫表」というより、

「年度をまたいで穀の状態変化を追跡するフロー・レコード」

だと思い到る。

9 酒が入っているのも重要

最初の郡には、

県醸酒弐拾弐斛漆斗捌升
〈新五斛古十七斛七斗八升〉

さらに、

役民料酒弐拾伍斛〈古〉

西成郡では、

県醸酒弐拾斛陸斗伍升
役民料酒参拾斛

とある。この「酒」は単なる物品記事ではなく、「新/古」

という時間情報を持っています。

そして、

県醸酒

役民料酒

が区別される。

つまり、酒についても、

何のための酒か
新しいのか古いのか
どれだけあるか

という用途別・状態別管理が行われている。これは倉庫管理の発想そのものである


10 さらに「正倉11間」は帳簿と現物の接点

最初の郡では、

正倉壱拾壱間

そして、

不動穀倉三間
動用穀倉三間
納義倉一間
穎倉二間
破倉一間

とある。我々の視点から言えば、

会計上の分類

物理的な倉庫

が対応していると定める。つまり、

帳簿上の分類物理的施設
不動穀不動穀倉
動用穀動用穀倉
義倉義倉
穎稲穎倉
破損倉破倉

という構造となっているからである。

これは「帳簿上の数字」が宙に浮いた数字ではなく、実際の倉庫空間を反映している可能性を強く示す。

11 私の「作業仮説」

以上の検討を踏まえて、摂津国正税帳を通して、私は一つ作業仮説を出したい。

正税帳は、単なる決算書ではなく、郡衙における「物・人・用途・時間・移動」を統合して記録した行政情報の最終統合帳簿だったのではないか。

もう少し大胆に言えば、

  正税帳の基本単位は「穀」ではない。

我々の観点からすれば、

  「穀が、誰によって、どこから来て、どの倉に入り、どの用途に分類され、誰に給付さ

  れ、何として支出され、年度末にどこへ残ったか」

という履歴情報だと考える。

 かって、我々は畝田・寺中木簡について、

現場で情報を取得
→ 照合
→ 集計
→ 帳簿に再編成
→ 提出

というモデルを考案した。ところが摂津国正税帳を見ると、その最終段階の「再編成された情報」を認められる。すると次の問題が生まれます。

この巨大な数字は、現場でどのような原資料から作られたのか?

例えば、

   513人

という数字が突然現れるわけではありません。

現場では、

  • 年齢
  • 身体状況
  • 家族状態
  • 僧侶か否か
  • 給付対象か否か

などが把握され、それを集計して、513人という数字になったはずである。それと同様に、

  12,224斛……

という数字も、倉ごとの実在量・移動量・計量結果などを集積した最終数字だと推論できる。

13 摂津国正税帳から見る「新しい問い」

越前国郡稲帳では、

「この帳簿の背後にどのような業務があったか」

を考えたが、摂津国正税帳では、さらに一歩進めて、

「この最終数字が成立するまでに、何種類の作業記録が存在したのか」

を問うこととしたい。次のような「情報生成モデル」を試してみたいからにほかならない。

現場

人員把握・穀量計量・倉庫管理・移送・醸酒・給付

中間記録

人別集計・倉別集計・移送記録・支出記録

郡衙での照合

郡帳

国府での統合

摂津国正税帳

中央官衙への提出

こう見ると、正税帳は「国家財政の帳簿」というより、

 *「古代国家が大量の現場情報を一つの数字体系に圧縮するための「情報圧縮装置」

だった、と定義づけたい。

  今後の課題であるが、摂津国正税帳の各郡について、

①「定」
②「不動」
③「動用」
④「遺」
⑤「振入」
⑥「量乗」
⑦「穎稲」
⑧「酒」
⑨「雑用稲」
⑩「倉」

を全部拾って、数字の相互関係を一つずつ計算してみることで、単なる史料読解ではなく、

「摂津国正税帳の会計アルゴリズム」

が浮かび上がる可能性にきづく。そうすると、史料の方から研究者に対して、古代に関するParadigm Change を要求するはずである。

2026年9月5日土曜日

本庄説をさらに一段上のモデルへの組み替えーー本庄総子論文「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」

税帳研究の次のステージへ

――本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」を読む

はじめに――本庄論文を「批判する」のではなく、その先のステージへ

本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」は、古代税帳研究において重要な論点を提示した優れた論文の一つである。

本庄氏によると、税帳そのものの記載内容だけでなく、税帳の名称、書式、記載項目、税帳使の身分、提出時期などを相互に関連づけ、さらに大租数文や官稲混合との関係から、税帳制度がどのように形成され、変化していったのかが、明解に説明できるという。とりわけ、天平六年の官稲混合を一つの重要な転換点として、税帳使の地位、収納帳から目録帳への変化、雑用記載のあり方などを関連づけて理解しようとした点は、税帳を単なる個別史料としてではなく、制度の中に位置づけようとする試みとして評価できる。

しかし、本庄論文を読み進めると、別の問題が浮かび上がってくる。それは、税帳制度が「いつ成立したのか」「いつ変化したのか」という問題とは別に、

そもそも税帳という帳簿は、地方行政の現場において、どのような情報処理過程を経て作成されたのか

という問題である。

 ごく簡単に説明すれば、税帳に記された数字は、税帳を作成する段階で初めて発生したものではない。現場では、稲の収納、出挙、返納、利稲の計算、雑用への支出、倉庫の管理、郡から国への報告、国府における照合・集計など、地方行政の日常的な業務の中で個別の情報が発生し、それらが何らかの帳簿や記録を経由して、最終的に中央提出用の税帳へと編成されたと考えるべきであろう。この視点から見ると、本庄論文が明らかにした「税帳制度の変化」は、さらに別の問いへと開かれる。すなわち、

税帳はどのように生成されたのか。

という問いである。

大前提として、重ねて共通理解を求めたいが、本稿の目的は、本庄論文の個々の見解を否定することではない。むしろ、本庄論文が到達した地点を出発点として、税帳研究の分析単位を「制度」から「生成過程」へと拡張することを試みたい。

1 大宝二年「始送于弁官」をどう読むか

本庄氏は、大宝二年(702)の『続日本紀』に見える「始送于弁官」の記事(原文は本庄論文参照のこと、割愛)について、これを実際の税帳送進を記録した記事ではなく、税帳を弁官へ送るべきことを命じた命令記事として理解している。

その論証として、本庄氏は『続日本紀』における弁官への申送に関する類例を検討し、それらが実際の送進事実ではなく、行政上の命令を示す記事であることを指摘する。この論証そのものには十分な説得力がある。問題は、その次の段階にある。

すなわち、

「始送于弁官」の命令記事

大宝二年に税帳作成・送進の制度が命じられた

その命令は朝集使などを通じて地方へ伝達された

大宝元年分については遡及的に税帳が作成された

という行政過程の復元である。この部分について、本庄氏自身も「恐らく」「だろう」といった慎重な表現を用いている。したがって、ここで問題とすべきなのは、「始送」という語の意味をめぐって本庄説を退けることではない。むしろ、我々の関心は

   「命令記事であることと、その命令が地方行政の現場においてどのように実行されたか 

   は、別の問題ではないか」

という点である。命令が出されたとしても、その命令によって直ちに全国の地方行政現場で同一の帳簿作成作業が開始されたとは限らない。

中央から発せられた命令が、

  • 誰に伝達されたのか
  • どの官司が実務を担当したのか
  • どの既存帳簿を利用したのか
  • どの段階で数字を確定したのか
  • どのような様式に再編したのか

という問題が残されているからである。したがって、大宝二年を税帳制度の「起点」とするかどうかを論じるだけでは、税帳成立の実態には到達できない。

ここで重要なのは、

制度の開始時点と、帳簿作成実務の開始時点は同一なのか。

という問いである。本庄氏自身が、和銅元年頃にはすでに不動倉別定などを背景として一定の税帳的な帳簿形式が存在した可能性を認めていることを考えれば、この問題はいっそう重要になる。つまり、

   大宝二年以前に、税を管理し、収納し、集計するための実務的な帳簿が存在していた  

   可能性

を排除することはできない。そうであれば、大宝二年の命令は「税帳という実務を新たに発明した」のではなく、既に存在していた地方行政上の情報を、中央に提出すべき一定の帳簿形式へと統合した命令であった可能性も考えられる。この可能性を検討するためには、制度の成立史だけでなく、帳簿の生成過程を見なければならない。

2, 「見込み計上」をめぐる問題――税帳は本当に一冊の決算書なのか

本庄論文でもっとも興味深い問題の一つが、税帳の提出時期と「見込み計上」の問題である。現存する税帳の提出時期を見ると、年度末に近いものがある一方、翌年の二月、さらにそれ以降に提出されたものも存在する。この差異をどう理解するかは、税帳制度の性格を考えるうえで重要である。

これに関して本庄氏が下した結論は、官稲混合以前には、税帳において年末時点で確定していない雑用などについて、ある程度の見込みを含めた記載が可能であったのではないかと考える。

これに対して、私はこの問題を、

「正式な決算帳簿に見込み計上が許されるのか」

という二者択一で処理することには慎重でありたい。むしろ、ここで問うべきなのは、

税帳とは、そもそも何を確定させるための帳簿だったのか。

という問題である。

税帳に記載される情報には、その発生時点が異なるものが含まれている。

たとえば、

  • すでに収納された稲
  • 出挙に貸し出された稲
  • まだ回収されていない稲
  • すでに発生した利稲
  • 今後発生する可能性のある利稲
  • 既に支出された雑用
  • 年度末までに予定される支出

などである。

これらをすべて「年度末現在の確定値」として一括して扱うならば、確かに問題が生じる。しかし、逆に言えば、税帳という帳簿が、

   「異なる時点で発生した行政情報を、一つの年度単位の行政帳簿に統合する装置」

であったならば、問題の見え方は変わる。

「見込み計上が許されたか」

ではなく、

「異なる確定度を持つ情報を、税帳はどのように処理していたのか」

を問う必要に迫られるからである。卑見によれば、これは重要な違いである。

税帳を単純な「決算書」と見るならば、見込み計上は例外的な現象になる。しかし税帳を、

地方行政の一年間の活動を、中央の監査・勘会に耐える形式へと再編成した総合的行政帳簿

と見るならば、異なる確定時点を持つ情報が一つの帳簿に統合されること自体を、制度上の特徴として分析しなければならない。この点で、本庄論文が提起した「見込み計上」の問題は、むしろ税帳研究の新たな入口になる。


三 提出日の違いを「制度の不備」と見るのか、「行政実務の時間差」と見るのか

現存する税帳の提出時期にはかなりの幅がある。この事実から直ちに、「税帳には明確な提出期限が存在しなかった」と結論づけることも、いや「本来の期限があり、それに地方が遅れた」と断定することもできない。ここでは少なくとも三つの可能性を区別すべきである。

第一は、制度そのものが一定の幅を許容していた可能性。

第二は、制度上の期限は存在したが、地方ごとの事情によって実際の提出時期がずれた可能性。

第三は、そもそも税帳の中に異なる種類の情報が組み込まれており、必要とされる確定時期が異なっていた可能性

 この中で第三の可能性を追記すれば、税帳の提出日を「一冊の決算書が完成した日」と考えるのではなく、必要な行政情報が一定のレベルまで確定し、それを中央提出用の形式に再編できた日と考えることである。

そうなると、提出日の地域差は単なる「遅れ」ではなくなる。そこには、

  • 郡から国への報告時間
  • 収納作業の進行
  • 出挙稲の回収
  • 倉庫の確認
  • 雑用支出の確定
  • 国府での照合
  • 税帳作成担当者の能力
  • 中央への交通条件

など、さまざまな行政実務の時間差が反映されていた可能性がある。誤りを恐れずに説明すれば、税帳の提出日そのものが、古代国家の情報処理速度を示す史料になり得るのである。この視点からすれば、提出日のばらつきは「制度史上の不規則性」ではなく、むしろ研究すべき重要なデータとなる。


四 天平六年官稲混合――「画期」ではなく「行政情報処理の再編」

本庄論文の中心的な論点の一つが、天平六年(734)の官稲混合である。本庄氏によると、官稲混合を一つの重要な転換点として、その前後に、

  • 税帳使の地位
  • 税帳の名称・形式
  • 収納帳から目録帳への変化
  • 雑用記載の変化
  • 税帳勘会の厳格化

などが現れるという。これらの対応関係は確かに注目すべきである。しかし、ここで慎重でなければならないのは、

時間的に対応することと、官稲混合がそれらを直接引き起こしたこととは同じではない

ということである。しかも、現存する税帳そのものがきわめて限られている。少数の現存例から全国的な制度変化を復元する場合、同時期に生じた複数の変化を一つの原因に帰属させることには慎重であるべきだろう。特に注目されるのが天平六年の周防国である。天平六年という同じ時期でありながら、周防では税帳使が史生である。これは「例外」として処理して終わらせるべき事実ではない。

むしろ、この事例こそ、

天平六年の制度変化が、全国一律に、同時に、同じ方式で実施されたのか

を検証するための重要な材料ではないだろうか。もし天平六年が完全な制度的断絶であったなら、なぜ同じ天平六年に従来型の要素が残っているのか。逆に、天平六年が移行期であったなら、この現象は容易に説明できる。我々の観点からすれば、

官稲混合を契機として、税帳に求められる情報の精度や監査可能性が高まり、その結果として、各国で段階的に帳簿形式・作成担当者・記載方法が再編されていった

というモデルを提案したい。ここでは「天平六年」という一点よりも、

  天平六年前後に何がどのような順序で変化したのか

を追跡する必要があるからだ。

五 税帳使の身分変化を「制度変更」だけで説明できるか

税帳使についても、同様な議論を展開できる。本庄氏が示すように、初期の税帳では史生が派遣される例があり、天平六年以後には守・正など上位の国司が関与する例が現れる。間違いなく、この推移は税帳の重要性が増したことを示唆するだろう。

しかし、

税帳の重要性が増した

税帳使の身分が上昇した

というだけでは、なぜそのような変化が必要だったのかを十分に説明できないのも、事実である。むしろ逆向きに考えるべきではないか。

税帳に記載される情報が複雑化し、

  • 郡から報告された数字を照合する
  • 倉庫の実数と帳簿を確認する
  • 出挙の元本・利稲を確認する
  • 雑用の支出を確認する
  • 他の帳簿との整合性を確認する
  • 中央の勘会に耐えうる形に再編する

という作業が増えたならば、それを単なる史生に委ねることが難しくなるという論法である。つまり、

税帳使の身分上昇は制度の原因ではなく、税帳作成業務の複雑化に対する行政組織側の対応だった

可能性を、ここで指摘したい。この論法を採用すれば、本庄論文とは因果関係のベクトルが逆になる。そもそも本庄論文が、

   制度変化 → 税帳形式の変化

を重視するのに対し、本稿の論者は、

   行政業務の複雑化 → 情報処理の高度化 → 税帳形式・担当者の変化

という方向を想定したい。この視点を導入すると、税帳使の問題も、単なる官職制度史から解放されるからだ。


六 「収納帳」から「目録帳」へ――名称の変化を情報構造から見る

本庄氏が指摘する収納帳型から目録帳型への変化も、確かに興味深いし、その発想は鋭い。しかし、「収納帳」から「目録帳」へ名称が変わったことを、そのまま制度の質的変化と見るだけでは十分ではないと、識者の多くは気づいているはずだ。なぜなら、「目録」という形式は、単なる収納実績を記録する帳簿とは異なり、

   複数の情報を項目別に整理し、照合・検索し、監査するための情報構造

を念頭に置くからである。この点から見るならば、名称の変化そのものより、

何を項目として分離し、何を一つの情報単位としてまとめるようになったのか

を調査すれば、別な視界も開けてくるのではないだろうか。つまり、

  「収納帳から目録帳へ変わった」

ではなく、本庄氏の視野を拡張すれば、

「税帳の中で、情報を分類・分離・再結合する方式が変わった」

と見ることも可能だと、本稿の論者は考える。これは単なる名称史ではなく、帳簿の情報構造の変化だと理解すべきである

 さて、我々の視点から雑用の記載方法を見ると、天平六年前後の変化もまた別の意味を持ってくる。雑用が一つのまとまりとして記載されていた段階から、特定の支出項目が分離され、出挙などとの関係がより明確に整理されるようになったとすれば、それは単なる「書式変更」ではなく、

中央による勘会のために、地方行政情報をより細かな単位へ分解する必要が生じた

ことを示すとかんがえられるからである。


七 ここで初めて見えてくる「税帳の背後」

ここまで検討すると、一つの大きな問題が浮かび上がる。本庄論文が分析しているのは、基本的に完成した税帳である。しかし、完成した税帳の背後には、その税帳を作るために使用された大量の情報があったはずである。たとえば、

  郡で稲を収納する。

  その収納量を記録する。

  出挙に回す。

  誰にどれだけ貸したかを記録する。

  返納を確認する。

  利稲を計算する。

  雑用への支出を記録する。

  倉庫残高を確認する。

  それぞれの数字を郡から国へ報告する。

  国府では、それらを相互に照合する。

そして最終的に、

  中央へ送る税帳という一つの体系的な帳簿へ再編成する。

この過程を想定するなら、税帳は決して「最初の帳簿」ではない。

むしろ、

行政情報の最終的な集約点

だった可能性が高い。ここから、税帳研究には新しい分析対象が生まれる。

それが、「税帳生成プロセス論」である。


八 税帳研究の分析単位を変える

従来の税帳研究は、概ね、

税帳の成立

書式の変化

税帳使の変化

制度の変化

という形で、古代史研究者は取り扱ってきた。本庄論文も、この研究史の枠組みと流れの中で大きな成果をあげている。しかし、ここから先の研究では、

税帳そのものではなく、税帳を生成した行政情報の流れ

を分析単位に加える必要があると強調したい。すなわち、

従来:制度 → 税帳

今後:行政現場 → 情報発生 → 記録 → 照合 → 集計 → 再編成 → 税帳 → 中央での勘会

というモデルの設計図である。このモデルでは、税帳は終点に位置する。そして、税帳の記載項目一つ一つが、「この数字はどこで発生したのか」という問いを呼び起こす。

例えば「

①出挙」の数字があるなら、

その数字は、どの時点で確定したのか。

②「利稲」があるなら、

その計算は誰が行ったのか。

③「雑用」があるなら、

個々の支出はどの帳簿で管理され、それがどのように税帳の一項目へ集約されたのか。

④「収納」があるなら、

郡での収納記録と国府の税帳との間には、どのような中間段階があったのか。

という問いが連続して、発問される。これこそが、税帳を「読む」ことから、税帳を「作る」ことへ研究対象を広げることにつながり、新たな日本古代史の一面を切り開くだろう


九 木簡研究との接続――「作業原簿」という発想

この問題を考える上で、近年の木簡研究は重要な示唆を与えるだろう。というのも、木簡の多くは、最終的な正式文書には残らないような、現場の作業に密着した情報が記される場合がある。そこには、

  • 個人
  • 数量
  • 土地
  • 物品
  • 移動
  • 収納
  • 支出
  • 確認

など、行政実務を遂行するために必要な情報が墨書などで記述される。こうした木簡を、単なる「下級文書」あるいは「一時的な記録」として扱うだけではなく、我々は

最終帳簿を作成するための作業過程に位置づける

ことを提唱する。そのことで、仮に、「作業原簿」という概念を導入してみることで、現存する特定の帳簿名を意味するものではなく、むしろ、

行政現場で発生した個別情報を集め、確認し、集計し、最終的な正式帳簿へ再編成するために用いられた作業段階の記録

を指す分析概念を抽出できると考える。もしこのような中間段階が存在したならば、

木簡 → 作業原簿 → 郡・国の集計帳簿 → 税帳

という情報変換過程を想定できる。もちろん、このモデルをそのまま史実とすることはできない。しかし、少なくとも、

「税帳の数字はどこから来たのか」

という従来の税帳研究では十分に問われてこなかった問題を、具体的に検証可能な形で提示することができる。


十 本庄論文の成果を踏まえた新たな発見

ここで本庄論文に対する評価を明確にしておきたい。

本庄氏は、

  • 税帳の成立
  • 税帳の提出
  • 税帳使
  • 税帳の書式
  • 大租数文
  • 官稲混合
  • 雑用
  • 勘会

を相互に関連づけて論じている。この分析によって、税帳が単純な収納記録ではなく、中央政府による地方財政把握・監査と深く結びついた行政帳簿であったことが、より鮮明になった。だからこそ、その次の段階に進めば、新たな問題が生まれる。中央官衙が税帳を必要としたのは、

  その税帳を作るために地方行政は何をしていたのか。

  中央が勘会を厳格化した。

では、

  その厳格化は地方の帳簿作成作業をどのように変えたのか。

  税帳使の地位が上昇した。

では、

  なぜ高位の国司が必要になったのか。

  目録帳が登場した。

では、

  なぜ情報を目録化する必要があったのか。

と、改めて問い直すと、本庄論文の成果が、そのまま次の研究課題へと転換される


十一 「天平六年」を超えて――制度の変化から情報処理の変化へ

したがって、天平六年をめぐる問題も、

「官稲混合によって税帳制度が変わった」

という一文で終わらせるべきではない。むしろ、我々の分析視点を積極的に取り入れて、

官稲混合を含む財政制度の変化によって、地方行政が処理しなければならない情報の種類と量が変化し、その結果として帳簿の構造、担当者、確認方法、提出方法が再編されたのではないか。

という作業仮説を立てては、どうだろうか。この作業仮説であれば、天平六年の前後に現れる複数の変化を、一つの制度命令の直接的結果としてではなく、

   行政情報処理システム全体の再編

として、すべてが氷解する。そして、天平六年周防のような「例外」は、このモデルにとって障害ではない。むしろ、制度が一挙に全国へ浸透したのではなく、

   国ごとに異なる速度で実務が変化していった可能性

を検証する補強材料になる。

ここには、従来の「画期論」とは異なる時間軸がある。制度史の時間軸では、

大宝二年
天平六年

という二つのポイントが重要になる。しかし、行政実務の時間軸では、

制度変更 → 通達 → 地方への伝達 → 現場での対応 → 帳簿形式の変更 → 担当者の変更 → 中央での勘会の変化

という連続的な過程を見る必要がある。これは、

  「制度の時間」から「行政実務の時間」へ

という視点の転換でもある。


十二 税帳を「完成品」ではなく「情報の変換装置」として見る

ここまで議論を進めてくれば、税帳に対する見方そのものも変化するに違いない。税帳は、単に、

「一年間に何を収納したか」

を記した帳簿ではなく。地方行政の現場で発生した大量の個別情報を、

   中央政府が理解し、比較し、照合し、勘会できる形式へ変換する装置

だったと考えることである。この意味で、税帳は「財政帳簿」であると同時に、

   行政情報の標準化装置

でもあったのではないだろうか。観点を変えれば、郡ごとに発生する異なる情報を国府が集め、国ごとに異なる実情を一定の帳簿形式に統合し、さらにそれを中央政府が比較可能な情報として受け取る。

このように考えるなら、税帳制度の本質は、単に税を徴収する制度ではなく、

地方の行政現場を、中央政府が帳簿を通じて把握可能な状態にする情報システム

にあった可能性がある。この観点を持つメリットは、「税帳使」の問題もまた新しい意味を持つことである。税帳使は単に「帳簿を運ぶ使者」なのではない。その背後には、

地方行政で生成された情報を、中央が受け取ることのできる形式へ保証する者

としての役割が存在したことである。


十三 結論――本庄論文から次のステージへ


繰り返すまでもなく、本庄総子「税帳と税帳使」は、税帳の成立と変化を、大租数文、官稲混合、税帳使、書式、雑用記載などの諸要素から総合的に考察した重要な研究である。しかしながら、前述したように、大宝二年「始送于弁官」の性格、税帳の提出時期、官稲混合をめぐる変化などについては、なお検討すべき問題が残されている。しかし、本稿が最も重視したいのは、個々の学説の当否ではない。本庄論文を読むことで、むしろ次の問題が明確になったことである。これまでの税帳研究は、税帳を完成した史料として分析する傾向が強かったのではないかという反省の上に立てば、税帳は、制度によって突然生み出されたものではなく、その背後には、

情報の発生

記録

照合

集計

再編成

税帳作成

中央への送進

勘会

という行政情報の長い流れに気づくことになる

したがって、今後の税帳研究に必要なのは、税帳制度の成立時期をさらに細かく確定することだけではない。むしろ、

税帳はいかにして作られたのか。

という問いを、独立した研究課題として設定することである。これは、税帳研究の対象を、

   「税帳」から「税帳を生成した行政プロセス」へ

拡張することを意味する。そのときにが、税帳研究の分析単位も変わる。

従来の、

制度 → 税帳

という一方向のモデルから、

行政現場 → 個別情報 → 作業記録 → 集計・照合 → 税帳 → 中央での勘会

という情報生成・変換モデルへ移るはずである。この視点に立てば、大宝二年も、天平六年も、それ自体を「制度の始点」あるいは「制度の断絶点」として固定する必要はない。重要なのは、その前後で、

地方行政が何を記録し、何を確認し、何を集計し、何を中央へ報告する必要が生じたのか

を解明することであり、その本質の究明である。その意味で、本庄論文は終点ではない。

むしろ、本庄氏が明らかにした税帳制度の構造を基盤として、その背後に隠れていた行政現場へ降りていくことが、これからの税帳研究に求められているのではないだろうか。

税帳研究は、

「税帳とは何か」

を問う段階から、

「税帳はいかにして作られたのか」

を問う段階へ進む時期が到来した。そして、この問いに答えるためには、紙に残された完成済みの税帳だけではなく、その背後にあった木簡、帳簿、郡からの報告、倉庫管理、出挙管理、国府での照合・集計といった行政実務を、一つの連続した情報処理過程として捉え直さなければならない。そこに、古代国家を「制度」としてではなく、

実際に動いていた行政システムとして復元するための、新たな税帳研究の可能性があると予告しておきたい。