福岡県太宰府市内山にある竃門神社の創建に関する私案はない。通説のように、その創建は8世紀後半に遡ると考えて良いのではないだろうか。
現祭神は玉依姫命・神功皇后・応神天皇。同社は『延喜式』巻10神祇10/神名下/に、「明神大」と記載され、全国に点在する名神神社の一つである。
本来の竈神社の祭神は玉依姫ではなかっただろうか。
ただし、この竈門神社は下宮であり、社殿は上宮が宝満山山頂に、かつては山中の捌ごうっめ付近に中宮もあったが、明治に廃絶したという。
<資料①>『叡山大師伝』延暦22年閏10月23日条
<資料②>『扶桑略記』延暦22年閏10月23日条の竈門山寺、
承和7年4月丙寅(21日)条には、竈門神社が従五位下から従五位上に昇叙した
とある。
<資料③>『日本紀略』寛平8年9月4日条
従四位上竈門神に正四位上を授く(大日本史料、1編2冊351頁)
この神社を有名にした要因の一つが、延暦22年閏10月23日の最澄の
*「僧最澄、遣唐使に随行して大宰府竈門山寺に到り、ここで渡海の無事を祈って薬師仏像を造り、また法華経など講説する。ついで翌年七月、遣唐使第二船に乗り、中国明州に到る。」(『太宰府市史・古代資料編』348頁)
であろう。
ここでは、宝満山竈門山寺と修験道界・山伏信仰に関しては言及しないで、文久3年 (1863)に竈門山寺 (大山寺)か ら聖護院に提出した 『筑前国竈山末山同派修験名書帳』によると, 山内に 26坊, 筑前一円に37の 組下山伏を擁 していたとだけ紹介しておきたい。
本稿の狙いは、竈門山寺で、なぜ渡海の無事を祈ったかを究明することにある。
<参考資料>
ちなみに、筑紫国の名神大社は次の通りである。
宗像郡:宗像神社(三座) — 大社・名神大社、織幡神社 — 大社・名神大社
那珂郡:筥崎宮(八幡大菩薩筥崎宮) — 大社・名神大社・一宮、住吉神社(三座) — 大社・名神大社・一宮
糟屋郡:志加海神社(三座) — 大社・名神大社、
御笠郡:筑紫神社 — 大社・名神大社、 竈門神社 — 大社・名神大社
下座郡:美奈宜神社(三座) — 大社・名神大社
<参考文献>
森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」『英彦山と九州の修験道』(山岳宗教史研究叢書一三)名著出版 一九七七年、
中野幡能編『筑前国宝満山信仰史の研究』名著出版 一九八〇年、
森 弘子『宝満山歴史散歩』葦書房 一九八一年、
小田富士雄編『宝満山の地宝―宝満山の遺跡と遺 物―』太宰府天満宮文化研究所、1982年
小田富士雄 ・ 石松好雄 ・ 小西信二『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』財団法人太宰府顕彰会、1984年、
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡』(太宰府市の文化財第12集)太宰府市教育委員会、1989年、
小西信二 「宝満山祭祀遺跡群」『太宰府市史』考古資料編 太宰府市、1992年
森 弘子「大宰府竈門山寺考」『山岳修験』第三〇号 日本山岳修験 学会 二〇〇二年、
森 弘子「宝満菩薩の誕生」『山の考古学通信』№一七 二〇〇五年、
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群4』(太宰府市の文化財第79集)太宰府市教育委員会 2005年、
山村信榮「考古学から見た 太宰府宝満山」『山の考古学通信』№17、2005年、
山村信榮「大宰府における国境祭祀と宝満山 ・ 有智山寺」『仏教芸術』282号、毎日新聞社 2005年
山村信榮「発掘調査からみた宝満山について」『都府楼』第39号、財団法人古都大宰府保存協会 2007年、
岡寺 良「宝満山近世僧坊跡の調査と検討―山岳寺院の平面構造調査―」『九州歴史資料館研究論集』33、2008 年、
森 弘子『宝満山の環境歴史 学的研究』財団法人大宰府顕彰会、2008年、
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群6』太宰府市教育委員会、2010年、
森 弘子「宝満山―大宰府鎮護の山―」『山岳信仰と考古学Ⅱ』同成社、2010年
時枝務 「筑前宝満山における山頂祭祀の成立 」『立正大学文学部論叢 』2013年