2026年9月7日月曜日

「正税帳」研究の「一歩先」を考える

 

正税帳研究の「一歩先」を考える

――中央官衙の文書処理と、失われた行政記録をめぐる作業仮説――

1)はじめに

従来の正税帳研究史を振り返ると、その研究の主軸は「正税帳そのもの」であった。

すなわち、

  • なぜ正税帳を作成したのか
  • どのような情報が記載されているのか
  • どのような会計構造を持っているのか
  • 地方官衙ではどのような業務を経て正税帳が作られたのか
  • 正税帳は中央政府に対して何を説明しようとしたのか

という課題を多くの専門家が取り組んだ。その過程を経て、正税帳を単なる「地方から中央への報告書」と見る理解から離れ、我々は、これを、

地方官衙で発生した多様な現実を、中央政府が理解・照合・判断できる行政情報へ変換する「情報インターフェース」

として捉える独自の作業仮説を提出した。これに対する検証は終わっていないものの、我々の観点を支えるのは、次のような分析視点である。なるほど正税帳には、単なる数字の集計だけではなく、身死による免稲、不用馬の売却、酒・滓、雑用、運夫粮料、倉庫の状況など、地方行政の現場で発生する多様な問題が記載されている。だからこそ、正税帳は、

地方行政の現場で発生した「制度では予定しきれない現実」を、数量・分類・会計・法的カテゴリーへ変換し、中央に対して説明可能にする装置

であった可能性の存在である。それを踏まえて、我々の考察をさらに先に進めるならば、新たな問題に直面する。換言すれば、

「正税帳が中央へ上進された」

ところで終わらず、むしろ、

「中央は、上進された正税帳をその後どう処理したのか」

という課題である。律令に規定されているから上進された正税帳であった。それはまちがいない。しかしながらその正税帳の行きつく先で、その正税帳がどのように取り扱われたかを解明しなくては、律令制の本質の片面を見落としていないだろうか。本稿は、その立場の表明に重点を置くことにある。

2) 「上進」で正税帳の仕事は終わったのか

従来の史料の見方では、概略的には、

地方官衙

正税帳作成

中央へ上進

という一方向の流れを想定する。しかしながら、現実の行政実務を考えると、この理解には大きな空白がある。中央政府には、全国約60か国から大量の文書が届く。自然な理解として、送達先の中央官衙の官人らが、単に「受け取りました」と言って、受領印を押して、それぞれの帳簿をそのまま文書保管所に置いたままにしたとは考えにくい。

当然、

  • 受け取ったか
  • どの国の文書か
  • 何年度のものか
  • 必要な帳簿が揃っているか
  • 数字に矛盾がないか
  • 他の報告と一致しているか
  • 異常な数値はないか
  • 説明を必要とする事項はないか
  • 地方に問い合わせる必要があるか
  • 既に処理が終了したか

といった行政上の仕事が発生する。したがって、正税帳の上進は行政過程の「執着点」ではなく、

中央官衙における新しい行政処理の「起点」

であったと想定しても、何も不合理ではないはずである。

3) 「中央で何をしたのか」という問い

ここで、我々の想定が妥当だとすれば、次の発想を許していただけるだろう。それは、

「もし正税帳が中央官衙に送達された時点から、実際に文書処理が進行するにつれて、どんな文書が新たに作成されたのか」

を、今後予測することで、我々の視野は大きく拡大するに違いない。これは、「こんな文書があったはずだ」と勝手に想像することとは違う。重要なのは。

行政業務から必要文書を逆算する

という発想の逆転である。たとえば、現代の行政組織と比較しただけでも。最低でも

   ①大量の書類が届けば、受領記録の必要が生じる。

   ②処理すべき案件が多数あれば、一覧表の必要が生じる。

   ③問題を発見すれば、問題点を記録する必要が生じる。

   ④相手に訂正を求めれば、その指示を残す必要が生じる。

   ⑤回答が届けば、それを受領したことを確認する必要がある。

   ⑥再確認すれば、その処理結果を記録する必要がある。

   ⑦未処理の案件があれば、それを次の担当者へ引き継ぐ必要がある。

の事務手続きがスタートして、行政が実際に動けば、その動きしたがって、何らかの文書的痕跡が伴うことは、だれしも、どこでも、いつでも容易に想起できる。この発想が本稿の主軸にある。

4) 予測される「文書の連鎖」

 中央各官衙が正税帳を実際に処理した時点から、一冊の帳簿だけではなく、複数の文書・記録が連鎖することは言うまでもない。その第一段階として、次の十種類のプロセスを容易に推定できるだろう。

1 受領の痕跡

地方から正税帳が「到達」した瞬間、その担当官衙内部では ①収受(到達確認)→②文書管理簿登載→③形式審査→④実質審査開始 という4段階の事務処理が即時にスタートしたに違いない。具体的には、

  • 何国から
  • 何年度の
  • 何という帳簿が
  • いつ到着したか

を記録する何らかの受領記録作成を必要となっただろう、文書管理簿への記載(差出人・件名・到達日・経由機関名)⇒文書余白への収受印押印もしくは署名⇒一時保管用文書番号付与は最低限でも存在したと推定するのは、たとえ単純な「受付簿」であったにせよ、その膨大な数量の帳簿整理なくして、次の形式審査に迎えるはずがない。我々にとって重要なのは名称ではなく、

「中央各官衙が、その文書を受け取ったことを管理していた痕跡」

である。今、長屋王邸から出土した無数の木簡から類推して、それは紙媒体ではなく、木片であった可能性も十分に想定しておくべきだろう。

2 進上文書の目録

さらに大量の文書を処理するためには、

「どの国から、どの文書が提出されたか」

を一覧化する必要があったと考えて、不自然ではない。そうであれば、

   進上文書目録

の存在を仮説として提案したい。これは何も正税帳だけの一覧表とは限らない。『出雲国計会帳』から判断して、

  各国から送達された租税関係、戸籍・計帳、考課、貢進物、その他の解・牒・符など

をまとめた中央側の文書管理記録であった。強調したいのは、我々が探すべきものは必ずしも「正税帳目録」ではない。

「中央に集まってくる地方文書を管理する仕組み」

そのものである。

5)中央による点検・審査

 正税帳が保存書庫に直送される単なる保存用の文書ではなく、行政上の認識を成立させるための情報インターフェースであったならば、中央官衙側では当然に、形式書類審査の項目として典型である 

  • 様式の適合性(最新様式か)
  • 記載漏れ・押印漏れ
  • 添付書類の有無
  • 前年度との比較
  • 国・郡別の合計
  • 他帳簿との一致
  • 法令上の提出要件(期限など)
  • 誤送付・誤分類の有無

などを審査したはずである。形式不備がある場合は補正指示を行い、補正後に「受理」へ進む。ここでは「中央官衙がすべてを精査した」と即断してはならない。むしろ重要なのは、

中央が何を、どの程度、どの方法で確認したのか

という認識である。

6) 疑義事項のメモ

ここから、さらに興味深い問題が出てくる。

もし審査・点検によって、

「この数字は何か」
「なぜこの支出が発生しているのか」
「この減少は何によるのか」
「この免除は認められるのか」
「この数量の計算は正しいのか」

という疑問が生じたなら、中央官僚はそれを記憶だけで処理できない。まずは補正指示(返戻)の内容は

  • 不備の具体的指摘(例:添付書類不足、記載漏れ)

  • 補正すべき箇所の明示

  • 補正方法(再提出・追加資料提出・訂正印など)

  • 補正期限の設定(行政手続法 §7 に基づく)

などが推定されるが、その瞬間に

疑義事項を記録する何らかのメモ、控え、一覧、付箋的記録

が存在しただろう。ここでも、必ずしも「正式な文書」である必要はない。木簡、紙片、帳簿の余白、控え、付札など、極めて簡便な作業記録だった可能性も十分に想定できる。この手続きは、「作業原簿」の観点に立てば、地方官衙でも適用された仕組みであろう。例えば、

中央官衙にも「作業記録」が存在したのではないか。

という見込みである。他方で、到達後に直ちに行われる管理処理として、

  • 文書の分類(行政文書ファイルへの編入)

  • 保存期間の設定(1年〜30年、または永久)

  • 保存期間満了後の移管・廃棄の予定設定(レコードスケジュール)

など、「書類審査」とは別系統の、一般的な文書管理体系の自動起動である。

7) 地方への指示

疑義が発生すれば、次の段階は地方への問い合わせ・指示である。例えば尾張国正税帳に不備が発見されたと仮定すれば、

中央各官衙は、

「この部分について説明せよ」=不備の具体的指示
「数字を再確認せよ」
「誤りがあるので訂正せよ」
「必要な根拠資料を添付・提出せよ」

   「補訂期限の設定」 

などの補正指示(返戻)を尾張国司に送ったはずである。ここで注意すべきは、

   「正税帳に不備がある」

ということと、

   「その不備を中央がどう処理したか」

は別問題だということである。これまでの研究史をたどると、前者に重きを置いて検討を重ねてきた傾向は否めない。その視点を逆な方向へも向けたいと提唱したい。

8) 地方からの回答・再上進

中央から指示が出れば、地方はそれに回答する。したがって、

地方 → 中央

という一方向の通信ではなく、

地方

正税帳上進

中央点検

疑義

中央指示

地方回答

再上進

という循環型の行政通信が想定される。この構造が確認できれば、我々がこれまで構想してきた「通信モデル」は、単なる比喩ではなく、古代行政の実務構造を説明するモデルへ一歩近づく。単に回答が到着しただけでは、行政処理は完了したといえない。

中央は、

「指示した事項について補正期限内に回答があったか」

を確認し、

「回答によって疑義が解消されたか」

を再確認する必要がある。ここに、

   再点検・再確認

という行政行為を想定できる。もしこのような過程が存在したなら、正税帳は一度提出して終わる「報告書」ではない。むしろ、

地方と中央との間で、情報を何度も往復させながら行政上の認識を成立させる媒体

だったことになる。

9) 処理完了の記録

さらに、中央では、収受印が正式に確定し、標準処理期間が再起動し、内容審査(実質審査)が開始し、さらに決裁ルートへ起案可能となる。そのレベルに達した後、

「この案件は処理済みである」

という状態管理が必要になる。全国から多数の文書が届く以上、

  • 未処理
  • 処理中
  • 回答待ち
  • 再確認中
  • 処理完了

といった状態を何らかの形で管理していた可能性がある。

ここで想定されるのが、

「処理完了記録」(仮称)

である。もちろん、そのような名称の帳簿が存在したと断定することはできないし、管見の限りではいまだ発見に至っていない。しかし、

行政処理が存在したなら、処理状態を管理する何らかの仕組みが必要だったのではないか

という疑問いは残る。

10) 未処理案件の持越し

これは、さらに現実的な問題である。すべての案件が一日、一月、一年のうちに処理されるとは限らない。

  自然災害などが理由で遅れることもある。

  担当者が交代することもある。

  中央で判断を要する案件もある。

したがって、

「まだ処理が終わっていない案件」

を次の担当者・次の処理期間へ持ち越すための記録が存在した可能性もある。もしこのような記録があれば、それは古代国家行政の意外に高度な側面を示すことになる。すなわち、古代官僚制は単に文書を「作成」していたのではなく、

案件を発生させ、処理し、保留し、再開し、完了させる「ワークフロー」を管理していた

という側面に気づくはずである。

11) 処理済み文書の廃棄・再利用

そして最後に、本稿の目的に立ち返るならば、中央で行政処理が完了した文書は、その後どうなったのかという疑問を呈したい。我々が三つの可能性を区別したい。

A 重要文書として保存された

中央政府が、「重要である」と判断して長期間保存の指示。

B 行政上の必要性がなくなり、廃棄された

処理が完了し、もはや行政上の利用価値を失ったため、廃棄の指示。

C 別用途に再利用された

不要となった文書が、紙そのものの価値によって別の官衙・写経所などで再利用の指示。

改めて言及するまでもないが、現在、我々の手に残されている正倉院文書の性格を再考してはどうだろうか。

12)「残った史料」から「失われた史料」へ

 それゆえに、本稿では別な角度から発想したアイディアを提出したい。周知のごとく我々が見る正税帳は、奈良時代に作成された正税帳の全体ではない。むしろ、

作成された大量の正税帳のうち、何らかの文書のライフサイクルを経て、現在まで残ったものだけ

である。したがって、これまでのように「なぜこの正税帳が残ったのか」という問いだけでは不十分である。その一方先に立ち、

「なぜ、ほとんどの正税帳は残っていないのか」

を問うべきではないだろうか。この逆転の思考を大切にしたい。

13) 「中央による選別保存」という大胆な仮説

ここでも、仮定の上に仮定を重ねる式であると重々知りつつ、一つの大胆な作業仮説を置くことができる。

現在われわれが読むことのできる正税帳は、奈良時代に作成された正税帳の「代表標本」ではない。中央政府による行政的処理と、その後の文書選別を通過して生き残った「選択された残存物」なのではないか。

さらに大胆に言えば、

正倉院文書に残った正税帳は、「偶然保存された帳簿」なのではなく、中央政府の文書管理・廃棄・再利用の過程を経た結果として、今日まで残った帳簿なのではないか。

ただし、この段階では、これは事実認定ではなく研究仮説である。我々の狙いは「偶然な残存」という通説から脱却し、「偶然性」を「必然性」に転換させることである。

そして、この仮説には反証可能性を認めたい。もし本当に中央による選別が存在したならば、現存正税帳には、現場に残す痕跡(trace evidence)として俗にいう「指紋もしくはDNA」が残存していたと考えたい。

14) 「史料の指紋」を探す

中央による選別や行政処理があったなら、現存史料に偏りが現れるはずである。例えば、

  • 特定の年代に集中している
  • 特定の地域の正税帳が多い
  • 特定の帳簿類だけが残る
  • 一つの国について複数の関連文書が残る
  • 数字の異常や特殊な行政処理を含む文書が残りやすい
  • 中央で問題になった可能性のある事項を含む文書が残る
  • 再利用された紙の状態に共通性がある
  • 行政処理終了後、比較的早期に再利用された形跡がある

などである。観点を変えれば、

「何が残ったか」ではなく、「残ったものにどのような偏りがあるか」

のPattern Evidenceを探すことである。文書選別の存在を逆算できる可能を探すことである。

15)もう一つの可能性

先ほどの「中央が重要文書を選んで保存した」という作業仮説だけに固執するのではなく、逆の可能性も同時に検討する心構えが求められる。

中央で行政処理が完了したからこそ、文書としての行政的生命が終了し、廃棄・再利用されたのではないか。

この場合、正倉院文書に残った正税帳は、「重要だから保存された文書」ではなく、

「行政上の役割を終えたため廃棄・再利用された文書」

であったと考えることである。今後、我々の調査の前提は

  保存選別

  廃棄選別

  再利用選別

を区別することになる。

16)「ないもの」を予測する

従来の史料研究では、一般的に「残っている史料から何が分かるか」に注力してきた。その逆に言えば、「史料に記述されていないことは、語らない」式のトレーニングであった。しかし、これだけでは不十分であることは、上述した通りである。我々は一歩先に立ち、

「この行政システムが本当に存在したなら、どんな文書が存在しなければならないのか」

を予見する。そして、その予測と現存史料を比較する。

例えば、

行政行為予測される文書的痕跡
文書を受け取る受領記録(仮称、以下同様)
大量の文書を管理する進上文書目録
帳簿を確認する点検・勘検記録
疑問を発見する疑義事項メモ
地方に命令する指示書・符・牒等
地方が回答する回答・再上進文書
再確認する再点検記録
処理を終了する処理完了記録
処理が終わらない未処理案件の管理記録
文書を廃棄する廃棄・再利用の痕跡

である。そして、

「この中で現存するものは何か」

を探す。さらに、予知を進めて、

「存在したはずなのに、なぜ残っていないのか」

を検討する。これが、未来の新しい史料批判の方法ではないだろうか。「ナイナイと嘆き続けるのではなく、あったとするならば」という発想の逆転である。

17) 「ない」ことと「あったはず」

「予測した文書が見つからない」からといって、「存在しなかった」と即断してはならない。

「行政上必要だったはずだから、必ず存在した」

と断定することも、それもむやみにしてはならないのは「偽書」の恐れと至るからである。

そこで、少なくとも次の六つの可能性を識別してはどうだろうか。

  1. そもそも存在しなかった
  2. 存在したが、短期間で廃棄された
  3. 存在したが、紙ではなく木簡など別媒体だった
  4. 別の帳簿・文書に吸収された
  5. 断片として現存しているが、それと認識されていない
  6. 現在まで残っているが、別の名称・分類の下に置かれている

正倉院文書の残存状態を知る限り、特に第5・第6の状態で伝来してきたに違いない。

つまり、「ない」のではなく、「それだと認識していなかった」という認識の下、江戸時代後半まで至った。

18) 「正税帳研究」から「正税帳を扱った人々の仕事研究」へ

この視点に立つと、研究対象そのものが変わる。これまでは、

正税帳に何が書かれているか

を研究してきた。だからこそ

正税帳を誰が、いつ、どのように読み、どこを確認し、どことどこを計算し、何を問題とし、誰に何を指示し、その回答をどう処理したのか

などへの着目であった。とりわけ先行研究者の努力が断片の連続性と全体像の復元であった。「正税帳研究」の重心を「正税帳をめぐる行政実務研究」へと移行してもよい時期に至ったと提案したい。かなり大きな転換であるのは、正税帳が一枚の完成した文書ではなく、その背後には、

作成する人

点検する人

上進する人

受領する人

検査する人

疑義を発見する人

指示する人

回答を作成する人

再確認する人

処理を完了する人

最後に文書を保存・廃棄・再利用する人

という、巨大な行政労働の連鎖があったと推測されるからである。

19)「通信モデル」

これまで我々が考えてきた「通信モデル」は、

地方 → 中央

という単純な通信ではなかった。こんごは、

   現場情報の発生

作業原簿・中間記録

地方官衙での照合・集計

正税帳への再編成

中央への上進

中央での受領・目録化

点検・勘検

疑義事項の抽出

地方への指示

地方からの回答・再上進

中央での再点検

行政的認識の成立

処理完了

保存・廃棄・再利用

という循環的な情報処理システムを構想したい。そのためには、正税帳は「報告書」であるとともに、行政処理の途中に置かれた媒介文書だという前提に立つことになる

20) 尾張国正税帳を「中央側から」読み直す

われわれの「現場モデル」を具体化するうえで、尾張国正税帳を取り上げたい。非常に重要な材料になるはずである。たとえば、

  • 不動穀
  • 動用穀
  • 正税穀
  • 郡稲
  • 出挙
  • 身死免稲
  • 不用馬売却
  • 皮の売却
  • 雑用
  • 運雑物夫粮料
  • 倉庫の状況
  • 酒と滓
  • 「病」
  • 「向京」

などの記載を見るとき、これまでは、

「なぜこの情報が記載されたのか」

を考えてきた。さらに、

「中央官僚がこの数字を見たとき、何をチェックした可能性があるか」

と問う視点も導入してほしいと強調した。

例えば、

出挙の元本と利稲

利率の確認

あるいは、

古稲

造穀・得穀

数量関係の確認

あるいは、

身死による免稲

債権減免の根拠確認

あるいは、

不用馬売却

資産処分の妥当性確認

というように、正税帳の各項目を「中央のチェック項目」として逆向きに読むことである。

21) 「サンプリング」という新しい問題

さらに本稿の議論を前提とすれば、もう一つ重要な問題に気付く。中央は本当に正税帳の全項目を詳細に確認したのかという疑問である。

異常値や重要項目だけを抽出して確認したのか。

これは現代的な意味での「サンプリング」法であるが、現在と完全に同じだったと断定する必要はない。

大量の行政情報を処理するには、どこを重点的に見るかを決める必要がある

という問題は古代でも変わらない。

もし中央が、

  • 前年度との差
  • 大幅な増減
  • 特殊な免除
  • 資産売却
  • 出挙利率
  • 大規模な支出
  • 特異な数量
  • 他帳簿との不一致

などを重点的に確認していたなら、正税帳そのものの記載構造に「中央がチェックしやすいように作られた構造」が現れている可能性がある。

22) 正税帳は「地方で作成された完成品」か

第一の作業仮説は、

現存する正税帳は、何らかの選別を経て残ったのではないか。

第二の作業仮説は、

中央官衙には、正税帳を処理するための受領記録・点検記録・指示書・再提出管理記録などが存在したのではないか。

しかし、この二つは実は一つのコインの裏表である。それというのも、

「正税帳には、我々がまだ見ていない文書的な前史と後史があるのではないか」

というフェーズである。

正税帳が突然、「地方で作成された完成品」として現れ、「中央へ提出され、そのまま正倉院に残った」わけではないと仮定するか、そうでないかで見解は大きくことなる。県史や市町村史に多く見られるように「偶然に残った」とすれば、読書の疑問はその時点で遮断されてきた。しかしながら、多くの読者の不満は、正税帳作成には、

   作成・集計・照合・上進

という作業があり、その後には、

   受領・点検・疑義・指示・回答・再点検・処理完了・保存・廃棄・再利用

があったと想定するならば、「偶然だ」との説明の論拠を失いかねないだろう。我々が現在見ているのは、その巨大な行政過程の一断面にすぎないからだ。

23) 今後の史料調査

したがって、今後の史料探索では、「正税帳」という語だけを検索してはいけない。

むしろ、

① 受領:受領、到来、進上、納入など、文書が中央に到着したことを示す表現。

② 点検:勘、勘検、検校、校合、照合など、文書を確認したことを示す表現。

③ 疑義:不備、誤り、疑問、未詳、勘申を要求する表現。

④ 指示:符、牒、移、下知など、中央から地方へ命令・問い合わせを伝える文書。

⑤ 回答:勘申、解、請、返答、再提出など、地方から中央への応答。

⑥ 再確認:再勘、再検、校合、確認済みなどの処理。

⑦ 処理終了:案件が終了したことを示す痕跡。

⑧ 未処理:保留、未進、未勘、後日処理などの痕跡。

⑨ 文書管理:案、控、目録、付、具注など、文書そのものを管理した痕跡。

⑩ 廃棄・再利用:反故、裏面利用、裁断、再利用など、文書の第二の生命を示す痕跡。

こうした語彙を横断的に調査することで、我々の目的に近づくと予感する。

正税帳という名称を持たない文書の中から、

「正税帳を処理するための文書」

が浮かび上がる。

24) 「史料がない」ことは研究の終点か

最終的に中央側の「チェックリスト」や「処理簿」が一枚も発見されなかったとしても、研究はそこで終わらない。むしろ、

「なぜ、存在した可能性のある中央側の実務記録が残っていないのか」

を次の問題にする。その理由として、

  • 一時的なメモだった
  • 木簡だった
  • 行政処理終了後に廃棄された
  • 正式文書に転記された後に廃棄された
  • 他の帳簿に統合された
  • 写経所などで再利用された
  • 文書名が異なるため、現在の史料分類では発見できない

などを検討することになる。したがって、

史料の不在そのものを史料批判の対象にする。

25)おわりにかえて――「正税帳の向こう側」へ

本稿の目的は、正税帳研究のさらなる問い掛への旅立ち宣言である。従来の常識での問いは、偶然に正倉院に残存した断片から

「正税帳には何が書かれているのか」

だった。その次に、

「なぜ、そこまでして正税帳を作ったのか」

が生まれた。ここで我々の問題設定は、では

「中央政府は、それを受け取って何をしたのか」

へ進んだ。そしてその疑問の先へ進め、

「中央政府が本当に正税帳を処理していたなら、その仕事を記録するために、どのような文書を必要としたはずなのか。」

そこから、

受領の痕跡

進上文書の目録

点検・勘検

疑義事項の記録

地方への指示

地方からの回答・再上進

再点検

処理完了

未処理案件の管理

保存・廃棄・再利用

という「文書の連鎖・循環」を予測した。この連鎖のどこかには、現在の正倉院文書、木簡、正税帳断簡、解・牒・符その他の行政文書と接続する痕跡が残っているというかすかな期待の上にある。そして、もしその痕跡が見つからなかったとしても、問題は消えない。

「なぜ存在したはずの文書が残っていないのか。」

この問いを次に追究することによって、正税帳研究は、

「残された帳簿を読む研究」

から、

「帳簿が作られ、送られ、読まれ、処理され、指示が出され、回答が返され、最終的に保存・廃棄・再利用されるまでの、文書の全生命史を復元する研究」

へと必然的に転換する。そして、この視点に立ったとき、正倉院文書に残る正税帳は、もはや孤立した古文書ではない。

それは、

古代国家という巨大な情報処理システムの中で、地方と中央の官僚が実際に仕事をした痕跡

となるはずである。もはや我々の視点は、正税帳の「前」と「後」に向かることになる。

そして最も重要なのは、その「後」にある。なぜなら、そこには、

正税帳を読んだ人間が何を考え、何を疑い、何を命じ、何を確認し、そして何を「処理済み」としたのか

という、これまでほとんど見えていなかった古代官僚制の本質を解析できる豊穣の大地が開けるからである

2026年9月6日日曜日

正税帳は「報告書」だったのか ――律令国家の情報統治を再考する――

 正税帳は「報告書」だったのか

――上進後の処理から律令国家の情報統治を再考する――

1)はじめに――「なぜ、そこまでして帳簿を作るのか」

正税帳を考えるとき、これまで本稿の論者は「情報処理システム」という観点から、地方官衙において膨大な行政情報が収集され、照合され、集計され、最終的に正税帳という統合された文書に編成された過程に注目してきた。しかし、ここには一つの重大な問題が残る。

  なぜ、そこまでして正税帳を作り、中央へ上進しなければならなかったのか。

 地方官衙内部の財政管理だけが目的ならば、地方官衙が必要とする帳簿を作ればよい。現場で稲を管理し、出挙を計算し、倉庫を管理し、物資を支給し、馬を売却し、酒を醸造し、運送夫に食料を支給するためには、地方官衙内部の作業帳簿・原簿・台帳があればよい。それにもかかわらず、最終的に膨大な情報を一つの正税帳に統合し、中央へ上進する。ここに、正税帳制度の本当の意味を探るべきではないか。私はこの問いから出発して、従来の正税帳理解を根底から覆したい。

Ⅰ) 正税帳は「中央政府への報告書」であるか

 正税帳については、一般に「地方財政の決算報告」「中央政府への財政報告」という理解が通説化している。それは間違いではない。しかし、それだけではすべてを説明できない面もあるのも、事実である。

正税帳には、単純な最終残高だけではなく、

  • 定穀
  • 不動穀
  • 動用穀
  • 正税
  • 郡稲
  • 出挙
  • 利稲
  • 身死による免稲
  • 不用馬の売却
  • 伝馬の売却
  • 皮の価
  • 古糒
  • 雑用
  • 運雑物夫粮料
  • 倉庫の種類と数量

など、きわめて多様な情報が記載されている。これまでも本稿の論者が繰り返し強調してきたように、これは単なる「決算結果」の羅列ではない。そこには、

何があったのか。
それをどう処理したのか。
その結果、何が残ったのか。

という行政過程そのものが埋め込まれている。したがって正税帳は、単なる結果報告ではなく、

地方行政の活動過程を、中央が理解できる行政情報へ変換した文書

だったのではないかと考えなくてはならない。しかし、それでも問題が残るのは、中央政府へ上進した後、それを解明することである。

Ⅱ) 最大の空白――「上進した後」

各国の国衙で、毎年、正税帳は完成する。国司はこれを中央へ上進する。

では、その後、どうなったのか。この問いを正面において解明して置く必要がないだろうか。ここで、三つの可能性がある。

① 上進 → すべて問題なし・承認された場合

中央は正税帳を受け取り、形式・数量・理由について問題なしと判断する。その場合、正税帳は中央における確認済み記録となる。

② 上進 → 一部は問題なしで承認されたが、認可されない箇所も残った場合

中央は正税帳全体を否定するのではなく、

「この部分は問題ない。しかし、この部分については説明が必要である」

と判断する。例えば、

  • 特定の支出
  • 特定の売却
  • 損失
  • 免除
  • 出挙の処理
  • 物資の価格
  • 人員・労働関係

などについて、追加説明・訂正・再計算・証明などを要求するばあい、正税帳は一方的な報告書ではない。中央との行政的なやり取りの起点になる。

③ 上進 → すべて受け取りを拒否された場合

中央が正税帳を受け入れず、返却する。この場合には、

  • 再調査
  • 再計算
  • 再作成
  • 責任者への説明要求
  • 記載内容の訂正

などが必要になろう。ここまで考えると、正税帳は「完成品」ではなくなる。

むしろ、

中央による受領・確認・差戻しを想定した行政文書

としてみなして良い。

Ⅲ ここで「常識をひっくり返す」

ここが強調したいのは、従来の発想では、

地方で正税帳を作る

中央へ提出する

中央が管理する

という一方向の流れを想定してきた。そしてそれで完了だと。しかし、これを逆転な見方からすると、

正税帳は「提出して終わる文書」ではなく、「提出することによって行政的処理が始まる文書」だったのではないか。

これが今回の新しい作業仮説である。すなわち、

  地方 → 中央

という一方向の「報告モデル」ではなく、

  地方 → 中央 → 確認・判断 → 地方

という循環モデルを考えべきではないだろうか。

Ⅳ 「上進」は行政の終点ではなく、第二段階の始点だったのではないか

この視点に立つと、「上進」という行為の意味そのものが変わる。従来、

正税帳を作成した。
だから中央へ提出した。

と考えがちである。しかし、

中央へ提出しなければ、その行政処理が完結しない

と考えればどうだろうか。地方で発生した出来事は、地方だけで処理して終わるものではない。この点を逆な見方をすれば、仮に地方だけでトラブルを処理したならば、どうなるだろうか。中央に提出され、

  • 受領される
  • 内容が確認される
  • 問題点が識別される
  • 必要なら照会される
  • 訂正される
  • 認定される

ことによって、初めて国家行政上の「記録」として成立する。この場合、正税帳は単なる記録ではない。行政的認識を成立させるための媒介物である。

ここから、以前提出した仮説、

正税帳は、「報告書」というよりも、地方官衙と中央政府との間で行政上の認識を成立させるための情報インターフェースであり、そこには「行政的調整」の機能が内在していた。

が、さらに一段重みが増す。

Ⅴ 正税帳は「情報インターフェース」だけではない

私はここで、われわれの仮説をさらに一歩進めたい。正税帳は、

情報インターフェース

であるだけではない。むしろ、

行政的認識を確定するためのインターフェース

なのではないか、と。

  地方には地方の「現実」がある。

  中央には中央の「制度」がある。

例えば、

「この稲は回収できなかった」

という地方の現実がある。他方、中央では、

「なぜ回収できないのか」
「制度上、どのカテゴリーに入るのか」

という問題になる。そこで、

「身死卅六人免稲一千六百四束」

という記載が生まれる。ここでは、単に「1604束減った」という現実が、中央行政が理解できるカテゴリーへ変換されている。つまり正税帳は、

現実を記録する帳簿

であると同時に、

現実を制度上認識可能なものへ翻訳する帳簿

だったのではないだろうか。

Ⅵ だから「理由付き数字」

この観点から見ると、正税帳で最も面白いのは、実は巨大な数字そのものではない。「数字+理由」である。例えば、

売不用馬1匹直50束

これは、

「50束の収入があった」

だけではない。同時に、

なぜ国家の馬が帳簿から消えたのか

を説明している。また、

債稲身死卅六人免稲一千六百四束

も、

「1604束少ない」

という数字だけではない。そこには、

その減少を生じさせた事情

が付されている。これは偶然ではない可能性がある。中央にとって重要なのは、すべての数字を暗算することではなく、

「この数字はなぜこうなったのか」

を追跡できることであった可能性がある。

Ⅶ 「検算」という概念の再考

ここで提示したいのは、

「膨大な量の行政情報が届く太政官が、いちいちすべての正税帳をチェック・検算するはずがない」

という問題提起である。しかし、ここで「だから中央は検算しなかった」と即断するつもりはない。むしろ、

中央が全件全項目を再計算する必要のない仕組みとして、正税帳そのものが設計されていた

可能性を考えるべきである。つまり、

地方:膨大な現場情報を処理する。

国司:各種帳簿を統合する。

正税帳:数字と理由を整理する。

中央:全件を最初から再計算するのではなく、異常・例外・説明を要する項目を識別する。

この場合、中央行政の仕事は「計算」ではなく、

判断

になる。


Ⅷ 「すべてOK」より「一部OK」

さらに大胆に言えば、私は、

「すべてOK」よりも「一部について問題あり」という処理の方が、正税帳制度を理解する上で重要なのではないか

と考えるに至っている。なぜなら、行政制度が本当に必要とするのは、正常な案件を確認することよりも、

制度から外れた案件を処理すること

だからである。正常な出納は、制度どおりに処理すればよい。問題は、

  • 人が死ぬ
  • 人が逃げる
  • 稲が戻らない
  • 馬が不要になる
  • 物資を購入する
  • 価格が変動する
  • 運送に費用がかかる
  • 酒を醸造すれば滓が出る
  • 倉庫が余る
  • 修理が必要になる

といった、

   「制度が最初から完全には予定していなかった現実」

である。正税帳は、まさにこの「制度と現実のズレ」を処理する場所だったのではないか。

Ⅸ すると「行政的調整」とは何か

ここで、以前使った「行政交渉」という言葉を、さらに精密化できる。私は現在、

行政的調整とは、地方で発生した制度上予定外の事態を、中央が受け入れ可能な行政カテゴリーへ変換し、その処理について双方の認識を一致させる過程

と定義してみたい。ここでは「交渉」という言葉を、政治的な駆け引きという意味に限定しない。地方官が、

「このような事情が発生した」

と説明する。すると中央が、

「その処理は認められる」
「この部分については追加説明が必要」
「この処理は認められない」

と判断する。そして必要なら、

「もう一度調べよ」
「訂正せよ」
「証拠を提出せよ」

となる。もしこのような循環が存在したなら、

   正税帳は中央―地方行政の「通信プロトコル」だった

と定義づけられる。

Ⅹ 「返却された正税帳」の幾へはどこに

ここで、研究上の非常に重要な問題が生まれる。もし正税帳が、

上進 → 確認 → 必要なら差戻し → 訂正

という循環型の行政文書だったなら、その痕跡がどこかに残っているはずである。そこで探すべきなのは、単なる「正税帳」だけではない。例えば、

  • 勘会
  • 訂正
  • 再提出
  • 返却
  • 問責
  • 追加説明
  • 収納状
  • 会計関係文書

などとの関係である。つまり、

正税帳そのものを探すだけではなく、「正税帳が提出された後に発生した文書」を探す。

これが次の研究になる。

Ⅺ 「正税帳の循環」

これまで、

正税帳を読む

という研究だった。これを、

正税帳を中心とした行政文書の循環を復元する

研究へ変えてみては、どうだろうか。

現場

作業原簿

郡・国の集計帳簿

正税帳

中央

確認・判断・照会

必要に応じて

返却・訂正・再提出

という「文書ライフサイクル」を復元したい。この視点を採用すると、私たちがこれまで考えてきた「作業原簿」の問題ともつながる。作業原簿が、

現場情報を正税帳へ変換する第一段階

だとすれば、正税帳は、

地方行政情報を中央行政情報へ変換する第二段階

であり、中央からの照会・訂正・確認は、

第三段階のフィードバック

になる。

Ⅻ 新しい「通信モデル」

したがって、私はこれまでの通信モデルを、次のように拡張したい。

第1層 現場情報:人・物・稲・馬・労働・運送・収納・支出。

第2層 作業記録:現場担当者が記録。

第3層 地方官衙の情報処理:照合・集計・分類・計算。

第4層 正税帳:地方行政情報を中央行政の言語へ翻訳。

第5層 上進:中央への情報送信

第6層 中央処理:受領・確認・比較・異常検出・判断。

第7層 フィードバック

必要に応じ、

  • 受領
  • 承認
  • 照会
  • 訂正要求
  • 再提出

第8層 行政的認識の成立

最終的に、

「この地方では、このような処理が行われた」

という国家行政上の認識が成立する。これが正税帳の最終目的だった可能性がある。

ⅩⅢ 「正税帳は、はたして決算書か」

われわれには、岩盤のような一つの常識がある。正税帳は「決算書だから作った」説である。それも事実だとしても、これまでの我々の議論を踏まえれば、むしろ逆に、

中央と地方の間で、財政・行政上の事実について共通の認識を成立させる必要があったから、決算書という形式が必要になった

のではないか。この順序の逆転にとって、帳簿が先なのではない。行政上の必要が先にあり、その必要に応えるために帳簿形式が発達したと考えたい。したがって問うべきは、

「正税帳には何が書かれているか」

だけではない。

「正税帳という形式を必要とした行政上の問題は何だったのか」

である。

ⅩⅣ 現段階での仮説

以上から、次の仮説を提出して、本稿を終えたい。

仮説1

正税帳は、地方官衙内部の財務管理帳簿をそのまま中央へ提出したものではなく、地方の行政情報を中央が処理可能な形式へ変換した「行政情報インターフェース」である。

仮説2

正税帳に記載された情報には、内部管理のための情報と、中央への説明責任を担う情報とが重層的に存在する。

仮説3

特に「理由付き数字」は、単なる管理情報ではなく、制度と現実との間に生じた差異を中央に説明するための情報である可能性が高い。

仮説4

中央政府は正税帳の全項目を一律に再計算することを主要目的としたのではなく、標準化された情報によって地方財政の状態を把握し、異常・例外・説明を要する事項を識別した可能性がある。

仮説5

したがって正税帳は、「報告書」というよりも、地方官衙と中央政府との間で行政上の認識を成立させるための情報インターフェースであり、そこには「行政的調整」の機能が内在していた。

仮説6

正税帳の上進は行政処理の終点ではなく、中央による確認・判断・照会・訂正などを通じて行政的認識を確定するための第二段階の始点だった可能性がある。

この仮説が正しければ、

正税帳は「報告書」ではなく、「行政処理を開始するための文書」だった

という、さらに大胆な再定義が可能にする。

おわりにかえて―「上進」の先を見なければならない

なぜ地方で膨大な帳簿を作ったのか。

中央に提出する必要があったから。では、なぜ中央に提出するのか。

中央が地方の行政活動を把握するため。では、中央は全部を検算したのか。

おそらく、それだけが目的ではない。では、中央は何をしたのか。

ここが、まだ十分に解明されていない。したがって、これからの正税帳研究で最も重要な問いは、

「正税帳は何を書いたか」

ではなく、

「正税帳が中央に到着した後、何が起きたのか」

である。「上進」を文書の終着点と考えてはいけない。むしろ、

上進 → 受領 → 確認 → 判断 → 必要なら照会 → 訂正 → 再提出 → 認識の確定

という循環を想定しなければならない。

そして、この循環が実際に存在したなら、正税帳は単なる「地方財政の決算書」ではない。

それは、

地方の現実を中央の行政的認識へ変換し、その認識を地方へフィードバックするための国家的情報処理装置

だったことになる。ここまで来れば、「正税帳とは何か」という問いそのものが変わる。

そして私は、次にわれわれが探すべきものは、正税帳そのものではなく、「正税帳が上進された後に何が起きたことを示す史料」だと思う。つまり次の研究テーマは、「正税帳のその後」である。

そして、この「その後」を追跡できたとき、正税帳は「完成した古代の帳簿」から、

  実際に動いていた律令国家の行政通信記録

として、まったく違った姿を見せてくれるにちがいない。

「4日で動く国家」 ――『続日本紀』にみる平城京・大宰府間の情報伝達と律令国家の危機対応

 

「4日で動く国家」

――『続日本紀』にみる平城京・大宰府間の情報伝達と律令国家の危機対応――

はじめに――問題を「通信速度」から「国家の時間」へ

古代律令国家における中央と地方との情報伝達について考えるとき、しばしば問題となるのは、「何日で情報が届いたのか」という通信速度である。

たしかに、平城京と大宰府との間には約640kmもの距離があり、その間を緊急情報が数日で移動したとすれば、それは古代国家の交通・通信能力を考えるうえで興味深い。

しかし、ここで一つの根本的な疑問が生じる。

本当に問題なのは、640kmを何日で走ったかなのであろうか。

たとえば養老4年(720)に大宰府から隼人の反乱と大隅国守殺害が奏言され、その4日後に朝廷が征隼人軍の大将軍・副将軍を任命した記事がある。

この二つの日付だけを取り出せば、

2月29日 大宰府奏言
3月4日 征隼人軍の大将軍・副将軍任命

となる。ここから「大宰府から平城京まで4日で情報が伝達された」と考えることができる。しかし、そのような理解には重大な問題がある。

2月29日の奏言が大宰府をいつ出発したのか。
いつ平城京に到着したのか。
太政官でいつ奏聞されたのか。
誰がその内容を検討したのか。
天皇の裁可はいつ行われたのか。
将軍の選定にはどの程度の時間を要したのか。
さらに、3月4日に将軍を任命したとして、実際の軍隊はいつ九州へ向けて出発したのか。

『続日本紀』は、この過程を行政日誌のようには記録していない。したがって、

「4日で情報が届いた」

と、

「2月29日の奏言を受け、4日後の3月4日に朝廷が派兵を決定した」

とは同じことではない。本稿では、ここを出発点とする。問題は古代の使者が一日に何km走れたかではない。むしろ、

なぜ律令国家は、地方で発生した反乱・挙兵について、数日のうちに中央の軍事的意思決定を成立させる必要があったのか。

さらに、

なぜ『続日本紀』は、こうした短い時間間隔をもって国家の危機対応を記録したのか。

という問題である。ここには、古代律令国家が自らをどのような国家として表現しようとしたのか、という問題が潜んでいると考える

1 720年隼人反乱――「4日」という数字

養老4年(720)、南九州で隼人が反乱し、大隅国守陽侯史麻呂を殺害した。『続日本紀』では、2月29日に大宰府からその事実が奏言され、3月4日には大伴旅人が征隼人持節大将軍に、笠御室・巨勢真人が副将軍に任命される。二つの日付の差は4日である。

この事例は、古代律令国家の情報伝達能力を考えるうえで重要な材料である。しかし、ここで「4日」という数字を直ちに通信時間とみなしてはならない。2月29日という日付は、少なくとも史料上は大宰府が奏言した日を示す。それは、

反乱発生の日

とも、

大宰府から奏言が実際に出発した日

とも、

平城京に奏言が到着した日

とも必ずしも同一ではない。さらに3月4日は、

征隼人軍の大将軍・副将軍が任命された日

である。これは、

軍隊がその日に大宰府へ向けて出発した日

ではない。

ここで、我々が強調したいのは、「情報伝達」「意思決定」「軍事動員」という少なくとも三つの時間が存在することである。したがって、2月29日から3月4日までの4日間を丸ごと「通信時間」とすることには慎重でなければならない。

2 4日間に何があったのか

ここで問題を逆転させる必要がある。通常の説明では、

「4日しかかからなかった。律令国家の通信制度は優秀だった」

となる。しかし、むしろ問うべきなのは、

「4日間に何があったのか」

である。

仮に大宰府からの奏言が非常に迅速に平城京へ届いたとしても、その後には少なくとも、

  1. 奏言の受領
  2. 内容の確認
  3. 政治・軍事上の意味の判断
  4. 将軍の選定
  5. 軍事命令の発出
  6. 節刀などの準備
  7. 動員命令
  8. 兵員・武器・兵粮等の準備
  9. 実際の出発

という行政・軍事上の過程が存在したはずである。誰が考えても、すべての手続きが4日目もしくは4日間に行われたとは限らない。しかし重要なのは、『続日本紀』がそれらをほとんど記録せず、最終的な国家意思だけを日付とともに提示していることである。ここに『続日本紀』の史料としての性格が現れると喝破したい。『続日本紀』は、現場の行政処理を一分一秒単位で記録する「行政ログ」ではない。そこに記録されるのは、国家にとって重要な事件と、その事件に対する国家の決定である。したがって、我々が見る「4日」という数字は、古代国家の実務時間そのものではなく、国家が危機に対応した時間を、正史が圧縮して示したものである可能性を考えなければならない。換言すれば、国家の「理想的な反応速度」を演出する時間であったと考えたい。


3 「誰が、何のために、4日を必要としたのか」

この問題設定を立てると、一気に「通信速度」から「国家の時間」へのパラダイムシフが求められる。 従来の古代交通史が陥りがちだった「1日何km走れたか」という純技術的・物理的な論議を切り捨て、「受領・判断・動員」という行政・軍事プロセスを含めた「対応時間」として再定義を可能にするからである。つまり、「4日で通信できるか」という問いは、主として交通技術の問題である。しかし、

「誰が4日を必要としたのか」

という問いは、国家制度の問題になる。

第一に、それを必要としたのは大宰府である。大宰府は西海道における軍事・外交・行政の中心であり、重大な反乱を自らの判断だけで処理できるとは限らない。反乱が発生すれば、

「中央に知らせ、天皇の国家意思を得る」

必要がある。

第二に、それを必要としたのは中央政府である。中央にとって地方の反乱は、時間が経過するほど危険性が増す。反乱勢力が拡大すれば、

  • 兵力を増強する
  • 拠点を確保する
  • 周辺地域を巻き込む
  • 交通路を遮断する
  • 中央の対応を予測する

ことが可能になる。

したがって、中央政府に必要なのは単純な「高速通信」ではなく、地方の危機を、中央の軍事的意思決定がまだ有効である時間内に把握することである。

ここに「国家の時間」という概念を導入したい。

4 国家にとって必要なのは「通信時間」ではなく「対応時間」

この観点からすると、国家の危機対応は、

事件発生
→ 情報化
→ 通信
→ 中央での認知
→ 判断
→ 命令
→ 動員
→ 現地への軍事行動

という一連の過程になる。したがって、

通信速度 ≠ 国家の対応速度

である。国家にとって重要なのは、通信そのものではない。最終的には、

「地方で事件が発生してから、国家として有効な軍事行動を開始するまでの時間」

である。この意味で、「4日」という数字は、通信史の数字としてだけではなく、律令国家の危機対応時間として読むことができないだろうか。当然ながら、我々に要求されるのは、史料としての『続日本紀』のメタ構造への着眼である。『続日本紀』を「行政ログ」ではなく「国家意思の顕現(正史による国家像の構築)」と捉えた視点を構築することで、史料批判は別なステージへと移行する。

5 740年藤原広嗣の乱――「4~5日」をどう読むか

具体的に、天平12年(740)の藤原広嗣の乱では、この問題がさらに鮮明化する。8月29日、広嗣は上表し、時政の得失を論じ、吉備真備・玄昉の排除を求めた。そして9月3日、広嗣が兵を起こしたことが朝廷に伝えられ、朝廷は大野東人を征討軍の大将軍とし、諸道から兵を徴発することを決定した。

ここでは、

8月29日 上表

9月3日 挙兵情報・軍事対応

という約5日間の時間差が存在する。しかし、この5日間も単純な「大宰府→平城京の通信時間」とみなすべきではない。8月29日の上表と9月3日の挙兵情報は、そもそも情報の質が違うからである。前者は政治的要求である。後者は実際の挙兵という軍事的危機である。この違いは決定的である。

卑見によると、朝廷は「広嗣が政治的要求を上表した」という段階と、「広嗣が兵を起こした」という段階とで、国家としての対応を変えている。つまり、律令国家の通信システムは、単純に「すべての情報を速く伝える」ためのものではなかった。我々の観点からすれば、情報の重要度・緊急度に応じて、異なる速度で処理するシステムだったと考える必要がある。

ここで飛び込んでくる言葉は、「飛駅」という制度である。

6 飛駅とは「速い人間」ではなく「速く動く国家」である

「一日十駅以上」という公式令の規定を考える場合にも、同じことがいえる。これは、

「一人もしくは複数の使者が一日に160km走る」

という身体能力の規定として理解しては、それはアスリートの運動能力を論じることとなる。駅伝制の本質は、駅ごとに、

  • 駅馬を供給する
  • 使者を受け入れる
  • 文書を受け渡す
  • 次の駅へ送り出す

という連続的な作業を行うことにある。したがって、使者個人を高速化するのではなく、

人間・馬・駅・道路・文書をネットワーク化することによって、情報を高速移動させる

のである。すなわち「飛駅」は「速い飛脚」ではなく、むしろ、

国家が情報を高速に移動させるために、あらかじめ構築しておいたネットワークを緊急時に最大稼働させる仕組み

と理解すべきことを教える。

7 ここでさらに重要な問題がある

では、なぜ律令国家はそのような高速通信ネットワークを必要としたのか。単に行政を便利にするためだけではない。最大の理由の一つは、

「京政府が全国を把握し、必要なときには全国を動かすことができる」

という国家の実効性を確保するためであったとの作業仮説を提出したい。

   地方で反乱が起きる。

   その情報が中央に届く。

   中央は将軍を任命する。

   節刀を授ける。

   兵を動員する。

   そして中央の命令が地方へ伝わる。

この一連の流れが成立して初めて、

「中央集権国家が全国を支配している」

という事実を全土に公告することになる。したがって、通信網は国家支配の「補助施設」ではない。国家支配そのものの一部である。

8 「国家の威信」という視点

ここで提起したいのは、「国家の威信=国家の自己表象(アイデンティティと威信)」」という視点の導入である。『続日本紀』の読者が現代の意味で「全国民」だったとはいえない。しかし、少なくとも朝廷・貴族・官人、さらに地方官人などの識字層に対して、

「天皇を中心とする律令国家は、全国の異変を把握し、必要ならば直ちに軍事力を発動できる」

という国家像を示すことには意味があった。これこそ国家の威信そのものにかかわる。

もし、

九州で反乱が起きても、中央に届くまで何週間もかかる。

中央が知ってから軍隊を動かすまで何か月もかかる。

という国家ならば、地方に対する中央政府の支配力は弱く見える。

反対に、

「地方で反乱が起きても、数日で中央が把握し、将軍を任命し、軍事力を発動できる」

と記録されれば、

「この国家から逃れることはできない」

という強烈な国家像を提示することができる。だからこそ、「4日」「翌日」「即日」という時間表現の政治的意味を考える余地が生じる。

9 720年陸奥――「翌日・即日」はさらに強烈である

この問題を考えるうえで、同じ720年の東北の事例は極めて重要である。周知のように、720年9月、陸奥国から蝦夷の反乱と上毛野広人殺害が奏言される。そして翌日には、征夷将軍・鎮狄将軍が任命され、さらに「即日授節刀」と記される。

ここでは、

奏言

翌日、将軍任命

即日、節刀授与

という、極端に圧縮された国家対応が描かれている。これを文字通り、現実のすべての行政過程が24時間以内に完了したことを意味すると考えるなら、かなり慎重な検証が必要になる。しかし、別の読み方も可能である。すなわち、

「地方の反乱情報が届けば、中央国家は翌日には軍事指揮権を発動できる」

という国家像を、『続日本紀』が提示していると考えることである。そして「即日授節刀」という表現は、その国家像をさらに強調している。

これは単なる年代記的記録ではない。国家が危機に対して停止しないことを示す記述として読むことを求めているに違いない。

10 南九州と東北――「4日」と「7日」

ここで、東北の事例に着目する。

  秋田方面から平城京まで約690km。

  大宰府から平城京まで約640km。

直線距離だけを比較すれば、両者はほぼ同程度である。しかし、秋田方面からの情報伝達について「7日」という数字が確認できるならば、

約640km → 4日
約690km → 7日

という差が生じる。この差は、単純な距離だけでは説明できない。なぜなら、律令国家の交通速度は、

  • 道路の整備状況
  • 駅家の配置
  • 駅馬の数
  • 地形
  • 河川
  • 山岳
  • 積雪
  • 海上交通
  • 季節
  • 情報の緊急度

などによって大きく変化するのは当然だからである。したがって、ここで重要なのは「640kmを4日」「690kmを7日」という速度競争ではない。むしろ、

律令国家は、異なる地域の異なる交通条件のもとで、中央の軍事意思決定を可能にする情報伝達時間を確保しようとしていたのではないか

という問題である。

11 「全国一律の速度」ではなく「国家として許容できる時間」

ここからさらに一歩、我々の考察を進めたい。律令国家が必要としたのは、

全国どこからでも同じ速度で情報を送ること

ではなかったのではないか。むしろ、

地域ごとの交通条件を前提として、それぞれの地域で国家として許容できる危機対応時間を確保すること

だった可能性がある。

  大宰府からは4日。

  東北からは7日。

それでも中央は、

「反乱を知る」
「将軍を任命する」
「軍事力を発動する」

ことができる。

つまり、「4日」「7日」は、国家の通信能力そのものを示す数字ではなく、

国家が地方の危機を中央の軍事意思決定へ接続するために必要とした時間幅

なのかもしれない。


12 『続日本紀』の「日付」は本当に行政時計なのか

ここで、だれしも『続日本紀』そのものに対する史料批判を要求するだろう。いうまでもなく、我々は通常、正史に記された日付を、そのまま現実の出来事の時間軸として利用する。

しかし、

「奏言した」

「将軍を任命した」

という二つの記事が数日離れて記されているからといって、その間に何が起きたのかがすべて復元できるわけではない。むしろ正史は、国家にとって意味のある出来事を選択して記録している。すると、

『続日本紀』が作る時間

と、

現実の行政現場で流れた時間

とは明確に区別しなければならない。この区別ができれば、「4日」という数字に新しい意味が生まれる。それは、

国家が実際に4日間で全行政過程を完了したことを証明する数字

ではなく、

国家の危機対応が、4日という短い時間のなかで完結したように見える形で記録された数字

である可能性がある。もちろん、これはまだ作業仮説である。しかし、720年・740年・東北の事例を横断して比較することで検証可能な仮説になる。


13 「記述ルール」あるいは「暗黙の約束」という仮説

ここで、本稿の核心となる仮説を提示したい。それは、

『続日本紀』には、地方の危機と中央の対応との時間的距離を短く示すことによって、律令国家の機動性を表現する、何らかの記述上の原理が働いているのではないか

という仮説である。これを「記述ルール」と呼ぶには、なお多くの事例検証が必要である。

しかし、少なくとも、

  • 翌日
  • 即日
  • 数日後

という極めて短い時間表現が、反乱・軍事危機の記事に集中しているならば、それは偶然ではなく、一定の国家像を表現している可能性がある。多弁を要しないが、

「危機が起きれば国家は動く」

という国家像である。

さらに言えば、

「危機が起きれば国家はすぐ動く」

という国家像である。

14 「情報→判断→動員」という国家の三段階

この観点から、古代律令国家の危機対応を三段階に整理できる。

第一段階 知る

地方で何が起きたのかを中央が知る。

第二段階 決める:得られた情報をもとに、中央が国家意思を形成する。

第三段階 動かす:将軍を任命し、節刀を授け、兵を徴発し、軍事力を地方へ向ける。

つまり、

情報 → 判断 → 動員

である。そして国家の威信は、この三段階が切れ目なく接続されていることによって成立する。単に「情報が届く」だけでは国家は強くない。情報を得ても判断できなければ意味がない。判断しても軍隊を動かせなければ意味がない。したがって、

「速い通信」ではなく「速く反応する国家」

こそが、律令国家にとって重要だった。

15 「動いている国家」という視点

この問題は、律令国家研究に対して別の視角を提供する。

律令国家を、

戸籍を作る国家
租税を徴収する国家
官僚を配置する国家
法令を制定する国家

として捉えるだけでは、その実像の一部しか見えない。他所でも我々が強調してきたように、国家は同時に、

情報を集め、情報を送り、判断し、命令を出し、人と物と軍隊を移動させる存在

でもある。これを、我々は

「動いている国家」

と定義付けたい。その国家を動かしていたのは、道路や駅だけではない。文書制度、駅伝制、官僚制、軍事制度、意思決定制度が一体となって作動していた。したがって「飛駅」を研究することは、交通史だけを研究することではない。それは、

律令国家が情報をどのように処理し、その情報をいかに国家意思へ変換したか

を研究することに直結する。

16 今後検証すべき課題

この仮説を「そうかもしれない推測」に終わらせないためには、『続日本紀』の軍事・反乱記事を網羅的に調べる必要がある。

特に次の項目を一覧化することが重要である。

項目調査内容
①事件発生日反乱・挙兵・殺害等がいつ発生したと記されるか
②奏言日地方官衙が中央へ報告した日
③通信方式奏言・飛駅・使者など
④中央到着日明記される場合の到着日
⑤中央決定日将軍任命・征討決定等
⑥節刀授与即日か、後日か
⑦動員兵員徴発の開始
⑧出発実際の軍事行動開始日
⑨地域九州・東北・東海等
⑩距離発信地から平城京までの距離
⑪所要日数情報→決定までの時間
⑫記述形式「翌日」「即日」「数日後」等

この表を作れば、「4日」「7日」「翌日」「即日」が本当に偶然なのか、それとも一定のパターンを示すのかが検証できる。さらに、『続日本紀』だけではなく、他の史料を使って、

任命日 → 実際の出発日

を追跡する必要がある。ここで初めて、「国家の決定」と「現実の軍事行動」との間にどの程度の時間差があったのかを明らかにできる。

結論――「4日」とは何だったのか

 以上の検討から、養老4年の「4日」を単純な通信速度として理解することには慎重でなければならない。2月29日の大宰府奏言から3月4日の征隼人軍将軍任命まで4日。

しかし、その4日間に、

情報の伝達
情報の確認
中央での判断
将軍の任命
軍事命令
動員準備

のすべてがどのように行われたのかは、『続日本紀』だけからは明らかではない。したがって、「4日で640kmを走った」という交通速度の問題だけに還元することはできない。むしろ重要なのは、

なぜ『続日本紀』は、地方の危機と中央の軍事的対応との間に、このような短い時間を示しているのか

という問題である。

  720年の隼人反乱。

  720年の陸奥の蝦夷反乱。

  740年の藤原広嗣の乱。

  そして、東北方面から中央への緊急情報。

これらを比較すると、「翌日」「即日」「4日」「7日」といった時間表現が、単なる交通記録ではなく、国家の危機対応能力を示す記述として機能している可能性が浮かび上がる。予防線を張るつもりはないが、

「『続日本紀』には、4日以内に国家が軍事対応できることを示す明確な編纂ルールが存在した」

と現段階で断定することはできない。しかし、少なくとも次の作業仮説を提出することはできると考える。

『続日本紀』における地方反乱記事では、情報の到達から中央の軍事的意思決定までの時間を短く表現することによって、地方の危機に対して即応できる律令国家の姿が描き出されているのではないか。

その意味で、「4日」は単なる数字ではない。それは、

「地方で何が起きても、中央は知ることができる」

という国家の能力であり、

さらに、

「知ったならば、中央は決定できる」

という能力であり、

最終的には、

「決定したならば、国家は人間と軍隊を動かすことができる」

という国家の威信を示す数字(日数)である。

重ねて確認したいのは、本当に問うべきなのは、

「古代人は640kmを4日で移動できたのか」

ではない。問うべきなのは、

「律令国家は、なぜ『4日で動く国家』でなければならなかったのか」

である。そしてさらに、

「『続日本紀』は、なぜそのような『4日で動く国家』を私たちに見せるのか」

である。ここに、古代交通史を越えて、律令国家の情報処理・意思決定・軍事動員、そして国家自身による自己表象を統合的に考える新たな研究領域が開ける。「飛駅」とは、単に速く走る使者ではない。それは、

情報を知る国家、
情報を判断する国家、
そして判断した国家が実際に動くための仕組み

である。要するに、「飛駅」とは「飛ぶ使者」の制度ではなく、「動く国家」の制度だったのである。


 

(改稿)「大原」は本当に「大きな原」なのか ――『出雲国風土記』大原郡と古代製鉄をめぐる試論

 

「大原」は本当に「大きな原」なのか

――『出雲国風土記』大原郡と古代製鉄をめぐる試論

『出雲国風土記』は天平5年(733)に成立した。そこには出雲国九郡の地理・産物・交通・地名伝承などが記されている。そのなかで、以前から私が気になっているのが大原郡である。大原郡は、現在の雲南市大東町・加茂町・木次町を中心とする地域にあたる。この地域を実際に歩いてみると、素朴な疑問が生じる。

例えば斐伊川に架かる里熊橋付近、あるいは雲南市木次町里方の城名樋屋山(標高117m)などから周囲を見渡しても、「大原」と呼ぶにふさわしい広大な原野が眼前に展開しているわけではない。大東町や加茂町についても事情は大きく変わらない。

そこで生じたのが、

   「大原」とは、本当に「大きな原」という意味なのだろうか。

という疑問である。もちろん、これは単なる地形観察から生じた素朴な疑問にすぎない。しかも、この疑問に対して『出雲国風土記』は明快な答えを与えている。

大原郡の郡名由来について、風土記は、

「郡家東北一十里一百一十六歩、田一十町許、平原也。故號曰大原」

すなわち、郡家の東北十里余りの場所に「田十町許」の平原があり、「故に大原と号した」と説明している。したがって、「大原=大きな原」という風土記の説明を否定するつもりはない。むしろ着目したい問題は、その「平原」が何を意味していたのかである。現在の景観だけを見て「大きな原がない」と結論するのは早計であろう。古代の地形と現在の地形は同じではない。いうまでもなく河川の流路、沖積地、湿地、耕地、森林などは長い時間のなかで大きく変化する。したがって、私の当初の疑問は、

「大原という名前に対応する広大な土地が現在見えない」

というところから、

「古代の人々が、どのような景観を『原』と認識していたのか」

という問題へ組み替えたい。

1, 「大原」という地名を、漢字だけから理解してよいのか

地名研究で注意しなければならないのは、現在使用されている漢字が、必ずしも古い地名の語義をそのまま保存しているとは限らないことである。『出雲国風土記』には、「本字」を示したうえで、神亀3年(726)に字を改めたとする地名も少なくない。

大原郡の記事でも、

  • 屋代郷――本字「矢代」
  • 屋裏郷――本字「矢内」
  • 阿用郷――本字「阿欲」
  • 海潮郷――本字「得塩」

など、表記の変更が確認できる。

したがって、「大原」という現在の表記を見て、最初から「大きな原」という語義を想定することには慎重でなければならない。ただし、ここでさらに重要なのは、風土記が「大原」の由来を「平原」と説明していることである。つまり、

①古い地名の語義そのもの

②天平5年の風土記編纂者が、その地名をどう理解していたか

とは区別しなければならないと考えたい。

2 ところが大原郡には「鐵」が登場する

ここで、別の問題が浮上する。大原郡の記事には、次の二つの河川記事がある。

「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」

「飯石小川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」


つまり、大原郡の記事には、鉄資源の存在が明記されている。もちろん、ここから短絡的に飛躍して、

「大原」という地名は製鉄に由来する

と結論することはできない。『風土記』が「大原」の語源として鉄を挙げているわけではないからである。しかし、逆に言えば、「大原」という地名の問題と、「大原郡における鉄資源」の問題を切り離してしまう必要もない。この二つが同じ地域空間に存在すること自体を、一つの検討課題として提示することはできる。

3 「大原」という地名に注目したもう一つの理由

この問題を考えるようになった直接のきっかけは、伯耆国に複数の「大原」が存在することを知ったことであった。

例えば、

  • 伯耆町八郷大原
  • 日南町下阿毘縁大原
  • 日野町上菅大原
  • 倉吉市大原

などである。

これらの地域には、古代・中世の製鉄や鍛冶との関係を示す遺構・伝承が残っている。例えば伯耆町大原周辺については、鳥取県教育委員会による生産遺跡の分布調査で古い製鉄遺跡が確認され、近年の踏査でも鉄滓が多数確認されている。県は、周辺の立地から中世以前に遡る可能性にも言及している。

また、日南町の大原周辺でも近年発掘調査が進められ、中世の木炭窯や製鉄炉が検出されている。

倉吉市大原についても、安綱・真守などの鍛冶伝承とともに、「真守屋敷」「鉄山屋敷」「たたら窪」など、製鉄・鍛冶を想起させる地名・伝承が残る。

ここから、

「大原」という地名と製鉄との間に何らかの歴史的関係が存在するのではないか

という疑問が生じる。

しかし、ここでも慎重でなければならない。現在確認できる伯耆の「大原」と製鉄との関係は、地名成立時期まで遡って証明されているわけではない。したがって、

「大原=たたら生産地」

という一般法則を立てることは、現段階では慎重でなくてはならない。

4 それでも出雲の大原を考える価値はある

では、なぜこのような弱い仮説にこだわるのか。それは、出雲の大原郡については、単なる地名類似以上の材料があるからである。大原郡には、先述したように二つの河川について「鐵あり」と明記されている。しかも大原郡は、斐伊川水系を中心とする山間地域に位置し、仁多郡・飯石郡・神門郡など、古代の鉄資源と深く関係する地域に接している。さらに、『出雲国風土記』は大原郡について、単に山川を列挙しているだけではない。郡内には八郷二十四里が置かれ、郡家、正倉、新造院などの存在が記されている。そして交通記事を見ると、仁多郡、神門郡、備後国などへ通じる道路が記されている。

つまり大原郡は、

鉄資源を含む山間地域と、斐伊川を介してより広い地域とを結ぶ交通・行政空間

として見ることができる。ここに私は注目したい。

5 「大原=たたら」という仮説を一度、棚上げする

私は以前、

「大原」という地名には、製鉄・たたら生産との関係があるのではないか。

という仮説を考えたことがある。しかし現在では、もう少し慎重な形に修正したい。

すなわち、

「大原」という地名と製鉄との間に直接的な語源関係があるかどうかは、まだ分からない。

ただし、

「大原」と呼ばれた地域が、古代の製鉄・鉄資源・交通・土地利用の歴史を考えるうえで重要な空間である可能性がある。

というところまでは、十分に検討する価値がある。これは似ているようで、実は全く違う。

前者は「語源仮説」である。後者は「地域構造仮説」である。現段階では、後者の方がはるかに強い。


6 2025年の雲南市の最新研究の紹介

この問題を考えるうえで、重要な研究を紹介したい。

倉内勝・角田徳幸・松尾充晶「雲南市の製鉄遺跡とその年代」(『雲南市文化財調査研究報告』第1集、2025年)

である。同研究は、日本列島の鉄生産が6世紀後半に中国・北九州・近畿で始まり、7世紀には北陸・関東・東北南部へ、9世紀には東北北部へ展開したという全国的な動向を確認したうえで、出雲地域の製鉄遺跡について検討している。特に重要なのは、雲南地域の製鉄を、近世たたらの歴史だけから見るのではなく、古代まで遡る長期的な生産史のなかに位置づけようとしていることである。

これは、私の仮説を検討するうえで大きな意味を持つ。私が列挙する

  • 羽森第3遺跡
  • 瀧坂遺跡
  • 鉄穴内遺跡
  • 寺田Ⅰ遺跡
  • 芝原遺跡

などの製鉄関連遺跡についても、単なる「たたら跡の存在」という以上に、いつ、どのような原料を利用し、どのような技術で鉄を生産していたのかという年代・技術史の検討が必要になる。つまり、今後の課題は、

「大原という地名が鉄に由来するか」

だけではない。むしろ、

「大原郡という行政空間のなかで、鉄資源・製鉄・河川交通・集落・郡家がどのような関係を形成していたのか」

を問うべきなのである。

7 「たたら」という言葉

さらに、私は「たたら」という言葉そのものにも注意したい。『出雲国風土記』の「鐵あり」という記事を、そのまま近世の「たたら製鉄」と同一視してはならない。風土記が記す「鐵」は、まず鉄資源の存在を示す記事として読むべきであり、それが近世たたらと同じ製鉄技術によって生産されたことを意味しない。したがって、

『風土記』に「鐵あり」

そこに近世型たたらがあった

「大原」はたたら地名だった

という推論は成立しない。しかし、

『風土記』に「鐵あり」

古代に鉄資源が認識されていた

雲南地域に古代製鉄遺跡が存在する

鉄資源・製鉄・河川交通・集落の関係を検討する

という推論なら成立する。この違いは大きい。


8 私の作業仮説

以上を踏まえて、次の作業仮説を提出したい。

『出雲国風土記』の大原郡において、「大原」という地名の成立と、地域の土地利用・鉄資源・製鉄・河川交通との間に、何らかの歴史的関係が存在しなかったか。

この問題を検証するためには、地名だけを調べても不十分である。

必要なのは、

①古代の地形復元
②「原」「大原」などの地名分布
③砂鉄・鉄鉱資源の分布
④古代製鉄遺跡の年代
⑤河川交通
⑥郡家・正倉・集落の位置
⑦鉄製品・鉄滓などの出土状況
⑧『出雲国風土記』における「鐵」の記載

を一つの地図上に重ねることである。

もしこれらが一定の空間的対応を示すならば、「大原」という地名を単なる「大きな原」という景観語として理解するだけでは不十分になる。逆に、まったく対応しないのであれば、この仮説は潔く捨てさりたい。

おわりに――「大原」という小さな疑問から

「大原」と呼ばれているのに、なぜ現在見ることのできる土地は、それほど「大きな原」には見えないのか。最初は、それだけの素朴な疑問だった。しかし、『出雲国風土記』を読み直すと、大原郡には「鐵あり」と記された河川があり、山間部には古代製鉄の痕跡があり、さらに仁多・飯石・神門などの周辺地域と交通によって結ばれている。そして近年の考古学的調査によって、雲南地域の古代製鉄についても新しい資料が蓄積されつつある。そうであるならば、「大原」を単に「大きな原」と理解して終わるのではなく、

「この地域で古代の人々は、どのような土地を、どのような資源生産の場として認識していたのか」

という問題へ進むことができるのではないか。「大原=たたら」説は、現時点では、これはまだ証明されていない。しかし、

「大原」という地名を手掛かりとして、出雲の古代製鉄・土地利用・交通・行政空間をもう一度組み直してみる作業には、なお十分な研究上の価値があると思う。

博雅の士の教えを俟ちたい。

(新稿)「辰砂ロード」の提唱

 

「辰砂ロード」の提唱――弥生時代の日中交流を考える

ここで、ひとつの仮説を提唱してみたい。私はこれを仮に**「辰砂ロード」**と呼ぶ。これは、弥生時代後期に、中国大陸から日本列島へ辰砂がもたらされた交易・交流ルートである。

この着想を得たきっかけは、古代の日中交流に関する論文を検索していた際、偶然見つけた一論文であった。島崎英彦「古代辰砂の故郷」『資源地質』59-1、2009年、73~76頁である。地質学・鉱床学を専門とする東京大学名誉教授の論文を、それまで私が読む機会はほとんどなかった。その意味でも、この偶然の出会いは僥倖であった。

島崎論文が特に興味深いのは、弥生時代後期の日本列島で使用された辰砂について、硫黄同位体比という自然科学的な方法から、その産地を追究している点である。島崎氏によれば、島根県西谷3号墓、鳥取県紙子谷門上谷1号墓、京都府大風呂南1号墓、福岡県春日立石遺跡など、弥生時代後期の日本海側・北部九州の遺跡から出土した辰砂の硫黄同位体比は、+7~+8‰前後を示す。これは、日本国内の主要な辰砂鉱床の値とは一致しない。さらに、従来よく知られていた中国湖南省・貴州省の辰砂とも一致しなかった。

ところが、2007年に島崎氏らが中国秦嶺山地の水銀鉱床を実地調査したところ、青銅溝鉱山や公館地域一帯の辰砂が+8‰前後を示し、日本の弥生時代後期の遺跡から出土した辰砂とほぼ一致することが判明したのである。もちろん、同位体比が一致したことだけから、直ちに「中国から日本へ辰砂が運ばれた」と断定することはできない。 同じ数値を示す鉱床が他にも存在する可能性があり、また採掘・選鉱・加工などの過程についても検討する必要があるからである。しかし、少なくとも「日本国内で採取された辰砂」という従来の説明だけでは処理しにくい資料が存在し、その供給源候補として秦嶺山地の辰砂鉱床が浮上していることは、極めて重要である。

さらに注目したいのは、地理的条件である。

島崎氏によれば、青銅溝・公館地域から北へ向かえば秦漢の都・長安(西安)に至り、南へ向かえば漢水に達する。漢水はさらに武漢付近で長江につながり、長江から東シナ海、日本海へと至る水上交通の可能性が考えられる。島崎氏自身も、このルートを念頭に、弥生時代後期に日本海側・北部九州の勢力との交易品として辰砂が日本列島へ運ばれた可能性を論じている。

ここから、私はひとつの作業仮説を提出したい。それが「辰砂ロード」である。すなわち、弥生時代後期の日本列島と中国大陸との交流を考える際、単に「中国文化が日本へ伝来した」という抽象的な文化伝播論ではなく、特定の物質が、どこで産出され、誰によって集荷され、どの水系を経由し、どの地域へ運ばれ、そこでどのような社会的・祭祀的意味を与えられたのかという、具体的な物流の視点から考えてみるのである。その場合、「辰砂ロード」は一本の直線的な交易路を意味するものではない。

むしろ、

秦嶺山地の辰砂産地
→ 漢水水系
→ 長江流域
→ 東シナ海
→ 日本海
→ 北部九州・山陰・若狭・畿内

という、複数の河川交通・沿岸航路・海上交通が連結した広域的な交流ネットワークを想定すべきであろう。そして、ここで私がもう一歩踏み込んでみたいのは、この「辰砂ロード」を、単なる鉱物資源の移動ルートとしてではなく、文化要素が移動するネットワークとして捉えることである。

 私は以前から、中尾佐助らによって提唱された照葉樹林文化論に関心を持ってきた。照葉樹林帯に分布する諸文化要素の類似性を考えるとき、それらを単純な「文化の伝播」として理解するのではなく、人・物・技術・信仰・儀礼などが複合的に移動する交流圏として捉える必要があるのではないかと思う。もしこの視点を辰砂に重ね合わせるなら、辰砂だけが単独で中国から日本へ運ばれたのではなく、辰砂を必要とする祭祀・葬送・権威表象などの文化的要素とともに、辰砂そのものも移動した可能性を考えることができる。もちろん、ここにはまだ確証がない。しかし、だからこそ「辰砂ロード」を作業仮説として提示する意味がある。重要なのは、「中国文化が日本へ伝わった」と結論づけることではない。

むしろ、

どの地域で辰砂が採掘されたのか。
誰がそれを入手したのか。
どのようなルートで運んだのか。
どの地域の勢力がそれを受け取ったのか。
なぜ大量の辰砂を必要としたのか。
そして辰砂とともに、どのような文化的・宗教的・技術的情報が移動したのか。

――これらを一つずつ検証していくことである。

そう考えると、「辰砂ロード」は単なる辰砂の交易路ではない。それは、弥生時代後期の東アジアにおける、人・物・情報・信仰の移動を復元するための一つの窓になるのではないか。

偶然に一読した論文から始まった小さな着想である。しかし、弥生時代の日中交流を「文化伝播」ではなく「物質の移動」から捉え直すなら、この小さな「辰砂」が、意外に大きな歴史の流れを示しているのかもしれない。

(再論)海上国造の分立とヤマト王権 ――東京湾岸における地域権力の再編―

 

海上国造の分立とヤマト王権

――東京湾岸における地域権力の再編――

1 要約

上海上国造と下海上国造は、現在の千葉県中部から東部にかけて展開した「海上(うなかみ)」地域を基盤とする国造である。

ここでいう「海上」は、後世の律令制下における「国」と同じ意味での国家ではない。むしろ、東京湾岸から内陸部に広がる水上交通・生産・軍事・祭祀などを掌握した在地首長層の政治的領域として理解する必要がある。

とくに養老川流域には、姉崎古墳群をはじめとする大型古墳が集中しており、早くから強力な首長権力が形成されていたことがうかがえる。また、稲荷台1号墳出土鉄剣に象徴されるように、この地域の首長層がヤマト王権と早い段階から接触していた可能性も指摘されている。

この地域の重要性を考えるうえで、最大のポイントは「海」である。

東京湾は、単なる漁撈の場ではない。

それは、

房総半島―武蔵―相模―上総―下総を結ぶ海上交通路

であり、さらに養老川・小櫃川などの河川交通によって内陸部へ接続する交通ネットワークでもあった。

したがって、海上地域の首長権力は、単に一地域の農業生産を支配するだけではなく、

海上交通・河川交通・物資輸送・人間の移動

を掌握することによって政治的・経済的な力を形成した可能性がある。

『国造本紀』によれば、上海上国造は天穂日命八世孫の忍立化多比命を祖とし、成務朝に国造に任じられたとされる。一方、下海上国造については、上海上国造と同祖であり、久都伎直が応神朝に国造に任じられたとされる。つまり、伝承上は両者が同じ祖先系譜につながりながら、国造として成立した時期には差がある。

このことは、海上地域が最初から二つの独立した国造によって支配されていたというより、

一つの強力な地域権力を基盤として、後に複数の政治単位へ分化した可能性

を考える手掛かりとなる。


2 「海上」をどう理解するか

「海上」という地名は、単純に「海に近い土地」を意味していたのではない可能性がある。

この地域では、東京湾岸と河川交通が密接に結びついていた。

とくに養老川・小櫃川は、房総半島内部へ向かう重要な水上交通路となり得る。

したがって「海上」という地域名称の背後には、

海と河川を利用した交通ネットワーク

が存在していた可能性がある。

この観点から見るならば、海上地域の首長権力を「農業を基盤とする地方豪族」とだけ理解するのは不十分である。

むしろ、

海上交通と内陸交通との接点を掌握した水上交通型の首長権力

として捉えることができる。

ここで、市原郡に残る「海部郷」に注目したい。

『和名類聚抄』には上総国市原郡の海部郷が見え、さらに天長5年(828)の庸布銘文には、

「上総国市原郡海部郷戸主刑部小黒人」

と記されている。したがって、「海部」という地域名称が8世紀を超えて残存していたことは確認できる。

ただし、ここから直ちに、

「伊勢湾から航海に長じた海人集団が黒潮に乗って房総へ移住した」

と結論づけることには慎重でなければならない。

海部という名称は、古代国家が海上交通・漁撈などに関わる人々を組織した「部」の名称である可能性があり、その成立過程については、在地の海民集団と王権による編成の双方を考える必要がある。

したがって、本稿では、

「海部=外部から移住した海人集団」

とは直ちに断定せず、

「海上地域における海上交通・漁撈・水運などに従事する人々が、王権の支配組織に組み込まれていった可能性」

として扱いたい。


3 時系列による理解

【3世紀後半~4世紀】

  • 養老川流域を中心として有力な首長勢力が形成される
  • 姉崎古墳群など大型古墳の築造
  • 東京湾岸と内陸部を結ぶ交通ネットワークの形成
  • ヤマト王権との接触が始まった可能性

【4世紀後半~5世紀】

  • 海上地域の首長権力が成長
  • 東京湾岸の海上交通における影響力を強める
  • ヤマト王権との政治的関係が深化

【5世紀~6世紀】

ここで大きな転換が起こった可能性がある。

『国造本紀』の伝承によれば、上海上国造と下海上国造は同祖であるが、国造としての成立時期が異なる。

  • 上海上国造
  • 下海上国造

という分化を想定することができる。

ただし、これは「5世紀に実際に国土が二分された」という意味ではなく、

海上地域を支配した首長権力が、王権との関係の変化のなかで複数の政治単位へ再編された

と理解する方が適切である。

【6世紀】

房総半島では、上海上・下海上だけではなく、武社・菊麻・馬来田・須恵・伊甚など複数の国造が確認される。

この状況は、房総半島全体が単一の政治勢力によって支配されたのではなく、

複数の地域首長権力が並立し、その上にヤマト王権との政治的関係が形成されていった

ことを示唆する。

【6世紀後半~7世紀】

  • 国造層の王権への組み込み
  • 評・郡制への移行
  • 旧国造系豪族の郡司化
  • 「国造」から「郡司」への政治的役割の転換

という大きな再編が進行する。


4 系譜をどう読むか

『国造本紀』の系譜は、次のように伝える。

天穂日命
   │
   └─(八世孫)忍立化多比命
              │
              └─ 上海上国造
                   
   └─ 上海上国造と同祖
          │
          └─ 久都伎直
                 │
                 └─ 下海上国造

ここで重要なのは、これをそのまま実際の血縁系譜として読む必要はないということである。

古代の系譜は、

政治的な正統性・同族意識・王権との関係

を表現する装置でもある。

したがって、「上海上国造と下海上国造が同祖である」という伝承そのものが、

両者が別個の起源を持つのではなく、同じ地域的政治勢力から派生したことを記憶していた可能性

を考えさせる。

ここに私は、海上地域の政治構造を考えるうえで重要な手掛かりがあると考える。


5 国造別にみた房総の政治構造

上海上国造

養老川流域を中心とする地域に形成された有力首長権力を背景として成立したと考えられる。

大型古墳の存在、東京湾へのアクセス、内陸河川との接続を考えると、

房総中部における海上交通・物資移動の重要拠点

であった可能性がある。

下海上国造

上海上国造と同祖とされながら、異なる時期に国造として成立する。

したがって、

上海上地域の政治的分化、あるいは王権による再編の結果として成立した政治単位

という仮説を提示できる。

武社国造

武社国造は、房総半島北東部に位置する。

その成立を単純に「ヤマト王権が海上国にくさびを打ち込んだ」と断定することはできない。

しかし、房総半島に複数の国造が配置されている状況を考えるならば、

ヤマト王権が房総各地の在地首長を個別に編成し、政治的ネットワークを構築していった

可能性を考えることはできる。

菊麻国造

菊麻国造は、現在の市原市北部付近を中心とする地域に比定される。

その存在は、海上地域周辺においても複数の政治勢力が形成されていたことを示す。

したがって、「海上国」という一つの地域名から、単一の政治権力を想定するのではなく、

複数の首長勢力が競合・連携する政治空間

として理解する必要がある。


6 ヤマト王権の戦略

ここで、房総におけるヤマト王権の関与を考えてみたい。

従来のように、

「ヤマト王権が房総を征服し、国造を置いた」

という一方向的なモデルだけでは、地域の複雑な政治構造を説明しにくい。

むしろ、次の三つの要素が重なっていたと考えたい。

① 在地勢力の巨大化

養老川・小櫃川流域では、農業生産だけでなく、水上交通を利用した物資・人間の移動が可能であった。

これを掌握した首長は、周辺地域に対して大きな政治的影響力を持つことができた。

② ヤマト王権によるネットワーク化

ヤマト王権にとって房総は、

  • 東国への交通
  • 太平洋側への海上交通
  • 人員・物資の移動
  • 軍事的動員

という点で重要な地域であったと考えられる。

したがって、巨大な在地勢力を単純に排除するより、

在地首長を王権の政治秩序に組み込み、その地域支配力を利用する

という方法が合理的であった可能性がある。

③ 地域勢力の分化

上海上・下海上・菊麻・武社などの複数の国造が存在することは、

房総の政治空間が一つの巨大首長権力から、複数の政治単位へ再編された

ことを示す可能性がある。

ここに、国造制の本質を見ることができる。

国造とは単に「地方官」だったのではない。

むしろ、

在地首長権力を王権の政治秩序の中に編成するための制度

として理解する必要がある。


7 「海上国の分割」という仮説を再考する

以上から、本稿では次の作業仮説を提示したい。

海上地域には、東京湾岸と養老川などの内陸水運を掌握する有力な在地首長権力が形成されていた。

その政治的勢力が成長する一方、ヤマト王権の東国への関与が強まることによって、海上地域は単一の首長権力としてではなく、複数の政治単位へ再編されていった可能性がある。

上海上国造と下海上国造が「同祖」とされながら異なる時期に国造として成立したという伝承は、この政治的分化の記憶を反映している可能性がある。

さらに、武社・菊麻など周辺地域に別個の国造が成立することによって、房総半島の政治空間は、複数の地域首長を王権のネットワークに組み込む構造へと変化した。

ここで重要なのは、「ヤマト王権が一方的に地方を征服した」と考えるのではなく、

在地勢力の成長 → 王権との接触 → 政治的提携 → 地域勢力の分化 → 王権秩序への編成

という相互作用として考えることである。


8 結論に代えて――「海」を支配した者

上海上国造・下海上国造を考える場合、最大の問題は「国造」という制度そのものではない。

むしろ、その前提となった、

なぜこの地域に強力な首長権力が成立したのか

という問いである。

その答えの一つとして、本稿は「水上交通」に注目した。

養老川・小櫃川などの河川と東京湾を結ぶ交通網は、房総半島の内部と外部を接続する。

そこでは、

人が動き、物が動き、情報が動く。

そして、それを掌握する者は、農地そのものを支配する以上の政治的力を持つことができる。

したがって海上地域の首長権力を、

「農業生産を基盤とする地方豪族」

という一面的なモデルで理解するのではなく、

「海と河川を媒介として、人・物・情報の流れを掌握した水上交通型の地域権力」

として捉え直す必要がある。

この視点から見るならば、上海上国造と下海上国造の分立は、単なる国造の「配置」の問題ではない。

それは、

一つの巨大化した地域権力を、ヤマト王権がどのように政治的ネットワークへ組み替えていったのか

という問題になる。

そして、この過程で形成された複数の国造が、後に評・郡制の成立によって郡司へと転換していくならば、古代房総の政治史は、

「在地首長制 → 国造制 → 評・郡制」

という単純な制度交替としてではなく、

「地域交通を掌握した首長権力 → 王権との政治的連携 → 複数の地域権力への再編 → 王権行政への組み込み」

という、より長期的な政治構造の変化として捉えることができる。

上海上国造と下海上国造の問題は、その変化を読み解く重要な窓口なのである。

(再論)なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのかーー中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性

 

結論:中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性


1 問題の所在――なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのか

「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いを立てるとき、問題は単に「なぜこの文書が保存されたのか」という保存史の問題にはとどまらない。むしろ、なぜ一地方の財政帳簿が中央へ送付され、その後も一定期間保持され、最終的に東大寺写経所で反故紙として再利用されるに至ったのか、という問題として考える必要がある。この問いをさらに掘り下げれば、律令国家における地方財政文書の作成・提出・照合・審査・保存・廃棄という、文書行政そのものの仕組みに到達する。

とりわけ重要なのは、越前国郡稲帳が単なる地方内部の業務帳簿ではなく、中央に提出されることを予定した正式な公文書であったという点である。天平5年(733)閏3月6日付の継目裏書には、

「越前国郡稲帳 天平五年潤三月六日 史生大初位下阿刀造佐美麻呂」

とあり、その作成日と担当者が確認できる。また、郡稲帳には越前国印が多数押され、国司による署名も認められる。したがって、これは郡衙内部でのみ使用された私的な作業帳簿ではなく、国司の責任において正式に作成された公的帳簿であったと考えられる。さらに重要なことに、同じ阿刀造佐美麻呂は天平3年(731)2月26日付の越前国正税帳にも登場し、正税帳の中央への提出を担当している。すなわち、郡稲帳と正税帳には、作成・提出実務の段階から人的な連続性が認められる。

ここから、次の問題が生じる。中央政府は、なぜ正税帳だけでなく、郡稲帳をも必要としたのであろうか。

2 天平4年度郡稲帳が示す「郡別財政モデル」

天平4年度の越前国郡稲帳をみると、各郡の財政状況がかなり具体的に把握されている。

敦賀郡

  • 定郡稲 3,086束6把
  • 出挙 1,036束(利518束)
  • 死馬皮 1張=10束
  • 都合 3,614束6把
  • 用 726束5把
  • 残定 2,888束1把

丹生郡

  • 定郡稲 1,294束5把4分
  • 出挙 1,294束5把4分
  • 利稲 617束2把7分
  • 加賀郡からの移入 2,000束
  • 死馬皮 3張=30束
  • 都合 3,881束8把1分
  • 用 2,437束7把
  • 残定 1,444束1把1分

足羽郡

  • 定郡稲 15,598束3把8分
  • 出挙 7,360束
  • 利稲 3,605束
  • 合納 18,015束
  • 残 8,230束3把8分

江沼郡

  • 定郡稲 7,296束
  • 出挙 6,246束
  • 利稲 3,123束

加賀郡

  • 定郡稲 37,882束8把3分
  • 出挙 12,111束
  • 利稲 5,890束

これらの数字から重要なのは、単に各郡の「財政規模」が判明することではない。郡稲帳では、

定郡稲 → 出挙 → 利稲 → 郡間移送・雑収入 → 用 → 残

という形で、郡ごとの稲の増減過程が追跡可能になっている。したがって郡稲帳は、単純な「残高表」ではなく、

  郡に存在する官稲が、どこから入り、どのように運用され、何に使用され、最終的にい 

  くら残ったのかを追跡するための財政記録

として理解することが可能である。特に丹生郡については、加賀郡から2,000束が移送されている。これは郡単位で完結した会計ではなく、郡と郡との間で財源が移動していたことを記録する帳簿でもあったことを示している。

3 郡稲帳は正税帳の「下位帳簿」なのか

ここで我々の作業仮説を提出したい。

  「天平4年度の郡稲帳は、単独で完結する財政帳簿であると同時に、国単位で作成される

  正税帳を成立させるための基礎的な情報を含んでいたのではないか。」

正税帳が国単位の収支を把握する帳簿であるのに対し、郡稲帳はその内訳を郡単位で示す。

したがって両者の関係を、

  郡稲帳 → 国衙で集計・整理 → 正税帳 → 中央へ提出

という情報処理過程として考えることである。ただし、この段階では「郡稲帳が正税帳作成の唯一の基礎資料であった」と断定することはできないにしても、むしろ、

郡稲帳は、正税帳を作成・確認するための基礎的な下位帳簿ないし関連帳簿の一つであった

とするのが妥当であると悟るからである。

4 中央政府はなぜ郡稲帳を必要としたのか

ここで、冒頭の問題設定に戻りたい。文書の流れを、

第1段階 郡稲帳には何が記録されているのか

第2段階 郡稲帳はどのような目的・機能をもつ文書なのか

第3段階 なぜ郡稲帳は中央へ送付されたのか

第4段階 中央では、それをどのように利用したのか

という四段階に分けて考えるならば、次のような知見を得る。このうち、第3段階については、少なくとも越前国郡稲帳が中央へ上進された事実は確認できる。したがって、問題はもはや「中央へ送られたのか」ではなく、「中央は何のためにそれを必要としたのか」である。

ここで、いくつかの可能性が考えられる。

  1. 正税帳記載数値の照合
  2. 地方財政の収支状況の確認
  3. 出挙の運用状況の把握
  4. 郡間移送を含む官稲の移動状況の確認
  5. 国司・郡司の財政責任を確認するための資料
  6. 後日の再計算・再照合に使用する資料

これらは相互に排他するものではない。むしろ、郡稲帳という帳簿の構造を考えるならば、中央政府にとって重要だったのは、単に「いくら残ったか」という最終残高ではなく、

  その残高が、どのような収入と支出の積み重ねによって形成されたのか

を確認できることであったちがいない。

5 「監査証拠」という作業仮説

ここで本稿では、あえて「監査」という概念を作業仮説として導入したい。

ただし、これは現代の会計監査制度をそのまま奈良時代に投影するという意味ではない。

重要なのは、郡稲帳そのものが、

  • 数量を記録する
  • 収入と支出を区別する
  • 残額を計算する
  • 郡間の移送を記録する
  • 郡司の氏名を記載する
  • 国司が関与する
  • 国印を押す
  • 数字を大字で記載する

という構造を備えていることに、改めて思い出さなくてはならない。というのも、このことで後から第三者が数字を確認し、責任の所在を追跡できる文書構造になったからである。特に数量を記載する帳簿に大字を使用することは、数字の改竄を防ぐという文書技術上の意味を持っていたと考えられる。したがって、郡稲帳は、

「数字を記録するための帳簿」

であるだけではなく、

「誰が、どの数量について、どのような責任を負って報告したのかを固定し、後日の照合を可能にする帳簿」

として理解すべきであると教える。この意味で、郡稲帳を「財政監査の裏付け証拠」と捉えることは、現時点では有力な作業仮説となりうる。


6 ここで「人間」を入れる

さらに注目したいのは、こうした帳簿制度を、単純な行政技術の問題としてだけ理解しないことである。官稲を管理するのは人間である。

そこには、

  • 善意による奉仕
  • 組織への忠誠
  • 私的利益の追求
  • 背任
  • 横領
  • 窃盗
  • 数字の操作

など、さまざまな人間行動が入り込む可能性がある。したがって、律令国家が細かな数量を記録し、責任者を明記し、印判を押し、数字を大字で記すという仕組みを整備した背景には、単なる「行政の合理化」だけではなく、人間が管理する財物には、必ず誤謬と不正の可能性があるという、極めて現実的な行政上の認識が存在した可能性がある。この視点からみると、郡稲帳は単なる「地方財政史料」ではなく、

  「律令国家が、地方官人によって管理される財物をどのように可視化し、記録し、責任化

  し、中央から確認可能な状態にしたのか

を示す史料として再評価したい。

7 人事記録との接続

さらに郡稲帳には、財政情報だけでなく、国司・郡司などの人名・官位・勲位が記載されている。

たとえば、

  • 新任能登国史生少初位上大市首国勝
  • 新任大目従七位上勲十二等中臣高良比連新羅
  • 従六位上勲九等坂合部宿祢葛木
  • 敦賀郡少領外従八位上勲十二等角鹿直綱手・主帳無位螺江比良夫
  • 丹生郡大領外従七位下勲十二等佐味君浪麻呂
  • 足羽郡少領外正八位上勲十二等海直大食・主政無位品遅部広耳
  • 大野郡か、郡司大領正八位下勲十二等江沼臣武良士
  • 検舶使従六位上弟国若麻呂

などの名前を確認できる。これらは単なる「人名録」ではない。誰がどの財政単位を担当していたのかという財政責任者の特定と、誰が現地行政に関与していたのかという行政組織の把握が、同じ文書の中に組み込まれているのである。したがって、郡稲帳には、

  財政情報+人事情報+責任者情報+公的認証

が一体となっているとの考えて良いだろう。ここに、この帳簿が単なる郡衙内部の業務帳簿を超えて、中央政府にとっても意味を持つ理由の一端を見ることができる。


8 現段階での結論

以上を踏まえるなら、現時点では次のように結論づけるのが妥当ではないだろうか。

越前国郡稲帳は、各郡の官稲について、その収入・運用・移送・支出・残額を記録するとともに、郡司・国司などの責任主体を明示し、国印によって公的文書として認証された財政帳簿であった。

そのため、郡稲帳は国衙内部の業務にのみ使用された帳簿ではなく、中央政府が国単位の財政状況を確認し、正税帳その他の財政情報を照合する際にも利用しうる文書であった可能性が高い。

したがって、郡稲帳を「中央における財政監査の証拠資料」と位置づけることは有力な作業仮説となる。ただし、現存史料だけから、太政官・民部省・主税寮のいずれが、どの段階で、具体的にどのような照合・審査を行ったかを確定することはできない。

今後必要なのは、正税帳と郡稲帳との数値的対応関係を具体的に検証するとともに、他国の郡稲帳・正税帳、さらに中央官司に残る勘会・審査関係文書を比較し、地方帳簿が中央でどのように利用されたのかを明らかにすることである。

その作業によって初めて、「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いは、「律令国家はいかにして地方財政を中央から検証可能なものにしたのか」という、より大きな問題へと展開することになる。