2026年4月1日水曜日

白鳳地震津波(天武13年10月(684)

 

白鳳地震津波

天武13年10月(684)


津波痕跡データベース

貞観地震 貞観11年 5 月(869)

  貞観地震 貞観11年 5 月(869)


津波痕跡データベース

『日本三代実録』貞観11(869)年 5 月26日条

「廿六癸未。陸奥国地大震動。流光如晝隠映。頃之。人民叫呼。 伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。牛馬駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。 不知其数。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海数十百里。浩々不弁 其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」


2026年3月17日火曜日

東北の英雄・夷俘「アテルイ」の「大墓」の音価

 スウェーデンの中国語学者 Bernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica)および『Analytic Dictionary of Chinese and Sino-Japanese』では、

「大」のカールグレン再構音

カールグレン体系では 

「大」 の上古音は

*dâg

内訳

  • d- : 有声歯茎破裂音(initial)

  • â : 低母音

  • -g : 語末子音(入声系統の痕跡と考えた)

→語末に -g をもつ閉音節 

中古音(参考)

中古漢語(『切韻』体系)では

dâi

  • 現代北京語:

  • 現代日本漢音:ダイ

  • 呉音:ダイ

  • 現代韓国漢字音:대 (dae)

に対応。


(2)「墓」

同じくBernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica Recensa 系統)では、


漢字 「墓」 の上古再構音は次のとおりである。

カールグレンによる再構音

*mâg

音の構成

  • m- :両唇鼻音(語頭)

  • â :低母音

  • -g :語末子音(有声軟口蓋閉鎖音)

つまり *閉音節 -g をもつ語 として再構されている。

中古漢語(Karlgren体系)

中古音(『切韻』系)は

で、中古段階では 語末子音は消失 したと考えられている。


以上、要するに

*大墓=dâg+

であることを念頭に置けば、日本古代漢字音では

*大墓=Ta/Da+Ma

と推測できる。

したがって、我が小見では

*田茂(山)説=岩手県奥州市水沢羽田町字明正付近か(現在は田茂山会館や東北新幹線田茂山トンネルに名を遺す)

⇒万葉仮名では「茂」は「もの甲類/乙類の併用」

に軍配を上げたい。



三韓諸国の首長が自称した称号「臣智」や「邑借」の音価に関して

『三国志』魏書東夷伝には

各有長帥 大者自名爲臣智 其次為邑借 散在山海間 無城郭」

とあり、三韓諸国の首長が「臣智」や「邑借」とい う称号を自称していたことが記されている。この「臣智」という身分称号については、通説通りに、前漢が朝鮮半島の平壌付近に郡県制を導入し、楽浪郡を設置(前108年)したと考えて良い。それ以降、三韓諸国の支配層は楽浪郡を通して前漢など接触し、数々の文化を導入したはずである。

Bernhard Karlgrenによる上古漢語再構音( Grammata Serica Recensa,1957)によると、

臣(OC: dźi̯ən)

声母:dź-(有声歯茎硬口蓋音)

韻母:-i̯ən

智(OC: tǝi̯H)

声母:t-

韻母:-ǝi̯

去声(H)


つまり、「臣智」は「dźi̯ə+ tǝi̯H」であり、次の通り「邑借」は「ʔi̯əp+ tsiak」である。


邑(OC: ʔi̯əp)

声母:ʔ-(喉頭音)

韻母:-i̯əp

 借(OC: tsiak)

声母:ts-(歯茎破擦音)

韻母:-iak







2026年3月15日日曜日

朝鮮半島南部の勒島遺跡と楽浪郡との交易ルート

   楽浪郡との交易ルートの復元

前提:紀元前108年、漢武帝は衛氏朝鮮国を滅ぼし、楽浪・玄菟・臨屯・真番の4郡を設置した。武帝の後継者である昭帝は、紀元前82年に楽浪郡の東南と南に位置する臨屯・真番郡を廃止、紀元前75年には東北 に位置する玄菟郡を遼東に移し、旧4郡域のほとんどは楽浪郡に併合した。


 1. 交易ルート復元の根拠となる考古資料

(A)弥生土器の分布(倭 → 勒島)

勒島遺跡では弥生中期前半〜後半の大量の弥生土器が出土

九州北部系が中心、山陰系も混在

→ 倭の海民が定期的に往来した証拠


(B)無文土器・三韓土器(半島 → 倭)

壱岐・北部九州の遺跡から無文土器が出土

→ 半島側の人々の移住・往来を示す


(C)楽浪土器・中国銭貨(楽浪郡 → 三韓・倭)

勒島遺跡では楽浪土器と中国銭貨が日常生活域から出土

西日本の海村でも同様の銭貨が多数出土

→ 楽浪郡から南下する交易ルートの存在


D)北部九州系漁具(倭の海民の移住)

勒島遺跡からアワビおこし・結合式釣針など北部九州特有の漁具

→ 倭の海民(倭の水人)が勒島に移住し、交易を担った


2. 時期別にみた交易ルートの変化

Ⅰ期:弥生前期末〜中期前半(勒島 I期)

倭(北部九州) ↔ 勒島が中心

主な動き:倭人の移住・海民ネットワークの形成


Ⅱ期:弥生中期後半(勒島 II期)

交易範囲が拡大

倭 ↔ 勒島 ↔ 三韓(加耶)

山陰地域もネットワークに参加


Ⅲ期:弥生後期前半

楽浪土器・中国銭貨が南下

倭—三韓—楽浪郡の三者が直接つながる

→ 楽浪郡との政治的・経済的交渉が本格化


3. 交易ルートの実態:何が運ばれたのか?

仮説:楽浪郡との交易ルートの姿

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していたと考えたい。

倭の海民が勒島に拠点を築く

勒島が「中継港」として機能

三韓(加耶)が鉄と物流のハブ

楽浪郡が中国文明の供給源

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していた。





平壌市楽浪区域貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」の「レ」形符号

    漢代の木簡や竹簡などに「返り点 」が見いだせることは、居延漢簡・里耶秦簡などの出土簡牘で周知の事実である。

*「/」「レ」「∨」「・」などの符号

さて、平壌市楽浪区域の貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」にも、字の右下に「レ」形の符号が付された簡があると報告されている。

「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とは、前漢・初元4年(紀元前45年)に作成された楽浪郡の戸籍木簡(木牘)である。漢四郡支配下の朝鮮半島で実際に運用されていた行政文書に見られる「レ」形の符号は確かに「返り点」と認定するには、その場所が不自然である。

文書フォーマットの基本構造

前漢スタイル標準的書式:

1. 年号(初元四年など)

2. 郡名(楽浪郡)

3. 県名(○○県)

4. 戸数・人口

5. 身分分類(吏民・庶人など)

6. 署名(吏の名前)

7. 校記(レ形など)


2026年3月14日土曜日

竈門神社と最澄

福岡県太宰府市内山にある竃門神社の創建に関する私案はない。通説のように、その創建は8世紀後半に遡ると考えて良いのではないだろうか。

現祭神は玉依姫命・神功皇后・応神天皇。同社は『延喜式』10神祇10/神名下/に、「明神大」と記載され、全国に点在する名神神社の一つである。

 本来の竈神社の祭神は玉依姫ではなかっただろうか。

ただし、この竈門神社は下宮であり、社殿は上宮が宝満山山頂に、かつては山中の捌ごうっめ付近に中宮もあったが、明治に廃絶したという。

<資料①>『叡山大師伝』延暦22年閏10月23日条

<資料②>『扶桑略記』延暦22年閏10月23日条の竈門山寺、

     承和7年4月丙寅(21日)条には、竈門神社が従五位下から従五位上に昇叙した

     とある。

<資料③>『日本紀略』寛平8年9月4日条

     従四位上竈門神に正四位上を授く(大日本史料、1編2冊351頁)

この神社を有名にした要因の一つが、延暦22年閏10月23日の最澄の

*「僧最澄、遣唐使に随行して大宰府竈門山寺に到り、ここで渡海の無事を祈って薬師仏像を造り、また法華経など講説する。ついで翌年七月、遣唐使第二船に乗り、中国明州に到る。」(『太宰府市史・古代資料編348頁)

であろう。

ここでは、宝満山竈門山寺と修験道界・山伏信仰に関しては言及しないで、文久3年 (1863)に竈門山寺 (大山寺)か ら聖護院に提出した 『筑前国竈山末山同派修験名書帳』によると, 山内に 26坊, 筑前一円に37の 組下山伏を擁 していたとだけ紹介しておきたい。

本稿の狙いは、竈門山寺で、なぜ渡海の無事を祈ったかを究明することにある。



<参考資料>

ちなみに、筑紫国の名神大社は次の通りである。

宗像郡:宗像神社(三座) — 大社・名神大社、織幡神社 — 大社・名神大社

那珂郡:筥崎宮(八幡大菩薩筥崎宮) — 大社・名神大社・一宮、住吉神社(三座) — 大社・名神大社・一宮

糟屋郡:志加海神社(三座) — 大社・名神大社、

御笠郡:筑紫神社 — 大社・名神大社、 竈門神社 — 大社・名神大社

下座郡:美奈宜神社(三座) — 大社・名神大社


<参考文献>

森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」『英彦山と九州の修験道』(山岳宗教史研究叢書一三)名著出版 一九七七年、

 中野幡能編『筑前国宝満山信仰史の研究』名著出版 一九八〇年、

 森 弘子『宝満山歴史散歩』葦書房 一九八一年、

小田富士雄編『宝満山の地宝―宝満山の遺跡と遺 物―』太宰府天満宮文化研究所、1982年 

小田富士雄 ・ 石松好雄 ・ 小西信二『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』財団法人太宰府顕彰会、1984年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡』(太宰府市の文化財第12集)太宰府市教育委員会、1989年、

小西信二 「宝満山祭祀遺跡群」『太宰府市史』考古資料編 太宰府市、1992年

森 弘子「大宰府竈門山寺考」『山岳修験』第三〇号 日本山岳修験 学会 二〇〇二年、

森 弘子「宝満菩薩の誕生」『山の考古学通信』№一七 二〇〇五年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群4』(太宰府市の文化財第79集)太宰府市教育委員会 2005年、

山村信榮「考古学から見た 太宰府宝満山」『山の考古学通信』№17、2005年、

山村信榮「大宰府における国境祭祀と宝満山 ・ 有智山寺」『仏教芸術』282号、毎日新聞社 2005年

山村信榮「発掘調査からみた宝満山について」『都府楼』第39号、財団法人古都大宰府保存協会 2007年、

 岡寺 良「宝満山近世僧坊跡の調査と検討―山岳寺院の平面構造調査―」『九州歴史資料館研究論集』33、2008 年、

森 弘子『宝満山の環境歴史 学的研究』財団法人大宰府顕彰会、2008年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群6』太宰府市教育委員会、2010年、

森 弘子「宝満山―大宰府鎮護の山―」『山岳信仰と考古学Ⅱ』同成社、2010年

 時枝務 「筑前宝満山における山頂祭祀の成立 」『立正大学文学部論叢 』2013年

菅谷文則 - 「山岳信仰遺跡としての宝満山 (国内山岳信仰遺跡における位置付け)」『太宰府市の文化財: 宝満山総合報告書』 2013年