2026年3月17日火曜日

夷俘「アテルイ」の「大墓」の音価

 スウェーデンの中国語学者 Bernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica)および『Analytic Dictionary of Chinese and Sino-Japanese』では、

「大」のカールグレン再構音

カールグレン体系では 

「大」 の上古音は

*dâg

内訳

  • d- : 有声歯茎破裂音(initial)

  • â : 低母音

  • -g : 語末子音(入声系統の痕跡と考えた)

→語末に -g をもつ閉音節 

中古音(参考)

中古漢語(『切韻』体系)では

dâi

  • 現代北京語:

  • 現代日本漢音:ダイ

  • 呉音:ダイ

  • 現代韓国漢字音:대 (dae)

に対応。


(2)「墓」

同じくBernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica Recensa 系統)では、


漢字 「墓」 の上古再構音は次のとおりである。

カールグレンによる再構音

*mâg

音の構成

  • m- :両唇鼻音(語頭)

  • â :低母音

  • -g :語末子音(有声軟口蓋閉鎖音)

つまり *閉音節 -g をもつ語 として再構されている。

中古漢語(Karlgren体系)

中古音(『切韻』系)は

で、中古段階では 語末子音は消失 したと考えられている。


以上、要するに

*大墓=dâg+

であることを念頭に置けば、日本古代漢字音では

*大墓=Ta/Da+Ma

と推測できる。

したがって、我が小見では

*田茂(山)説=岩手県奥州市水沢羽田町字明正付近か(現在は田茂山会館や東北新幹線田茂山トンネルに名を遺す)

⇒万葉仮名では「茂」は「もの甲類/乙類の併用」

に軍配を上げたい。



三韓諸国の首長が自称した称号「臣智」や「邑借」の音価に関して

『三国志』魏書東夷伝には

各有長帥 大者自名爲臣智 其次為邑借 散在山海間 無城郭」

とあり、三韓諸国の首長が「臣智」や「邑借」とい う称号を自称していたことが記されている。この「臣智」という身分称号については、通説通りに、前漢が朝鮮半島の平壌付近に郡県制を導入し、楽浪郡を設置(前108年)したと考えて良い。それ以降、三韓諸国の支配層は楽浪郡を通して前漢など接触し、数々の文化を導入したはずである。

Bernhard Karlgrenによる上古漢語再構音( Grammata Serica Recensa,1957)によると、

臣(OC: dźi̯ən)

声母:dź-(有声歯茎硬口蓋音)

韻母:-i̯ən

智(OC: tǝi̯H)

声母:t-

韻母:-ǝi̯

去声(H)


つまり、「臣智」は「dźi̯ə+ tǝi̯H」であり、次の通り「邑借」は「ʔi̯əp+ tsiak」である。


邑(OC: ʔi̯əp)

声母:ʔ-(喉頭音)

韻母:-i̯əp

 借(OC: tsiak)

声母:ts-(歯茎破擦音)

韻母:-iak







2026年3月15日日曜日

下野国「三家」は「ミヤケ」とだけ読むべきか?

 ある古代史研究者が最近発表された論文の中で、

「ミヤケは屯倉・三家・三宅」

とも表記されるという前提で、自説を展開された。

私の仮説は、3つの用字の中で

*三家は「ミヤケ」とも読み、「ミ+の+べ」とも読む

である。なるほど当然な主張として

*「大伴家持の『家』をヤカと読めば、三家もミヤカと読める」

そうであれば、古代史家の特有用語「通音」で「ミヤカはミヤケ」だと。たしかに「ミヤケ(ケの乙類) MIyaK ëであり、「ミ+ヤカ(家もしくは宅)」だとする通説に異論を唱えるものではない。

しかし、もう一つの読みの可能性をあえて提出したい。『倭名類聚抄』上総国の条に

周淮郡  : 山家[也万以倍(iF ë)

とあり、また、南房総市千倉町には日本で唯一、料理の神様を祀った高家(たかべ)神社もある。つまり

Takai+iF ë⇒Taka+iF ë⇒Taka+B ë

であると考える。そうであれば、

*三家=ミ(御・接頭語「ミ Mi」)+ B ë

⇒ 道 ミチ(Mi +ち)

⇒ 宮 ミヤ(Mi+や)

⇒ 「ミ(Mi)+ 一音節語」の図式

と読んでも奇妙ではない。

朝鮮半島南部の勒島遺跡と楽浪郡との交易ルート

   楽浪郡との交易ルートの復元

前提:紀元前108年、漢武帝は衛氏朝鮮国を滅ぼし、楽浪・玄菟・臨屯・真番の4郡を設置した。武帝の後継者である昭帝は、紀元前82年に楽浪郡の東南と南に位置する臨屯・真番郡を廃止、紀元前75年には東北 に位置する玄菟郡を遼東に移し、旧4郡域のほとんどは楽浪郡に併合した。


 1. 交易ルート復元の根拠となる考古資料

(A)弥生土器の分布(倭 → 勒島)

勒島遺跡では弥生中期前半〜後半の大量の弥生土器が出土

九州北部系が中心、山陰系も混在

→ 倭の海民が定期的に往来した証拠


(B)無文土器・三韓土器(半島 → 倭)

壱岐・北部九州の遺跡から無文土器が出土

→ 半島側の人々の移住・往来を示す


(C)楽浪土器・中国銭貨(楽浪郡 → 三韓・倭)

勒島遺跡では楽浪土器と中国銭貨が日常生活域から出土

西日本の海村でも同様の銭貨が多数出土

→ 楽浪郡から南下する交易ルートの存在


D)北部九州系漁具(倭の海民の移住)

勒島遺跡からアワビおこし・結合式釣針など北部九州特有の漁具

→ 倭の海民(倭の水人)が勒島に移住し、交易を担った


2. 時期別にみた交易ルートの変化

Ⅰ期:弥生前期末〜中期前半(勒島 I期)

倭(北部九州) ↔ 勒島が中心

主な動き:倭人の移住・海民ネットワークの形成


Ⅱ期:弥生中期後半(勒島 II期)

交易範囲が拡大

倭 ↔ 勒島 ↔ 三韓(加耶)

山陰地域もネットワークに参加


Ⅲ期:弥生後期前半

楽浪土器・中国銭貨が南下

倭—三韓—楽浪郡の三者が直接つながる

→ 楽浪郡との政治的・経済的交渉が本格化


3. 交易ルートの実態:何が運ばれたのか?

仮説:楽浪郡との交易ルートの姿

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していたと考えたい。

倭の海民が勒島に拠点を築く

勒島が「中継港」として機能

三韓(加耶)が鉄と物流のハブ

楽浪郡が中国文明の供給源

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していた。





平壌市楽浪区域貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」の「レ」形符号

    漢代の木簡や竹簡などに「返り点 」が見いだせることは、居延漢簡・里耶秦簡などの出土簡牘で周知の事実である。

*「/」「レ」「∨」「・」などの符号

さて、平壌市楽浪区域の貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」にも、字の右下に「レ」形の符号が付された簡があると報告されている。

「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とは、前漢・初元4年(紀元前45年)に作成された楽浪郡の戸籍木簡(木牘)である。漢四郡支配下の朝鮮半島で実際に運用されていた行政文書に見られる「レ」形の符号は確かに「返り点」と認定するには、その場所が不自然である。

文書フォーマットの基本構造

前漢スタイル標準的書式:

1. 年号(初元四年など)

2. 郡名(楽浪郡)

3. 県名(○○県)

4. 戸数・人口

5. 身分分類(吏民・庶人など)

6. 署名(吏の名前)

7. 校記(レ形など)


2026年3月14日土曜日

竈門神社と最澄

福岡県太宰府市内山にある竃門神社の創建に関する私案はない。通説のように、その創建は8世紀後半に遡ると考えて良いのではないだろうか。

現祭神は玉依姫命・神功皇后・応神天皇。同社は『延喜式』10神祇10/神名下/に、「明神大」と記載され、全国に点在する名神神社の一つである。

 本来の竈神社の祭神は玉依姫ではなかっただろうか。

ただし、この竈門神社は下宮であり、社殿は上宮が宝満山山頂に、かつては山中の捌ごうっめ付近に中宮もあったが、明治に廃絶したという。

<資料①>『叡山大師伝』延暦22年閏10月23日条

<資料②>『扶桑略記』延暦22年閏10月23日条の竈門山寺、

     承和7年4月丙寅(21日)条には、竈門神社が従五位下から従五位上に昇叙した

     とある。

<資料③>『日本紀略』寛平8年9月4日条

     従四位上竈門神に正四位上を授く(大日本史料、1編2冊351頁)

この神社を有名にした要因の一つが、延暦22年閏10月23日の最澄の

*「僧最澄、遣唐使に随行して大宰府竈門山寺に到り、ここで渡海の無事を祈って薬師仏像を造り、また法華経など講説する。ついで翌年七月、遣唐使第二船に乗り、中国明州に到る。」(『太宰府市史・古代資料編348頁)

であろう。

ここでは、宝満山竈門山寺と修験道界・山伏信仰に関しては言及しないで、文久3年 (1863)に竈門山寺 (大山寺)か ら聖護院に提出した 『筑前国竈山末山同派修験名書帳』によると, 山内に 26坊, 筑前一円に37の 組下山伏を擁 していたとだけ紹介しておきたい。

本稿の狙いは、竈門山寺で、なぜ渡海の無事を祈ったかを究明することにある。



<参考資料>

ちなみに、筑紫国の名神大社は次の通りである。

宗像郡:宗像神社(三座) — 大社・名神大社、織幡神社 — 大社・名神大社

那珂郡:筥崎宮(八幡大菩薩筥崎宮) — 大社・名神大社・一宮、住吉神社(三座) — 大社・名神大社・一宮

糟屋郡:志加海神社(三座) — 大社・名神大社、

御笠郡:筑紫神社 — 大社・名神大社、 竈門神社 — 大社・名神大社

下座郡:美奈宜神社(三座) — 大社・名神大社


<参考文献>

森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」『英彦山と九州の修験道』(山岳宗教史研究叢書一三)名著出版 一九七七年、

 中野幡能編『筑前国宝満山信仰史の研究』名著出版 一九八〇年、

 森 弘子『宝満山歴史散歩』葦書房 一九八一年、

小田富士雄編『宝満山の地宝―宝満山の遺跡と遺 物―』太宰府天満宮文化研究所、1982年 

小田富士雄 ・ 石松好雄 ・ 小西信二『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』財団法人太宰府顕彰会、1984年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡』(太宰府市の文化財第12集)太宰府市教育委員会、1989年、

小西信二 「宝満山祭祀遺跡群」『太宰府市史』考古資料編 太宰府市、1992年

森 弘子「大宰府竈門山寺考」『山岳修験』第三〇号 日本山岳修験 学会 二〇〇二年、

森 弘子「宝満菩薩の誕生」『山の考古学通信』№一七 二〇〇五年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群4』(太宰府市の文化財第79集)太宰府市教育委員会 2005年、

山村信榮「考古学から見た 太宰府宝満山」『山の考古学通信』№17、2005年、

山村信榮「大宰府における国境祭祀と宝満山 ・ 有智山寺」『仏教芸術』282号、毎日新聞社 2005年

山村信榮「発掘調査からみた宝満山について」『都府楼』第39号、財団法人古都大宰府保存協会 2007年、

 岡寺 良「宝満山近世僧坊跡の調査と検討―山岳寺院の平面構造調査―」『九州歴史資料館研究論集』33、2008 年、

森 弘子『宝満山の環境歴史 学的研究』財団法人大宰府顕彰会、2008年、

太宰府市教育委員会『宝満山遺跡群6』太宰府市教育委員会、2010年、

森 弘子「宝満山―大宰府鎮護の山―」『山岳信仰と考古学Ⅱ』同成社、2010年

 時枝務 「筑前宝満山における山頂祭祀の成立 」『立正大学文学部論叢 』2013年

菅谷文則 - 「山岳信仰遺跡としての宝満山 (国内山岳信仰遺跡における位置付け)」『太宰府市の文化財: 宝満山総合報告書』 2013年


2026年3月9日月曜日

紹介、森公章氏の力作「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」⇒素晴らしいリスト

 森公章氏の著「唐物・南島産品と小野宮流・御堂」に掲載された「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」は素晴らしい労作である。多くの方々に知っていただきたいので、あえて転載する。

誤りが多々あるので、必ず原論文にあたって確認してほしい。

 正暦2・1・27任:大弐藤原佐理*〜長徳1・10・18停任 

長徳1・10・28任:大弐藤原有国#〜長保2 (長徳2・4・24任:権帥藤原伊周*〜長徳3・4・8)

 長保3・1・24任:権帥平惟仲#〜寛弘1・12・28停任

 寛弘1・12・28任:大弐藤原高遠*〜寛弘6・8・14停任 

寛弘7・2・16任:大弐平親信#〜長和3・11辞任 

長和3・11・7任:権帥藤原隆家*〜寛仁3・12辞任

 寛仁3・12・21任:権帥藤原行成#〜寛仁4・11辞任

 寛仁4・11・29任:権帥源経房#〜治安3・11・2薨 

治安3・12・15任:藤原惟憲#〜長元2・5・4応召 

長元2・1・24任:権帥源道方#〜長元6・12辞任 

長元6・12・30任:権帥藤原実成〜長暦1・10停任(→2・1:除名) 

長暦1・8・9任:権帥藤原隆家*〜長久2

 長久3・1・29任:権帥藤原重尹〜永承1・2・26停任 

永承1・2・26任:権帥藤原経通*〜永承5・5辞任 

永承5・9・17任:大弐源資通〜天喜2・11・28辞任 

天喜2・12・6任:大弐高階成章#〜康平1・2・16薨

 康平1・4・25任:権帥藤原経輔〜康平6・2・27停任

 康平6・2・27任:大弐藤原師成〜治暦3・2・12辞任

 治暦3・7・1任:大弐藤原顕家*#〜延久3・3辞任 

延久3・4・9任:大弐藤原良基〜承保2・④・19薨

 承保2・6・13見:大弐藤原経平*&〜承暦3カ 

承暦4・1・28任:権帥藤原資仲*&〜応徳1・4辞任 

応徳1・6・23任:大弐藤原実政〜寛治2・?辞(→11・28:伊豆配流) 

寛治2・8・29任:権帥藤原伊房〜寛治6・7・18入洛

 寛治6・9・7任:大弐藤原長房〜嘉保1・?入洛

 嘉保1・6・12任:権帥源経信〜承徳1・①・6薨 

承徳1・3・24任:権帥大江匡房&〜康保4・1得替 

康保4・1・23任:権帥藤原保実&〜3・4薨

 康保4・6・23任:権帥藤原季仲*&〜長治2・11・1停任

 嘉承1・3・11任:権帥大江匡房&〜天永1 

天永2・1・23任:大弐藤原顕季&〜永久3 

永久4・1・30任:権帥源基綱〜永久5・11・30薨

 永久5・12・30任:権帥源重資〜保安2・⑤辞任

 保安2・6・26任:大弐藤原俊忠〜保安4・7・9薨

 保安4・12・20任:大弐藤原長実&〜大治3・1・24得替 

大治3・1・24任:大弐藤原経忠〜長承1カ 

長承2・1・29任:権帥藤原長実&〜8・19薨

 長承3・2・22任:大弐藤原実光〜保延5・1得替

 保延5・1・24任:権帥藤原顕頼&〜永治1・12・2辞任

 永治1・12・2任:大弐平実親〜天養1・1・24辞任

 天養1カ:大弐藤原重家&〜久安4カ 

久安5・3・18任:大弐藤原清隆&→8・2:権帥〜仁平3・⑫・23辞任 

仁平3・⑫・23任:権帥藤原忠基〜保元1・7薨 

 保元1・9・17任:大弐藤原忠能〜保元3・3・6薨 

保元3・3・13任:藤原季行〜8・10停任

 保元3・8・10任:大弐平清盛&〜永暦1・12・30辞任

 永暦1・12・30任:大弐藤原成範〜応保2・4・7辞任 

応保2・4・7任:権帥藤原顕時&〜長寛2・1・1辞任

 長寛1・2・8任:兼大弐藤原永範〜仁安1・7・15兼任停任

 仁安1・7・15任:大弐平頼盛&〜仁安3・11・28解却

 仁安3・12・13任:大弐藤原信隆〜承安1・12・8止

 承安1・12・8任:大弐藤原重家&〜安元2・6・17出家

 安元2・12・5任:大弐藤原親房(→改名:親信)〜治承3・11・17解官 

治承3・11・19任:兼権帥藤原隆季〜寿永1・3・26辞任 

寿永1・3・26任:大弐藤原実清&〜寿永2・11・28解官 

元暦1・3・27還任:大弐藤原実清&〜12・21出家 

《文治1・7・28:源頼朝の使中原久経・藤原周平が鎮西の事を沙汰する》

 文治1・10・11任:兼権帥藤原経房&〜建久1・1・24辞任 

《文治2・12・10:藤原(天野)遠景を鎮西九国奉行人とする》 

(備考)人名の後の記号は次の通り。*=小野宮流またはそれに近い立場の人物、#=摂関家に 近侍する者またはそれに近い立場の人物、&=院近臣。


<補記:小生も細々と藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」を作成していたが、この森公章氏の力作を知り、早々と手じまいするとともに、我が遅々と進まない調査に比して、森氏のお仕事の迅速さに驚嘆した。