(1)「越前」という国がある。いつのころからか、この国名を「えち(越)+ぜん」と読尾始めた考えたこともないが、もととも平安時代には、『倭名類聚抄』古活字本によると
*巻5・国郡部第12・北陸国第55・9丁表5行目 越前[古之乃三知乃久知]
と「三知乃久知」、つまり「みちのくち」と読んでいた。
「くち」(「出入りする先端のところ」岩波古語413頁)とあれば、「しり」があるはずである。同じ『倭名類聚抄』には、
巻5・国郡部第12・北陸国第55・9丁表6行目 越中[古之乃三知乃奈加]
巻5・国郡部第12・北陸国第55・9丁表7行目 越後[古之乃美知乃之利]
とあり、「くち+なか+しり」がセットであったらしい。このセットは備前+備中+備後の3か国でも見られるので、「越国」もしくは「備国」が三分割されるときに、ヤマト政権から見て地理的に近い国から、この名称を用いたと考えて良いだろう。その時期は持統天皇期(689〜692年)であったと考えるのが通説である。
そもそも越国は「高志」とも表記し、大化改新以前に、概略して氣比神宮(敦賀)から弥彦山までの日本海沿岸地域を「高志」と呼称したらしい。当時の越国は蝦夷境界に位置する北方前線であったので、ヤマト王権の北陸から越国へと政治的支配が伸長するに伴い、647年(大化3年)に渟足柵、648年(大化4年)に磐舟柵が設置されたことは周知の事実である。
その後、大宝律令(701年)施行により、
三国は正式に 越前・越中・越後 として国司が派遣される「令制国」となり、704年(大宝4年)の「国印鋳造」によって、3国の漢字表記は最終決定された。越前国は三国の中で最も広大だったため、 さらに二度の分割が行われ、718年(養老2年)に能登国が越前国から分立 (羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡)し、さらに823年(弘仁14年)に加賀国が越前国から分立
(加賀郡・江沼郡)した。
(2)さて、前掲した『倭名類聚抄』の巻5に、
「巻5・国郡部第12・北陸郡第63・越前国・19丁表8行目 越前国[国府在丹生郡行程上七日下四日] 管六[田万二千六十六町正公各四十万束本稲百二万八千束雑稲二十万八千束]」
とある。『倭名類聚抄』編纂当時、その国府は丹生郡に所在したと記録している。その国府の位置は律令時代から変更はなかったらしく、丹生郡内に国分寺・国分尼寺が建立されていた遺跡からも推測できる。ただし、その国府の位置に関しては、いまなお諸説あるので、定見を得ていない。
いま、本稿で取り上げる正倉院所蔵の文書に残存する『備前国郡稲帳』は、古くから『大日本古文書』第1巻461頁(正集28断簡1|1002800100000)~第1巻484(正集28断簡9|1002800900000)までに収録されているので、古くからよく知られていた資料の一つであった。また、『福井県史 資料編1 古代』(福井県 1987年)や林陸朗・鈴木靖民編『復元天
平諸国正税帳』(現代思潮社 1985年)にも収録されているので、広く引用・言及される事例が近年顕著に増加し、研究対象として取り上げられる機会が拡大することで、学界における共有財産となっている。
しかも、古代史の館野和己氏の
論文
「天平4年度『越前国郡稲帳』を読む」17~47頁
の詳細な研究論文も発表されているので、概略はそれに全面的に委ねたいが、いまさらの感もなくもないが、どこか二番煎じの思いもしつつ、いくつかの落穂ひろいをしたい。
(3) 我々の考察を先に進めるために、念のために、書誌事項の概略を提示しておきたい。ただし、実見の機会を得ないままであるので、『正倉院文書目録』収録記事で代用したい。
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【冊|頁|天地】 1|466| |
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【一次・二次】 一次 |
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【文書・継文名|前後欠】 越前国郡稲帳|前後欠 |
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【(文書・継文名)年月日】 天平4年 |
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【文書名|前後欠】 越前国郡稲帳|前後欠 |
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【(文書名)年月日(始)】 天平4年 |
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【文書継文名関係備考】 A |
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【紙質】 楮紙(斐交リ) |
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【紙数】2 |
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【紙高|紙幅】 28.1|2.2/18.2 |
この記述から推測して、巻子本仕立てであったと判明するが、館野氏によって
「料紙を見ると、1紙全体が残っているのが断簡Fの16行目~39行目までである。その部分の 大きさは縦28.2㎝、横58.7㎝で、そこに縦横の界線が細い墨で引かれている。すなわち紙の上端から 2.75~2.9㎝の所に、横方向の1本目の界線(天界)があり、さらにその下に1.15~1.4㎝の間隔をおいて4本の横界が引かれ、紙の下端から上に3.3~3.4㎝の所に下端の横界(地界)がある。天界と地界の間が文字を書く範囲である。また縦方向の界線(縦界)の幅は2.3~2.5㎝である)。横界は文字を書き出す高さを揃えるために引かれたものである。」
とあるので、このフォーマットは、『延喜式』巻13、図書寮の条、
「巻13/図書寮/24/凡装潢、長功日黏紙七百張、擣紙二人日百廿張、麁闌界四百卌八張、〈張別廿七行、〉界長七寸二分、広七分、注闌界四百八十三張、〈張別廿四行、〉界長同上、広八分、横界五百八十八張、装書四百廿張、〈截端及著褾紙安帯軸、〉中功粘紙六百張、擣紙二人日一百張、麁闌界三百八十四張、注闌界四百張、横界四百九十張、装書三百六十張、短功粘紙五百張、擣紙二人日八十張、麁闌界三百廿張、注闌界三百卌五張、横界三百九十二張、装書三百張、」
を参考にしてもよいかもしれない。しかしながら、写経所の裏紙(紙背文書)として再利用されたため、 正倉院文書に残る越前国郡稲帳の寸法には微妙な揺れが存在する。理由としては、①郡ごとの書記の書式差、②郡稲帳・正税帳の年度差、③紙の裁断時の誤差(数mm〜数cm)が想定されるが、確かなのは唐尺系(1尺=約29.6cm)を採用している事実である。
本来であれば、正倉院文書の「越前国郡稲帳」の紙面の界・行間・欄幅・紙幅・紙高 を示すための寸法を測りたいが、国宝ゆえにその願いはかなえられない。<基本換算1、
>
そこで、、無謀と言われようとも、館野氏の説明を踏まえて、あえて、
界線構造(書式フォーマット)を復元すれば、
① 縦28.2cm・横58.7cm
②
端から約2.8cmに天界
③
その下に約1.2〜1.4cm間隔で横界4本
④
端から約2.8cmに天界
⑤
その下に約1.2〜1.4cm間隔で横界4本
⑥
端から約2.8cmに天界
⑦
その下に約1.2〜1.4cm間隔で横界4本
⑧
下端から約3.3〜3.4cmに地界
⑨
縦界幅約2.3〜2.5cm
o
<財政帳簿としての規格紙>
ここで、先ほどの『延喜式』の内容を照合すると、当該の越前国郡稲帳は、「界長(紙面の縦方向のサイズ)が七寸二分(約21.3〜21.4cm)に合致すると言えよう。他の正税帳の界長も7~9尺台で占める。
なお、本来巻子本に仕立ててあったはずなので、以下は、館野氏など正倉院文書に実際に触れる機会のある方々へのお願い
1) 紙と紙の継ぎ目の接着剤は何か? 「黏紙」の接着剤料は大豆糊であること推定されるが、それでよいか。他の宝物では動物性膠や「乳香」(樹脂)の接着剤も頭の隅に置かなくてはならないが、紙に使用することはあるまい、
『延喜式』巻13/図書寮に
「/15/凡年料装潢用度絹五尺、〈篩糊料、〉大豆五斗、〈糊料、〉大竹廿株、〈褾紙料、〉小刀四枚、〈切紙端料、〉砥一顆、」ある「大豆」が接着剤の原料である。
2) 紙の種類:古代日本において、①麻紙、②穀紙(かちがみ)、③竹幕紙、④楡紙、⑤檀紙、⑥斐紙、⑦葉藁紙、⑧杜中紙などが想定されるが、残念ながら実験できていない。このほかにも、「麻紙,黄 麻紙,白 麻紙,緑 麻紙,常 麻紙,短 麻紙, 白短麻紙,穀紙,標紙,加 地紙,加 遅紙,梶 紙,檀 紙,真弓紙,長檀紙, ,肥 ,荒肥紙, 布紙, 紙,白 布紙,本 古紙,葉 藁紙,波 和良,波 和羅,杜 中紙,松 紙,などが想定される。しかしながら、『正倉院文書目録』に「【紙質】 楮紙(斐交リ)」とあるので、⑥斐紙であると比定されるが、写真を一見した限りでは、必ずしも斐紙ではなさそうである。存擬。
3)筆:『延喜式』巻13/図書寮の条に
「/26/凡造筆、長功日兎毛十一管、〈狸毛上同、〉鹿毛卅管、中功日兎毛十管、鹿毛廿五管、短功日兎毛八管、鹿毛廿管、」とあり、筆の種類が判明する。しかし、これも後日の調査結果を待ちたい。
4)墨:同じく『延喜式』巻13/図書寮条に、
「/27/凡造墨、長功日焼得烟一石五升、煮烟一斗五升、〈二日二夜乃得熟、中功短功亦同、〉成墨九十三廷、〈長五寸、広八分、料膠一斤、〉中功日焼得烟九斗、煮烟九升、成墨八十廷、短功日焼得烟七斗五升、煮烟七升五合、成墨六十六廷、」とあり、
「巻13/図書寮/14/凡年料所造墨四百廷、〈長五寸、広八分、〉絹七尺八寸、〈篩墨料、〉綿八両、〈拭墨料、〉調布一丈六尺、〈袋并覆料、〉紺布四端、阿膠小六斤八両、席一枚、食薦二枚、〈並干墨料、〉長上一人、造手四人、給衣服、各庸布一段、其食人別日米一升六合、塩一勺六撮、海藻二両、醤滓一合、惣単九十三人」
とあり、専門の造墨職人が雇用されていた。
この墨が正倉院御物にある舶載品の墨でないことだけは確実である。
5)装潢:正倉院文書に「装潢作物法」という記事が残っている。
「((続々修46ノ6断簡1(2) 3/489-2~8)
誤一字 折五張
右、不顕誤字、折校人紙与勘出人、如上法之、又為例之、
装潢作物法
一日継紙六百張 界三百張 打二百張 漆一千張
端切四百張 竹削表紙着六十六巻 軸緒着八十巻
以黄蘗一斤染紙卅五張 天平勝宝三年二月八日)
天平勝宝3年〈751〉段階で、装潢とは
① 継紙(髪をつなぎ合わせること)
② 界(縦横の罫線を引くこと)
③ 打(髪を打つこと)
④ 漆(防腐<ウルシオール>・防虫・防水技術にコーティング)
⑤ 端切(紙の上下をそろえること)
⑥ 竹削表紙(竹で抑えを張り込んだ表紙を作ること)
⑦ 軸緒(巻子本の巻紐・結紐・外題紐など、絹・麻・紙縒りで、結びは片結び)
⑧ 染紙(黄蘗染は防虫)
の担当し、さらに紙の末尾に軸を巻き込み、それを表紙に至るまで閉じこめて、巻子体を作り上げる専門工人であった。
6)越前国の巻子本製作体制
『類聚三代格』巻6/公粮事/8/太政官符/
「応給食徭丁事 四度使雑掌廝丁〈朝集使四人 自余三使各二人〉 大帳税帳所書手〈大国十八人 上国十六人 中国十四人 下国十二人〉 造国料紙丁〈大国六十人 上国五十人 中国四十人 下国三十人〉 造筆丁〈国別二人〉 造墨丁〈国別一人〉 装潢丁〈大国六人 上国五人 中国四人 下国三人〉」
とある。すでに館野和己氏の研究によって、
。「郡稲帳」には「越前国 郡稲帳天平五年潤三月六日史生大初位下阿刀造佐美麻呂」との継目裏書があり、作成日と作成者がわ かる。史生は越前国司の一員で、守・介・掾・目という国司の4等官の下位にいた人である。職員 令によれば国司には守・介・掾・目の4等官と史生がいた。そして諸国は大国・上国・中国・下国 の4ランクに分類され、それにしたがってそれぞれの定員が定まっていた。越前は『延喜式』民部上 では大国に位置づけられている。職員令大国条・上国条にしたがえば、大国の国司は守・介・大掾・ 少掾・大目・少目各1人と史生3人から、上国は守・介・掾・目各1人と史生3人からなっていた。 「郡稲帳」には掾として従六位上坂合部宿祢葛木(麻呂)が見え(断簡D)、掾に大少の区別のない ことがわかる一方、大目はいたので(断簡C)、当時の越前は大国と上国の中間に位置した可能性が 高い」
という指摘がもっとも無難であろう。
したがって、越前国が上国であった場合、文書作成人数は、公式には
上国:大帳税帳所書手〈上国十六人〉+造国料紙丁〈上国五十人〉+造筆丁〈国別二人〉 +造墨丁〈国別一人〉+装潢丁〈上国五人〉」
の104人の布陣であったと判明する。
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【断簡名|断簡ID】 続々修46ノ6断簡1(1)【仮】|6460600101700 |
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【類別|帙巻|表裏】 6|4606|表 |
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【断簡番号1|2|3】 1|1|700 |
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【継目ID】 64606002010 |
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【撮影カット|撮影紙番】 39|1 |
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【料紙通番|影印通番】 1| |
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【継目左右行頭文字】 |
≪正倉院文書目録≫
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【冊|頁|天地】 70|700| |
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【一次・二次】 |
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【文書・継文名|前後欠】 写経布施校生勘出装潢作物法例| |
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【(文書・継文名)年月日】 天平勝宝3年2月8日 |
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【文書名|前後欠】 |
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【(文書名)年月日(始)】 |
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【文書継文名関係備考】 |
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【紙質】 |
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【紙数】 |
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【紙高|紙幅】 |
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【料紙関係備考】 |
≪大日本古文書≫
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【大日本古文書】
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