大隅国の誕生が,713(和銅6)年に日向国のなかから,肝坏・贈於・大隅・姶良の四郡を割譲した分立は周知のとおりである(「於保須美」、中国。「割日向国肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶𧟌(あひら)四郡始置隅国」『続日本紀』和銅六年四月乙未条)。そして大隅に存在した曽君・大隅直などの隼人居住地域に豊前国から200戸を移住させたことも通説のとおりである。まるで、薩摩国の国府周辺を肥後国の移民で固めたように、大隅国の国府周囲も豊前国を主とした移民で固め、隼人の反乱や暴挙(「昏荒野心」)に備えたに違いない。
「隼人昏荒野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸、令相勧導也」(『続日本紀』和銅七年三月壬寅条)
その移住地は,大隅国国衙が設置された霧島市国分府中周辺ではないかと推定される。
『倭名類聚抄』には、
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表2行目 桑原郡
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目 大原
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目 大分
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目 豊国
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目 答西
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目 稲積
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目 広田
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目 桑善
巻9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目 仲川[国用中津川三字]
とあり、桑原郡内に「大分・豊国」の郷名が認められ、その出身地を教える。
この桑原郡に移住した豊前国200戸とは、一戸が
*最小12.3人,最大で23.3人の規模説(高島正憲「奈良時代における収入格差について」『経済研究 』Vol. 71, No. 1、2020年、65頁)
だとする高島説を踏まえて、平均20人だと仮定すれば、大隅国に移住した豊前国民は約4000人に達する。
ところで、下記の表に見る通り、大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍断簡には上三毛郡塔里、上三毛郡加自久也里と仲津郡丁里の三か所の戸籍が記載されている。
現在の築上郡大平村唐原付近に比定される上三毛郡塔里の戸籍には男64人、女65人の名が記されている。その内訳は秦部と勝の姓を持つ者が約九六%を占めている。
また、現在の豊前市大村付近に比定される上三毛郡加自久也里の戸籍には男31人、女43人、奴婢12人の名が記されている。この加自久也里でも秦部と勝の姓を持つ者が約七四%を占めている。
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<参考情報>
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<参考情報>
豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡
1幅、紙本墨書、縦26.3 横55.9、文書
大宝2年 702年
大宝二年における豊前国仲津郡丁里(現在の福岡県行橋市、みやこ町付近)の戸籍の一部。現存最古の年紀を持つ戸籍で、同年の戸籍は、本品を含む豊前国のもののほか、筑前(ちくぜん)国や美濃(みの)国のものなどが正倉院等に伝存する。各戸の記載は、戸主を筆頭に置き、血縁関係の近い順に戸口(戸の構成員)を一行に一名ずつ記す。全面にわたり、文字のある部分には朱印「豊前国印」が捺される(一部を除く)。紙背(しはい)には戸籍とは関係のない文書が記されているが、これは戸籍の保管期限である三十年を過ぎた後、写経所(しゃきょうしょ)で事務帳簿に使用された際のものである。
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