2026年4月8日水曜日

豊前国から大隅国へ移住した200戸の内で、2千数百人は渡来人であったか?

大隅国の誕生が,713(和銅6)年に日向国のなかから,肝坏・贈於・大隅・姶良の四郡を割譲した分立は周知のとおりである(「於保須美」、中国。「日向国肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶𧟌(あひら)四郡始置隅国」『続日本紀』和銅六年四月乙未条そして大隅に存在した曽君・大隅直などの隼人居住地域豊前国から200戸を移住させたことも通説のとおりである。まるで、薩摩国の国府周辺を肥後国の移民で固めたように、大隅国の国府周囲も豊前国を主とした移民で固め、隼人の反乱や暴挙(「昏荒野心」)に備えたに違いない。

隼人昏荒野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸、令相勧導也」(『続日本紀』和銅七年三月壬寅条)

その移住地は,大隅国国衙が設置された霧島市国分府中周辺ではないかと推定される。

『倭名類聚抄』には、

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表2行目        桑原郡   

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目                         大原

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目                         大分

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目                         豊国

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目                         答西

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表3行目                         稲積

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目                         広田

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目                         桑善

9・国郡部第12・大隅国第132・桑原郡・21丁表4行目                         仲川[国用中津川三字]

とあり、桑原郡内に「大分・豊国」の郷名が認められ、その出身地を教える。

この桑原郡に移住した豊前国200戸とは、一戸が

最小12.3人,最大で23.3人の規模説(高島正憲「奈良時代における収入格差について」『経済研究 』Vol. 71, No. 1、2020年、65頁)

だとする高島説を踏まえて、平均20人だと仮定すれば、大隅国に移住した豊前国民は約4000人に達する。

ところで、下記の表に見る通り、大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍断簡には上三毛郡塔里、上三毛郡加自久也里と仲津郡丁里の三か所の戸籍が記載されている。

 現在の築上郡大平村唐原付近に比定される上三毛郡塔里の戸籍には男64人、女65人の名が記されている。その内訳は秦部と勝の姓を持つ者が約九六%を占めている。

 また、現在の豊前市大村付近に比定される上三毛郡加自久也里の戸籍には男31人、女43人、奴婢12人の名が記されている。この加自久也里でも秦部と勝の姓を持つ者が約七四%を占めている。


だからこそ、この地域から大隅国府付近へ移住した豊前国人約4000人の全てといえばそれは過ちを犯しかねないが、少なくとも三分の二程度の2千数百人は渡来系の人々であったと推測できないだろうか。
 つまり、平城京から赴任された国司を守護するために、渡来人を移住させ、その異民族の盾を作ることで、隼人への防御策としたのではないだろうか。


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<参考情報>

「大宝二年豊前国戸籍断簡」に見る氏姓
表8 「大宝二年豊前国戸籍断簡」に見る氏姓

拙稿「2024年11月3日日曜日投稿、大宝二年の豊前国戸籍断簡と「秦部」参照のこと


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<参考情報>

豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡

1幅、紙本墨書、縦26.3 横55.9、文書
大宝2年 702年

大宝二年における豊前国仲津郡丁里(現在の福岡県行橋市、みやこ町付近)の戸籍の一部。現存最古の年紀を持つ戸籍で、同年の戸籍は、本品を含む豊前国のもののほか、筑前(ちくぜん)国や美濃(みの)国のものなどが正倉院等に伝存する。各戸の記載は、戸主を筆頭に置き、血縁関係の近い順に戸口(戸の構成員)を一行に一名ずつ記す。全面にわたり、文字のある部分には朱印「豊前国印」が捺される(一部を除く)。紙背(しはい)には戸籍とは関係のない文書が記されているが、これは戸籍の保管期限である三十年を過ぎた後、写経所(しゃきょうしょ)で事務帳簿に使用された際のものである。

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2026年4月1日水曜日

白鳳地震津波(天武13年10月(684)

 

白鳳地震津波

天武13年10月(684)


津波痕跡データベース

貞観地震 貞観11年 5 月(869)

  貞観地震 貞観11年 5 月(869)


津波痕跡データベース

『日本三代実録』貞観11(869)年 5 月26日条

「廿六癸未。陸奥国地大震動。流光如晝隠映。頃之。人民叫呼。 伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。牛馬駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。 不知其数。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海数十百里。浩々不弁 其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」


2026年3月17日火曜日

東北の英雄・夷俘「アテルイ」の「大墓」の音価

 スウェーデンの中国語学者 Bernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica)および『Analytic Dictionary of Chinese and Sino-Japanese』では、

「大」のカールグレン再構音

カールグレン体系では 

「大」 の上古音は

*dâg

内訳

  • d- : 有声歯茎破裂音(initial)

  • â : 低母音

  • -g : 語末子音(入声系統の痕跡と考えた)

→語末に -g をもつ閉音節 

中古音(参考)

中古漢語(『切韻』体系)では

dâi

  • 現代北京語:

  • 現代日本漢音:ダイ

  • 呉音:ダイ

  • 現代韓国漢字音:대 (dae)

に対応。


(2)「墓」

同じくBernhard Karlgren の体系(主に Grammata Serica / Grammata Serica Recensa 系統)では、


漢字 「墓」 の上古再構音は次のとおりである。

カールグレンによる再構音

*mâg

音の構成

  • m- :両唇鼻音(語頭)

  • â :低母音

  • -g :語末子音(有声軟口蓋閉鎖音)

つまり *閉音節 -g をもつ語 として再構されている。

中古漢語(Karlgren体系)

中古音(『切韻』系)は

で、中古段階では 語末子音は消失 したと考えられている。


以上、要するに

*大墓=dâg+

であることを念頭に置けば、日本古代漢字音では

*大墓=Ta/Da+Ma

と推測できる。

したがって、我が小見では

*田茂(山)説=岩手県奥州市水沢羽田町字明正付近か(現在は田茂山会館や東北新幹線田茂山トンネルに名を遺す)

⇒万葉仮名では「茂」は「もの甲類/乙類の併用」

に軍配を上げたい。



三韓諸国の首長が自称した称号「臣智」や「邑借」の音価に関して

『三国志』魏書東夷伝には

各有長帥 大者自名爲臣智 其次為邑借 散在山海間 無城郭」

とあり、三韓諸国の首長が「臣智」や「邑借」とい う称号を自称していたことが記されている。この「臣智」という身分称号については、通説通りに、前漢が朝鮮半島の平壌付近に郡県制を導入し、楽浪郡を設置(前108年)したと考えて良い。それ以降、三韓諸国の支配層は楽浪郡を通して前漢など接触し、数々の文化を導入したはずである。

Bernhard Karlgrenによる上古漢語再構音( Grammata Serica Recensa,1957)によると、

臣(OC: dźi̯ən)

声母:dź-(有声歯茎硬口蓋音)

韻母:-i̯ən

智(OC: tǝi̯H)

声母:t-

韻母:-ǝi̯

去声(H)


つまり、「臣智」は「dźi̯ə+ tǝi̯H」であり、次の通り「邑借」は「ʔi̯əp+ tsiak」である。


邑(OC: ʔi̯əp)

声母:ʔ-(喉頭音)

韻母:-i̯əp

 借(OC: tsiak)

声母:ts-(歯茎破擦音)

韻母:-iak







2026年3月15日日曜日

朝鮮半島南部の勒島遺跡と楽浪郡との交易ルート

   楽浪郡との交易ルートの復元

前提:紀元前108年、漢武帝は衛氏朝鮮国を滅ぼし、楽浪・玄菟・臨屯・真番の4郡を設置した。武帝の後継者である昭帝は、紀元前82年に楽浪郡の東南と南に位置する臨屯・真番郡を廃止、紀元前75年には東北 に位置する玄菟郡を遼東に移し、旧4郡域のほとんどは楽浪郡に併合した。


 1. 交易ルート復元の根拠となる考古資料

(A)弥生土器の分布(倭 → 勒島)

勒島遺跡では弥生中期前半〜後半の大量の弥生土器が出土

九州北部系が中心、山陰系も混在

→ 倭の海民が定期的に往来した証拠


(B)無文土器・三韓土器(半島 → 倭)

壱岐・北部九州の遺跡から無文土器が出土

→ 半島側の人々の移住・往来を示す


(C)楽浪土器・中国銭貨(楽浪郡 → 三韓・倭)

勒島遺跡では楽浪土器と中国銭貨が日常生活域から出土

西日本の海村でも同様の銭貨が多数出土

→ 楽浪郡から南下する交易ルートの存在


D)北部九州系漁具(倭の海民の移住)

勒島遺跡からアワビおこし・結合式釣針など北部九州特有の漁具

→ 倭の海民(倭の水人)が勒島に移住し、交易を担った


2. 時期別にみた交易ルートの変化

Ⅰ期:弥生前期末〜中期前半(勒島 I期)

倭(北部九州) ↔ 勒島が中心

主な動き:倭人の移住・海民ネットワークの形成


Ⅱ期:弥生中期後半(勒島 II期)

交易範囲が拡大

倭 ↔ 勒島 ↔ 三韓(加耶)

山陰地域もネットワークに参加


Ⅲ期:弥生後期前半

楽浪土器・中国銭貨が南下

倭—三韓—楽浪郡の三者が直接つながる

→ 楽浪郡との政治的・経済的交渉が本格化


3. 交易ルートの実態:何が運ばれたのか?

仮説:楽浪郡との交易ルートの姿

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していたと考えたい。

倭の海民が勒島に拠点を築く

勒島が「中継港」として機能

三韓(加耶)が鉄と物流のハブ

楽浪郡が中国文明の供給源

楽浪郡との交易は、倭が直接平壌に向かったのではなく、

倭 → 勒島 → 三韓 → 楽浪郡

という“段階的な海上ネットワーク”として成立していた。





平壌市楽浪区域貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」の「レ」形符号

    漢代の木簡や竹簡などに「返り点 」が見いだせることは、居延漢簡・里耶秦簡などの出土簡牘で周知の事実である。

*「/」「レ」「∨」「・」などの符号

さて、平壌市楽浪区域の貞柏洞364号墳(木槨墓)出土の 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」にも、字の右下に「レ」形の符号が付された簡があると報告されている。

「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とは、前漢・初元4年(紀元前45年)に作成された楽浪郡の戸籍木簡(木牘)である。漢四郡支配下の朝鮮半島で実際に運用されていた行政文書に見られる「レ」形の符号は確かに「返り点」と認定するには、その場所が不自然である。

文書フォーマットの基本構造

前漢スタイル標準的書式:

1. 年号(初元四年など)

2. 郡名(楽浪郡)

3. 県名(○○県)

4. 戸数・人口

5. 身分分類(吏民・庶人など)

6. 署名(吏の名前)

7. 校記(レ形など)