2026年5月10日日曜日

相模国に関する2,3の覚書き

冒頭でのお願いーー「相模」と「相摸」の表記に関しては、「相摸」を採用したい。しかし、通用漢字を考えると、便宜上「相模」を表記する。

1)相模の読み

  古名は「さがむ」(「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒迩 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」<記歌謡24>。「Sagamu→Sagami」への母音交代は、古代日本語では

神(Kamu > Kami    を例証としたい。

  例えば、神風:Kamu+風>Kami+風 

 最古の例とは断定できないものの、『古事記』中巻に

加牟加是能(かむかぜの) 伊勢能宇美能(いせのうみの) 意斐志爾(おひしに) 波比母登富呂布(いはひもとほる) 志多陀美能(しただみの) 伊波比母登富理(いはひもとほり) 宇知弖志夜麻牟」

などとある。

2)上記の考察で、「さがみ」の古形は「さがむ」であったとするのが、わが仮説の出発点である。

とすれば、「さがむ」の語義を解明するためには、単語自体をどのように分析すればよいであろうか。
 そこで思い浮かぶのは、「酒匂川」である。神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は
「Sakawa川」と呼称されている。
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。先の引用からも判明するように、現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「酒匂」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかと不要なチャチャを入れる方がおいでだからである。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、後行同化となり「o+o」の母音へと交代する。したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さか+わ」であると理解できよう。


3)これまでの(1)と(2)の調査を通して、確認をしたかったのは、相模と酒匂の2単語に共通する

*語根 Saka

の取り出しであった。Sakaを語根に持つ語彙として

*さかひ:Saka+ Afi(合ひ) → Saka+Fi  →意味(区画をつける、境界を決める)

*仮説:Sakaは「境界」の意。

つまり、 東海道ルートでのヤマト王権の東国進出時に、既知の駿河国と未知の東国の境界に位置する箱根の峠をイメージすると理解する。

 次に考察すべきは、相模=「さがみ」の古形「さがむ」の 「さか+Mu」の「Mu」である。

我々の目には、『日本書紀』の

*「斉明天皇紀2年「嶺、冠以周垣田身山名、此云大

が飛び込む。つまり「」である。

‐「身中化為中山祗〈中 久呂〉(神代紀上。私記乙本)

などで傍証できるように、「さか+む」が古形であると考えて間違いない。

gしかしながら、肝心な「む」の意味が皆目わからない。

後考を俟ちたい。





東海道と相模国 東海道ルートでのヤマト王権の東方進出 東海道 相模…(安房)…上総…下総…常陸 相模は、はじめ遠国でなく中国(『令集解』古記所引和銅五年〔七一二〕以前の民部式) 武蔵国は宝亀二年(七七一)十月二十七日(『続日本紀』)まで東山道 『延喜式』兵部省式東海道駅家…坂本駅家(足柄市関本)、小総駅家(国府津)、箕輪駅 家(伊勢原)、浜田駅家(海老名)(ただし、東海道武蔵国への道筋)



相模国「酒匂川」の「匂」に関するエッセイ

「酒匂川」

神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は

「Sakawa川」と呼称され、
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「さかわ(酒匂)」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかという関連質問に備えて、その対策である。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、古代語において、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、後行同化となり「o+o」の母音へと交代する。

したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さかわ」であると理解できよう。

 ここで不思議なのは、漢字「匂」を使用する漢字語構成となっていることである。木簡庫での用例を探せば、出土した木簡には、

①「川匂廣公○辟秦」(平城京、年代未詳)

②「□□□〔匂郡ヵ〕」(平城京、年代未詳)

として、奈良時代においても漢字「匂」を使用している。この漢字「匂」は果たしてどのように読まれたか万葉仮名を持たないだけに、正解に至る道はない。

正倉院文書に

鎹一用経師等曹司門戸打料

「匂(にょう)」の用例を見る。この漢字は「条・箇・本」などに近い数量語であり、細長いもの・釘類・金具類の単位の意味である。

 ここで視点を変えて、Bernhard Karlgren の中古音を紹介したい(上古音は未記載)。
中古音を反映した『広韻』系では:
  • 匂 :女救切

とあり、

  • 声母:娘母(n 系)
  • 韻:尤韻
  • 声調:去声
であり、「njuHもしくはniəuH」(Hは去声)」と再構できる。したがって、古代日本語では
*呉音「ニュウ」漢音「ユウ」
であったので、当然である。「鎹一匂 」は呉音で「にゅう」と読む。

だからと言って、これで「酒匂」は「シュ+ニュウ(もしくはユウ)」だと読んでほしいと要望できないのも、事実とは異なる。

 ところで静岡県磐田市匂坂(さぎさか)」の現存地名での「匂」を「さぎ」と読む例に関心を振り向けてもよいだろう。地名では「さぎさか、さきさか」と読むが、人名となると「こうさか」とも読むようである。この磐田の地は奈良時代には遠江国府・遠江国分寺・遠江国分尼寺が置かれ、遠江国の中心地であった。

この「サキザカ」の読みが時代をいつまで遡るのかは不明であるが、興味深いのは、「匂」を「コウ」と読む事例である。

 遠江国:「匂+坂」を「こう+坂」と読むならば、「川+坂」の意味

 相模国:「酒+匂」を「さ+こう」

と見れば、「こう」→ k+/øː/(o の長母音)→ Ka+a  → KaWa →KaFa→KaPa の音変化を予想させる。したがって、「こうさか(匂坂)」とあれば、「川+さか(坂)」の語形まで想像させるが、その確証はまったくない。磐田市匂坂は天竜川沿いにあるので、この川と意味は合うが、それは「他人の空似」であるかもしれない。

その一方で、「匂坂」を「さき+坂」と読むならば、

「さき:<しり(後・尻)の対>。前方へ突き出ている部分。先端。転じて前途、将来の意。類義語マヘは目方(まへ)で視覚的に前方の位置。

 ①(前方への)突出部

 ②前方

 ③先頭

 その他」(『岩波古語辞典』559頁)

の意味を持つ。したがって、「さき+坂」であれば、「前方の坂」の意味に解する。

とはいえ、いずれにせよ、相模国「酒匂(川)」の「酒匂」の意味は依然として不明であると言わざるを得ない。
あらためて、「さかわ(川)」の語源をさかのぼれば、かりに「さこう(川)」を出発点としても
 *Sak+/øː/(o の長母音)→ SaKa+a  → SaKaWa →SaKaFa(→SaKaPa)
までの道のりを辿りえる。
 すでに別稿で、Saka(さか)は、
 *古語「坂(酒)迎ひ」(①新任の国司が任国に入るとき、国府の役人が国境まで出迎えて
             饗応(「さかもり(酒盛り)」する儀式
            ②(「酒迎へ」ともかく)長途の旅から帰ってきた人を出迎えて饗
             応すること。」
とあるように、「境界」の意味に解しうる。つまり「境界を出入りすること」の意味である。
したがって、「酒匂」とは「さか+Fa(端)」と理解して、
*箱根の山を越えて、東国の最初の国である相模国に入国したときに、東国の「端に位置する場所」と解して、「酒匂川」はその地を流れる河川と理解したい。

付論)『源氏物語』に「匂宮」が登場するように、「匂(現代語は「におい」、古典語は「にほひ」)」の意味は
 「<二は丹で赤い色の土、ホは抜きんでて現れているとこと。赤く色が浮き出ている意味」(『岩波古語辞典』1014頁)
とある。つまり視覚的に美を称賛するイメージを持つ感じである「匂」が、古代に珍重されたと想定できないだろうか。
ちなみに、相模国は関東ローム層といわれる赤土の層の上にある。



 





仮に「こう+坂」と分析できるならば、この「こう」は


<参考文献>

磐田市教育委員会文化財課 2014 『特別史跡遠江国分寺跡発掘調査概報』磐田市教育委員会文化財課 



2026年5月5日火曜日

なぜ相模国司は稀少な不動産物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか。

そもそも、なぜ相模国司は平城京内の稀少物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか?

この疑問が、本稿の問題の所在である。

 いまさら夏目漱石の『草枕』の冒頭を語るまでもなく、歴史家でも日本史学研究者などの看板を持たない門外漢だけに、学界の縛りなどとは無縁。

本稿の筆者は自由に想像の翼を広げたい。

 ところで売却後、その「調邸」は平城京内のどこへ移転したのだろうか。遠く相模国から上京した人々(「運脚」)が重い荷を下ろし、休息もしたはずの半公的空間は必ず必要であったはずだが、記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動向などは無関心であろう。

 ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすい。相模国司が緊急に必要となった資金計画とは、何だったのか。あるいは資金難に陥った事業計画であったかもしれないからである。それは何か?

 仮説:天平年間(729–749)における相模国の寺院建設として、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立政策(天平13年=741年詔)の代表的寺院が相模国分寺・相模国分尼寺であったので、第1に想定されるのは建設費への補填であり、第2に相模国分寺・相模国分尼寺建設に従事した工人たちへの給与支払い(奈良大仏建立に従事した工人<作業員>らへの貨幣支払いに充てたとも想定される。

 さて、相模国における天平年間と寺院建設 は次のように整理できよう。

1. 国家政策としての寺院建設(天平13年・741年)

  • 聖武天皇による国家鎮護政策の指示は国家プロジェクト「金光明四天王護国之寺」として全国に建立された国分寺・国分尼寺

  • この詔に基づき、相模国司は国分寺・国分尼寺を海老名台地での建設計画に着手

2.  天平期の巨大伽藍

相模国分寺(海老名市国分南一丁目19)の概略
  • 創建:天平年間(724–749)、もしくは750~760年代(国平健三説、天平勝宝・天平商宝治年間。藤原仲麻呂政権下。752年に東大寺大仏の開眼供養)、さらには弘仁10年(819)の火災以降:前場幸司説など)。

  • 伽藍配置は全国でも珍しい法隆寺伽藍式(塔=西、金堂=東、講堂=北)か。

  • 寺域は東西240m × 南北300mの大規模。

  • 七重塔の基壇は約20m、高さは推定65m

の東国でも最大級の寺院であった。しかもツインとして相模国分尼寺(国分寺跡の北に隣接)建設にも着手せざるを得なかった。しかしながら、この二つの寺院が同時並行に建設されたとは想像しがたいのは、

  • 国分寺よりやや遅れて8世紀後半(天平後期)に整備されたと推測

3. 相模国の特殊性:国府と離れた国分寺

  • 多くの国分寺は国府近くに置かれたが、相模国では国府(平塚市四之宮説が有力)と国分寺が離れている

4, 関東における巨大寺院の成立

  • 七重塔65mは、奈良の主要寺院に匹敵する規模。

  • 相模国の政治的地位以上に、宗教的・象徴的な重視があったと考えられる。

5, 地域開発と寺院建設

  • 海老名台地・丘陵の富士系テフラの上に作られた遺跡は相模川流域の交通・物流の要衝。

  • 寺院建設は海老名地域の開発・富の集積を促進した

  • 海老名台地に巨大伽藍が建設され、関東屈指の宗教拠点となった。


まとめ

当然ながら、この仮説を傍証する資料はない。あくまでも憶測にすぎない。しかしながら、本稿の筆者にとって、論のない論文、仮説のない論文などはあまり価値を認めない。
義務教育もろくに勉強することもなかっただけに、あてずっぽうで、見当違いな文章となっているに違いない。しかし、あれだこれだと考え抜いて、さらに資料を博捜したうえで、たとえ奇妙奇天烈な仮説であろうとも、一歩、先に論を進め、ズバリ歴史の本質に迫りたいと考えている。



岩永省三氏の力編「文武大嘗宮論のための予備的検討 」の一読を推奨する!!

岩永省三氏の力編を一読した。

 岩永省三著「文武大嘗宮論のための予備的検討 」『九州大学総合研究博物館研究報告』第22号、第22号、 2025, pp.81-115 


考古学者として著名な岩永氏であるので、発掘調査記録であると思い込んで読み進めていたところ、豈図らん、それは考古学者による日本古代文献史学への挑戦的なアプローチであった。
どうやら岩永氏の心の中に長年くすぶり続けたモヤモヤ、つまり
 「安閑から文武に至る歴代大王墓に ついて,造営場所,改葬・追葬の有無などの基礎的情 
 報 を整理し,それらの背に,王統の確認・正統化・強化 などの政治的意図があること」
の未確認があったので、それを問題の所在としてスタートさせ、最終目的を
 「藤原宮朝堂院における文武大嘗宮の位置を,既調査地の 検出遺構の詳細な検討によって推  
 定し,その背後にある 持統の皇統観を描き出すことにしたい」
と定めておいでのようである。
 そのキッカケは、本来「大嘗祭で用いられ,儀 式の終了と共に撤去された仮設の建物群」であるだけに、大嘗宮儀礼執行の場とその形成・整備過程など天皇即位儀礼遺構 に見出せるはずもなく、またその変遷も考古学的な調査発掘をしても「物証を持って把握できる」に至らないはずである。しかしながら、岩永氏はその「稀有な例」に遭遇し、発掘調査報告書は執筆できるとしても、その次のステージ、遺構が語る「意味・評価」などに言及できなかった悔しさが残ったようである。それは「奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが 」の接続助詞「~が」に集約されるだろう。
 岩永氏の試みを全面的に支持したい。とりわけ大嘗祭といえば、天皇制の本質に迫る儀礼と考えられてきたので、考古学者は敬して遠ざけてきた問題であっただろう。
 それだけに、岩永氏ご自身が各代の大嘗宮の発掘に携わってきたせいか、
 「平城宮で元正・聖武・淳仁・ 称徳・光仁・桓武の5天皇の即位に伴う大嘗宮が発見さ  れ,奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが (岩永2006a・2006b・2010))」
という点に見て取れる。
岩永氏の分析視点は、
 「即位する天皇の王統上の位置づけ と天皇位継承の正当性が表現されていると考えている」
として明瞭である。
 ただし、この視点は別に斬新ではないが、それまで文献史学や皇族史学、民俗学などの研究によって積み上げられてきた幾多の成果を、考古学的な観点から再検討することに意義がある。その試みは「文武即位に先立つ7世紀の大王家の王統の形成過 程を辿り,文武の即位を強行した持統の皇位継承構想と 皇統観,文武即位の歴史的評価」に直結する手続き上、不可欠であると論文の冒頭で宣言する。
 だからこそ岩永氏の最初の的は、折口信夫らの「大嘗祭論」への反論・破壊であった。それ以後の行論にしても、折口流派の方々、例えば岡田精細司氏らへの追及の手をゆるめない。その詳細は本文一読にゆだねたいが、行間からうかがうに、岩永氏が親和性を持つのは
*大津透氏と倉本一宏氏の問題関心
であったようだ。だからこそ、岩永氏の論述は、考古学者として「異例」にも、
 「26 焼失した飛鳥板葺宮跡地に後飛鳥岡本宮を造営した.その 東方の丘陵には石垣を巡  
 らせた特殊な施設を築き,飛鳥寺の 北西側には漏刻(水落遺跡)や饗宴・儀礼のための大
 規模な 施設(石神遺跡)を設けた.須弥山を象った石像を用いて仏 教行事や夷狄の服属儀
 礼・饗宴を行うなど,王権の神聖化を 図った.この時期には蝦夷居住域への侵攻を日本海
 沿いと太 平洋沿いの双方で進め蝦夷に朝貢させることで,異民族を支 配する「帝国」の体
 裁を整えようとした.」
とまで、彼の思考は発展する。

 さて、岩永氏の既発表の論文、

 ①岩永省三2006a「大嘗宮移動論―幻想の議政官合議制―」『 九 州大学総合研究博物館研
  究報告』
 ② 岩永省三2006b「大嘗宮の付属施設」『喜谷美宣先生古希記念論 集』 
 ③ 岩永省三2010「大嘗宮移動論補説」『坪井清足先生卒寿記念論文 集』下巻
などを知るだけに、「ネタ晴らし」をするのは我が意ではないので、このあたりで擱筆すべきかもしれない。
 それにしても奈良文化財研究所や九州大学などの宮仕えの労を多謝しつつ、それまで考古学者の「職業病」である「遺物が語らないことは、沈黙する」ことの心理的臨界から解放されて、「遺物・遺跡と年代決定」の最強兵器を自由自在に駆使して、古代史学の面目を一新する論考を陸続と発表していただきたい。
 その期待は大きい。

 

 
 

2026年4月28日火曜日

調布の価格は?

 まず、『続日本紀』にある

《天平8年(736)5月辛卯【12】》辛卯。諸国調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺。闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依旧貢之。」

の記事に注目したい。このルールは全国に普及しいたらしく、

『周防国正税帳』(天平10年)には、

「布弐丈捌(28)尺価稲弐拾(20)束(以1束、充1尺4寸)」(『大日本古文書』2-240頁)

とある。

とある。これによって、全国的に統一した基準で徴収されていたとしてよい。したがって、

「調布1端は稲20束」

であると判明する。


2026年4月27日月曜日

周防国周防郡の「殷富」(長者)であった凡直氏

『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。

凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に

宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」

とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kgに該当する。

この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に

天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」

とあり、同じ『続日本紀』に

《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」

とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。

さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。

ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、

0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4

したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。

ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に

「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』 天平六年(734)周防国正税帳 文書第247号 コマ420–423(NDLデジタルコレクション)

とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。

ところで、奈良時代の塩生産方式は

製塩の技術体系(奈良時代)

  • 藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)

  • 塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)

  • 竈での煎熬

でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。

 要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、

  • 周防国最大の製塩地帯を管理し、

  • 海産物の集積地を形成し、

  • 国衙(周防国府)の所在地に位置し

国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。

 なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。





同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、

都濃郡:糒430

吉敷郡:糒1733

熊毛郡:糒35994升