2026年5月28日木曜日

下総国「水上交通国家」論の提出ーー香取海・利根川・東京湾を中心に

以下は、 沖松信隆「千葉県における縄文時代丸木舟の出土例について」

に全面的に依拠したことをあらかじめお断りしておきたい。

 まず、縄文時代の丸木舟は、『千葉県史』によれば、

「弥生時代以降を除 く縄文時代の出土例は、時期不明を合わせて100例以 上になる(鈴木・山岸 2004)」

という。その報告から約20年経過した今、その数の増加を知らないが、相当な数に達していると推定する。

さて、沖松氏によると、栗山川流域遺跡群(香取郡多古町多古字九蔵503-1ほか)から出土した丸木船は

*かや材製で、「全長6.51m、最大幅0.57mで、舷側の残りも良く、 最大内深は25㎝である。大方の部位で舟縁まで遺存し ている。舟体の厚みは舟縁で2~6㎝、舟底で3~7 ㎝を測る。」

という。

*******************

さて、ここからは本稿の論者の管見である。

この船を排水量・喫水・かや材の浮力・乗船する人間の体重(約60~70㎏)などを勘案して、造船学の計算では3名~4名が妥当で、最大限6名までは乗船可能であるという。

理論上の上限(ハル・スピード)は、水線長 L(m)から

Vhull4.5×L (km/h)

で計算して、水線長を約 6.0m とすると、

Vhull4.5×6.011km/h
となる、つまり、時速11kmが理論上の数値である。

 しかしながら、このスピードはあくまでも一時的な最大速度さであり、平均して4km程度であっただろうと予想される。舟の幅は0.57mと細く不安定、しかもパドル/櫂が不明であり、その効率を測定できない上に、漕ぎ手の体力・技術、川か湖か湾か、潮流・風・波の条件などで、大きく異なる。専門家によると、この船で海上を航行するに、その自然条件の制約を想定しなくてはならないものの、沿岸航行では、逆風・逆潮では:3 km/h 以下になると想定した上で、漕ぎ手・波・風の条件さえよければ、

*通常は20~30km、最大で40kmの行程

は可能だそうである。

 これまでの検討材料を前提として、

古代下総国における丸木舟の交流圏」

の検討に移りたい。スタートは下総国府である。 

(1)1日圏(2030km)=河川・潟湖・内湾の日常圏

中心となる水域

①下総台地の縁辺部に広がる水郷地帯

②手賀沼

③印旛沼

④内海(「香取海」「霞ヶ浦」など))

⑤利根川・江戸川・常陸川・鬼怒川・小貝川などの下流域

 

● 特徴

①丸木舟での移動が最も効率的な地形

②河川・沼沢・湿地が連続し、徒歩より舟の方が速い

 

行動の性格

①日常的な漁撈・採集・農業

②村落間の交流

③物資の小規模流通

 

(2) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①古代の巨大内湾全域

②鹿島神宮(常陸国)

③下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

④利根川を遡って、古代の常陸国南部

⑤鬼怒川・小貝川流域の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・水位・流速の読みが重要

③香取神宮・鹿島神宮の祭祀圏

④国府行政圏 と密接に連動

 

行動の性格

①広域の祭祀交流(香取・鹿島)

②交易(塩・魚・木材・黒曜石・土器)

③国府への物資輸送

④古墳時代の首長間交流

 

(3) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①香取海(古代の巨大内湾)全域

②下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

③利根川を遡って、古代の常陸国

④武蔵国の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・潮待ちよりも、水位・流速の読みが重要

 

(4)1週間圏(120150km)=東京湾・常陸国・上総国へ

到達可能範囲

①東京湾沿岸(市川〜船橋〜浦安〜品川)

②上総国(市原・木更津・袖ヶ浦)

③常陸国(鹿島灘沿岸)

④利根川を遡って、古代東国の内陸部(下野国・上野国) 

特徴

① 東京湾は内海として航行可能

②「政治的・儀礼的」航行が中心

③国府と周辺国の物流ルート

④大規模祭祀(香取・鹿島・安房の海上交流)

⑤交易(塩・鉄・布・木材)

⑥古墳時代の首長間の儀礼的往来

⑦律令時代における租調などのモノ輸送・ヒトの交流・情報の往来などに活用


古代大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸)に関する仮説

 本稿の目的は、古代における大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸を中心として)に関する仮説を提出することにある。

(1)前提条件

1,船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

2,速度: 巡航 6 km/h
3、1日行程  2030 km程度
4、航法: ①岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ②昼間航行・夜間は泊地

(2)同一政治勢力圏
  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸→日向国府へ

  6.  停泊地

    ①志布志湾奥救仁院高浜庄・志布志港周辺:古代の水門

    ②志布志湾西岸大崎町海岸砂浜・:台地上に遺跡分布

    ③唐仁海岸唐仁古墳群背後:古墳群=海上勢力のHinterland
    港や集落などの背後にある供給・流通の地域)
   ④肝付川河口高山周辺:河川の結節点
     
   ⑤内之浦湾 浦内之浦港:黒潮系海流の北上ルート。奄美大島などとの外洋接点

   ⑥大隅南端大泊・佐多:岬回りの風待ち

   ⑦串間福島・串間湾都井岬:安全港
 
   ⑧日向灘油津 :豊前国・日向国からの南下ルートの寄港地

(3)区間別「潮流・風向」モデル

実効速度の考え方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

気象庁のデータによると、日向灘〜志布志湾口は、外洋側に向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されるという。

1. 志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸「古代沿岸航行ルート図」

想定する基本条件

  • 船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

  • 速度: 巡航 46 km/h、1日行程 2030 km(好条件で40km)

  • 航法:

    • 岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ

    • 昼間航行・夜間は泊地

  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾(内之浦宇宙空間観測所周辺)

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸へ

行程モデル(潮流・風向を含む)

基本パラメータ

  • 船速(静水): 46 km/h

  • 行動時間: 1日 57 時間(休憩込み)

  • 静水での行程: 2030 km/日

潮流・風向を加味したモデル

  • 追い潮+追い風(+2〜3km/h)

    • 実効速度: 68 km/h

    • 1日行程: 3040 km

  • 逆潮+向かい風(−2〜3km/h)

    • 実効速度: 23 km/h

    • 1日行程: 1015 km(場合によっては「ほぼ進めず」)

  • 現実的な平均モデル(良悪条件混在)

    • 長期平均として 1日20〜25km を「設計値」とみなすのが妥当。

このモデルを、

  • 志布志湾奥〜唐仁海岸:約20〜25km → 1日行程

  • 唐仁海岸〜内之浦湾:約25〜35km → 1〜2日

  • 内之浦湾〜大隅南端(大泊など):約30〜40km → 1〜2日


3. 古代の丸木船の「航海可能範囲」推定

時間スケール別の範囲

  • 日帰り圏(往復)

    • 片道 1015 km 程度

    • 志布志湾奥を起点とすると:

      • 湾内の対岸・湾奥の別河口まで

  • 1泊2日圏(片道1日+復路1日)

    • 片道 2030 km

    • 志布志湾奥 → 唐仁海岸/大崎海岸/肝付川河口 など

  • 数日〜1週間圏

    • 片道 60120 km

    • 志布志湾奥 → 内之浦湾 → 大隅南端 → 都井岬周辺 → 日向灘沿岸

    • 途中で必ず複数回の「風待ち・潮待ち」を挟む前提

「政治圏」としての解釈

  • 志布志湾を拠点とし、ヤマト王権と政治的関係を有する勢力が、

    • 日向南部〜大隅東岸〜大隅南端までを

    • 「数日〜1週間スケールの往来圏」として持ち得た、というモデルを設定できる。

これは、

  • 志布志湾沿岸の古墳分布

  • 唐仁古墳群・内之浦周辺遺跡 などと重ねると、「海上ネットワークとしての政治圏」

4. 古代の港・泊地の候補地リスト(一次案)

表:志布志湾〜大隅東岸の古代港・泊地候補

区分地域・地名機能イメージ根拠の方向性
A志布志湾奥(救仁院高浜庄〜志布志港周辺)中核港・荘園水門・政治拠点水門・古代〜中世の港記録・飯盛山古墳との対応
B志布志湾西岸(大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸)中継港・湾内泊地・古墳背後の海上拠点唐仁古墳群・沿岸遺跡分布・砂浜と背後台地の組み合わせ
C肝付川河口周辺河川交通と海上交通の結節点大隅東岸の大河川河口・背後の古代遺跡群のHinterland・沖合の志布志湾航路との接続
D内之浦湾安全な良港・外洋(日向灘)との接点入り組んだ湾形・現在も港湾・古代〜近世の良港としての地形条件、奄美大島などの外洋ルート
E岸良〜根占〜大中原〜大泊(佐多)周辺の小湾列南端回航前後の「風待ち・潮待ち」泊地小湾・砂浜・背後台地・貝塚・遺跡分布(縄文〜古代)
F都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)日向側の玄関口・対外接点日向南部の古代港湾候補・岬回り前後の泊地としての地形条件、豊前国・ヤマト朝廷へのルート

古代沿岸航行モデル

速度前提

  • 丸木船の巡航:4〜6 km/h

  • 航行時間:5〜7時間/日

  • 1日行程:20〜30 km(好条件で40 km)

志布志湾 → 唐仁海岸(東串良)

距離;22〜26 km

所要:1日

地形・泊地

  • 志布志湾奥(救仁院高浜庄)=出発点として最適

  • 湾西岸の砂浜列(大崎町〜東串良)=連続する安全な寄港帯

  • 唐仁古墳群背後の海岸は古代の海上拠点候補

コメント

志布志湾奥を起点とする政治勢力が、日帰り〜1日圏の海域支配を持ち得た範囲。

唐仁海岸 → 肝付川河口(高山)

距離:18〜22 km

所要:1日

地形・泊地

  • 唐仁海岸の砂浜

  • 高山・肝付川河口=河川交通と海上交通の結節点

コメント

河口は必ず泊地になる。淡水補給・物資交換・内陸との連絡が可能。

肝付川河口 → 内之浦湾

距離:25〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 岸良・高山の小湾

  • 内之浦湾=外洋(日向灘)に面した良港

コメント

ここが志布志湾勢力の東端1日圏。 内之浦は古代〜近世まで天然の良港として評価されてきた地形。

内之浦湾 → 大隅南端(大泊・佐多)

距離:28〜35 km

所要:1日(条件が良ければ)/悪条件なら2日

地形・泊地

  • 岸良〜根占〜大中原の小湾列

  • 佐多(大泊)=岬回り前の風待ち・潮待ちの要地

コメント

ここは風向きの影響が大きい区間。 向かい風・逆潮ならほぼ進めないため、泊地で待つのが前提。

大隅南端(佐多) → 串間(福島・都井岬北側)

距離

22〜28 km

所要:1日

地形・泊地

  • 都井岬は岬回りの難所

  • 福島・串間側の小湾は岬回り後の安全泊地

コメント

ここを越えると日向灘の北上ルートに入る。

串間 → 日向灘沿岸(油津・日南)

距離:20〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 福島・串間の砂浜

  • 油津港(古代の入り江地形)

  • 日南海岸の小湾列



<参考資料>

区間別の「潮流・風向」補正モデル

実効速度の求め方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

日向灘〜志布志湾口は、外洋側に日向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されると考える。

例えば志布志湾奥 → 唐仁海岸では

  • 潮流: 湾内は弱い(±0〜0.5km/h 程度)

  • 風: 夏季は海風(南〜南東)でやや追い風気味、冬季は北西季節風で向かい風気味

  • 補正モデル:

    • 良条件:+1km/h → 実効 5〜7km/h

    • 悪条件:−1km/h → 実効 3〜5km/h

2026年5月14日木曜日

相模国司リスト(『続日本後紀』版)→承和7年「相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時

 相模国司リスト(『続日本後紀』版)


1,《承和元年(八三四)正月癸亥【十二】》  「參議從四位上藤原朝臣常嗣爲兼相摸守右大辨如故。」

2,《承和元年(八三四)正月丁卯【十六】》參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上」

3,《承和元年(八三四)正月庚午【十九】》  「是日。任遣唐使。以參議從四位上右大辨兼行相摸守藤原朝臣常嗣爲持節大使。」

4,《承和二年(八三五)八月丁亥【十四】》○丁亥。從四位下滋野朝臣貞主爲兵部大輔。相摸守如故。

5,《承和四年(八三七)六月甲寅【廿三】》 「左衞門督從四位上百濟王勝義爲兼宮内卿。相摸守如故。」

6,《卷八承和六年(八三九)正月甲子【十一】》 「從五位上藤原朝臣貞成爲相摸權守。」

承和7年(840)2月壬申【25】条に見る「壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時の国司

7, 《卷十一承和九年(八四二)正月戊申【十三】》從三位百濟王勝義爲兼相摸守。宮内卿如故。」

8, 《卷十三承和十年(八四三)正月辛丑【十二】》從四位下藤原朝臣長良爲兼相摸權守」

9, 《卷十三承和十年(八四三)六月戊辰【十一】》參議從三位勳六等兼越中守朝野朝臣鹿取の卒年記事 「(弘仁)十年加正五位下。遷兵部大輔。兼相摸介。少將如故」

10,《卷十五承和十二年(八四五)正月戊午【十一】》從五位下紀朝臣眞高爲相摸介」

11, 《卷十五承和十二年(八四五)二月戊寅朔》 「河内國讃良郡人相摸權掾從六位下廣江連乙枚賜姓大枝朝臣」

12, 《卷十五承和十二年(八四五)二月丁酉【廿】》の散位從四位下善道朝臣眞貞卒年記事 「(大同)十一年以明經。改授從五位下。兼任越前大掾相摸權介等」

13,《卷十六承和十三年(八四六)九月壬子【十四】》

從四位下藤原朝臣富士麿爲相摸權守。」

14, 《卷十七十承和十四年(八四七)七月己丑【廿六】》

「參議正三位藤原朝臣綱繼の卒年記事弘仁元年授正五位下。五年四月叙從四位下。職歴内外。兵部大輔。右京大夫。左兵衞督。武藏相摸守。」

15, 《卷十八承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月甲辰【十四】》

參議從四位上橘朝臣峯繼爲兼相摸守

16,《卷十九嘉祥二年(八四九)正月戊辰【十三】》

 「從五位下藤原朝臣直道爲相摸介。」

17,《卷十九嘉祥二年(八四九)九月丙子【廿六】》

「參議從四位下藤原朝臣良相爲兼右大辨。左近衞中將相摸守如故。」


江戸時代、高木善助のメモーー伝道真筆「紫紙金字法華経」が北九州でゴミ扱い

紫紙金字法華経断簡が捨てられずに、保管されたことに関するエピソードが伝わっている。江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残している。

この紫紙金字法華経は太宰府天満宮へ奉納されたという。

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紫紙金字法華経断簡ししきんじほけきょうだんかん

「紫紙金字金光明最勝王経」が国分寺経と呼ばれるのに対して、「紫紙金字法華経」は、諸国の国分尼寺に安置されたため、国分尼寺経と呼ばれる。紫紙に金字で『法華経』巻第8・陀羅尼品(だらにほん)第26を書写した断簡で、天平写経を代表する遺品として貴重である。

詳細情報

種別
文化財指定
員数1幅
作者伝菅原道真筆
時代世紀平安時代・11世紀

2026年5月13日水曜日

相模国大住郡の大領壬生直広主の窮民に対する行為は、「慈善事業」か?

 1)本稿の問題の所在:大住郡大領外從七位上壬生直廣主の調庸代納は善行か?

《巻9承和7年(840)二月壬申【廿五】》○壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣主。代窮民輸私稻一萬六千束。戸口増益五千三百五十人此善状。外從五位下。」(『続日本後紀』巻9)

 この記事によると、本来は徴税請負人であったはずの、大住郡の大領壬生直広主は「窮民」に対する共済策として、彼が私物する稲1万6千束を国衙へ代納したばかりではなく、大住郡の戸口が5350人増加したという。この「善状」で、外従七位上であった彼は「借」外従五位下を3階級特進して授けられたという<『三大格』天長元年八月二十日官符。および、『三代格』天長二年七月八日官符、巻六位禄季禄時服馬料事 参照のこと>。

2)論及すべき点は何か?

この善行記事で記述されていない論点はなにか?

まず、第1に、なぜ調を献納できない「窮民」が出現したのか?

第2に、なぜ、大領壬生直広主だけが稲1万6千束を個人的に所有できたか?観点を変えれば、人々は「窮民」、しかし大領だけは富の蓄積さえ可能であったのは、なぜか?

第3に、なぜ、「窮民」は逃亡・離散しないで、その逆に「戸口増益五千三百五十人」であったのか(仮に1戸約20名だとすれば、約260戸)。つまり、大住郡の「窮民」に加えて、「戸口増益五千三百五十人」の食糧や住居などはどのように調達したのか?

第4に、「戸口増益五千三百五十人」は、どこから大住郡に流入してきたのか?逆な見方をすれば、大住郡のみ「窮民」が出現するほどに「凡田有水旱蟲霜、不熟之処」などの事由があり、郡外は、あるいは国外はいかなる稲の生育状態であったのか?

第5に、なぜ、戸口増益五千三百五十人」の流浪人(?)などを、大住郡の大領壬生直広主は本籍地に帰還させなかったのか?

第6に、なぜ、大住郡以外の地で戸口増益五千三百五十人」が発生したのか?

第7に、戸口増益五千三百五十人」の調庸はどうしたのか?それによって一定の公地に加えて、戸口増益五千三百五十人」分の土地の配分は可能であったほど、新たな開拓地が出現できるのか?

第8に、「稲1万6千束」の代納は大住郡の何人分に該当するのか?

第9に、「稲1万6千束」はあくまでも「代納」であり、慈善事業ではなかった。「贈与」ではない以上、翌年の調庸はどのようになったのか? つまり、相模国大住郡大領壬生直広主のメリットは何であっただろうか?仮に、として単純計算するだけで、相当な利益が生じたはずである。それは暴利をむさぼるというべきか、それとも慈善事業であったか。

→調庸代納によって、位が上がれば、

 墾田永年私財法における所有上限

5位:100町

6位:50町

郡司:30町

初位以下:10町

は無くなるので、そのメリットは大きかっただろう。

第10に、窮民にとって、本年の「稲1万6千束」は翌年の調庸に加算されるのであれば、その利子分を含めて、その翌年は返済できるほど、豊作であったのか?

第11に、なぜ平安京の朝廷側はも徴税請負人を高評価するのか。ここでの問題関心は相模国司と相模国大住郡大領壬生直広主との関係性である。借外五位に推薦されるのも、さらには外從五位下が大住郡大領壬生直広主に授与されるのも、相模国司の推挙であった。

 『続日本後紀』承和10年(843)3月壬子条 

  「相摸国大住郡大領借外從五位下壬生直広主授外從五位下。以去承和七年国司  

  褒挙。今依 格所 授也」

 本稿の筆者の貧弱な知識では、承和10年〈843)当時の相模国司の名を提示できないのは残念である。

<参考論文>

 籔井 真沙美  「八世紀における賑給の意義と役割 ―飢疫記事からみた賑給制度」平成19年度~平成21年度科学研究費補助金(基盤研究(C)課題番号19520574)研究成果報告書 時空間情報科学を利用した古代災害史の研究 」4 


佐藤早樹子「八・九世紀の財物貢献と報賞制度」『史観』182冊、23-42頁、2020年

]森田大貴「8,9世紀の貧窮者救済行為。褒賞者の検討を中心に」『史学』93巻、2024年


 3)

ここまで書くと、日本古代史のプロの方々からお𠮟りを受ける前に、『養老令』賦役令の、

「凡田有水旱蟲霜、不熟之処、国司検実、具録申官」

とある記事を末尾に載録しておきたい。

残念なのは、この相模国大住郡大領壬生直広主の具体的報告書は今日まで残されていないので、彼を顕彰できないことである。


なお、壬生直に関する拙論は別には発表したので、関心のある方はご笑覧ください。


 

防人ら部領使に率いられたパレードは?

 律令時代、防人たちは東国で招集され、部領使に引率されて、難波に向かう。

彼らはバラバラに行進したわけではなく、

*2駅ごとに、つまり約32キロメートル(16キロメート×2)

に移動しては、古代史家にとっては常識であろうが、念のために国文学者の方々への補足説明のために付記する。その記録は?

 

相模国司牒の写真資料の紹介<参考資料、早稲田大学図書館所蔵>

 <参考資料>

相模国司牒



請求記号 Call No.
リ05 03740 0002 0005

タイトル Title

出版事項 Imprint
写, 天平勝寳7[755]
sha

形態 Description
1通 ; 30×49cm

内容等 Notes
重要文化財
東大寺薬師院文書
→造東大寺司 天平勝寳7年5月7日
表装:巻子装(31cm 紙継目裏印:東大寺印)
印記:相摸国印
田中光顕旧蔵

キーワード Keywords
古典籍 / 歴史-日本史(通史・時代史・地方史)

公開者 Copyright