2026年6月17日水曜日

那須国小松原遺跡出土「寒川」に関するメモ

小松原遺跡出土の土器に墨書文字「寒川」があった。本稿は、この「寒川」をめぐるメモである。

まず、栃木県小松原遺跡の紹介から始めたい。

小松原遺跡

141 ~ 143
県営圃場整備事業によって開田され湮滅するため、県教育委員会文化課は、昭和五十二年一月~二月、同年九月~十月の二次にわたって記録保存のための発掘調査を実施した。第一次調査では奈良・平安時代の住居跡が三五軒発掘された。このうち、カマドをもたない住居が四軒、カマドをもつ住居跡が三一軒確認された(第84図)。前者は古墳時代のものであり、後者は奈良・平安時代のものである。とくに後者の六号・二四号住居跡とよんでいる平安時代の住居跡からは、内黒(うちぐろ)坏形土器、すなわち土器の内面が黒色で磨きがかけられ、ここに「寒川(さむかわ)」「厩(うまや)」と墨書した土師器が検出された(第85図)。「寒川」とは『和名抄』に記載されている下野国の九郡の一つである寒川郡を意味すること はいうまでもない。」(『大田原市史』141頁)【小松原遺跡】
なお、この文章中の「厩」に関する判読は保留されており、他の漢字を比定する可能性もあるという。
 さて、地名「寒川」は何も那須だけではなく、古代における分布を、木簡庫で紹介したい。
(史料1)讃岐国寒川郡
・讃岐国寒川郡長尾郷
URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF11000137
木簡番号0
本文・讃岐国寒川郡長尾郷□部・少足庸米六斗
⇒②讃岐国寒川郡造太郷
RLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6BFKEM96000106
木簡番号0
本文讃岐国寒川郡造太郷□□□□庸米五斗

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK036019000003
木簡番号0
本文・讃岐国寒川郡・難破郷秦武成

(2)備前国邑久郡方上郷寒川里

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAAFQ31000112
木簡番号0
本文・備前国邑久郡方上郷寒川里・白猪部色不知□二尻

(3)下野国

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ABHAS47000009
木簡番号12123
本文・鵇樢文倭利足梁田\安宗寒川都賀阿内・□〔塩ヵ〕□
木簡説明上端・左右両辺削り、下端切断。『和名抄』によると、下野国に梁田・安蘇・都賀・寒川の各郡がみえ、下野国の郡名を記したものか。「利足」は足利の転倒、「阿内」は河内の意、「塩」は塩屋の一字とみれば、やはり下野国の郡名となる。「文倭」は、倭文の転倒で、『和名抄』の下野国都賀郡委文郷にあたるか。諸本は、「秀文」(大東急記念文庫蔵本・高山寺本)、「秀父」(名古屋市立博物館蔵本)につくるが、いずれも「委文」の誤りと思われる。現在の栃木市志鳥町付近が当郷の遺称地と推測される。「鵇樢」は不詳。

⇒『倭名類聚抄』巻7・国郡部第12・下野国第93・寒川郡・12丁表4行目          寒川郡   

であったことを確かめることができる。

次に『倭名類聚抄』では、

④相模国高座郡寒川

⇒巻6・国郡部第12・相模国第82・高座郡・22丁裏6行目                           寒川[佐無加波]

⇒上郷深川遺跡(製鉄工場)と猿田遺跡(製鉄工人集落)

7・国郡部第12・下野国第93・寒川郡・12丁表4行目          寒川郡   

 9・国郡部第129・国郡部第12・讚岐国第122・寒川郡・4丁裏9行目          寒川郡   

4丁裏9行目          寒川郡   



<参考情報>

茶臼塚古墳群 ; 小松原遺跡 : 県営圃場整備事業地内遺跡発掘調査報告

(栃木県埋蔵文化財調査報告, 第27集)

栃木県教育委員会, 1979.3

    タイトル別名

    県営圃場整備事業地内遺跡発掘調査報告 : 茶臼塚古墳群小松原遺跡

    茶臼塚古墳群・小松原遺跡

    なぜ、「寒川」なのか?ーー「なぜ渡来人との関係が濃い地域に、地名『寒川』が認められるのか」

    <要約> 

    本稿の目的は、古代日本各地に分布する「寒川(さむかわ・さんがわ)」地名について、従来の自然地名説とは異なる視点から考察することにある。

    和名類聚抄』には、讃岐国・播磨国・相模国・下野国などに寒川郷が載録されている。これらの地域は偶然にも、秦氏・高麗氏・韓氏その他の朝鮮半島系渡来集団との関係が指摘される地域と重なる。

    そこで本稿は、「寒川」の「寒」の漢字音に注目すれば、Bernhard Karlgrenの中古漢語再構では、「寒」は

    *ɣɑn
    ⇒声母:匣母(有声軟口蓋摩擦音) ɣ-、韻母:-ɑn 
    声母:匣母(有声軟口蓋摩擦音) ɣ-
    韻母:-ɑn
    『切韻』:胡安切
    ④ちなみにBaxter-Sagart 再構では、
    • 寒:*[g]ˤar
    • 韓:[g]ˤar

    である。そこで、「寒」と完全に一致する古代漢字を探すならば、「韓」に逢着する。

    結論から言えば、

    中古漢語では「寒」と「韓」はほぼ同韻・近接音であり、古代人にとって極めて近い音として認識された可能性が高い

    という前提で、そもそも「寒川」は本来「韓川」ではなかったかをと推論する。

    この仮説の根拠は次の三点にある。

    1. 音韻上の近接性
      • 「寒」と「韓」は中古漢語において近い音価を持ち、朝鮮漢字音ではともに「ハン(한)」と読まれる。
      • したがって、「韓川」が後世に「寒川」と表記された可能性を排除できない。
    2. 地名分布の偏り
      • 寒川地名は全国に均等に分布するのではなく、渡来系氏族との関連が想定される地域に集中しているように見える。
      • この偏りは単なる自然地名説では十分に説明できない可能性がある。
    3. 渡来人移住の痕跡としての地名
      • 古代日本では氏族名や集団名が地名化する例が少なくない。
      • 寒川地名群は、韓氏を含む渡来系集団の移動・定着の歴史を反映する地名群である可能性がある。


     したがって、「寒川」はその流域に韓氏または朝鮮半島系渡来人集団の居住地・開発地を流れる川に由来する地名であったと考えたい。そしてその可能性を仮説して提出したい。

     本仮説の目的は、「寒川=韓川」を断定することではない。むしろ、寒川地名群の分布と渡来系氏族の分布との対応関係に注目し、地名を手がかりとして古代渡来人の移動経路や定着過程を復元しようとする点にある。

     したがって本仮説は、単なる語源論ではなく、地名学・氏族研究・歴史地理学・渡来人研究をクロスオーバーする作業仮説として位置づけたい。

     本稿の論者としても、

    *音韻学的には「寒」を「韓」の代替表記として用いることに障害はない

    としても、

    *確かに同音だからといって、寒川が「韓川」だった証明にはならない。

    という反論は十分に想定される。だからと言って、注目すべきは、

    :播磨・讃岐・相模・下野などの寒川地名が、いずれも渡来系集団の活動が確認される地域に存在する

    という事実に止目したい。

     我が仮説に対する第2の反論として想定されるのは、例えば、

    *、播磨国の寒川郷周辺には渡来系氏族の存在を示す史料が複数あるものの、「寒川郷に韓氏が存在した」と明記する史料は確認されていない

    ことである。しかしながら、播磨国寒川郷があった地域(現在の宍粟市・佐用町方面に比定)から揖保郡・宍禾郡・神崎郡一帯には、

    • 漢人(あやひと)系
    • 秦氏系
    • 鍛冶集団
    • 製鉄集団

    の活動は否定できないと言えよう。我が仮説の眼目は、

    寒川郷⇒渡来系集団の受容・定着地⇒韓系集団の痕跡としての「寒川」

    にある。つまり「寒川地名群の分布と韓系移住ネットワーク」を提起して、本論を閉じたい。

    2026年6月14日日曜日

    9世紀の地震活動メモ:出雲地震と出羽地震

     *818年 関東北部地震

    ⇒堀口万吉「埼玉県北部でみられる古代の噴砂について」『歴史地震』第2号、9~14頁、1986年他

    *830年2月3日(天長7年正月3日)出羽国地震(天長地震) 

    ⇒『類聚国史』巻173「災異部・地震」収録

    史料原文(漢文)

    「今日辰刻、大地震動、響如雷霆。登時城郭官舎并四天王寺丈六佛像、四王堂等、皆悉顛倒。城内屋仆、撃死百姓十五人、支體折損類一百餘人也。歴代以来、未曾有聞。地之割辟、或處卅許丈、或處廿許丈、無處不辟。又城邊大河云秋田河、其水涸盡、流細如溝。疑是河底辟分、水漏通海歟。吏民騒動、未熟尋見。添河・覇別河、兩岸各崩塞、其水汎濫。近側百姓懼當暴流、競陟山岡」 

     

    p05_akita.jpg (1187×789)の転載

    *841年:信濃地震

    ⇒『続日本後紀』

    *841年:伊豆半島地震

    ⇒『続日本後紀』

    ⇒丹那断層発掘調査研究グループ「1980年丹那断層(名賀地区)のトレンチ調査」『活断層研究』3号、44~51頁、1986年

    *850年:出羽国南部地震

    ⇒出典

    ①『文徳実録』第2巻、嘉祥三年(八五〇)

    「十月庚申(十六日) (A)庚申。出羽國言上。地大震裂。山谷易處。 壓死者衆。」

    および

    ②『日本三代実録』第50巻、仁和三年(887)十一月 二十三日(丙申)条

    「 丙申,:  詔曰 紫極高映,運亭毒而不言.黃屋尊居, 播惠愛而無恃.故勛華繼躅,未隔於 勤勞禹履垂風,猶同於含育. 朕忝奉先訓,虔撫令圖,飡荼蓼以銷 神,睠蒸庶以剡思.而今至誠不暢, 小信未孚,陰德愆和,柔祇告譴. 

     出羽州壤,偏應銅龍之機.邊府黎甿, 空被梟禽之害.邑居震蕩,蹈厚載而 不安.城柵傾頹,想艱虞而益恐.(艱虞, 或本難虞)。咸須子視,或至於死傷.獨 作母臨, 

     何懈於拯救.宜馳星使,就展恩光.其 被災尤甚,不能自存,使國商量,蠲 免租調.并不問民狄,開倉糶廩,貸 振其生業. 

     莫使重困,崩墻毀屋之下.所有殘 屍露骸,官為收埋 

     .務申優恤,庶俾委凍者知挾纊之溫,阻飢者得廩牢之飽.

    從四位上-清原真人-瀧雄,為治部 大輔. 授正六位上-安墀宿禰-良棟,外從 五位下.」

    ③『三代実録』第50巻、仁和三年五月廿日 条

    「 式部省奏諸國銓擬郡司擬文,天皇不 御前殿,右大臣奉勅,於宜陽西廂, 令從五位上守左少辨兼行式部少輔藤 原朝臣佐世讀其擬文。大臣点定更奏。 

     先是,出羽守從五位下坂上大宿禰茂 樹上言。國府在出羽郡井口地。即是, 去延暦年中陸奥守從五位上小野朝臣 岑守,拠大將軍從三位坂上大宿禰田 村麻呂論奏,所建也。

     去嘉祥三年,地大震動,形勢変改, 既成窪泥。  加之,海水漲移,迫府六里所, 大川崩壞,去隍一町,兩端受害,無 力堤塞。堙没之期,在於旦暮。 

     望請。遷建最上郡大山郷保寶士野, 拠其険固,避彼危殆者。 

     太政大臣,右大臣,中納言兼左衞門 督源朝臣能有,參議左大辨兼行勘解 由長官文章博士橘朝臣廣相,於左仗 頭,召民部大輔惟良宿禰高尚,大膳 大夫小野朝臣春風,左京亮藤原朝臣 高松等,問彼國遷國府之利害,所言 參差,同異難定。更召伊豫守藤原朝 臣保則,以高尚等詞問之。保則言, 國司所請,非无理致。保則・高尚 等,元任彼國吏,応知土地之形勢故 召問之。太政官因國宰解状,討覈事 情曰。避水遷府之議,雖得其宜,去 中出外之謀,未見其便。何者,最上 郡地,在國南辺,有山而隔,自河而 通。夏水浮舟,纔有運漕之利,寒風 結凍,曾无向路之期。況復秋田雄勝 城,相去已遥,烽候不接。又擧納秋、饗,國司上下,必有分頭入部,率衆 赴城。若沿水而往,泝水而還者,徴 發之煩,更倍於尋常,逓送之費,將 加於黎庶。晏然无事之時,縦能兼濟, 警急不虞之日,何得周施。以此論之, 南遷之事難可聽許。須択舊府近側高 敞之地,閑月遷造,不妨農務。用其 舊材,勿労新採。官帳之數,不得増 減。勅。宜依官議,早令行之」

    ⇒論文『日本三代実録』仁和三年五月廿日条の地震記述について ― 出羽国府周辺で起きた自然災害の検討 ―」

    著者:松岡祐也
    掲載誌:『歴史地震』第26号(2011年)
    種別:歴史地震研究会講演要旨
    ⇒都司嘉宣・今井健太郎・畔柳陽介・木南孝博「嘉祥三年(850)六月出羽地震とその津波について」 『津波工学研究報告』第41号(2024)/Research Report of Tsunami Engineering Vol.41 (2024)33 ~ 45 頁

    *868年8月3日(貞観2年9月29日):播磨地震

    *878年11月1日(元慶2年9月29日)」相模・武蔵地震

    *880年11月23日(元慶4年10月14日)出雲地震

    ⇒『日本三代実録』巻四十七、元慶四年十月十四日条

    「十四日丁未。出雲國地大震。百姓廬舍及官舍佛寺,多有顛倒。壓死者衆。地拆裂。或廣數丈。沙石湧出。橋梁道路往往壞敗。」

    ⇒この地震の特徴  ①「地拆裂(地割れ)」②「沙石湧出(液状化現象を思わせる噴砂)」③「橋梁道路壊敗(インフラ破壊)」④「圧死者衆(人的被害)」

    ⇒地震学的推定 ①震源:島根半島~宍道湖・中海周辺、②規模:M7クラス前後、③被害:出雲国を中心に甚大



    *887年8月26日(仁和3年7月30日:京都地震





    上野三碑「多胡碑」に見る「羊」に関するメモ

     




    上野三碑の一つ 多胡碑(和銅4年=711) の碑文に、

    「給羊以成多胡郡」(羊に給いて多胡郡と成せ)

    とある。この「羊」が人名であるとは通説化している。 

    ちなみに高崎市の説明によると、

    多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。

    建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。」https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/4463.html

    ちなみに、高崎市による調査報告書は、https://www.city.takasaki.gunma.jp/uploaded/attachment/30366.pdfに見る。

    さて、下記の木簡に見る「羊」を人名だと考えると、「羊」の2例目にあたる。当然ながら完文ではないので、それは推測でしかない。


     ■詳細

    URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK019196000038
    木簡番号0
    本文・豊前門司卅斤枚一・□部□〔羊ヵ〕三月功\○上□
    寸法(mm)132
    34
    厚さ6
    型式番号032
    出典木研46-133頁-1-(4)(木研19-196頁-(38)・長登木簡展図録-140)
    文字説明
    形状
    樹種ヒノキ属
    木取り板目
    遺跡名長登銅山跡
    所在地山口県美祢郡美東町大字長登字大切、(現山口県美祢市美東町長登)
    調査主体美東町教育委員会 (当時、現美祢市教育委員会)
    発掘次数第Ⅲ期第1年次
    遺構番号南北大溝②
    地区名3C4TA
    内容分類付札
    国郡郷里豊前国豊前門司
    人名□部(羊)
    和暦3月
    西暦3(月)
    遺構の年代観
    木簡説明銅付札木簡。「豊前門司」は銅の送り先(木研46)。
    DOI
    関連URL
    画像利用条件

    ■研究文献情報

    「三毛郡」「熊毛郡」の地名語源説を論じて「上野国」「下野国」に関する仮説へ至る

    九州各地には、

    『延喜式』に、

    22/民部上/8/西海道筑後国上〈管〉〈御原 生葉 竹野 山本 御井 三瀦 上妻 下妻 山門 三毛

    とある。

    『倭名類聚抄』に、

    9・国郡部第12・豊前国第127・上毛郡・14丁裏7行目        上毛郡   

    9・国郡部第12・豊前国第127・下毛郡・14丁裏9行目        下毛郡    

    8・国郡部第12・周防国第117・熊毛郡・20丁裏8行目                         熊毛[久万介

    9・国郡部第12・大隅国第132・熊毛郡・21丁裏7行目        熊毛郡    

    などに見る「毛」郡が存在する。これに関して、我が仮説は「毛(ケの乙類=け=食べ物)」の等式を想定したい。

     なお、この延長線上に、「上野国(上+ツ+け)」「下野国(下+ツ+け)」に共通する「け」がある。

     「け〔食〕(名)食物。「大御気に仕へまつる とをちこちにいざり釣りけり」(万4360)「五十鈴(イスズ)の宮に御気(ケ)立つと打つなる瓢(ヒサ)は宮もとどろに」(皇太神宮儀式帳)「吾妹子が裳引の姿朝に食(ケ)に見む」 (万767)「う飼(ケ)飯(ヒ)て寝(ネ)れど」(万767) 「食ヶ」(名義抄)【考】霊異記に「綾君之家、為所乞食、日々不闕、餔〈計古止〉時而逢」(中一六話)のようにケコ トの例があるほかは、接頭語ミを冠し たものばかりであるが、第三例のよう に「食」の字を乙類のケの仮名に借りることがあり、「餔」は第四例のように「飯」を伴ってケヒを写すのに用いられている」(『上代語辞典』三省堂、279頁)


    したがって、「三毛」とは「御+食べ物」であり、下記の辞典の説明の通り「熊毛」とは「熊+毛⇒クマ+ケ⇒神に供える食べ物」の意味である。

    くま〔奠}】(名)神に供える物。「適殯宮 而慟哭焉、於是奉奠奏楯節舞 」(持統紀二年)「彼稲伊佐波登美神乎為弖、 抜尓令抜、皇太神乃御前尓懸久真尓懸奉始支」(倭姫世記)「糈久万之禰、精 米所以享神也」(和名抄)【考】「奠」の字は神に祭りのための品物を出す意。第2例のカケクマは右の例から考えて、稲の穂のついたままのものをいうらしい。兵庫県北部から鳥取東部地方にかけて行われるイナグマは、稲などを積み重ねたものをさすが、その名残化とみられる。また、神に供える稲を作る田をクマシロという。地名として 「石見国邑知郡神稲(久末之呂)・淡路国三原郡神稲(久万之呂)」(和名抄廿巻本)がある。「三吉野に有りし熊志禰」(続後紀嘉祥二年)のタマシネは人名であるが、「味稲(ウマシネ)」(万385)「美稲(ウマシネ)」(懐風藻) とも伝えられていて、シネは稲であり、奠稲(クマシネ)という語の存在が推定される。」(『上代語辞典』269頁)

    を参考にすればよい。つまり、「クマ」は「神への供える米」の意味である。

    なお、この仮説は筆者の創見ではなく、すでに『角川日本地名大辞典』などでも記述されていることを付記したい。


    2026年6月13日土曜日

    全国の「 大野[於保乃]郷」

     (山城国愛宕郡大野郷

    (参河国額田郡大野郷

    (駿河国志太郡大野郷

    (甲斐国山梨郡大野郷

    6・国郡部第12・甲斐国第81・山梨郡・21丁表1行目                           大野[於保乃已上五郷為山梨西郡]

    (上総国海上郡大野郷

    ⇒海上郡家の位置は東庄町今郡周辺か

    (常陸国信太郡大野郷

    (飛騨国大野郡大野郷

    (上野国山田郡大野郷

    7・国郡部第12・上野国第92・山田郡・11丁表7行目                           大野[於保乃

    (下野国那須郡大野郷)

    (陸奥国菊多郡大野郷

    (越中国礪波郡大野郷

    7・国郡部第12・越中国第100・礪波郡・22丁裏8行目                         大野[於保乃

    )(丹後国丹波郡大野郷

    (因幡国巨濃郡大野郷)

    (出雲国秋鹿郡大野郷)

    (播磨国飾磨郡大野郷

    8・国郡部第12・播磨国第111・餝磨郡・11丁表4行目                         大野[於保乃

    (美作国英多郡大野郷

    (紀伊国名草郡大野郷

    )(阿波国那賀郡大野郷

    9・国郡部第12・阿波国第121・那賀郡・4丁裏2行目                           大野[於保乃

    (讃岐国香河郡大野郷

    9・国郡部第12・讚岐国第122・香川郡・5丁裏3行目                           大野[於保乃

    )(讃岐国三野郡大野郷

    9・国郡部第12・讚岐国第122・三野郡・6丁裏5行目                           大野[於保乃]

    (土左国吾川郡大野郷

    (筑前国怡土郡大野郷

    9・国郡部第12・筑前国第125・怡土郡・10丁表7行目                         大野[於保乃

    )(筑前国御笠郡大野郷

    (豊前国築城郡大野郷

    (豊後国大野郡大野郷

    (豊後国速見郡大野郷

    (加賀国加賀郡大野郷

    7・国郡部第12・加賀国第98・石川郡・21丁裏7行目                           大野[於保乃

    (美作国苫西郡大野郷

    美作国苫田郡大野郷

    (佐渡国賀茂郡大野郷

    (備後国深津郡大野郷

    )(周防国玖珂郡大野郷

    豊前国天平二年郡稲未納帳

     

    詳細

    URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFJQP65000166
    木簡番号0
    本文豊前国天平二年郡稲未納帳(木口)
    寸法(mm)長(127)
    径19
    厚さ
    型式番号061
    出典木研34-7頁-(3)(城41-11上(81))
    文字説明木口に墨書。
    形状上切断後削り調整、下欠(折れ)。
    樹種
    木取り
    遺跡名平城京左京三条一坊一・二坪
    Heijō Capital (Left Capital, Third Row, First Ward, First and Second Block)
    所在地奈良県奈良市二条大路南三丁目
    調査主体奈良文化財研究所都城発掘調査部
    Department of Imperial Palace Sites Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
    発掘次数478
    遺構番号SE9650下段C
    地区名6AFJQP65
    内容分類棒軸
    国郡郷里豊前国
    人名
    和暦天平2年
    西暦730(年)
    遺構の年代観765-790
    木簡説明
    DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFJQP65000166
    関連URL
    画像利用条件調査主体が奈良文化財研究所(奈良国立文化財研究所含む)であれば、どなたでも複製、公衆送信、翻訳・変形等の翻案等、自由に利用できます。商用利用も可能です。申請不要です。詳細は利用条件をご確認ください。高解像度画像がColbaseに掲載されている場合がありますので、Colbase(https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja)でもご確認ください。