『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。
凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に
「宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」
とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kg)に該当する。
この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に
「天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位下凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」
とあり、同じ『続日本紀』に
「《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」
とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。
さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。
ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、
0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4顆
したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。
ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に
「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』
天平六年(734)周防国正税帳
文書第247号
コマ420–423(NDLデジタルコレクション)
とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。
ところで、奈良時代の塩生産方式は
製塩の技術体系(奈良時代)
藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)
塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)
竈での煎熬
でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。
要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、
周防国最大の製塩地帯を管理し、
海産物の集積地を形成し、
国衙(周防国府)の所在地に位置し
国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。
なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。
同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、
都濃郡:糒430斛
吉敷郡:糒1733斛
熊毛郡:糒359斛9斗4升