2026年6月12日金曜日

木簡「・□□〔決明ヵ〕子+桃+桂心+白芷+車前子+防風+柏実+右九物

 本木簡で重要な視点は、

*律令国家における薬方物流システム

である。7世紀末の日本列島が東アジア交易圏と国内流通網を統合していた史料だからである。


『延喜式』『延喜式』巻37「典薬寮・諸国進年料雑薬」記載の貢納国一覧


生薬名現在の植物主な貢納国
決明子エビスグサ種子美濃・近江・播磨・讃岐など
桃仁(桃)モモの種子大和・河内・山城・近江など
桂心ニッケイ樹皮主として輸入品・大宰府経由
白芷ヨロイグサ類根山城・近江・丹波など
車前子オオバコ種子大和・山城・近江・美濃・下総など17国
防風ボウフウ根丹後・若狭・出雲・石見など日本海側諸国
柏実コノテガシワ種子三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐の5国

特に重要なのは


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000108
木簡番号1722
本文・□□〔決明ヵ〕子四両桃四両桂心三両白芷三両\○□○車前子三両防風三両・/○□両/柏実一両∥○右九物
寸法(mm)173
25
厚さ4
型式番号011
出典藤原宮4-1722(木研11-33頁-2(3)・飛9-11上(68))
文字説明裏面「柏」は異体字「栢」。
形状上切断後粗い削り、下削り、左削りヵ、右削りヵ。裏面下端部は墨を塗っている。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
Fujiwara Palace Site (West Side of the South Gate Sector)
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
Department of Asuka and Fujiwara Palace Sites Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類文書
国郡郷里 
人名
和暦
西暦
遺構の年代観694-710
木簡説明上端切断後粗い削り、下端削り、左右両辺削りか。裏面下端部は墨を塗っている。薬物の支給に関わる文書ないし薬物の処方に関する文書であろう。元来、表面二行目と裏面一行目の判読できない箇所に一つずつ薬名が記されていたとすれば、九種類の薬名が記されていたことになり、「右九物」の記載と品数は一致する。「決明子(ケツメイシ)」は、マメ科の一年草ケツメイ(和名コエビスグサ)の成熟した種子に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草上・『医心方』に「衣比須久佐」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「エヒスクスリ」(58武蔵年料雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、駿河など十箇国の年料雑薬としてみえる(54駿河年料雑薬条など)。「桃(トウ)」は、後掲「桃人(トウニン)」(一七五二)を参照。「桂心(ケイシン)」は、クスノキ科の常緑高木肉桂(ニッケイ。和名ケイ)の幹皮と枝皮に比定される。『本草集注』草木上品に「桂」、『本草和名』木上、『和名抄』に「桂女加豆良」とみえる。藤原宮跡北辺地区から「桂心一両二分」(奈良県『藤原宮』八一号)、飛鳥池遺跡北地区溝SD一一一〇(第八四次調査)から「桂心二両」(『飛鳥藤原京木簡』一―七一一)と記した木簡が出土している。桂心は、『延喜式』典薬寮の諸国進年料雑薬にみえず、国内で自給できなかったらしい。天平勝宝八歳(七五六)六月二十一日献物帳(種々薬帳〈正倉院文書北倉158二巻の内。『大日本古文書』四―一七三頁〉)にみえる大仏に献納された正倉院薬物の桂心は、華南を産地とするものであり、また、奈良時代には新羅との交易で入手した例が知られる(天平勝宝四年六月十五日中臣伊勢連老人買物解〈尊経閣文庫所蔵文書。『大日本古文書』二十五―四五頁〉など)。「白芷(ビャクシ)」は、セリ科の多年草興安白芷(コウアンビャクシ。和名ヨロイグサ)などの根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中に「加佐毛知、佐波宇止、与呂比久佐」、『医心方』に「加佐毛知、与呂比久佐、佐波宇止、佐波曽良之」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「ムマクサ」(21近衛府雑薬条)、「ミラネクサ」(50伊勢年料雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、大和など十八箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。藤原宮跡北辺地区から「白芷二両」(奈良県『藤原宮』七四号)と記した木簡が出土している。「車前子(シャゼンシ)」は、オオバコ科の多年草車前(シャゼン。和名オオバコ)などの種子に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上に「於保波古」、『医心方』に「於保波己」とみえ、『延喜式』典薬寮に、大和など十七箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。藤原宮跡北辺地区から「車前子一升」(奈良県『藤原宮』七五号)と記した木簡が出土している。「防風(ボウフウ)」は、一七二一。「栢実(ハクジツ)」は、ヒノキ科の常緑高木側柏(ソクハク。和名コノテガシワ)の種子に比定され、「栢子仁(ハクシジン)」に同じ。『本草集注』草木上品、『本草和名』木上に「比乃美、加倍乃美」、『医心方』に「比乃美」とみえ、『延喜式』典薬寮に、参河など五箇国の年料雑薬としてみえる(52参河年料雑薬条など)。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AJLDB64000108
関連URL
画像利用条件調査主体が奈良文化財研究所(奈良国立文化財研究所含む)であれば、どなたでも複製、公衆送信、翻訳・変形等の翻案等、自由に利用できます。商用利用も可能です。申請不要です。詳細は利用条件をご確認ください。高解像度画像がColbaseに掲載されている場合がありますので、Colbase(https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja)でもご確認ください。

■研究文献情報

丹波国から貢納された「当帰」の薬能

 木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

丹波国何鹿郡伊看我評〉出土の木簡:「・伊看我評・当帰五斤」とある。

この木簡に関する概略は、下記のノートで判明するが、しかしながら、これでは隔靴搔痒の感多く、全くの情報不足である。

(1)刈米達夫著『最新生薬学 第 6 改稿版』(1990)によると,薬能として,

*鎮痛,鎮静,強壮, 通経薬・温薬で,血を補い,古い血を去る働き(補血)

が あるという。

(2)田中 重雄, 星野 千恵子, 池城 安正, 田端 守, 木島 正夫共著「各種当帰の抗侵害作用について」『薬学雑誌』 97 巻 1 号 p. 14-17、1997年

今、この田中らの論文に従って、この「当帰」に関して補足説明をするならば、
①薬能は鎮痛作用。
②「The crude drug Toki used in Japan is classified largely into "Yamato Toki" and "Hokkai Toki", which are prepared from the roots of Angelica acutiloba var. acutiloba KITAGAWA and A. acutiloba KITAGAWA var. vugiyamae HIKINO, respectively. Anti-nociceptive effect of these crude drugs of Toki was assayed by the acetic acid-induced writhing test on mice. 」だという、この木簡の場合、当然に「大和当帰「である。


(3)さらに、林元英「紫根および当帰の薬理学的研究(第3報) 一 エキスおよび紫雲膏局所適用の炎症反応におよぼす影響」『日薬理誌』73、205~214、1977年
によれば、この論文で判明した事実は、創傷治癒における「当帰」の薬能である。
「紫根エキスは局所適用において,炎 症性の血管透過性充進ならびに浮腫を明らかに抑制し, 局所の発熱に対しても有意な抑制効果を示し,急 性炎症反応に対して抗炎症作用を有することが認められた.他 方亜急性慢性炎症反応としての肉芽増殖を主体とした創傷治癒に対しては,明 らかな治癒促進作用を示し,い わ ゆる抗炎症薬とは異なった効果を呈した.そ していずれの作用においても0・2%前 後の濃度が最も顕著な効果を 呈した.当 帰エキスは血管透過性充進ならびに急性浮腫を概して抑制したが,起 炎物質によっては抑制効果のな い場合 もあり,ま た濃度的にも一貫した効力を示さず,さ らに炎症性発熱および創傷治癒に対しては作用を全く 示 さなかった.従 って当帰は急性炎症反応に対して抑制傾向を有する程度のもので,積 極的な効果は期待しにく い ものと思われた・この両者を併用した紫雲膏は紫根エキスと同様急性炎症反応を有意に抑制し,創 傷治癒を明 らかに促進した.そ の効力は紫根と同等か多少強力であった.当 帰エキスとの配合意義については充分な説明が 出来ないが,当 帰にも軽度な抗炎症作用があり紫根エキスに協力するかもしれない.」

という点である。

(4)一方で、木村容子・杵淵彰らの研究によって、主に女性患者の月経困難症や月経前の排卵期や月経前半の頭痛やめまい、むくみなどに当帰芍薬湯の効果が期待されるという。木村容子ほか4名「当帰芍薬湯が有効な頭痛の症例について」『日東医誌』62巻6号、627-6333頁、2011年

だと指摘する。

(5)総合的な見解は、
*柳沢清久「 日本薬局方に見られた向精神・神経薬の変遷(その22) 当帰の成分研究経緯に関する史的考察」『 薬史学雑誌 』54巻2号、104-111、2019年
に詳しい、一読をこう。
当帰の精油のエーテル可溶性成分の中で,ligustilideが 有効成分として,また水溶性成分の中で,ferulic acidが 有効成分として,それぞれ証明され,またそれらの薬理作 用も解明された.このことで,従来の当帰の鎮痛,鎮静, 鎮痙,通経,補血などの伝統的,経験的効果が科学的に立 証された.」


<木簡庫>
上端切断の後表裏から面取り、下端・左右両辺削り。「当帰(トウキ)」は、セリ科の多年草トウキ(和名カラトウキ)の根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中に「也末世利、宇末世利、加波佐久」、『医心方』に「宇末世利、也末世利、於保世利、加波佐久」とみえる。『延喜式』典薬寮に、丹波国が当帰を貢納する規定はみえないが(78丹波年料雑薬条)、隣国の但馬国に「当帰十斤」の規定があるなど十七箇国の年料雑薬としてみえる(80但馬年料雑薬条など)。奈良県飛鳥京跡苑池遺構から「当帰二両」(奈良県立橿原考古学研究所『史跡・名勝飛鳥京跡苑池(一)』五一号)と記した木簡が出土している。

2026年6月10日水曜日

出雲国「大原『采女』勝部鳥女還本郷。」采女+勝部*

 『続日本紀』《天平十二年(七四〇)六月庚午【丙辰朔十五】

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

この記事は前後と文とは無関係に挿入されているために、ともすると見逃しがちであるが、事実は、采女勝部鳥女が「本郷」である「出雲国大原郡」に帰「還」したいう内容である。その理由は明記されていないが、『続日本紀』に特記している以上、特別な理由があったとみるべき だろう。

 ところで見逃しがちな論点は、

*采女には任期規定が存在しない

ことである。一度、都へ貢進されるとほぼ終身の任期であったと考えてよい。それは仕丁と同一である。


さて、出土した木簡には、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します。

とあり、すくなくとも大原郡佐世郷に郡司として「□智麻呂」ら勝部一族が居住していた。『出雲国風土記』から、

大原郡:大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣

は判明しており、しかも同風土記には、

【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄) 

とあることから

大領勝部臣虫麻呂 

*少領額田部臣伊去美+従父兄であり前少領額田部臣押島

の3名の名前を知る。

『出雲国風土記』大原郡条

「 所三以号二大原一者、郡家東北〔正西〕一十里一百一十六歩、田一十 町許平原也。故号曰大原。往古之時、此処有郡家、今猶追旧 号大原〈今有郡家処号云斐伊村〉 。 (中略)斐伊郷、属郡家。 」

とあり、大原郡では、郡家の移動があった。

 我々の関心を引くのは少領額田部臣の存在である。欽明天皇の娘額田部皇女(推古天皇)の額田宮への貢納で獲得した額田部臣(職名+臣)は、元来勝部臣よりも上位の豪族であった。その証拠に、岡田山一号墳出土大刀銘に「各田卩臣□□□□□大利□」も登場する額田部臣であり、岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣であったはずだが、大刀銘文に記されたのは「額田部臣」であった。したがって、額田部臣が出雲を支配する一大勢力であったとも考えられるが、その傍証はないので、断定は避けなくてはならない。

 ところで、誰しもが思い出す大化改新の詔には、

凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。」(『日本書紀』二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。)

とある、律令制下の日本では、全国を五畿七道に分け、その国には都から国司が派遣されたが、郡では律令制以前から支配していた在地豪族が終身の郡司に任命されていた。これは、各国において、郡司の郡支配を保証するとともに、その一方で中央政権の一端に組みこまれていたともいえよう、

こ 采女は天皇による郡支配の保証書であると言え、人質であるともいえよう。

つまり采女は郡司(大領もしくは少領)の姉妹もしくは子女で、しかも形容端正(容姿端麗)の者を貢進せよとある。今ここでは大化の改新の詔の信ぴょう性に関しては論じないが、すくなくとも采女は誰でもよかったのではなく、中央と地方の支配隷属関係を裏付けるものであったと考えたい。

 しかも「以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁」とある限り、采女の出身国の農民100戸から「庸布」を物納させたとある。1戸につき五斗の庸米であるので、100戸で500斗、穀で100斛。和銅大升では穀100斛が稲1000束。とすれば、田2町歩に該当する面積の稲田を郡司は農民に耕作させ、そして都の采女に送付して生活費に充当させていた。

何よりも、『続日本紀』に

《天平十四年(七四二)五月庚午【廿七】》○庚午。制。凡擬郡司少領已上者。国司史生已上、共知簡定。必取当郡推服。比都知聞者。毎司依員貢挙。如有顔面濫挙者。当時国司、随事科決。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。」

とあり、その当時550郡存在したので、この記述通りに進めば、550人の采女が都に送られた。


付記)

【綱文和暦】
大同2年5月13日(08070050130)
【綱文】
出雲国の采女勝部真上が病で郷里に帰り、稲五百束を賜る。

2026年6月7日日曜日

松江市(旧東出雲町)古城山古墳出土「位至三公鏡」ーー23例目か

 位至三公鏡(双頭龍文鏡)は、後漢末〜六朝前半に中国北部で流行した鏡である。

例えば、この 位至三公鏡(双頭龍文鏡)を中国故宮博物館所蔵品で、以下に紹介したい。

出典:「位至三公」鏡 - 故宮



「位至三公」鏡

Weizhi sangong mirror

銅器

東漢晚期至魏

直徑9.8公分

圓形鏡,半球鈕,連珠紋座。鏡背飾兩個相對的變形動物紋,中夾有「位至三公」銘文,外圍一周斜線紋。鏡緣寬闊平素。鏡身薄。 此鏡鏡銘的排列方式打破了漢代銅鏡流行的重環式佈局,將主紋以直行方式排列。相似的銅鏡多出土於西漢晚期及魏晉時期的墓葬中。

文物統一編號故銅001960N000000000
品名「位至三公」鏡
Weizhi sangong mirror
分類銅器
時代東漢晚期至魏
西元3世紀    
尺寸直徑9.8公分
說明圓形鏡,半球鈕,連珠紋座。鏡背飾兩個相對的變形動物紋,中夾有「位至三公」銘文,外圍一周斜線紋。鏡緣寬闊平素。鏡身薄。 此鏡鏡銘的排列方式打破了漢代銅鏡流行的重環式佈局,將主紋以直行方式排列。相似的銅鏡多出土於西漢晚期及魏晉時期的墓葬中。


いつ、いかなるルートで、だれが中国から日本に搬入したかは不明であるが、現在は東京国立博物館所蔵の山口県山口市・赤妻古墳出土品で、その一つを紹介しておきたい。




  • 出土、東博蔵)共通、 位至三公鏡(「 <文字>位至三公</文字>」、完形8.8cm)、倭製五弧内行花文鏡(完形7.4cm)、捩文鏡(完形10.9cm)、 伴出、碧玉製管玉+メノウ製管玉+硬玉製勾玉+メノウ製勾玉+ガラス製切子玉+ガラス製小玉+櫛+鉄製針+鉄刀+鉄鏃+人骨+有孔貝製品、 その他、赤塚古墳出土と伝えるものに、倭製六弧内行花文鏡(銘文なし、完形7.4cm、1908年出土か、山口県立山口博物館蔵)がある。
    発掘概要 :
    その他概要 : 〈全国遺跡地図_位置〉d4/〈全国遺跡地図_旧番号〉915/〈全国遺跡地図_県番号〉13-19/<全国遺跡地図番号>11-74。<25000分の1地形図>NI-52-3-11-2。  91map13-19。若林勝邦「周防国山口附近赤妻村の古墳及び発見品」『考古学雑誌』2-7(1898)。和田千吉「周防国吉敷郡赤妻の古墳」『考古界』8-5(1909)。 弘津史文「周防国赤妻古墳並茶臼山古墳(其1)」『考古学雑誌』18-4(1928)。同『防長漢式鏡の研究』(1928)。『図解考古学辞典』1959(「赤妻古墳」)。樋口隆康『古鏡』(1979)、歴博報56(1994)。 

    データ管理機関 : 山口市 - 山口県遺跡名:赤妻古墳

  • 所在地(山口市赤妻町所在)

  • 副書名 :
    巻次 :
    シリーズ番号 : 67
    編著者名 : 古賀 真木子
    発行(管理)機関 : 山口市 - 山口県
    発行機関 : 山口市教育委員会
    発行年月日 : 19970331
    世界地域 : 日本
    作成日 : 2019
  • https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/469679?utm_source=copilot.com

「三公」とは中国後漢〜魏晋期の中央官制における最高位の三職を指す語であり、一般に太尉(軍事最高責任者)・司徒(民政・教育)・司空(土木・建設)を示す。したがって、「三公に至る」とは、皇帝に次ぐ役職に至ったことを物語り、栄職への称賛の文言であった。

銘文は以下のような祝願句を持つ:

  • 出世祈願(昇進・繁栄)

  • 贈答品としての祝福文句

  • 権威の象徴としての装飾性

 したがって、位至三公鏡は単なる日用品ではなく、身分・権威・吉祥を象徴する呪具的性格がある。しかも中国製鏡の輸入品またはその模倣品であるために、 その所有は政治的地位・宗教的威信を強化する象徴であった。それを墳墓に埋葬することは、被葬者の権威を裏付ける副葬品となった。

西村俊範によると、1983年現在での調査で、日本国内における位至三公鏡出土例は22であると報告している。

<西村俊範「双頭龍文鏡(位至三公鏡)の系譜」『史林』66巻1号、1983年。95-115頁>

本稿の目的は、西村氏の調査に1例を追加するに過ぎない。

『全国文化財総覧』奈良文化財研究所編

古城山古墳 - 全国文化財総覧

[RecNo:260145] 古城山古墳
所在 : 島根県松江市東出雲町出雲郷
市町村 : 松江市 ( 32201 )
種別 : 古墳
主な時代 : 古墳
遺構概要 : 歴博報56、古墳前期-古墳(方墳、木棺直葬)、方墳辺20.0m。 県発掘調査一覧2000、古墳。古墳-古墳(方墳、割竹形木棺(直葬))。
遺物概要 : 古墳前期-銅鏡(小型倭製内行花文鏡)「 <文字>位至三公</文字> 」銘+鼓形器台。 歴博報56、内行花文鏡(八弧)(銘帯「 <文字>位至三公</文字> 」、欠損16.3cm、1969年出土、島根県立八雲立つ風土記の丘資料館蔵)、 伴出、土師器(鼓形器台)。 県発掘調査一覧2000、古墳-内行花文鏡+土師器(器台脚部)。
発掘概要 : 県発掘調査一覧2000、1969年11月10日から1969年12月15日発掘調査。
その他概要 : 旧、八束郡東出雲町。 東出雲町誌編纂委員会「古城山古墳」『東出雲町誌』(1978)。埋文研究会20-1986。石井悠「東出雲町の遺跡調査」『東出雲町誌』(1978)。歴博報56(1994)。『県発掘調査一覧』(2000)。
データ管理機関 : 松江市文化スポーツ部埋蔵文化財調査課 - 島根県

この古城山古墳に関しては、残念ながらこれ以上の情報を提供できないが、少なくとも奈良文化財研究所編『全国文化財総覧』に依拠する限り、その出土例を確認できる。




2026年5月28日木曜日

下総国「水上交通国家」論の提出ーー香取海・利根川・東京湾を中心に

以下は、 沖松信隆「千葉県における縄文時代丸木舟の出土例について」

に全面的に依拠したことをあらかじめお断りしておきたい。

 まず、縄文時代の丸木舟は、『千葉県史』によれば、

「弥生時代以降を除 く縄文時代の出土例は、時期不明を合わせて100例以 上になる(鈴木・山岸 2004)」

という。その報告から約20年経過した今、その数の増加を知らないが、相当な数に達していると推定する。

さて、沖松氏によると、栗山川流域遺跡群(香取郡多古町多古字九蔵503-1ほか)から出土した丸木船は

*かや材製で、「全長6.51m、最大幅0.57mで、舷側の残りも良く、 最大内深は25㎝である。大方の部位で舟縁まで遺存し ている。舟体の厚みは舟縁で2~6㎝、舟底で3~7 ㎝を測る。」

という。

*******************

さて、ここからは本稿の論者の管見である。

この船を排水量・喫水・かや材の浮力・乗船する人間の体重(約60~70㎏)などを勘案して、造船学の計算では3名~4名が妥当で、最大限6名までは乗船可能であるという。

理論上の上限(ハル・スピード)は、水線長 L(m)から

Vhull4.5×L (km/h)

で計算して、水線長を約 6.0m とすると、

Vhull4.5×6.011km/h
となる、つまり、時速11kmが理論上の数値である。

 しかしながら、このスピードはあくまでも一時的な最大速度さであり、平均して4km程度であっただろうと予想される。舟の幅は0.57mと細く不安定、しかもパドル/櫂が不明であり、その効率を測定できない上に、漕ぎ手の体力・技術、川か湖か湾か、潮流・風・波の条件などで、大きく異なる。専門家によると、この船で海上を航行するに、その自然条件の制約を想定しなくてはならないものの、沿岸航行では、逆風・逆潮では:3 km/h 以下になると想定した上で、漕ぎ手・波・風の条件さえよければ、一日で

*通常は20~30km、最大で40kmの行程

は可能だそうである。

 これまでの検討材料を前提として、

古代下総国における丸木舟の交流圏」

の検討に移りたい。スタートは下総国府である。 

(1)1日圏(2030km)=河川・潟湖・内湾の日常圏

中心となる水域

①下総台地の縁辺部に広がる水郷地帯

②手賀沼

③印旛沼

④内海(「香取海」「霞ヶ浦」など))

⑤利根川・江戸川・常陸川・鬼怒川・小貝川などの下流域

 

● 特徴

①丸木舟での移動が最も効率的な地形

②河川・沼沢・湿地が連続し、徒歩より舟の方が速い

 

行動の性格

①日常的な漁撈・採集・農業

②村落間の交流

③物資の小規模流通

 

(2) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①古代の巨大内湾全域

②鹿島神宮(常陸国)

③下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

④利根川を遡って、古代の常陸国南部

⑤鬼怒川・小貝川流域の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・水位・流速の読みが重要

③香取神宮・鹿島神宮の祭祀圏

④国府行政圏 と密接に連動

 

行動の性格

①広域の祭祀交流(香取・鹿島)

②交易(塩・魚・木材・黒曜石・土器)

③国府への物資輸送

④古墳時代の首長間交流

 

(3) 3日圏(6080km)=香取海・利根川水系の広域ネットワーク圏

到達可能範囲

①香取海(古代の巨大内湾)全域

②下総国府(市川)〜香取海〜鹿島の三角ネットワーク

③利根川を遡って、古代の常陸国

④武蔵国の古墳群

 

特徴

①河川+内湾の複合ネットワーク

②風待ち・潮待ちよりも、水位・流速の読みが重要

 

(4)1週間圏(120150km)=東京湾・常陸国・上総国へ

到達可能範囲

①東京湾沿岸(市川〜船橋〜浦安〜品川)

②上総国(市原・木更津・袖ヶ浦)

③常陸国(鹿島灘沿岸)

④利根川を遡って、古代東国の内陸部(下野国・上野国) 

特徴

① 東京湾は内海として航行可能

②「政治的・儀礼的」航行が中心

③国府と周辺国の物流ルート

④大規模祭祀(香取・鹿島・安房の海上交流)

⑤交易(塩・鉄・布・木材)

⑥古墳時代の首長間の儀礼的往来

⑦律令時代における租調などのモノ輸送・ヒトの交流・情報の往来などに活用


古代大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸)に関する仮説

 本稿の目的は、古代における大隅地域の沿岸交流圏(志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸を中心として)に関する仮説を提出することにある。

(1)前提条件

1,船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

2,速度: 巡航 6 km/h
3、1日行程  2030 km程度
4、航法: ①岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ②昼間航行・夜間は泊地

(2)同一政治勢力圏
  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸→日向国府へ

  6.  停泊地

    ①志布志湾奥救仁院高浜庄・志布志港周辺:古代の水門

    ②志布志湾西岸大崎町海岸砂浜・:台地上に遺跡分布

    ③唐仁海岸唐仁古墳群背後:古墳群=海上勢力のHinterland
    港や集落などの背後にある供給・流通の地域)
   ④肝付川河口高山周辺:河川の結節点
     
   ⑤内之浦湾 浦内之浦港:黒潮系海流の北上ルート。奄美大島などとの外洋接点

   ⑥大隅南端大泊・佐多:岬回りの風待ち

   ⑦串間福島・串間湾都井岬:安全港
 
   ⑧日向灘油津 :豊前国・日向国からの南下ルートの寄港地

(3)区間別「潮流・風向」モデル

実効速度の考え方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

気象庁のデータによると、日向灘〜志布志湾口は、外洋側に向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されるという。

1. 志布志湾〜日向灘〜大隅沿岸「古代沿岸航行ルート図」

想定する基本条件

  • 船: 全長6.5m級の丸木船(人力・沿岸航行)

  • 速度: 巡航 46 km/h、1日行程 2030 km(好条件で40km)

  • 航法:

    • 岬を避け、湾奥〜河口〜砂浜〜小湾をつなぐ

    • 昼間航行・夜間は泊地

  1. 志布志湾奥(救仁院高浜庄=志布志港周辺)

  2. 志布志湾西岸〜大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸(唐仁古墳群背後)

  3. 肝付川河口〜内之浦湾(内之浦宇宙空間観測所周辺)

  4. 岸良・高山〜根占・大中原〜大泊(佐多)など大隅南端の小湾・砂浜列

  5. 都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)〜日向灘沿岸へ

行程モデル(潮流・風向を含む)

基本パラメータ

  • 船速(静水): 46 km/h

  • 行動時間: 1日 57 時間(休憩込み)

  • 静水での行程: 2030 km/日

潮流・風向を加味したモデル

  • 追い潮+追い風(+2〜3km/h)

    • 実効速度: 68 km/h

    • 1日行程: 3040 km

  • 逆潮+向かい風(−2〜3km/h)

    • 実効速度: 23 km/h

    • 1日行程: 1015 km(場合によっては「ほぼ進めず」)

  • 現実的な平均モデル(良悪条件混在)

    • 長期平均として 1日20〜25km を「設計値」とみなすのが妥当。

このモデルを、

  • 志布志湾奥〜唐仁海岸:約20〜25km → 1日行程

  • 唐仁海岸〜内之浦湾:約25〜35km → 1〜2日

  • 内之浦湾〜大隅南端(大泊など):約30〜40km → 1〜2日


3. 古代の丸木船の「航海可能範囲」推定

時間スケール別の範囲

  • 日帰り圏(往復)

    • 片道 1015 km 程度

    • 志布志湾奥を起点とすると:

      • 湾内の対岸・湾奥の別河口まで

  • 1泊2日圏(片道1日+復路1日)

    • 片道 2030 km

    • 志布志湾奥 → 唐仁海岸/大崎海岸/肝付川河口 など

  • 数日〜1週間圏

    • 片道 60120 km

    • 志布志湾奥 → 内之浦湾 → 大隅南端 → 都井岬周辺 → 日向灘沿岸

    • 途中で必ず複数回の「風待ち・潮待ち」を挟む前提

「政治圏」としての解釈

  • 志布志湾を拠点とし、ヤマト王権と政治的関係を有する勢力が、

    • 日向南部〜大隅東岸〜大隅南端までを

    • 「数日〜1週間スケールの往来圏」として持ち得た、というモデルを設定できる。

これは、

  • 志布志湾沿岸の古墳分布

  • 唐仁古墳群・内之浦周辺遺跡 などと重ねると、「海上ネットワークとしての政治圏」

西:志布志湾モデル】 飯盛山(初期)──→ 横瀬(中期ピーク)──→ 唐仁大塚(後期巨大化) │ │ │ │(海上交通) │(王権承認) │(地域巨大化) ↓ ↓ ↓ 大隅海峡・日向灘 西日本海上ネットワーク 南九州支配の中核

4. 古代の港・泊地の候補地リスト(一次案)

表:志布志湾〜大隅東岸の古代港・泊地候補

区分地域・地名機能イメージ根拠の方向性
A志布志湾奥(救仁院高浜庄〜志布志港周辺)中核港・荘園水門・政治拠点水門・古代〜中世の港記録・飯盛山古墳との対応
B志布志湾西岸(大崎町海岸〜東串良・唐仁海岸)中継港・湾内泊地・古墳背後の海上拠点唐仁古墳群・沿岸遺跡分布・砂浜と背後台地の組み合わせ
C肝付川河口周辺河川交通と海上交通の結節点大隅東岸の大河川河口・背後の古代遺跡群のHinterland・沖合の志布志湾航路との接続
D内之浦湾安全な良港・外洋(日向灘)との接点入り組んだ湾形・現在も港湾・古代〜近世の良港としての地形条件、奄美大島などの外洋ルート
E岸良〜根占〜大中原〜大泊(佐多)周辺の小湾列南端回航前後の「風待ち・潮待ち」泊地小湾・砂浜・背後台地・貝塚・遺跡分布(縄文〜古代)
F都井岬を望む串間側の小湾(福島・串間周辺)日向側の玄関口・対外接点日向南部の古代港湾候補・岬回り前後の泊地としての地形条件、豊前国・ヤマト朝廷へのルート

古代沿岸航行モデル

速度前提

  • 丸木船の巡航:4〜6 km/h

  • 航行時間:5〜7時間/日

  • 1日行程:20〜30 km(好条件で40 km)

志布志湾 → 唐仁海岸(東串良)

距離;22〜26 km

所要:1日

地形・泊地

  • 志布志湾奥(救仁院高浜庄)=出発点として最適

  • 湾西岸の砂浜列(大崎町〜東串良)=連続する安全な寄港帯

  • 唐仁古墳群背後の海岸は古代の海上拠点候補

コメント

志布志湾奥を起点とする政治勢力が、日帰り〜1日圏の海域支配を持ち得た範囲。

唐仁海岸 → 肝付川河口(高山)

距離:18〜22 km

所要:1日

地形・泊地

  • 唐仁海岸の砂浜

  • 高山・肝付川河口=河川交通と海上交通の結節点

コメント

河口は必ず泊地になる。淡水補給・物資交換・内陸との連絡が可能。

肝付川河口 → 内之浦湾

距離:25〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 岸良・高山の小湾

  • 内之浦湾=外洋(日向灘)に面した良港

コメント

ここが志布志湾勢力の東端1日圏。 内之浦は古代〜近世まで天然の良港として評価されてきた地形。

内之浦湾 → 大隅南端(大泊・佐多)

距離:28〜35 km

所要:1日(条件が良ければ)/悪条件なら2日

地形・泊地

  • 岸良〜根占〜大中原の小湾列

  • 佐多(大泊)=岬回り前の風待ち・潮待ちの要地

コメント

ここは風向きの影響が大きい区間。 向かい風・逆潮ならほぼ進めないため、泊地で待つのが前提。

大隅南端(佐多) → 串間(福島・都井岬北側)

距離

22〜28 km

所要:1日

地形・泊地

  • 都井岬は岬回りの難所

  • 福島・串間側の小湾は岬回り後の安全泊地

コメント

ここを越えると日向灘の北上ルートに入る。

串間 → 日向灘沿岸(油津・日南)

距離:20〜30 km

所要:1日

地形・泊地

  • 福島・串間の砂浜

  • 油津港(古代の入り江地形)

  • 日南海岸の小湾列



<参考資料>

区間別の「潮流・風向」補正モデル

実効速度の求め方

実効速度 ≒ 櫂での船速(4〜6km/h)+ 潮流(±0〜2km/h)+ 風(±0〜2km/h)

日向灘〜志布志湾口は、外洋側に日向灘沿岸流(概ね北向き成分)があり、季節風・海陸風で上乗せ・減殺されると考える。

例えば志布志湾奥 → 唐仁海岸では

  • 潮流: 湾内は弱い(±0〜0.5km/h 程度)

  • 風: 夏季は海風(南〜南東)でやや追い風気味、冬季は北西季節風で向かい風気味

  • 補正モデル:

    • 良条件:+1km/h → 実効 5〜7km/h

    • 悪条件:−1km/h → 実効 3〜5km/h