2026年9月4日金曜日

論評③Pattern「平川南「古代における里と村――史料整理と分析」ーー「現場のロジック」の観点からのコメント

 

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」論評

――制度論から行政実務・情報編成史への展望――

1.はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、2003年)は、古代日本における地方行政機構の末端をめぐる「里」と「村」の関係性について、史料上の用例と時期的変遷を精緻に検証し、長年の研究史に画期をなした論考である。

従来の律令国家論・地方行政史研究においては、「国―郡―里」という法令上の行政階層構造をそのまま基盤とし、「里=制度的単位」「村=その下位に位置する自然集落」とする階層的理解が支配的であった。これに対し平川氏は、豊富な古代史料における「村」表記の網羅的抽出と実態分析を通じ、両者の成立史的乖離と併存構造を明らかにし、固定化された行政階層モデルの相対化を果たした。

しかしながら、平川論文による「里」と「村」の概念整理は、決して当該領域における問いの完結を意味するものではない。むしろ同論文の真の学術的価値は、「村とは制度上いかに位置づけられるか」という従来の構造史・制度史的所見から、「村において国家行政はいかなる実務を展開していたか」という行政実務史・情報処理史的課題へ、研究の地平を不可逆的に推し進めた点にこそ求められるべきである。

本稿では、平川論文が到達した史学史的意義を厳密に再確認した上で、同論文が拓いた地平の先に残された課題について、「行政実務」「情報生成」「人的媒介」の三点から論理的展開を試みたい。

2.平川論文における学術的到達点

平川論文が達成した主要な学術的貢献は、以下の三点に集約される。

(1)律令行政階層モデルの相対化

第一に、律令法規に規定された「国―郡―里」という公式な統治構造と、地域社会における現実の社会編成とを直ちに同一視する姿勢を否定した点である。平川氏は、歴史的展開としてまず地域社会の基盤たる「村」が自律的に成立し、国家がそれを包摂・編制する過程で五十戸単位の「里」が導入されたという動態的モデルを提示した。これにより、「村」を「里」の単純な下位行政区分とみなす静的理解は排され、両者の複合的・重層的関係が立証された。

(2)史料論的手法による「村」の多様性の実証

第二に、「村」という概念に対する演繹的な抽象定義を避け、木簡や金石文、正倉院文書等を含む古代史料群において、いかなる文脈・時期・地域で「村」表記が出現するかを実証的に追跡した点である。史料上に立ち現れる「村」の多様性・多義性そのものを歴史的事実として把握する史料論的態度は、制度的ドグマに陥りがちであった既存の村落史研究に強い警鐘を鳴らした。

(3)歴史的動態としての重層構造の提示

第三に、「村の成立 → 五十戸編成による里の設置 → 里と村の併存」という一連のプロセスを想定した点である。これにより、「里」と「村」の関係は静的な行政組織図上の関係から、国家的行政編制が地域社会の既存構造と接触・折衝する過程で生じた重層的統治構造として再定立された。

3.制度史から「現場史・情報史」への課題の転換

平川論文が提示した最大の示唆は、律令国家の地方支配を上からの法令規定のみで説明することの限界を可視化した点にある。

古代国家が既存の「村」という社会体・地理的単位を置換・解体することなく、それを前提として行政編制を重ね合わせたとするならば、次に究明されるべきは、「国家行政は制度単位ではない『村』という現場を、いかなる具体的技法をもって補足し、動員・機能させていたのか」という実務的問いである。

平川論文の成果を継承し、さらに深化させるためには、以下の三つの分析視角が要求される。

(1)「存在形態論」から「実務機能論」への移行

史料上の「村」は、単なる地理的集落や居住単位にとどまらず、人件の把握、土地・生産物の登記、租税・出挙の徴収、徴発労働力の編制、治安および移動管理など、国家行政が発動される具体的な接触面であった。すなわち「村」とは、国家が地域実態を把握し、行政力を貫徹させるための「実務執行の最前線」として再定義されるべきである。

(2)「行政情報の生成・一次集約地点」としての再再考

律令国家における情報伝達系は、「地域社会(村) → 郡家 → 国府 → 中央官司」という多段的結節点を有する。中央および国府が必要とする各種行政データ(戸籍・計帳草案、正税・郡稲の管理データ、徴発名簿等)の原初的情報は、まさに「村」の現場において採取・生成されたはずである。したがって、村を単なる行政組織の端末とみなすのではなく、「生の社会的情報が行政文書・木簡等のデータへと一次変換される拠点」として捉え直す視角が不可欠となる。

(3)「村」と「郡」を結ぶ階層間媒介機構の解明

「村」が行政情報の生成地点であり、行政命令の執行現場であったならば、それら情報および命令を郡家との間で往還させた媒介者の存在が前提とされる。ここで問われるべきは、刀禰(とね)をはじめとする村落首長層や在庁的実務者の歴史的機能である。これは平川論文の欠陥を指摘するものではなく、平川氏が「村」を固定的な制度枠から解放したからこそ明確化された、階層間接続機構をめぐる不可避の研究課題と言える。

4.おわりに――「村」の三層構造モデルと展望

以上の考察に基づき、古代における「村」の歴史的実態は、以下の三層構造モデルとして捉え直すことが可能となる。

  1. 第一層:社会的・空間的実体としての村(生活・居住・共同生産の場)

  2. 第二層:行政情報の発生・変換拠点としての村(実務的データが採取・確認される現場)

  3. 第三層:広域行政ネットワークの末端結節点としての村(郡家・国府との間で命令・情報が還流する接続点)

「村は制度的行政単位ではない」という命題と、「村は国家統治にとって実質的に不可欠な拠点であった」という命題は矛盾しない。むしろ、法制上の公式単位ではないからこそ、国家行政が現実の地域社会に着地し、情報を吸い上げるための実務的『接点』として機能したという歴史的逆説が浮き彫りとなる。

結論として、平川南「古代における里と村」は、村落史研究を完結させた著作というよりも、制度史の枠組みを相対化し、古代国家の「行政実務史」「情報編纂・処理史」という新たな領域へと研究を押し進めるための確固たる出発点を構築した論考として高く評価されるべきである。

今後は、木簡・帳簿草案・郡符・正税帳などの多様な一次史料をこの「情報処理・実務」の文脈に再位置づけ、分析を加えることによって、古代国家と地域社会が交錯する現場の具体相が、より鮮明に解明されることが期待される。

論評②バージョン「平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」

 平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」論評

――制度論から行政実務・情報処理史への展開――

1 はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、2003年、45―74頁)は、古代日本の地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」の関係をめぐり、史料別の用例と時期的変遷を精緻に整理した論文である。

従来の研究では、「里=制度上の単位」「村=その下位の集落」といった単純な階層モデルで語られることが多かった。これに対し平川氏は、両者の成立史と史料上の表記の実態を検証することで、固定的な理解を相対化した。

しかし、平川論文によって「里」と「村」の関係性が再整理されたからといって、問題が完結したわけではない。むしろ、本論考の真価は「村とは制度上何か」という制度史の問いから、「村では実際に行政の実務として何が行われていたのか」という行政実務史・情報処理史の問いへと、研究課題を一段推し進める地点にこそ存在する。

本論評では、平川論文の到達点を確認した上で、そこに残された課題を行政実務・情報処理・人的媒介という観点から検討したい。

2 平川論文の基本的到達点

平川論文の学術的貢献は、主に以下の3点に要約される。

  1. 行政階層モデルの相対化

    律令制の「国―郡―里」という公式な行政組織をそのまま地域社会の実態と同一視することに慎重な姿勢を示した。「村」の成立を基礎として「里(五十戸編成)」が構築された歴史的過程を提示し、「里」と「村」の併存構造を明らかにした。

  2. 史料論的アプローチによる「村」の多様性の解明

    「村」という語に固定的な意味を与えるのではなく、どのような時期・文脈・史料に「村」が表れるのかを丹念に追跡した。その結果、「村」という表記が持つ歴史的な多様性そのものを実態として捉える視座を確立した。

  3. 歴史的過程としての「里と村」の把握

    「村の成立 → 村を基礎とする五十戸編成(里の成立) → 里と村の併存」という動的なプロセスを想定した。これにより、地域社会と国家的行政編成との接触によって生じた「重層構造」として両者を捉える道を開いた。

3 制度史から「現場史」への視点転換

平川論文の真の意義は、律令国家の地方行政を法令上の制度図のみで理解することの限界を提示した点にある。

国家行政は既存の地域社会を消滅させたのではなく、村という既存のまとまりを包摂・利用しながら重層的行政網を築いた。ならば、次に問われるべきは「制度単位ではない村を、国家行政は具体的にどのように利用・動員したのか」という問題である。

4 研究課題の拡張――行政情報の生成地点としての「村」

平川論文の成果を継承・展開するために、以下の3つの問いを提起したい。

(1) 「存在形態」から「行政機能」へのシフト

史料に登場する村は、戸籍・計帳の作成、土地や生産物の把握、租税・出挙の徴収、労働力・交通の管理など、国家行政が欲する多様な情報が交錯する場であった。村は単なる「地理的集落」ではなく、国家が地域社会を把握するための「情報取得の拠点」として機能していたと考えられる。

(2) 行政情報の生成・変換地点としての再定義

律令国家の情報伝達は「地域社会(村) → 郡 → 国 → 中央」という段階を経る。村で発生した原情報(人件・土地・物産など)は、どこで、誰によって、いかなる形式(木簡や帳簿草案等)に変換され、上位機関へ送られたのか。村を行政組織図の末端としてではなく、「行政情報が生成・一次集約される現場」として再定義する必要がある。

(3) 「村」と「郡」を結ぶ人的媒介機構

村が情報の生成地点であったなら、それを郡家へ届ける存在、あるいは郡からの命令を村へ伝達・執行する存在が必要となる。ここで登場するのが、刀禰(とね)や村の首長層といった「行政と地域を接続する媒介者」である。これは平川論文の欠陥ではなく、平川氏が「村」を固定的な制度から解放したからこそ開かれた、新たな研究領域である。

5 結論――「村」の三層モデルと今後の展望

以上の考察から、古代における「村」は以下の三層構造として立体的に捉え直すことができる。

  • 第一層:社会的実体としての村(人々の生活・居住・生産の場)

  • 第二層:行政情報の生成地点としての村(実務的な情報が発生・確認される現場)

  • 第三層:上位行政機構との接続地点としての村(郡・国との間で情報や命令が交わされるネットワークの末端)

「村は制度的な行政単位ではない」という事実と、「村は国家行政にとって極めて重要であった」という事実は矛盾しない。制度上の単位ではないからこそ、村は国家行政が現実の地域社会に着地するための実務上の「接点」として機能したのである。

平川南「古代における里と村」は、村の研究を完結させた金字塔というよりも、村を制度史の呪縛から解き放ち、行政実務史・情報史へ足を踏み出すための偉大な出発点として評価されるべきである。

今後は、木簡・帳簿・郡符・戸籍・計帳・正税帳などの多角的史料をこの「実務・情報」の観点から再検証することで、古代国家と地域社会が交差する現場の実相を、より鮮明に復元できるはずである。

論評①バージョン 平川南「古代における里と村――「村」を制度単位から行政実務の場へ再定位するために」

 

論評 平川南論文「古代における里と村」

――「村」を制度単位から行政実務の場へ再定位するために」


1 はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」は、『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集(2003年、45―74頁)に掲載された論文である。

本論文の出発点は、古代日本の地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」の関係が、長い研究史を有するにもかかわらず、なお明確にされていないという問題認識にある。平川は、その原因を、従来の研究において「里」と「村」の時期的変遷と史料別の検討が十分に整理されてこなかったことに求める。

平川論文の重要性は、ここから「里」と「村」を単純な上下関係として捉えるのではなく、両者が成立した歴史的過程と、史料における表記の実態を一つずつ検証した点にある。

しかし、平川論文によって「里」と「村」の関係が整理されたからといって、問題が終わったわけではない。

むしろ逆である。

「村が何であったのか」という制度史上の問題から、「村では実際に何が行われていたのか」という行政実務史上の問題へ、研究課題を一段進める必要がある。

本論評では、まず平川論文の到達点を確認し、そのうえで、そこからなお残されている問題を、行政実務・情報処理・人的媒介という観点から検討したい。

2 平川論文の基本的到達点

(1)「里」と「村」を固定的な行政階層として捉えない

平川論文の第一の功績は、「国―郡―里」という律令制の行政組織を、そのまま現実の地域社会の構造と同一視することに慎重な姿勢を示した点にある。

平川によれば、歴史的過程としては、まず各地域に「村」が成立し、その村のまとまりを基礎として各戸を五十戸に編成し、行政単位として「里」が成立した。そして、その結果として「里」と「村」が併存する状況が生じたと考えられる。

ここから重要な帰結が導かれる。

すなわち、史料に現れる「村」を、律令制上の「里」の単純な下位区分として理解することはできない。

「村」と「里」は、成立時期も性格も異なる可能性があり、その後の史料において両者が併存するため、個々の史料を検討しなければ、その関係を確定できないのである。

これは、「里=制度」、「村=その下位」という単純な行政階層モデルを相対化する重要な成果である。

(2)「村」の実態を史料の用例から再構成する

第二の功績は、「村とは何か」を抽象的に定義するのではなく、古代史料の中で、どのような場合に地名が「村」と表記されるのかを検討するという史料論的手法を採用したことである。

この方法は重要である。

「村」という言葉が存在する以上、そこに制度上の固定された意味を与えるのではなく、

どの史料に、
どの時期に、
どのような文脈で、
「村」という表記が現れるのか

を確認する必要があるからである。

したがって平川論文は、「村」という語の意味を一つに固定することよりも、史料に現れる「村」の多様性そのものを歴史的事実として把握する方向を示した論文と評価すべきである。

(3)「里と村」の関係を歴史的過程として捉えた

この点は、本論評において特に高く評価したい。

平川論文は、「里」と「村」が最初から並列的に存在したと考えるのではなく、

村の成立 → 村を基礎とする五十戸編成 → 里の成立 → 里と村の併存

という歴史的過程を想定する。

この見方によって、「里」と「村」の関係を静的な行政組織図ではなく、地域社会と国家的行政編成との接触によって生じた歴史的な重層構造として理解する道が開かれた。

この点に、平川論文の理論的な強さがある。


3 平川論文の意義――制度史から現場史へ

平川論文をさらに大きな研究史の中に置いてみると、その意義は「里と村の関係を整理した」ということだけではない。

それは、律令国家の地方行政を、法令に記された行政組織図だけから理解することの限界を明らかにした点にある。

律令制を、

国 → 郡 → 里

という上から下へ向かう行政組織として理解すると、村は制度図の中にうまく位置づけられない。

しかし、実際の地域社会には村が存在し、その村を基盤として里が編成されたのであれば、国家の行政制度は、既存の地域社会をそのまま置き換えたのではなく、地域社会の既存のまとまりを利用しながら行政的編成を重ねたと考える必要がある。

ここに、平川論文の大きな意義がある。

ただし、ここで一つの問題が生じる。

それは、

村が国家行政の「制度単位」ではないとして、では国家行政は村を具体的にどのように利用したのか。

という問題である。

私は、この問いこそ平川論文の次に置くべき研究課題だと考える。


4 平川論文からさらに問うべき問題

(1)「村とは何か」から「村で何が行われたか」へ

平川論文の最大の成果は、村を単純に「里の下位区分」とする理解から研究を解放したことである。

しかし、その成果をさらに進めるならば、次に問うべきなのは、

「村は何をする場所だったのか」

という問題ではないだろうか。

たとえば、村が史料に登場する場合、

  • 人口の把握
  • 土地の把握
  • 生産物の把握
  • 租税・出挙などの把握
  • 労働力の把握
  • 交通・移動の把握
  • 命令の伝達

など、国家行政が必要とするさまざまな情報と接触している可能性がある。

そうであるならば、村は単なる「地理的集落」ではなく、国家が地域社会を把握する際の情報取得の場として機能していた可能性がある。

ここには、平川論文とは異なる研究視角が開かれている。


(2)「村」を行政情報の生成地点として考える

ここからさらに一歩進めたい。

律令国家の行政は、中央政府が地方を直接見ることによって成立していたのではない。

中央が必要とする情報は、

地域社会 → 村 → 郡 → 国 → 中央

という複数の段階を経て、行政情報へと変換されたはずである。

したがって、「村」を考える際には、

村は行政組織のどこに位置するか

だけではなく、

村で発生した情報が、どこで、誰によって、どのような形式に変換され、上位機関へ送られたのか

を問う必要がある。

この観点から見ると、「村」は行政組織図の一項目ではなく、行政情報の生成・確認・集約が行われる現場として再定義できる可能性がある。

これは、平川論文を否定するものではない。

むしろ、平川論文が「村」を固定的な制度単位から解放したことによって、初めて可能になる次の段階の研究である。


5 「村」と「郡」の間を誰が結んだのか

この問題から、さらに人的媒介の問題が生じる。

もし村が行政情報の生成地点であったなら、その情報は誰によって郡へ届けられたのか。

また、郡から村へ命令が伝達される場合、その命令は誰によって実施されたのか。

ここで重要になるのが、刀禰などの地域社会と行政機構を接続する人的存在である。

ただし、この点を「平川論文の欠点」と単純に断定するのは適切ではない。

平川論文の主題はあくまで「里」と「村」の関係の史料整理と分析であり、人的媒介機構そのものを体系的に論じることが論文の第一の目的ではないからである。

したがって、より正確には、

平川論文によって「村」の位置が再検討された結果、次の研究課題として、「村」と「郡」を接続する人的・行政的媒介機構を明らかにする必要が生じた

と評価すべきである。

これは「批判」というより、平川論文から導かれる研究課題の拡張である。


6 平川論文を越えて――「村」を行政システムの中で捉える

以上を踏まえると、「村」を次のような三つの層に分けて考えることができる。

第一層 社会的実体としての村

人々が居住し、土地を耕作し、生産活動を行う地域社会としての村。

第二層 行政情報の生成地点としての村

人口・土地・生産・租税・労働など、国家行政が必要とする情報が発生し、確認される現場としての村。

第三層 上位行政機構と接続する地点としての村

村で把握された情報が郡・国へ集約され、逆に郡・国からの命令が村へ伝達される行政ネットワークの末端としての村。

この三層を区別するならば、「村は制度的な行政単位ではない」という命題と、「村は国家行政にとって重要であった」という命題は矛盾しない。

むしろ、

制度上の単位ではないからこそ、国家行政が現実の地域社会に接続するための重要な現場になった

という逆説が見えてくる。


7 平川論文への評価

以上から、平川論文の評価は、当初の草稿よりも少し違った形で提示するのが適切である。

平川論文の第一の功績は、「村」を律令制の行政階層の中に無理に位置づけるのではなく、その成立過程と史料上の用例を分析することによって、「里」と「村」の重層的な関係を明らかにしたことである。

第二の功績は、「里」と「村」を静的な制度概念ではなく、時期差・地域差・史料差を伴う歴史的存在として捉えたことである。

第三に、その成果によって、律令国家の地方行政を「国―郡―里」という制度図だけでは捉えきれないことが明確になった。

しかし、その先には新たな問題が残されている。

それは、

「村が制度上どこに位置するか」ではなく、「村が律令国家の行政実務の中で何をしていたのか」

という問題である。

この問いに答えるためには、「村」の用例分析だけではなく、木簡・帳簿・命令文書・人名資料などを相互に組み合わせ、村で発生した情報がどのように収集され、確認され、集計され、郡・国へ送られたのかを復元する必要がある。

8 結論――平川論文を「終点」ではなく「出発点」として

平川南「古代における里と村」は、「里」と「村」の関係をめぐる従来の固定的な行政階層モデルを再検討し、村の成立と里の編成、両者の併存という歴史的過程を提示した重要な研究である。

その意義は、単に「村は里の下位単位ではない」と指摘したことにとどまらない。

むしろ重要なのは、律令国家の行政を、制度として上から見るだけではなく、地域社会の側から見直す必要性を明らかにしたことにある。

しかし、ここで研究を止めるべきではない。

平川論文が明らかにしたのは、

「村がどのように存在していたのか」

という問題である。

これに対して、次に問うべきなのは、

「村で国家行政が何をしていたのか」

である。

さらに、

「村で収集された情報は、誰によって、どのように加工され、郡・国の行政文書へ組み込まれたのか」

という問題へ進むことができる。

この視点に立てば、「村」は単なる地理的集落でも、律令制の行政組織図に収まらない例外的存在でもない。

それは、地域社会と国家行政とを接続する実務上の接点、すなわち行政情報が生成される現場として捉え直すことができる。

したがって、平川論文は「村」の研究を完成させた論文というよりも、むしろ「村」を制度史の枠から解放し、行政実務史・情報史へと研究を進めるための重要な出発点を築いた論文として評価すべきである。

そして、この方向から木簡、帳簿、牓示札、郡符、戸籍・計帳、正税帳・郡稲帳などを再検討すれば、「村」という存在が古代国家の行政システムの中で果たした具体的役割を、従来とは異なる角度から復元できる可能性がある。

2026年9月3日木曜日

Two Suguri-Yasumaros : A Working Hypothesis for Reconsidering the Possibility of Palace Eunuchs in Ancient Japan

 

Two Suguri-Yasumaros

A Working Hypothesis for Reconsidering the Possibility of Palace Eunuchs in Ancient Japan

Introduction

In the study of ancient Japanese history, the question of palace eunuchs remains an exceptionally difficult one.

In ancient China and on the Korean Peninsula, eunuchs are well attested as participants in court institutions, particularly in connection with the inner palace and the women's quarters. By contrast, with regard to the ritsuryō state of ancient Japan, it has generally been understood that no institutional system of palace eunuchs existed.

Yet an important methodological question arises here. Is this conclusion based on positive evidence demonstrating that palace eunuchs did not exist in ancient Japan? Or does it rest primarily on the absence of sources that clearly document an institution of palace eunuchs?

This paper does not claim to resolve this question.

Instead, it focuses on a single individual: Suguri-Yasumaro.

Two different types of historical sources contain a person bearing this name.

The first is the Suguri-Yasumaro recorded in the Household Register of Hanifu Village, Kamo District, Mino Province (Mino no Kuni Kamo-gun Hanifu-ri Koseki).

The second is the Suguri-Yasumaro recorded on a wooden tablet excavated from the southern drainage ditch along the Palace Road at the presumed Sake Bureau (Miki-no-Tsukasa) within the Heijō Palace.

Most importantly, the Suguri-Yasumaro recorded in the household register is described as:

“a castrated man and a person with an illness/disability”

The first of these terms is of particular significance. The character fundamentally refers to the castration of a male, and 閹人 therefore denotes, in its most basic sense, a castrated man.

In Chinese historical usage, however, 閹人 could also refer to men who served at the imperial court, especially in connection with the inner palace. In such contexts, the term overlaps with the broader historical category of the palace eunuch.

But this distinction must be maintained carefully.

It would be methodologically inappropriate simply to equate:

閹人 = palace eunuch = court servant.

The term 閹人, in the first instance, describes a physical condition. It does not, by itself, establish that the individual belonged to a formally constituted institution of palace eunuchs.

The question, therefore, is not simply whether the existence of the word 閹人 proves the existence of palace eunuchs in ancient Japan.

The more fundamental question is:

Why was a man specifically described as 閹人 in an ancient Japanese household register?

It is this question that provides the starting point for the present investigation.

1. The First Source: Suguri-Yasumaro in the Household Register of Hanifu Village, Kamo District, Mino Province

The Household Register of Hanifu Village, Kamo District, Mino Province is one of the most important surviving sources for the study of population, household structure, social status, and physical characteristics in ancient Japan.

Among the individuals recorded in the register is:

Suguri-Yasumaro

The entry provides an unusually significant piece of information about him:

閹人・残疾

For present purposes, I translate this as:

“a castrated man and a person with an illness/disability.”

The term 閹人 deserves particular attention.

As noted above, 閹 fundamentally denotes the castration of a male. Thus, at the most literal level, 閹人 describes a castrated man.

In the history of China, however, castrated men were frequently associated with service at the imperial court, and particularly with the inner palace. Consequently, the historical concept of the palace eunuch cannot be entirely separated from the term 閹人.

Nevertheless, the two concepts should not be conflated.

A man could be described as 閹人 because of his physical condition without necessarily belonging to an institution of palace eunuchs. Conversely, if a castrated man actually served at court, his physical status might acquire an institutional and occupational significance.

The evidence from the household register therefore raises a question that deserves closer investigation:

What social or occupational circumstances lay behind the description of Suguri-Yasumaro as 閹人?

The household register itself does not answer this question.

It is precisely this unexplained piece of information that makes the entry significant.

2. The Second Source: Suguri-Yasumaro on a Wooden Tablet from the Heijō Palace

The second source is a wooden tablet excavated from the southern drainage ditch along the Palace Road at the presumed Sake Bureau (Miki-no-Tsukasa) within the Heijō Palace.

The tablet records a request concerning supplies and daily rations and contains references to the Office of Court Robes, myōbu, official orders, requests, and other administrative personnel.

At the end of the text appears:

May 22 — Suguri-Yasumaro

This is significant.

The wooden tablet indicates that an individual named Suguri-Yasumaro was involved in the processing of an administrative document within the operational sphere of the Heijō Palace.

The document was not a private memorandum. Rather, its terminology points toward the management of supplies, food provisions, personnel, and documentary procedures associated with the court.

The presence of terms relating to the Office of Court Robes, daily rations, myōbu, official orders, requests, superintendents, and clerical personnel suggests an administrative environment in which the movement and distribution of material resources were being recorded.

The important point, therefore, is not yet that Suguri-Yasumaro was a palace eunuch.

That cannot be established from this tablet.

The more modest—and more secure—observation is:

An individual named Suguri-Yasumaro was involved in administrative activity within the Heijō Palace.

This becomes especially interesting when considered alongside the household register's description of another Suguri-Yasumaro as 閹人.

3. Placing the Two Sources in Dialogue

The two sources may be summarized as follows:

SourceInformation concerning Suguri-Yasumaro
Household Register of Hanifu Village, Kamo District, Mino ProvinceSuguri-Yasumaro — “a castrated man and a person with an illness/disability”
Wooden tablet from the Heijō PalaceSuguri-Yasumaro — involved in administrative activity within the court

At this point, however, no definitive conclusion can be drawn.

The central problem is obvious:

Were these two Suguri-Yasumaros one and the same person?

The mere coincidence of a personal name is insufficient evidence. Two different individuals could certainly have borne the same name.

At the same time, however:

The available evidence does not demonstrate that they were different individuals.

This creates a legitimate research problem.

The appropriate response is not to assume identity as a fact, but to ask what historical reconstruction becomes possible if their identity is provisionally hypothesized.

That is the purpose of the present working hypothesis.

4. A Working Hypothesis Concerning Suguri-Yasumaro

Let us provisionally reconstruct the possible life course of Suguri-Yasumaro.

He may have spent his early life in Mino Province. At some point, he may have moved from the provinces to the central court.

At the Heijō Palace, he may have become involved in administrative work concerning supplies, provisions, personnel, or court clothing.

He then remained in the central area for some period of time.

Eventually, he may have reached his fifties and, perhaps after completing his service at court, returned to Mino Province.

There, he appears in the household register as:

“a castrated man and a person with an illness/disability.”

If this reconstruction were correct, an important possibility would emerge:

A man identified in a local household register as 閹人 may have previously served within the central court.

This would raise a further question:

Could ancient Japan have employed castrated men in court service even though it did not possess a formally institutionalized system of palace eunuchs comparable to those of China or the Korean Peninsula?

This is the most ambitious aspect of the present hypothesis.

It should, however, be emphasized that this is precisely a working hypothesis, not an established conclusion.

5. The Problem of the Inner Palace

A further distinction is essential.

Service at the Heijō Palace does not necessarily mean service in the inner palace or women's quarters.

There is currently no direct evidence establishing that Suguri-Yasumaro served in the inner palace.

Accordingly, the proposition:

Suguri-Yasumaro was a servant in the inner palace

must remain hypothetical.

Nevertheless, if a castrated man served within the court, the inner palace becomes one of the areas that deserves particular investigation.

The reason is obvious. The presence of castrated men in a court environment has implications not merely for their physical status but also for the organization and accessibility of spaces occupied by court women.

Thus, the hypothesis may be advanced one step further:

Might Suguri-Yasumaro have performed duties connected with the court, perhaps including duties associated with the inner palace or women's quarters?

This is a more speculative proposition, and I readily acknowledge that it may be criticized as conjectural.

That criticism would be entirely legitimate.

The essential point is to preserve the hierarchy of evidence.

Documentary evidence

A person named Suguri-Yasumaro appears in a household register and a wooden tablet.

Documentary evidence

The Suguri-Yasumaro in the household register is described as 閹人・残疾.

Documentary evidence

The Suguri-Yasumaro on the wooden tablet was involved in administrative activity within the Heijō Palace.

From this point onward, however, the following propositions remain hypotheses:

The two Suguri-Yasumaros were the same person.

Suguri-Yasumaro was castrated before or during his period of court service.

He served in the inner palace or women's quarters.

These levels of argument must not be collapsed into one another.

6. Why the Possibility of a Return to Mino in Old Age Matters

Age may provide another important dimension to this hypothesis.

If the Suguri-Yasumaro of the wooden tablet and the Suguri-Yasumaro of the household register were the same person, and if the latter had reached his fifties by the time of registration, he would no longer have been a young court worker.

The possibility of a life course such as the following therefore deserves consideration:

Court service

Extended residence in the central capital

Aging

Return to Mino Province

Registration in the local household register

Again, this sequence cannot currently be demonstrated.

But if it were eventually supported by additional evidence, two apparently disconnected pieces of information would become components of a single biography.

The household register would preserve:

Suguri-Yasumaro in his later years in local society,

while the wooden tablet would preserve:

Suguri-Yasumaro during his period of service at the central court.

The significance of this possibility goes beyond the identification of two individuals bearing the same name.

It would represent an attempt to reconstruct the life history of a single individual across two different documentary systems: a local household register and a central court document.

7. Why Did Suguri-Yasumaro Come to Live in Hanifu Village?

At this point, I would like to present another inference of my own concerning the circumstances under which Suguri-Yasumaro came to reside in Hanifu Village, Kamo District, Mino Province.

The Hanifu Village Household Register contains not only Suguri-Yasumaro but also members of several groups bearing the Suguri (勝) designation:

  • Fuha no Suguri — the Suguri group associated with Fuha District;
  • Kagami no Suguri — the Suguri group associated with Kagami District;
  • Miya no Suguri — the Suguri group associated with the capital.

Within the register, members of these groups also formed marriage relationships with the powerful Hata lineage.

For example:

  1. Hata no Komaro, the younger brother of a household head, aged forty-two and a male of full working age, was married to Suguri-zoku Momome, aged thirty-seven and a woman of full working age.
  2. Fuha no Suguri-zoku Kanamaro, head of a subordinate household, was married to Hata-bito Miyawame, aged sixty and a woman of full working age.

These marriages suggest that the Suguri groups had acquired a certain degree of influence within the settlement through their marital connections with the Hata lineage, one of its powerful groups.

Previous research has calculated that, among the total population of 1,119 recorded in the Hanifu Village Household Register, 497 individuals can be regarded as being of continental immigrant origin on the basis of personal names, clan designations, or group affiliations, including Hata-bito, Hata-bito-be, and Suguri.

My own calculation suggests that, if the groups represented by Ato-omi and Kishi-omi are regarded as belonging to the Kishi/Kishi-type immigrant tradition, at least another ten individuals may be added.

This produces a minimum figure of 507 individuals, or approximately 45.3 percent of the total population, who can be directly identified as being of continental immigrant origin.

This figure should not, however, be mistaken for the actual number of people of continental immigrant origin living in Hanifu Village. The documentary categories do not permit such a simple calculation.

Nevertheless, the fact that a large collective of people of continental immigrant origin—approaching half of the recorded population—was concentrated in this settlement suggests that Hanifu may have provided a particularly congenial social environment for Suguri-Yasumaro, who himself belonged to a group associated with continental immigrants.

8. A Further Hypothesis: The Jinshin War and the Expansion of Continental Immigrant Groups

This inevitably involves placing one hypothesis upon another.

The distribution of Kawaramadera-style roof tiles at eleven sites in Mino Province raises a further possibility.

It may be that the expansion of the power and influence of continental immigrant groups in Mino was connected, at least in part, with the Jinshin War.

I would tentatively suggest that the temples associated with Kawaramadera-style tiles in Kagami and Fuha Districts may represent, at least in part, the consequences of rewards or privileges granted to groups that contributed to the victory of the imperial side.

If this interpretation is correct, the Suguri groups' presence in Hanifu Village may have to be understood within a much larger political and social transformation following the Jinshin War.

This remains highly conjectural.

But it may provide a possible historical context for understanding why a person such as Suguri-Yasumaro, perhaps connected with a continental immigrant group, could have moved between a provincial community and the central court.

9. How Should We Approach the Proposition That “There Were No Palace Eunuchs in Japan”?

This is the point at which the greatest caution is required.

Even if the prevailing scholarly understanding is that ancient Japan had no institutional system of palace eunuchs, this paper cannot simply reverse the proposition and declare:

“Therefore, palace eunuchs existed in ancient Japan.”

Such a conclusion would go far beyond the evidence.

The question raised here is more limited:

Should the proposition that palace eunuchs did not exist in ancient Japan be subjected to renewed examination on the basis of the primary sources?

The distinction between:

an institutional system of palace eunuchs

and

the presence of castrated men serving at court

is fundamental.

Even if Suguri-Yasumaro were eventually shown to have been a castrated man serving at court, that fact alone would not demonstrate the existence in Japan of a palace eunuch institution comparable to those of China or the Korean Peninsula.

The more interesting possibility may instead be this:

Although the ritsuryō state did not formally establish “palace eunuchs” as a distinct institutional category, might it nevertheless have employed castrated men in the practical operation of the court when circumstances required?

If so, the phenomenon could not be adequately described by the simple binary opposition:

“There was a palace eunuch institution” versus “There was no palace eunuch institution.”

The actual historical situation may have been more complicated.

10. “There Was No Institution” Does Not Necessarily Mean “There Were No Such People”

This distinction lies at the heart of the present working hypothesis.

For an ancient state, the statement:

“It was not formally established as an institution”

does not necessarily entail:

“No such people existed.”

The offices and personnel listed in a formal administrative system need not have corresponded perfectly to every person actually required to operate the court.

Wooden tablets are particularly valuable precisely because they can reveal this operational reality.

They record:

  • personal names;
  • daily rations;
  • food;
  • supplies;
  • court women;
  • official orders;
  • requests;
  • superintendents;
  • clerical personnel;

and many other details.

They therefore allow us to ask a question that is difficult to answer from institutional texts alone:

Who was actually doing what?

The same methodological principle should be applied to Suguri-Yasumaro.

If he actually worked at the court, then whether or not the ritsuryō administrative system formally recognized a category called “palace eunuch” is a separate question.

The phenomenon that matters is more concrete:

A castrated man may have been incorporated into the practical labor and administrative organization of the court.

11. What If This Is Criticized as “Pure Speculation”?

The hypothesis will inevitably invite objections.

For example:

“Could these simply have been two different people with the same name?”

“A castrated man was not necessarily a palace eunuch.”

“The wooden tablet does not establish service in the inner palace.”

“There is no evidence that Suguri-Yasumaro returned to Mino.”

“The evidence linking the two sources is too weak.”

All of these objections are legitimate.

Indeed, I accept them in advance.

The purpose of this paper is not to eliminate these objections but to formulate a research question that can be tested against additional evidence.

This paper does not attempt to prove that Suguri-Yasumaro was a palace eunuch.

Rather, it proposes a working hypothesis: if the Suguri-Yasumaro appearing in the household register and the Suguri-Yasumaro appearing on the wooden tablet are provisionally regarded as the same individual, how might the description 閹人・残疾 be related to his presence at the Heijō Palace?

This is not a conclusion.

Nor is it a claim that:

“A palace eunuch institution existed in ancient Japan.”

Instead, it is:

a source-oriented hypothesis designed to reopen the investigation of the proposition that palace eunuchs did not exist in ancient Japan.

This distinction is essential.

The fact that a hypothesis cannot yet be proven does not mean that it lacks value as a research hypothesis.

A productive working hypothesis does not exist merely to provide an answer.

It exists to direct attention toward sources that might otherwise remain unnoticed:

“Could there perhaps be evidence here that is relevant to this question?”

12. What Sources Should We Investigate Next?

If this working hypothesis is adopted, the next research tasks become relatively clear.

First

We should investigate genealogical materials concerning the Suguri lineage and Suguri-Yasumaro.

Second

The household registers and census-related records of Mino Province should be reconsidered in order to establish Suguri-Yasumaro's family relationships, age, place of residence, and social status.

Third

The wooden tablets from the Heijō Palace should be systematically searched for the name:

Suguri-Yasumaro

Fourth

The relationship between the Suguri lineage, continental immigrant groups, and service at the central court should be examined.

Fifth

Terms such as:

閹 / 閹人 / 宦 / 残疾

should be systematically searched across the Shōsōin documents, wooden tablets, household registers, census registers, commentaries on the ritsuryō codes, and other contemporary records.

Sixth

Documents and wooden tablets relating to the inner palace and women's quarters should be reexamined for evidence that might indicate the presence or activities of castrated men.

Seventh

And this may be the most important point:

Rather than searching for the institutional term “palace eunuch,” we should search for what men described as 閹人 actually did.

This should become a central research strategy.

13. Why This Hypothesis Matters

The significance of this hypothesis does not lie primarily in the sensational claim:

“Japan had palace eunuchs.”

Its real significance lies elsewhere.

It lies in the possibility that:

There may have been a gap between the formal institutions of the ancient state and the actual people who worked within them.

The ritsuryō codes can be understood, in a sense, as a blueprint of the state.

Wooden tablets, by contrast, provide glimpses of the operational reality in which the state actually functioned.

Household registers tell us how those individuals were subsequently incorporated into local society.

If the central court wooden tablet and the provincial household register can ultimately be connected through one individual—Suguri-Yasumaro—the implications would be considerable.

Through a single individual, we could potentially connect:

court — government office — labor — bodily status — mobility — local society

within a single biographical trajectory.

And somewhere within that trajectory stands the striking description:

閹人・残疾

—a piece of information concerning the individual's body that may deserve far greater historical attention than it has received.

Conclusion: Not a Proof, but a Starting Point for Investigation

At the present stage, what can be established with confidence concerning Suguri-Yasumaro remains limited.

A person named Suguri-Yasumaro appears in the Household Register of Hanifu Village and is described as:

“a castrated man and a person with an illness/disability.”

A person named Suguri-Yasumaro also appears on a wooden tablet excavated from the Heijō Palace and is connected with administrative activity within the court.

Beyond these points, certainty becomes impossible.

Yet once the two individuals are provisionally hypothesized to be the same person, a different historical image becomes conceivable.

One might then reconstruct the following possible life course:

A man from Mino

Movement to the central court

Service at the Heijō Palace

Possible connection with the inner palace?

Advancing age

Possible return to Mino

Registration in the household register

“A castrated man and a person with an illness/disability”

Much of this remains unknown.

Some of these gaps may remain impossible to fill.

But the purpose of historical research is not to fill gaps with imagination.

It is to determine:

which gaps exist, and which sources might allow us to investigate them.

The position of this paper is therefore clear.

This paper does not attempt to prove that Suguri-Yasumaro was a palace eunuch.

Rather, it proposes a working hypothesis that examines how the description “a castrated man and a person with an illness/disability” might be connected with Suguri-Yasumaro's presence at the Heijō Palace if the individuals appearing in these different sources are provisionally treated as the same person.

And:

This is not a conclusion. It is a source-oriented hypothesis for reconsidering the established proposition that palace eunuchs did not exist in ancient Japan.

In this sense, the value of the hypothesis lies not in the certainty with which it can currently be proven.

Its value lies rather in the possibility of doing something more fundamental:

to take the word 閹人 not merely as an unusual description of bodily status preserved in a provincial household register, but to consider it in connection with the life of an individual who may have worked at the political center of the ancient Japanese state, the Heijō Palace.

And, by doing so:

to ask once again, on the basis of the primary sources themselves, whether the proposition that “palace eunuchs did not exist in ancient Japan” has perhaps been treated as more self-evident than the surviving evidence actually permits.

That, ultimately, is the significance of this modest working hypothesis concerning Suguri-Yasumaro.

2026年9月2日水曜日

木簡調査への期待ーー 考古学・情報学・行政史を横断する新しい学際領域開拓

 木簡分析調査の必要性と研究課題

――「文字資料」から「行政実務の物証」へ――

私はかねてより、木簡そのものの物理的特徴を、文字情報と同じ水準の一次史料として精密に検討する必要があると考えてきた。

古代木簡は、そこに書かれた文字だけを読むための媒体ではない。木簡の材質、樹種、木取り、寸法、厚さ、形状、加工痕、筆跡、墨の状態、表裏の利用、削去・再利用の痕跡、さらには出土した位置や共伴関係までを総合すれば、その木簡がどのような目的で製作され、どのような作業のなかで使用され、いつ役割を終えたのかを考えることができる。

したがって木簡は、文字資料であると同時に、行政実務の工程が残した物証でもある。

従来の木簡研究が「何が書かれているか」を中心に発展してきたことの意義は、もちろん大きい。しかし今後必要なのは、それに加えて、

なぜ、その内容が、そのような形状・寸法・材質の木簡に記録されたのか。

という問いを立てることである。

この視点に立てば、木簡の物理的特徴から、少なくとも次のような問題を検証できる可能性がある。

  • その木簡は保存を目的として製作されたのか。
  • それとも、現場での記録・照合・確認・運搬などを目的とした作業媒体だったのか。
  • どの段階で情報が書き込まれ、更新され、転記されたのか。
  • どの段階で木簡としての役割を終えたのか。
  • その後、再利用されたのか、それとも廃棄されたのか。

ここで重要なのは、これらを単一の物理的特徴から断定することではない。形態・材質・記載様式・加工痕・出土状況など、複数の情報を組み合わせて、木簡が辿った工程を復元することである。

1.材質・樹種・木取りの分析

木簡に何の木材が用い

られているのかは、単なる自然科学的属性ではない。

樹種、木取り、木材の質を地域別・時期別に比較することによって、木簡がどのような資源調達環境のもとで製作されたのかを考えることができる。

地域で容易に得られる材が選ばれているのか、それとも遠隔地から搬入された材が使用されているのか。

その違いは、木材資源の調達、運搬、官衙における物資管理、さらには地域間の物流ネットワークを考える手掛かりとなる。

木材は、文字を書いた瞬間に突然現れたものではない。

木簡の前段階には、木材の選択・伐採・運搬・加工という物質的な工程が存在した。

この工程まで含めて考えることによって、木簡研究は文字史料研究から物質文化研究へと広がる。

2.寸法・厚さ・形状・加工痕の分析

木簡の寸法、厚さ、木取り、切断痕、削り痕、穿孔痕などには、製作時の選択が残されている。

長さ、幅、厚さは必ずしも偶然に決定されたものではない。用途によって一定の規格が存在した可能性があり、同一の官衙や同一の業務に属する木簡を比較すれば、用途と形態との対応関係を明らかにできる可能性がある。

例えば、長尺木簡、短冊型木簡、札型木簡、帳簿関係木簡、荷札などについて、寸法や加工方法に一定の傾向が認められるならば、それは木簡が単なる「書写材料」ではなく、目的に応じて選択・加工された業務媒体であったことを示すことになる。

実際、平城宮跡から出土する木簡については、現在の木簡庫でも寸法だけでなく、形状、樹種、木取りなどが記録項目として蓄積されている。例えば個別木簡について、縦・横・厚さ、型式番号、形状、樹種、木取りなどが記録されている。

このような基礎データを、単なる目録情報にとどめず、行政実務の用途との相関関係を分析するためのデータとして再編成する必要がある。

3.筆跡・墨・記載状態の分析

木簡研究において筆跡は文字の読み取りだけの問題ではない。

筆跡の違い、字形、筆圧、墨の濃淡、にじみ、書き始め・書き終わりの状態などを比較することによって、複数の書記が関与していた可能性や、記載作業が一回で行われたのか、複数の段階に分けて行われたのかを考えることができる。

さらに、一枚の木簡のなかで、

文字の大きさ、墨色、筆致、行の配置などが異なる部分

が確認できるならば、それは単なる「筆跡の違い」ではなく、異なる時点で異なる作業が加えられた可能性を示すことがある。

その場合、木簡一枚を「完成した文書」として読むのではなく、

第一段階の記録 → 第二段階の確認・追記 → 第三段階の処理

という時間的な工程として読み直す必要がある。

これは、書記の人数や交代だけではなく、官衙における情報処理の速度、作業分担、確認手続、緊急性を考えるうえでも重要である。

4.表裏利用・削去・再利用の分析

木簡の表と裏がどのように使用されたのかは、木簡の「寿命」を考える上で重要である。

一方の面だけに情報が記載されている場合と、表裏の双方が使用されている場合では、その木簡が想定された利用方法に違いがあった可能性がある。

また、文字を削り取った痕跡や、その上から新たな文字が書かれている例が確認できれば、

一度使った木簡を、そのまま廃棄せず、新たな業務に再利用した

可能性を考えなければならない。

この場合、木簡は「一度書いたら終わり」の媒体ではない。

情報の更新に応じて内容を変更できる可変的な媒体

であった可能性がある。

この視点は、木簡を「保存文書」と「廃棄文書」という二分法で捉えるのではなく、作業の進行に応じて役割を変える業務媒体として理解することにつながる。

5.廃棄痕の分析――木簡のライフサイクル

木簡研究において、廃棄は「最後に残った状態」にすぎないと考えられがちである。

しかし、私はむしろここに注目したい。

折損、切断、削去、焼損、再加工などの痕跡は、木簡がどのような状態で役割を終えたのかを示す可能性がある。

例えば、

記録 → 使用 → 照合 → 転記 → 保管

という工程を経た木簡と、

記録 → 使用 → 照合 → 役割終了 → 廃棄

という工程を経た木簡では、残される物理的特徴が異なる可能性がある。

したがって、木簡研究では、

「この木簡は何と書いてあるか」

だけではなく、

「この木簡は、どのような仕事をし、いつ仕事を終えたのか」

という問いを立てる必要がある。

私はこれを、木簡の「ライフサイクル」として捉えたい。

ただし、そのライフサイクルは必ずしも一本道ではない。

製作 → 記載 → 使用 → 照合 → 転記 → 廃棄

だけではなく、

再利用

追記

削去

再加工

保管

などの分岐を持つ可能性がある。

したがって、木簡の物理的特徴を総合的に分析することによって、古代官衙における情報処理工程を、より立体的に復元できる可能性がある。

6.「木簡の形」を情報処理史の資料として読む

以上の分析を総合すると、木簡の形状そのものが、古代行政の情報処理方式を示す可能性がある。例えば、現代の情報システムでは、データを入力し、確認し、修正し、集計し、最終的な帳票へ変換する。古代においても、行政情報がいきなり完成された紙文書になるとは限らない。

現場で情報を集め、

記録 → 照合 → 確認 → 集計 → 転記・再編成 → 提出 → 保存

という工程を経ていた可能性がある。その途中で木簡が使われたのであれば、木簡は「文書の代替物」ではない。

行政情報処理の途中工程を担う媒体

だったことになる。

この点から見るなら、木簡研究は従来の文書史だけでなく、古代の情報処理史・行政実務史として再構成することができる。

7.全国規模の物理情報データベースの構築

この研究を本格的に進めるためには、個々の木簡を対象とする精密な観察だけでは十分ではない。全国の木簡について、

寸法
厚さ
樹種
木取り
形状
加工痕
筆跡
墨の状態
表裏利用
削去・再利用痕
内容分類
出土地
年代
遺構
共伴資料

などを、可能な限り共通の形式で記録し、相互に比較できるようにする必要がある。

重要なのは、単にデータを大量に集めることではない。人間の研究者がこれまで個別に観察してきた知見を、機械可読な形式へ変換することである。これができれば、AIや機械学習によって、従来は個別研究者の経験や直観に依存していた類型化を、全国規模で検証できる可能性がある。

例えば、

  • 形態と用途の相関
  • 樹種と地域差の関係
  • 筆跡と官司・書記集団との関係
  • 加工痕と業務工程との関係
  • 再利用と時期・地域との関係
  • 木簡の形態と行政組織との関係

などを分析することが可能になるだろう。

さらに、教師あり・教師なしの機械学習を適切に組み合わせれば、人間の研究者があらかじめ設定した分類を超えて、新たな木簡群や用途のまとまりを発見する可能性もある。ただし、ここで重要なのは、AIに判断を委ねることではない。

AIの役割は、研究者が提示した仮説を検証し、巨大な資料群のなかから人間には見つけにくいパターンを発見することにある。

8.木簡研究の次のステージへ

木簡は、日本古代史における最も重要な同時代資料の一つである。長屋王邸跡では約4万点の木簡が出土し、その木簡群によって、家政機関の構成、物資の搬入・支給、そこで働いた人々など、従来の文献史料だけでは捉えにくい日常的な行政・経済活動が明らかにされた。奈文研の報告では、長屋王邸内のSD4750から35,000点余りの「長屋王家木簡」が出土したことが報告されている。また、現在の木簡研究では、木簡の形態、寸法、樹種、木取り、加工状態などに関する基礎情報がすでに蓄積されている。奈良文化財研究所の木簡庫でも、個々の木簡について画像とともに、寸法、形状、樹種、木取り、出土遺構などが記録されている。問題は、こうした情報を「文字を読むための付属情報」のままにしておくのか、それとも行政実務を復元するための中心的な資料として再評価するのかである。

私は後者を選びたい。その意味で、三上喜孝氏が木簡の「形態と記載様式」を正面から取り上げ、また古志田東木簡から古代の労働力編成を考察してきたことは、今後の研究を考える上で重要である。

これまで蓄積された個別研究を基礎として、今後はそこから一歩進み、

「木簡には何が書かれているか」

だけではなく、

「なぜ、その木簡はそのような形で作られ、その形で使用され、その状態で廃棄されたのか」

を問う必要がある。そうすることによって、木簡は「古代の文字資料」から、古代行政の作業工程を復元する物証へと位置づけ直されることになる。

結語――木簡を「動作する媒体」として読む

私は、木簡研究が次の段階へ進むためには、木簡を静止した文字資料としてではなく、行政実務のなかで「動作していた媒体」として読む視点が必要だと考える。木簡は、書かれた瞬間から廃棄されるまでの間に、何らかの仕事をしていた。

情報を記録した。
誰かがそれを確認した。
別の情報と照合した。
必要に応じて追記した。
集計した。
紙の正式帳簿へ転記した。
あるいは、そのまま保存した。
役割を終えれば削り、折り、切断し、再利用し、あるいは廃棄した。

このような一連の過程を復元することができるならば、木簡研究は単なる文字資料研究を超えて、古代国家が情報をどのように取得し、処理し、伝達し、保存したのかを明らかにする研究になる。その先には、考古学・日本古代史・文書史・情報学・データ科学を横断する新しい研究領域が開かれる可能性がある。

私は、木簡学会の会員でもない一研究者として、あえてこの問題を提起したい。私が1980年代から1990年代にかけて、奈良文化財研究所の方々の手で長屋王邸跡や平城宮跡など、木簡が大量に発見される発掘現場の熱気を知る機会を得たことは、今日この問題を考える上で大きい。そこには、木簡という新しい史料群を、何としてでも体系的に理解しようとする、岸俊男先生・直木孝次郎先生らの研究者たちの強い情熱があった。その蓄積を次の世代へ引き渡すためにも、私は今こそ、

木簡の文字を見るだけではなく、木簡そのものを考えること

を提案したい。

そして、木簡の文字を見るだけでは、木簡の全体像は捉えられない。木簡は文字を載せるための単なる媒体ではなく、一定の目的のために製作され、加工され、使用され、場合によっては再利用され、最終的に廃棄された物質的存在である。したがって、木簡研究は「何が書かれているか」の研究から、「その木簡そのものが何であり、何のために存在したのか」を問う研究へ進む必要がある。

木簡研究は、その次のステージへ進むべきではないだろうか。


ここまで書いてきたが、現場の考古学徒からは、ヒトもカネも時間もないというご回答が届くはずです。

日本古代の戸籍とは何か?ーー主に「 御野国加毛郡半布里戸籍|(正倉院文書)を中心に

 

半布里戸籍とは何か

――異なる人的集団が交錯する社会を、国家はいかに「戸籍」にしたのか――

「御野国加毛郡半布里戸籍|(正倉院文書)を、古代の「家系図」あるいは単純な「人口台帳」として理解することには、根本的な限界がある。

 この戸籍が記録しているのは、血縁によってきれいに区分された家族集団ではない。そこに見えるのは、県主系、秦人・秦人部、漢人・漢人部、勝・勝族・不破勝族・各務勝族、さらに敢臣族岸臣など、異なる出自や人的集団に属する人々が、一つの地域社会のなかで生活し、婚姻し、子を生み、労働し、扶養し、ときには自らの属する氏族とは異なる戸に入りながら生きていた姿である。

したがって、半布里戸籍を理解するためには、「渡来人が何人いたか」という人口集計から出発するのではなく、異なる人間集団が同じ地域社会のなかで、どのように接触し、結び付き、再編成されたのかを考えなければならない。

現段階の研究では、半布里戸籍の総人口1,119人のうち、秦人・秦人部・勝など、氏姓や集団表示から渡来系と考えられる人物は497人とされる。さらに、敢臣族岸臣を吉士・吉志系の渡来人とみなせば、少なくとも10人を加えることができ、直接に渡来系と認定できる人物は507人、全人口の約45.3%となる。しかし、この507人をもって半布里の渡来系人口の「実数」とすることはできない。

なぜなら、現実の村落社会では、氏族の境界と生活の境界は一致しないからである。例えば、県主系の男性と秦人系の女性が婚姻すれば、その間に生まれた子は、父母二つの人的ネットワークを持つことになる。その子がどの戸に入り、どの氏姓によって記録されるかは、血統そのものとは別の問題である。さらに、その子が別の集団の人間と婚姻すれば、人的関係はさらに複雑になる。

したがって、半布里社会には「県主」と「秦人」、「秦人」と「勝」、「勝」と「岸」というように、異なる集団の境界を越えて人間関係が形成されていた可能性がある。いわゆる「ハーフ」を単純に人口に加えるという問題ではない。重要なのは、異なる出自を持つ人間が、現実の生活のなかでどのように同じ社会に組み込まれていったかである。

このことを端的に示しているのが、勝安麻呂である。「 御野国加毛郡半布里戸籍|では、勝安麻呂は「寄人」として「敢臣族岸臣目太戸」に記載される。

ここには二重の所属がある。一方では、彼は「勝」という氏族的名称を持つ。しかし、生活・行政上の所属単位としては、岸臣目太の戸に入っている。

すなわち、

氏族としての所属 ≠ 戸籍上の生活単位

である。

これは極めて重要である。「寄人」は戸籍上の些細な付記ではない。むしろ、戸籍が把握しようとしている現実の社会が、単純な血縁共同体として存在していなかったことを示す重要な痕跡なのである。さらに勝安麻呂には、「年五十三、閹人、残疾」という注記がある。53歳という年齢情報だけでは処理できない身体的・社会的条件を持つ人物として、国家は彼を特別に記録している。しかも彼は、自らの「勝」という氏族名を保持しながら、別の氏族の戸に「寄人」として編成されている。

そこには、一人の人間の50年以上の人生が圧縮されている。

彼はどこで生まれたのか。
誰に育てられたのか。
どのような労働をしたのか。
誰と婚姻したのか。
何故、勝氏の戸ではなく岸臣目太の戸に入ったのか。
その過程で、どのような人的関係を形成したのか。
そして、53歳となった時点で、国家は彼をどのカテゴリーに入れて処理したのか。

戸籍には、その人生の大部分は書かれていない。書かれているのは、わずか一行である。しかし、その一行こそが、古代社会の現実を示している。

ここで、戸籍を見る視点を逆転させる必要がある。従来、戸籍は国家が人間を正確に記録した「人口台帳」として理解されがちであった。しかし実際には、国家が把握したいのは、生身の人間そのものではない。

国家が必要としていたのは、

人間 → 戸 → 続柄 → 性別 → 年齢 → 身分・身体状態 → 課役計算

という形に変換された、行政処理可能な情報である。現実の社会には、血縁、婚姻、居住、労働、扶養、主従、移住など、無数の関係が存在する。それを国家は、そのまま記録することができない。

そこで、

  • 誰の戸に属するのか
  • 誰の子なのか
  • 何歳なのか
  • 男か女か
  • 正丁なのか小子なのか
  • 疾病や身体的事情があるのか
  • 寄人なのか

という標準化された情報へ変換する。この意味で、半布里戸籍とは単なる「人間の一覧」ではない。それは、複雑な現実社会を、国家が処理可能なデータへ変換する装置である。

そして、ここで「渡来人」という概念も再検討する必要がある。秦人453人、その他の勝・漢人などを加えた497人、さらに岸=吉士系を加えた507人という数字は重要である。しかし、それは戸籍に明示された氏姓・集団名から直接把握できる人口にすぎない。現実には、婚姻によって人間は集団の境界を越える。

だからこそ、

氏姓から判定できる渡来系人口

と、

婚姻・親子関係を含めた渡来系人的ネットワークに接続していた人口

とは区別しなければならない。

後者は、前者より広い。

さらに、「寄人」のような異姓者を分析すれば、戸という行政単位の内部に、複数の人的集団が組み込まれていた実態が浮かび上がる。

ここに「現場のロジック」がある。

つまり、半布里の人々は、国家が後から付けた「県主」「秦人」「勝」「岸」といったカテゴリーに沿って、完全に分離して暮らしていたのではない。

むしろ逆である。

現実の生活では人々の関係は混ざり合い、国家の戸籍ではそれが再び分類される。

この二重構造こそ、半布里戸籍を読む鍵ではないだろうか。

したがって、半布里戸籍とは何か。

私は、現段階では次のように定義したい。

半布里戸籍とは、異なる出自・氏族・人的集団が婚姻・居住・労働・扶養・寄人関係などを通じて交錯していた地域社会を、律令国家が「戸」という行政単位に再編成し、課役その他の国家的処理が可能な情報へ変換した記録である。

そして、この定義に立てば、「勝安麻呂」は周辺的な一人物ではなくなる。

彼は、

勝という氏族的アイデンティティを持ちながら、岸臣目太戸の寄人として生活する

という、一見矛盾した二重所属を示す。

だからこそ彼は、半布里戸籍という「国家のデータ構造」の内部に、そこへ完全には収まりきらない生身の社会が存在していたことを示す。

戸籍の一行から、私たちが読むべきなのは「何人いるか」だけではない。そこから読み出すべきなのは、

人がどこから来て、誰と結び付き、どこで暮らし、なぜ別の戸に入り、国家によってどのようなカテゴリーに変換されたのか

という、一人ひとりのライフストーリーである。ただし、布里戸籍は、その人生を直接は語らない。しかし、語らないからこそ、記録されたわずかな「氏」「戸」「続柄」「寄人」「年齢」「身体注記」の組合せから、逆にその社会の構造を復元することができる。

半布里戸籍とは、人間を数えた帳簿ではない。人間が生きた複雑な社会を、国家が行政情報へ変換した、その変換過程の痕跡なのである。

勝安麻呂をめぐる三つの記録 ――日本古代宦官存在論のための作業仮説――

 

勝安麻呂をめぐる三つの記録

――「閹人・残疾」を手掛かりとした日本古代宦官存在論のための作業仮説――

はじめに

日本古代史において、「宦官」はきわめて扱いにくい存在である。

中国・朝鮮半島の古代国家では、宮廷、とりわけ後宮を支える制度として宦官が存在したことは周知の事実である。これに対して、日本の律令国家については、しばしば「宦官制度は存在しなかった」と説明される。

しかし、この「存在しなかった」という理解は、果たして「宦官が存在しなかった」ことを積極的に証明した結果なのだろうか。それとも、制度として明確に確認できる史料が少ないことから導かれた理解なのだろうか。

本稿は、この問題を正面から解決しようとするものではない。

一人の人物――勝安麻呂――に注目する。

現在確認できる二種類の史料には、勝安麻呂という同じ名を持つ人物が現れる。

第一は、『御野国加毛郡半布里戸籍』に見える勝安麻呂である。

第二は、平城宮推定造酒司宮内道路南側溝から出土した木簡に見える勝安麻呂である。

さらに重要なのは、第一の戸籍史料における勝安麻呂が、「閹人・残疾」として記載されていることである。

ここから、一つの途方もない作業仮説が成立する。

美濃国加毛郡半布里戸籍に記載された「閹人・残疾」の勝安麻呂と、平城宮の木簡に記載された「勝安麻呂」が同一人物であるならば、後者はかつて宮廷、とりわけ後宮に関係する勤務経験を持った人物であり、老年に達した後、美濃国へ戻った人物ではなかったか。

もちろん、これは証明された事実ではない。むしろ、現段階では証明することのできない仮説である。だからこそ、本稿ではこれを「作業仮説」と呼びたい。

1 第一の史料――『御野国加毛郡半布里戸籍』の勝安麻呂

『御野国加毛郡半布里戸籍』は、古代日本の人口・家族構成・身分・身体的属性などを具体的に知ることのできる極めて重要な史料である。

その中に、

勝安麻呂

という人物が登場する。さらに、この勝安麻呂について重要な情報が付されている。

閹人・残疾

ここで「閹人」は見過ごすことのできない語である。「閹」は基本的には男性を去勢することを意味する。したがって「閹人」は、文字通りには去勢された男性を意味する。

そして中国史上、この「閹人」は単なる身体的特徴を表す語にとどまらず、宮廷、とりわけ後宮に奉仕する男性、すなわち宦官との関係において使用されてきた。

しかし、ここで一足飛びに、

閹人=宦官=宮廷勤務者

と同一視することはできない。この三者は明確に区別しなければならない。「閹人」という語が示すのは、第一義的には身体的状態である。それがただちに日本の律令国家における制度的な「宦官」を意味するとは限らない。したがって、ここで重要なのは、「閹人」という一語だけから宦官制度の存在を結論づけることではない。

むしろ、

なぜ日本の戸籍に、わざわざ「閹人」と記載された男性が存在するのか。

という問いを立てることである。

2 第二の史料――平城宮の木簡に現れる勝安麻呂

もう一つの史料が、平城宮推定造酒司宮内道路南側溝から出土した木簡である。

その記載は、

「縫○御服所請/鯵壱拾陸隻/小鰯一升……
已上四人日料依命婦・宣所請如件
……五月廿二日勝安麻呂……別当史生阿閇」

というものである。ここで注目すべきなのは、木簡の内容だけではない。

末尾に、

五月廿二日 勝安麻呂

とある。

つまり、平城宮という中央宮廷空間において、勝安麻呂という人物が行政的な文書処理に関与していることが確認できる。

しかも木簡は、単純な私的文書ではない。「御服所」「日料」「命婦」「宣」「請」「別当」「史生」など、宮廷内部の物資支給・人員管理・文書処理を思わせる語彙が集中している。

ここで重要なのは、

勝安麻呂という人物が、少なくとも宮廷の業務空間に接続していた

ということである。これだけでも興味深い。しかし、第一史料の勝安麻呂が「閹人・残疾」であったことを重ねると、問題の性格が変わってくる。

3 二つの史料を重ねる

ここで、二つの史料を並べてみよう。

史料勝安麻呂に関する情報
『御野国加毛郡半布里戸籍』勝安麻呂。「閹人・残疾」
平城宮出土木簡勝安麻呂。宮廷関係業務に関与

この二つだけなら、まだ何も断定できない。

最大の問題は当然、

二人の勝安麻呂が同一人物なのか。

ということである。

古代において同名人物が存在することは十分にあり得る。したがって、「勝安麻呂」という名前が一致しただけでは、同一人物説は成立しない。しかし逆に言えば、

同一人物ではないことも、現段階では証明されていない。

ここに研究上の余地がある。そこで、仮に両者を同一人物とした場合、どのような人生像が描けるかを考えてみたい。

4 「ある作業仮説」の提出

仮説として、勝安麻呂の人生を次のように描いてみる。若年期から成年期にかけて、勝安麻呂は美濃国にいた。その後、何らかの経路によって中央へ移動する。そして平城宮において、宮廷内部の業務に従事する。そこで、御服関係の物資、人員、日料などを扱う業務に関係した。さらに年齢を重ねる。やがて五十代に達する。そして宮廷勤務を終え、美濃国へ戻る。

その人物が、戸籍において、

「閹人・残疾」

と記録されている。

もし、この連鎖が成立するならば、極めて重大な問題が浮かび上がる。

それは、

日本の律令国家において、身体的に「閹人」とされた男性が、宮廷内部で勤務していた可能性

である。

さらに一歩進めれば、

日本にも、制度として明確に組織化された「宦官制度」とは別の形で、宮廷における去勢男性の奉仕・勤務が存在した可能性

を考えることもできる。ここが、本作業仮説の最も大胆な部分である。

5 「後宮」という問題

ここで、さらに重要な注意を必要とする。

「平城宮に勤務した」ことと「後宮に勤務した」ことは同じではない。

したがって、

勝安麻呂=後宮勤務者

と断定する史料は、現在のところ存在しない。繰り返すが、肯定も否定もできない史料である。しかし、もし「閹人」という身体的属性を持つ男性が宮廷内部で勤務していたとすれば、次に問うべき場所の一つとして後宮が浮上する。なぜなら、去勢男性が宮廷に置かれることには、単なる身体的理由だけではなく、宮廷女性空間との関係という問題が生じるからである。

そこで仮説を一段階進める。

勝安麻呂は、宮廷、とりわけ後宮に関係する職務に従事していたのではないか。

ただし、これはさらに一段階飛躍した仮説であり、想像だと反論されても、それは率直に応諾する。しかしながら、

史料的事実

→「勝安麻呂」という人物が戸籍と木簡に現れる。

史料的事実

→戸籍の勝安麻呂には「閹人・残疾」という記載がある。

史料的事実

→木簡の勝安麻呂は平城宮の業務に関係する。

ここから先の、

「同一人物である」

「宮廷勤務以前または勤務中に去勢された」

「後宮に勤務した」

という部分は、すべて仮説である。この階層構造を崩すつもりはない。

6 なぜ「老人になって美濃へ戻った」という仮説が重要なのか

ここで、年齢が重要な意味を持ってくる。もし木簡の勝安麻呂と戸籍の勝安麻呂が同一人物であり、戸籍記載時に五十代に達していたとすれば、彼はすでに若い宮廷労働者ではない。五十代は、古代社会において十分に老年性を帯びた年齢である。

そこで、

宮廷勤務

長期間の中央滞在

老年化

美濃国への帰還

戸籍への記載

という人生経路を仮定することができる。ただし、これは立証できない。

しかし、もし成立すれば、戸籍に残された「閹人」という一見孤立した情報と、平城宮木簡の「勝安麻呂」という人物情報が、一つの人生史として結びつく。

つまり、

戸籍は「地方に戻った老年期の勝安麻呂」を記録し、木簡は「中央宮廷で働いていた勝安麻呂」を記録した

という可能性である。これは、単なる同名人物の比較ではない。一人の人物の人生を、地方戸籍と中央宮廷木簡という異なる史料体系から復元する試みになる。

 ところで、ここで、なぜ勝安麻呂が御野国加毛郡半布里に居住するようになったかに関する私の推論も提示しておきたい。『半布里戸籍』には、実は勝安麻呂だけではなく、

  • 不破勝族=不破郡の勝族
  • 各務勝族=各務郡の勝族
  • 宮勝族 =都の勝族

が居住しており、本戸籍内でも、有力氏族である秦氏との間で、例えば、              戸主弟秦小麻呂〈年四十二正丁〉―小麻呂妻勝族百売〈年卅七正女〉             ②中政戸不破勝族金麻呂―戸主妻秦人弥屋売〈年六十正女〉                          のように婚姻関係を結び、集落内の有力氏族秦氏の姻族として一定の勢力を有したに違いない。

 ちなみに、従来、半布里戸籍の総人口1,119人のうち、秦人・秦人部・勝など、氏姓や集団表示から渡来系と考えられる人物は497人と計算されてきた。さらに、私の計算では敢臣族岸臣を吉士・吉志系の渡来人とみなせば、少なくとも10人を加えることができ、直接に渡来系と認定できる人物は507人、全人口の約45.3%となる。しかし、この507人をもって半布里の渡来系人口の「実数」とすることはできないものの、この集落に過半数に近い半島系渡来人が集団で居住し、同じ半島系渡来人である勝安麻呂にとって、親和性があったに違いない。

 仮説の屋上屋を重ねることとなるが、美濃国に川原寺式瓦の分布が1 1 か所におよんでいることを考えると、彼ら半島系渡来人の勢力拡大には壬申の乱が契機となった可能性が高い。各務郡・不破郡に分布する川原寺系寺院はその論功行賞の結果であったと推測する。


7 「宦官制度はなかった」という命題をどう扱うか

ここで、最も慎重にならなければならない。「日本には宦官制度がなかった」という研究上の理解があるとしても、本稿から、

「だから日本には宦官がいた」

と逆転させることはできない。それでは、確実な史料の裏付けないままに、論理が飛躍してしまうからである。そしてすぐさま有識者からの反論の嵐となるだろう。本稿が提起するのは、もっと限定された問題である。

「日本古代には宦官が存在しなかった」という理解を、改めて一次史料から検証する必要があるのではないか。

という問題提起である。「制度としての宦官」と「去勢された男性が宮廷に勤務すること」

は、別問題である。したがって、仮に勝安麻呂が宮廷勤務の「閹人」であったとしても、それだけで日本に中国・朝鮮半島と同じ意味での「宦官制度」が存在したことにはならない。

むしろ興味深いのは、

律令国家は、制度として「宦官」を明記していないにもかかわらず、必要に応じて去勢男性を宮廷労働力として利用していたのではないか。

という可能性である。もしそうならば、それは「宦官制度の有無」という二分法では捉えられない。

8 「制度がない」と「人がいない」は同じではない

ここに、この作業仮説の核心がある。古代国家について、

「制度として規定されていない」

ことと、

「そのような人間が存在しなかった」

ことは、同じではない。

例えば、律令の職制表にある職名と、実際の宮廷現場で必要とされた人員配置が完全に一致するとは限らない。木簡が示すのは、まさにその「現場」である。

そこには、

  • 人名

  • 日料

  • 食料

  • 物資

  • 命婦

  • 別当

  • 史生

などが現れる。つまり、制度史料だけを見ていると見えにくい、

「実際に誰が、何をしていたのか」

という問題が見えてくる。

勝安麻呂についても同じである。

もし彼が実際に宮廷で働いていたのであれば、律令の制度表に「宦官」という名称が存在するかどうかとは別に、

「閹人である男性が宮廷業務に組み込まれる」という実務上の現象

が存在した可能性がある。

9 「妄想」と批判された場合、どう答えるか

この仮説には、当然ながら大量の反論が可能であると予想している。

「同名異人ではないか」

「閹人だからといって宦官とは限らない」

「木簡から後宮勤務は確認できない」

「美濃へ戻ったことも証明できない」

「そもそも二つの史料を結びつける根拠が弱い」

など。すべて正しいと私自身も全面的に同意し、本稿はこれらを否定しない。

むしろ、これらの反論を受け入れたうえで仮説を提示する。

本稿は、勝安麻呂が宦官であったことを証明するものではない。

異なる史料に現れる勝安麻呂を同一人物として仮定した場合、「閹人・残疾」という記載が、平城宮における彼の存在とどのように結びつくのかを検討する作業仮説である。したがって、これは結論ではない。また、「日本古代に宦官制度が存在した」という主張でもない。

むしろ、

既存の「日本古代に宦官は存在しなかった」という理解を、もう一度一次史料から検証するための、史料探索上の仮説

なのである。

そして、ここが重要である。仮説が証明できないことと、仮説に研究上の価値がないことは同じではない。優れた作業仮説は、答えを与えるためだけに存在するのではない。

それまで見えていなかった史料を、

「ひょっとすると、ここに関係する史料があるのではないか」

という目で探すために存在する。

10 この仮説から何を探すべきか

この仮説を採用するなら、次に探すべき史料は明確になる。

第一に、勝氏・勝安麻呂の系譜資料である。

第二に、美濃国の戸籍・計帳類を再検討し、勝安麻呂とその家族・年齢・居住地・身分関係を確認する。

第三に、平城宮木簡を「勝安麻呂」という文字列だけで検索する。

第四に、勝氏・渡来系氏族と宮廷勤務との関係を調べる。

第五に、「閹」「閹人」「宦」「残疾」などの語を、正倉院文書・木簡・戸籍・計帳・令集解・古記録全体から横断的に検索する。

第六に、後宮関係の木簡・正倉院文書において、去勢男性を示唆する記載がないかを再検討する。

そして第七に、

「宦官」という制度名を探すのではなく、「閹人が何をしていたか」を探す。

これが最も重要な将来プランであり、研究戦略になるだろう。

11 この仮説が本当に面白い理由

この仮説の面白さは、「日本にも宦官がいた」というセンセーショナルな結論そのものにはない。むしろ、

「古代国家の制度と、実際にそこで働いていた人間との間にズレがあったのではないか」

というところにある。律令は国家の設計図である。しかし木簡は、国家が実際に動いていた現場の記録である。そして戸籍は、その人間が地方社会の中でどのように登録されていたかを記録する。

もし、中央の木簡地方の戸籍が、一人の「勝安麻呂」によって接続できるならば、それは極めて興味深い。

一人の人物を媒介として、

宮廷 ― 官司 ― 労働 ― 身体 ― 移動 ― 地方社会

が一本の線で結ばれるからである。

そして、その線の途中に、

「閹人・残疾」

という、これまで十分に掘り下げられてこなかった身体情報が存在する。

おわりにかえて――「証明」ではなく「探索の起点」として

勝安麻呂について、現段階で確実に言えることは限られている。戸籍に「勝安麻呂」が存在し、「閹人・残疾」と記載されている。また、平城宮出土木簡に「勝安麻呂」が現れ、宮廷関係の業務に接続する。これ以上を確実な事実として語ることはできない。

しかし、二つの史料を同一人物と仮定した瞬間、歴史像が変わる。そこには、

美濃の男性

中央への移動

平城宮での勤務

宮廷・後宮との関係?

老年期

美濃への帰還?

戸籍への登録

「閹人・残疾」

という、一人の人物の人生を想定することができる。もちろん、その多くはまだ空白であるり、正共に空白であり続けるかもしれない。しかし、歴史研究において重要なのは、空白を想像で埋めることではない。

どの空白に、どの史料を探せばよいのかを示すことである。

したがって、本稿の立場は明確である。

本稿は、勝安麻呂が宦官であったことを証明するものではない。

異なる史料に現れる勝安麻呂を同一人物として仮定した場合、「閹人・残疾」という記載が、平城宮における彼の存在とどのように結びつくのかを検討する作業仮説である。

そして、

これは結論ではなく、既存の「日本古代に宦官は存在しなかった」という理解を再検討するための、史料探索上の仮説である。

この意味で、この仮説の価値は、証明の確実性にあるのではない。

むしろ、

「閹人」という一語を、戸籍の片隅に置かれた特殊な身体情報として終わらせず、平城宮という国家中枢で働いた可能性のある一人の人物の人生と結びつけて考えてみること。

そしてそのことによって、

「日本古代には宦官はいなかった」という、あまりにも自明視されてきた命題そのものを、もう一度史料の側から問い直すこと。

そこに、この「ささやか作業仮説」の本当の意味がある。