2026年9月5日土曜日

データシステム・ガバナンスの観点から見た『出雲国計会帳』調査

 *『計会帳』は、地方官司(出雲国庁)と中央官司(太政官・各省)、あるいは隣接国との間で交わされた公文書(移・符・解)の送受信ログ(通信履歴データベース)です

 一般的な「公文書の授受を確認・監査するため」という説明ではなく、データシステム・ガバナンス・国家機構の内部動機の観点から、「なぜ中央(太政官)は各国にこの超高コストなログ提出を命じたのか」を分析した調査が次の通りである。

2026年9月4日金曜日

平城宮出土「縫殿・御服所請」木簡の研究ーー人名構造・命婦権限・物資供給システムを中心として――

 

 本稿の目的は、平城宮推定造酒司出土木簡(6AADOB15000104)の釈読を試みることにある。この試論を通して、官司・人名・物資の構造化、さらには『延喜式』等の文献史料や他出土木簡との高度な比較・横断に至り、史料の細部(文字解読)からマクロな問題(律令国家の物資管理・情報処理システム)へと論点を深めることで、いささかでも木簡古代史研究に貢献したいと願うからだる。

 

平城宮出土「縫殿・御服所請」木簡の研究――人名構造・命婦権限・物資供給システムを中心として――

1 はじめに

本稿で取り扱うのは、平城宮推定造酒司宮内道路南側溝より出土した以下の木簡(奈良文化財研究所『木簡庫』ID: 6AADOB15000104)である。

【史料(釈読文)】

(面A)縫御服所請/鯵壱拾陸隻/小鰯一升

(面B/安倍庭女都努稗田/石川尾張安倍藤子∥○已上四人日料依命婦・宣所請如件

(面C五月廿二日勝安麻呂\別当史生阿閇

本木簡は、古代宮廷における女性労働力への食糧(日料)支給と、それをめぐる官司・命婦の行政手続を示す極めて高度な情報を含んでいる。以下、本史料を9つの視角から精査し、最終的に古代の行政実務・物資供給システムの中へ再位置づけを試みる。

 

2 史料の解析と構造化

1視点:一次史料の表記単位抽出

木簡の墨書文面を、行政的意味を持つ単位(語・句・行政語彙・人名・数量)ごとに分割・構造化する。

  • 【第1群:請求命令・物資】
    • 御服所請(請求官署・部署)
    • 鯵壱拾陸隻(物品・数量)
    • 小鰯一升(物品・数量)
  • 【第2群:対象者・支給根拠】
    • 安倍庭女/都努稗田/石川尾張/安倍藤子(支給対象者4名)
    • 已上四人日料(支給目的:日給・食糧)
    • 依命婦・宣所請(法的・行政的手続根拠)
  • 【第3群:日付・担当官吏】
    • 五月廿二日(発給日)
    • 勝安麻呂(実務担当者)
    • 別当(決裁)/史生阿閇(木簡墨書記入官人)
    •  

2視点:語彙の機能別分類

上記抽出語彙を機能別に再整理し、文書の基本的性格を把握する。

  1. 行政語彙: 御服所、日料、依命婦・宣、所請、別当、史生
  2. 人名語彙: 安倍庭女、都努稗田、石川尾張、安倍藤子、勝安麻呂、阿閇
  3. 数量・物資語彙: 鯵壱拾陸隻、小鰯一升、已上四人

この分類から、本木簡の主目的が「特定の女性勤労者4名に対し、命婦の宣(伝達・命令)に基づき、しかるべき官司から日料(副食品としての魚介類)を請求・支給した行政請書(請求木簡)」であることが判明する

3 人名構造と「命婦」の行政機能分析

3視点:女性名の構造分析(氏族名+識別マーカー)

本木簡に登場する4名の女性名は、「氏族名 + 識別名(職名・地名・植物名等)」という統一的な法則性をもって構成されている。

  • 安倍庭女(あべ の にわめ):
    • 「安倍」氏 +「庭女(宮廷の雑役・清掃等を担う女性労働者)」。大和国安倍郡を本拠とする安倍氏、あるいは伊勢国安濃郡等の出仕女性か。職名がそのまま固有名の識別に用いられている。
  • 都努稗田(つの の ひえだ):
    • 「都努(角・都濃)」氏 +「稗田(農耕・雑穀名)」。都努氏は周防国都濃郡を本拠とし、天武13年(684)に朝臣姓を賜った氏族(『古事記』『倭名類聚抄』等に散見)。采女あるいは宮廷に出仕する同氏出身の女性と考えられる。
  • 石川尾張(いしかわ の おわり):
    • 「石川」氏 +「尾張(地名・国名)」。近江系石川氏の一支族が尾張あるいは美濃方面に居住・縁故を持っていた可能性を示す。
  • 安倍藤子(あべ の ふじこ):
    • 「安倍」氏 +「藤子(藤原氏等と縁故・系統名)」。

このように、律令宮廷における女性下級労働者の命名体系は、単なる個人名ではなく「出身氏族の統制」と「職務・出身地等の識別マーカー」の組み合わせというシステムのもとに管理されていたことが窺える。

 

4視点:命婦の行政的統括権限

文中の「依命婦・宣所請」は、歴史学的に極めて重要である。

これは、宮廷の上級女官である「命婦」が、庭女ら下級女性勤労者(ワーカー)4名の「日料」支給に関する伝達・指示(宣)を発し、それに基づいて実務官司が物資を請求した手続きを示している。

  • 命婦は単なる名誉職ではなく、女性労働力(庭女・采女等)の現場統括者であった。
  • 命婦は宮廷物資の配分に関して「発議・給与請求の行政権限」を行使していた。
  •  

5視点:統治構造のモデル化

本木簡が示す女性労働管理と物資支給の構造は、以下のようにモデル化できる。

 

4 官司復元と物資循環・サプライチェーンの展開

6視点・第9視点:欠字復元と官司の性格(「縫御服所」)

冒頭の「縫御服所請」の欠字「」については、律令官庁の体系から「縫殿(ぬいでん/ぬいづかさ)」あるいは「縫司」の表記が充当される可能性が高い(「縫殿御服所」など)。

宮内省被管の「御服司」は、袞冕・冠服・宝髻衣など天皇・宮廷の正式な被服・素材管理を担当する専門官司である。本木簡において「御服司」ではなく「御服」と表記されている点は、法令上の官司名称というより、現場の実務作業所・部署名として現場官吏(史生等)の間で常用されていた用語であることを物語る。

なお、本木簡が「造酒司」周辺の溝から出土した理由は、造酒司周辺が宮廷内における食料・日料の支給拠点(人給所的機能)に近接しており、衣服製作・管理に従事する女性たちの食料調達手続き文書が同地で処理・棄てられたためと解釈できる。

 

7視点・第8視点:衣服製作から「国家的サプライチェーン」への拡張

「御服所」の機能を単なる服飾製作として狭義に捉えるのではなく、「原材料・労働力・情報の管理機構」として再定義する必要がある。

御服の調達には、絹・布・綿のみならず、染色用の「紫草」などの原料が大量に消費される。『延喜式』民部省式「交易雑物」条等を分析すると、東国(常陸3,800斤、相模3,700斤、武蔵3,200斤等、全20,400斤中約79%)および大宰府管内(5,600斤)、九州南部(日向・大隅)から広域的に紫草が正税取引・貢進を通じて平城京へ流入していた。

すなわち、古代律令国家においては、以下の巨大な国家的サプライチェーン(物資循環システム)が確立されていた。

本木簡に記された「鯵16隻・小鰯1升」という小さな日料請求は、この巨大な国家的サプライチェーンの最末端において、現場の女性労働者たちを維持・駆動させるための実務的エネルギー給付の記録にほかならない。

 

5 出土類似木簡との比較(付記データの統合)

他遺跡出土木簡との比較(『木簡庫』検索データ)により、本木簡の物資・人名表記の位置づけがより明瞭となる。

  1. 「鯵(アジ)」表記:

長岡京出土木簡や平城京長屋王邸出土の「山田郡贄阿遅」等の例があり、摂津国住吉郡や讃岐国等からの貢進・交易品として宮廷に蓄積され、日料等の人給用に払い出されていたことが確認される。

 

  1. 「鰯(イワシ)」表記:

藤原京出土の「与射評大贄伊和(志)」や若狭国青郷の「青郷御贄伊和志腊」、長屋王邸木簡などに頻出する。特に「人給所請鰯肆拾隻」(平城宮出土)や「轆轤所請鰯」など、宮廷内の特定作業所・労働者への給与(人給・湯料)として鰯が一般的に多用されていた実態と、本木簡の「小鰯一升」は完全に一致する。

 

  1. 担当者「勝安麻呂」の背景:

発給に関与した「勝(すぐり)」姓の勝安麻呂は、渡来系氏族の技術的・実務的官吏であり、こうした末端行政実務・帳簿管理の現場に渡来系実務官人が深く組み込まれていた状況を力証している。

 

6 結論(テキスト復元案の提示)

以上の多角的分析を踏まえ、本木簡の全体像および本来の行政的文脈を以下のように再構成・復元する。

【平城宮出土「縫殿・御服所日料請求木簡」復元文】

(面A:物資・請求)

殿御服所請 鯵壱拾陸隻 小鰯一升

(面B:対象者・行政根拠)

安倍庭女 都努稗田 石川尾張 安倍藤子

已上四人日料 依命婦宣所請如件

(面C:日付・署名)

五月廿二日 勝安麻呂

別当 史生阿閇

本論考のまとめ

本木簡は、単なる「魚類の請求書」ではない。

  1. 宮廷女性労働者の管理: 氏族名と識別コードによる人名管理システムの存在。
  2. 女性行政権限: 命婦という上級女官が持つ「宣」を通じた物資動員・給与発議権限。
  3. 行政実務と物資循環: 地方から中央へ流入する貢物・物資が、御服所という実務拠点を通じ、最末端の現場労働者(庭女)の日料へ分配されていく律令国家情報・物資処理システムの凝縮。

本木簡の分析は、法令上の組織図(制度史)にとどまらない、「現場で情報と物資がいかに処理されていたか」という古代行政実務史の具体相を鮮やかに証明する一級の史料である。

残された課題も多い。なによりも、なぜ命婦は4名の采女らに褒章として「鯵と鰯」を与えたのかという問題も解明されなくてはならないが、後日に回したい。

論評③バージョン「平川南「古代における里と村――史料整理と分析」ーー「現場のロジック」の観点からのコメント

 

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」論評

――制度論から行政実務・情報編成史への展望――

1.はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、2003年)は、古代日本における地方行政機構の末端をめぐる「里」と「村」の関係性について、史料上の用例と時期的変遷を精緻に検証し、長年の研究史に画期をなした論考である。

従来の律令国家論・地方行政史研究においては、「国―郡―里」という法令上の行政階層構造をそのまま基盤とし、「里=制度的単位」「村=その下位に位置する自然集落」とする階層的理解が支配的であった。これに対し平川氏は、豊富な古代史料における「村」表記の網羅的抽出と実態分析を通じ、両者の成立史的乖離と併存構造を明らかにし、固定化された行政階層モデルの相対化を果たした。

しかしながら、平川論文による「里」と「村」の概念整理は、決して当該領域における問いの完結を意味するものではない。むしろ同論文の真の学術的価値は、「村とは制度上いかに位置づけられるか」という従来の構造史・制度史的所見から、「村において国家行政はいかなる実務を展開していたか」という行政実務史・情報処理史的課題へ、研究の地平を不可逆的に推し進めた点にこそ求められるべきである。

本稿では、平川論文が到達した史学史的意義を厳密に再確認した上で、同論文が拓いた地平の先に残された課題について、「行政実務」「情報生成」「人的媒介」の三点から論理的展開を試みたい。

2.平川論文における学術的到達点

平川論文が達成した主要な学術的貢献は、以下の三点に集約される。

(1)律令行政階層モデルの相対化

第一に、律令法規に規定された「国―郡―里」という公式な統治構造と、地域社会における現実の社会編成とを直ちに同一視する姿勢を否定した点である。平川氏は、歴史的展開としてまず地域社会の基盤たる「村」が自律的に成立し、国家がそれを包摂・編制する過程で五十戸単位の「里」が導入されたという動態的モデルを提示した。これにより、「村」を「里」の単純な下位行政区分とみなす静的理解は排され、両者の複合的・重層的関係が立証された。

(2)史料論的手法による「村」の多様性の実証

第二に、「村」という概念に対する演繹的な抽象定義を避け、木簡や金石文、正倉院文書等を含む古代史料群において、いかなる文脈・時期・地域で「村」表記が出現するかを実証的に追跡した点である。史料上に立ち現れる「村」の多様性・多義性そのものを歴史的事実として把握する史料論的態度は、制度的ドグマに陥りがちであった既存の村落史研究に強い警鐘を鳴らした。

(3)歴史的動態としての重層構造の提示

第三に、「村の成立 → 五十戸編成による里の設置 → 里と村の併存」という一連のプロセスを想定した点である。これにより、「里」と「村」の関係は静的な行政組織図上の関係から、国家的行政編制が地域社会の既存構造と接触・折衝する過程で生じた重層的統治構造として再定立された。

3.制度史から「現場史・情報史」への課題の転換

平川論文が提示した最大の示唆は、律令国家の地方支配を上からの法令規定のみで説明することの限界を可視化した点にある。

古代国家が既存の「村」という社会体・地理的単位を置換・解体することなく、それを前提として行政編制を重ね合わせたとするならば、次に究明されるべきは、「国家行政は制度単位ではない『村』という現場を、いかなる具体的技法をもって補足し、動員・機能させていたのか」という実務的問いである。

平川論文の成果を継承し、さらに深化させるためには、以下の三つの分析視角が要求される。

(1)「存在形態論」から「実務機能論」への移行

史料上の「村」は、単なる地理的集落や居住単位にとどまらず、人件の把握、土地・生産物の登記、租税・出挙の徴収、徴発労働力の編制、治安および移動管理など、国家行政が発動される具体的な接触面であった。すなわち「村」とは、国家が地域実態を把握し、行政力を貫徹させるための「実務執行の最前線」として再定義されるべきである。

(2)「行政情報の生成・一次集約地点」としての再再考

律令国家における情報伝達系は、「地域社会(村) → 郡家 → 国府 → 中央官司」という多段的結節点を有する。中央および国府が必要とする各種行政データ(戸籍・計帳草案、正税・郡稲の管理データ、徴発名簿等)の原初的情報は、まさに「村」の現場において採取・生成されたはずである。したがって、村を単なる行政組織の端末とみなすのではなく、「生の社会的情報が行政文書・木簡等のデータへと一次変換される拠点」として捉え直す視角が不可欠となる。

(3)「村」と「郡」を結ぶ階層間媒介機構の解明

「村」が行政情報の生成地点であり、行政命令の執行現場であったならば、それら情報および命令を郡家との間で往還させた媒介者の存在が前提とされる。ここで問われるべきは、刀禰(とね)をはじめとする村落首長層や在庁的実務者の歴史的機能である。これは平川論文の欠陥を指摘するものではなく、平川氏が「村」を固定的な制度枠から解放したからこそ明確化された、階層間接続機構をめぐる不可避の研究課題と言える。

4.おわりに――「村」の三層構造モデルと展望

以上の考察に基づき、古代における「村」の歴史的実態は、以下の三層構造モデルとして捉え直すことが可能となる。

  1. 第一層:社会的・空間的実体としての村(生活・居住・共同生産の場)

  2. 第二層:行政情報の発生・変換拠点としての村(実務的データが採取・確認される現場)

  3. 第三層:広域行政ネットワークの末端結節点としての村(郡家・国府との間で命令・情報が還流する接続点)

「村は制度的行政単位ではない」という命題と、「村は国家統治にとって実質的に不可欠な拠点であった」という命題は矛盾しない。むしろ、法制上の公式単位ではないからこそ、国家行政が現実の地域社会に着地し、情報を吸い上げるための実務的『接点』として機能したという歴史的逆説が浮き彫りとなる。

結論として、平川南「古代における里と村」は、村落史研究を完結させた著作というよりも、制度史の枠組みを相対化し、古代国家の「行政実務史」「情報編纂・処理史」という新たな領域へと研究を押し進めるための確固たる出発点を構築した論考として高く評価されるべきである。

今後は、木簡・帳簿草案・郡符・正税帳などの多様な一次史料をこの「情報処理・実務」の文脈に再位置づけ、分析を加えることによって、古代国家と地域社会が交錯する現場の具体相が、より鮮明に解明されることが期待される。

論評②バージョン「平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」

 平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」論評

――制度論から行政実務・情報処理史への展開――

1 はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、2003年、45―74頁)は、古代日本の地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」の関係をめぐり、史料別の用例と時期的変遷を精緻に整理した論文である。

従来の研究では、「里=制度上の単位」「村=その下位の集落」といった単純な階層モデルで語られることが多かった。これに対し平川氏は、両者の成立史と史料上の表記の実態を検証することで、固定的な理解を相対化した。

しかし、平川論文によって「里」と「村」の関係性が再整理されたからといって、問題が完結したわけではない。むしろ、本論考の真価は「村とは制度上何か」という制度史の問いから、「村では実際に行政の実務として何が行われていたのか」という行政実務史・情報処理史の問いへと、研究課題を一段推し進める地点にこそ存在する。

本論評では、平川論文の到達点を確認した上で、そこに残された課題を行政実務・情報処理・人的媒介という観点から検討したい。

2 平川論文の基本的到達点

平川論文の学術的貢献は、主に以下の3点に要約される。

  1. 行政階層モデルの相対化

    律令制の「国―郡―里」という公式な行政組織をそのまま地域社会の実態と同一視することに慎重な姿勢を示した。「村」の成立を基礎として「里(五十戸編成)」が構築された歴史的過程を提示し、「里」と「村」の併存構造を明らかにした。

  2. 史料論的アプローチによる「村」の多様性の解明

    「村」という語に固定的な意味を与えるのではなく、どのような時期・文脈・史料に「村」が表れるのかを丹念に追跡した。その結果、「村」という表記が持つ歴史的な多様性そのものを実態として捉える視座を確立した。

  3. 歴史的過程としての「里と村」の把握

    「村の成立 → 村を基礎とする五十戸編成(里の成立) → 里と村の併存」という動的なプロセスを想定した。これにより、地域社会と国家的行政編成との接触によって生じた「重層構造」として両者を捉える道を開いた。

3 制度史から「現場史」への視点転換

平川論文の真の意義は、律令国家の地方行政を法令上の制度図のみで理解することの限界を提示した点にある。

国家行政は既存の地域社会を消滅させたのではなく、村という既存のまとまりを包摂・利用しながら重層的行政網を築いた。ならば、次に問われるべきは「制度単位ではない村を、国家行政は具体的にどのように利用・動員したのか」という問題である。

4 研究課題の拡張――行政情報の生成地点としての「村」

平川論文の成果を継承・展開するために、以下の3つの問いを提起したい。

(1) 「存在形態」から「行政機能」へのシフト

史料に登場する村は、戸籍・計帳の作成、土地や生産物の把握、租税・出挙の徴収、労働力・交通の管理など、国家行政が欲する多様な情報が交錯する場であった。村は単なる「地理的集落」ではなく、国家が地域社会を把握するための「情報取得の拠点」として機能していたと考えられる。

(2) 行政情報の生成・変換地点としての再定義

律令国家の情報伝達は「地域社会(村) → 郡 → 国 → 中央」という段階を経る。村で発生した原情報(人件・土地・物産など)は、どこで、誰によって、いかなる形式(木簡や帳簿草案等)に変換され、上位機関へ送られたのか。村を行政組織図の末端としてではなく、「行政情報が生成・一次集約される現場」として再定義する必要がある。

(3) 「村」と「郡」を結ぶ人的媒介機構

村が情報の生成地点であったなら、それを郡家へ届ける存在、あるいは郡からの命令を村へ伝達・執行する存在が必要となる。ここで登場するのが、刀禰(とね)や村の首長層といった「行政と地域を接続する媒介者」である。これは平川論文の欠陥ではなく、平川氏が「村」を固定的な制度から解放したからこそ開かれた、新たな研究領域である。

5 結論――「村」の三層モデルと今後の展望

以上の考察から、古代における「村」は以下の三層構造として立体的に捉え直すことができる。

  • 第一層:社会的実体としての村(人々の生活・居住・生産の場)

  • 第二層:行政情報の生成地点としての村(実務的な情報が発生・確認される現場)

  • 第三層:上位行政機構との接続地点としての村(郡・国との間で情報や命令が交わされるネットワークの末端)

「村は制度的な行政単位ではない」という事実と、「村は国家行政にとって極めて重要であった」という事実は矛盾しない。制度上の単位ではないからこそ、村は国家行政が現実の地域社会に着地するための実務上の「接点」として機能したのである。

平川南「古代における里と村」は、村の研究を完結させた金字塔というよりも、村を制度史の呪縛から解き放ち、行政実務史・情報史へ足を踏み出すための偉大な出発点として評価されるべきである。

今後は、木簡・帳簿・郡符・戸籍・計帳・正税帳などの多角的史料をこの「実務・情報」の観点から再検証することで、古代国家と地域社会が交差する現場の実相を、より鮮明に復元できるはずである。

論評①バージョン 平川南「古代における里と村――「村」を制度単位から行政実務の場へ再定位するために」

 

論評 平川南論文「古代における里と村」

――「村」を制度単位から行政実務の場へ再定位するために」


1 はじめに

平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」は、『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集(2003年、45―74頁)に掲載された論文である。

本論文の出発点は、古代日本の地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」の関係が、長い研究史を有するにもかかわらず、なお明確にされていないという問題認識にある。平川は、その原因を、従来の研究において「里」と「村」の時期的変遷と史料別の検討が十分に整理されてこなかったことに求める。

平川論文の重要性は、ここから「里」と「村」を単純な上下関係として捉えるのではなく、両者が成立した歴史的過程と、史料における表記の実態を一つずつ検証した点にある。

しかし、平川論文によって「里」と「村」の関係が整理されたからといって、問題が終わったわけではない。

むしろ逆である。

「村が何であったのか」という制度史上の問題から、「村では実際に何が行われていたのか」という行政実務史上の問題へ、研究課題を一段進める必要がある。

本論評では、まず平川論文の到達点を確認し、そのうえで、そこからなお残されている問題を、行政実務・情報処理・人的媒介という観点から検討したい。

2 平川論文の基本的到達点

(1)「里」と「村」を固定的な行政階層として捉えない

平川論文の第一の功績は、「国―郡―里」という律令制の行政組織を、そのまま現実の地域社会の構造と同一視することに慎重な姿勢を示した点にある。

平川によれば、歴史的過程としては、まず各地域に「村」が成立し、その村のまとまりを基礎として各戸を五十戸に編成し、行政単位として「里」が成立した。そして、その結果として「里」と「村」が併存する状況が生じたと考えられる。

ここから重要な帰結が導かれる。

すなわち、史料に現れる「村」を、律令制上の「里」の単純な下位区分として理解することはできない。

「村」と「里」は、成立時期も性格も異なる可能性があり、その後の史料において両者が併存するため、個々の史料を検討しなければ、その関係を確定できないのである。

これは、「里=制度」、「村=その下位」という単純な行政階層モデルを相対化する重要な成果である。

(2)「村」の実態を史料の用例から再構成する

第二の功績は、「村とは何か」を抽象的に定義するのではなく、古代史料の中で、どのような場合に地名が「村」と表記されるのかを検討するという史料論的手法を採用したことである。

この方法は重要である。

「村」という言葉が存在する以上、そこに制度上の固定された意味を与えるのではなく、

どの史料に、
どの時期に、
どのような文脈で、
「村」という表記が現れるのか

を確認する必要があるからである。

したがって平川論文は、「村」という語の意味を一つに固定することよりも、史料に現れる「村」の多様性そのものを歴史的事実として把握する方向を示した論文と評価すべきである。

(3)「里と村」の関係を歴史的過程として捉えた

この点は、本論評において特に高く評価したい。

平川論文は、「里」と「村」が最初から並列的に存在したと考えるのではなく、

村の成立 → 村を基礎とする五十戸編成 → 里の成立 → 里と村の併存

という歴史的過程を想定する。

この見方によって、「里」と「村」の関係を静的な行政組織図ではなく、地域社会と国家的行政編成との接触によって生じた歴史的な重層構造として理解する道が開かれた。

この点に、平川論文の理論的な強さがある。


3 平川論文の意義――制度史から現場史へ

平川論文をさらに大きな研究史の中に置いてみると、その意義は「里と村の関係を整理した」ということだけではない。

それは、律令国家の地方行政を、法令に記された行政組織図だけから理解することの限界を明らかにした点にある。

律令制を、

国 → 郡 → 里

という上から下へ向かう行政組織として理解すると、村は制度図の中にうまく位置づけられない。

しかし、実際の地域社会には村が存在し、その村を基盤として里が編成されたのであれば、国家の行政制度は、既存の地域社会をそのまま置き換えたのではなく、地域社会の既存のまとまりを利用しながら行政的編成を重ねたと考える必要がある。

ここに、平川論文の大きな意義がある。

ただし、ここで一つの問題が生じる。

それは、

村が国家行政の「制度単位」ではないとして、では国家行政は村を具体的にどのように利用したのか。

という問題である。

私は、この問いこそ平川論文の次に置くべき研究課題だと考える。


4 平川論文からさらに問うべき問題

(1)「村とは何か」から「村で何が行われたか」へ

平川論文の最大の成果は、村を単純に「里の下位区分」とする理解から研究を解放したことである。

しかし、その成果をさらに進めるならば、次に問うべきなのは、

「村は何をする場所だったのか」

という問題ではないだろうか。

たとえば、村が史料に登場する場合、

  • 人口の把握
  • 土地の把握
  • 生産物の把握
  • 租税・出挙などの把握
  • 労働力の把握
  • 交通・移動の把握
  • 命令の伝達

など、国家行政が必要とするさまざまな情報と接触している可能性がある。

そうであるならば、村は単なる「地理的集落」ではなく、国家が地域社会を把握する際の情報取得の場として機能していた可能性がある。

ここには、平川論文とは異なる研究視角が開かれている。


(2)「村」を行政情報の生成地点として考える

ここからさらに一歩進めたい。

律令国家の行政は、中央政府が地方を直接見ることによって成立していたのではない。

中央が必要とする情報は、

地域社会 → 村 → 郡 → 国 → 中央

という複数の段階を経て、行政情報へと変換されたはずである。

したがって、「村」を考える際には、

村は行政組織のどこに位置するか

だけではなく、

村で発生した情報が、どこで、誰によって、どのような形式に変換され、上位機関へ送られたのか

を問う必要がある。

この観点から見ると、「村」は行政組織図の一項目ではなく、行政情報の生成・確認・集約が行われる現場として再定義できる可能性がある。

これは、平川論文を否定するものではない。

むしろ、平川論文が「村」を固定的な制度単位から解放したことによって、初めて可能になる次の段階の研究である。


5 「村」と「郡」の間を誰が結んだのか

この問題から、さらに人的媒介の問題が生じる。

もし村が行政情報の生成地点であったなら、その情報は誰によって郡へ届けられたのか。

また、郡から村へ命令が伝達される場合、その命令は誰によって実施されたのか。

ここで重要になるのが、刀禰などの地域社会と行政機構を接続する人的存在である。

ただし、この点を「平川論文の欠点」と単純に断定するのは適切ではない。

平川論文の主題はあくまで「里」と「村」の関係の史料整理と分析であり、人的媒介機構そのものを体系的に論じることが論文の第一の目的ではないからである。

したがって、より正確には、

平川論文によって「村」の位置が再検討された結果、次の研究課題として、「村」と「郡」を接続する人的・行政的媒介機構を明らかにする必要が生じた

と評価すべきである。

これは「批判」というより、平川論文から導かれる研究課題の拡張である。


6 平川論文を越えて――「村」を行政システムの中で捉える

以上を踏まえると、「村」を次のような三つの層に分けて考えることができる。

第一層 社会的実体としての村

人々が居住し、土地を耕作し、生産活動を行う地域社会としての村。

第二層 行政情報の生成地点としての村

人口・土地・生産・租税・労働など、国家行政が必要とする情報が発生し、確認される現場としての村。

第三層 上位行政機構と接続する地点としての村

村で把握された情報が郡・国へ集約され、逆に郡・国からの命令が村へ伝達される行政ネットワークの末端としての村。

この三層を区別するならば、「村は制度的な行政単位ではない」という命題と、「村は国家行政にとって重要であった」という命題は矛盾しない。

むしろ、

制度上の単位ではないからこそ、国家行政が現実の地域社会に接続するための重要な現場になった

という逆説が見えてくる。


7 平川論文への評価

以上から、平川論文の評価は、当初の草稿よりも少し違った形で提示するのが適切である。

平川論文の第一の功績は、「村」を律令制の行政階層の中に無理に位置づけるのではなく、その成立過程と史料上の用例を分析することによって、「里」と「村」の重層的な関係を明らかにしたことである。

第二の功績は、「里」と「村」を静的な制度概念ではなく、時期差・地域差・史料差を伴う歴史的存在として捉えたことである。

第三に、その成果によって、律令国家の地方行政を「国―郡―里」という制度図だけでは捉えきれないことが明確になった。

しかし、その先には新たな問題が残されている。

それは、

「村が制度上どこに位置するか」ではなく、「村が律令国家の行政実務の中で何をしていたのか」

という問題である。

この問いに答えるためには、「村」の用例分析だけではなく、木簡・帳簿・命令文書・人名資料などを相互に組み合わせ、村で発生した情報がどのように収集され、確認され、集計され、郡・国へ送られたのかを復元する必要がある。

8 結論――平川論文を「終点」ではなく「出発点」として

平川南「古代における里と村」は、「里」と「村」の関係をめぐる従来の固定的な行政階層モデルを再検討し、村の成立と里の編成、両者の併存という歴史的過程を提示した重要な研究である。

その意義は、単に「村は里の下位単位ではない」と指摘したことにとどまらない。

むしろ重要なのは、律令国家の行政を、制度として上から見るだけではなく、地域社会の側から見直す必要性を明らかにしたことにある。

しかし、ここで研究を止めるべきではない。

平川論文が明らかにしたのは、

「村がどのように存在していたのか」

という問題である。

これに対して、次に問うべきなのは、

「村で国家行政が何をしていたのか」

である。

さらに、

「村で収集された情報は、誰によって、どのように加工され、郡・国の行政文書へ組み込まれたのか」

という問題へ進むことができる。

この視点に立てば、「村」は単なる地理的集落でも、律令制の行政組織図に収まらない例外的存在でもない。

それは、地域社会と国家行政とを接続する実務上の接点、すなわち行政情報が生成される現場として捉え直すことができる。

したがって、平川論文は「村」の研究を完成させた論文というよりも、むしろ「村」を制度史の枠から解放し、行政実務史・情報史へと研究を進めるための重要な出発点を築いた論文として評価すべきである。

そして、この方向から木簡、帳簿、牓示札、郡符、戸籍・計帳、正税帳・郡稲帳などを再検討すれば、「村」という存在が古代国家の行政システムの中で果たした具体的役割を、従来とは異なる角度から復元できる可能性がある。