1)要約
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)
上海上国造:古墳規模最大、王権との接触最も早い
下海上国造:上海上の南側に派生
武社国造:王権が意図的に「中央にくさびを打ち込んだ可能性」
菊麻国造:地域勢力の自立
1)要約
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)
上海上国造:古墳規模最大、王権との接触最も早い
下海上国造:上海上の南側に派生
武社国造:王権が意図的に「中央にくさびを打ち込んだ可能性」
菊麻国造:地域勢力の自立
相模国司リスト(『続日本後紀』版)
1,《承和元年(八三四)正月癸亥【十二】》 「參議從四位上藤原朝臣常嗣爲兼相摸守右大辨如故。」
2,《承和元年(八三四)正月丁卯【十六】》「參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上」
3,《承和元年(八三四)正月庚午【十九】》 「是日。任遣唐使。以參議從四位上右大辨兼行相摸守藤原朝臣常嗣爲持節大使。」
4,《承和二年(八三五)八月丁亥【十四】》○丁亥。從四位下滋野朝臣貞主爲兵部大輔。相摸守如故。
5,《承和四年(八三七)六月甲寅【廿三】》 「左衞門督從四位上百濟王勝義爲兼宮内卿。相摸守如故。」
6,《卷八承和六年(八三九)正月甲子【十一】》 「從五位上藤原朝臣貞成爲相摸權守。」
→承和7年(840)2月壬申【25】条に見る「壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時の国司
7, 《卷十一承和九年(八四二)正月戊申【十三】》「從三位百濟王勝義爲兼相摸守。宮内卿如故。」
8, 《卷十三承和十年(八四三)正月辛丑【十二】》「從四位下藤原朝臣長良爲兼相摸權守」
9, 《卷十三承和十年(八四三)六月戊辰【十一】》參議從三位勳六等兼越中守朝野朝臣鹿取の卒年記事 「(弘仁)十年加正五位下。遷兵部大輔。兼相摸介。少將如故」
10,《卷十五承和十二年(八四五)正月戊午【十一】》「從五位下紀朝臣眞高爲相摸介」
11, 《卷十五承和十二年(八四五)二月戊寅朔》 「河内國讃良郡人相摸權掾從六位下廣江連乙枚賜姓大枝朝臣」
12, 《卷十五承和十二年(八四五)二月丁酉【廿】》の散位從四位下善道朝臣眞貞卒年記事 「(大同)十一年以明經。改授從五位下。兼任越前大掾相摸權介等」
13,《卷十六承和十三年(八四六)九月壬子【十四】》
「從四位下藤原朝臣富士麿爲相摸權守。」
14, 《卷十七十承和十四年(八四七)七月己丑【廿六】》
「參議正三位藤原朝臣綱繼の卒年記事「弘仁元年授正五位下。五年四月叙從四位下。職歴内外。兵部大輔。右京大夫。左兵衞督。武藏相摸守。」
15, 《卷十八承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月甲辰【十四】》
「參議從四位上橘朝臣峯繼爲兼相摸守
16,《卷十九嘉祥二年(八四九)正月戊辰【十三】》
「從五位下藤原朝臣直道爲相摸介。」
17,《卷十九嘉祥二年(八四九)九月丙子【廿六】》
「參議從四位下藤原朝臣良相爲兼右大辨。左近衞中將相摸守如故。」
この紫紙金字法華経断簡が捨てられずに、保管されたことに関するエピソードが伝わっている。江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残している。
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1)本稿の問題の所在:大住郡大領外從七位上壬生直廣主の調庸代納は善行か?
「《巻9承和7年(840)二月壬申【廿五】》○壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣主。代窮民輸私稻一萬六千束。戸口増益五千三百五十人此善状。借外從五位下。」(『続日本後紀』巻9)
この記事によると、本来は徴税請負人であったはずの、大住郡の大領壬生直広主は「窮民」に対する共済策として、彼が私物する稲1万6千束を国衙へ代納したばかりではなく、大住郡の戸口が5350人増加したという。この「善状」で、外従七位上であった彼は「借」外従五位下を3階級特進して授けられたという<『三大格』天長元年八月二十日官符。および、『三代格』天長二年七月八日官符、巻六位禄季禄時服馬料事 参照のこと>。
2)論及すべき点は何か?
この善行記事で記述されていない論点はなにか?
まず、第1に、なぜ調を献納できない「窮民」が出現したのか?
第2に、なぜ、大領壬生直広主だけが稲1万6千束を個人的に所有できたか?観点を変えれば、人々は「窮民」、しかし大領だけは富の蓄積さえ可能であったのは、なぜか?
第3に、なぜ、「窮民」は逃亡・離散しないで、その逆に「戸口増益五千三百五十人」であったのか(仮に1戸約20名だとすれば、約260戸)。つまり、大住郡の「窮民」に加えて、「戸口増益五千三百五十人」の食糧や住居などはどのように調達したのか?
第4に、「戸口増益五千三百五十人」は、どこから大住郡に流入してきたのか?逆な見方をすれば、大住郡のみ「窮民」が出現するほどに「凡田有水旱蟲霜、不熟之処」などの事由があり、郡外は、あるいは国外はいかなる稲の生育状態であったのか?
第5に、なぜ、「戸口増益五千三百五十人」の流浪人(?)などを、大住郡の大領壬生直広主は本籍地に帰還させなかったのか?
第6に、なぜ、大住郡以外の地で「戸口増益五千三百五十人」が発生したのか?
第7に、「戸口増益五千三百五十人」の調庸はどうしたのか?それによって一定の公地に加えて、「戸口増益五千三百五十人」分の土地の配分は可能であったほど、新たな開拓地が出現できるのか?
第8に、「稲1万6千束」の代納は大住郡の何人分に該当するのか?
第9に、「稲1万6千束」はあくまでも「代納」であり、慈善事業ではなかった。「贈与」ではない以上、翌年の調庸はどのようになったのか? つまり、相模国大住郡大領壬生直広主のメリットは何であっただろうか?仮に、として単純計算するだけで、相当な利益が生じたはずである。それは暴利をむさぼるというべきか、それとも慈善事業であったか。
→調庸代納によって、位が上がれば、
墾田永年私財法における所有上限
5位:100町
6位:50町
郡司:30町
初位以下:10町
は無くなるので、そのメリットは大きかっただろう。
第10に、窮民にとって、本年の「稲1万6千束」は翌年の調庸に加算されるのであれば、その利子分を含めて、その翌年は返済できるほど、豊作であったのか?
第11に、なぜ平安京の朝廷側はも徴税請負人を高評価するのか。ここでの問題関心は相模国司と相模国大住郡大領壬生直広主との関係性である。借外五位に推薦されるのも、さらには外從五位下が大住郡大領壬生直広主に授与されるのも、相模国司の推挙であった。
『続日本後紀』承和10年(843)3月壬子条
「相摸国大住郡大領借外從五位下壬生直広主授外從五位下。以去承和七年国司
褒挙。今依 格所 授也」
本稿の筆者の貧弱な知識では、承和10年〈843)当時の相模国司の名を提示できないのは残念である。
<参考論文>
籔井 真沙美 「八世紀における賑給の意義と役割 ―飢疫記事からみた賑給制度」平成19年度~平成21年度科学研究費補助金(基盤研究(C)課題番号19520574)研究成果報告書 時空間情報科学を利用した古代災害史の研究 」4
佐藤早樹子「八・九世紀の財物貢献と報賞制度」『史観』182冊、23-42頁、2020年
]森田大貴「8,9世紀の貧窮者救済行為。褒賞者の検討を中心に」『史学』93巻、2024年
3)
ここまで書くと、日本古代史のプロの方々からお𠮟りを受ける前に、『養老令』賦役令の、
「凡田有水旱蟲霜、不熟之処、国司検実、具録申官」
とある記事を末尾に載録しておきたい。
残念なのは、この相模国大住郡大領壬生直広主の具体的報告書は今日まで残されていないので、彼を顕彰できないことである。
なお、壬生直に関する拙論は別には発表したので、関心のある方はご笑覧ください。
律令時代、防人たちは東国で招集され、部領使に引率されて、難波に向かう。
彼らはバラバラに行進したわけではなく、
*2駅ごとに、つまり約32キロメートル(16キロメート×2)
に移動しては、古代史家にとっては常識であろうが、念のために国文学者の方々への補足説明のために付記する。その記録は?
<参考資料>
相模国司牒
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井上主税 2023「大和地域の百済系渡来人の様相」『都市と宗 教の東アジア史』(アジア遊学280)勉誠出版
を読む。
代表作『朝鮮半島の倭系遺物からみた日朝関係』(学生社2014年)の著書を持つ井上主税氏によると、百済漢城期の古墳に関する最近の調査成果が蓄積することに判明したのは、ミニチュア炊飯具(竈・甑・釜・鍋)や釵子(かんざし)を副葬した5世紀後半の日本の初期横穴式石室墳は、楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人の墓であるという。
その典型は、真弓鑵子塚古墳(真弓鑵子塚古墳発掘調査報告書 : 飛鳥の穹窿状横穴式石室墳の調査、明日香村文化財調査報告書 ; 第7集)や観覚寺遺跡(高取町観覚寺)や清水谷遺跡(高取町清水谷)に代表される、飛鳥周辺に分布する穹窿状(ドーム状)天井をもつ横穴式石室墳であり、それらは東漢氏を代表と する中国系百済人の墓域ではないかと推測する。
相当に踏み込んだ井上氏の仮説の提出だが、大歓迎したい。
それまでの行政報告書では、例えば明日香村の場合、
「渡来系の人々が生活していたとされる大壁住居やオンドル(暖房施設)遺構等も検出されています。また彼らが使用していたとされる陶質土器や韓式系土器等も出土しています。村内からは島庄や岡、奥山といった地域でも確認されており彼らの活動の広さを知ることができます。また檜隈地域には東漢氏の氏寺とされる檜隈寺(大字檜前)や呉原寺(大字栗原)が造営されており、渡来系の人々の住居や寺院、古墳といった遺跡が村内でも数多く確認されています。」真弓遺跡群の調査 | 明日香村 公式ホームページ
とあるだけで、調査者の本意は別として、行政報告である性格上、慎重に仮説の提出を留保している。
「渡来系の人々」までは言及しても、「東漢人」だと断定的に書けないジレンマを示す。もちろん考古学関係者は大人なので、そのあたりは「阿吽の呼吸」で察してはいるはず。
しかしながら、よもや「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」だとまでは、言い切れないので、それを井上主悦氏が代弁しているだろう。
井上氏の驥尾に付して、「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」説に私は賛同する。現在の韓国史学会では、百済国に韓国民族以外の人々が混在していたと認定することは、politicalな流れに逆らうことに不可能である。しかしいずれにせよ、百済が民族的にハイブリッドであったと理解することに躊躇してはなるまい。
蛇足の余談)井上主税氏は韓国大邱にある慶北大学校で研修なさったという。大邱方言の使い手であろう、
*<백 번> 맞심더!