2497番歌 (大系本対照済み)
寄物陳思
早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ■(女+麗)恃
隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ
*隼人
中村明蔵氏の研究によれば、
隼人の朝貢は、天武11年(682)7月が最初であると言う。そして延暦12年(793)まで16回の事例を各文献に確認できる。6年に1度の在京勤務の交替が明文化されたのは霊亀2年(716)である(『続日本紀』霊亀2年5月辛卯条)であり、通説通り天皇を警護する任に従事したと考えてよい。
隼人は6年間在京して、風俗歌舞の奏上をも行ったとある。6年に1度の隼人在京制が天武天皇代まで遡るかは確認できないものの、その時代まで遡っても何ら不自然でない。
『延喜式』隼人司式には、元日・即位・蕃客入朝等の大儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上において、「今来隼人」が供奉し、「吠声」を発するとある。 この「今来隼人」が薩摩・大隅の隼人であると想定した上で、次の考察に移ろう。
そもそも隼人は、『古事記』海幸・山幸段に、天皇の「昼夜之守護人而仕奉、故、至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也」とあり、天皇のそばにいて守護と演劇(「溺時之種々之態」)を担当していたという。『古事記』には、吠声に関する文言はない。しかし『日本書紀』神代下第10段第2の一書に「狗人、(中略)至今不離天皇宮
墻之傍、代吠狗而奉事者矣」とあり、隼人の「吠声」を見る。
万葉集と同時代の資料は見当たらないが、10世紀初めに成立した『延喜式』隼人司式に、その組織は、
「正一人。掌、検校隼人、及名帳、教習歌僻、造作竹笠事。佑一人。令史一人。使部十人。直丁一人。隼人。」
とある。
とあり、隼人司の 正・佑・令史の三官は各1人、使部は10人、直
丁は1人を配置すると定められていたが、隼人の定数は不明であ
る。ただし、『続日本紀』神護景雲元年(767)9月己未条に
「隼人司隼人116人」
とあるが、この数を参考資料程度と見るべきかどうか判断は保留し
なくてはならない。
『延喜式』隼人司式、大儀条
凡元日即位及蕃客入朝等儀、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人廿人、今来隼人廿人、白丁隼人一百卅二人、分陣応天門外之左右、(略)、群官初入自胡床起、今来隼人発吠声三節(蕃客入朝、不在吠限)。其官人著、当色横刀、大衣及番上隼人著、当色横刀、白赤木綿、耳形髪、自余隼人皆著大横布衫(襟袖著両而襴)、布袴(著両而襴)、緋吊肩巾、横刀、白赤木綿、耳形鬢(番上隼人已上横刀私備)。執楯槍並坐胡床。」
とあり、また『延喜式』隼人司式、駕行条に、
「凡遠従駕行者、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人四人及今来隼人十人、供奉。(番上已上並帯横刀、騎馬、但大衣已下著木綿鬢、今来著緋肩巾、木綿鬢、帯横刀、執槍歩行。)其駕経国界及山川道路之曲、今来隼人為吠。」
とあり、隼人が宮中儀礼に搭乗する元日・即位・蕃客入朝等の大
儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上における隼人の服装であっただろ
う。この隼人の服装に関しては、すでに中村明蔵氏が説明したよう
に、
「『延喜式』隼人司条には元日・即位などの大儀の参列や 行幸供奉などの際の服飾の記述がある。その際の服飾とは、「白赤木綿(ゆふ)の耳形の鬘(ばん)」「大横の布杉(ふさん)・布袴(ふこ)」「緋吊(ひはく)の肩
巾(ひれ)」などである。
鬘(髭)は髪飾りで頭部につけたものであるが、それが白・赤の二色で耳形であったという。杉は上半身につけるひとえの短い衣であり、袴は下半身につける「はかま」でズボン状のものである。杉袴については、特に注釈があって、それらの襟(えり)・袖(そで)・両面には欄(らん)という「ふちかざり」がつくというのである。また、肩巾とは肩から左右に垂らした布状のものである(肩巾は呪力を発揮することを前号ー七月号で紹介)。
これらの服飾の材料が支給される規定も隼人司条にはあるので、隼人固有の服飾というより、服属した異族のそれを儀式の場あるいは行幸の場で、とりわけ目立つようにデザインされた服飾であろう。
これらの服飾は、おそらく後代になってデザインされ、隼人の異族性を際立たせたもので、それを官人(儀式の場)・一般人民(行幸の場)にパレード的に見せつけることによって、異族を支配している天皇の権威・権力を誇示し、さらにはその高揚効果をはかったのであろう」
とは至当の回答だろう(「古代隼人のいきざまをふりかえる―隼人国
成立から1300年―」【二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)】
中村明藏
http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/thistimeimg/kodaihayato25.html
2024年1月20日アクセス)
全体の目次
一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
いずれにせよ、『延喜式』によると、「緋吊肩巾」を特長とする
服装が隼人であり、その隼人らが宮中儀礼の中で(ただし蕃客入
朝は除く)、「吠声」を発する。ここでは詳述できないが、隼人らの
手には、平城宮第十四次調査において、遺跡の井戸枠(SE1230)に
転用されるかたちで発見された「隼人の楯」を持っていた。
(68)隼人の盾 - なぶんけんブログ (nabunken.go.jp)2024年1月20日アクセス、平城宮跡資料館で展示されている出土した「隼人の盾」の複製品(奈良市で)
中村明蔵氏の諭を踏まえた竹森友子氏の復元は間違えなく正鵠を
射ているだろう。
「中村明蔵「隼人の楯 隼人と赤色―その服属儀礼と呪術に関し
て」(『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998)。なお、中村氏は「群官初入隼人発声、立定乃止、進於楯前、拍手歌舞」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)から、隼人の歌舞は隼人の楯を立て並べた前で奏された可能性を指摘した(284-285頁)、大嘗祭での隼人の歌舞については「歌舞人等、(割注略)従興禮門、参入御在所屏外、北向立奏風俗歌舞」(巻28、隼人司、大嘗祭)とあり、興禮門から入って御在所(天皇の居所)は悠紀殿(大嘗宮の一つ)であり(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭班幣条)、「立大嘗宮南北門神楯戟」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)とあるように、大嘗宮の南北の門には神楯が立てられているのである。つまり隼人は興禮門から入り大嘗宮を囲む屏の外に北向きに立って、大嘗宮の南の門に立てられた神楯の前で歌舞を奏していると言える」(竹森友子「隼人の楯に関する基礎的考察」調査報告27号、83号)
の通りだと考えたい。
なお、「吠声」に関しては、
「隼人は,麻製の淡水色の狩衣を着,同じく麻製のツメビシ紋様の頭巾をかぶり,右手に鉾,
左手に中啓(扇の一種)を持っている。(中略) 琴の音と共に,隼人二人はたち上がり,前進。宮司が本殿へ昇り,御戸を開く。この時, 隼人二人が,「オーオオオ……オ……オ……」と叫ぶ。書記(筆者注:ママ)に「吠ゆる狗いぬに代わりてつかえ
まつるなり」と述べてある通り。ここでは隼人の吠ゆる声,すなわち警 けい 蹕 ひつ で神霊を招くのである。この呪声は,「隼人の酋長」の子孫,小倉軍蔵さんによると,「ヤマオコ」(両端がとがった細い棒)の形のように,はじめ細く,次第に太く高まり,最後にまた細く唱えるのだという。
献餞,祝詞が終えると,いよいよ隼人舞。 ① 一礼し,立って鉾を持ちかえ,右手を添えて左方へやり,中啓を右手に持ち,目通り上げて,右回り(時計と同じ)に三回歩き, ② 中啓を腰高におろして左回りに三回まわり, ③ 中啓を目通りに上げて右回り三回し, ④ 右足を一歩だすと同時に中啓を開き,鉾を中啓にのせたまま右廻り三回,左廻り三回, 右廻り三回, ⑤ 中啓と鉾を左肩に持ってきて,中啓は開いたまま目通りにて右回り三回, ⑥ 中啓を開いたまま後腰に持ってきて,左廻り三回, ⑦ 中啓は開いたまま右手を目通りに上げて,右廻り三回し,着座。円座に戻る。 このあと,玉串奉奠,撤餞,御戸とざし(隼人の狗吠えあり),拝礼,退場という次第。
」
(下野敏見『南九州の民俗芸能』より引用、ただし 今由佳里「隼人舞」研究ノート『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第 69 巻 (2018)』74頁からの再引用)
現代の民俗を記録した下見氏の調査報告が古代の狗吠声と同一
である保証はないが、一つの参考材料として取り上げておく。
*夜音
通説では、「音」は「こゑ」とよむ。なぜ、「オト」と読まないの
か。
「山背作
氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞
宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(1135番歌)
などの類例を見る。「こゑ」は「人や動物が発する音声」であるの
に対して、「おと」は「人や物が発する音声」であると理解し、本
歌では「こゑ」と読むことにしたい。
今、本歌では「夜のコエ」としているので、この夜に行う儀礼は
大嘗祭である。その密儀は午前0時から始まるので、したがって、
「隼人の『夜の音』」とあれば、彼らの声は大嘗祭に展開される儀
礼であった。
*いちしろく
「いちしるし」>「いちじるし」の古形。室町時代まで清音。「①
神威がはっきりと目に見える、②(おもいあたるところが)はっき
りとあらわれている」(岩波古語、104頁)の②で本歌を解釈すれ
ばよいだろう。
*告りつ
「のる」(神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に
正式に表明することが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さな
い、みだりに口にすべき事柄ではないことを神や他人に対して明か
してしまう意)(岩波古語、1042頁)を念頭において理解してはど
うだろうか。そして同署にある「④みだりに口にすべきことではな
いことを正式に表明する。大切にしていることを打ち明ける」(岩
波古語、1042頁)で解釈したい。
つまり、本歌で言えば、「妻と頼ませ」に認める「今から私が大切
にしていることをお伝えするのですが、私の意中の妻は、ほかならぬ
あなたですよ」と解釈する。
(参考論文:ヒレ 薬師寺慎一 1997年記 初公開。http://kphodou.web.fc2.com/zioku/blog-10/blog-13/blog-19/files/3b21d7835a1324b2954060da78aa8ee0-34.html この論文に各史書の「ひれ」が網羅されており、その労作に敬意を表する)