税帳研究の分析単位を問い直す
――本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」を読む
はじめに――本庄論文を「批判する」のではなく、その先のステージへ
本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」は、古代税帳研究において重要な論点を提示した優れた論文の一つである。
本庄氏によると、税帳そのものの記載内容だけでなく、税帳の名称、書式、記載項目、税帳使の身分、提出時期などを相互に関連づけ、さらに大租数文や官稲混合との関係から、税帳制度がどのように形成され、変化していったのかが、明解に説明できるという。とりわけ、天平六年の官稲混合を一つの重要な転換点として、税帳使の地位、収納帳から目録帳への変化、雑用記載のあり方などを関連づけて理解しようとした点は、税帳を単なる個別史料としてではなく、制度の中に位置づけようとする試みとして評価できる。
しかし、本庄論文を読み進めると、別の問題が浮かび上がってくる。それは、税帳制度が「いつ成立したのか」「いつ変化したのか」という問題とは別に、
そもそも税帳という帳簿は、地方行政の現場において、どのような情報処理過程を経て作成されたのか
という問題である。
ごく簡単に説明すれば、税帳に記された数字は、税帳を作成する段階で初めて発生したものではない。現場では、稲の収納、出挙、返納、利稲の計算、雑用への支出、倉庫の管理、郡から国への報告、国府における照合・集計など、地方行政の日常的な業務の中で個別の情報が発生し、それらが何らかの帳簿や記録を経由して、最終的に中央提出用の税帳へと編成されたと考えるべきであろう。この視点から見ると、本庄論文が明らかにした「税帳制度の変化」は、さらに別の問いへと開かれる。すなわち、
税帳はどのように生成されたのか。
という問いである。
大前提として、重ねて共通理解を求めたいが、本稿の目的は、本庄論文の個々の見解を否定することではない。むしろ、本庄論文が到達した地点を出発点として、税帳研究の分析単位を「制度」から「生成過程」へと拡張することを試みたい。
1 大宝二年「始送于弁官」をどう読むか
本庄氏は、大宝二年(702)の『続日本紀』に見える「始送于弁官」の記事(原文は本庄論文参照のこと、割愛)について、これを実際の税帳送進を記録した記事ではなく、税帳を弁官へ送るべきことを命じた命令記事として理解している。
その論証として、本庄氏は『続日本紀』における弁官への申送に関する類例を検討し、それらが実際の送進事実ではなく、行政上の命令を示す記事であることを指摘する。この論証そのものには十分な説得力がある。問題は、その次の段階にある。
すなわち、
「始送于弁官」の命令記事
↓
大宝二年に税帳作成・送進の制度が命じられた
↓
その命令は朝集使などを通じて地方へ伝達された
↓
大宝元年分については遡及的に税帳が作成された
という行政過程の復元である。この部分について、本庄氏自身も「恐らく」「だろう」といった慎重な表現を用いている。したがって、ここで問題とすべきなのは、「始送」という語の意味をめぐって本庄説を退けることではない。むしろ、我々の関心は
「命令記事であることと、その命令が地方行政の現場においてどのように実行されたか
は、別の問題ではないか」
という点である。命令が出されたとしても、その命令によって直ちに全国の地方行政現場で同一の帳簿作成作業が開始されたとは限らない。
中央から発せられた命令が、
- 誰に伝達されたのか
- どの官司が実務を担当したのか
- どの既存帳簿を利用したのか
- どの段階で数字を確定したのか
- どのような様式に再編したのか
という問題が残されているからである。したがって、大宝二年を税帳制度の「起点」とするかどうかを論じるだけでは、税帳成立の実態には到達できない。
ここで重要なのは、
制度の開始時点と、帳簿作成実務の開始時点は同一なのか。
という問いである。本庄氏自身が、和銅元年頃にはすでに不動倉別定などを背景として一定の税帳的な帳簿形式が存在した可能性を認めていることを考えれば、この問題はいっそう重要になる。つまり、
大宝二年以前に、税を管理し、収納し、集計するための実務的な帳簿が存在していた
可能性
を排除することはできない。そうであれば、大宝二年の命令は「税帳という実務を新たに発明した」のではなく、既に存在していた地方行政上の情報を、中央に提出すべき一定の帳簿形式へと統合した命令であった可能性も考えられる。この可能性を検討するためには、制度の成立史だけでなく、帳簿の生成過程を見なければならない。
2, 「見込み計上」をめぐる問題――税帳は本当に一冊の決算書なのか
本庄論文でもっとも興味深い問題の一つが、税帳の提出時期と「見込み計上」の問題である。現存する税帳の提出時期を見ると、年度末に近いものがある一方、翌年の二月、さらにそれ以降に提出されたものも存在する。この差異をどう理解するかは、税帳制度の性格を考えるうえで重要である。
これに関して本庄氏が下した結論は、官稲混合以前には、税帳において年末時点で確定していない雑用などについて、ある程度の見込みを含めた記載が可能であったのではないかと考える。
これに対して、私はこの問題を、
「正式な決算帳簿に見込み計上が許されるのか」
という二者択一で処理することには慎重でありたい。むしろ、ここで問うべきなのは、
税帳とは、そもそも何を確定させるための帳簿だったのか。
という問題である。
税帳に記載される情報には、その発生時点が異なるものが含まれている。
たとえば、
- すでに収納された稲
- 出挙に貸し出された稲
- まだ回収されていない稲
- すでに発生した利稲
- 今後発生する可能性のある利稲
- 既に支出された雑用
- 年度末までに予定される支出
などである。
これらをすべて「年度末現在の確定値」として一括して扱うならば、確かに問題が生じる。しかし、逆に言えば、税帳という帳簿が、
「異なる時点で発生した行政情報を、一つの年度単位の行政帳簿に統合する装置」
であったならば、問題の見え方は変わる。
「見込み計上が許されたか」
ではなく、
「異なる確定度を持つ情報を、税帳はどのように処理していたのか」
を問う必要に迫られるからである。卑見によれば、これは重要な違いである。
税帳を単純な「決算書」と見るならば、見込み計上は例外的な現象になる。しかし税帳を、
地方行政の一年間の活動を、中央の監査・勘会に耐える形式へと再編成した総合的行政帳簿
と見るならば、異なる確定時点を持つ情報が一つの帳簿に統合されること自体を、制度上の特徴として分析しなければならない。この点で、本庄論文が提起した「見込み計上」の問題は、むしろ税帳研究の新たな入口になる。
三 提出日の違いを「制度の不備」と見るのか、「行政実務の時間差」と見るのか
現存する税帳の提出時期にはかなりの幅がある。この事実から直ちに、「税帳には明確な提出期限が存在しなかった」と結論づけることも、いや「本来の期限があり、それに地方が遅れた」と断定することもできない。ここでは少なくとも三つの可能性を区別すべきである。
第一は、制度そのものが一定の幅を許容していた可能性。
第二は、制度上の期限は存在したが、地方ごとの事情によって実際の提出時期がずれた可能性。
第三は、そもそも税帳の中に異なる種類の情報が組み込まれており、必要とされる確定時期が異なっていた可能性
この中で第三の可能性を追記すれば、税帳の提出日を「一冊の決算書が完成した日」と考えるのではなく、必要な行政情報が一定のレベルまで確定し、それを中央提出用の形式に再編できた日と考えることである。
そうなると、提出日の地域差は単なる「遅れ」ではなくなる。そこには、
- 郡から国への報告時間
- 収納作業の進行
- 出挙稲の回収
- 倉庫の確認
- 雑用支出の確定
- 国府での照合
- 税帳作成担当者の能力
- 中央への交通条件
など、さまざまな行政実務の時間差が反映されていた可能性がある。誤りを恐れずに説明すれば、税帳の提出日そのものが、古代国家の情報処理速度を示す史料になり得るのである。この視点からすれば、提出日のばらつきは「制度史上の不規則性」ではなく、むしろ研究すべき重要なデータとなる。
四 天平六年官稲混合――「画期」ではなく「行政情報処理の再編」
本庄論文の中心的な論点の一つが、天平六年(734)の官稲混合である。本庄氏によると、官稲混合を一つの重要な転換点として、その前後に、
- 税帳使の地位
- 税帳の名称・形式
- 収納帳から目録帳への変化
- 雑用記載の変化
- 税帳勘会の厳格化
などが現れるという。これらの対応関係は確かに注目すべきである。しかし、ここで慎重でなければならないのは、
時間的に対応することと、官稲混合がそれらを直接引き起こしたこととは同じではない
ということである。しかも、現存する税帳そのものがきわめて限られている。少数の現存例から全国的な制度変化を復元する場合、同時期に生じた複数の変化を一つの原因に帰属させることには慎重であるべきだろう。特に注目されるのが天平六年の周防国である。天平六年という同じ時期でありながら、周防では税帳使が史生である。これは「例外」として処理して終わらせるべき事実ではない。
むしろ、この事例こそ、
天平六年の制度変化が、全国一律に、同時に、同じ方式で実施されたのか
を検証するための重要な材料ではないだろうか。もし天平六年が完全な制度的断絶であったなら、なぜ同じ天平六年に従来型の要素が残っているのか。逆に、天平六年が移行期であったなら、この現象は容易に説明できる。我々の観点からすれば、
官稲混合を契機として、税帳に求められる情報の精度や監査可能性が高まり、その結果として、各国で段階的に帳簿形式・作成担当者・記載方法が再編されていった
というモデルを提案したい。ここでは「天平六年」という一点よりも、
天平六年前後に何がどのような順序で変化したのか
を追跡する必要があるからだ。
五 税帳使の身分変化を「制度変更」だけで説明できるか
税帳使についても、同様な議論を展開できる。本庄氏が示すように、初期の税帳では史生が派遣される例があり、天平六年以後には守・正など上位の国司が関与する例が現れる。間違いなく、この推移は税帳の重要性が増したことを示唆するだろう。
しかし、
税帳の重要性が増した
↓
税帳使の身分が上昇した
というだけでは、なぜそのような変化が必要だったのかを十分に説明できないのも、事実である。むしろ逆向きに考えるべきではないか。
税帳に記載される情報が複雑化し、
- 郡から報告された数字を照合する
- 倉庫の実数と帳簿を確認する
- 出挙の元本・利稲を確認する
- 雑用の支出を確認する
- 他の帳簿との整合性を確認する
- 中央の勘会に耐えうる形に再編する
という作業が増えたならば、それを単なる史生に委ねることが難しくなるという論法である。つまり、
税帳使の身分上昇は制度の原因ではなく、税帳作成業務の複雑化に対する行政組織側の対応だった
可能性を、ここで指摘したい。この論法を採用すれば、本庄論文とは因果関係のベクトルが逆になる。そもそも本庄論文が、
制度変化 → 税帳形式の変化
を重視するのに対し、本稿の論者は、
行政業務の複雑化 → 情報処理の高度化 → 税帳形式・担当者の変化
という方向を想定したい。この視点を導入すると、税帳使の問題も、単なる官職制度史から解放されるからだ。
六 「収納帳」から「目録帳」へ――名称の変化を情報構造から見る
本庄氏が指摘する収納帳型から目録帳型への変化も、確かに興味深いし、その発想は鋭い。しかし、「収納帳」から「目録帳」へ名称が変わったことを、そのまま制度の質的変化と見るだけでは十分ではないと、識者の多くは気づいているはずだ。なぜなら、「目録」という形式は、単なる収納実績を記録する帳簿とは異なり、
複数の情報を項目別に整理し、照合・検索し、監査するための情報構造
を念頭に置くからである。この点から見るならば、名称の変化そのものより、
何を項目として分離し、何を一つの情報単位としてまとめるようになったのか
を調査すれば、別な視界も開けてくるのではないだろうか。つまり、
「収納帳から目録帳へ変わった」
ではなく、本庄氏の視野を拡張すれば、
「税帳の中で、情報を分類・分離・再結合する方式が変わった」
と見ることも可能だと、本稿の論者は考える。これは単なる名称史ではなく、帳簿の情報構造の変化だと理解すべきである。
さて、我々の視点から雑用の記載方法を見ると、天平六年前後の変化もまた別の意味を持ってくる。雑用が一つのまとまりとして記載されていた段階から、特定の支出項目が分離され、出挙などとの関係がより明確に整理されるようになったとすれば、それは単なる「書式変更」ではなく、
中央による勘会のために、地方行政情報をより細かな単位へ分解する必要が生じた
ことを示すとかんがえられるからである。
七 ここで初めて見えてくる「税帳の背後」
ここまで検討すると、一つの大きな問題が浮かび上がる。本庄論文が分析しているのは、基本的に完成した税帳である。しかし、完成した税帳の背後には、その税帳を作るために使用された大量の情報があったはずである。たとえば、
郡で稲を収納する。
その収納量を記録する。
出挙に回す。
誰にどれだけ貸したかを記録する。
返納を確認する。
利稲を計算する。
雑用への支出を記録する。
倉庫残高を確認する。
それぞれの数字を郡から国へ報告する。
国府では、それらを相互に照合する。
そして最終的に、
中央へ送る税帳という一つの体系的な帳簿へ再編成する。
この過程を想定するなら、税帳は決して「最初の帳簿」ではない。
むしろ、
行政情報の最終的な集約点
だった可能性が高い。ここから、税帳研究には新しい分析対象が生まれる。
それが、「税帳生成プロセス論」である。
八 税帳研究の分析単位を変える
従来の税帳研究は、概ね、
税帳の成立
↓
書式の変化
↓
税帳使の変化
↓
制度の変化
という形で、古代史研究者は取り扱ってきた。本庄論文も、この研究史の枠組みと流れの中で大きな成果をあげている。しかし、ここから先の研究では、
税帳そのものではなく、税帳を生成した行政情報の流れ
を分析単位に加える必要があると強調したい。すなわち、
従来:制度 → 税帳
今後:行政現場 → 情報発生 → 記録 → 照合 → 集計 → 再編成 → 税帳 → 中央での勘会
というモデルの設計図である。このモデルでは、税帳は終点に位置する。そして、税帳の記載項目一つ一つが、「この数字はどこで発生したのか」という問いを呼び起こす。
例えば「
①出挙」の数字があるなら、
その数字は、どの時点で確定したのか。
②「利稲」があるなら、
その計算は誰が行ったのか。
③「雑用」があるなら、
個々の支出はどの帳簿で管理され、それがどのように税帳の一項目へ集約されたのか。
④「収納」があるなら、
郡での収納記録と国府の税帳との間には、どのような中間段階があったのか。
という問いが連続して、発問される。これこそが、税帳を「読む」ことから、税帳を「作る」ことへ研究対象を広げることにつながり、新たな日本古代史の一面を切り開くだろう
九 木簡研究との接続――「作業原簿」という発想
この問題を考える上で、近年の木簡研究は重要な示唆を与えるだろう。というのも、木簡の多くは、最終的な正式文書には残らないような、現場の作業に密着した情報が記される場合がある。そこには、
- 個人
- 数量
- 土地
- 物品
- 移動
- 収納
- 支出
- 確認
など、行政実務を遂行するために必要な情報が墨書などで記述される。こうした木簡を、単なる「下級文書」あるいは「一時的な記録」として扱うだけではなく、我々は
最終帳簿を作成するための作業過程に位置づける
ことを提唱する。そのことで、仮に、「作業原簿」という概念を導入してみることで、現存する特定の帳簿名を意味するものではなく、むしろ、
行政現場で発生した個別情報を集め、確認し、集計し、最終的な正式帳簿へ再編成するために用いられた作業段階の記録
を指す分析概念を抽出できると考える。もしこのような中間段階が存在したならば、
木簡 → 作業原簿 → 郡・国の集計帳簿 → 税帳
という情報変換過程を想定できる。もちろん、このモデルをそのまま史実とすることはできない。しかし、少なくとも、
「税帳の数字はどこから来たのか」
という従来の税帳研究では十分に問われてこなかった問題を、具体的に検証可能な形で提示することができる。
十 本庄論文の成果を踏まえた新たな発見
ここで本庄論文に対する評価を明確にしておきたい。
本庄氏は、
- 税帳の成立
- 税帳の提出
- 税帳使
- 税帳の書式
- 大租数文
- 官稲混合
- 雑用
- 勘会
を相互に関連づけて論じている。この分析によって、税帳が単純な収納記録ではなく、中央政府による地方財政把握・監査と深く結びついた行政帳簿であったことが、より鮮明になった。だからこそ、その次の段階に進めば、新たな問題が生まれる。中央官衙が税帳を必要としたのは、
その税帳を作るために地方行政は何をしていたのか。
中央が勘会を厳格化した。
では、
その厳格化は地方の帳簿作成作業をどのように変えたのか。
税帳使の地位が上昇した。
では、
なぜ高位の国司が必要になったのか。
目録帳が登場した。
では、
なぜ情報を目録化する必要があったのか。
と、改めて問い直すと、本庄論文の成果が、そのまま次の研究課題へと転換される
十一 「天平六年」を超えて――制度の変化から情報処理の変化へ
したがって、天平六年をめぐる問題も、
「官稲混合によって税帳制度が変わった」
という一文で終わらせるべきではない。むしろ、我々の分析視点を積極的に取り入れて、
官稲混合を含む財政制度の変化によって、地方行政が処理しなければならない情報の種類と量が変化し、その結果として帳簿の構造、担当者、確認方法、提出方法が再編されたのではないか。
という作業仮説を立てては、どうだろうか。この作業仮説であれば、天平六年の前後に現れる複数の変化を、一つの制度命令の直接的結果としてではなく、
行政情報処理システム全体の再編
として、すべてが氷解する。そして、天平六年周防のような「例外」は、このモデルにとって障害ではない。むしろ、制度が一挙に全国へ浸透したのではなく、
国ごとに異なる速度で実務が変化していった可能性
を検証する補強材料になる。
ここには、従来の「画期論」とは異なる時間軸がある。制度史の時間軸では、
大宝二年
天平六年
という二つのポイントが重要になる。しかし、行政実務の時間軸では、
制度変更 → 通達 → 地方への伝達 → 現場での対応 → 帳簿形式の変更 → 担当者の変更 → 中央での勘会の変化
という連続的な過程を見る必要がある。これは、
「制度の時間」から「行政実務の時間」へ
という視点の転換でもある。
十二 税帳を「完成品」ではなく「情報の変換装置」として見る
ここまで議論を進めてくれば、税帳に対する見方そのものも変化するに違いない。税帳は、単に、
「一年間に何を収納したか」
を記した帳簿ではなく。地方行政の現場で発生した大量の個別情報を、
中央政府が理解し、比較し、照合し、勘会できる形式へ変換する装置
だったと考えることである。この意味で、税帳は「財政帳簿」であると同時に、
行政情報の標準化装置
でもあったのではないだろうか。観点を変えれば、郡ごとに発生する異なる情報を国府が集め、国ごとに異なる実情を一定の帳簿形式に統合し、さらにそれを中央政府が比較可能な情報として受け取る。
このように考えるなら、税帳制度の本質は、単に税を徴収する制度ではなく、
地方の行政現場を、中央政府が帳簿を通じて把握可能な状態にする情報システム
にあった可能性がある。この観点を持つメリットは、「税帳使」の問題もまた新しい意味を持つことである。税帳使は単に「帳簿を運ぶ使者」なのではない。その背後には、
地方行政で生成された情報を、中央が受け取ることのできる形式へ保証する者
としての役割が存在したことである。
十三 結論――本庄論文から次のステージへ
繰り返すまでもなく、本庄総子「税帳と税帳使」は、税帳の成立と変化を、大租数文、官稲混合、税帳使、書式、雑用記載などの諸要素から総合的に考察した重要な研究である。しかしながら、前述したように、大宝二年「始送于弁官」の性格、税帳の提出時期、官稲混合をめぐる変化などについては、なお検討すべき問題が残されている。しかし、本稿が最も重視したいのは、個々の学説の当否ではない。本庄論文を読むことで、むしろ次の問題が明確になったことである。これまでの税帳研究は、税帳を完成した史料として分析する傾向が強かったのではないかという反省の上に立てば、税帳は、制度によって突然生み出されたものではなく、その背後には、
情報の発生
↓
記録
↓
照合
↓
集計
↓
再編成
↓
税帳作成
↓
中央への送進
↓
勘会
という行政情報の長い流れに気づくことになる。
したがって、今後の税帳研究に必要なのは、税帳制度の成立時期をさらに細かく確定することだけではない。むしろ、
税帳はいかにして作られたのか。
という問いを、独立した研究課題として設定することである。これは、税帳研究の対象を、
「税帳」から「税帳を生成した行政プロセス」へ
拡張することを意味する。そのときにが、税帳研究の分析単位も変わる。
従来の、
制度 → 税帳
という一方向のモデルから、
行政現場 → 個別情報 → 作業記録 → 集計・照合 → 税帳 → 中央での勘会
という情報生成・変換モデルへ移るはずである。この視点に立てば、大宝二年も、天平六年も、それ自体を「制度の始点」あるいは「制度の断絶点」として固定する必要はない。重要なのは、その前後で、
地方行政が何を記録し、何を確認し、何を集計し、何を中央へ報告する必要が生じたのか
を解明することであり、その本質の究明である。その意味で、本庄論文は終点ではない。
むしろ、本庄氏が明らかにした税帳制度の構造を基盤として、その背後に隠れていた行政現場へ降りていくことが、これからの税帳研究に求められているのではないだろうか。
税帳研究は、
「税帳とは何か」
を問う段階から、
「税帳はいかにして作られたのか」
を問う段階へ進む時期が到来した。そして、この問いに答えるためには、紙に残された完成済みの税帳だけではなく、その背後にあった木簡、帳簿、郡からの報告、倉庫管理、出挙管理、国府での照合・集計といった行政実務を、一つの連続した情報処理過程として捉え直さなければならない。そこに、古代国家を「制度」としてではなく、
実際に動いていた行政システムとして復元するための、新たな税帳研究の可能性があると予告しておきたい。