2026年5月5日火曜日

なぜ相模国司は稀少な不動産物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか。

そもそも、なぜ相模国司は平城京内の稀少物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか?

この疑問が、本稿の問題の所在である。

 いまさら夏目漱石の『草枕』の冒頭を語るまでもなく、歴史家でも日本史学研究者などの看板を持たない門外漢だけに、学界の縛りなどとは無縁だけに、本稿の筆者は自由に想像の翼を広げたい。

 ところで売却後、その「調邸」は平城京内のどこへ移転したのだろうか。遠く相模国から上京した人々が重い荷を下ろし、休息もしたはずの半公的空間は必ず必要であったはずだが、記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動向などは無関心であろう。

 ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすい。相模国司が緊急に必要となった資金計画とは、何だったのか。あるいは資金難に陥った事業計画であったかもしれないからである。それは何か?

 仮説:天平年間(729–749)における相模国の寺院建設として、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立政策(天平13年=741年詔)の代表的寺院が相模国分寺・相模国分尼寺であったので、第1に想定されるのは建設費への補填であり、第2に相模国分寺・相模国分尼寺建設に従事した工人たちへの給与支払い(奈良大仏建立に従事した工人<作業員>らへの貨幣支払いに充てたとも想定される。

 さて、相模国における天平年間と寺院建設 は次のように整理できよう。

1. 国家政策としての寺院建設(天平13年・741年)

  • 聖武天皇による国家鎮護政策の指示は国家プロジェクト「金光明四天王護国之寺」として全国に建立された国分寺・国分尼寺

  • この詔に基づき、相模国司は国分寺・国分尼寺を海老名台地での建設計画に着手

2.  天平期の巨大伽藍

相模国分寺(海老名市国分南一丁目19)の概略
  • 創建:天平年間(724–749)、もしくは750~760年代(国平健三説、天平勝宝・天平商宝治年間。藤原仲麻呂政権下。752年に東大寺大仏の開眼供養)、さらには弘仁10年(819)の火災以降:前場幸司説など)。

  • 伽藍配置は全国でも珍しい法隆寺伽藍式(塔=西、金堂=東、講堂=北)か。

  • 寺域は東西240m × 南北300mの大規模。

  • 七重塔の基壇は約20m、高さは推定65m

の東国でも最大級の寺院であった。しかもツインとして相模国分尼寺(国分寺跡の北に隣接)建設にも着手せざるを得なかった。しかしながら、この二つの寺院が同時並行に建設されたとは想像しがたいのは、

  • 国分寺よりやや遅れて8世紀後半(天平後期)に整備されたと推測

3. 相模国の特殊性:国府と離れた国分寺

  • 多くの国分寺は国府近くに置かれたが、相模国では国府(平塚市四之宮説が有力)と国分寺が離れている

4, 関東における巨大寺院の成立

  • 七重塔65mは、奈良の主要寺院に匹敵する規模。

  • 相模国の政治的地位以上に、宗教的・象徴的な重視があったと考えられる。

5, 地域開発と寺院建設

  • 海老名台地・丘陵の富士系テフラの上に作られた遺跡は相模川流域の交通・物流の要衝。

  • 寺院建設は海老名地域の開発・富の集積を促進した

  • 海老名台地に巨大伽藍が建設され、関東屈指の宗教拠点となった。





岩永省三氏の力編「文武大嘗宮論のための予備的検討 」の一読を推奨する!!

岩永省三氏の力編を一読した。

 岩永省三著「文武大嘗宮論のための予備的検討 」『九州大学総合研究博物館研究報告』第22号、第22号、 2025, pp.81-115 


考古学者として著名な岩永氏であるので、発掘調査記録であると思い込んで読み進めていたところ、豈図らん、それは考古学者による日本古代文献史学への挑戦的なアプローチであった。
どうやら岩永氏の心の中に長年くすぶり続けたモヤモヤ、つまり
 「安閑から文武に至る歴代大王墓に ついて,造営場所,改葬・追葬の有無などの基礎的情 
 報 を整理し,それらの背に,王統の確認・正統化・強化 などの政治的意図があること」
の未確認があったので、それを問題の所在としてスタートさせ、最終目的を
 「藤原宮朝堂院における文武大嘗宮の位置を,既調査地の 検出遺構の詳細な検討によって推  
 定し,その背後にある 持統の皇統観を描き出すことにしたい」
と定めておいでのようである。
 そのキッカケは、本来「大嘗祭で用いられ,儀 式の終了と共に撤去された仮設の建物群」であるだけに、大嘗宮儀礼執行の場とその形成・整備過程など天皇即位儀礼遺構 に見出せるはずもなく、またその変遷も考古学的な調査発掘をしても「物証を持って把握できる」に至らないはずである。しかしながら、岩永氏はその「稀有な例」に遭遇し、発掘調査報告書は執筆できるとしても、その次のステージ、遺構が語る「意味・評価」などに言及できなかった悔しさが残ったようである。それは「奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが 」の接続助詞「~が」に集約されるだろう。
 「平城宮で元正・聖武・淳仁・ 称徳・光仁・桓武の5天皇の即位に伴う大嘗宮が発見さ  れ,奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが (岩永2006a・2006b・2010))
岩永氏の分析視点は、
 「即位する天皇の王統上の位置づけ と天皇位継承の正当性が表現されていると考えている」
として明瞭である。
 ただし、この視点は別に斬新ではないが、それまで文献史学や皇族史学、民俗学などの研究によって積み上げられてきた幾多の成果を、考古学的な観点から再検討することに意義がある。その試みは「文武即位に先立つ7世紀の大王家の王統の形成過 程を辿り,文武の即位を強行した持統の皇位継承構想と 皇統観,文武即位の歴史的評価」に直結する手続き上、不可欠であると論文の冒頭で宣言する。だからこそ岩永氏の最初の的は、折口信夫らの「大嘗祭論」への反論・破壊であった。それ以後の行論にしても、折口流派の方々、例えば岡田精細司氏らへの追及の手をゆるめない。その詳細は本文一読にゆだねたいが、行間からうかがうに、岩永氏が親和性を持つのは
*大津透氏と倉本一宏氏の問題関心
であったようだ。だからこそ、岩永氏の論述は、考古学者として「異例」にも、
 「26 焼失した飛鳥板葺宮跡地に後飛鳥岡本宮を造営した.その 東方の丘陵には石垣を巡  
 らせた特殊な施設を築き,飛鳥寺の 北西側には漏刻(水落遺跡)や饗宴・儀礼のための大
 規模な 施設(石神遺跡)を設けた.須弥山を象った石像を用いて仏 教行事や夷狄の服属儀
 礼・饗宴を行うなど,王権の神聖化を 図った.この時期には蝦夷居住域への侵攻を日本海
 沿いと太 平洋沿いの双方で進め蝦夷に朝貢させることで,異民族を支 配する「帝国」の体
 裁を整えようとした.」
とまで、彼の思考は発展する。

 さて、岩永氏の既発表の論文、

 ①岩永省三2006a「大嘗宮移動論―幻想の議政官合議制―」『 九 州大学総合研究博物館研
  究報告』
 ② 岩永省三2006b「大嘗宮の付属施設」『喜谷美宣先生古希記念論 集』 
 ③ 岩永省三2010「大嘗宮移動論補説」『坪井清足先生卒寿記念論文 集』下巻
などを知るだけに、「ネタ晴らし」をするのは我が意ではないので、このあたりで擱筆すべきかもしれない。
 それにしても奈良文化財研究所や九州大学などの宮仕えの労を多謝しつつ、それまで考古学者の「職業病」である「遺物が語らないことは、沈黙する」ことの心理的臨界から解放されて、「遺物・遺跡と年代決定」の最強兵器を自由自在に駆使して、古代史学の面目を一新する論考を陸続と発表していただきたい。
 その期待は大きい。

 

 
 認した.
大王と妃の葬送に関しては,複数のキサキがいる中で, どのキサキをいつ・どこに埋葬するかという点は,その 時々の葬儀を主宰した現大王と前大王との関係,現大王 と権力核を構成する有力氏族との関係などが関わってい る.王統の確認・正統化・強化などの政治的意図が背景 にある場合が多い. こうして見ると,王族墓における追葬

2026年4月28日火曜日

調布の価格は?

 まず、『続日本紀』にある

《天平8年(736)5月辛卯【12】》辛卯。諸国調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺。闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依旧貢之。」

の記事に注目したい。このルールは全国に普及しいたらしく、

、『周防国正税帳』(天平10年)には、

「布弐丈捌(28)尺価稲弐拾(20)束(以1束、充1尺4寸)」(『大日本古文書』2-240頁)

とある。

とある。これによって、全国的に統一した基準で徴収されていたとしてよい。したがって、

「調布1端は稲20束」

であると判明する。


2026年4月27日月曜日

周防国周防郡の「殷富」(長者)であった凡直氏

『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。

凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に

宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」

とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kgに該当する。

この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に

天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」

とあり、同じ『続日本紀』に

《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」

とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。

さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。

ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、

0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4

したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。

ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に

「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』 天平六年(734)周防国正税帳 文書第247号 コマ420–423(NDLデジタルコレクション)

とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。

ところで、奈良時代の塩生産方式は

製塩の技術体系(奈良時代)

  • 藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)

  • 塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)

  • 竈での煎熬

でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。

 要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、

  • 周防国最大の製塩地帯を管理し、

  • 海産物の集積地を形成し、

  • 国衙(周防国府)の所在地に位置し

国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。

 なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。





同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、

都濃郡:糒430

吉敷郡:糒1733

熊毛郡:糒35994升



2026年4月22日水曜日

設問)鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は誰か?

 設問)横瀬古墳の埋葬者は誰か?


本稿の目的は、鹿児島県大崎町の横瀬古墳(および隣接する神領古墳群)の埋葬者が、「隼人」のものか「和人(ヤマト王権側の人々)」なのものかという問いの解明にある。これにより南九州の古代史において、隼人勢力圏内への大和政権の影響力の浸透の手がかりの一助としたいからである。

結論から言えば、現在の考古学的な見解では「ヤマト王権文化(和人のスタイル)を強く受けて作られたが、その作り手や背景には隼人文化要素も混じり合っている」と考えるのが自然だと思っている。

論点を整理すると以下のとおりである。

1. 形式は「ヤマト(和人)」のスタイル

盾持埴輪という文化そのものは、近畿地方(ヤマト王権の中心地)で発生し、全国へ広まったものだと考える。

• 横瀬古墳の重要性: 横瀬古墳は全長140メートルに及ぶ、当時としては南九州最大級の前方後円墳です。前方後円墳という形自体がヤマト王権との強い繋がりを示す「政治的シンボル」である。

• 技術: 盾持埴輪の造形や配置の仕方は、近畿地方の作法に準じている。つまり、ソフト(思想)やデザインの源流は「和人」側にある。

2. 「隼人」的な要素と地域性

一方で、南九州は古くから「隼人」と呼ばれる人々が固有の文化(地下式横穴墓など)を持っていた地域です。

• 顔の表現: 大崎町の盾持埴輪は、近畿地方のものに比べると、大隅独特の「入れ墨」のような文様が顔に施されているようにも見える。

• 在地での製作: 埴輪に使われている粘土の分析などから、これらは近畿から運ばれてきたのではなく、大崎町の周辺で作られたことが判明した。在地の埴輪職人(?)がヤマトの技術を導入しつつ、自分たち独自の感性で作ったとみても不思議ではない。


結論として

この盾持埴輪は、「和人の文化を受け入れた、あるいはヤマト王権と深く結びついた現地の隼人系政治的指導者(隼人のリーダー層)」を守るために作られたもの、と捉えるのが最も自然だろう。

「隼人か和人か」という二者択一というよりは、「ヤマトの政治制度の中に組み込まれていった、南九州独自の隼人武人像」が描かれていると言えるだろう。

鹿児島県大崎町横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?

 設問)横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?


仮説:「被葬者」もしくは「聖域」



仮説1: 被葬者(古墳の主)の守護

 古墳に埋葬された主を、敵対する勢力や邪悪な宗教的存在まどか防御すると考えて不都合はない。そして盾持埴輪は武装兵士であるだけに、死後の世界(あの世)でも主人を警護し続ける「ボディーガード」であったと考える。


仮説2: 聖域と俗界の境界を守護する

 埴輪は多くの場合、宗教儀式などを行う空間である古墳の堤や造り出しに置かれている。

 • 結界の役割: 死者が赴く「あの世(聖)」(古墳が入口)と、あとに残された生者たちが暮らす「日常世界(俗)」の境界線の明示化。「聖と俗」という2項対立を必要とする文化装置である。

 • 盾の象徴: 盾は「防御」と「進撃」の2面性をもつ「不動」の象徴である。死者との強いつながりを求める生者には、武力によって築かれた平穏な日常性と、武力によって維持される平和な日々の象徴。特に武人像を据えることで、生者へのメッセージは、死者が作りあげた政治的権力の誇示とその永続性を保証するものであった。


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鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は?ーー拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

本論は約3万時余りの拙稿である。ここではその一部のみを掲載する。 



大崎町横瀬古墳とは?

所在地:大崎町横瀬字エサイ(仮宿1029番地)

①前方後円墳(志布志湾の海岸線より約1km入りこんだ標高約6mの水田中にある。墳長137m後円部径80m高さ10.5m,くびれ部幅58m,前方部最大幅88m,高さ11.5mで周囲には濠がめぐっている。後円部は削られて,竪穴式石室の天井石が露出している。)鹿児島県/横瀬古墳


円筒埴輪・形象埴輪などを持つ古墳の西南限が横瀬古墳、東北限は岩手県の角塚古墳(大量の円筒埴輪片・形象埴輪片(人物・鳥・馬・盾・草摺(くさずりなど)が墳丘・周濠跡より出土

③大阪府の陶邑窯の須恵器(5世紀後半~6世紀初頭)出土。 南は横瀬古墳、北は岩手県膳性遺跡で陶邑産の須恵器が流通。

④日本列島の河内・奈良地域を中心地とする文化の波及を想定する。

 ⑤S52・53鹿児島県教育委員会周濠確認。

 H22・23大崎町教育委員会外濠確認。 

H30 S52・53調査時の出土遺物を譲渡 申請

⑥大崎町教育委員会2016『横瀬古墳』大崎町埋蔵文化財発掘調査報告 書(9



拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

飯盛山古墳 → 横瀬古墳 → 唐仁大塚古墳 の三古墳を軸に、志布志湾沿岸で5世紀に展開した首長権力の発展を論じたい。


序論(研究目的)

  • 志布志湾沿岸には、5世紀前半〜後半にかけて連続的に大型古墳が築造された。

  • これらは規模・副葬品・立地・政治性が段階的に変化しており、 首長権力の発展過程を示す重要資料である。

  • 特に海面が現在より高かった古墳時代の地形環境が、 海上交通を基盤とする首長権力の成立に大きく影響した。

第1章 志布志湾の地形環境と古代海岸線

1. 志布志湾の地形的特徴

  • 遠浅の湾で、砂丘帯と湿地帯が広がる。

  • 海面変動の影響を受けやすい地形。

2. 古墳時代の海面変動

  • 海面は現在より 1〜2m高かったと推定。

  • 志布志湾では海岸線が 500m〜1.5km 内陸に入り込んでいた可能性。

3. 横瀬古墳の立地が示す海岸線

  • 南北は砂丘、東西は湿地に囲まれた「海浜型前方後円墳」。

  • 当時は 海を望む位置に築造されていた。

4. 海上ネットワークと首長権力

  • 志布志湾は南西諸島〜瀬戸内を結ぶ海上交通の要衝。

  • 古墳群は、この海上ネットワークを掌握した首長権力の存在を示す。

第2章 飯盛山古墳と初期首長権力

1. 飯盛山古墳の概要

  • 全長80m、鹿児島県最古級の前方後円墳。

  • 志布志港を見下ろすダグリ岬山上に築造。

2. 大隅隼人首長層との関係

  • 被葬者は大隅隼人の首長層、または同等の豪族と推定。

3. 海上交通の掌握

  • 海上ルートの監視に最適な立地。

  • 志布志湾の初期首長権力の中心。

4. 横瀬古墳との連続性

  • 飯盛山(5世紀前半)→横瀬(5世紀中葉)

  • 同一政治圏の連続した首長墓と理解できる。

第3章 横瀬古墳とヤマト政権との接続

1. 規模と構造

  • 全長165m、5世紀中葉では九州最大級。

  • 二重周溝(内溝+外溝)を備える。

2. 出土遺物

  • 大和国陶邑窯産須恵器、円筒埴輪・形象埴輪                           →<朝鮮系渡来人文化および伽耶系文化の系譜も想定すべし>

  • 畿内的儀礼の導入=ヤマト政権との強い関係。

3. 被葬者像

  • 「大陸〜南西諸島〜近畿を結ぶ広域交流を掌握した首長」 (大崎町教育委員会の記述)

4. 立地の特異性

  • 海に近接した砂丘帯に築造された南九州では珍しい例。

第4章 唐仁大塚古墳と南九州盟主権力

1. 古墳群の中心

  • 全長185m、鹿児島県最大の前方後円墳。

  • 周囲に140基以上の古墳群。

2. 副葬品

  • 朱塗り石棺、短甲など。

  • 武力と威信財を備えた首長の墓。

3. 政治的性格

  • 地域政治の統合段階を示す。

  • 横瀬古墳の後継として、南九州の盟主権力を象徴。

第5章 権力の東進モデルの提唱

1. 三古墳の連続性

  • 飯盛山(志布志)→横瀬(大崎)→唐仁(東串良)

  • 首長権力が東へ移動しながら巨大化した。

2. 海上ネットワークの役割

  • 志布志湾の海上交通が権力拡大の基盤。

3. 古代海岸線の影響

  • 海に近接した立地が首長権力の性格を規定。ヤマトと隼人の両サイドのダブルマインドとして、権力構造の解明に資する。

結論

  • 志布志湾沿岸の首長権力は、海上交通を基盤に成立し、 飯盛山 → 横瀬 → 唐仁 の順に発展した。

  • 横瀬古墳はその政治的ピークを示し、ヤマト政権との結びつきが最も強い。

  • 今後の課題は古代海岸線の復元。古墳立地と首長権力の理解に不可欠な分析視点である。