『周防国正税帳』に、
「部領使大宰府少判事従七位下錦部連定麻呂」
の名がある。前後の記事から判断して、錦部連定麻呂は防人を引率する役目を負っていた。天平10年のことである。
井上辰雄先生の教えでは、
*塩4斗(人別日)
とあることから推測して、約800人の防人を引率して、難波から大宰府に向かったと言う。
『周防国正税帳』に、
「部領使大宰府少判事従七位下錦部連定麻呂」
の名がある。前後の記事から判断して、錦部連定麻呂は防人を引率する役目を負っていた。天平10年のことである。
井上辰雄先生の教えでは、
*塩4斗(人別日)
とあることから推測して、約800人の防人を引率して、難波から大宰府に向かったと言う。
たとえ悪説とそしられようとも、
*ズーズー弁の出雲方言
の由来も、自説で説明したいと考える。
松本清張の『砂の器』の舞台設定に見る通り、ズーズー弁は西の出雲弁、東の東北弁に認められる。東条操や金田一春彦などの方言地図を指摘するまでもなく、東北方言の「飛び地」の状態で出雲弁が存在する。その言語現象を取り上げて、松本清張は推理小説のトリックに組み込み、出雲に犯人のルーツを求める。読者の知的見取り図の「盲点」をつく意外さを感じさせる趣向である。
とはいえ、すでに浅井亨などの仮説によって、出雲と東北との海上交通によるつながりを推測することで、出雲弁と東北弁との近接性が説明されてもいる。
私の仮説は、むしろ浅井らが説くように、海上交通による船の民の移動ではなく、東北地方から蝦夷の人々が出雲に移配されたからであると考える。当然の反論は、
1,古代日本において、蝦夷は日本各地に移配されたのに、なぜ出雲だけがズーズー弁か
2,出雲に移配された蝦夷の人々の言語が優越した証拠を提示せよ
などである。
このあたりで、私の手の内を明かしても良いかもしれない。
なにも、秘密主義でもないからである。
常に私の脳裏にあるのは、「日本人とは何か」である。
次の記事に注目する理由も、この視点で分析したいからである。
*「陸奥国俘囚三百九十五人分 配大宰府管内諸国」(『続日本紀』宝亀 7 年 9 月 13 日条 )
* 「出羽国俘囚三百五十八人配、大宰府管内及讃岐国、其七十八人班賜諸司及参議已上、為 賤」(『続日本紀』宝亀 7 年 11 月 29 日条)
つまり、「俘囚」(蝦夷)が東国から大宰府へ移配されたことからして、大宰府管内には古代から東国の蝦夷出身の人々が混住していた。
周知のとおり、アジアのゲートウェイであった福岡には、朝鮮半島の人々や中国大陸・東南アジアの人々が来住して、日本人と混住してきた。それに加えて、かって異民族と言われてきた蝦夷の人々も福岡(大宰府)に来住して、いわばモザイク状に、あるいは坩堝状に混住していたと主張したい。 つまり古代日本において、国内が関東と東北地方の間に壁が存在し、一方は自民族(ヤマト)、他方は異民族(蝦夷)と対立していたのではなく、奈良朝から国策として、蝦夷が日本各地に移動させられて、その土着の人々と共存していたと考える。
その自説を説明するために、本ツールを活用して、様々なトピックを取りあげながら、少しずつ記述していきたいと考える。必ずしも史実のみを展開するわけではなく、ときにはノンフィクション的記述とも化し、さらには逆に皆様に教えを請いながら、自説の補強を続けている。
赤司善彦著『大宰府跡』同成社、2024年が上梓された。その高著の公刊を謹んでお慶び申し上げます。
そもそも赤司氏の御本の特長は、大宰府及び北部九州地区に関する考古学関係調査報告書のほぼすべてを自家薬籠中の物として記述されていることにある。門外漢や凡人の観光案内書ではとても歯が立たない、一味も二味も異なる最上のtasteに仕上がっている。大宰府跡の道案内人として余人を以て代えがたいとは、まさにこのこと。そのシリーズの人選にあたった編者の慧眼に、まずは敬意を表したい。
今後ともに、赤司氏のもとに各方面から陸続として称賛の嵐が届くはずである。今さら私のごとき浅学菲才の「誉め言葉」などは九牛の一毛に過ぎない。したがって、赤司氏にとって「的外れな」蕪辞よりも、ここでは、その趣向を変えて、思いつくままに「へそ曲がり」を書き綴ることとした
い。
*赤司善彦氏が本書に込めたメッセージが何かに関しては、最後に記述するつもりである。
(1)脱字→48頁3行目「記述している」ではないか。
(2)悪文→例えば48頁下から3行目「~の部分があることが判明した」に見る「~が~が」の連続は不適切。小学校綴り方教室では減点もの。
(3)本書全体にわたる頻出する文末表現「~のである」の特異性→試算では、全体で39か所。この「~のである」という文末表現が持つ特別なニュアンスを、明敏怜悧な赤司氏に改めて説明するまでもないだろう。別な表現に変えた方が良いと愚案する。むしろ不要だとさえ思える。『日本語練習帳』(岩波新書)をご案内したい。
(4)しかしながら前記した「~のである」は、第4章のように、考古学的発掘成果を整理したり、記述する箇所では、ほとんど出現しない。これを通して、赤司氏の思考回路を探ることや、早書き(もしくは筆が難渋した、さもなくばひらめき感が不足した)箇所の推定が可能となる。
(5)加えて、赤司氏の定型化した文末表現を辿ることでも、氏の論述の判断度合いや推敲の跡を知る。その一例を分析すると興味深いが、本書の価値とは無縁であり、しかも野暮である。
(6)いささか我が筆がすべるので、次は赤司氏の失笑を買うかもしれない。筆者と赤司氏との接点は全くないので、そのご性格を存じ上げるすべもない。しかし赤司氏の論述を拝読すると、「(大相撲)突っ張り一直線」スタイルに思える。「張り手」があるとは言わないが、とにかく「押し相撲」。その典型的な例として、「大宰帥の公邸」(81頁~87頁)がある。迷いなく、自説を押して押して、立ち止まることはない。立ち止まって、周囲を見渡して「ホンマカイナ」とつぶやく事もない。ただし、私は赤司善彦説に賛同する。
(6)本書の羅針盤とも言える、「はしがき」にある「大宰府とは」の定義は、やや「ヤワ」であり、陳腐すぎないか。赤司氏の基本的分析視点と問題意識を明示する箇所だけに、いささか物足りない。
(7)本書の読者対象は一般人である。本書を携えて大宰府やその周辺を巡遊する方々でもある。もう少し肩の力を抜いたエピソードや平易な説明があっても良かったと思うが、ないものねだりか。基本的スタンスが異なる。
この点、お上手だったのは、NHK「ブラタモリ」。太宰府市考古学担当者が市内の居酒屋(?)に案内して、条坊制の理解を目で見えるようにした実例である。赤司氏の引き出しには山ほどのエピソードがしまい込まれているはず。小出しにせずに、この際、ドーンと出してほしかったのも、読者に息継ぐ場所がないからである。
前右近衛将監小野春風は、
「累代の将家にして、驍勇ひとに超えたり、前の年頻りに誹謗に遭ひ、官を免たれて家居せり」(「藤原保則伝」日本思想大系8,岩波書店、67頁)
とある。春風は貞観12年(870)正月に対馬守、そして同年3月に肥前権介に任じられた。
この人事は、貞観 11 年(869)に起きた博多津への新羅海賊の襲来(『日本三代実録』貞観 11 年 6 月 15 日条)と、これをうけて新羅海賊の来襲を防御するために諸国に居住する「夷俘」50人を徴集して「機急之備」に充てる命令が出された 。
「太政官去貞観十一年十二月五日符偁、夷俘五十人為一番、且充機急之備者、而今新羅凶賊屡侵辺境、赴征之兵勇士猶乏、件夷俘徒在諸国、不随公役、繁息経年、其数巨多、望請、言上加置件数、練習射戦、将備非常者、府加覆審、所陳適宜、謹請官裁者、大納言正三位兼行左近衛大将皇太子傅陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、奉勅、依請、/寛平七年三月十三日
巻18/夷俘并外蕃人事/5/太政官符/応大宰府放還流来新羅人事/右被内大臣宣偁、奉勅、如聞、新羅国人有来着、或是帰化、或是流来、凡此流来非其本意、宜毎到放還以彰弘恕、若駕船破損、亦無資粮者、量加修理、給粮発遣、但帰化来者、依例申上、自今以後、立為永例、(『類聚三代格』貞観 11 年 12 月 5 日太政官符)」
とある。この太政官符に連動して、小野朝臣春風は貞観12年(870)正月に対馬守、そして同年3月に肥前権介に任じられたにちがいない。朝廷は蝦夷語を解し、蝦夷の文化に精通し、さらには蝦夷人ネットワークを知る春風を対馬に配置することで、夷俘の監督する任に充てただろう。
大宰府と言えば、すでに大同元年(806)に
「 勅。夷俘之徒、慕化内属、居要害地 、足 備不虞。宜在近江国夷俘六百卌人、遷大宰府、置為防人。毎国掾已上一人専当其事 。駈使勘当勿同平民。量情随宜、不忤野心。禄物・衣服・ 公粮・口田之類、不問男女、一依前格。但防人之粮、終□永給 口分田者、以前防人乗田等給之。其去年所置防人四百十一人皆宜停廃」(類聚国史』大同元年10 月 3 日条
とあるように、大宰府の防人の中に「近江国夷俘六百卌人」が配置されていたことも、小野朝臣春風が任命された理由の一つに加えてよいかもしれない。
その後、弘仁 4 年(813)には、
「 勅、夷俘之性、異於平民 。雖従朝化 、未忘野心 。是以令 諸国司勤加教喩 。而吏乖朝旨、不事存恤。彼等所申、経日不 理。含愁積怨、遂致叛逆。宜令播磨介従五位上藤原朝臣藤成、備前介従五位下高階真人真仲、備中守従五位上大中臣朝臣智治麻呂、前介正六位上栄井王、筑後守従五位下弟村王、肥前介正六位上紀朝臣三中、肥後守従五位上大枝朝臣永山、豊前介外従五位下賀茂県主立長等、厚加教喩 、所申之事、早与処分。其事既重、不可輙決者、言上聴裁。若撫慰乖方、令致叛逆及入京越訴者、専当人等准状科罪。但不得因此令後百姓」(『類聚国史』弘仁 4 年(813)11 月 21 日条 )
に認めるように、播磨・備前・備中・筑前・筑後・肥前・肥後・豊前に夷俘が移配された。加えて、各国の「介」クラスの官人が夷俘を統括する役目を担っていたらしい。
ところで、識者からは我々の視野に入っていないのではないかというお叱りを受けそうであるので、時代はいささか遡るが、
*「陸奥国俘囚三百九十五人分 配大宰府管内諸国」(『続日本紀』宝亀 7 年 9 月 13 日条 )
* 「 出羽国俘囚三百五十八人配、大宰府管内及讃岐国、其七十八人班賜諸司及参議已上、為 賤」(『続日本紀』宝亀 7 年 11 月 29 日条)
の両記事も付記しておきたい。
ちなみに『日本三代実録』貞観 12 年(870) 12 月 2 日条 に見る、
「 太政官下 符上総国司 、令 教 喩夷種 曰、折取夷種 、散居中国 、縦有 盗賊 、令 其防禦 。而今 有 聞。彼国夷俘等、猶挟 野心 、未 染 華風 、或行 火焼 民室 、或持 兵掠 人財物 。凡群盗之徒、自此而起。今不 禁遏 、如 後害 何。宜勤加 捉搦改 其賊心 。若有 革 面向 皇化 者 、殊加 優恤 。習 其性 背 吏教 者、追 入奥地 。莫 使 麁獷之輩侵 于柔良之民 。」
の記事にある「縦有 盗賊 、令 其防禦 」は下総国に下達された太政官符を念頭に置いて理解すべきだろう。
さて、その職をいつ辞任したかは不明であるものの、その後、小野朝臣春風は元慶2年(878)6月に鎮守将軍に拝命されるまでの空白期間がある。この期間に「前の年頻りに誹謗に遭ひ、官を免たれて家居せり」(「前」<筆者注:「サキ」と読む>)とあったらしい。 春風が対馬守、肥前権介在任中に、何らかのトラブルに巻き込まれたようだ。
本稿での関心事は、その「誹謗」にある。
2497番歌 (大系本対照済み)
寄物陳思
早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ■(女+麗)恃
隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ
*隼人
中村明蔵氏の研究によれば、
隼人の朝貢は、天武11年(682)7月が最初であると言う。そして延暦12年(793)まで16回の事例を各文献に確認できる。6年に1度の在京勤務の交替が明文化されたのは霊亀2年(716)である(『続日本紀』霊亀2年5月辛卯条)であり、通説通り天皇を警護する任に従事したと考えてよい。
隼人は6年間在京して、風俗歌舞の奏上をも行ったとある。6年に1度の隼人在京制が天武天皇代まで遡るかは確認できないものの、その時代まで遡っても何ら不自然でない。
『延喜式』隼人司式には、元日・即位・蕃客入朝等の大儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上において、「今来隼人」が供奉し、「吠声」を発するとある。 この「今来隼人」が薩摩・大隅の隼人であると想定した上で、次の考察に移ろう。
そもそも隼人は、『古事記』海幸・山幸段に、天皇の「昼夜之守護人而仕奉、故、至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也」とあり、天皇のそばにいて守護と演劇(「溺時之種々之態」)を担当していたという。『古事記』には、吠声に関する文言はない。しかし『日本書紀』神代下第10段第2の一書に「狗人、(中略)至今不離天皇宮
墻之傍、代吠狗而奉事者矣」とあり、隼人の「吠声」を見る。
万葉集と同時代の資料は見当たらないが、10世紀初めに成立した『延喜式』隼人司式に、その組織は、
「正一人。掌、検校隼人、及名帳、教習歌僻、造作竹笠事。佑一人。令史一人。使部十人。直丁一人。隼人。」
とある。
とあり、隼人司の 正・佑・令史の三官は各1人、使部は10人、直
丁は1人を配置すると定められていたが、隼人の定数は不明であ
る。ただし、『続日本紀』神護景雲元年(767)9月己未条に
「隼人司隼人116人」
とあるが、この数を参考資料程度と見るべきかどうか判断は保留し
なくてはならない。
『延喜式』隼人司式、大儀条
凡元日即位及蕃客入朝等儀、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人廿人、今来隼人廿人、白丁隼人一百卅二人、分陣応天門外之左右、(略)、群官初入自胡床起、今来隼人発吠声三節(蕃客入朝、不在吠限)。其官人著、当色横刀、大衣及番上隼人著、当色横刀、白赤木綿、耳形髪、自余隼人皆著大横布衫(襟袖著両而襴)、布袴(著両而襴)、緋吊肩巾、横刀、白赤木綿、耳形鬢(番上隼人已上横刀私備)。執楯槍並坐胡床。」
とあり、また『延喜式』隼人司式、駕行条に、
「凡遠従駕行者、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人四人及今来隼人十人、供奉。(番上已上並帯横刀、騎馬、但大衣已下著木綿鬢、今来著緋肩巾、木綿鬢、帯横刀、執槍歩行。)其駕経国界及山川道路之曲、今来隼人為吠。」
とあり、隼人が宮中儀礼に搭乗する元日・即位・蕃客入朝等の大
儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上における隼人の服装であっただろ
う。この隼人の服装に関しては、すでに中村明蔵氏が説明したよう
に、
「『延喜式』隼人司条には元日・即位などの大儀の参列や 行幸供奉などの際の服飾の記述がある。その際の服飾とは、「白赤木綿(ゆふ)の耳形の鬘(ばん)」「大横の布杉(ふさん)・布袴(ふこ)」「緋吊(ひはく)の肩
巾(ひれ)」などである。
鬘(髭)は髪飾りで頭部につけたものであるが、それが白・赤の二色で耳形であったという。杉は上半身につけるひとえの短い衣であり、袴は下半身につける「はかま」でズボン状のものである。杉袴については、特に注釈があって、それらの襟(えり)・袖(そで)・両面には欄(らん)という「ふちかざり」がつくというのである。また、肩巾とは肩から左右に垂らした布状のものである(肩巾は呪力を発揮することを前号ー七月号で紹介)。
これらの服飾の材料が支給される規定も隼人司条にはあるので、隼人固有の服飾というより、服属した異族のそれを儀式の場あるいは行幸の場で、とりわけ目立つようにデザインされた服飾であろう。
これらの服飾は、おそらく後代になってデザインされ、隼人の異族性を際立たせたもので、それを官人(儀式の場)・一般人民(行幸の場)にパレード的に見せつけることによって、異族を支配している天皇の権威・権力を誇示し、さらにはその高揚効果をはかったのであろう」
中村明藏
http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/thistimeimg/kodaihayato25.html
2024年1月20日アクセス)
全体の目次
一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
いずれにせよ、『延喜式』によると、「緋吊肩巾」を特長とする
服装が隼人であり、その隼人らが宮中儀礼の中で(ただし蕃客入
朝は除く)、「吠声」を発する。ここでは詳述できないが、隼人らの
手には、平城宮第十四次調査において、遺跡の井戸枠(SE1230)に
転用されるかたちで発見された「隼人の楯」を持っていた。
(68)隼人の盾 - なぶんけんブログ (nabunken.go.jp)2024年1月20日アクセス、平城宮跡資料館で展示されている出土した「隼人の盾」の複製品(奈良市で)
中村明蔵氏の諭を踏まえた竹森友子氏の復元は間違えなく正鵠を
射ているだろう。
「中村明蔵「隼人の楯 隼人と赤色―その服属儀礼と呪術に関し
て」(『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998)。なお、中村氏は「群官初入隼人発声、立定乃止、進於楯前、拍手歌舞」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)から、隼人の歌舞は隼人の楯を立て並べた前で奏された可能性を指摘した(284-285頁)、大嘗祭での隼人の歌舞については「歌舞人等、(割注略)従興禮門、参入御在所屏外、北向立奏風俗歌舞」(巻28、隼人司、大嘗祭)とあり、興禮門から入って御在所(天皇の居所)は悠紀殿(大嘗宮の一つ)であり(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭班幣条)、「立大嘗宮南北門神楯戟」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)とあるように、大嘗宮の南北の門には神楯が立てられているのである。つまり隼人は興禮門から入り大嘗宮を囲む屏の外に北向きに立って、大嘗宮の南の門に立てられた神楯の前で歌舞を奏していると言える」(竹森友子「隼人の楯に関する基礎的考察」調査報告27号、83号)
の通りだと考えたい。
なお、「吠声」に関しては、
「隼人は,麻製の淡水色の狩衣を着,同じく麻製のツメビシ紋様の頭巾をかぶり,右手に鉾,
左手に中啓(扇の一種)を持っている。(中略) 琴の音と共に,隼人二人はたち上がり,前進。宮司が本殿へ昇り,御戸を開く。この時, 隼人二人が,「オーオオオ……オ……オ……」と叫ぶ。書記(筆者注:ママ)に「吠ゆる狗いぬに代わりてつかえ
まつるなり」と述べてある通り。ここでは隼人の吠ゆる声,すなわち警 けい 蹕 ひつ で神霊を招くのである。この呪声は,「隼人の酋長」の子孫,小倉軍蔵さんによると,「ヤマオコ」(両端がとがった細い棒)の形のように,はじめ細く,次第に太く高まり,最後にまた細く唱えるのだという。
献餞,祝詞が終えると,いよいよ隼人舞。 ① 一礼し,立って鉾を持ちかえ,右手を添えて左方へやり,中啓を右手に持ち,目通り上げて,右回り(時計と同じ)に三回歩き, ② 中啓を腰高におろして左回りに三回まわり, ③ 中啓を目通りに上げて右回り三回し, ④ 右足を一歩だすと同時に中啓を開き,鉾を中啓にのせたまま右廻り三回,左廻り三回, 右廻り三回, ⑤ 中啓と鉾を左肩に持ってきて,中啓は開いたまま目通りにて右回り三回, ⑥ 中啓を開いたまま後腰に持ってきて,左廻り三回, ⑦ 中啓は開いたまま右手を目通りに上げて,右廻り三回し,着座。円座に戻る。 このあと,玉串奉奠,撤餞,御戸とざし(隼人の狗吠えあり),拝礼,退場という次第。
」
(下野敏見『南九州の民俗芸能』より引用、ただし 今由佳里「隼人舞」研究ノート『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第 69 巻 (2018)』74頁からの再引用)
現代の民俗を記録した下見氏の調査報告が古代の狗吠声と同一
である保証はないが、一つの参考材料として取り上げておく。
*夜音
通説では、「音」は「こゑ」とよむ。なぜ、「オト」と読まないの
か。
「山背作
氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞
宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(1135番歌)
などの類例を見る。「こゑ」は「人や動物が発する音声」であるの
に対して、「おと」は「人や物が発する音声」であると理解し、本
歌では「こゑ」と読むことにしたい。
今、本歌では「夜のコエ」としているので、この夜に行う儀礼は
大嘗祭である。その密儀は午前0時から始まるので、したがって、
「隼人の『夜の音』」とあれば、彼らの声は大嘗祭に展開される儀
礼であった。
*いちしろく
「いちしるし」>「いちじるし」の古形。室町時代まで清音。「①
神威がはっきりと目に見える、②(おもいあたるところが)はっき
りとあらわれている」(岩波古語、104頁)の②で本歌を解釈すれ
ばよいだろう。
*告りつ
「のる」(神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に
正式に表明することが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さな
い、みだりに口にすべき事柄ではないことを神や他人に対して明か
してしまう意)(岩波古語、1042頁)を念頭において理解してはど
うだろうか。そして同署にある「④みだりに口にすべきことではな
いことを正式に表明する。大切にしていることを打ち明ける」(岩
波古語、1042頁)で解釈したい。
つまり、本歌で言えば、「妻と頼ませ」に認める「今から私が大切
にしていることをお伝えするのですが、私の意中の妻は、ほかならぬ
あなたですよ」と解釈する。
(参考論文:ヒレ 薬師寺慎一 1997年記 初公開。http://kphodou.web.fc2.com/zioku/blog-10/blog-13/blog-19/files/3b21d7835a1324b2954060da78aa8ee0-34.html この論文に各史書の「ひれ」が網羅されており、その労作に敬意を表する)
それによると、
「16日戊辰、従五位下行対馬島守小野朝臣春風進起請2事、其1曰、軍旅之儲、□在介冑、雖溝、助以侶、望請、縫造調布保侶衣千領、以備不慮。其2曰、軍與不慮、倍日兼行、転餉易絶、輺重難給、望請以調布、縫造納□帯袋千枚、可帯士卒腰底、以支急速之備、詔従之、以大宰府庫布造充之」
この保侶衣の用途に関しては定説はないが、私見によると、矢を防ぐ道具でもあったらしい。
『三代実録』貞観12年(870)3月29日条によると、この春風の対馬での戦闘服は、
「故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領」
であった。その色も形状などの情報はないが、少なくとも対馬では誰も着用することのない珍しい東国式甲冑であったと考えてよい。つまり蝦夷との戦いの中で小野朝臣石雄が数々の軍功を挙げた時に愛用していた甲冑であった。小野朝臣春風にとって、それだけに自慢の品であり、しかも朝廷への献上品であったことも春風の心を満足させただろう。
この春風は、三善清行著『藤原保則伝』(日本思想大系8,岩波書店、1979年)によると、
「春風少くして辺塞に遊び、能く夷の語を暁れり」(同書、67頁)
とあり、蝦夷語を駆使できたようだ。その伝に見るように、
「民夷雑居」(68頁)「与民雑居」(『日本三代実録』元慶4年2月25日条)状態にあった出羽国、そして秋田城周辺において蝦夷系住民と非蝦夷系住民とが同一地帯に混住していたので、彼の幼き頃に、あるいは父石雄が同地に進駐していた時に、自然と蝦夷語を習得したと考えるのが妥当である。しかも蝦夷との戦いにも、なにも京から派遣された軍勢だけでなく、東国から徴兵された和人と共に、朝廷に帰服した蝦夷系の人々との合同で編成されていた。したがって、戦闘には、どうしても蝦夷語の習得は不可欠であった。
冒頭書の蝦夷語との比較にしても、あくまでも江戸時代の資料でしかないので自ずと限界があるものの、蝦夷語の一端を知る参考資料である。
『三代実録』貞観12年(870)3月29日条に、
「従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領、牛革甲1領、陸奥国にあり。去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄彼の甲を着して、残賊を討ち平ぐ。その後、兄春枝之を進む。望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。詔して之を許す。其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。」
とある。この短文は7段に分かれていることに気付くだろう。
②
従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。
②故父従五位上小野朝臣石雄の羊革甲1領、牛革甲1領が陸奥国にあり。
③去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄がその甲冑を着して、残賊を討ち平ぐ。
④その後、兄春枝之を進む。
⑤望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。
⑥詔して之を許す。
⑦其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。
従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風は故父従五位上小野朝臣石雄(生没年不詳、征夷副将軍・陸奥介・小野永見の子)の子である。その父小野朝臣石雄が「羊革甲1領、牛革甲1領」を着用して「去る弘仁4年(814)、蝦夷系の賊首吉弥侯止彼須・可牟多知らが逆乱の時」に、この戦闘で軍功を挙げたとある。
蝦夷軍との間で、
「自 宝亀5年、至于当年、惣卅八歳、辺寇展動、瞥口無 絶、丁壮老弱、或疲於征戌、或倦於転運
。百姓窮弊、未得休息 」(『日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑条)
とあるように、宝亀5年(774)から始まった38年間に及ぶ長期戦は、征夷将軍文室綿麻呂による弘仁2年(811)の征夷軍派遣によって終わりを告げた<この争いに関しては熊田亮介氏などによって、最新研究成果が取りまとめられているので、それに譲り、ここでは再論しない(『古代国家と東北』吉川弘文館、2003年)>。
ところで、その色も形状も機能なども分からないずくしだが、小野朝臣石雄愛用の羊革甲とは何であっただろうか。
羊革は生後1年以上の羊の革をsheepskin、生後1年以内の子羊の革をLambskinというが、この父着用の羊革がいずれであったかも不明である。たしかに牛革や馬革に比べて武具としてはデリケートで傷がつきやすく破れやすいという弱点があるものの、羊革は甲冑として手触りの柔らかさと軽さは他の革にはない大きな特徴である。しかも一般的に羊革は毛皮のように羊毛が付いた加工されるので、防寒具にも最適である。
ところで、周知のとおり古代日本甲冑(腰回りの防御である草摺など)の材料の主体は鉄と革(牛、馬、鹿)と木片、綿(綿襖甲もしくは綿襖冑)などであり、組紐である。寡聞にして材料が羊革である甲冑の存在を知らない。
そもそも羊の日本における初見は、『日本書紀』推古七年(599)秋9月癸亥に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を献上したという記事(七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻))である。この記事からしても、羊は、今で言えば「パンダ」と同様に外交的珍獣と考えられ、「奈良時代にはヒツジの飼育記録はなく、考古学的にはヒツジの骨の出土例も 認められない」(廣岡隆信「奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊」『奈良県立橿原考古学研究所紀要―考古学論攷』第 41 冊 2018年、38頁)。この事実は平安時代初期も同様で、廣岡が「平安時代にはヒツジを恒常的に飼育しておらず、霊獣や貢物として日本へ連れて来られることはあっても、その増殖に成功することはなかったと考えて良い。海外からの一時的な羊の渡来の機会にのみ、一部の上級階層だけがその羊を目にする状態が続いていたのである。」(同上論文、39頁)とも指摘している。
小野朝臣春風が生きた時代に羊が畜養されることはなかったと推定してよいならば、父小野朝臣石雄はどこから羊革を入手しただろうか。
ここで、征夷将軍文室綿麻呂の征夷軍約2萬人の兵力が陸奥・出羽からの徴兵でまかなわれたこと、そして実際の戦闘の主力は陸奥・出羽両国の「俘軍」(蝦夷系住民、「概養蝦夷・夷囚・浮囚などと呼称)であったことに注目したい。つまり中央政府による征夷が終わりにあたり、「俘軍」の参戦が決定的な役割を果たしたにもかかわらず、『日本後紀』弘仁4年(813)2月戊申条に
「制 、 損稼之年 、 土民・ 俘囚 、 咸被其災 。 而賑給之日
、 不及俘囚 。 飢題之苦 、 彼此応同 。 救急之患 、 華蛮何限 。 自今以後 、 宣准平民 、 預賑給例 。 但勲位、村 長及給根之類 、 不在此限 」
とある。「限給之日 、不及俘囚 」 の言に端的に表れているように、出羽・陸奥両国における小野朝臣石雄の周囲には、「蝦夷系住民と非蝦夷系住民」とが混住していた。今、当該の記事に見る「賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時」とは、本来投降した蝦夷系住民であった「吉弥侯止彼須・可牟多知」らが陸奥・出羽国守に反旗雄翻し、「逆乱」と化し「賊首」となったと理解される。つまり律令体制に編入された蝦夷系集団の反乱を、小野朝臣石雄が鎮圧した史実を物語ろう。
結論から言えば、小野朝臣石雄が入手した羊革は出羽国秋田城およびその周辺であったと思う。次の記事を念頭に置くからである。
「類聚三代格』延暦 21 年(802)6 月 24 日太政官符には、
「「 太政官符 禁断私交易狄土物事、 右被右大臣宣䆑,渡嶋狄等来朝之日,所貢方物,例以雑皮。而王臣諸家競買好皮,所残悪物以擬進官。仍先下符禁制已久。而出羽国司寛縦曾不遵奉。為吏之道豈合如此。 自今以後,厳加禁断。如違此制,必処重科。事縁勅語。不得重犯。
延暦廿一年六月廿四日」(『類聚三代格』巻十九)
「私に狄土の物を交易するを禁断する事、 右、右大臣の宣を被るに偁く、渡嶋の狄ら来朝の日、貢ぐところの方物は、例、雑皮を以てす。 而るに王臣諸家、競いて好き皮を買い、残るところの悪しき物を以て官に進めんとす。仍て先に符を下して禁制すること已に久し。而るに出羽の国司、寛縦にして曾て遵奉せず。吏たるの道、豈にかくの如くあるべけんや。自今以後、厳かに禁断を加えよ。如しこの制に違わば、必ず重科に処せん。事は勅語に縁り、重ねて犯すことを得ざれ」(関連資料として、『類聚三代格』延暦21 年(787)6月24日太政官符や、『日本後紀』弘仁 6 年(815)3 月 20 日条も参照)
とある。ここで関心を引くのは、「渡嶋狄ら」が出羽国を来訪するときに、その交易品として「雑皮」(各種の毛皮類)を持参する。しかしながら京の「王臣諸家」から派遣された資人らが「好皮」を先に買い、「残るところの悪しき物を」(粗悪品)を官に納入するという記事である(関口明
「渡嶋蝦夷と毛皮交易」『日本古代中世史論考』吉川弘文館、1987年。蓑島栄紀 『「もの」と交易の古代北方史 ―奈良・平安日本と北海道・アイヌ』勉誠出版、2015年など関連論文多数)。この「雑皮」に関しては、
「出羽国〈熊皮廿張。葦鹿皮。独犴皮。数は得るに随う。〉」(延喜式』民部下・交易雑物)
を念頭に置くべきであろうが、我々の視点はさらに一歩進めたい。
ここで、簔浦栄樹の卓抜な研究視点を紹介したい。
「続縄文後半期以来,北海道と本州北部社会のあいだには多様な交流のルートが存在した。ところが,7 世紀後半の北方政策に端を発し,733 年の秋田城設置につながる王権・国家の日本海ルート重視の姿勢は,この交流ルートの変遷に多大な影響を及ぼした。(中略)秋田城交易の定例化と肥大化にともない,9 世紀初頭には津軽海峡を越える交流における秋田城交易の独占化が進む。」(簔浦英樹「古代北方交流史における 秋田城の機能と意義の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 232 集、2022 年 、139頁)
そして
「秋田城が渡嶋エミシに対する朝貢・饗給機能を担い,北方世界の「交易港」として機能していた 8 世紀中葉~ 9 世紀の期間,これに寄生・便乗しつつ生まれた経済的・社会的な諸
関係は,9 世紀末~ 10 世紀に進展する次代の北方交易の種子を用意したとみなされる。」(前掲論文、140頁)
に全面的に賛同して、我々の考察を続けるならば、小野朝臣石雄の羊革の原材料も北方交易港であった秋田城に、渡島蝦夷さらに北方海上通商ネットワークによって中国大陸から交易品の一つとして将来された品であると推定する。それを裏付ける資料は見当たらないが、簔浦が紹介する、
「秋田県では,初期貿易陶磁器として,秋田城跡から越州窯系青磁水注 1 点,邢窯系白磁皿 1 点, 邢窯系白磁托 1 点が,払田柵跡から越州窯系青磁皿 6 点が,内村遺跡(仙北郡美郷町千屋,払田柵 関連集落)から越州窯系青磁皿 1 点が,小林遺跡(山本郡三種町鯉川)から越州窯系青磁碗 1 点が 出土している。年代的には,8 ~ 9 世紀初の秋田城跡出土の越州窯系青磁水注を嚆矢に,9 世紀半 ばを中心に流入し,10 世紀代まで確認されるという」(前掲書、134頁。簔浦が引用するのは、山口博之「奥羽の初期貿易陶磁器」『北方世界の考古学』すいれん舎、 2010]、ただし筆者未見)
など、中国系遺物が出土していることを傍証とする。
さて、我々の当面の課題である小野朝臣春風が父石雄着用の羊革甲に関して、我々の研究視点である「北方海上通商ネットワーク」の上で日本に渡来した品(羊革 ヤンピーyángpí)であったという仮説を提示しておきたい。
なお、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風の在任時
に関する私説?珍説?は別稿で紹介する。
正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年(738)6月条に、相撲に関する記事がある。
「6月20日条:長門国相撲人3人
6月21日条:周防国相撲人3人 」(『『大日本古文書』2-131頁)
とある。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。
時は1年遡るけれども、天平5年の越前国郡稲帳に
「向京当国相撲人参人経弐箇日食料、稲弐束四把、塩壱号弐夕、酒壱升(人別日稲四)」(『大日本古文書』1-463頁)
とある。東西から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したにちがいない。
どうやら各国から3名ずつ相撲取り(「相撲人」)が平城京へ派遣されたが、全国66か国(『延喜式』)すべてから毎年相撲取り3名が京に派遣されたとは考え難い。
ところで『延喜式』巻24主計上では、
*長門国(上廿一日、下十一日)
*周防国(上十九日、下十日)
とあり、平城京場所の具体像は不明であるが、相撲本来が神事であったと考えられるので、平城京で挙行された儀式に参加する力士であったらしい。
自然に連想するのは『続日本紀』天平10年(738)7月癸酉(7日)の
「秋七月、丁卯朔癸酉,天皇御大藏省、覽相撲。晚頭、轉御西池宮。因指殿前梅樹、敕右衛士督下道朝臣真備及諸才子曰、人皆有志、所好不同。朕去春欲翫此樹、而未及賞翫、花葉■(サンズイ+遽)落、意甚惜焉。宜、各賦春意、詠此梅樹。」 の記事である。これによって、7月7日、七夕の日に天皇の前で相撲する「天覧相撲」に参加するために、長門国・周防国から各3人の相撲取りが派遣されたtと考えるのが妥当だろう。 この平城京場所に関しては、『続日本紀』天平6年7月丙寅(7日)の記事、 「天皇観相撲戯」 は見逃せない。これらの記事によって、平城京において、しかも天覧相撲大会が開催され、その時期は7月7日の七夕節であったと断じてよい。 |
とある記事である。これによると、各国の国司および郡司に命じて「騎射・相撲・膂力者(「凡そ此の如き色の人達」)を天皇に進上せよとある。先の『周防国正税帳』の記事は、この勅命に即応した相撲取りの派遣であったと考えてよいだろう。
では、相撲取りの名(しこ名)は判明しないだろうか。管見の限りでは、「出雲国計会帳」断簡に見る、
「廿三日進上相撲人蝮部臣真嶋等弐人事」(続・修 35-6)
とある記事を思い起こす。この一連の断簡が天平6年代であったと推定されることから、これは天平6年の5月もしくは6月の23日に進上されたと想定しての不自然ではないだろう。上記の周防国・長門国の事例から判断すれば、天平6年6月であったと推定する。
彼ら相撲取りを平城京へ引率するのが、「相撲部領使」(万葉集864番歌)であったのは周知の事実。
そして万葉集886番歌にみる
「大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年18歳にして、天平3年6月17日に、相撲使某国試官位姓名の従人と為り、京都に参向ふ」
とある「相撲使」も「相撲部領使」(万葉集864番歌)と同一であろう。なお、従人とある大伴君熊凝も相撲人であると推定してよい。ちなみに、肥後国からの場合、
*肥後国府から大宰府まで「上三日、下一日半」であり、大宰府から京まで「上廿七日、下十四日」(『延喜式』)
であった。通例の日数から推測して、大伴君熊凝の場合、6月17日に出発しているので、7月7日の相撲大会に出場するためには、そうとう強行軍の上京であったにちがいない。さらには肥後国内において相撲取りの選抜に手間取り、上京の日が切迫しただろう。
これら諸国から進上された七夕節の相撲大会を主管し、相撲取りを管理する役所が必要となるが、定説通りに、『続日本紀』養老3年7月辛卯(4日)条にある、
「秋7月辛卯、初めて抜出司を置く」
の「抜出司」を想定したい。
次の平城京出土の墨書土器の例は、近江昌司の教示によるが、
「昭和58年来3次にわたって発掘調査を施工された平城左京2条2坊12坪には、坪の中心に正面廂の正殿建築があり、周囲に廻廊をめぐらし、南面中央に門を開くという宮殿形式の建築配置を認めた」(「背奈福信と相撲」『古代史論集』中、塙書房、1988年、158頁)
の場所から、「左相撲」、「相撲所」を墨書した土器が発掘されたと紹介する。その典拠である奈良市教育委員会編『平城京左京二条二坊十二坪 奈良市水道局庁合建設地 発掘調査概要報告 』によると、奈良市法華寺町266番 地の 1他 の地より出土した土器の中に、
*「相撲所」(土器番号54「相□(撲カ)所」、88「相撲所」)
*「左相撲」(土器番号89「左相□(撲カ)」
(前記書、36-37頁)
とある。どうやらこの平城左京2条2坊12坪付近に「相撲所」(相撲部屋)が存在した可能性を指摘しておきたい。
なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、私案では名前と解したい。後考を俟つ。なお、想像するに、この人物は甲斐国から進上された相撲取りであったかもしれないが、史料的限界のために、その明証はない。
なお、平城相撲場所が終わり、各国から派遣された相撲取りは帰国しただろうが、一部の相撲取りは
「『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』」(『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条)
とあるように,その体形を生かして、高級官人のガードマンなどに採用されたらしい。
詳細
URL | https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111 | |
---|---|---|
木簡番号 | 0 | |
本文 | ・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵) | |
寸法(mm) | 縦 | (209) |
横 | 47 | |
厚さ | 4 | |
型式番号 | 065 | |
出典 | 木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214)) | |
文字説明 | ||
形状 | 上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。 | |
樹種 | ||
木取り | ||
遺跡名 | 平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝 | |
所在地 | 奈良県奈良市佐紀町・法華寺町 | |
調査主体 | 奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部 | |
発掘次数 | 274 | |
遺構番号 | SD4951 | |
地区名 | 6AAIBN14 | |
内容分類 | 文書?・習書 | |
国郡郷里 | ||
人名 | 木善佐美 | |
和暦 | ||
西暦 | ||
木簡説明 |