2024年4月25日木曜日

部領使大宰府少判事従七位下錦部連定麻呂」

 『周防国正税帳』に、

「部領使大宰府少判事従七位下錦部連定麻呂」

の名がある。前後の記事から判断して、錦部連定麻呂は防人を引率する役目を負っていた。天平10年のことである。

井上辰雄先生の教えでは、

*塩4斗(人別日)

とあることから推測して、約800人の防人を引率して、難波から大宰府に向かったと言う。

私の脳裏にある問いー「日本人とは何か?」(その2:出雲弁と松本清張「砂の器」)

 たとえ悪説とそしられようとも、

*ズーズー弁の出雲方言

の由来も、自説で説明したいと考える。

松本清張の『砂の器』の舞台設定に見る通り、ズーズー弁は西の出雲弁、東の東北弁に認められる。東条操や金田一春彦などの方言地図を指摘するまでもなく、東北方言の「飛び地」の状態で出雲弁が存在する。その言語現象を取り上げて、松本清張は推理小説のトリックに組み込み、出雲に犯人のルーツを求める。読者の知的見取り図の「盲点」をつく意外さを感じさせる趣向である。

 とはいえ、すでに浅井亨などの仮説によって、出雲と東北との海上交通によるつながりを推測することで、出雲弁と東北弁との近接性が説明されてもいる。

 私の仮説は、むしろ浅井らが説くように、海上交通による船の民の移動ではなく、東北地方から蝦夷の人々が出雲に移配されたからであると考える。当然の反論は、

1,古代日本において、蝦夷は日本各地に移配されたのに、なぜ出雲だけがズーズー弁か

2,出雲に移配された蝦夷の人々の言語が優越した証拠を提示せよ

などである。

私の脳裏にある問いー「日本人とは何か?」(その1)

このあたりで、私の手の内を明かしても良いかもしれない。

なにも、秘密主義でもないからである。

常に私の脳裏にあるのは、「日本人とは何か」である。

次の記事に注目する理由も、この視点で分析したいからである。

*「陸奥国俘囚三百九十五人分 配大宰府管内諸国」(『続日本紀』宝亀 7 年 9 月 13 日条 )

* 「出羽国俘囚三百五十八人配、大宰府管内及讃岐国、其七十八人班賜諸司及参議已上、為 賤」(『続日本紀』宝亀 7 年 11 月 29 日条) 

つまり、「俘囚」(蝦夷)が東国から大宰府へ移配されたことからして、大宰府管内には古代から東国の蝦夷出身の人々が混住していた。

 周知のとおり、アジアのゲートウェイであった福岡には、朝鮮半島の人々や中国大陸・東南アジアの人々が来住して、日本人と混住してきた。それに加えて、かって異民族と言われてきた蝦夷の人々も福岡(大宰府)に来住して、いわばモザイク状に、あるいは坩堝状に混住していたと主張したい。 つまり古代日本において、国内が関東と東北地方の間に壁が存在し、一方は自民族(ヤマト)、他方は異民族(蝦夷)と対立していたのではなく、奈良朝から国策として、蝦夷が日本各地に移動させられて、その土着の人々と共存していたと考える。

 その自説を説明するために、本ツールを活用して、様々なトピックを取りあげながら、少しずつ記述していきたいと考える。必ずしも史実のみを展開するわけではなく、ときにはノンフィクション的記述とも化し、さらには逆に皆様に教えを請いながら、自説の補強を続けている。


2024年4月16日火曜日

赤司善彦著『大宰府跡』を読む

 赤司善彦著『大宰府跡』同成社、2024年が上梓された。その高著の公刊を謹んでお慶び申し上げます。

 そもそも赤司氏の御本の特長は、大宰府及び北部九州地区に関する考古学関係調査報告書のほぼすべてを自家薬籠中の物として記述されていることにある。門外漢や凡人の観光案内書ではとても歯が立たない、一味も二味も異なる最上のtasteに仕上がっている。大宰府跡の道案内人として余人を以て代えがたいとは、まさにこのこと。そのシリーズの人選にあたった編者の慧眼に、まずは敬意を表したい。

 今後ともに、赤司氏のもとに各方面から陸続として称賛の嵐が届くはずである。今さら私のごとき浅学菲才の「誉め言葉」などは九牛の一毛に過ぎない。したがって、赤司氏にとって「的外れな」蕪辞よりも、ここでは、その趣向を変えて、思いつくままに「へそ曲がり」を書き綴ることとした

い。


*赤司善彦氏が本書に込めたメッセージが何かに関しては、最後に記述するつもりである。


(1)脱字→48頁3行目「記述している」ではないか。

(2)悪文→例えば48頁下から3行目「~の部分があることが判明した」に見る「~が~が」の連続は不適切。小学校綴り方教室では減点もの。

(3)本書全体にわたる頻出する文末表現「~のである」の特異性→試算では、全体で39か所。この「~のである」という文末表現が持つ特別なニュアンスを、明敏怜悧な赤司氏に改めて説明するまでもないだろう。別な表現に変えた方が良いと愚案する。むしろ不要だとさえ思える。『日本語練習帳』(岩波新書)をご案内したい。

(4)しかしながら前記した「~のである」は、第4章のように、考古学的発掘成果を整理したり、記述する箇所では、ほとんど出現しない。これを通して、赤司氏の思考回路を探ることや、早書き(もしくは筆が難渋した、さもなくばひらめき感が不足した)箇所の推定が可能となる。

(5)加えて、赤司氏の定型化した文末表現を辿ることでも、氏の論述の判断度合いや推敲の跡を知る。その一例を分析すると興味深いが、本書の価値とは無縁であり、しかも野暮である。

(6)いささか我が筆がすべるので、次は赤司氏の失笑を買うかもしれない。筆者と赤司氏との接点は全くないので、そのご性格を存じ上げるすべもない。しかし赤司氏の論述を拝読すると、「(大相撲)突っ張り一直線」スタイルに思える。「張り手」があるとは言わないが、とにかく「押し相撲」。その典型的な例として、「大宰帥の公邸」(81頁~87頁)がある。迷いなく、自説を押して押して、立ち止まることはない。立ち止まって、周囲を見渡して「ホンマカイナ」とつぶやく事もない。ただし、私は赤司善彦説に賛同する。

(6)本書の羅針盤とも言える、「はしがき」にある「大宰府とは」の定義は、やや「ヤワ」であり、陳腐すぎないか。赤司氏の基本的分析視点と問題意識を明示する箇所だけに、いささか物足りない。

(7)本書の読者対象は一般人である。本書を携えて大宰府やその周辺を巡遊する方々でもある。もう少し肩の力を抜いたエピソードや平易な説明があっても良かったと思うが、ないものねだりか。基本的スタンスが異なる。

この点、お上手だったのは、NHK「ブラタモリ」。太宰府市考古学担当者が市内の居酒屋(?)に案内して、条坊制の理解を目で見えるようにした実例である。赤司氏の引き出しには山ほどのエピソードがしまい込まれているはず。小出しにせずに、この際、ドーンと出してほしかったのも、読者に息継ぐ場所がないからである。



2024年4月6日土曜日

小野春風、「前の年頻りに誹謗に遭ひ、官を免たれて家居せり」

 前右近衛将監小野春風は、

 「累代の将家にして、驍勇ひとに超えたり、前の年頻りに誹謗に遭ひ、官を免たれて家居せり」(「藤原保則伝」日本思想大系8,岩波書店、67頁)

とある。春風は貞観12年(870)正月に対馬守、そして同年3月に肥前権介に任じられた。

この人事は、貞観 11 年(869)に起きた博多津への新羅海賊の襲来(『日本三代実録』貞観 11 年 6 月 15 日条)と、これをうけて新羅海賊の来襲を防御するために諸国に居住する「夷俘」50人を徴集して「機急之備」に充てる命令が出された 。

「太政官去貞観十一年十二月五日符偁、夷俘五十人為一番、且充機急之備者、而今新羅凶賊屡侵辺境、赴征之兵勇士猶乏、件夷俘徒在諸国、不随公役、繁息経年、其数巨多、望請、言上加置件数、練習射戦、将備非常者、府加覆審、所陳適宜、謹請官裁者、大納言正三位兼行左近衛大将皇太子傅陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、奉勅、依請、/寛平七年三月十三日

巻18/夷俘并外蕃人事/5/太政官符/応大宰府放還流来新羅人事/右被内大臣宣偁、奉勅、如聞、新羅国人有来着、或是帰化、或是流来、凡此流来非其本意、宜毎到放還以彰弘恕、若駕船破損、亦無資粮者、量加修理、給粮発遣、但帰化来者、依例申上、自今以後、立為永例、(『類聚三代格』貞観 11 年 12 月 5 日太政官符)」

とある。この太政官符に連動して、小野朝臣春風は貞観12年(870)正月に対馬守、そして同年3月に肥前権介に任じられたにちがいない。朝廷は蝦夷語を解し、蝦夷の文化に精通し、さらには蝦夷人ネットワークを知る春風を対馬に配置することで、夷俘の監督する任に充てただろう。

 大宰府と言えば、すでに大同元年(806)に

「 勅。夷俘之徒、慕化内属、居要害地 、足 備不虞。宜在近江国夷俘六百卌人、遷大宰府、置為防人。毎国掾已上一人専当其事 。駈使勘当勿同平民。量情随宜、不忤野心。禄物・衣服・ 公粮・口田之類、不問男女、一依前格。但防人之粮、終□永給 口分田者、以前防人乗田等給之。其去年所置防人四百十一人皆宜停廃」(類聚国史』大同元年10 月 3 日条

とあるように、大宰府の防人の中に「江国夷俘六百卌人」が配置されていたことも、小野朝臣春風が任命された理由の一つに加えてよいかもしれない。

 その後、弘仁 4 年(813)には、 

 勅、夷俘之性、異於平民 。雖従朝化 、未忘野心 。是以令 諸国司勤加教喩 。而吏乖朝旨、不事存恤。彼等所申、経日不 理。含愁積怨、遂致叛逆。宜令播磨介従五位上藤原朝臣藤成、備前介従五位下高階真人真仲、備中守従五位上大中臣朝臣智治麻呂、前介正六位上栄井王、筑後守従五位下弟村王、肥前介正六位上紀朝臣三中、肥後守従五位上大枝朝臣永山、豊前介外従五位下賀茂県主立長等、厚加教喩 、所申之事、早与処分。其事既重、不可輙決者、言上聴裁。若撫慰乖方、令致叛逆及入京越訴者、専当人等准状科罪。但不得因此令後百姓」(『類聚国史』弘仁 4 年(813)11 月 21 日条 )

に認めるように、播磨・備前・備中・筑前・筑後・肥前・肥後・豊前に夷俘が移配された。加えて、各国の「介」クラスの官人が夷俘を統括する役目を担っていたらしい。

 ところで、識者からは我々の視野に入っていないのではないかというお叱りを受けそうであるので、時代はいささか遡るが、

*「陸奥国俘囚三百九十五人分 配大宰府管内諸国」(『続日本紀』宝亀 7 年 9 月 13 日条 )

* 「 出羽国俘囚三百五十八人配、大宰府管内及讃岐国、其七十八人班賜諸司及参議已上、為 賤」(『続日本紀』宝亀 7 年 11 月 29 日条)   

の両記事も付記しておきたい。

 ちなみに『日本三代実録』貞観 12 年(870) 12 月 2 日条 に見る、

「 太政官下 符上総国司 、令 教 喩夷種 曰、折取夷種 、散居中国 、縦有 盗賊 、令 其防禦 。而今 有 聞。彼国夷俘等、猶挟 野心 、未 染 華風 、或行 火焼 民室 、或持 兵掠 人財物 。凡群盗之徒、自此而起。今不 禁遏 、如 後害 何。宜勤加 捉搦改 其賊心 。若有 革 面向 皇化 者 、殊加 優恤 。習 其性 背 吏教 者、追 入奥地 。莫 使 麁獷之輩侵 于柔良之民 。」

の記事にある「縦有 盗賊 、令 其防禦 」は下総国に下達された太政官符を念頭に置いて理解すべきだろう。

 さて、その職をいつ辞任したかは不明であるものの、その後、小野朝臣春風は元慶2年(878)6月に鎮守将軍に拝命されるまでの空白期間がある。この期間に「前の年頻りに誹謗に遭ひ、官を免たれて家居せり」(「前」<筆者注:「サキ」と読む>)とあったらしい。 春風が対馬守、肥前権介在任中に、何らかのトラブルに巻き込まれたようだ。

本稿での関心事は、その「誹謗」にある。


万葉集2497番歌

 

2497番歌  (大系本対照済み)

寄物陳思

早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ■(女+麗)恃

隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ

 

*隼人

中村明蔵氏の研究によれば、

隼人の朝貢は、天武11年(682)7月が最初であると言う。そして延暦12年(793)まで16回の事例を各文献に確認できる。6年に1度の在京勤務の交替が明文化されたのは霊亀2年(716)である(『続日本紀』霊亀2年5月辛卯条)であり、通説通り天皇を警護する任に従事したと考えてよい。

隼人は6年間在京して、風俗歌舞の奏上をも行ったとある。6年に1度の隼人在京制が天武天皇代まで遡るかは確認できないものの、その時代まで遡っても何ら不自然でない。

 『延喜式』隼人司式には、元日・即位・蕃客入朝等の大儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上において、「今来隼人」が供奉し、「吠声」を発するとある。 この「今来隼人」が薩摩・大隅の隼人であると想定した上で、次の考察に移ろう。

 そもそも隼人は、『古事記』海幸・山幸段に、天皇の「昼夜之守護人而仕奉、故、至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也」とあり、天皇のそばにいて守護と演劇(「溺時之種々之態」)を担当していたという。『古事記』には、吠声に関する文言はない。しかし『日本書紀』神代下第10段第2の一書に「狗人、(中略)至今不離天皇宮

墻之傍、代吠狗而奉事者矣」とあり、隼人の「吠声」を見る。

 万葉集と同時代の資料は見当たらないが、10世紀初めに成立した『延喜式』隼人司式に、その組織は、

  「正一人。掌、検校隼人、及名帳、教習歌僻、造作竹笠事。佑一人。令史一人。使部十人。直丁一人。隼人。」

とある。

とあり、隼人司の 正・佑・令史の三官は各1人、使部は10人、直

丁は1人を配置すると定められていたが、隼人の定数は不明であ

る。ただし、『続日本紀』神護景雲元年(7679月己未条に

「隼人司隼人116人」

とあるが、この数を参考資料程度と見るべきかどうか判断は保留し

なくてはならない。

 『延喜式』隼人司式、大儀条

凡元日即位及蕃客入朝等儀、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人廿人、今来隼人廿人、白丁隼人一百卅二人、分陣応天門外之左右、(略)、群官初入自胡床起、今来隼人発吠声三節(蕃客入朝、不在吠限)。其官人著、当色横刀、大衣及番上隼人著、当色横刀、白赤木綿、耳形髪、自余隼人皆著大横布衫(襟袖著両而襴)、布袴(著両而襴)、緋吊肩巾、横刀、白赤木綿、耳形鬢(番上隼人已上横刀私備)。執楯槍並坐胡床。」

とあり、また『延喜式』隼人司式、駕行条に、

  「凡遠従駕行者、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人四人及今来隼人十人、供奉。(番上已上並帯横刀、騎馬、但大衣已下著木綿鬢、今来著緋肩巾、木綿鬢、帯横刀、執槍歩行。)其駕経国界及山川道路之曲、今来隼人為吠。」

とあり、隼人が宮中儀礼に搭乗する元日・即位・蕃客入朝等の大

儀、践酢大嘗祭、行幸、御薪進上における隼人の服装であっただろ

う。この隼人の服装に関しては、すでに中村明蔵氏が説明したよう

に、

 「『延喜式』隼人司条には元日・即位などの大儀の参列や 行幸供奉などの際の服飾の記述がある。その際の服飾とは、「白赤木綿(ゆふ)の耳形の鬘(ばん)」「大横の布杉(ふさん)・布袴(ふこ)」「緋吊(ひはく)の肩 巾(ひれ)」などである。
 鬘()は髪飾りで頭部につけたものであるが、それが白・赤の二色で耳形であったという。杉は上半身につけるひとえの短い衣であり、袴は下半身につける「はかま」でズボン状のものである。杉袴については、特に注釈があって、それらの襟(えり)・袖(そで)・両面には欄(らん)という「ふちかざり」がつくというのである。また、肩巾とは肩から左右に垂らした布状のものである(肩巾は呪力を発揮することを前号ー七月号で紹介)
 これらの服飾の材料が支給される規定も隼人司条にはあるので、隼人固有の服飾というより、服属した異族のそれを儀式の場あるいは行幸の場で、とりわけ目立つようにデザインされた服飾であろう。

    これらの服飾は、おそらく後代になってデザインされ、隼人の異族性を際立たせたもので、それを官人(儀式の場)・一般人民(行幸の場)にパレード的に見せつけることによって、異族を支配している天皇の権威・権力を誇示し、さらにはその高揚効果をはかったのであろう」

とは至当の回答だろう(「古代隼人のいきざまをふりかえる―隼人国

成立から1300年―」【二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)】

中村明藏

http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/thistimeimg/kodaihayato25.html

2024120日アクセス)

全体の目次

 いずれにせよ、『延喜式』によると、「緋吊肩巾」を特長とする

服装が隼人であり、その隼人らが宮中儀礼の中で(ただし蕃客入

朝は除く)、「吠声」を発する。ここでは詳述できないが、隼人らの

手には、平城宮第十四次調査において、遺跡の井戸枠(SE1230)に

転用されるかたちで発見された「隼人の楯」を持っていた。

   

(68)隼人の盾 - なぶんけんブログ (nabunken.go.jp)2024120日アクセス、平城宮跡資料館で展示されている出土した「隼人の盾」の複製品(奈良市で)

 中村明蔵氏の諭を踏まえた竹森友子氏の復元は間違えなく正鵠を

射ているだろう。

 「中村明蔵「隼人の楯 隼人と赤色―その服属儀礼と呪術に関し

て」(『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998)。なお、中村氏は「群官初入隼人発声、立定乃止、進於楯前、拍手歌舞」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)から、隼人の歌舞は隼人の楯を立て並べた前で奏された可能性を指摘した(284285頁)、大嘗祭での隼人の歌舞については「歌舞人等、(割注略)従興禮門、参入御在所屏外、北向立奏風俗歌舞」(巻28、隼人司、大嘗祭)とあり、興禮門から入って御在所(天皇の居所)は悠紀殿(大嘗宮の一つ)であり(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭班幣条)、「立大嘗宮南北門神楯戟」(『延喜式』巻7,神祇、践祚大嘗祭、班幣条)とあるように、大嘗宮の南北の門には神楯が立てられているのである。つまり隼人は興禮門から入り大嘗宮を囲む屏の外に北向きに立って、大嘗宮の南の門に立てられた神楯の前で歌舞を奏していると言える」(竹森友子「隼人の楯に関する基礎的考察」調査報告27号、83号)

の通りだと考えたい。

   なお、「吠声」に関しては、

  「隼人は,麻製の淡水色の狩衣を着,同じく麻製のツメビシ紋様の頭巾をかぶり,右手に鉾, 左手に中啓(扇の一種)を持っている。(中略) 琴の音と共に,隼人二人はたち上がり,前進。宮司が本殿へ昇り,御戸を開く。この時, 隼人二人が,「オーオオオ………………」と叫ぶ。書記(筆者注:ママ)に「吠ゆる狗いぬに代わりてつかえ まつるなり」と述べてある通り。ここでは隼人の吠ゆる声,すなわち警 けい 蹕 ひつ で神霊を招くのである。この呪声は,「隼人の酋長」の子孫,小倉軍蔵さんによると,「ヤマオコ」(両端がとがった細い棒)の形のように,はじめ細く,次第に太く高まり,最後にまた細く唱えるのだという。 献餞,祝詞が終えると,いよいよ隼人舞。 一礼し,立って鉾を持ちかえ,右手を添えて左方へやり,中啓を右手に持ち,目通り上げて,右回り(時計と同じ)に三回歩き, 中啓を腰高におろして左回りに三回まわり, 中啓を目通りに上げて右回り三回し, 右足を一歩だすと同時に中啓を開き,鉾を中啓にのせたまま右廻り三回,左廻り三回, 右廻り三回, 中啓と鉾を左肩に持ってきて,中啓は開いたまま目通りにて右回り三回, 中啓を開いたまま後腰に持ってきて,左廻り三回, 中啓は開いたまま右手を目通りに上げて,右廻り三回し,着座。円座に戻る。  このあと,玉串奉奠,撤餞,御戸とざし(隼人の狗吠えあり),拝礼,退場という次第。 」

(下野敏見『南九州の民俗芸能』より引用、ただし 今由佳里「隼人舞」研究ノート『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編 第 69 巻 (2018)』74頁からの再引用)

現代の民俗を記録した下見氏の調査報告が古代の狗吠声と同一

である保証はないが、一つの参考材料として取り上げておく。

 

夜音

 通説では、「音」は「こゑ」とよむ。なぜ、「オト」と読まないの

か。

「山背作

氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞

宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(1135番歌)

などの類例を見る。「こゑ」は「人や動物が発する音声」であるの

に対して、「おと」は「人や物が発する音声」であると理解し、本

歌では「こゑ」と読むことにしたい。

 今、本歌では「夜のコエ」としているので、この夜に行う儀礼は

大嘗祭である。その密儀は午前0時から始まるので、したがって、

「隼人の『夜の音』」とあれば、彼らの声は大嘗祭に展開される儀

礼であった。

 

いちしろく

「いちしるし」>「いちじるし」の古形。室町時代まで清音。「①

神威がはっきりと目に見える、②(おもいあたるところが)はっき

りとあらわれている」(岩波古語、104頁)の②で本歌を解釈すれ

ばよいだろう。

 

告りつ

 「のる」(神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に

正式に表明することが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さな

い、みだりに口にすべき事柄ではないことを神や他人に対して明か

してしまう意)(岩波古語、1042頁)を念頭において理解してはど

うだろうか。そして同署にある「④みだりに口にすべきことではな

いことを正式に表明する。大切にしていることを打ち明ける」(岩

波古語、1042頁)で解釈したい。

 つまり、本歌で言えば、「妻と頼ませ」に認める「今から私が大切

にしていることをお伝えするのですが、私の意中の妻は、ほかならぬ

あなたですよ」と解釈する。

 

  (参考論文:ヒレ 薬師寺慎一 1997年記 初公開。http://kphodou.web.fc2.com/zioku/blog-10/blog-13/blog-19/files/3b21d7835a1324b2954060da78aa8ee0-34.html この論文に各史書の「ひれ」が網羅されており、その労作に敬意を表する)

小野朝臣春風、「能く夷の語を暁れり」(蝦夷語)


 『三代実録』貞観12年(8703月16日条に、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風の名前を見る(巻17,国史大系第4巻、313-314頁)。

それによると、

「16日戊辰、従五位下行対馬島守小野朝臣春風進起請2事、其1曰、軍旅之儲、□在介冑、雖溝、助以侶、望請、縫造調布保侶衣千領、以備不慮。其2曰、軍與不慮、倍日兼行、転餉易絶、輺重難給、望請以調布、縫造納□帯袋千枚、可帯士卒腰底、以支急速之備、詔従之、以大宰府庫布造充之」

この保侶衣の用途に関しては定説はないが、私見によると、矢を防ぐ道具でもあったらしい

 『三代実録』貞観12年(8703月29日条によると、この春風の対馬での戦闘服は、

「故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領」

であった。その色も形状などの情報はないが、少なくとも対馬では誰も着用することのない珍しい東国式甲冑であったと考えてよい。つまり蝦夷との戦いの中で小野朝臣石雄が数々の軍功を挙げた時に愛用していた甲冑であった。小野朝臣春風にとって、それだけに自慢の品であり、しかも朝廷への献上品であったことも春風の心を満足させただろう。

 この春風は、三善清行著『藤原保則伝』(日本思想大系8,岩波書店、1979年)によると、

「春風少くして辺塞に遊び、能く夷の語を暁れり」(同書、67頁)

とあり、蝦夷語を駆使できたようだ。その伝に見るように、

「民夷雑居」(68頁)「与民雑居」(『日本三代実録』元慶4年2月25日条)状態にあった出羽国、そして秋田城周辺において蝦夷系住民と非蝦夷系住民とが同一地帯に混住していたので、彼の幼き頃に、あるいは父石雄が同地に進駐していた時に、自然と蝦夷語を習得したと考えるのが妥当である。しかも蝦夷との戦いにも、なにも京から派遣された軍勢だけでなく、東国から徴兵された和人と共に、朝廷に帰服した蝦夷系の人々との合同で編成されていた。したがって、戦闘には、どうしても蝦夷語の習得は不可欠であった。

冒頭書の蝦夷語との比較にしても、あくまでも江戸時代の資料でしかないので自ずと限界があるものの、蝦夷語の一端を知る参考資料である。