「刀伊の入寇~九州を襲った異民族」の特集があり、
「1019年4月17日に、京都の藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに2通の手紙が到着しました。
その手紙の送り主は当時、大宰府に赴任していた藤原隆家(ふじわらのたかいえ)からで、日付はそれぞれ4月7日と4月8日でした。受け取った藤原実資は自身の日記である『小右記』に、刀伊の来襲を伝える部分を引用して書き残しています。
「刀伊国の人が、50余艘で対馬島にやってきて殺人や放火した。要衝の地を警備し、兵船を派遣した。」
「異国船(=刀伊の船)が乃古嶋(能古島)に到着した。」(『小右記』寛仁3年(1019年)4月17日条)
現在ならば新幹線で数時間で着いてしまう京都ですが、当時はおよそ10日ほどかかって、手紙が都へ伝えられています。この手紙によって、はじめて刀伊の来襲が都に伝えられました。
この刀伊の正体は、中国の満州地方を中心に居住していた「女真族」のこと指しています。
ただし、日本側が「刀伊」の正体を「女真族」であると見破っていたのかは定かではありません。
その証拠に、当初、日本の朝廷は襲撃の主体を当時、朝鮮半島にあった高麗王朝ではないかと疑っていました。
日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」とある。
関連記事は『朝野群載』巻20、「異国」の条にも、
「大宰府解申請官裁事 言上刀伊賊徒或撃取或逃却状」
とあり、ほぼ同文が掲載されているが、『小右記』がさらに詳細である。
『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条
同年七月十三日大宰府解
「言上対馬島判官代長岑諸近越二渡高麗国、隨下身為刀伊賊徒被虜女捨人上帰参状、中略、件 諸近以去六月十五日、晦跡逃亡、仍其由言上先了、而以今月七日諸近到来、申云、~略~不如下相尋老母委 中命於刀伊之地上。欲レ申事由於島司、渡海制重、仍竊取小船、罷向高麗国、将近刀伊境、欲問存亡。爰彼国通事仁礼罷会。~中略~即申云、 ~中略~欲罷還本土之~」
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さて、ここで問題は「刀伊国」とは何かである。九州大学の説明では、
*日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」
とあるが、「朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)」とは何だろうか。
そもそも1019年頃に、「野蛮な民族」を意味する「되」(トゥエ)などという語形はもつ言語学的資料はない。2点の語学的知識の不足のために、この説明はいささか勇み足である。
確かに、
①白鳥庫吉「オランカイ及び刀伊の名義について」『白鳥倉吉全集』第5巻所収
②池内宏「刀伊の賊」『満鮮史研究』中世第1冊、吉川弘文堂、1979年
とあることに依拠しており、九大図書館の欄執筆者も異見なく、踏襲したに違いない。
そもそも1019年頃に、「野蛮な民族」を意味する「되」(トゥエ)などという語形はもつ言語学的資料はない。2点の語学的知識の不足のために、この説明はいささか勇み足である。
確かに、
①白鳥庫吉「オランカイ及び刀伊の名義について」『白鳥倉吉全集』第5巻所収
②池内宏「刀伊の賊」『満鮮史研究』中世第1冊、吉川弘文堂、1979年
とあることに依拠しており、九大図書館の欄執筆者も異見なく、踏襲したに違いない。
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