2017年11月18日土曜日

太宰府にチャイナタウン?

太宰府にチャイナタウンが存在した。
平安時代後期の歌人源俊頼の自選和歌集『散木奇歌集』(総1622首。大治3 (1128) 年頃成立)巻第6「悲嘆部」には、
*帥大納言つくしにてかくれ給にけれは夢なとの心地してあさましさにかかる事は世の常のことそかなしとおもひなくさむれとこれは旅のそらにてものおそろしさもそひ人の心もかはらいたるようにてわか身もたひらかにとりつかんこともありかたかりむへきやうに覚てほけすくる程にをのつから涙の障に覚えける事をわさとにはあらぬとあきをきたる中にきぬの色なとかへける次によめる」(『群書類従』15(和歌部)巻254、38頁)
の序詞にあるように、帥大納言/源経信が永長2年(1097)に逝去した折に、残された歌群の一首に、
*たらちねに別ぬる身は唐人のこととふさへも此世にはにぬ
の詞書きには、「はかたにはへりける唐人とものあまたまうてきてとふらひけるによめる」とある。


2017年11月17日金曜日

『中右記』長承元年(1132)7月28日条の太宰府

「件の宋客弟、貨物を持ち、太宰府の間に来着し、人をして殺害され、唐房を焼かれし事」
この唐房がどこに位置したかは不明なままであるが、私見では、「太宰府市通古賀(とうのこが)」に比定したい。とうのこが=唐の古賀(「空閑地」=荒れ地)と解釈したいからである。

太宰府と蒙古襲来

学校では、蒙古軍が日本に押し寄せた時、彼らの目的地がどこであったか明記されていない。それはズバリ、九州の政治の中心地
*太宰府
であった。日本海に面する海岸の攻防を、教科書で「神風」として蒙古襲来を学習するだけにいかにも福岡を攻略すると錯覚しがちであるが、それは今風の読み方。彼らにとって、敵の本拠地である太宰府は蒙古軍が進撃したかった都市であった。