2023年7月9日日曜日

大宰府管内にあった新羅タウン

博多に存在したチャイナタウン(博多津唐房)はすでに周知の事実である。 

No.177 復元(ふくげん)・博多津唐房(はかたつとうぼう)展 | アーカイブズ | 福岡市博物館 (city.fukuoka.jp)

平安時代後期、11世紀後半から13世紀後半の蒙古襲来までの約200年間、博多には「博多津唐房」とか「大唐街」と呼ばれた中国人貿易集団が居住したエリアが存在した。その位置は、現在の櫛田神社から承天寺付近に至った。

本記事の目的は、博多チャイナタウン以前に博多に新羅タウンが存在したという仮説を提出することにある。

『日本三大実録』貞観12年〈870〉2月20日条には、

「《卷十七貞觀十二年二月廿日壬寅》○廿日壬寅。勅大宰府。令新羅人潤清宣堅等卅人及元來居止管内之。水陸兩道給食馬入京。先是彼府言。新羅凶賊掠奪貢綿。以潤清等處之嫌疑。禁其身奏之。太政官處分。殊加仁恩。給粮放還。潤清等不得順風。无由歸發其國。對馬嶋司進新羅消息日記。并彼國流來七人。府須依例給粮放却。但爾新羅。凶毒狼戻。亦廼者對馬嶋人卜部乙屎麿。被禁彼國。脱獄遁歸。説彼練習兵士之状。若彼疑洩語。爲伺氣色差遣七人。詐稱流來歟。凡垂仁放還。尋常之事。挾往來。當加誅。加之。潤清等久事交關。僑寄此地。能候物色。知我无。令放歸於彼。示弱於。既乖安不忘危之意。又從來居住管内者。亦復有數。此皆外似歸化。内懷造謀。若有來侵。必爲内應。請准天長元年八月廿日格旨。不論新舊。併遷陸奧之空地。絶其覬覦之心。從之。」

この記事で注目されるのは、大宰府管内に「潤清等久事交關」、つまり交易(「交関」)を長い間する潤清・宣堅ら新羅人が居住するタウンの存在を想定せざるを得ない。

 これを裏付けるように、『日本三大実録』貞観8年〈866〉7月15日条に、

「《卷十三貞觀八年(八六六)七月十五日丁巳》○十五日丁巳。大宰府馳驛奏言。肥前國基肆郡人川邊豐穗告。同郡擬大領山春永語豐穗云。與新羅人珎賓長。共渡入新羅國。熹造兵弩器械之術。還來將撃取對馬嶋。藤津郡領葛津貞津。高來郡擬大領大刀主。彼杵郡人永岡藤津等。是同謀者也。仍副射手册五人名簿進之。」

とある「與新羅人珎賓長」は大宰府管内の新羅タウン居住であったと推定される。

この新羅タウンへの渡航の折に、自然災害で長門国に漂着した新羅人商人が

『日本後紀』弘仁5年〈814〉10月丙申条にある。

「丙申、新羅商人31人漂着於長門国豊浦郡」


この新羅タウンは鴻臚館付近に存在していたのではないだろうか。



2023年7月8日土曜日

大宰府の小字

 下記の資料は太宰府市史からの転記である。

その中で、注目するのは、坂本三丁目の小字名である

*正府

である。


確かに、日本遺産太宰の説明によると、

*「「館」は都からの赴任者の官舎で、このうち「南館」は菅原道真が謫居した館として知られています。その後、道真の霊を弔うため大宰大弐藤原惟憲が1023年に浄妙院を建立し、ここと天満宮をむすぶ神幸行事が大宰権帥大江匡房により1101年にはじめられました。その場所は引き継がれ、今は榎社となっています。近くに客館跡があり、朱雀大路沿いの雰囲気が感じられる場所です。」南館跡 | 日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ (dazaifu-japan-heritage.jp)

とある。とすれば、この「正府」は都からの赴任者の官舎「館」を示すのか、

d-525.pdf

観世音寺の小字標識
観世音寺1丁目F0078旧小字標石 日吉(ひよし・ひえ)
F0085旧小字標石 五反田(ごたんだ)
F0091小字標石 土居ノ内(どいのうち)
F0111旧小字標石 露切(つゆきり)

観世音寺2丁目F0058旧小字標石 広丸(ひろまる)、
F0059旧小字標石 大楠(おおぐす)
F0061旧小字標石 不丁(ふちょう)
F0146旧小字標石 油田(あぶらだ)
観世音寺3丁目F0122旧小字標石 大裏(だいり・おおうら)
観世音寺4丁目F0080旧小字標石 住ヶ元(すみがもと)
F0082旧小字標石 学業(がくぎょう)
F0100旧小字標石 安養寺(あんようじ)、
観世音寺5丁目F0102旧小字標石 堂廻(どうめぐり)
F0105旧小字標石 山ノ井(やまのい)
F0106旧小字標石 今道(いまみち)
F0107小字標石 御所ノ内(ごしょのうち)、
F0114旧小字標石 朝日(あさひ)

大字観世音寺
無し

坂本

坂本の文化遺産一覧
坂本1丁目F0038旧小字標石 石橋(いしばし)
F0043旧小字標石 関屋(せきや)
坂本2丁目F0031旧小字標石 松倉(まつくら)、
F0033旧小字標石 エリカド
坂本3丁目F0017旧小字標石 花屋敷(はなのやしき)
F0019旧小字標石 浦山(うらやま)、
F0020旧小字標石 林崎(はやしざき)
F0021旧小字標石 西浦(にしうら)、
F0022旧小字標石 池田(いけだ)
F0023旧小字標石 前(まえ)
F0026旧小字標石 辻(つじ)、
F0029旧小字標石 大正府(おおしょうぶ)
F0030旧小字標石 小正府(こしょうぶ)、
F0126追分石(道標 花屋敷サコ)

大字坂本なし


国分松本遺跡出土の木簡



 太宰府市文化財課によると、この遺跡は

☆太宰府市国分3丁目479-1

に所在する。

上記の国分松本遺跡第13次遺跡説明会資料なよると、詳細な情報提供がある。

私が注目するのは、「竺志前国嶋評」の表題と24枚の木簡である。


<参考記事>太宰府市国分松本遺跡出土木簡について : 嶋評戸口変動記録木簡を中心に  坂上 康俊

  • 月刊考古学ジャーナル / 考古学ジャーナル編集委員会 編 (649), 14-17, 2013-11

大宰府の大字・小字・ホノケ(太宰府市史よりの引用)

 

出典:https://www.city.dazaifu.lg.jp/soshiki/2/1846.html


地名の読み方と由来

区分地名読み方由来
大字通古賀とおのこがここに筑前国衙があったから、といわれている。
>>註)長沼賢海)(1883-1980)によると、「通古賀王城神社・筑前国衙説」

大字観世音寺かんぜおんじかつての西海道第一の官寺「観世音寺」に由来する。
>>註)観世音寺は7世紀後半、天智天皇の発願で母・斉明天皇の供養のために創建。完成したのは、746年。
大字国分こくぶ8世紀半ば、筑前国分寺・国分尼寺がここに建てられた。
>>現在の福岡県太宰府市国分4丁目13
大字北谷きただに宝満山の太宰府市域の北側の谷
行政区松川まつごう 
町名宰府さいふ 
町名都府楼とふろう 
町名白川しらかわ 
大字・町名水城みずき 
大字・町名大佐野おおざの 
大字・町名向佐野むかいざの 
大字・町名吉松よしまつ博多の港に入る船にとって、良い目標となる大きな松の木があったことから名付けられたという。
小字・町名連歌屋れんがや今の宰府三丁目の町筋で、鎌倉時代末から江戸時代末まで、連歌の会所があった。
小字・町名朱雀すざく 
小字愛獄おだけ 
小字関屋せきや刈萱伝説で有名な刈萱の関があった。
ホノケ四王寺しおうじ山上に大宰府鎮護の四王寺(四王院)が造られ、東西南北の峰にそれぞれ持国天、広目天、増長天、多聞天を祀ったことに由来する。
ホノケ小鳥居小路ことりいしょうじ安楽寺天満宮の別当、小鳥居家の屋敷があった。
ホノケ洗出あらいだし国分大谷から砂が流れ出てできた土地だという。
出典:太宰府市史「民俗資料編」P1101から

ホノケとは・・・小字より小さい地区(場所)をホノケと総称します。特定の場所ごとにそれぞれ具体的な名前があります

大宰府四天王寺四天王像

 『類聚三代格』巻2、宝亀5年(774)3月3

日太政官符

太政官符

応奉造四天王寺□像四軀事〈各高六尺>

右被内大臣従二位藤原朝臣宣称、奉勅、如聞新羅兇醜不顧恩義、 早懐毒心、 常為咒咀。仏神難誣、 慮或報応。宜令下大宰府直新羅国、高顕浄地奉造件像、攘攘中却其災。仍請浄行僧四口、 各当像前事以上、依最勝王経四天王護国品。日読経王、 夜誦神咒。但春秋二時別一七日、弥益精進依法修行。仍監已 上一人、専当其事。其僧別法服、麻袈裟蔭脊各一領。麻裳絁綿袴一腰。絁襖子汗衫各一領、襪菲各一両。布施絁一疋。綿三屯。布 二端、供養布施並用庫物及正税。自今以後永為恒例。 宝亀五年三月三日


この文が意味するのは、単に「鎮護国家思想によって四王院(四天王寺)が創建されました。」というお役所風解釈ではなく、新羅に対する日本の敵対心を表現していると考えるのが自然であろう。

太宰帥の業務

『養老職員令』大宰府条

大宰府〈帯筑前国)。 

帥一人。 〈掌。祠社、戸口簿帳、字養百姓、勧課農桑、糺察所部、貢挙、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵駅、伝馬、烽候、城牧、過所、公私馬牛、闌雑物、及寺、僧尼名籍、蕃客、帰化、饗讌事。 〉

『類聚三代格』巻18収録「応大宰府放還、流来新羅人事」

 『類聚三代格』巻十八宝亀五年(774)5月17日太政官

太政官符

応大宰府放、還流来新羅人事

右被内大臣宣称、奉勅、如聞、新羅国人時、有来着。或是帰化、或是流来。凡此流来、非其本意。宜毎到放還、以彰弘恕。若駕船破損、亦無資粮者、量加修理、給粮発遣。但帰化来者、依例申上。自今以後、立為永例」



三月,庚子朔癸卯,讚岐國,飢。賑給之。
 但馬守-從四位下-安倍朝臣-息道,卒。
 是日,新羅國使禮府卿-沙飡-金-三玄已下二百卅五人,到泊大宰府。遣河內守從五位上紀朝臣廣純,大外記外從五位下內藏忌寸全成等,問其來朝之由。三玄言曰:「奉本國王教,請脩舊好,每相聘問。并將國信物及在唐大使-藤原-河清書來朝。」問曰:「夫請脩舊好每相聘問者,乃似亢禮之隣。非是供職之國。且改貢調,稱為國信。變古改常,其義如何?」對曰:「本國上宰-金-順貞之時,舟楫相尋,常脩職貢。今其孫-邕,繼位執政,追尋家聲,係心供奉。是以,請修舊好,每相聘問。又三玄本非貢調之使。本國便因使次,聊進土毛。故不稱御調。敢陳使旨。自外不知。」於是,敕問新羅入朝由使等曰:「新羅元來稱臣貢調,古今所知。而不率舊章,妄作新意。調稱信物,朝為修好。以昔准今,殊無禮數。宜給渡海料,早速放還。」為豐前守。外從五位下-秦忌寸-蓑守,為日向守。

2023年7月7日金曜日

大宰府を通過した外国人(天武朝以前)

 584年 百済から帰朝した鹿深臣が弥勒石造1体、佐伯連が仏像一体を持ち帰る

588年 百済使が来朝。仏舎利や僧、技術者を帯同。善信尼らとともに百済に帰国

595年 高麗僧慧慈、百済僧慧聡が来朝。

597年 百済王子阿佐が来朝。

598年 難波吉士磐金が新羅から帰国。新羅が孔雀を献上

599年 百済がラクダ1匹、ロバ1匹、羊2頭、白雉1隻を持参。

602年 百済僧観勒が来朝。高句麗僧僧隆が来朝。

610年 高句麗僧曇徴・法定が来朝。 

612年 百済より路子工が来朝、須弥山形・呉橋を建築。

615年 遣隋使犬上御田鍬とともに、百済送使と共に帰国

621年 新羅使が来朝

622年 新羅使・任那使が来朝

625年 高句麗僧恵灌が来朝

630年 高麗使。百済使が来朝

632年 遣唐使犬上御田鍬が新羅送使と共に帰国。唐使高表仁と共に。

630年 高麗使・百済使が来朝

635年 百済使が来朝

638年 新羅使・任那使・百済使が来朝

639年 新羅送使が来朝。遣隋使僧恵穏・恵雲とともに。

640年 百済。新羅送使が来朝


この一連の歴史的流れを大宰府の観点から整理しておきたい。

まず、最も大きな変化は東アジア情勢の転換点にあった618年である。この年、隋が滅亡し、唐が覇権を樹立する。

その歴史的変化に敏感に即応したが新羅であった。621年、それまで対日政策を司っていた「倭典」を組織改編し、唐をも含む対外政策全般を取り扱う「領客司」を設置し、新羅は唐そして日本へ、ほぼ同時に上表文を送付する。その上表文を作成する組織として「詳文師(司)」をも開設する。

 確かに高句麗は619年に、そして百済も新羅と同じく621年に使者を派遣している。しかしながら、新羅が高句麗や百済と大きく違うのは、唐風化である。649年の唐風衣装との一致、650年の唐式年号の布告し、併せて唐風の把笏制度の導入、そして極めつけは654年の唐の律令をモデルとした「理方府格」の制定である。つまり、新羅は唐帝国と一体化しながら、唐の信頼を得るとともに、律令による法の整備と実施主体(官僚組織)を確立することで、百済や高句麗との国力に差を付けるとともに、凌駕することに努めた。