2016年7月9日土曜日

そもそも江戸時代の大宰府は?


(1)現在の太宰府市域は、北谷村、内山村、宰府村、観世音寺村、片野村、通墓村、坂本村、水城村、国分村、書松村、向佐野村、大佐野村の12村から構成された。
黒田長政が筑前国入部直後の慶長七(一六〇二)年に実施した検地「慶長年中洞各村別石高帳」に12の地名が確認できる。ただし宰府村は、宝暦期(1751-1761)ごろに、宰府社領分と宰府蔵納分に分村し、さらに近世後期に片野村から片野新村が分村した。

(2)そもそも江戸時代の大宰府は、博多から天領日田(九州5ヶ国の接点)までの日田街道の沿線であり、しかも大宰府天満宮の門前の宰府村前の門前町として知られていた。

(3)博多・福岡から下肥を調達し、大宰府の村々は農業を生産してきた。



  

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