2016年7月4日月曜日

なぜ、「大野城」なのか?

大宰府政庁の背後にある四天王山全山に山城がある。それを大野城と表記する。それは、いつから、誰が、なぜ「大野城(おおのじょう)」と表記し始めたのだろうか?


延喜5年 (905) の筑前国観世音寺資財帳には, 次のように記されている。
「御笠郡 大野城山壱處従寺以北限大野南騙辺遠賀下道 東限大野 至 川野」
とあり、905年にはすでに「大野城」という表記が成立していたことに留意しておきたい。





愚説は、こうである。まず、上掲した地図に見るとおり、「扇屋敷」とある。「扇=おうぎ」であると理解したい。

とすれば、次の図式が想定される。

「おおぎ」(大+城)の和名⇒「大城」の漢字表記⇒「おお+の+ぎ(大城)」の「の」挿入⇒「大+の+城」の「城」の音読み⇒「大+野+城(jo)」の「の」の漢字表記⇒大野城(oo + no+jo)の成立

愚考するに、四天王山に山城を建設したとき、大宰府の人々にとって、その城は「大城」であり、「小城」は基山に築かれた「基肄城」(筑紫野市)であったにちがいない。とすれば、

「こぎ⇒このぎ(小城)⇒小+の+城(しろ)⇒子野城(このじょう)」であったにちがいないが、残念ながらこの語形を持つ地名は見あたらない。後考を俟ちたい。

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