2024年3月31日日曜日

小野朝臣春風奏言すーー北方海上通商ネットワーク

 『三代実録』貞観12年(8703月29日条に、

「従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領、牛革甲1領、陸奥国にあり。去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄彼の甲を着して、残賊を討ち平ぐ。その後、兄春枝之を進む。望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。詔して之を許す。其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。」

とある。この短文は7段に分かれていることに気付くだろう。

    従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。

②故父従五位上小野朝臣石雄の羊革甲1領、牛革甲1領が陸奥国にあり。

③去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄がその甲冑を着して、残賊を討ち平ぐ。

④その後、兄春枝之を進む。

⑤望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。

⑥詔して之を許す。

⑦其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。

 

従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風は故父従五位上小野朝臣石雄(生没年不詳、征夷副将軍・陸奥介・小野永見の子)の子である。その父小野朝臣石雄が「羊革甲1領、牛革甲1領」を着用して「去る弘仁4年(814)、蝦夷系の賊首吉弥侯止彼須・可牟多知らが逆乱の時」に、この戦闘で軍功を挙げたとある。

 蝦夷軍との間で、

「自 宝亀5年、至于当年、惣卅八歳、辺寇展動、瞥口無 絶、丁壮老弱、或疲於征戌、或倦於転運 。百姓窮弊、未得休息 」(『日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑条)

とあるように、宝亀5年(774)から始まった38年間に及ぶ長期戦は、征夷将軍文室綿麻呂による弘仁2年(811)の征夷軍派遣によって終わりを告げた<この争いに関しては熊田亮介氏などによって、最新研究成果が取りまとめられているので、それに譲り、ここでは再論しない(『古代国家と東北』吉川弘文館、2003年)>。

 ところで、その色も形状も機能なども分からないずくしだが、小野朝臣石雄愛用の羊革甲とは何であっただろうか。

羊革は生後1年以上の羊の革をsheepskin、生後1年以内の子羊の革をLambskinというが、この父着用の羊革がいずれであったかも不明である。たしかに牛革や馬革に比べて武具としてはデリケートで傷がつきやすく破れやすいという弱点があるものの、羊革は甲冑として手触りの柔らかさと軽さは他の革にはない大きな特徴である。しかも一般的に羊革は毛皮のように羊毛が付いた加工されるので、防寒具にも最適である。

ところで、周知のとおり古代日本甲冑(腰回りの防御である草摺など)の材料の主体は鉄と革(牛、馬、鹿)と木片、綿(綿甲もしくは綿)などであり、組紐である。寡聞にして材料が羊革である甲冑の存在を知らない。

そもそも羊の日本における初見は、『日本書紀』推古七年(599)秋9月癸亥に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を献上したという記事(七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻))である。この記事からしても、羊は、今で言えば「パンダ」と同様に外交的珍獣と考えられ、「奈良時代にはヒツジの飼育記録はなく、考古学的にはヒツジの骨の出土例も 認められない」(廣岡隆信「奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊」『奈良県立橿原考古学研究所紀要―考古学論攷』第 41 冊 2018年、38頁)。この事実は平安時代初期も同様で、廣岡が「平安時代にはヒツジを恒常的に飼育しておらず、霊獣や貢物として日本へ連れて来られることはあっても、その増殖に成功することはなかったと考えて良い。海外からの一時的な羊の渡来の機会にのみ、一部の上級階層だけがその羊を目にする状態が続いていたのである。」(同上論文、39頁)とも指摘している。

小野朝臣春風が生きた時代に羊が畜養されることはなかったと推定してよいならば、父小野朝臣石雄はどこから羊革を入手しただろうか。

ここで、征夷将軍文室綿麻呂の征夷軍約2萬人の兵力が陸奥・出羽からの徴兵でまかなわれたこと、そして実際の戦闘の主力は陸奥・出羽両国の「俘軍」(蝦夷系住民、「概養蝦夷・夷囚・浮囚などと呼称)であったことに注目したい。つまり中央政府による征夷が終わりにあたり、「俘軍」の参戦が決定的な役割を果たしたにもかかわらず、『日本後紀』弘仁4年(8132月戊申条に

 「制 、 損稼之年 、 土民・ 俘囚 、 咸被其災 。 而賑給之日 、 不及俘囚 。 飢題之苦 、 彼此応同 。 救急之患 、 華蛮何限 。 自今以後 、 宣准平民 、 預賑給例 。 但勲位、村 長及給根之類 、 不在此限 」 

とある。「限給之日 、不及俘囚 」 の言に端的に表れているように、出羽・陸奥両国における小野朝臣石雄の周囲には、「蝦夷系住民と非蝦夷系住民」とが混住していた。今、当該の記事に見る「賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時」とは、本来投降した蝦夷系住民であった「吉弥侯止彼須・可牟多知」らが陸奥・出羽国守に反旗雄翻し、「逆乱」と化し「賊首」となったと理解される。つまり律令体制に編入された蝦夷系集団の反乱を、小野朝臣石雄が鎮圧した史実を物語ろう。

結論から言えば、小野朝臣石雄が入手した羊革は出羽国秋田城およびその周辺であったと思う。次の記事を念頭に置くからである。

 「類聚三代格』延暦 21 年(8026 24 日太政官符には、

「 太政官符  禁断私交易狄土物事、 右被右大臣宣䆑,渡嶋狄等来朝之日,所貢方物,例以雑皮。而王臣諸家競買好皮,所残悪物以擬進官。仍先下符禁制已久。而出羽国司寛縦曾不遵奉。為吏之道豈合如此。 自今以後,厳加禁断。如違此制,必処重科。事縁勅語。不得重犯。         

 延暦廿一年六月廿四日」(『類聚三代格』巻十九) 

「私に狄土の物を交易するを禁断する事、 右、右大臣の宣を被るに偁く、渡嶋の狄ら来朝の日、貢ぐところの方物は、例、雑皮を以てす。 而るに王臣諸家、競いて好き皮を買い、残るところの悪しき物を以て官に進めんとす。仍て先に符を下して禁制すること已に久し。而るに出羽の国司、寛縦にして曾て遵奉せず。吏たるの道、豈にかくの如くあるべけんや。自今以後、厳かに禁断を加えよ。如しこの制に違わば、必ず重科に処せん。事は勅語に縁り、重ねて犯すことを得ざれ」(関連資料として、『類聚三代格』延暦21 年(787)6月24日太政官符や、『日本後紀』弘仁 6 年(8153 20 日条も参照)

とある。ここで関心を引くのは、「渡嶋狄ら」が出羽国を来訪するときに、その交易品として「雑皮」(各種の毛皮類)を持参する。しかしながら京の「王臣諸家」から派遣された資人らが「好皮」を先に買い、「残るところの悪しき物を」(粗悪品)を官に納入するという記事である(関口明 「渡嶋蝦夷と毛皮交易」『日本古代中世史論考』吉川弘文館、1987年。蓑島栄紀  『「もの」と交易の古代北方史  ―奈良・平安日本と北海道・アイヌ』勉誠出版、2015年など関連論文多数)。この「雑皮」に関しては、

「出羽国〈熊皮廿張。葦鹿皮。独犴皮。数は得るに随う。〉」(延喜式』民部下・交易雑物)

を念頭に置くべきであろうが、我々の視点はさらに一歩進めたい

 ここで、簔浦栄樹の卓抜な研究視点を紹介したい。

 「続縄文後半期以来,北海道と本州北部社会のあいだには多様な交流のルートが存在した。ところが,7 世紀後半の北方政策に端を発し,733 年の秋田城設置につながる王権・国家の日本海ルート重視の姿勢は,この交流ルートの変遷に多大な影響を及ぼした。(中略)秋田城交易の定例化と肥大化にともない,9 世紀初頭には津軽海峡を越える交流における秋田城交易の独占化が進む。」(簔浦英樹「古代北方交流史における 秋田城の機能と意義の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 232 集、2022 年 、139頁)

そして

「秋田城が渡嶋エミシに対する朝貢・饗給機能を担い,北方世界の「交易港」として機能していた 8 世紀中葉~ 9 世紀の期間,これに寄生・便乗しつつ生まれた経済的・社会的な諸 関係は,9 世紀末~ 10 世紀に進展する次代の北方交易の種子を用意したとみなされる。」(前掲論文、140頁)

に全面的に賛同して、我々の考察を続けるならば、小野朝臣石雄の羊革の原材料も北方交易港であった秋田城に、渡島蝦夷さらに北方海上通商ネットワークによって中国大陸から交易品の一つとして将来された品であると推定する。それを裏付ける資料は見当たらないが、簔浦が紹介する、

 「秋田県では,初期貿易陶磁器として,秋田城跡から越州窯系青磁水注 1 点,邢窯系白磁皿 1 点, 邢窯系白磁托 1 点が,払田柵跡から越州窯系青磁皿 6 点が,内村遺跡(仙北郡美郷町千屋,払田柵 関連集落)から越州窯系青磁皿 1 点が,小林遺跡(山本郡三種町鯉川)から越州窯系青磁碗 1 点が 出土している。年代的には,8 9 世紀初の秋田城跡出土の越州窯系青磁水注を嚆矢に,9 世紀半 ばを中心に流入し,10 世紀代まで確認されるという」(前掲書、134頁。簔浦が引用するのは、山口博之「奥羽の初期貿易陶磁器」『北方世界の考古学』すいれん舎、 2010]、ただし筆者未見)

など、中国系遺物が出土していることを傍証とする。

 さて、我々の当面の課題である小野朝臣春風が父石雄着用の羊革甲に関して、我々の研究視点である「北方海上通商ネットワーク」の上で日本に渡来した品(羊革 ヤンピーyángpí)であったという仮説を提示しておきたい。

 なお、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風の在任時

に関する私説?珍説?は別稿で紹介する。


2024年3月30日土曜日

天平相撲、平城京場所(仮称)2024年1月2日版+補訂

 正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年(738)6月条に、相撲に関する記事がある。

「6月20日条:長門国相撲人3人

6月21日条:周防国相撲人3人 」(『『大日本古文書』2-131頁)

とある。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。

 時は1年遡るけれども、天平5年の越前国郡稲帳に

「向京当国相撲人参人経弐箇日食料、稲弐束四把、塩壱号弐夕、酒壱升(人別日稲四)」(『大日本古文書』1-463頁)

とある。東西から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したにちがいない。

どうやら各国から3名ずつ相撲取り(「相撲人」)が平城京へ派遣されたが、全国66か国(『延喜式』)すべてから毎年相撲取り3名が京に派遣されたとは考え難い。

ところで『延喜式』巻24主計上では、

*長門国(上廿一日、下十一日)

*周防国(上十九日、下十日)

とあり、平城京場所の具体像は不明であるが、相撲本来が神事であったと考えられるので、平城京で挙行された儀式に参加する力士であったらしい。

自然に連想するのは『続日本紀』天平10年(738)7月癸酉(7日)の


秋七月、丁卯朔癸酉,天皇御大藏省、覽相撲。晚頭、轉御西池宮。因指殿前梅樹、敕右衛士督下道朝臣真備及諸才子曰、人皆有志、所好不同。朕去春欲翫此樹、而未及賞翫、花葉■(サンズイ+遽)落、意甚惜焉。宜、各賦春意、詠此梅樹。」

の記事である。これによって、7月7日、七夕の日に天皇の前で相撲する「天覧相撲」に参加するために、長門国・周防国から各3人の相撲取りが派遣されたtと考えるのが妥当だろう。
 この平城京場所に関しては、『続日本紀』天平6年7月丙寅(7日)の記事、
「天皇観相撲戯」
は見逃せない。これらの記事によって、平城京において、しかも天覧相撲大会が開催され、その時期は7月7日の七夕節であったと断じてよい。

重ね合わせて思い浮かべるのは、『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条に

辛卯、敕曰、如聞、『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』、有詔搜索、無人可進。自今以後,不得更然。若有違者、國司追奪位記、仍解見任。郡司先加決罰、准敕解卻。其誂求者、以違敕罪罪之。但先充帳內、資人者、不在此限。凡如此色人等、國郡預知、存意簡點、臨敕至日、即時貢進。宜告內外咸使知聞。」

とある記事である。これによると、各国の国司および郡司に命じて「騎射・相撲・膂力者(「凡そ此の如き色の人達」)を天皇に進上せよとある。先の『周防国正税帳』の記事は、この勅命に即応した相撲取りの派遣であったと考えてよいだろう。


 では、相撲取りの名(しこ名)は判明しないだろうか。管見の限りでは、「出雲国計会帳」断簡に見る、

「廿三日進上相撲蝮部臣真嶋等弐人事」(続・修 35-6)

とある記事を思い起こす。この一連の断簡が天平6年代であったと推定されることから、これは天平6年の5月もしくは6月の23日に進上されたと想定しての不自然ではないだろう。上記の周防国・長門国の事例から判断すれば、天平6年6月であったと推定する。

彼ら相撲取りを平城京へ引率するのが、「相撲部領使」(万葉集864番歌)であったのは周知の事実。

そして万葉集886番歌にみる

「大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年18歳にして、天平3年6月17日に、相撲使某国試官位姓名の従人と為り、京都に参向ふ」

とある「相撲使」も「相撲部領使」(万葉集864番歌)と同一であろう。なお、従人とある大伴君熊凝も相撲人であると推定してよい。ちなみに、肥後国からの場合、

*肥後国府から大宰府まで「上三日、下一日半」であり、大宰府から京まで「上廿七日、下十四日」(『延喜式』)

であった。通例の日数から推測して、大伴君熊凝の場合、6月17日に出発しているので、7月7日の相撲大会に出場するためには、そうとう強行軍の上京であったにちがいない。さらには肥後国内において相撲取りの選抜に手間取り、上京の日が切迫しただろう。

 これら諸国から進上された七夕節の相撲大会を主管し、相撲取りを管理する役所が必要となるが、定説通りに、『続日本紀』養老3年7月辛卯(4日)条にある、

「秋7月辛卯、初めて抜出司を置く」

の「抜出司」を想定したい。

 次の平城京出土の墨書土器の例は、近江昌司の教示によるが、

「昭和58年来3次にわたって発掘調査を施工された平城左京2条2坊12坪には、坪の中心に正面廂の正殿建築があり、周囲に廻廊をめぐらし、南面中央に門を開くという宮殿形式の建築配置を認めた」(「背奈福信と相撲」『古代史論集』中、塙書房、1988年、158頁)

の場所から、「左相撲」、「相撲所」を墨書した土器が発掘されたと紹介する。その典拠である奈良市教育委員会編『平城京左京二条二坊十二坪 奈良市水道局庁合建設地 発掘調査概要報告 』によると、奈良市法華寺町266番 地の 1他 の地より出土した土器の中に、

*「相撲所」(土器番号54「相□(撲カ)所」、88「相撲所」)

*「左相撲」(土器番号89「左相□(撲カ)」

(前記書、36-37頁)

とある。どうやらこの平城左京2条2坊12坪付近に「相撲所」(相撲部屋)が存在した可能性を指摘しておきたい。


なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、私案では名前と解したい。後考を俟つ。なお、想像するに、この人物は甲斐国から進上された相撲取りであったかもしれないが、史料的限界のために、その明証はない。

 なお、平城相撲場所が終わり、各国から派遣された相撲取りは帰国しただろうが、一部の相撲取りは

『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』」(『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条)

とあるように,その体形を生かして、高級官人のガードマンなどに採用されたらしい。

 識者は高倉朝臣福信の事例(『続日本紀』延暦8年10月乙酉条など)を取り上げない筆者の無知をお攻めになるだろうが、これに関しては別記したい。。なお、その記事では、朝鮮半島から流入した高句麗式相撲に類するスタイルであったと予告しておきたい。


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111
木簡番号0
本文・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵)
寸法(mm)(209)
47
厚さ4
型式番号065
出典木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝
所在地奈良県奈良市佐紀町・法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数274
遺構番号SD4951
地区名6AAIBN14
内容分類文書?・習書
国郡郷里 
人名木善佐美
和暦 
西暦 
木簡説明 

2024年3月29日金曜日

日本古代の相撲研究2024年1月2日・3月30日版

 * 関根奈巳 「摂関期相撲節における勝敗」(佐伯有清編『日本古代史研究と史料』青史出版、 2005 年)。

*染井千佳  「相撲の部領使について」(『人間文化創成科学論叢』12、2009 年)

*廣瀬千晃「抜頭と相撲節会―勝負楽としての抜頭と陵王―」(『智山学報』50、2001 年)。

  同  「相撲節会と楽舞―儀式書にみられる相撲と勝負楽の関連―」(薗田稔・福原敏       男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版、2003 年)。

  同   「相撲節会の勝負楽」(『古代文化』56―6、2004 年)。

*松見正一「平安宮廷行事における「童」―童相撲と童舞をめぐって―」(『早稲田大学大 

      学院教育学研究科紀要』別冊 4、1996 年)。

*森公章 「諸国相撲人一覧(稿)[第2版」『郡的世界から国衙の支配への令史的変遷に関 

     する基礎的研究』平成26年から平成30年度科学研究費補助金基盤研究C研究成果 

     報告書・研究代表者森公章)

     「因幡国伊福部臣古志」と因幡国の相撲人小考』」と古代土佐国・讃岐国の相撲

      人」『在庁官人と武士の生成』吉川弘文館、2013年


*吉田早苗 「平安前期の相撲人」(『東京大学史料編纂所研究紀要』7、1997 年)

 同   「平安前期の相撲節」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第 74 集、1997 年)

同    「「中右記部類」と相撲」(『東京大学史料編纂所研究紀要』8、1998 年)。


2024年3月25日月曜日

日本古代の人口推定ー鎌田元一先生によると約450万人

 古代日本の人口を推定した研究が数多く発表されている。その中の代表的研究は次の通りである。

澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』(冨山房、1927 年)

鎌田元一「日本古代の人口」(『律令公民制の研究』塙書房、 2001 年)。

坂上康俊「奈良平安時代人口データの再検討」(『日本史研究』 536、2007 年)。


まず鎌田元一の研究を追えば、鎌田の着眼点はあくまでも法的制度からの推定を試みる点に特徴がある。

 ①天平 19 年の太政官奏及び『延喜式』の記述から、1 郷あたりの法定課口数が正丁 4 人 × 50 戸の 200 人

②この 4 丁は正丁だけでなく次丁(60 歳以上)も含んだとして、様々な手続きを経て、結論から言えば、1郷あたりの良民人口 1052 人だとする。

③日本全体の郷数は 4041。4041×1052=(良民人口総数)425 万 1132 人を求める。

④8世紀前半の良民と賤民の比率調査を踏まえて、賤民人口 18 万 7050 人だと推定。

⑤考古学などの調査などを総合的に加味して、平城京人口は 推定10 万人。

⑥日本国全体の人口は、計約450万人

ここで鎌田が推定する日本国全体の人口約450万人はあくまでも「律令国家日本」内だという。慧眼な鎌田だからこそ、彼の視線は日本列島全体の人口推定(蝦夷・隼人・奄美など)にも及んでいたはずだが、私も鎌田と同様に、ここで断念する方が賢明であろう。


なお「川副町史」には、先の鎌田の計算フォーマットとは異なるが、

延喜式によれば、肥前国の正税20万束、公かい20万束。前者は町別獲稲500束につき22束、後者は獲得稲の五分の1であるから、総収穫量は554万五千束。これを今に換算すると11万2500石、これが平安時代の肥前国全体の生産量。仮に住民一人当たり1石を要するならば、約10万人。松浦郡11郷の半数。彼杵郡四郷、高来郡九郷を引くと、佐賀県50郷の人口は、推定七万人となる。」

(「川副町史」昭和54年.78頁)

とある。鎌田フォーマットでの計算は省略する。


なお、別なフォーマットであるが、5畿内諸国に関する桑原公徳氏や木下良氏の推定によると、

        郷数  和名抄田積 郷当田積 推定人数  郷当人口

山城 73   8961    115 99600   1277

大和 89    17905     201  130300    1464

河内    80 11337    142    94200    1180

和泉    24    4568     190   26700     1183

摂津    78    12525   161    112800   1450

近江    93 33402 359     141900   2072

伊賀 18   4051    225       37300     1526




2024年3月24日日曜日

川原寺出土の土器刻印の「和豆良皮牟毛乃叙」(わづらはむものそ)は東国出身者の落書きか?

寡聞にして県立橿原考古学研究所付属博物館のプレスリリースしか知らないが、飛鳥京跡苑池遺跡から発見された皿状刻書土器に、

*川原寺坏莫取若取事有者□□相而和豆良皮牟毛乃叙又毋言久皮野□」

と記載されているという。可能であれば、実見したいが、橿原考古学研究所の敷居は高いだろうから、断念。

注目するのは、この記事に見る

①万葉仮名で記述された散文であること

②「和豆良皮牟毛乃叙」(わづらはむものそ」の和語

③漢文体と和文の混用

④「なーそ」(どうか~~しないでほしい)の文型が認められること。

⑤「坏」は国字であり、「アクツ」と読み、「川沿いの低湿地」の意味。しかも、現在でもこの国字「坏」が特定地域(東国)にのみ使用されていることから、この皿状土器に刻印した者も東国出身者、しかも常陸国出身者である可能性を指摘しておきたい。

などである。





2024年3月23日土曜日

董 科氏研究論文所載「天平 7 年・ 9 年に流行した感染症に関する研究リスト」+筆者追記

 董 科「奈良時代前後における疫病流行の研究 ―『続日本紀』に見る疫病関連記事を中心に 」(『東アジア文化交渉研究』Journal of East Asian Cultural Interaction Studies 3、 489-509, 2010-03-31)

に紹介された関係文献

<単著>

富士川游著・松田道雄解説『日本疾病史』(平凡社,1969年)66頁。

 富士川游(『日本医学史』(裳華房,1904年)。

富士川游著・松田道雄解説『日本疾病史』

 山崎佐『日本疫史及防疫史』(克誠堂書店,1931年)

山崎佐『江戸期前日本医事法制の研究』(中外医学社,1953 年)

 服部敏良『奈良時代医学の研究』(東京堂,1945年)

服部敏良『平安時医学の研究』(桑名文星堂,1955年)

 中島陽一郎『病気日本史』(雄山閣,1995年)

 新村拓『古代医療官人制の研究』(法政大学出版局,1983年)

新村拓『日本医療社会史の研究:古代中世の民衆生 活と医療』(法政大学出版局,1985年)

新村拓編『日本医療史』(吉川弘文館,2006年)

 酒井シヅ『日本の医療史』(東京書籍,1982年)

酒井シヅ編『疫病の時代』(大修館書店,1999年)

酒井シヅ『病 が語る日本史』(講談社,2008年)

立川昭二『日本人の病歴』(中央公論社,1976年)


<論文>

福原栄太郎「天平 9 年の疫病流行とその政治的影響について古代環境とその影響についての予備考察」『神戸 山手大学環境文化研究所紀要』第 4 号,2000年、2739頁。

 野崎千佳子「天平 7 年・ 9 年に流行した疫病に関する一考察」『法政史学』第53号,2000年、3549頁。 

 今津勝紀「古代災害と地域社会飢饉と疫病」『歴史科学』第196号(2008年度〔大阪歴史科学協議会〕大会 特集号 前近代社会地域社会論の再構築)、2009年、 2 16

 浅見益吉郎「『続日本紀』に見る飢と疫と災奈良時代前後における庶民生活の生活衛生学概観」『京都女子大学 食物学会誌』第34号,1979

浅見益吉郎・新江田絹代「六国後半に見る飢と疫と災平安時代初期における庶 民生活の生活衛生学概観」『京都女子大学食物学会誌』第35号,1980

 グラ・アレクサンドル「 8  9 世紀における飢疫発生記録に関する一考察」『アジア遊学』第79号,2005年、96 113頁。 

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<筆者による追記>

小田愛「天平7年・9年の疱瘡流行について」『専修大学東アジア世界史研究センター年報』第3号、2009年、129-137頁



市大樹「天平の疾病大流行・交通の視点から」『国際交通安全学会誌』 46巻2号、2021年

→筆者注:各関係基礎資料に詳細な説明あり。市大樹氏による力作。

神野恵「平安京の伝染病対策ー診療・呪文・祈り
→筆者注:平城京址から発見された天然痘の終息を願う呪符木簡「南山のふもとに、流れざる川あり。その中に一匹の大蛇あり。九つの頭を持ち、尾は一つ。唐鬼以外は食べない。朝に三千、暮れに八百。急急如律令。」などの説明有り。

館野和己「日本古代の疫病とその対応」『大阪府近つ飛鳥博物館館報』24号、2020年

仁藤敦史「天平期の疫病と風損―国家による対 策と地域―」『静岡県地域史研究』11、2021 年

谷口雅治「崇神紀祭祀記事の意味するもの-疫病の克服と国家の論理」『上代文学』128号、2022年













宝亀2年、渤海国使壱萬福ら350人と「北方海上通商ネットワーク」

 『続日本紀』宝亀2年(771)2月壬午条に、よく知られている記事の一つである

壬午,渤海國使-青綬大夫-壹萬福等三百廿五人、駕船十七隻、著出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給」

がある

 ここで筆者が関心を持つのは、なぜ渤海国使が「出羽国」に、しかも「賊地野代」に到着したのかという点である。

この「野代」とは現在の能代市付近であり、「野代湊」は米代川河口に位置する「能代港」であると推定して大過ないだろう。この能代港の初見は、『日本書紀』斉明天皇紀4年(658)4年条に

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰、不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸」

とある渟代」も、通説ではこの「能代」であると比定する。私も異論はない。その当時、能代に居住していたのが蝦夷であり、彼らが阿倍比羅夫の大軍に恐れをなし、「降伏」したのも史実であろう。

 その阿倍比羅夫らが上陸した後、能代周辺に蝦夷系住民が引き続き居住し、先の『続日本紀』宝亀2年の記事にある時代に至っても、それは非蝦夷系住民よりも蝦夷系住民数が優越していたことを物語る。

したがって、

出羽國賊地野代湊

とある記事に見る「賊地」とは、中央政府に敵対する蝦夷が占有する「賊地」ではなく、非蝦夷系住民も居住するものの、蝦夷系住民が主に居住する地域であると解しても良いではないだろうか。その傍証となるのが、元慶2年(878)に勃発した戦乱、俗にいう「元慶の乱」を記録した『日本三代実録』同年七月十日癸卯条に、

「秋田城下賊地者,上津野・火内・榲淵・野代・河北・腋本・方口・大 河・堤・姉刀・方上・焼岡十二村也」

とあることによっても判明するだろう。

能代湊周辺に、蝦夷系住民と共に非蝦夷系住民が混住していたからこそ、渤海国使が到着した情報も秋田城を経由して中央政府に届き、ましてや出羽国野代湊から常陸国へと移送する手続きも可能となったはずである。

 それでも、なぜ、能代湊かという疑問は解けない。

それを解くカギは、次の二つの記事にあると考えている。その一つは、延暦6年(787)官 符に

 「太政官符  応下陸奥按察使禁中断王臣・百姓与夷俘交関上事 右被右大臣宣䆑,奉勅,如聞,王臣及国司等争買狄馬及俘奴婢。所以,犬羊之徒,苟貪 利潤,略良窃馬,相賊日深。加以,無知百姓,不畏憲章,売此国家之貨,買彼夷俘 之物。綿既着賊襖冑,鉄亦造敵農器。於理商量,為害極深。自今以後,宜厳禁断。 如有王臣及国司違犯此制者,物即没官,仍注名申上。其百姓者,依故按察使従三位大 野朝臣東人制法,随事推決。  延暦六年正月廿一日」

の記事であり、もう一つは、『類聚三代格』」巻19、延暦21年(802)の太政官符に

「 太政官符  禁断私交易狄土物事、 右被右大臣宣䆑,渡嶋狄等来朝之日,所貢方物、例以雑皮。而王臣諸家競買好皮,所残悪物以擬進官。仍先下符禁制已久。而出羽国司寛縦曾不遵奉。為吏之道豈合如此。 自今以後,厳加禁断。如違此制,必処重科。事縁勅語。不得重犯。    延暦廿一年六月廿四日」

とある記事である。この記事に見る「夷俘交関」や「私交易狄土物事」はすでに蓑島栄紀らの注目するところであり(蓑島栄紀「古代出羽 地方の対北方交流―秋田城と渡嶋津軽津司の史的特質を めぐって―」『古代国家と北方社会』吉川弘文館,2001 年。初出は 1995 年)、筆者もその専論に全面的に依拠している。

しかもさらに注目すべきは、熊谷公男氏の説である

北方日本海地域ネットワーク」とは,秋田・能代・津軽などの本州北部日本海側の諸地域と北海道の渡島半島(日本海側)・石狩低地帯北半部の諸地域との間に形成された,ヒトやモノの交流を中心とした海路による地域間ネットワーク」(熊谷公男「秋田城の成立・展開とその特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 179 集、2013 年 11 月、231頁)

であり、

「その背後には北方日本海地域における蝦夷諸集団,粛慎(アシハセ),さらには大陸の渤海およびその支配下の靺鞨諸集団に まで達する海路のネットワークが存在していた。」(同上書、232頁)

である。

 すでにお察しの通り、私は秋田能代湊の蝦夷系住民を媒介として、北海道の渡島半島の蝦夷系住民を経て、粛慎・渤海・靺鞨諸集団を結ぶ「北方海上通商ネットワーク」の基盤の上に、渤海国使は秋田野代湊を目指したと考えたい。かって筆者が学んだ時期の流説である「渤海国使、漂着説」はもはや成立しないと考える。

 なお、この渤海国使来日ルートに関しては、新野直吉・古畑徹氏らが提唱する北回り航路(渤海―沿海州―樺太―北海道 ―出羽)を通って来たという説が、まさに本稿でいう「北方海上通商ネットワーク」に該当する。

時代は下るが、江戸時代に長崎ルートではなく、北海道松前藩経由で「蝦夷錦」が流入するルート「松前口」とほぼ同一である。

なお江戸時代における「松前口」ルートの通商に関する専論を発表した。


 






2024年3月17日日曜日

大宰府管内諸国の「京宅」の有無

 大宰府の京宅

『類聚三代格』寛平三年九月十一日官符によれば、調庸物を運搬してきた綱領らが官物を横領し京宅を購入していたそうだ。

 この一文は様々な想像を可能にする。

毎年、遠路はるばる、大宰府から京へ輸送してきた者たちにもてきようできないか、と。

彼ら調庸物の運搬者(「担夫」)たちが京にまずは定宿を決め、そこに官納する前に臨時の荷物保管場所とすることはありえる。その定宿をあっせんしたのは、大宰諸国から派遣された舎人集団や、運搬集団の家族であったり、京に残った運搬者たちであったにちがいない。なぜならば、京内の不動産情報や朝廷とのつながりを持っていたからである。右も左も分からない地方者にとって、同郷の出身者は心強い。何よりも人間ネットワークも強く、しかも方言も通じる上に、食べ物も懐かしい。その京宅は次第にさまざまな利益をコントロールする場所となり、ついには太宰府の出先機関となつたに違いない。

京と地方の地域社会を結ぶ最大の往来は毎年2月・4月・6月 ・8月に舂米輸納、冬十月からの調庸輸納であった。その折に全国から数千名に及ぶ輸送担当者・駄馬が往来したが、その宿舎・食事場所・荷物などの一時保管場所。療養施設などを想像したに過ぎない。

 地方で富豪な者は京内で住宅を購入するのも、自然な流れである。

これは私の想像に過ぎないが、そうした視点で平城京の、街並みを眺めても良いかもしれない。

ちなみに、武蔵国では入間郡人大伴部直赤男が神護景雲3年に西大寺へ商布1500段、稲7万4千束.墾田10町.林60町を寄進したことにより、宝亀8年6月5日に外従五位下を与えらている。日本各地に枚挙のいとまないほどに富農が出現している。彼らが指をくわえて、京人の言うがままにするはずがない、

元慶8年の「彼格」ーー大宰帥らの離任後の「立つ鳥、跡を濁す」

元慶8年8月4日、上総国に対して勅を下し

「前司子弟不順国政、富豪浪人乖吏所行、至干勘納官物対桿国宰、陵冤郡司祖税多遁、調庸欠.貢職此之由、望請、准彼格放遂、但情願留住従国務者、量状貫附土戸、従之」 

とある。確かに地方へ赴任した国司が国内の郡司層の女子と婚姻を結んだり、あるいは現地妻(妾)を置くなどによって、国司と郡司との結びつきによる悪弊は、天平16年10月14日の官符で禁止しているものの、現実には上記の通りであった。

今、この引用に見る「彼格」とは、太宰府に下された延暦16年4月29日官符のことである。大宰帥、大宰大弐など王族や高官などが着任する大宰府にあって、「秩満解任」とか在地に残された子孫らが朝廷権力のつながりをひけらかしながら、さまざまな悪弊が生じていたと想定される。

 大宰帥などの離任後の後日談である。


2024年3月12日火曜日

大宰府に配置された通詞

 『延喜式』には、周知のとおり、大宰府に

大唐通詞四人新羅訳語三人

が配置されていたとある。

 さて、




2024年3月9日土曜日

三野城に関する小田和利説

 『続日本紀』文武天皇2年5月甲申(25日)条に、

「大宰府をして大野・基肄・鞠智の3城を繕治はしむ」

とあり、同3年12月甲申(4日)条に、

「大宰府をして三野・稲積の2城を修らしむ」

とある。名著『続日本紀』(日本新日本古典文学大系12,第1巻、21頁)には、この三野城は「未詳」とある。

中山平次郎先生はすでに

「三野城址と推定すべき一遺蹟」『考古学雑誌』第4巻第9・10号 1914年

で、この三野城を探し求めている。通説では、三野城は福岡市博多区、稲積城は福岡県糸島郡に比定する。

最近では、小田和利氏(九州歴史資料館)によって、

石垣高尾遺跡(久留米市田主丸町石垣所在)説

も提出されている。確証もないけれども、私はこの小田説に魅力を感じる。三野城でなかろうとも、この地理的位置に関心を抱く。


よもやFreudが古代エジプト美術品の有名なコレクターであったとは。

 偉大な精神分析学者ジークムント・フロイトは古代エジプト美術品のコレクターであった。

その研究者である秋吉良人先生によると、

フロイトは大地の中から掘り出されたものに特別の愛情を抱いた。古代の 「遺物」 である。そのコレクションに彼自身 「中毒」 とさえ呼んだほどの情熱を注ぎ、書斎と診察室は収集品で溢れかえった。彫像やオブジェ、エジプト起源の 考古学的遺物」 がところ狭しとならぶ彼の診察室に 「考古学者の書斎」 を見い出した 」(「フロイト読解ノート:精神分析と考古学」57頁、https://opac.kokugakuin.ac.jp/webopac/kokugakuinzasshi_115_11_008._?key=LCYBGT)

とある。この論文に偶然に行きつき、蒙を開かれる思いであった。

 考古学が開発した層序研究、そして遺物が語るHistoryを、心のそれに適用したのがFreudであった。地表の下、心の下に何があるかをワクワクしながら、Freudは発掘することに多大な興味を持ったに違いない。

江湖の方に一読をお勧めし、Freud学入門の足掛かりとしていただきたい。

私にとって、Freudが収集した古代エジプト品に関する情報を知らないだけに、彼の好みは分からない。

慧眼の士はすでにご明察の通り、私の視野には、

『古代の博多』(岡崎敬校訂)九州大学出版会、 1984年

の著者である中山平次郎先生がある。九州帝国大学医学部初代病理学教室教授であった中山先生は、その一方で考古学者としても著名であった。その偉大な業績は枚挙にいとまない。中山先生は、「鳥の目」で古代九州を考古学的に観察し、「虫の目」で細菌を病理学的に観察なさった。

私は平山先生の謦咳に接することはなかったが、先生を知る方々から多くのエピソードを伺った。そのメモも公表したい。

2024年3月4日月曜日

古代日本のハイウェー(2024年3月1日改訂)

(1)東日本 

 ①ー0 犬上郡甲良町尼子西遺跡

1996年に犬上郡甲良町尼子西遺跡(内田1998)において足利健亮推定ルート上で路面幅12メートルが出土。

①ー1国分寺市泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は、上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が出土、

①ー2栃木県大田原市湯津上の「小松原遺跡」で確認された東山道の両側にある側溝と溝との間隔が9~12メートル。


①ー3群馬県太田市にある新田郡家遺跡では、郡家の南500メートルにある「牛堀・矢の原ルートの幅員は13メートル。この古代道路は伊勢崎市矢の原遺跡から太田市久保畑遺跡まで10キロメートル以上一直線に伸びているという。

(小宮俊久「上野国新田郡家の景観」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、235頁)


①ー4 埼玉県所沢市久米の東の上遺跡

 平成元年(1989)実施調査で、南北方向に全長100メートルの側溝をもつ幅員12メートルの道路を発掘。この道路は武蔵支路であるが、支路でさえも、大道とほぼ同一に設計された公道整備。


④-1古代東海道の場合、2021年に滋賀県栗東市高野遺跡で発掘された古代の官道「東海道」の跡の道幅は約16メートル

④-2:平成6年、静岡市駿河区曲金北遺跡で発見された古代東海道の遺構は、道幅約9m(両側側溝の幅2から3メートルを含めると道路幅は12mから13メートル)。

(鈴木敏則「静岡県伊場遺跡群と遠江の古代交通」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、313~314頁)

④ー3「市原条里制遺跡の古代道や、五所四反田遺跡の古代道路跡は、駅路から分岐した伝路と推定され、台地上の古代道と同じ規格で、約6メートルの道幅で側溝が両側にあります。

 これらの伝路は、海岸線に近い海岸砂丘上の古代東海道駅路から分岐して、上総国府(推定地)へ向かうもので、国府からさらに南下する道路が、山田橋地区の古代道路跡と推定されます。」(近藤敏氏報告、049海岸から台地へ海岸平野を通り抜ける古代の道/市原歴史博物館 (imuseum.jp)近藤敏2004年「五所四反田遺跡について」『市原市八幡地区の遺跡と文化財』市原市歴史と文化財シリーズ第九輯平成16年度歴史散歩資料 市原市地方史研究連絡協議会

(2)西日本

②ー1九州では、博多湾に面した丘に建つ鴻臚館と大宰府を結ぶ官道(水城西門ルート)は、1978年に発掘調査された春日公園内遺跡から幅9メートルであると判明。

③古代山陰道ー1 2021年に発掘された鳥取市養郷狐谷遺跡(鳥取市青谷町養郷地内)の発掘調査で発見された古代山陰道の道幅は9メートル。



③ー2 善田傍示ケ崎遺跡では、道幅5メートル以上(青谷上寺遺跡と青谷横木遺跡を結ぶ線上にある)

因幡の古代山陰道 高圧縮.pdf (tottori.lg.jp)

③ー3 青谷横木遺跡

2万点以上の大量の木製祭祀器具が出土した。


古代山陰道発掘成果調査/とりネット/鳥取県公式サイト (tottori.lg.jp)

③ー4 隠岐の国駅鈴

 玉若酢命神社社家億岐家に伝わるもので、奈良時代に始まった駅伝制で使用された鈴です。隠岐国の駅制については、資料が少なく不明な点が多くありますが、水上交通の駅はあったようです。

 現在伝えられている二つの駅鈴は、国内唯一の存在例といわれています。昭和10年に国の考古資料に指定されました。

所在地種 別寸 法指定年月日
隠岐の島町 下西考古資料幅約5.5cm、奥行約5.0cm、高さ約6.5cm1935.4.30


1 報告①因幡の国古代山陰道

2 
報告2 因幡・伯耆における古代山陰道研究最前線(坂本嘉和) (youtube.com)

⑤ー1山陽道ルート 広島県府中市鳥居地区で山陽道の道幅は約12メートル

(木本雅康「西日本の交通・官衙と景観ー国府の朱雀大路と十字街」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017年、400頁)









国土交通省HPから転載(道路:道の歴史:古代の道 - 国土交通省 (mlit.go.jp)  2024年1月20日アクセス)


内田保之『尼子西遺跡2』(ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書2)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会、 1998年