2018年8月5日日曜日

博多の綱場町

博多小学校の向かい側で、ホテルオークラ福岡に隣接する地域は綱場町。
その地名の由来は、菅原道真にある。左遷と言えば、藤原時平との権力闘争に敗北した道真が太宰府員外師に任命されて、京都を追放されたことが有名である。その折りに、博多に上陸した場所が綱場であったという。




2018年4月15日日曜日

太宰府天満宮関係の翻刻済み典籍リスト


太宰府天満宮関係の翻刻済み典籍リスト

機会があれば、天満宮に奉納するか、どこかで公刊したい。

☆『天満宮安楽寺草創日記』(長禄3年)
☆『一生年記付』(慶長6年、大鳥居信岩)
☆近衛信尹書簡、慶長5年、黒田如水宛
☆『一山社用旧格雑記』(天保15年、執行坊編)
☆『太宰府天満宮連歌屋記事』(天明5年)
☆『立圃長興両吟奉納俳諧千句』(元和9年、太宰府天満宮蔵)
☆『筑前名寄』(益軒)
☆『筑紫日記』(安永7年)
☆『竈門山陵考』
☆『菅家瑞応録』
☆『北野実伝記』

今後共に、時間が許す限り、太宰府学の広がりを求めて、くずし字を活字に翻刻していきたい。


高麗の使臣鄭夢周と今川了俊との会同の場は?


  高麗の使臣鄭夢周と今川了俊との会同の場は?
  ⇒太宰府のどこか? 日韓両国を代表する使臣が会同する場として、「政庁」「客館」以外にも、想定すべきだろう。

太宰府の春秋館は何処に?


太宰府の春秋館は何処に?

今なお不明であるが、それにしても太宰府にはいかなる官衙が存在していたのか。その復元を図っているが、これが容易ではない。



上大利と下大利とは?


周知の記事であるが、『日本書紀』天智天皇2年には、
    「冬10月壬子朔壬申、饗高麗邯子、新羅薩儒等於筑紫大郡、賜禄有差」
とある。この地が「大利」だと推測する。ちなみに青柳種信の『筑前続風土記拾遺』に、「是れ太宰府ありし時の韓人の址なるべし」とある。

2018年4月13日金曜日

狩野友元の「松の絵」

未見の史料であるが、狩野友元の「松の絵」がある。藩主黒田家の肖像はお抱え絵師尾形家の絵師が描いてきた。狩野友元は尾形家の絵師で有り、小方守房が別名。宝永5年(1708)に友元は太宰府天満宮に「松の絵」を寄進する。その現存を知らない。

太宰府の崇福寺

鎌倉時代、随乗坊湛慧創建による崇福寺は太宰府横嶽に建立された。しかしながら天正14年(1586)の岩屋城合戦時に消失し、その後、慶長5年(1600)に黒田長政が博多に再建した。
さて、その横嶽の地の調査をしたが、今では兵どもの夢の跡であった。

伯東寺の六角輪蔵

田主丸町にある伯東寺の輪蔵は六角。一部の欠損が見られるのは惜しいが、それは安楽寺太宰府宮旧蔵であった。廃仏毀釈の折に、具体的には明治2年に安楽寺から離れた。

太宰府の「竹の舞」復元

太宰府ご神幸行事の掉尾で、

*竹の舞

がある。中世の田楽の系譜を引く一人舞で有り、猿楽に類した謡いを伴う。

太宰府のご神幸

「西都安楽寺天満宮例祭神幸之図」(元治元年1864、平戸の樹応寺僧円心筆)がある。康和3年(1101)大江匡房が始めたといういわれを持つ天満宮例祭神幸は、『筑前国続風土記』に詳細を見る。

太宰府の「連歌屋」

太宰府天満宮の近くに「連歌屋」という地名がある。
毎年、1月20日、5月20日、9月20日(黒田如水の命日)、太宰府の神職たちが連歌屋に集まり、連歌を作ったという(貝原益軒『如水遺事』)。
慶長7年(1602)1月16日に、黒田如水が主催した連歌の会(「夢想の連歌」)を紹介したいが、こうしたマニアックな話題に関心を寄せる人はいないだろうから、冥土の土産としたい。

太宰府史跡保存の恩人、矢野太左衛門昭徳伝

機会があれば、太宰府史跡保存の恩人、矢野太左衛門昭徳伝を書きたいと思う。少しずつ関係資料を蓄えてきたので、この恩人の功に報いるために、老骨に鞭を入れたい。
嘉永5年(1852)である。

2018年3月29日木曜日

太宰帥とは

平安時代になると、太宰帥に任命されるのは親王であった。したがって、権帥や大弐などが太宰府に赴任するのみで、親王は京都にとどまった。
一方、奈良時代では、大宝2年(702)8月16日の石上麻呂から延暦5年(786)4月11日の佐伯今毛人まで21人の太宰帥が任命された。親王ではなく、臣下であったために、彼らの太宰府への赴任は当然であった。
親王任官の初例は大同元年(806)5月9日の伊予親王であった。官職名は中務卿兼太宰帥。
問題は、「太宰員外帥」と「権帥」とが同一視されていくことである。つまり左遷・懲戒などで流配された者たちを「員外帥」と呼称するが、菅原道真などは「権帥」とも「員外帥」とも呼ばれている。つまり、いつの間にか「権帥」に左遷・懲戒による流配などの意味を帯び始めたことに他ならない。

太宰府の木簡と日下部君

太宰府市蔵司の水田から発掘された木簡に、次の資料がある。

「日下部牛□□
 里長日下部君牛□
□□疾病□□」(
木研37-170頁-(1)(大宰府木簡概報1-1・日本古代木簡選)
跡名大宰府跡蔵司西地区
所在地福岡県太宰府市(旧筑紫郡太宰府町)大字観世音寺字蔵司
調査主体福岡県教育委員会
発掘次数4
遺構番号南北溝(Nトレンチ第Ⅳ層黄色砂質粘土層)
地区名MK037170
この文には、「里」が見えることから霊亀元年(715)以前の木簡だと推定される。注目すべきは、「日下部君」である。蔵司にいかなる理由で埋められたのか不明であるが、日田郡および松浦郡などに居住した日下部君の一族に連なる人間であろうか。「疾病」による休暇願木簡であるらしい。