2016年7月9日土曜日

大宰府と高橋鑑種

永禄4年(1561)11月には、高橋鑑種は九州進出を目指す毛利元就と接近し、大友氏配下から離反し、宝満城・岩屋城で挙兵した。鑑種が両城督に任じられたのは弘治3年(1557)頃であったらしい。
永禄10年(1567)4月に大友宗麟は高橋鑑種征討のために軍を派遣する。同年7月に大友軍が大宰府に到着した。そのために高橋軍にくみした太宰府天満宮は大友軍によって破壊された。天満宮の神官達はご神体と神宝を宝満城に運搬し、守り抜いた。大友氏は宝満城・岩屋城を攻撃し、岩屋城が落城するものの、宝満城は依然と高橋氏が守り抜いた。毛利氏も高橋氏応援に軍を派遣し、毛利方の吉川元春・小早川隆景軍が大友氏の軍事的拠点である立花城攻防戦で、ついに立花城は落城した。永禄12年閏5月3日であった。その毛利軍の勝利も長続きせず、むしろ手薄になった山口に対して大友氏が進軍することで、毛利氏は劣勢に立ち、いったん筑前から撤退をやむ得なくなった。同年11月21日、立花城を奪還した大友氏に抗して、高橋鑑種も小倉に立ち去った。

この後、毛利氏の後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏の配下に降り、鑑種は高橋家から放擲された。高橋家の家督継承者は吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)であった。

天正2年(1574)頃の大宰府は、毛利方から大友氏に鞍替えした筑紫氏が統治した。

しかしながら天正5年11月12日の耳川合戦で、島津軍に敗戦した大友氏の筑前における権勢低下を見破った高橋氏は再び岩屋城を占拠した。毛利氏の将来を見切った筑前の秋月氏と筑紫氏は大友氏から離脱し、秋月種実と筑紫広門は岩屋城を攻撃したが、岩屋城は落城しなかった。

この頃の大宰府を巡る統治者はめまぐるしく交代したようである。天正7年ごろは筑紫氏であったようだ。

なお、天正6年12月に、大宰府に進軍した秋月氏によって天満宮は焼失した。




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