2019年8月11日日曜日

買新羅物解〈天平勝宝四年六月/〉公益財団法人前田育徳会

太宰府の機能の一つは、東アジア文物の流入の管理である。
下記の「買新羅物解」は、都から太宰府、そして新羅への伝達ルートによって購入された買い物帳であった。
>買新羅物解〈天平勝宝四年六月/〉重文
  • 奈良/752
  • 7通
  • 重文指定年月日:19930610
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 公益財団法人前田育徳会
  • 国宝・重要文化財(美術品)
 
もとは正倉院の鳥毛立女屏風の下貼に用いられていた文書で、現在も正倉院に残る十通余と一連のもので、七通からなる(カッコ内は寸法で、縦×横。単位はセンチメートル)。 
 (一) 天平勝宝四年六月十五日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人解(二八・二×二六・四)
(二) 天平勝宝四年六月十七日従四位下小槻山君広虫解(〈右半〉二八・三×一三・〇 〈左半〉二六・五×一三・八。ただし、もと二通の可能性もある (三) 天平勝宝四年六月十七日事業従七位上置始連五百足解(一八・〇×一三・一)
(四) 天平勝宝四年六月廿日某解(二九・二×二六・四)
(五) 天平勝宝四年六月廿三日某解(二九・三×五一・四)
(六) (年月日未詳)飯高嶋□解(二八・七×三四・一)
(七) (年月日未詳) 鼓吹司正外従五位下大石某解(一七・五×五六・三)
>>「買新羅物解の料紙は、屏風料紙作成時に塗布された糊に起因すると推定される硬化が顕著であり、屏風に貼り付けられていた段階からの、あるいは屏風からの剥し取りの際に生じた、紙面の直線状の断裂が見られる。」(『東京大学史料編纂所報』第29号 p.12-14)

各文書は屏風下貼に用いられたため切断や破損が著しいが、文書の形式は解【げ】の形をとるものが多い。内容は、それぞれ購入すべき品目とその全体の価直を掲げ、文書の日付は正倉院にあるものも含めて天平勝宝四年六月十五日から同月二十六日の間に集中している。
「一、
  金 蘇芳 小鏡
    合 三種
 直物 綿6百十斤
 天平勝宝4年6月15日知家事資人大初位上栗前官□□」
「2.
  合壱拾陸種
  屏風(一)具  鏡(二)面 金椀(金偏)(二)具 麝香(一)斉
  香炉(二)具 蜜抜  阿李(くさカンムリ)勒
衣香 丁字 枕香
青木香 人参 蘇芳
価綿壱伯捌□□此中黒綿弐拾斤
 天平勝宝4年6月15日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人」
「3,
  □平勝宝4年6月15日」
「4,
 合玖種
 丁香 直7斤 薫衣香 直7斤 青木香 直3斤 薫陸香 直 □
 牛黄 直2斤 蘇芳 直50斤 五六寸鏡 直20斤 牙梳直3斤
 牙竿(?)子 直2斤
 以前物等価綿 壱伯斤
天平勝宝4年6月16日」

「5,
 従四位下小槻山君広虫解 申応念物買事
 金□種 直絹□□□匹 □□□斤 綿参伯斤
  鉢弐口 大盤弐口 小口 椀(金偏) 金筋肆枚
□□□
□□□
以前念物并価等顕注如件謹解
 天平勝宝4年6月17日」
「6.
  天平勝宝4年6月17日事業従七位上置始連 五百足」

「7.
 念物五六寸鏡 丁香 □□
 ■撥 木■子 □  如意  □払
 蘇芳 紫根
直綿弐伯屯
右件念物并直数如前以解
  天平勝宝4年6月弐〇日」





<参考文献>
タイトル: <論説>鳥毛立女屛風下貼文書の研究 : 買新羅物解の基礎的考察
その他のタイトル: <Articles>A Study of the Documents, used as the Canvas of 'Torigedachi-Onna-Byobu' 鳥毛立女屛風 : on the 'Kai-Shiragi-Monoge' 買新羅物解
著者: 東野, 治之  
著者名の別形: Tono, Haruyuki
発行日: 1-Nov-1974
出版者: 史学研究会 (京都大学文学部内)
誌名: 史林
巻: 57
号: 6
開始ページ: 775
終了ページ: 811
抄録: 正倉院蔵の鳥毛立女屛風には、下貼に天平勝宝四年の反故文書が用いられている。この文書は、買物申請帳・買新羅物解などとして公刊されている正倉院文書と同類のものであって、本来はすべて同じ屛風の下貼をなしていた。これらの買物関係文書は、勝宝四年の新羅使節がもたらした交易品を買うにあたって貴顕から大蔵省又は内蔵寮に提出されたもので、廃棄後、内蔵寮から、同じ中務省被管の内匠寮又は画工司に払下げられ、屛風の下貼に転用されたと考えられる。なお下貼には、中務省図書寮から払下げられたかと推測される文書断片もある。文書から知られる交易品の内容は、大別して唐及び唐を中継地とする南海方面の物産と、新羅の特産品とになり、八世紀代から新羅人が東シナ海方面で貿易活動を行っていたことが知られる。新羅の特産品が含まれていることとあわせて、新羅との交渉が外来文化摂取の上に果した役割は、改めて注目する必要があろう。
To the screens 'Torigedachi-Onna-Byobu', the documents wasted in 4 Tempyo-Shoho 天平勝宝 are used as their canvas. They are called the Shosoin 正倉院 documents, a part of which is published as 'Kaimono-Moshiukecho' 買物申請帳 or Kaishiragi-Monoge'. These documents of the trade, I think, are originally presented to 'Okurasho' 大蔵省 or 'Kuraryo' 内蔵寮 by the nobles to import the goods brought by the envoy of Shiragi 新羅 in 4 Tempyo-Shoho. They, after having been scrapped, are sent from 'Kuraryo' to 'Gakoshi' 画工司 or 'Takumiryo' 内匠寮 to use for that purpose. According to them, the imported articles on the whole consist of the speciality in Shiragi, the goods of T'ang 唐 and that of the South Asia transported through T'ang; which reveals that the Shiragis have carried on commerce from eighth century in the East China Sea 東シナ海. We must accordingly pay much attention to the Japanese relation to Shiragi in view of the absorption of foreign cultures.

大野城の百間石垣の説明

百間石垣の説明を執筆予定

2019年8月3日土曜日

*高麗太祖の二回に渡る日本通使の派遣

*高麗太祖の二回に渡る日本通使の派遣

    ①承平七年八月五日の条
  ②天慶二年三月十一日の条

  『帥記』承暦四年閏八月四日の条

  ③天禄三年
      『百錬抄』天禄三年十月二十日の条

  ④貞治五年(1366)九月  金竜および金逸の一行
        三条公忠『後愚昧記』貞治六年三月二十四日の条

        「自去月之比、蒙古ならびに高麗使、持牒状来朝之由、有其聞、不経日     数而即上洛、嵯峨天竜寺居住云々、牒状案流布之由、聞之、乃乞取按     察写留了、蒙古状、献方物、即彼目録、載牒状奥者也、但件物等、於     雲州、為賊被掠取云々、糺出而可献之由、武家称之間、有其聞、然而     不及其沙汰?」


    この記事からも判断されるように、高麗からの通使はすぐさまに洛中に入ることはなく、嵯峨の天竜寺に滞在しながら、朝廷からの連絡を待ち続けた。それはその当時の寺が、明および高麗からの通使たちの接待のみならず、外交往復文書の起草の任に当たった。
                             ↓
  金竜および金逸両使は恭愍王十七年(1368)に開京に帰着する。
僧梵??・梵繆は日本の使臣として随行して、恭愍王に接見するさいに、諸大臣は立って行礼したが、辛呑のみは坐したままであった。欠礼に立腹した日本の使僧たちは声を激しく、辛呑をなじった。辛呑も激怒し、その場で応酬した。
ここで問題は、彼らはいかなる言語を用いて、その憤怒を表現したかである。