2023年12月28日木曜日

上野誠著「万葉考古学」とは何か

 新学説の樹立は容易ではない。

欧米の学界では、たとえ「Culture Fashion」だと揶揄されようとも、常に目新しい学説、Theoryを求める研究風土にある。だから研究者間での競争は激しい。うかうか昼寝をしていることはできない。。

とはいえ、学説だと標榜する以上、一つの事象を科学的方法論で、妥当な資料を以て、だれが検証しようとも、同一な結論もしくは仮説に至る必要がある。

日本文学界においても、幾多の学説の興亡を知るだけに、どうしても自説へのこだわりが強く、客観性を欠く人文学では、ともすると学説などそもそも存在するかという議論さえある。

なるほど「万葉考古学」の定義は、同著に認める。

私の立場から申し上げれば、意気込みは良い。確かに伊藤博氏の注釈書『萬葉集釈注』(集英社、全10巻別巻3、1995年)以降、まったくレベルが低くなった万葉集研究にあって、その再興を果たしたいという上野氏の志は良し。

 新学説の主導者である上野誠氏の論文を拝見しても、面目を一新する研究成果が提示されているだろうか。「ここまでわかると、なぜ蘆城駅家、水城、夷守で万葉びとたちが送別宴を催したか、明らかにできるのである」〈109頁〉という。これを「万葉考古学」の精華だと誇示するが、それだけの貧弱な主張で万人を納得させる新学説樹立とは程遠い。

何よりも、諸氏の論文を拝見しても、一貫する分析視点で考察されているとは思えず、バラバラであり、はたして新学説だと自らがファンファーレを吹くほどの価値があると認定できない。鈴木喬氏の論文に至っては、「万葉びととの対話」を試みた結果〈42頁〉を報告しているが、それは新学説「万葉考古学」の分析視点を導入した考察とは思えない。むしろ従来の凡庸な枠組みに他ならない。

 すでに、奈良県立万葉文化館によって、「万葉古代学」とは

『万葉集』を中心とした総合的古代学。文学・歴史学・民俗学・宗教学・考古学などの隣接諸科学が有機的に連携しつつ、その研究領域と方法を越えて『万葉集』を広く古代文化の一環として位置付け、様々な角度からその総合的な価値を問うもの。

万葉古代学研究年報|奈良県立万葉文化館 (manyo.jp)


とあり、たとえ平凡であると言えど、その越境する学問的枠組みで万葉集を読み解けばよいのではないか。


あえて「万葉考古学」などと旗揚げするまでもない。何かの外部資金や受賞を目当てに立ち上げを狙ったのだろうか。そうでなければ、「羊頭狗肉」と嘲笑されかねないだろう。


一昔前の森浩一著『万葉集の考古学』がより刺激的であり、教わることが多い。


ただし、次のお三方の考古学者による分析は、凡庸な国文学者にない意欲的で、しかも斬新な解釈を提示する。


万葉の都、久邇・難波・紫香楽

  山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所)

   


大宰府の内と外の万葉集

  小鹿野亮 (筑紫野市教育委員会)


大伴旅人が旅した松浦郡
  菅波正人 (福岡市埋蔵文化財課)


の三つの論は興味深い。一読をお勧めしたい。



なお、別稿で、論評をするつもりである。


ところで、忘れてならないが、


赤司善彦氏の高論「大伴旅人の館跡(太宰帥公邸)を探る」


こそが、「万葉考古学」の適切な先例である。





****************


話題は全く別であるが、我が知る万葉学者は畏敬の対象であった。

 まず先生の頭の中には万葉集全歌が格納されていた。万葉集中のどの句からでも、全句をそらで読み上げられた。

 しかも表記された一文字一文字の万葉仮名までも、先生の頭の中にインプットされていた。例えば,あの歌の「木」は「コ」と読み、あの歌では「キ」と読むとか。

 いわば万葉集のすべてを入力した、最先端の無数のCPUを搭載したスーパーコンピュータの万葉学者であった。

単に性能が高いだけでなく、先生の頭脳は多様な計算タスクに対応できるように設計されており、古代諸学に精通した異なるアプリケーションや計算ニーズに対応することができる柔軟性と拡張性をお持ちであった。

 今、先生のような研究スタイルは時代遅れかもしれない。インターネットでのデータベース検索やAIがあると反論されそうである。その信奉者に反論はない。

 だが私が敬愛してやまないのは、恩師の万葉集研究は「命がけ」であったことである。太平洋戦争中、1兵卒として徴兵され、銃火飛び交う戦地で、万葉集を読み続けた先生の執念に畏敬の念を持つ。

 生涯で先生の自著は一冊のみ。加えて、先生は数々の勲章などを辞退され、栄誉・栄達とは無縁であった。しかしわが師の論文は他の追随を許さぬものに仕上がっていた。

 先生と同様に、太平洋戦争中に過酷な体験をなさった河野六郎先生(中国音韻学および朝鮮語研究)、榎一雄先生(中央アジア史)も異口同音に、「俗に堕すな、学問に生きよ」の生き方を貫徹された。このお三方は旧制一高・東京帝国大学卒業で、ほぼ同年配であるという共通点を持つ。その上に、英独仏語は言うまでもなく、ラテン語・ギリシャ語などさまざまな外国語に精通されていた。いったいいくつの言語を習得なさったのか、私のような凡人の想定域を超えていた。学問の奥行きが大きく異なるからである。

 わが浅学菲才を恥じ入る次第である。

 





2023年12月23日土曜日

「百済」の読みは、「くだら」か?

 「百済」は朝鮮半島に存在した古代国家の一つである。百済国滅亡時だけでなく、「渡来人」・「帰化人」などと呼称される百済人が多数いた。周知のとおり、彼らは仏教・技術などを日本に持ち込んで、日本文化形成に大きな影響を与えた。

さて、日本の教科書では、「百済」の漢字には「クダラ」と読むと教えられる。

それは正解であろうか。

すでに古代日本語研究者から、この警鐘は発信されてきたが、古代史研究者は完全に無視してきた感がある。

*「百済」の読みが「くだら」でない説はすべて「くだらない」なのだろうか。

ところで、『類聚名義抄』図書寮本に注目したい。

『類聚名義抄』図書寮本といえば、平安時代院政期の成立である。内容は、一文字または二文字以上の漢字を掲出語とし、その発音・意義・字体を漢文で説明し、片仮名の和訓と字音をも表示した部首分類体の、今日でいえば漢和辞典である。本文343頁に、3,675項目を収録する。

 その『類聚名義抄』図書寮本の「百済琴」の項目に、

*百済瑟、久太良古度

箜篌百済国琴也 和名、久太良古止

とある。

この両語には、明白に「くタら」と清音「太」で表記されている。

 平安時代には濁音「ダ」ではなく、清音で発音されていた。とすれば、古代に遡っても清音で、「くたら」と呼んでいたと可能性が高い。

くく この復元を今後ともに無視するのか、検討に着手するのか、

 たとえ孤軍奮闘と言われたとしても、持論に従って、私は「くたら」と読み続けたい。




2023年12月19日火曜日

大宰府のラーメンを食べ歩く

「大宰府にも、ラーメン屋があるとね」と言われそうである。 それが、たしかにうまいお店がある。

以下の評価はあくまでも個人的なもの、どうか参考程度に。食べログなどをどうか参照してください。


1)水城ラーメン

  • 住所:福岡県太宰府市水城3-4-24
  • 私が福岡方面から大宰府に向かうのは、いつもは車。
  • 国道3号線から大宰府方面に行く112号線に曲がって、最初に出会うラーメン店。だからか、何度も空腹時に立ち寄った。
  • 見た目は必ずしもおしゃれとは言えないが、そのコクのあるスープに魅了されている。飾り気のない、町のラーメン屋さん。店主もお世辞一つ言うわけでもなく、淡々と麺をゆでるだけ。
  • しかし、私の口に合う。

評価は、Bプラス・プラス


(2)麺屋 醤油塩之助


  • 住所:福岡県太宰府市水城3丁目4-6

水城ラーメンさんから100メートルも離れているだろうか、水城ラーメンさんの競争店。

私は毎週大宰府に通って、市内を隅々歩きまわり、観光開発・地域振興の視点から市内観察していた時があった。その時には、確かなかったはず。

先日、大宰府に足を踏み入れた時に見かけ、ついつい物珍しさで足を踏み入れた。いつオープンしたのかわからないが、店内はきれい。

福岡だから、豚骨スープという先入観を打ち破るコンセプトを前面に押し出し、塩と醤油味で勝負のお店。私は背脂塩ラーメンに挑戦。

食通ではないだけに点数をつけられないが、私の感覚では、Bプラス。

(3)餃子の王将 築紫野店

言うまでもなく、餃子チェーン店。可もなく不可もなし。

ただし、評判通り餃子はおいしい。

(4)黒船亭

福岡県太宰府市梅香苑1丁目1-5

お店の前の大きなのぼり旗「担々麵」にひかれて、入店。テーブルの上のメニュー板にびっくり。担々麺オンリーのお店と思っていたのに、予想が外れ、豊富なメニュー。私は白ごま担々麺セットが一番人気だということで、定番商品を注文。評価はBプラス


(5)暖暮 大宰府駅前店

福岡県太宰府市宰府1-14-24

このお店もラーメンチェーン店。一風堂や一蘭などと同様に、博多ラーメンのチェーンを国内外に展開。

 だからこそかもしれないが、店主の意気込みはもう一歩。北九州の「石田一龍本店」社長のようなエネルギッシュな戦闘スタイルは見られないが、この味、一筋という気概は欲しい。チェーン店の宿命か。

仮にフランチャイズ店であれば、後に引けないはず。がむしゃらに美味しいラーメン作りと「お客様、第1」主義に徹すること。

評価はB。




2023年12月18日月曜日

大宰帥の謎ーーその4:藤原浜成

 太宰帥であった藤原浜成の軌跡が奇妙である。浜成といえば、藤原不比等と藤原五百重との間に生まれた京家の藤原麻呂の子である。

浜成は桓武天皇即位直後に昇位しなかった一人である。その理由は、延暦元年(782)閏正月に発生した氷上川継謀反事件に求められるだろう。なぜならば浜成は氷上川継の義父だからである。すなわち祖母を同一にする藤原五百重が天武天皇との間に生まれた新田部皇子の子である塩焼王と、聖武天皇の子でである不破内親王との間に生まれた氷上川継の妻が浜成の娘・法壱である。桓武天皇を擁立した藤原式家(藤原百川など)と藤原京家との対立があったのは、事実である。こうした政治的背景にして、浜成が大宰帥に左遷され、その3か月後にさらに員外官にされ、しかも正員の三分の一に減俸された。

その直前に桓武天皇は員外官を廃する命令を下した。しかし桓武天皇はみせしめのように浜成をあえて員外官を命ずる。

ところで、大宰帥に左遷された藤原浜成が都にいる婿である氷上川継の反乱の謀議に加担したという桓武天皇の主張は憎悪の標的となった感を持つ。もはや無力化された浜成に追い打ちをかけるように、あらぬ嫌疑をかけて、浜成を貶めたと思われる。

 それほどに、天武天皇直系のプリンス浜成や川継に対して、百済人の血を引く桓武天皇の強い敵愾心であったと理解してよいだろう。

さて、私の関心は別なところにもある。桓武天皇即位の裏事情である。他の有料候補者を押しのけて、桓武天皇が選出された強い理由である。誰が最終決定者なのだろうか。






2023年12月12日火曜日

大宰府に常駐した新羅語通詞3名と中国語通詞4名

 『延喜式』民部下には、大宰府 に配置された職業別役人は、次の通りである。

「帥三○人、大弐二〇人、少弐一二人、大少監各八人、主神・主工・大少典・博士・明 法博士・主厨各六人、音博士・陰陽師・医師・算師・主船各五人、大唐通詞四人、史 生・新羅訳語・弩師・傔仗各三人、府衛四人、学校二人、蔵司二人、税倉二人、薬司 二人、匠司一人、修理器仗所一人、守客館一人、守辰六人、守駅館一人、儲料二○人 また主船一百九十七人、厨戸三百九十六烟」

とある。

我々の関心事である通詞に関していえば、

*新羅語通詞3名と中国語通詞4名

に自然と目が向く、新羅語通詞と中国語通詞が常駐していたとすれば、

1、その言語習得法:学校で習得したのか、指導者はだれか、教材はなにか、試験制度はあったのか、学校があったならば、その場所はどこかなどなど

2,通詞に段階があったのか:大通詞や稽古通詞などの身分上の区別

3,通詞は単なる語学翻訳者だけであったのか、それともその能力を駆使して、貿易などにも関与したのか

などなど。

気になるのは、中国は「通詞」、新羅語は「訳語」の使い分けである。

そして、新羅語と百済語、任那語、高句麗語の違い。さらに大唐語であっても、今でもそうであるけれども、マンダリン(北京官語)と中国南部諸方言は誰が通訳したのかなど気がかりである。


****************

以下は、陸 迪 氏の論文「古代日本の大唐通事をめぐる一考察 A study of Daito Tsuji in ancient Japan」『東アジア文化研究』巻 7,2022年、 91-108頁に依拠した。


2023年12月9日土曜日

豊後国速見郡二見郷(現在の別府市)を襲った土石流

 『続日本紀』宝亀3年(772)10月丁巳【10】条に、

○丁巳。大宰府言上。去年5月23日。豊後国速見郡二見郷。山崩填澗。水為不流。積十余日。忽決漂没百姓27人。被埋家二三区。詔免其調庸。加之賑給。

とある。この記事によると、宝亀2年(771)5月23日に豊後国速見郡二見郷に土石流が発生し、河川をせき止めた、10余日経過後、そのせき止められた水が激流となって下流に流れ、流域を水没させたとある。人的被害は27名、大宰府からの報告で「詔免其調庸。加之賑給。」とある。

豊後国速見郡二見郷とは、今の別府市でに属す。


さて、この大宰府発信の都への報告であるが、このように管内諸国の自然災害たるまで逐一朝廷へ報告していたことは興味深い。

しかしながら、なぜ、いまさらに前年の災害を1年半後に報告したのかは不明である。愚案なし。

2023年12月6日水曜日

東大寺大仏制作に従事した銅工 宗形石麻呂

今でこそ、「宗像市」・「宗像神社」に代表されるので、「ムナカタ」の表記は「宗像」だと思い込みがちである。

しかしその表記が定まったのは後世である。古代には、一般的に「宗形」とも書き表された。

「太宰帥宅牒 東大寺造司

銅工宗形石麻呂 上日卅

牒、件人十二月上日勘注、申送如前、以牒

 天平宝字7年12月卅日

知宅事大師家職今資人高来造広人」(484頁)

この記事で最も注目したいのは、東大寺造司から天平宝字7年(763)時点の太宰帥であった藤原朝臣真先宅へ銅工の宗形石麻呂が派遣されていた事実と、そして宗形石麻呂の同年12月の上日(出勤日数)が30日であったと分かる。ほぼ皆勤である。

日本高僧伝要文抄』所収の「延暦僧録」(思託、延暦7年・788年) に 

「銅2万3千7百18斤11両、自 勝宝2年正月迄7歳 正 月、奉 鋳 加所用也 」

(著者注:当時の1斥は180匁で675g)

 とあ るように、こ の鋳かけに5年の 歳 月と約16ト ンの銅を費 してい る。

ところで、東大寺大仏鋳造に用いられた銅の大半は長門国長登銅山で採掘されたことはすでに周知のとおりである。

さて、1989年に京都府大山崎町の「山崎院跡」から出土した銅のインゴットは注目される。最大で22.5㎝、重さ2680グラムの円錐形銅地金6枚である。大山先町教育委員会と奈良文化財研究所の調査によると、この6枚のインゴットは山口県長登銅山産であり、鉛同体比の分布が奈良の東大寺大仏鋳造に使われた銅と同一であるという。

 そもそも山崎院といえば、東大寺大仏制作に大きな貢献をした僧行基が建立した。したがって、東大寺大仏完成後、余った銅の一部が山崎院に分与されたと大山崎町教育委員会は推定する。

 想像の域を超えないが、陸路で長門国長登銅山から奈良の東大寺へ運搬されたときには、このような「精錬」状態であった。つまり、長登銅山は銅を発掘し、銅鉱石から「製錬」をし、それを銅のインゴット状にして、東大寺に輸送していた。銅製品などを加工するためには、さらに「精錬」するプロセスが必要である。それでは「銅工」宗形石麻呂らが銅製品に加工していた場所は、東大寺内のどこであっただろうか。

 奈良文化財研究所による、東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の二つの遺構の発掘結果から考えて、9812区から炭化物や青銅精錬作業の廃棄物が、そして9813区から洗い銅などの金属選別作業時の廃棄土や出土品の中に連弁状の青銅製品発掘されている。

この指摘から推測して、発掘担当者の平松義雄氏は、

「土器の年代からみれば、東大寺創建期に構築 、廃絶されたものばかりである。このエリアには 堀池春峰氏の指摘のとおり 、造東大寺司鋳所の現業部門が設置されていた蓋然性が高いといえよう」(https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/9047/1/AN00396860_24_010_013.pdf)

と報告している。この東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の両区を含めた一帯で、東大寺司鋳所の現業部門の一人のスタッフである宗形石麻呂が動き回っていた可能性を提出しておきたい。


さて、なぜ、筑前国宗形を離れて、宗形氏が平城京の東大寺造仏制作のために銅工として働いたのであろうか。この時に、全国から青銅精錬作業経験者を招集しただろうが、宗形氏と青銅精錬との関係はどこにあったと考えればよいだろうか。

 想像の域を超えないが、「■(匈+月)形箭」を想起する。

『続日本紀』天平宝字5年7月の条に、

秋七月甲申,西海道巡察使-武部少輔-從五位下-紀朝臣-牛養等言:「戎器之設,諸國所同。今西海諸國,不造年料器仗。既曰邊要,當備不虞。」於是,仰筑前、筑後、肥前、肥後、豐前、豐後、日向等國,造備甲刀弓箭,各有數。每年送其樣於大宰府。」

とあり、大宰府管内の諸国で兵器が製造されることとなり、その「様(ためし、サンプル)」が大宰府に送付された。天平8年(736)の「薩摩国正税帳」には、

「運府兵器料鹿皮担夫

とあり、大宰府に刀剣の柄に使用する鹿皮が運搬された。

このことからしても、大宰府管内でも兵器が製造されていたことは間違いなく、その一つが「■(匈+月)形箭」であると想像する。


**************

通説の通り、東大寺大仏は、百済からの渡来人国骨富の孫である国中真麻呂を大仏師とし、大鋳師高市真国、高市真麻呂ら技術者など、延べ42万3,000余人、役夫(雑役)218万人を使って、大仏本体の鋳造に3年、らぼつの鋳造と組立てに2年、仕上げと塗金に6年、計11年の歳月を費して完成した。

『続日本紀』天平宝亀5年10月条に、

冬十月,丁卯朔己巳,散位-從四位下-國中連-公麻呂,卒。本是百濟國人也。其祖父-德率-國骨富,近江朝庭歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工,無敢加手者。公麻呂頗有巧思,竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寶字二年,以居大和國葛下郡國中村,因地命氏焉。」

とある通りである。

銅加工の専門職業集団の集まりである東京都鍍金工業組合

 (東京都文京区湯島1-11-10)のホームページによると、

めっきの歴史 奈良の大仏と表面処理 (tmk.or.jp)

次に鋳凌いといって、鋳放しの表面を平滑にするため、ヤスリやタガネを用いて凹凸、とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し、彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し、さらにト石でみがき上げている。台座の蓮弁に残された有名な「蓮華蔵世界」の彫刻も、この時作られたものである。

 鋳放しの表面をト石でみがき上げてから、この表面に塗金が行なわれたが、大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるように、鋳かけ、鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれた。

 これに用いた材料について延暦僧録には、「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖、右具奉「塗御体如件」とあるが、これは金4,187両を水銀に溶かし、 アマルガムとしたもの2万5,224両を仏体に塗ったと回読している。

 すなわち,金と水銀を1:5の比率で混合してアマルガムとし、これを塗って加熱し、塗金を完了するのに5年の歳月を要している。

 これは第1に、鋳放し表面を塗金できるまで平滑にすること、第2に塗金後の加熱を十分慎重に行なわなければ、加熱時に発生する水銀の蒸気は非常に有毒なので、すでに751年、大仏殿の建造も終っている状況では、殿内は水銀蒸気が充満し、作業者にとって非常に危険な状態だったのであろう。

 大仏の鋳造は749年に完成し、その後に金メッキが行なわれ752年、孝謙天皇の天平勝宝4年に大仏開眼供養会が行なわれた。大仏の金メッキは、この開眼供養の後になされたが、アマルガムによる金メッキが行なわれはじめたときから、塗金の仕事をする人々にフシギな病気がはやりだした。この不思議な病気の原因は、まさに水銀中毒であった。

 蒸発する水銀をすうことが中毒であると真相をつきとめた大仏師国中公麻呂は、東大寺の良弁僧上とともに今日の毒ガスマスクを工夫して、病気の発生を予防したとのことである。科学技術の進歩は公害が付きもので、これを克服していかなければ人類の進歩はない。すでに8世紀における大仏建造で、水銀アマルガム鍍金の公害が発生したが、人類の恵知はこれを克服している。」


なおちなみに


藤原朝臣真先
(もしくは光)
天平宝字6年12月1日(762年12月20日)任
*藤原仲麻呂の男子。
「《天平宝字六年(七六二)十二月乙巳朔》
○十二月乙巳朔。授従四位上藤原恵美朝臣真光正四位上。
以御史大夫正三位文室真人浄三為兼神祇伯。従三位氷上真人塩焼。
従三位諱。従三位藤原朝臣真楯為中納言。真楯為兼信部卿。
正四位上藤原恵美朝臣真光為大宰帥。


++++++++++++

参考資料

『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝

延暦僧録文

勝宝感神聖武皇帝菩薩伝 〈以御願文十二月二日〉

法名勝滿。在奈良朝庭御宇。

(中略)

又発使入唐。使至長安。拝朝不払塵。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝云。彼国有賢主君。観其使臣趍揖有異。即加号日本為有義礼儀君子之国。復元日拝朝賀正。勅命日本使可於新羅使之上。勅命朝衡領日本使。於府庫一切処遍宥。至彼披三教殿。初礼君主教殿。御座如常荘飾。九経三史。架別積載厨龕。次至御披老君之教堂。閣少高顕。御座荘厳少勝。厨別龕函盈満四子太玄。後至御披釈典殿宇。顕教厳麗殊絶。龕函皆以雑厠填。檀沈異香荘校御座。高広倍勝於前。以雑宝而為燭台。々下有巨鼇。載以蓬莱山。上列仙宮霊宇載宝樹地。𢜈々紅頗梨宝荘飾樹花中。一々花中各有一宝珠。地皆砌以文玉。其殿諸雑木尽鈷沇香。御座及案経架宝荘飾尽諸工巧。皇帝又勅。摸取有義礼儀君子使臣大使副使影。於蕃蔵中以記送遣。大使藤原清河。拝特進。副使大伴宿弥胡万。拝銀青光禄大夫光禄卿。副使吉備朝臣真備。拝銀青光禄大夫秘書監及衛尉卿。朝衡等致設也。

開元皇帝御製詩。送日本使〈五言〉

日下非殊俗。天中嘉会朝。

朝爾懐義遠。矜爾畏途遥。

漲海寛秋月。帰帆駛夕颷。

因声彼君子。王化遠昭々。

特差鴻臚大卿蒋挑捥送至揚洲看取。発別牒淮南。勅処致使魏方進。如法供給送遣。其大使私請揚洲竜興寺鑒真和上等渡海。将伝戒律。自勝宝六年二月四日至聖朝。勅安置東大寺。即其年四月。勝宝感神聖武皇帝。於盧舎那仏前。天皇菩薩請鑒真和上。登壇受菩薩戒。皇太后皇太子並随天皇受菩薩戒。後為沙弥澄修等受戒。此及伝戒事円。至其年五月。大和上衆僧。即貢如来舎利二千粒。西国瑠璃瓶盛念珠菩提子三斗。青蓮花葉二十茎。珉海畳子八面。玉環水精幡八条。王右軍真跡行書一帖。小王献之真跡行書三帖。少僧都良弁及佐伯今毛人共進内。斯実希代勝貺。前王罕逢。其僧法進即伝道宣律師行事抄六巻。大胝弥迦蔵本。又沙門法励。嵩岳鎮国道場義記三本。助天皇菩薩之揚化。聖武皇帝宜膺帝録。天受雄図。徳副乾坤。明均日月。化家為国。志康雷雨之長。翼聖承天。果就経論之業。六竜感御。八表惟寧。握鏡垂仁。懸大明而下燭。凝流拱代夢花胥而上昇。万徳長綿莫攀雲駕。百神幽賛永隔軒台。天平仁政皇后。克纂洪福。丕垂耿光。翹叡心於仏乗。申景福於仙鶴。創茲金地。而未畢功。克日就功。忌辰赴慶。莫我烈聖憑斯正因。妙業増暉。開化蓮於浄国。玄珠契道。獲大宝於春池。裕不尽之威霊。垂無之福祐。勝宝八歳々次丙申五月二日。崩於平城宮矣。〈巳上僧録文〉

2023年11月19日日曜日

藤原広嗣兵乱時の大将軍 從四位上-大野朝臣東人の本陣に関する言い伝え

内山寺古事

(一名、筑前国三拾三所道中案内記)

慈悲の栞

直方町旧名東蓮寺と称し元倉久村真言宗内山寺の末寺にして、(中略)、霊(ママ)武天皇拾三年大宰大弐(ママ)藤原の広嗣反しけれは大野東人勅を奉して討伐に向かるときここ(多賀神社)に本陣を構へたりと云へり

大野東人が本陣を構えた場所の口伝オーラルヒストリーである。

万葉集と漁期-主に252番歌を中心に

万葉集と漁期とは一見して全く無縁である。しかし、だからこそ、数多い万葉集研究に活用されないままであった。

 その主な理由は万葉集研究者の大半が「ロッキングチェア学派」であるからだ。

今、その一つとして、252番歌を取り上げたい。周知のとおり、この歌群は「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」と呼ぶ。


252番歌

[題詞](柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首)

荒栲 藤江之浦尓 鈴木泉郎跡香将見 旅去吾乎

荒栲の藤江の浦に釣る海人とか見らむ旅行くわれを

 

*藤江

集中に、藤江を探ると

(1)「やすみしし わが大君の 神ながら 高知らします 印南野の大海(「おふみ)、邑美」の原の 荒栲の藤井(藤江)の浦に (しび)釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多になる 浦 を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く 在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜」【938番歌、山部赤人】

とあり、「印南野の邑美の原の 荒砂の藤井(藤江)の浦に」に見る如く「白き海浜に作られた港津」であったらしい。その位置は不明であるが、明石市藤江字別所にある藤江別所遺跡付近を想定してよい。

「この遺跡は藤江川の河口から約300mさかのぼった、標高約12mと比較的低地に位置しています。このあたりまでは、海が入り込んでいたものと考えられています。」(参考文献:『明石市立文化博物館 1996 『明石市文化財調査報告2:明石市 藤江別所遺跡』明石市教育委員会 』)

とある。浦とあるので、「海・湖・池などの、湾曲して陸地に入り込んだ所」(岩波古語、193頁)であり、ここに鱸(鈴木)やなどを目当てとする海人たち漁民集団の居住地があったらしい。

 この海人たちは、下記の2首にも描写されている。

(2)「沖つ波 辺波静けみ 漁(いざ)りすと 藤江乃浦に 船そ動ける」(939番歌、山部赤人)

(3)「白栲の藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行く 吾を」(3607番歌、遣新羅使)


*鱸(鈴木)

さて、ここで注目したいのは、漁期である。

兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)によると、現在の鱸漁は毎年5月から10月まで、そして鮪をサワラだと仮定すると9月から12月までの漁獲、そしてハマチだとすれば、その漁期は10月から12月だという(明石市に本所を置き、県下の沿海地区を中心に19ヶ所の事業所を有する兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)のHPhttp://www.hggyoren.jf-net.ne.jp/Dictionary/Seto-Naikai-Winter.html)による。

すでに慧眼な方であれば、私の狙いを察知しておいでだろうが、「歌が詠まれた時期」の推測材料に注目する。

つまり、252番歌であれば、柿本人麻呂は5月から10月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定できる。

そして938番歌であれば、山部赤人は10月から12月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定してよい。





2023年11月18日土曜日

大宰府から平城京へ所要した日数

 『続日本紀』では、天平12年の藤原広嗣挙兵が好個の資料となる。

8月癸未【29日),大宰少貳-從五位下-藤原朝臣-廣嗣上表,指時政之得失,陳天地之災異。因以除僧正-玄昉法師、右衛士督-從五位上-下道朝臣-真備為言。其上表文,言玄昉、真備為姦雄之客,覆國之人云云,具在『松浦廟宮先祖次第併本緣起』。然近世以來,有偽書之疑。下道真備,後改吉備真倍。
九月,乙酉朔丁亥【3日),廣嗣遂起兵反。
 敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山
陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。


この記事を忠実に読めば、8月29日に挙兵が在り、翌月3日付けで鎮圧軍を大宰府へ送る手はずが整ったとある。

この電光石火のごとき朝廷の対策は、大宰府からの情報の速さの結果であるが、はたして事実であろうか。


さて、これが実現するためには、次のような条件が求められるだろう。

1,大宰府から北九州の港、もしくは豊前国府までの陸路、そして平城京までの海路の整備

2,瀬戸内海を3日で航行するスピードの速い船と迅速な船員確保、そして食料・水積載

3,難波津から平城京までの古代官道と駅家の整備ー1日

4,加えて、瀬戸内海を航行するに順風と穏やかな波


もっとも養老4年(720)の大隅国守殺害事件も視野に入れておきたい。

 2月壬子【29日),大宰府奏言:「隼人反,殺大隅國守-陽侯史-麻呂。」

3月,癸丑朔丙辰(4日),以中納言-正四位下-大伴宿禰-旅人,為征隼人持節大將軍。授刀助-從五位下-笠朝臣-御室,民部少輔-從五位下-巨勢朝臣-真人,為副將軍。


ちなみに、海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。

*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km
延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>

上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp) 
とも推定できる。


確かに現代のマラソンランナーが640キロメートルを駆け抜ければ、42.195キロメールを3時間を要する走者は15人で、45時間で到着できる。
 そのためには、走路がほぼ平坦であることは不可欠である。そしてすべての河に橋がかけてなくてはならない。前日までの豪雨で川の水笠が増して渡河できない状態にあるなどはもってのほかである。
しかも各駅ごとに、大宰府版走ろメロスのようなrunnerが待機していなければならない。はたして可能だろうか。

なお、『延喜式』(巻24,主計上)では、大宰府から平安京まで海路で30日を要したとある。
奈良時代版「ドラえもんのどこでもドアー」が開発されていたのか。

2023年11月17日金曜日

安曇の読みは「アド」か

 安曇は安積とも安住とも表記されるが、それは「アズミ」の読みが定着したのちのことである。

天平勝宝2年4月12日の日付を持つ「東大寺諸荘文書併絵図など目録」と呼ばれる文書の中に

「民部省符1通4至 (東安曇江 南堀江 西百姓家 北松原) 地4町」

という官符がある。今、京都市に水源を発し、琵琶湖にそそぐ「安曇川」と書き「アドガワ」と呼ぶ川がある。そして千田稔氏の論文(「古代港津の歴史地理学的考察」『史林』1970年)に学んだことであるが、地理局図籍課発行『明治19年大阪実測図』には、「アドエ」と表記される地名がある。千田氏の仮説によれば、この「アドエ」が上記の「安曇江」であるという。

 つまり、「安曇」は「アド」と読む。

(参考資料日本地名大辞典 68頁、1979年)


2023年10月9日月曜日

大宰府管内のエミシ、蝦夷

 1豊前国

『類聚国史』天長 5 年(828)閏 3 月 10 日条

「 豊前国俘囚吉弥候部衣良由、輸酒食百姓三百六十人 。豊後国俘囚吉弥候部良佐閉、輸 稲 九百六十四束 、資 百姓三百廿七人 。衣良由叙 少初位下 、良佐閉叙 従六位上 。

⇒「俘囚」とは蝦夷の別称。

2,肥前国

『類聚国史』天長 5 年 7 月 13 日条   

「 肥前国白丁吉弥候部奥家叙 少初位上 。奥家既染 皇風 、能順 教令 。志同 平民 、動赴 公役 。 修造官舎及池溝道橋等 、未有 懈倦 。加以国司入部之日、送迎有 礼、進退無 過。野心既忘、 善行可 嘉。


3,筑後国

『類聚国史』天長 10 年(833)2 月 20 日条 

「筑後国第五等都和利別公阿比登叙従八位上 。輸 私稲 資 弊民也」



*************

今、「新・下野市風土記  下野市教育委員会 文化財課」で紹介に変えたい。

5df2ef10bb65a.pdf (shimotsuke.lg.jp)

*「当時の主な政策のひとつとして、対東北政策 がありました。 天  平神護元(765)年には、東北地方に居住 していた蝦 えみし 夷と呼ばれる人々のうち、朝廷側の 政策に恭順し、東国などに移り住んだ人たちに、 それまでの姓 かばね ではなく、新たな姓を与えました。 それまで吉弥候部きみこべの姓を名乗っていた人たちに、 新たに上 毛野公・下毛野公、物 部連の姓を名乗 ることを認めています。上毛野朝臣(上毛野国 国造一族)や下毛野朝臣(下毛野国造一族)、物 部朝臣(軍事に携わる一族)などが陸 奥国や出 で 羽 わのくに 国の平定に携わり、投降してきた蝦夷の人々 (俘 囚ふしよう)を直接受け入れたことから、これらの姓 が与えられたと考えられています。  なお、吉弥候部という姓は、もともとは君子 部と記していましたが、天平宝字元(757)年3 月に孝謙天皇が「これより後、君子部を改めて 吉弥候部と為せ」という詔を出したことで、表 記が変わりました。奈良時代には、何度かこの ような良い意味の文字を使用するように命令が 発布されました。和銅6(713)年5月には「諸国 郡郷名著好字令」という命令が出、全国の国 名を2文字にすることが決められたことにより、 これ以降、下毛野が下野へと変わりました。


エミシ蝦夷が大宰府の防人に

 大宰府市と関係があるのか不明であるが、「太宰府市日本遺産について「日本遺産」につい」には、防人に関して、

「遠い東国から九州へ辺境防備のため派遣された防人たちによる「防人の歌」

万葉集筑紫歌壇 | 日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ (dazaifu-japan-heritage.jp)

とある。たしかにこの定義を否定するつもりはないが、追加情報として、つぎのエミシ蝦夷も防人に動員されたことを付記しておきたい。

*『類聚国史』大同元年(806)10 月 3 日条 

「 勅。夷俘之徒、慕 化内属、居要害地 、足備不虞 。宜在近江国 夷俘六百卌人、遷 大宰府 、置為 防人 。毎国掾已上一人専-当其事 。駈使勘当勿 同 平民 。量 情随宜、不 忤 野心 。禄物・衣服・ 公粮・口田之類、不 問 男女 、依 前格 。但防人之粮、終□永給口分田 者、以 前防人乗田等 給 之。其去年所 置防人四百十一人皆宜停廃 。」

とある。この記事は、陸奥国から近江国へ連れてこられたエミシ「夷俘」600人を大宰府に移配し、「防人」として国土防衛の任に当たらせたとある。そして彼らエミシは生国に帰ることなく、大宰府で骨を埋めた。

九州在住の万葉研究者たちによる浪漫的な防人歌解釈は再考する必要があると予告しておきたい。防人の実態を知らないものによる和歌鑑賞の限界を見るからである。別稿で、私論を発表するつもりである。

今、防人の基礎的理解に関しては、当面は、曾我部静雄著の先駆的論文「<研究ノート>東国出身の防人達 - Kyoto U」に基本的に依拠したい。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249559/1/shirin_044_2_289.pdf



2023年9月21日木曜日

太宰帥の謎ーその3

 太宰帥の職は左遷か。

なるほど菅原道真は左遷された。宇多天皇醍醐天皇に重用されて、右大臣にまで上り詰めた道真であったが、左大臣藤原時平讒言によって太宰帥の職へと左遷される。道真が大宰府に向かう前、京都を出立するときに歌ったに違いない。

『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ』

は高校古典教科書で学ぶだけに、その左遷時の和歌として学生の脳裏に刻まれ、間違いなく悲劇の主人公の歌として喧伝されがちである。だからこそ、太宰帥の職は左遷されたものに用意されたものだというイメージが定着したにちがいない。
 いま、ここで道真神話を再論するつもりはない。
 いや、左遷者の職でもあったにせよ、そうでない場合も想定すべきだと説きたい。

2023年9月17日日曜日

太宰帥宅の資人

 太宰帥に、どのような使用人がいたか。

偶然に止目した『古文書』5-464には、

*知宅事 大師家職 分資人 高来造 廣人

の名が残されている。「資人」は「しじん」もしくは「とねり」と読む。

画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp)


2023年9月16日土曜日

大宰府と白鑞

 《霊亀二年(七一六)五月丙申【廿一】》○丙申。勅。大宰府佰姓家有蔵白鑞。先加禁断。然不遵奉。隠蔵売買。是以。鋳銭悪党。多肆姦詐。連及之徒。陥罪不少。宜厳加禁制。無更使然。若有白鑞。捜求納於官司。

浮き沈みの激しかった吉備真備ーー右肩上がりの昇進と雌伏

【蓋棺事定】((杜甫 君不見、簡蘇徯、「丈夫蓋棺事始定」)とも「死して評価が定まる」という言葉がある。

吉備真備の生涯も波瀾万丈であった。浮き沈みの激しい人生の典型と言っても良いだろう、当事者にとって、橘諸兄との協調体制の下での栄華、藤原仲麻呂によって疎まれ筑前守に左遷され、大宰少弐、続いて大宰大弐在任期はいかなる心境であっただろうか。ともすると落魄の思いであっただろうか。

彼の薨伝は次の通りである。『続日本紀』には、

 《宝亀六年(七七五)十月壬戌【二】》○壬戌。前右大臣正二位勲二等吉備朝臣真備薨。右衛士少尉下道朝臣国勝之子也。

霊亀二年。年廿二。従使入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而巳。

天平七年帰朝。授正六位下。拝大学助。高野天皇師之。受礼記及漢書。恩寵甚渥。賜姓吉備朝臣。累遷。

七歳中。至従四位上右京大夫兼右衛士督。

十一年。式部少輔従五位下藤原朝臣広嗣。与玄昉法師有隙。出為大宰少弐。到任即起兵反。以討玄昉及真備為名。雖兵敗伏誅。逆魂未息。

勝宝二年左降筑前守。俄遷肥前守。

勝宝四年為入唐副使。廻日授正四位下。拝大宰大弐。建議創作筑前国怡土城。

宝字七年。功夫略畢。遷造東大寺長官。

八年仲満謀反。大臣計其必走。分兵遮之。指麾部分甚有籌略。賊遂陥謀中。旬日悉平。以功授従三位勲二等。為参議中衛大将。

神護二年。任中納言。俄転大納言。拝右大臣。授従二位。先是。大学釈奠。其儀未備。大臣依稽礼典。器物始修。礼容可観。又大蔵省双倉被焼。大臣私更営構。于今存焉。

宝亀元年。上啓致仕。優詔不許。唯罷中衛大将。

二年累抗啓乞骸骨。許之。薨時年八十三。遣使弔賻之。」


吉備真備の父は、右衛士少尉という下級武官の下道朝臣国勝である。下道朝臣国勝は吉備地方の国造家に誕生した。天武天皇13年に、八色の姓の成立によって「朝臣」を与えられたのも、『新撰姓氏録』左京皇別に吉備氏が属しているように、下道朝臣国勝は吉備に在住していたのではなく、都の下級官人であったからである。

<以下は、金石文拓本史料データベース【検索結果詳細画面】 (u-tokyo.ac.jp)

架番号】拓本237
【史料名】楊貴氏墓誌銘(コロタイプ版)
【外題】
【年紀】天平11年8月12日
【原蔵者】
【原所在地】
【原所在地の現地名】
【銘文の面/個所】
【採択者】内藤湖南氏より送付
【指定】
【装丁】裏打 未表装
【装丁の法量】31.9*35.8
【拓本の法量】31.9*35.8
【採択の法量】20.5*27.4
【参考文献】竹内理三編『寧楽遺文 下巻』(東京堂出版、1962年)969頁

【銘文】従五位下守右衛
土督兼行中宮亮
下道朝臣真備
亡妣楊貴氏之墓
天平十一年八月十
二日記
歳次己夘

【備考】陰刻

***************


この銘文は享保13年(1728)に大和国宇智郡大沢村で発見された墓誌である。すでに岸俊男氏の指摘によって、吉備真備の「亡妣楊貴氏」は大和国宇智郡在住の八木氏一族の出身者であると推定されている。これは正解に近いだろう。とすれば、畿内に居住する下道朝臣国勝が大和国の八木氏との婚姻関係を結んでいることからしても、吉備に本貫を持つとしても、吉備真備は畿内で誕生したに違いない。

なお、下道から吉備への改名は、『続日本紀』に

*「《天平20年(748)11月己丑【丁卯朔23】》○十一月己丑。下道朝臣乙吉備。真事。広三人。並賜吉備朝臣姓」

参照のこと、

さて、22歳になった吉備真備は霊亀2年(716)に遣唐使の一員に加わることとなった。『続日本紀』には

《霊亀二年(七一六)八月癸亥【二十】》○癸亥 ~ 是日。以従四位下多治比真人県守為遣唐押使。従五位上阿倍朝臣安麻呂為大使。正六位下藤原朝臣馬養為副使。大判官一人。少判官二人。大録事二人。少録事二人。

とあるが、上記の薨伝には

霊亀二年。年廿二。従使入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而巳

とある。吉備真備の唐国滞在は、下記によって、天平7年(735)であったので、彼の留学は19年間に及んだ。この留学経験、学識、当時にあって最先端の学問を学び、そして天皇に重用されて、異例なほどに出世する。


《天平7年(735)4月辛亥【26】》○辛亥。入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

ところが天平勝宝2年(750)に至って、吉備真備は筑前守に「左降」される。橘諸兄に庇護されたとの対照的に、その次の政権を握った藤原仲麻呂に疎まれたと想定してよい。

《天平勝宝2年(750)正月己亥【10】》○己亥。左降従四位上吉備朝臣真備為筑前守。

しかしながら、その一方で遣唐使の派遣が計画され、『続日本紀』に

*「《天平勝宝2年(750)9月己酉【24】》○己酉。任遣唐使。以従四位下藤原朝臣清河為大使。従五位下大伴宿禰古麻呂為副使。判官・主典、各四人

とある。

ところが吉備真備が筑前守在任中に、遣唐副使に追加任命された。

《天平勝宝3年(751)11月丙戌【庚辰朔7】》○十一月丙戌。以従四位上吉備朝臣真備為入唐副使。

しかしながら、大使の藤原朝臣清河は従四位下であり、従四位上である吉備真備よりも位階が下である。加えて副使の大伴宿祢古麻呂にしても従五位下であり、副使の位階は一致しない。

ところが藤原仲麻呂政権では、これは不協和音を起こしかねないとして、

*「《天平勝宝4年(752)閏3月丙辰【戊申朔9】》○閏三月丙辰。召遣唐使副使已上於内裏。詔、給節刀。仍授大使従四位上藤原朝臣清河正四位下。副使従五位上大伴宿禰古麻呂従四位上。留学生無位藤原朝臣刷雄従五位下。」

に遣唐使一行の位階の調整を行った。すなわち正使藤原朝臣清河は2階級、副使大伴宿祢古麻呂は4階級も昇進させた。藤原北家藤原房前の子である清河はともかくとしても、大伴宿祢古麻呂は大抜擢であった。

 今、ここで大伴宿祢古麻呂の長安における席次問題は後日触れるとしても、吉備真備の登用は彼の中国語堪能さと前回の遣唐使で19年間に達する中国生活を過ごした中国通であったただけに、藤原北家のエリートである清河の指南役であっただろう。

そして吉備真備の帰国は、『続日本紀』にあるように、

《天平勝宝6年(754)正月癸丑【17】》○癸丑。大宰府奏。入唐副使従四位上吉備朝臣真備船。以去年十二月七日。来着益久嶋。自是之後。自益久嶋進発。漂蕩着紀伊国牟漏埼。

であった。しかしながら吉備真備の運はなく、

《天平勝宝6年(754)4月庚午【丙寅朔5】》○夏四月庚午。以従五位上中臣朝臣清麻呂為神祇大副。従五位下秋篠王。粟田朝臣人成並為少納言。従四位上大伴宿禰古麻呂為左大弁。従五位下石川朝臣豊成為右少弁。外従五位下日置造真卯為紫微中台少忠。従五位下当麻真人子老為雅楽頭。従五位上石川朝臣名人為民部大輔。従五位下石川朝臣豊人為主税頭。従五位上大伴宿禰家持為兵部少輔。従四位上紀朝臣飯麻呂為大蔵卿。正五位下中臣朝臣益人為造宮少輔。従五位下藤原朝臣武良志為左京亮。外従五位下文忌寸上麻呂為右京亮。従三位文室真人珍努為摂津大夫。従五位下百済王理伯為亮。従五位下多治比真人土作為尾張守。正五位下大伴宿禰稲君為上総守。従四位上吉備朝臣真備為大宰大弐。従五位下小野朝臣田守為少弐。外従五位下黄文連水分為肥前守。

とあり、遣唐使として帰国後においても、都で活躍する職位を与えられることもなく、大宰大弐を拝命することとなった。

その任が解かれるのは、

《天平宝字8年(764)正月己未【21】》○己未。以正五位下山村王為少納言。従五位下阿倍朝臣子路為左少弁。内蔵助外従五位下高丘連比良麻呂為兼大外記。外従五位下麻田連金生為左大史。従五位下大伴宿禰潔足為礼部少輔。正五位下紀朝臣伊保為仁部大輔。従五位上多治比真人木人為主計頭。外従五位下葛井連立足為助。従五位下甘南備真人伊香為主税頭。外従五位下船連男楫為助。従五位下路真人鷹甘為兵馬正。従五位下小治田朝臣水内為大炊頭。正五位下久世王為木工頭。従五位下穂積朝臣小東人為助。従五位下掃守王為典薬頭。従五位下粟田朝臣黒麻呂為左京亮。外従五位下蜜奚野為西市正。正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。正五位下百済朝臣足人為授刀佐。従四位下仲真人石伴為左勇士率。従五位下大原真人宿奈麻呂為左虎賁翼。従五位下藤原恵美朝臣薩雄為右虎賁率。正五位上日下部宿禰子麻呂為山背守。従五位下大伴宿禰伯麻呂為伊豆守。従五位上粟田朝臣人成為相摸守。従五位上上毛野公広浜為近江介。従五位下藤原恵美朝臣執棹為美濃守。外従五位下池原公禾守為介。従五位下藤原朝臣継縄為信濃守。従五位下田口朝臣大万戸為上野介。従五位下上毛野朝臣馬長為出羽介。従五位下藤原恵美朝臣辛加知為越前守。外従五位下村国連虫麻呂為介。従五位上高円朝臣広世為播磨守。従五位下藤原朝臣蔵下麻呂為備前守。外従五位下葛井連根主為備中介。従四位下上道朝臣正道為備後守。従五位下石川朝臣氏人為周防守。従五位下小野朝臣小贄為紀伊守。従四位上佐伯宿禰毛人為大宰大弐。従五位上石上朝臣宅嗣為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂為豊前守。従五位上大伴宿禰家持為薩摩守。」


までの足掛け9年に及んだ。この間の上司である大宰帥は
①石川朝臣年足 天平勝宝5年(753)9月28日~天平勝宝9載6月16日
②三品 船王  天平勝宝9載(757)7月4日~天平宝字4年1月4日
③藤原朝臣真楯 天平宝字4年1(760)月4日~天平宝字6年12月1日
④藤原恵美真光 天平宝字6年(762)12月1日~天平宝字8年(764)9月18日
の4名であった。

その間の消息を知る一つとして、

*《天平勝宝8歳(758)6月甲辰【22】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。

だけは特記しておいても良いだろう。

<参考>

怡土城に関しては、下記の糸島市役所のHPを参照のこと。

怡土城跡(いとじょうあと) - 糸島市 (itoshima.lg.jp)

そして

「怡土城」築城における人間模様ー藤原仲麻呂と吉備真備・佐伯今毛人糸島市立伊都国歴史博物館 2022 『糸島市立伊都国歴史博物館紀要17』糸島市立伊都国歴史博物館 、2022年刊



もし加えるとすれば、

*『道璿和上伝纂』

の執筆も紹介しておきたい。それは道璿の

*「孫弟子にあたる最澄が『内證佛法相承血脈譜』において引用する吉備真備撰『道璿和上伝纂』の次の文章である。

 正四位下大宰府大弐吉備朝臣真備纂云、大唐道璿和上、天平八載、至自大唐~(下略)」

(息吹敦「日本の古文献から見た中国初期禅宗」『東洋思想文化』2号、39頁、2015年より再引用)

さらに、吉備真備が兵法に優れていたことは、『続日本紀』の

*「《天平宝字4年(760)11月丙申【10】》○丙申。遣授刀舍人春日部三関。中衛舍人土師宿禰関成等六人於大宰府。就大弐吉備朝臣真備。令習諸葛亮八陣。孫子九地及結営向背。

に見る通りである。吉備真備が都から大宰府に派遣された6名に対して諸葛孔明の「八陣図」や孫子の「九地篇」や「結営向背(行軍篇)」を教授したとある。

なお、これまであまり注目されてこなかった記事であるが、

*「《天平宝字6年(762)4月辛未【22】》○辛未。始置大宰弩師。」

にしても、吉備真備の関与があったと予想して何ら不自然さはない。

さて、「人間万事塞翁が馬」。都では、藤原仲麻呂(恵美押勝)に対抗する勢力となった道鏡が台頭してきた。『続日本紀』では、

《宝亀3年(772)4月丁巳【7】》○丁巳。下野国言。造薬師寺別当道鏡死。道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禅行聞。由是入内道場列為禅師。宝字五年。従幸保良。時侍看病稍被寵幸。廃帝常以為言。与天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。宝字八年大師恵美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡為太政大臣禅師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飲食一擬供御。政之巨細莫不取決。其弟浄人。自布衣。八年中至従二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐称八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀~(下略)」

とあるように、道鏡は孝謙太上天皇の信任を得る。これを契機にして道鏡は藤原仲麻呂の専権と対立することとなる。少僧都慈訓法師は藤原仲麻呂派であったので、『続日本紀』に

*「《天平宝字7年(763)9月癸卯【4】》○癸卯。遣使於山階寺。宣詔曰。少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪為綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師為少僧都。

自然な流れで、藤原仲麻呂によって平城京から左降された吉備真備はシーソーのような形で職位が上昇した。「雌伏9年」の時を経て、ついに京都に帰ることとなった。それも造東大寺長官であった。

*「《天平宝字8年(764)正月己未【21】》○己未。~中略~正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。」


吉備真備の前任は葛井連根道であったが、天平宝字7年(763)12月に解任された。長官真備の下の次官には国中連公麻呂を置き、官には主典であった正六位上の美(弥)努連奥麻呂を据え(『古文書』5-382、画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp))、そして正六位上の佐伯宿祢真守(佐伯宿祢今毛人の兄、『古文書』16-433、437など画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp) ri、なお彼の名は「麻毛利 Mamo」と読んだらしい。『平安遺文』1-242)、そして主典に土師宿祢名道などを配置した。

真備の造東大寺長官在任は宝亀元年(770)10月までであった。

吉備真備がなぜ造東大寺長官に任じられたのかが興味深いが、造東大寺司に関する考察は別な機会に譲りたい。

この天平宝字8年9月に、いわゆる「恵美押勝の乱」が勃発して、その乱平定の立役者であった吉備真備は参議・中納言・大納言・右大臣へと駆け上がることになった。これからの栄達は割愛する。

まさに「七転び八起き」の人生であった。




2023年9月14日木曜日

太宰帥の7つの謎ーその2(藤原朝臣乙麻呂の5段階昇進、正五位上大宰少弐から従三位太宰帥へ)

 藤原朝臣乙麻呂は、天平勝宝2年10月1日(750年11月4日)太宰帥任

さて、乙麻呂は 藤原武智麻呂の3男。妻は橘諸兄の弟・橘佐為の4女・真都我(『尊卑分脈』)

*『続日本紀』《天平勝宝2年(750)3月庚子【12】》○庚子。~藤朝臣乙麻呂並為大宰少弐。」

⇒太宰帥は京に在住。大弐は欠員。大宰府の実質的な責任者は藤朝臣乙麻呂であった。

*『続日本紀』
「詔、授正五位上藤原朝臣乙麻呂従三位。任大宰帥。以八幡大神教也。」


⇒天平勝宝2年に乙麻呂は5階も昇進した上に、「太宰少弐から大宰帥」へ栄転。

それは宇佐八幡宮の神託であった(「教」)と考えたい。


なお、藤原朝臣蔵下麻呂の場合、天平宝字8年に従五位下から一気に従三位へ8階級昇進した。これは藤原朝臣仲麻呂軍との戦闘に勝利した軍功であったが、この昇叙の速さは目を引く。


ちなみに、上には上がいる。天平宝字8年9月に藤原朝臣仲麻呂の乱が終焉すると、実兄の道鏡が政治の中枢に進出するとともに、「親の七光」ならぬの兄の恩恵で弟弟の浄人は従八位上から15階級も昇進して、従四位下に任じられた。

昇叙階数

弓削御清朝臣浄人:15

石村村主石楯:14

牝鹿連嶋足:11

池田朝臣真枚:11

大津連大浦:10

中臣伊勢連老人:8

藤原朝臣蔵下麻呂:8

佐伯宿祢家継:8

紀朝臣船守:8

など



다자이후에 가면 大宰府に行ったらーー梅が枝餅の「かさの屋」

 大宰府に行ったら立ち寄りたいのが、梅が枝餅の「かさの屋」。

もち米とうるち米をブレンドした生地に、上品でほのかな甘さの餡入り。

端麗な味。

またお店の後ろの庭園を眺めて、休憩するもよし。

なによりもお店のスタッフのサービスも最高、笑顔が良い。

大宰府天満宮参詣の折には、まよわず参道スターバックスコーヒーの真向かいの「かさの家」で、梅が枝餅を賞味あれ。

茶房 ぎゃらりー かさの家

太宰府 / 甘味処

住所
福岡県太宰府市宰府2-7-24
営業時間
11:00~17:30
定休日
年中無休
o0700058614706635418.jpg (700×586) (ameba.jp)


다자이후에 가면 들르고 싶은 것이, 우매가에  모치의 「카사노야」.

찹쌀과 멥쌀을 혼합한 반죽에, 고급스럽고 은은한 단맛의 앙금이 들어 있습니다.

단아한 맛.

또 가게 뒤의 정원을 바라보고, 휴식을 취하는 것도 좋다.

무엇보다 매장 직원들의 서비스도 최고, 웃음이 좋다.

다자이후텐만궁 참배 때에는, 끊임없이 참배길 스타벅스 커피의 바로 맞은편의 「우산의 집」에서, 매화가 가지떡을 맛보라.

다후사기라리 우산집
다자이후 / 아마도처
주소
후쿠오카현 다자이후시 자이후2-7-24
영업 시간
11:00~17:30
정기 휴일
연중무휴