2016年7月27日水曜日

白村江とはどこ?

白村江の戦いは有名である。日本史を学べば、冒頭に登場するが、その場所が未詳。

まず、百済国のフィナーレをめぐって、整理をしておきたい。

ところで百済は、支配層が扶余(Tungus)族系、被支配層が韓族系の二層構造で構成されていたと知っておきたい。つまり民族も言語も風習なども大きく異なる民族による二層構造でスタートした国家であっただろう。そして同じ扶余族系の高句麗国と血脈を同じくしていたはずである。

(1)660年3月、左武衛大将軍蘇定方らは13万の軍勢を率いて合流した唐・新羅連合軍が百済を攻撃した。
(2)滅亡--660年7月18日--百済の義慈王・太子隆らが降服
(3)660年10月(もしくは661年4月)--日本は国内に滞在していた義慈王の子扶余豊璋を帰還させ、百済復興運動を起こさせる
(4)661年9月、中大兄皇子、扶余豊璋に織冠を与えて、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津ら5千余の軍を朝鮮半島に派遣。
(5)662年5月、大将軍大錦中阿墨比羅夫連等、船師170艘を率いて扶余豊璋を日本から百済に送る。
(6)663年3月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中将軍巨瀬神前臣訳語・三輪君根麻呂・後将軍安倍引田臣比羅夫(筑紫太宰帥)・大宅臣鎌柄が2万7000名を率いて、朝鮮に進軍。
(7)663年8月27日、日本軍と唐軍との戦闘が始まる
(8)663年8月28日、日本軍が大敗。
(9)663年9月24日、日本軍と百済の残党が日本に向かう。


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