2022年4月13日水曜日

大宰府政庁

「大宰府の「所」でその存在の明らかになったものは、学校院・兵馬所(兵馬司)・審客所・主厨司・主船司・ 匠司・修理器伎所・防人司・醤固所・大野城司・蔵司・大帳所・公文所・薬司・貢上染物所・作紙所・貢物所・政所の十八所である。この中、政所が中央の太政官庁的地位を占めることは、申すまでもない。」(竹内理三「大宰府政所考」『史淵』第71号、1956年、54頁)という竹内の指摘を待つまでも、大宰府内に存在した「所」の位置比定は今後の課題である。

 (1)学校院 (2)兵馬所(兵馬司) (3)蕃客所 (4)主厨司 (5)主船司 (6) 匠司 (7)理器伎所 (8)防人司 (9)警固所 (10)大野城司 (11)蔵司 (12)大帳所 (13)公文所 (14)薬司 (15)貢上染物所 (16)作紙所 (17)貢物所 (18)政所 (19)税所 

 竹内理三の論には、上記の「大宰府政所考」(『史淵』第71輯1956年)のほか、大宰府全体を総括した「大宰府と大陸」(『古代東アジアと九州』平凡 社、1973年)、観世音寺史研究の基礎を作った「筑前観世音寺史―東大寺末寺になるまで―」(『南都仏教』2号、1955年)の三部作がある。これらは、いずれも宣化天皇元年(536)の那津官家の設置から慶長4年(1599)までの1063年間に及ぶ『大宰府・太宰府天満宮史料』刊行の所産である。

なお、本ブログでは、
「 『菅家後集』に見る、

*城に盈ち郭に溢るる幾くの梅花ぞ

とある「郭」こそ、都府楼が左郭、右郭に分かれていた周囲を取り囲む垣があったからこそ、この歌が成立したらしい。」

と指摘した。


佐藤信氏の整理によると、

「大宰府をとりまく史跡群としては、 大宰府跡・大宰府学校院跡・観世音寺境内及び子院跡・筑前国分寺跡・国分瓦窯跡・ 塔原塔跡、大野城跡・水城跡・基肄城跡・阿志岐山城跡・宝満山・牛頸須恵器窯跡・ 鴻臚館跡・怡土城跡 などがあり、

付随する官司や生産遺跡として、次のような施設も知られる。 不庁地区(官衙群跡)・来木地区(官営工房群)・月山東地区(官衙跡)、筑前国府 跡(国分松本遺跡)、筑前国分尼寺跡、大宰府条坊跡(「朱雀大路」など)、主船司 ・主厨司・警固所 

大宰府を取り囲んでネットワークを組む広域の史跡・遺跡群としては、 古代朝鮮式山城跡・神籠石系山城跡・烽(とぶひ)・地方官衙遺跡(国府・郡家)・瓦 窯跡(老司瓦窯跡など)・土器窯跡(牛頸須恵器窯跡など)・宮ノ本遺跡(買地券出 土火葬墓)・前畑遺跡(土塁「羅城」カ) などがあり、

寺院・神社では、 観世音寺・戒壇院・筑前国分寺・筑前国分尼寺・般若寺跡・塔原塔跡・竈門山寺 太宰府天満宮(安楽寺)・宝満山・天拝山 などが知られる。また、大宰府をめぐる交通路関係遺跡として、山陽道跡・西海道跡・古 代官道跡(水城東門・西門から博多湾に向かう二本の直線官道、西海道など)、駅家跡、 なども指摘できる。」

20230816 佐藤信先生 大宰府機構の成立とその変遷 レジメ.pdf (sitekitt.com)

とある。


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池上年1918「都府楼址の研究」『考古学雑誌』8―7・11 

石松好雄・桑原滋郎編1985『大宰府と多賀城』岩波書店 

伊﨑俊秋2016 ~ 2018「大宰府史跡について(上)(中)(下)」『都府楼』第48 ~ 50号

 伊﨑俊秋2018「大宰府史跡と島田寅次郎」『大宰府の研究』高志書院 

石松好雄編1984『日本の美術 大宰府跡』至文堂

 石松好雄2004「大宰府史跡発掘史」『「古都太宰府」の展開』太宰府市

 一瀬智2009「福岡藩における大宰府跡の保護・顕彰について」『九州歴史資料館研究論集』34 

井上忠・渡辺正気編1993『恩師長沼賢海先生の思い出』

鏡山猛 井上理香2004「『開発』と『保存』―戦後太宰府における史跡保存問題―」

『「古都太宰府」の展開』太宰府市

 岩永省三、2016「中山平次郎の研究―継承的展開と九州大学―」『九大百年 美術をめぐる物語【論集】』九州大学総合研究博物館

 岡崎敬・渡辺正気1980「鏡山先生の人と学問」『鏡山猛先生古稀記念古文化論攷』鏡山猛先生古稀記念論文集刊行会 

小田富士雄1984「鏡山猛先生の業績を偲ぶ」『考古学ジャーナル』240号 

鏡山猛1937「太宰府の遺跡と條坊」『史淵』第16・17輯 

鏡山猛1957「福岡県筑紫郡太宰府遺跡」『日本考古学年報』5 

鏡山猛1968『大宰府都城の研究』風間書房 

鏡山猛1969「長沼賢海著『邪馬台と大宰府』」『日本歴史』第257号 

鏡山猛1979『大宰府遺跡』ニュー・サイエンス社 

川添昭二1994「大宰府の変遷」『九州の中世世界』海鳥社 

川添昭二1995「大宰府学と太宰府市史編纂」『Museum Kyushu』第50号 

川添昭二1997「竹内理三先生と九州史研究」『九州史学』第117号 

川添昭二2004「貝原益軒の菅原道真・太宰府天満宮研究」『「古都太宰府」の展開』太宰府市 

川添昭二・吉原弘道2006「あとがき」『大宰府・太宰府天満宮史料 太宰府天満宮史料補遺』太宰府天満宮

 川添昭二2007「創刊の辞」『年報太宰府学』創刊号

 川添昭二2009「太宰府学の確立をめざして」『都府楼』第37号 

九州国立博物館編2016『九州国立博物館史』 九州国立博物館編2018『大宰府史跡発掘50年記念特集展示「大宰府研究の歩み」』 九州歴史資料館編2009『大宰府発掘今昔物語』財団法人古都大宰府保存協会 九州歴史資料館編2018『大宰府への道―古代都市と交通―』 倉住靖彦1975「大宰府研究の現状と問題点についての序章」『日本史研究』第153号 倉住靖彦1979『大宰府』教育社 倉住靖彦1985『古代の大宰府』吉川弘文館 古代史研究会1963「大宰府研究の成果と課題(1)~(3)」『九州史学』第21・22・23・25号 古都大宰府を守る会編1984 ~ 87『大宰府の歴史1~7』西日本新聞社 重松敏彦2004「古代大宰府研究」『「古都太宰府」の展開』太宰府市 重松敏彦2007「古代における「ダザイフ」の表記について」『年報太宰府学』創刊号 重松敏彦2008「『太宰府備考』と太宰府址碑」『年報太宰府学』第2号 下條信行・平野博之他編1991『新版〔古代の日本〕九州・沖縄』角川書店 杉原敏之2011『遠の朝廷 大宰府』新泉社 杉原敏之2012「大宰府の考古学的成果と課題」『海路』第10号 高倉洋彰1996『大宰府と観世音寺―発掘された古代の筑紫―』海鳥社 高倉洋彰2004「九州国立博物館の誘致」『「古都太宰府」の展開』太宰府市 高倉洋彰2015「太宰府市公文書館報の刊行にあたって」『太宰府市公文書館開館記念誌』太宰府市

 竹内理三1963・64「九州の地方史研究(30) ~ (36)」『歴史評論』159・161 ~ 167)

大宰府研究会1973「大宰府研究会の発足にあたって」『大宰府研究会会報』№1 

大宰府史跡発掘50周年記念論文集刊行会編2018『大宰府の研究』高志書院 田中健一1980「大宰府研究会のあゆみ」『西南地域史研究』第4輯 田村圓澄編1987『古代を考える 大宰府』吉川弘文館 筑紫豊1969「『天満宮御文庫』について」『飛梅』創刊号 長洋一2003「編集後記」『太宰府市史 古代資料編』太宰府市 長沼賢海1919「天満天神の信仰の変遷(上)(中)(下)」『史林』4―2・3・4号 西高辻信貞1964「発刊の辞」『大宰府・太宰府天満宮史料 第一巻』太宰府天満宮 西高辻信貞1988『邂逅 西高辻信貞遺稿集』太宰府天満宮


赤司善彦氏「大伴旅人の館跡(太宰帥公邸)を探る」

赤司善彦氏「大伴旅人の館跡(太宰帥公邸)を探る」

 赤司氏の結論:大伴旅人の邸宅は大宰府政庁に隣接して独立した一院を構成する月山東官衙に想定できる。(16頁) 冒頭部では、従来の旅人邸の候補地比定の不確かさを赤司氏は指摘する。
 1,坂本八幡宮説
2,榎社説
の2説を手際よく整理しながら、その両説の成立根拠の薄弱さを説く。 まず、そもそも坂本八幡宮説を唱える竹岡勝也・鏡山猛・筑紫豊説が「(大宰府)政庁跡後方に位置する西北台地だった」はずが、 いつの間にか「坂本八幡宮」説へと変貌し、観光パンフレットにも取り上げられることで人口に膾炙する結果となったという。 要するに、坂本八幡宮説の拠り所が不十分とする。この指摘は正鵠を得ているだろう。
  次に榎社説にしても、榎社境内の発掘調査で出土した「白玉帯」に注目する井上信正氏の主張を紹介しながら、 その「白玉帯は延暦14(795)年以降に参議以上が着用することになっている」(8頁)ので、 やはり旅人の時代との年代差を以て、その成立に難色を示している。 それでは、赤司氏の研究視点はいかがであろうか。 赤司氏の指摘にある通り、 「古代の大宰府は平城京と同時期に建設され、設計プランも平城京に準じた条坊制を参考に計画された可能性が高い」(10頁)という仮説を 提出しつつ、そのうえで、平城京の例を基盤にして、「太宰帥クラスの三位にある有力貴族の邸宅は、遷都当初は宮に近い左京(東側)に位置する例が多い」(11頁)と考えて、その平行事例を大宰府に探し求める。 具体的は、次の記述からも判明しよう。「平城京の事例を参考にすると、平城京に東接していた藤原不比等邸の位置にあたるのは 月山東地区官衙である」(14頁)と言う仮説を立てる。 
 この赤司説にしても、明確な考古学的発掘結果をもとにして立論をしているのではなく、月山東地区と政庁との位置、さらにはそこに見る「石敷き水路」の存在などを根拠として推論するだけであり、やはり決定打に欠けるのはいなめない。 
  卑見によれば、現段階では、やはり赤司説に軍配を上げたい。その明白な傍証はないものの、一番の魅力は大宰府政庁に隣接することである。 私の関心は、天平2年正月13日に大伴旅人邸で読まれた、万葉集第5巻に収録された「梅花の歌」32首の理解にあり、その新たな読みを提示することにある。