7世紀に、日本が派遣した百済国救援軍の敗北によって、逆に新羅・唐両軍による海峡を越えた反撃の可能性が生じた。博多の津は日本の進撃基地から新羅・唐両軍の侵攻地となるおそれが有ったために、
*筑紫太宰らは那津から内陸部へと後退する
こととなった。
その時の不思議さは、博多湾から約7キロしか離れていない内陸部である大宰府に、筑紫太宰らの居館を建設したことである。もっと内陸より奥に入った地に建設すれば良かったはずである。
(1)博多湾から内陸部に辿れば、最狭小部が大野城ー水城ー小水城ー基肆城ー基山築堤と続くラインであり、その背後に筑紫太宰らの居住地が創られた
と考えられてきた。それを否定する根拠はない。
それに加えて我が想像であるが、
(1)大宰府の四王山から博多湾を見渡すことが可能であり、また大宰府北谷から志賀島方向も眺める
ことができる眺望=外国軍侵攻の監視が充分に可能な場所も、適地の理由であったにちがいない。
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