2023年6月13日火曜日

新羅系商人と中国浙東系海商

九世紀半ばの東アジアの交易マーケットは、揚子江以北から山東半島 、遼 東半島を経て朝鮮半島にいたる海域で 、 莞 島 清 海 鎮 を 拠 点 にとする 張 保皐 の よ う な 新羅系商人と、 広州を拠点として波 斯 ・大 食 人 な ど が東南アジアから運搬する物品を交易する浙東海商との二分されていた。 

 したがって、史料に見える中国商人にしても、新羅系商人か浙東海商なのか。

次の史料は明白である。

『日本紀略』弘仁10年(819)6月16日条

「 大唐越洲人周光翰・言升則等乗新羅人船来 。 問唐国消息 、 光翰等対日 、 己等遠州鄙人 、 不知京邑之事 。 但去元和十一年 、 円洲節度使李師道反 、 所擁兵馬五十万、 極為精鋭 。」

 とある越州商人は新羅系商人の交易圏で動き回っていたようだ。


 そして次のような史料は考えさせる。例えば、

1, 「太政官給. 2 公験牒」

「(858年)6月8日 、 辞台州 、 上商人李延孝船 、 過海 、 17日申頭 、 南海望見高山 、 18日丑夜 、 至止山島 、 ……19日平 明 、 傍山行至、本国西界肥前国松浦県管曼美楽埼 、 天安2年6月12日 、 廻至大宰府鴻臚館


2,『日本三代実録』元慶元年(877)8月22日には 、 

「先是 、 大宰府言 、 7月25日 、 大唐商人崔鐸等63人 、 駕一 隻船 、 来著管筑前国 、 間其来由 、 崔鐸言 、 従大唐台州 、 載貴国使 多安江(豊後介正六位下多治真人安江)等 、 頗費貨物 。 6月1日解纜 、 今日得投聖岸 。 是日勅 、 宜依例安置供給 。


2023年6月12日月曜日

韓朝彩は宦官であった

 韓朝彩については、『続日本紀』に

「《天平宝字八年(七六四)七月甲寅【十九】》○甲寅。新羅使大奈麻金才伯等九十一人、到着、大宰博多津。遣右少弁従五位下紀朝臣牛養。授刀大尉外従五位下粟田朝臣道麻呂等。問其由緒。金才伯等言曰。唐国勅使韓朝彩、自渤海来云。送日本国僧戒融。令達本郷已畢。若平安帰郷者。当有報信。而至于今日。寂無来音。宜差此使、其消息欲奏天子。仍齎執事牒。参大宰府。其朝彩者。上道在於新羅西津。本国謝恩使蘇判金容為取大宰報牒寄附朝彩。在京未発。問曰。比来彼国投化百姓言。本国発兵警備。是疑、日本国之来問罪也。其事虚実如何。対曰。唐国擾乱。海賊寔繁。是以徴発甲兵。防守縁辺。乃是国家之設。事既不虚。及其帰日。大宰府報牒新羅執事曰。検案内。被乾政官符称。得大宰府解称。得新羅国牒称、依韓内常侍請欲知僧戒融達不。府具状申上者。以去年十月。従高麗国。還帰聖朝。府宜承知即令報知」

とある。


私の関心は唐から新羅を経由して渤海へ行き、さらに渤海から直接に海を渡り、日本に帰ってきた日本僧戒融にあるのでもなく、また新羅使金才伯らが大宰府管下の博多津に到着 したという点にもない。

ただ一つ、韓朝彩の官位である。

『 陸宣公翰苑集』巻10・ 制詰 〔鉄券慰間勅書〕「 今故 遣、太常少卿兼御史大夫沈房及中使韓朝彩等」

とある記事を 、赤羽目匡由氏の高論「8世紀中葉における新羅と渤海との通交関係」37頁で知ったからである。「中使」とあることで、韓朝彩は宦官であるという


大宰府を通過した外国人:天武朝

 

天武2年(673

閏6月

*耽羅,王子久麻藝・都羅・宇麻らを遣わして,朝貢す。

*新羅,韓阿飡金承元・阿飡金祇山・大舎霜雪らを遣して,騰極を賀せしむ。 あわせて,一吉飡金薩儒・韓奈末金池山らを遣わして,先皇の喪を弔わしむ。


8月

*高麗,上部位頭大兄椰子・前部大碩干らを遣わして,朝貢す。

 

 天武4年(675

2月

*新羅,王子忠元・大監級比蘇・大監 奈末天沖・第監大奈麻武摩・第監 大舎洛水らを遣わして,調進る。

3月

*高麗,大兄冨千・大兄多武らを遣わして,朝貢す。

*新羅,級飡勤修・大奈末美賀を遣わして,調進る。

 

7月

*小錦上大伴連国麻呂を大使となし,小錦下三宅吉士入石を副使として,新羅に遣わす。

 

8月

*耽羅の調使王子久麻伎,筑紫に泊まれり。

 

天武5年(676

11月

*新羅,沙飡清平を遣わして,政を請さしむ。あわせて汲飡好儒・弟監大舎欽吉らを遣わして,調進る。

粛慎七人,清平らに従いて至れり。

*高麗,大使後部主簿阿干・副使前部大兄徳富を遣わして,朝貢す。

 

 天武6年(677

5月

*新羅人阿飡刺破・従人三口・僧三人, 血値嶋に漂着せり。

 

8月

*耽羅,王子都羅を遣わして,朝貢す。

 

天武7年(678

*新羅の送使奈末加良井山・奈末紅世,筑紫に到りて,曰く「新羅の王,汲飡金消勿・大奈末世世らを遣わして, 当年の調を貢上す。仍りて,臣井山を遣わして,消勿らを送らしむ。倶に暴風に海中に逢う。もって,消勿ら,皆 散れて,ゆく所を知らず。唯井山のみ, 僅かに岸に着くことを得たり」と。しかれども,消勿ら遂に来たらず。

 

 天武8年(679

2月

 *高麗,上部大相桓父・下部大相師需婁らを遣わして,朝貢す。

10月

*新羅,阿喰項那・沙喰薩蔓生を遣わして,朝貢す。

 

天武9年(680

5月

*高麗,南部大使卯問・西部大兄俊徳らを遣わして,朝貢す。

 

11月

*新羅,沙償金若弼・大奈末金原升を遣 わして,調進る。すなわち,習言者三人,若弼に従いて至れり。

 

天武10(681

10月

*新羅,沙喙一吉飡忠平・大奈末壱世を遣わして,調を貢ず゜

 

天武11(682

6月

*高麗の王,下部助有卦婁毛切・大古昂加を遣わして,方物を貢ず

 

 天武12(683

11月

新羅,沙喰主山・大那末長志を遣わして,調進

 

 天武14(685

11月 

*新羅,波珍償智祥・大阿渡健勲を遣わして,政を請す。仍りて調進る。