2016年7月31日日曜日

梅ヶ枝餅のはじまり

梅ヶ枝餅の始まりに関しては、大宰府市ふれあい館HPに次のようにある。

「太宰府の名物、「梅ヶ枝餅」は、その昔、菅原道真(すがわらのみちざね)を募うおばあさんの優しさから生まれたものです。
  平安時代、無実の罪で大宰府に左遷された道真は、ある時、刺客に襲われて近くの麹屋(こうじや)に逃げ込みました。罪を言い渡されてやってきたものをかくまえば、自分にも咎(とが)が及ぶかもしれないというのに、その家のおばあさんは、道真をもろ臼の中に隠し、その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしたのです。
  道真の命の恩人ともいえるこのおばあさんは、その後もこっそり配所の館にいき、不自由な暮らしをする道真のお世話をしたといいます。その時、麹の飯を梅の枝に添えて差し入れたものが、今に伝わる梅ヶ枝餅の始まりとされています」


ところで、江戸時代の文献『西遊日記』(柳田玄策著、天保2年に京都をスタートし、長崎までの道すがら大宰府に立ち寄った)には、

「(天満宮)社内に乙女らおおく、ここかしくに茶店をもうふけて『梅香餅』をひさぐ。名ぶつなりといふ」

とある。

柳田が漢字表記した「梅+香+餅}は「うめ+か+もち」と読むべきか、「うめ++か+もち」とあるいは「うめ+か+の+もち」とすべきか、「うめ+の+か+の+もち」とすべきか、さらには誤記とすべきは、後考を俟ちたい。すくなくとも、「うめがえもち」とは読めないようである。
 ただし、確たる根拠を持たないが、私見では「うめ++か+もち」ではなかったかと想定している。

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