2016年6月30日木曜日

大宰府に滞在したベトナム人僧侶

『南天竺婆羅門僧正碑并序』には、婆羅門僧菩提僊那と共に、天平8年(738)5月18日に林邑僧仏徹が「得到筑紫大宰府」とある。

婆羅門と林邑の二つの国は、いかなる経路で大宰府に到ったのだろうか。新羅経由であったか?

大宰府出土の将棋のコマ

大宰府左郭12条1・2坊出土の木簡に
*「桂馬香車□歩兵」(SK475)
とある。大宰府で将棋が愛好されていたことを物語ろう。

「遠賀郡」の読みは「おか」?

大宰府関連木簡を見ると
*「岡郡」
とある。「遠賀郡」はいまこそ「おんが」と読むが、昔は「おか」と読んだのではないだろうか。

新羅の海賊

『三代実録』巻16,清和天皇の条には、

「(貞観11年869年)15日辛丑、去月22日夜、新羅海賊、乗艦二艘、来博多津、掠奪豊前国年貢絹綿、即時逃■(そ)、発兵追之、遂不獲賊」

とある。大胆に、博多港に侵入した新羅の海賊らの不法行為を語る。しかしながら、まんまと強奪される理由は、同年7月2日条にある。九州の年貢は博多港に集められ、「一時共発」するのが通例であったが、今回だけは豊前国を一人先発させたという。


観世音寺の宝物

東京芸術大学所蔵の「観世音寺資財帳」(国宝)には、実に多くの宝物が列挙されている。その品々が現存していたならば、と歎息する。我が観点から言えば、伎楽の面。

唐人商船

『類聚三代格』 巻19,禁制事には、唐人商船が来着したとき、

*郭内富豪の輩、心より遠物を愛し、直に踊くして貿易す

とあり、大宰府内に中国貿易によって利益をあげ、富を蓄積した人間達が出現したらしい。

「ほっこり大宰府俱楽部」応援団

つい数日前、太宰府市の「ほっこり大宰府俱楽部」という元気な集団を知った。ふと立ち寄ってお店に、パンフレットが目にとまったからである。残念ながら、この俱楽部が主催した「大宰府のカレーを食べ尽くせ」(2016年4月9日ー10日)というイベントに参加できなかったが、市内の有志による独自な町おこしに敬意を表したい。ところで、地産地消を提案したい。大宰府で生産される品を発掘して、それを共通食材として、次回には企画して欲しい。

2016年6月28日火曜日

宗祇は文明12年(1480年)9月16日に太宰府に到着

宗祗は、文明12(1480)年9月6日に山口を出発し、長門の豊浦・赤間関から九州の若松に上陸、芦屋・木屋瀬を経て、太宰府天満宮に9月16日に到着。
天満宮、観世音寺、都府楼
などをめぐり、横たわる山のようであったと形容した水城跡(みずきあと)を見ながら、9月20日には次の目的地博多に向かいました。
この旅の過程で、この世は憂(う)き世という人生観、水城造営に対する批判や若い守護代(しゅごだい)のために詠んだ発句「ひろく見よ民の草葉の秋の花」など、宗祗の政治観も語られています。

(出典:http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/308/index.html)

水城の土木担当者は百済系技術者であったか?

一般的な知識として、

*水城:全長約1キロメートル、基底部幅40メートル、高さ13メートル

であるが、では、古代の土木設計担当者が手にしていた「尺」はどのような物であったのか。
なぜ、13メートルか。

九州縦貫自動車道路建設に伴う、1972年6月から9月にかけて実施された水城の構造調査では、

1,土塁の台形状幅40メートル
2,高さ3メートルの積み土の中央部に幅23メートルに高さ7メートルの台形を積み重ねる2段築成
3,この積土をさらに切断すると、粘土と山砂を向後に積み上げる工法、つまり版築。
4,積土の最下層に基礎として厚さ0.8メートルの黒色粘土を使用

とあるが、この土木担当者ははたして百済系技術者であっただろうか。

2016年6月26日日曜日

新羅人還俗僧李信惠

大宰府に8年間居住した新羅人還俗僧李信惠の人生は数奇である。

大宰府と張宝高

『続日本後紀』巻11,仁明天皇の条には、
「承和九年(八四二)正月乙巳
◆乙巳。新羅人李少貞等・人到筑紫大津。大宰府遣使問來由。頭首少貞申云。張寳高死。其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平。今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。又去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。仍齎閻丈上筑前國牒状參來者。』公卿議曰。少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使。彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。巧言攸稱。今覆解状云。李少貞齎閻丈上筑前國牒状參來者。而其牒状無進上宰府之詞。無乃可謂合例。宜彼牒状早速進上。如牒旨無道。附少貞可返却者。或曰。少貞今既託於閻丈。將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎。須問李忠等。若嫌与少貞共歸。隨彼所願。任命遲速。又曰。李忠等廻易事畢。歸向本郷。逢彼國乱。不得平著。更來筑前大津。其後於呂系等化來云。己等張寳高所攝嶋民也。寳高去年十一月中死去。不得寧居。仍參著貴邦。
▼是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。縱境外之人。爲愛土毛。到來我境。須欣彼情令得其所。而奪廻易之便。絶商賈之權。府司不加勘發。肆令并兼。非失賈客之資。深表無王憲之制。仍命府吏。所取雜物。細碎勘録。且給且言。兼又支給粮食。放歸本郷。」

とある。我々の関心に従って、この記事を考察する為に、全文を4段に分割しておきたい。

(1)「①乙巳。新羅人李少貞等四十人到筑紫大津。大宰府遣使問來由。頭首少貞申云。張寳高死。其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平。今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。又去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。仍齎閻丈上筑前國牒状參來者。

②公卿議曰。少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使。彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。巧言攸稱。今覆解状云。李少貞齎閻丈上筑前國牒状參來者。而其牒状無進上宰府之詞。無乃可謂合例。宜彼牒状早速進上。如牒旨無道。附少貞可返却者。

③或曰。少貞今既託於閻丈。將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎。須問李忠等。若嫌与少貞共歸。隨彼所願。任命遲速。

④又曰。李忠等廻易事畢。歸向本郷。逢彼國乱。不得平著。更來筑前大津。其後於呂系等化來云。己等張寳高所攝嶋民也。寳高去年十一月中死去。不得寧居。仍參著貴邦。

⑤是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。縱境外之人。爲愛土毛。到來我境。須欣彼情令得其所。而奪廻易之便。絶商賈之權。府司不加勘發。肆令并兼。非失賈客之資。深表無王憲之制。仍命府吏。所取雜物。細碎勘録。且給且言。兼又支給粮食。放歸本郷。」


(2)この記事の眼目は、張宝高の死である。その原因は、「其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平」である。④に見るとおり「寳高去年十一月中死去」が史実であれば、彼は承和8年(841)11月に死去したと考えられる。しかしながら、韓国側の資料に照らし合わせれば、文聖8年(846)と記録する(『三国史記』)。現段階では、その違いを埋める手立てを持たないので、ここでは日本側資料に依拠しておきたい。張宝高の生年は未詳である。

(3)しかしながら、①に見るとおり、単に張宝高の死を通知することが目的でもなければ、また「今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。」の恐れを伝達することでもない。ましてや「若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。」というアドバイスでも無いはずである。それほどの親切心が新羅人李少貞等にあるとも思えない。なぜならば、②に見るとおり、「少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使」であり、彼の忠誠心を疑えば、切りが無いからである。

(4)結論から言えば、本記事の真の目的は「去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。」(①)が語るように、張宝高が大宰府に輸出した交易品の返還要求であるにちがいない。

(5)その推測が大きな誤りでないことは、②の「其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。」で傍証できよう。公卿にとって、新羅人李少貞等が商人であるという前提で、「彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。」ともある。

(6)「如牒旨無道。附少貞可返却者。」(②)とあれば、それでよかったが、公卿の判断は異なった。
「將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎」とあった。

(7)事件は大きく転換する。「是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。」(⑤)とあり、前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂によって、張宝高配下の李忠等が持参した「雜物」は差し押さえられていたことが判明したからである。宮田麻呂によると、その弁解は「其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。」とあり、張宝高がもたらす中国製品(「唐国貨物」)を日本産の「絁」で購入する約束であったが、その中国製品が何であったかは不明であるとしても、「其數不尠。」とある以上、大量な交易品を約束して、宮田麻呂は「先払い」したらしい。

(8)しかしながら、張宝高の死によって、その取引は宮田麻呂の損失が生じかねなかったので、「正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。」だと説明するに至る。

(9)この報告が宮田麻呂に関する記事ではないので、ここで我が愚考は終えるが、当時、宮田麻呂は大宰府に在勤していた富豪であったと推定しておきたい。



大宰府四王寺山に新羅に対する「攘却」

『類聚三代格』

2、造仏々名事、太政官符/応奉造四天王寺埝像四躯事〈各高六尺〉、右被内大臣従二位藤原朝臣宣偁、奉勅、如聞、新羅兇醜不顧恩義、早懐毒心常為呪詛、仏神難誣慮或報応、宜令大宰府直新羅国高顕浄地奉造件像攘却其災、仍請浄行僧四口、各当像前、一事以上依最勝王経四天王護国品、日読経王、夜誦神呪、但春秋二時別一七日、弥益精進依法修行、仍監已上一人専当其事、其僧別法服、麻袈裟蔭脊各一領、麻裳絁綿袴各一腰、絁綿襖子汗衫各一領、襪菲各一両、布施絁一疋、綿三屯、布二端、供養布施並用庫物及正税、自今以後永為恒例、宝亀五年三月三日」

とある。

在大宰府唐人張継明

『続日本後紀』承和元年3月16日条に、「在大宰府唐人張継明」とある。大宰府に唐人が滞在していたとあるが、この張継明の来歴は不明である。

ところが『類聚三代格』巻5,加減諸国官員并廃置事には、「大唐通事」の語が見られるので、中国語通事が存在した。では、その中国語は南方語だろうか、北方語だろうか。

「新羅の交関物」とは?

『続日本紀』巻29,称徳天皇、神護景雲2年(768)10月24日条に、「新羅交関物」とある。なりほどこの語は、「新羅国から輸入された品」を意味しよう。残念ながら具体的な内容を知ることが出来ない。したがって、先行研究では、「買新羅物解」を引用しながら、それを推測している。

(1)とはいえ、まずは『続日本紀』天平勝宝4年(752)閏3月22日条にある、
「己巳、大宰府奏、新羅王子韓阿飡金奏廉、貢調使大使金喧及王子使金弼言等七百余人、乗船七艘来泊」
の記事に注目すべきであろう。


同・天平勝宝四年(七五二)六月己丑の条に、
「○六月己丑。新羅王子金泰廉等拝朝。并貢調。因奏曰。新羅国王言日本照臨天皇朝庭。新羅国者。始自遠朝。世世不絶。舟楫並連。来奉国家。今欲国王親来朝貢進御調。而顧念。一日無主。国政弛乱。是以。遣王子韓阿飡泰廉。代王為首。率使下三百七十余人入朝。兼令貢種種御調。謹以申聞。詔報曰。新羅国、始自遠朝。世世不絶。供奉国家。今復遣王子泰廉入朝。兼貢御調。王之勤誠。朕有嘉焉。自今長遠。当加撫存。泰廉又奏言。普天之下、無匪王土。率土之浜、無匪王臣。泰廉、幸逢聖世。来朝供奉。不勝歓慶。私自所備国土微物。謹以奉進。詔報。泰廉所奏聞之。」

とあり、

同・天平勝宝四年(七五二)六月壬辰の条に
「○壬辰。~~是日。饗新羅使於朝堂。詔曰。新羅国来奉朝庭者。始自気長足媛皇太后平定彼国。以至于今。為我蕃屏。而前王承慶・大夫思恭等。言行怠慢。闕失恒礼。由欲遣使問罪之間。今彼王軒英。改悔前過。冀親来庭。而為顧国政。因遣王子泰廉等。代而入朝。兼貢御調。朕所以嘉歓勤款。進位賜物也。又詔。自今以後。国王親来。宜以辞奏。如遣余人入朝。必須令齎表文。

とあり、また、

同・天平勝宝四年(七五二)六月丁酉条にも、
「○丁酉。泰廉等就大安寺・東大寺礼仏。」

とあり、

天平勝宝四年(七五二)七月戊辰条に、
「○戊辰。泰廉等還在難波館。勅遣使賜絁布并酒肴」

とある。今、この場では「王子」の語句はそのままに「新羅王子」と解釈しておきたい。

(2)だからこそ、「買新羅物解」に見える品々が参考となろう。



なお、この資料は江戸時代の天保年間に正倉院から流出し、偶然に公益財団法人前田育徳会が購入した。その後、1993年(平成5年)6月10日に重要文化財(第143号)となった。
文化庁の説明によると、
「天平勝宝四年(七五一)に来朝した新羅の使節がもたらした種々の物品について、貴族らがその購入を申請した文書である。もとは正倉院の鳥毛立女屏風の下貼に用いられていた文書で、現在も正倉院に残る十通余と一連のもので、左の七通からなる(カッコ内は寸法で、縦×横。単位はセンチメートル)。
 (一) 天平勝宝四年六月十五日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人解(二八・二×二六・四)
 (二) 天平勝宝四年六月十七日従四位下小槻山君広虫解(〈右半〉二八・三×一三・〇 〈左半〉二六・五×一三・八。ただし、もと二通の可能性もある)
 (三) 天平勝宝四年六月十七日事業従七位上置始連五百足解(一八・〇×一三・一)
 (四) 天平勝宝四年六月廿日某解(二九・二×二六・四)
 (五) 天平勝宝四年六月廿三日某解(二九・三×五一・四)
 (六) (年月日未詳)飯高嶋□解(二八・七×三四・一)
 (七) (年月日未詳) 鼓吹司正外従五位下大石某解(一七・五×五六・三)
 各文書は屏風下貼に用いられたため切断や破損が著しいが、文書の形式は解【げ】の形をとるものが多い。内容は、それぞれ購入すべき品目とその全体の価直を掲げ、文書の日付は正倉院にあるものも含めて天平勝宝四年六月十五日から同月二十六日の間に集中している。購入品目は、香料、薬物、顔料や鏡などの金属器が多く、人参、松子【まつのみ】など新羅特産品とみられるものもあるが、香料などには東南アジア、インド等に産するものも含まれ、当時の新羅商人の広域な交易活動をうかがわせている。」(「文化遺産データベース」http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/206110)

とあり、新羅の「交関物」の内容を推測させる。

(3)なお、「新羅の交関物」の語句は、

『続日本紀』神護景雲二年(七六八)十月甲子にも、

「○甲子。充石上神封五十戸。能登国気多神廿戸。田二町。」賜左右大臣大宰綿各二万屯。大納言諱。弓削御浄朝臣清人各一万屯。従二位文室真人浄三六千屯。中務卿従三位文室真人大市。式部卿従三位石上朝臣宅嗣各四千屯。正四位下伊福部女王一千屯。為買新羅交関物也。」

とある。

(4)ところで、『安祥寺資財帳』天長10年(833)には、
「余、昔被拝大宰府講師兼筑前国講師之日、新羅商客頻々往■(来か?)貨齋銅鋺畳子等」
とあり、「新羅商客」の名から推測されるのは、貿易商の存在である。

(5)いずれにせよ、新羅商客と日本人はいかなる共通語でコミュニケーションを取ったのだろうか。





2016年6月25日土曜日

弘仁4年(813)に新羅人が小近島に

『日本紀略』によると、弘仁4年に新羅人110人が船に駕し、小近島に来着したという。この小近島は長崎県北松浦郡小値賀町か?島民が9人を殺害し、101人を捕獲したというが、資料に混乱がありそうである。

神幸式絵巻(嘉永本および元治本)


水城(仙崖筆「筑前名勝図譜」)


水城(『筑前名所図会』)

(1)水城
  1,博多から12㎞
  2,全長1キロ
  3,高さ14メートル
  4,土塁と濠
  5,室町時代の連歌師宗祇「筑紫野道記」に”大きなる堤ある。いわば横たはれる山のごとし”
    平安後期:大牢帥源経信の子、源俊額が京へ上るとき、水城で和歌を詠む
寿永2年:平家が大宰府から箱崎津へ逃げる際、水城を通る。
鎌倉時代: 藤原光俊(右大弁光俊朝臣)が水城の和歌を詠む
文永11年:元寇文永の役で、水城がみえる
文明12年:連歌師の飯尾宗祇、水城を通る
  *『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 3 通古賀村の項に下記の記事がみられる。
苅萱関址関屋坂本村の内といふ所に西の田間にあり。 小墳を残して標に松1株立り。 名所なり。 新古今、類聚、藻塩草、夫本、宗祇筑紫紀行、玄旨法師紀行等に歌あり。



  6,昭和50年、長年の発掘調査により、博多湾側にそれまで確認できずにいた水堀があったことが解明された。規模は幅60m・深さ4m。

水城(『筑前名所図会』)

(1)水城
  1,博多から12㎞
  2,全長1キロ
  3,高さ14メートル
  4,土塁と濠
  5,室町時代の連歌師宗祇「筑紫野道記」に”大きなる堤ある。いわば横たはれる山のごとし”
    平安後期:大牢帥源経信の子、源俊額が京へ上るとき、水城で和歌を詠む
寿永2年:平家が大宰府から箱崎津へ逃げる際、水城を通る。
鎌倉時代: 藤原光俊(右大弁光俊朝臣)が水城の和歌を詠む
文永11年:元寇文永の役で、水城がみえる
文明12年:連歌師の飯尾宗祇、水城を通る
  *『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 3 通古賀村の項に下記の記事がみられる。
苅萱関址関屋坂本村の内といふ所に西の田間にあり。 小墳を残して標に松1株立り。 名所なり。 新古今、類聚、藻塩草、夫本、宗祇筑紫紀行、玄旨法師紀行等に歌あり。



  6,昭和50年、長年の発掘調査により、博多湾側にそれまで確認できずにいた水堀があったことが解明された。規模は幅60m・深さ4m。

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1,天智3年(664年)

*筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名つけて水城という

1,天智天皇48


*達率答(火+体)春初を遣わして、城を長門国かしむ、達率憶礼福津、達率四比福夫を筑紫君に遣わして、大野およびきの二城を築かしむ。

どんかん道のルート


どんかん道


大宰府政庁跡の礎石図(寛政5年、1796年)


大宰府条坊図(模式)


大宰府あれやこれや(2)

大宰府と言えば、多くの人にとっては、「天満宮」を思い浮かべがちである。したがって、太宰府天満宮に関しては、1,100年以上に亘り、天神さまは学問の神様、文化芸術の神様、厄除けの神様などと広く崇敬され、人々の心のよりどころとしていまもなお信仰され続けています。
太宰府天満宮は全国天満宮の総本宮であり、道真公の御墓所として唯一無二の聖地「菅聖庿(かんせいびょう)」と称えられています。」(天満宮HP
太宰府天満宮について|太宰府天満宮 (dazaifutenmangu.or.jp) )

および太宰府市文化情報HPにある、
「菅原道真と太宰府天満宮 ページID:0001022
更新日:2016年8月31日更新学問の家に生まれ、右大臣にまでのぼりつめた菅原道真(すがわらのみちざね)でしたが、左大臣藤原時平の圧力によって昌泰(しょうたい)4年(901)、大宰権帥に左遷されました。

大宰府での暮しは都とはうって変わって侘(わび)しいもので、

与えられた官舎(南館)は床も朽(く)ち屋根は雨漏りするようなありさまでした。
そこで失意のうちに2年間を過ごし、延喜(えんぎ)3年(903)に亡くなります。その遺骸を牛車(ぎっしゃ)に乗せて運んでいたところ、牛が動かなくなり、そこに埋葬しました。その地が現在の太宰府天満宮であり、大宰府での住居・南館の地が現在の榎(えのき)社と伝えられています。

太宰府天満宮は、安楽寺(あんらくじ)ともいいました。まず、延喜年中に御廟(ごびょう)が建てられ、その後、大宰府官人として赴任した中央貴族たちによって次々と堂宇(どうう)が寄進建立(きしんこんりゅう)されて寺院の形が整えられていきました。
荘園を40ヶ所以上持ち、平安時代の11世紀から12世紀にかけての頃が最盛期だったようです。

戦国時代、度々の戦乱に巻きこまれて社殿は焼き討ちにより焼損、一時荒廃しましたが、豊臣秀吉の時代、筑前国の領主になった小早川隆景(こばやかわたかかげ)によって本殿が再建され、続く江戸時代も藩主黒田氏によって復興が行われました。

このようにして、菅原道真は文道・学問の神として人々の信仰を集め、今日に至っています。」

(太宰府市HP 7.菅原道真と太宰府天満宮 - 福岡県太宰府市公式ホームページ (dazaifu.lg.jp)

2024年2月20日アクセス)

そして、九州国立博物館の紹介記事も参考になる。

 太宰府天満宮(本殿)

太宰府天満宮は、学問の神様として広く崇敬を集め、年間600万人ともいわれる人々が訪れる菅原道真ゆかりの神社です。年間を通じて多くの行事と、境内には多くの文化財があります。
延喜3年(903年)2月25日、失意の内に59歳の生涯を閉じた道真公の亡骸は、牛車に乗せられて府の南館を後にしました。そして、牛が動かなくなった所に葬るようにという道真公の遺言にしたがって埋葬されました。それが、現在の本殿があるところであり、明治維新までは、「安楽寺」といい、天台宗の寺院でした。安楽寺の別当(現在の太宰府天満宮の宮司)は、代々菅原道真の子孫の家筋である高辻家(現在の西高辻家)が務めてきました。
また、江戸時代には天神信仰の隆盛により、太宰府天満宮は菅公の墓所「西都聖廟」であったことから、文芸・学問上達や、五穀豊穣、厄払いのため、「さいふまいり」として遠方からの太宰府天満宮への参詣客も増え、福岡藩27宿の一つ宰府宿も賑わいを呈しました。」


(九州国立博物館 HP 九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内 (kyuhaku.jp)

の概略を理解した上で、ぜひ参詣していただきたい。そのご利益は抜群である。


(1)大宰府と言えば、「水城」を忘れてはならない。
*「是歳、於対馬島、壱岐島、筑紫国等、置防与烽、又於筑紫、築大堤貯水、名曰水城」(日本書紀天智天皇3年条)
は押さえておかなくてはならない記事である。百済復興を目指して朝鮮半島に軍事介入した日本軍は、天智2年(663)の白村江の戦いで大敗したことによって、その軍事的野望は気泡に帰した。そもそも660年に唐・新羅連合軍が百済を滅亡させ、続いて高句麗(668年)に攻撃し、滅ぼす。百済滅亡後にも、その復興を願う勢力からの要請に応じて、日本は大軍を派遣するが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した。

大宰府あれやこれや(1)

(1)太宰府市は、福岡市の南東約16㎞にある。

市域は南北10.9km、東西6.4kmで面積は29.60キロ平方メートル。人口は71,521人(男は34,261人、女は37,260人。33,056世帯)ー以上は、2024年1月31日現在、太宰府市HP
太宰府市の最新総人口・世帯数 - 福岡県太宰府市公式ホームページ (dazaifu.lg.jp)掲載記事
(2)大宰府は昭和40年代から福岡市のベッドタウン化することで、流入人口が急増する。昭和35年が13,913人であったのに対して、昭和45年には2倍の26,155に達し、平成22年には7万人を越えるほどとなった。

(3)太宰は、「だざい」なのか「ださい」なのか? そして漢字にしても「太宰」なのか「大宰」なのか? 

(4)そのAccentは「だ↘ざい」であるが、和訓では「おおみこともち」。

(5)ちなみに作家「太宰治」(だざいおさむ)であり、『論語』にある「大宰問於子貢曰。夫子聖者與。何其多能也。子貢曰。固天縦之將聖。又多能也。子聞之曰。大宰知我乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉。不多也。牢
曰。子云。吾不試故藝。」は「たいさい(大宰)」である。

(6)「太宰」の初見は、『日本書紀』推古天皇17年4月丁酉(4日)条に、「筑紫大宰」(つくしたいさい」と訓む。大宰の語句は「吉備大宰」(日本書紀天武天皇8年3月条)にも見る。