2019年11月17日日曜日

大鳥居・小鳥居・浦之坊 由来書


6月22日
貝原久兵衛(花 押)
大鳥居信兼様
大鳥居・小鳥居・浦之坊由 緒他
一紙 1

寛政3年の大宰府を知る資料

大宰府天満宮社数軒付帳
寛政3年辛亥12月 □□□
太宰府天満宮内の建造物の 寸法を書き記したもの折り 込みあり
竪帳 1 虫損あり

三奈木黒 田家文書

三奈木黒 田家文書 2489
書状 (江戸期)2月21日 重之助 古之丞
源左衛門太宰府参詣の際の お供
切紙 1

『本草和名』巻4・玉石条

10世紀初めの『本草和名』巻4・玉石条では、「大宰 より出ず」とある。この記述は、硫黄である

大宰府奏,新羅王子韓阿飡金泰廉,貢調使大使金暄及送王子使金弼言等七百余人, 乗船七泊

『続日本紀』巻18天平勝宝4年 (752)閏3月己巳条には、
己巳,大宰府奏,新羅王子韓阿飡金泰廉,貢調使大使金暄及送王子使金弼言等七百余人, 乗船七泊。(『続日本紀』巻18天平勝宝4年〈752〉閏3月己巳条)
とある。

関連記事
 『続日本紀』
 ①乙亥,遣使於大内山科恵我直山等陵,以告新羅王子来朝之状。(『続日本紀』巻18天平勝宝4年〈752〉 閏3月乙亥条)
②六月己丑,新羅王子金泰廉等拝朝。并貢調。因奏曰,新羅国王言日本照臨天皇朝庭。新羅国者,始 自遠朝,世世不絶,舟楫並連,来奉国家。今欲国王親来朝貢進御調。而顧念,一日无主,国政弛乱。 是以,遣王子韓阿飡泰廉,代王為首,率使下三百七十余人入朝,兼令貢種種御調。謹以申聞。詔報曰, 新羅国,始自遠朝,世世不絶,供奉国家。今復遣王子泰廉入朝,兼貢御調。王之勤誠,朕有嘉焉。自 今長遠,当加撫存。泰廉又奏言,普天之下,無匪王土,率土之浜,無匪王臣。泰廉,幸逢聖世,来朝 供奉,不勝歓慶。私自所備国土微物,謹以奉進。詔報,泰廉所奏聞之。(『同』天平勝宝4年〈752〉6 月己丑条)
③是日,饗新羅使於朝堂。詔曰,新羅国来奉朝庭者,始自気長足媛皇太后平定彼国,以至于今,為我 蕃屏。而前王承慶大夫思恭等,言行怠慢,闕失恒礼。由欲遣使問罪之間,今彼王軒英,改悔前過,冀親 来庭。而為顧国政,因遣王子泰廉等,代而入朝,兼貢御調。朕所以嘉歓勤款,進位賜物也。又詔,自 今以後,国王親来,宜以辞奏。如遣余人入朝,必須令齎表文。(『同』天平勝宝4年〈752〉6月壬辰条)
 ④丁酉,泰廉等就大安寺東大寺礼仏。(『同』天平勝宝4年〈752〉6月丁酉条)
 ⑤戊辰,泰廉等還在難波館。勅遣使,賜絁布并酒肴。(『同』天平勝宝4年〈752〉7月戊辰条)

2019年10月28日月曜日

令和

令和のいわれが『万葉集』巻5の815番歌から846番歌、つまり「梅花の歌三十二首」の序にある、
「天平二年正月十三日、帥(大伴旅人)の老の宅にあつまりて、宴会を申きき。時に、初春の令月にして、気淑く、風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き~~~」
の「令」と「和」を組み合わせたものである。
序には、「気淑く、風和ぎ」とあり、「気と風」と「淑と和」とが対語である。つまり「令」と「和」とが結合することはないが、唯一、中西進氏の脳裏の中でのみ、「令+和」と衝撃的に閃いたのである。

393番歌

『万葉集』巻393番歌

見えずとも誰恋ひざらめ山の末にいさよふ月を外に見てしか
[題詞]満誓沙弥月歌一首


[原文]不所見十方 孰不戀有米 山之末尓 射狭夜歴月乎 外見而思香

(1)誰恋ひざらめ
  「だれでも恋をする」の意。
(2)山の末
  「やまのハ」と読む。
(3)いさよふ
  「
(4)この「山」とは?
太宰府を取り囲む、どの山を指すのだろうか。
季節を知り、「山の末にいさよふ」とあることで、時間帯を知ることさえ可能であれば
その山を特定できるものの、それでもこの歌を詠んだ場所はどこだろうか。
作者は、造筑紫観世音寺別当の沙弥満誓。
(5)みてしか
  てしか⇒ 「自己の行為、状態に関する希望を表す」(大系、第1巻、193頁)






『万葉集』巻3に残る大伴旅人の *392番歌

『万葉集』巻3に残る大伴旅人の、
*392番歌
「ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを」
題詞]<大>宰大監大伴宿祢百代梅歌一首
烏珠之 其夜乃梅乎 手忘而 不折来家里 思之物乎


に注目するのは、その接頭語「タ」である。
1、タ+忘る
2、タ+走る
3、タ+遠し
4、タ+易し
5、タ+弱し

珍説を一つ増やすこととなるが、
*「タ」として、朝鮮語の副詞「Ta 다 」(すっかり、ALLなどの意)

を想起してもよい。

2019年9月23日月曜日

太宰大監の読み

『万葉集』巻3,392番歌には「太宰大監」とある。
この読みは、
*ダザイノダイ「ゲム」 ただし「ケム」という清音で読んでも良い。
である。歴史研究者は「ゲン」と読むが、それは正確ではない。
少監とともに太宰府の3等官。正六位下相当。主に、大宰府管内の訴訟事務などを担当。
令制官職で「監」は、この大宰府の判官(ジョウ)の大監・少監であり、令外では制東将軍などの判官が「軍監」、中衛府の判官が「将監」があり、監は判官に相当するらしい。
ところで和銅4年(711)12月に、葛城王は馬寮監に任命されている。ちなみに『公卿補欠任』天平8年(736)には、橘諸兄が「従三位行左大弁兼侍従左右馬・内匠・催造監葛城王」とあり、左右馬寮監・内匠寮監・催造監を兼務していたが、葛城王は元明・元正・聖武の三代にわたり馬寮監の地位にいた。





この官職は、大宰府の官人の中にあって大弐・少弐に次ぐ位置であり、梅花の宴の三十二首の配列でわかるように、大宰大弐・少弐のように筑前守・筑後守・豊後守と共にトップグループの賓客として遇される中には属さないが、第ニグループの第一位に列されている。

大宰大監大伴宿祢百代の事例を取り上げておきたい。
万葉集には、
1大宰大監大伴宿禰百代梅歌(巻3、392)
事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも吾は逢へるかも(巻4・559)
恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ(560)   
思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の社の神し知らさむ(561)
暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも(562)
2大宰大監大伴宿禰百代等贈二駅使一歌(左注)右一首大監大伴宿禰百代(巻4、566)
3梅花歌(歌下)大監伴氏百代(巻5、823)
の7首が伝わっている。
その中で、作歌年月が判明するのは、3の天平二年正月十三日の大宰帥大伴旅人の官邸での梅花の宴において、主人旅人の歌の次に記されたものである。2は同年六月、重病の旅人の遺言を聴くべく勅により下向した大伴稲公と大伴胡麻呂の帰京を送る役の先頭に立って送別したおりの歌である。
その後、大伴宿祢百代の官職は、天平十年(七三八)閏七月七日外従五位下で兵部少輔に任 ぜられ、同十三年八月九日美作守に任ぜられた。その時も外従五位下と記されている。同十五年十二月二十六日初めて筑紫に鎮西府が置かれ、従四位下石川加美を将軍とし、外従五位下大伴百代が副将軍に任ぜられた。同十八年四月二十二日従五位下に叙せられ、同年九月二十日豊前守に任ぜられた。同十九年正月二十日正五位下を授けられた。それ以後のことはわからない。
 なお、百代の父系をたどることもできない。

555番歌「君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友無しにして」


『万葉集』巻4、555番歌は、

*君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友無しにして
[題詞]<大>宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌一首
[原文]為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
である。大弐丹比県守卿が民部卿に遷任する時に、太宰大伴卿(大伴旅人)が贈った歌である。

 私の関心は「安の野」にある。都に呼び寄せられて、栄達を成し遂げる男性に旅立たれて、残された女性が一人、なぜ「安の野」で酒を飲まなくてはならないのであろうか。
確かに、従来の通説のように、安の野は、「和名抄」に記載された筑前国夜須郡六郷の内の中屋郷だと推定され、また筑前国続風土記によれば、東小田、四三島、下高場の間に広がる野原の総称だと理解して良い。
その「安の野」で「友」を待ち続ける女性とは、誰だろう。
その正体を知っているのは、大伴旅人だけである。

2019年8月11日日曜日

買新羅物解〈天平勝宝四年六月/〉公益財団法人前田育徳会

太宰府の機能の一つは、東アジア文物の流入の管理である。
下記の「買新羅物解」は、都から太宰府、そして新羅への伝達ルートによって購入された買い物帳であった。
>買新羅物解〈天平勝宝四年六月/〉重文
  • 奈良/752
  • 7通
  • 重文指定年月日:19930610
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 公益財団法人前田育徳会
  • 国宝・重要文化財(美術品)
 
もとは正倉院の鳥毛立女屏風の下貼に用いられていた文書で、現在も正倉院に残る十通余と一連のもので、七通からなる(カッコ内は寸法で、縦×横。単位はセンチメートル)。 
 (一) 天平勝宝四年六月十五日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人解(二八・二×二六・四)
(二) 天平勝宝四年六月十七日従四位下小槻山君広虫解(〈右半〉二八・三×一三・〇 〈左半〉二六・五×一三・八。ただし、もと二通の可能性もある (三) 天平勝宝四年六月十七日事業従七位上置始連五百足解(一八・〇×一三・一)
(四) 天平勝宝四年六月廿日某解(二九・二×二六・四)
(五) 天平勝宝四年六月廿三日某解(二九・三×五一・四)
(六) (年月日未詳)飯高嶋□解(二八・七×三四・一)
(七) (年月日未詳) 鼓吹司正外従五位下大石某解(一七・五×五六・三)
>>「買新羅物解の料紙は、屏風料紙作成時に塗布された糊に起因すると推定される硬化が顕著であり、屏風に貼り付けられていた段階からの、あるいは屏風からの剥し取りの際に生じた、紙面の直線状の断裂が見られる。」(『東京大学史料編纂所報』第29号 p.12-14)

各文書は屏風下貼に用いられたため切断や破損が著しいが、文書の形式は解【げ】の形をとるものが多い。内容は、それぞれ購入すべき品目とその全体の価直を掲げ、文書の日付は正倉院にあるものも含めて天平勝宝四年六月十五日から同月二十六日の間に集中している。
「一、
  金 蘇芳 小鏡
    合 三種
 直物 綿6百十斤
 天平勝宝4年6月15日知家事資人大初位上栗前官□□」
「2.
  合壱拾陸種
  屏風(一)具  鏡(二)面 金椀(金偏)(二)具 麝香(一)斉
  香炉(二)具 蜜抜  阿李(くさカンムリ)勒
衣香 丁字 枕香
青木香 人参 蘇芳
価綿壱伯捌□□此中黒綿弐拾斤
 天平勝宝4年6月15日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人」
「3,
  □平勝宝4年6月15日」
「4,
 合玖種
 丁香 直7斤 薫衣香 直7斤 青木香 直3斤 薫陸香 直 □
 牛黄 直2斤 蘇芳 直50斤 五六寸鏡 直20斤 牙梳直3斤
 牙竿(?)子 直2斤
 以前物等価綿 壱伯斤
天平勝宝4年6月16日」

「5,
 従四位下小槻山君広虫解 申応念物買事
 金□種 直絹□□□匹 □□□斤 綿参伯斤
  鉢弐口 大盤弐口 小口 椀(金偏) 金筋肆枚
□□□
□□□
以前念物并価等顕注如件謹解
 天平勝宝4年6月17日」
「6.
  天平勝宝4年6月17日事業従七位上置始連 五百足」

「7.
 念物五六寸鏡 丁香 □□
 ■撥 木■子 □  如意  □払
 蘇芳 紫根
直綿弐伯屯
右件念物并直数如前以解
  天平勝宝4年6月弐〇日」





<参考文献>
タイトル: <論説>鳥毛立女屛風下貼文書の研究 : 買新羅物解の基礎的考察
その他のタイトル: <Articles>A Study of the Documents, used as the Canvas of 'Torigedachi-Onna-Byobu' 鳥毛立女屛風 : on the 'Kai-Shiragi-Monoge' 買新羅物解
著者: 東野, 治之  
著者名の別形: Tono, Haruyuki
発行日: 1-Nov-1974
出版者: 史学研究会 (京都大学文学部内)
誌名: 史林
巻: 57
号: 6
開始ページ: 775
終了ページ: 811
抄録: 正倉院蔵の鳥毛立女屛風には、下貼に天平勝宝四年の反故文書が用いられている。この文書は、買物申請帳・買新羅物解などとして公刊されている正倉院文書と同類のものであって、本来はすべて同じ屛風の下貼をなしていた。これらの買物関係文書は、勝宝四年の新羅使節がもたらした交易品を買うにあたって貴顕から大蔵省又は内蔵寮に提出されたもので、廃棄後、内蔵寮から、同じ中務省被管の内匠寮又は画工司に払下げられ、屛風の下貼に転用されたと考えられる。なお下貼には、中務省図書寮から払下げられたかと推測される文書断片もある。文書から知られる交易品の内容は、大別して唐及び唐を中継地とする南海方面の物産と、新羅の特産品とになり、八世紀代から新羅人が東シナ海方面で貿易活動を行っていたことが知られる。新羅の特産品が含まれていることとあわせて、新羅との交渉が外来文化摂取の上に果した役割は、改めて注目する必要があろう。
To the screens 'Torigedachi-Onna-Byobu', the documents wasted in 4 Tempyo-Shoho 天平勝宝 are used as their canvas. They are called the Shosoin 正倉院 documents, a part of which is published as 'Kaimono-Moshiukecho' 買物申請帳 or Kaishiragi-Monoge'. These documents of the trade, I think, are originally presented to 'Okurasho' 大蔵省 or 'Kuraryo' 内蔵寮 by the nobles to import the goods brought by the envoy of Shiragi 新羅 in 4 Tempyo-Shoho. They, after having been scrapped, are sent from 'Kuraryo' to 'Gakoshi' 画工司 or 'Takumiryo' 内匠寮 to use for that purpose. According to them, the imported articles on the whole consist of the speciality in Shiragi, the goods of T'ang 唐 and that of the South Asia transported through T'ang; which reveals that the Shiragis have carried on commerce from eighth century in the East China Sea 東シナ海. We must accordingly pay much attention to the Japanese relation to Shiragi in view of the absorption of foreign cultures.

大野城の百間石垣の説明

百間石垣の説明を執筆予定

2019年8月3日土曜日

*高麗太祖の二回に渡る日本通使の派遣

*高麗太祖の二回に渡る日本通使の派遣

    ①承平七年八月五日の条
  ②天慶二年三月十一日の条

  『帥記』承暦四年閏八月四日の条

  ③天禄三年
      『百錬抄』天禄三年十月二十日の条

  ④貞治五年(1366)九月  金竜および金逸の一行
        三条公忠『後愚昧記』貞治六年三月二十四日の条

        「自去月之比、蒙古ならびに高麗使、持牒状来朝之由、有其聞、不経日     数而即上洛、嵯峨天竜寺居住云々、牒状案流布之由、聞之、乃乞取按     察写留了、蒙古状、献方物、即彼目録、載牒状奥者也、但件物等、於     雲州、為賊被掠取云々、糺出而可献之由、武家称之間、有其聞、然而     不及其沙汰?」


    この記事からも判断されるように、高麗からの通使はすぐさまに洛中に入ることはなく、嵯峨の天竜寺に滞在しながら、朝廷からの連絡を待ち続けた。それはその当時の寺が、明および高麗からの通使たちの接待のみならず、外交往復文書の起草の任に当たった。
                             ↓
  金竜および金逸両使は恭愍王十七年(1368)に開京に帰着する。
僧梵??・梵繆は日本の使臣として随行して、恭愍王に接見するさいに、諸大臣は立って行礼したが、辛呑のみは坐したままであった。欠礼に立腹した日本の使僧たちは声を激しく、辛呑をなじった。辛呑も激怒し、その場で応酬した。
ここで問題は、彼らはいかなる言語を用いて、その憤怒を表現したかである。

2019年4月20日土曜日

320番歌 あおによし寧楽の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり(328番歌)


あおによし寧楽のみやこは咲く花のにほふがごとく今さかりなり(328番歌)
[題詞]<大>宰少貳小野老朝臣歌一首

[原文]青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

奈良の市中が「あおによし」、つまり「青」と「丹(に)」の色彩で覆われていたと言わんばかりである。今の韓国の宮殿・寺社の壁や柱、窓などに見る「丹青(タンジョン)」を思い浮かべると良いだろう。

とはいえ、この歌の作者、当時、小野朝臣老は太宰少弐に任じられ、太宰府に在住しており、奈良とは遠く離れた「西の京」にいた。天平2年(730)ごろのことである。小野朝臣老は太宰府で在官中に天平9年(738)6月の死去したので、奈良の実景を呼んだとするならば、天平2年以前であった。

ところで、小野老が眼前の太宰府の景色を「あおによし」と詠まずして、遠く離れた奈良への望郷の念に思い起こすときの歌語に活用した理由は、眼前の太宰府には「あおによし」の色とりどりの甍や壁などが存在しなかったからであろう。