2021年12月10日金曜日

天平勝宝6年正月12日 大伴古麻呂

天平勝宝2年9月己酉(24)に発令された遣唐使は、

大使:従四位下 藤原朝臣清河

副使:従五位下大伴宿祢古麻呂 

であったが、天平勝宝3年11月丙戌(7)に

副使:従四位上 吉備朝臣真備

が追加で発令された。

今、副使大伴宿祢古麻呂のいわゆる朝賀の席次問題は割愛するが、

*東大寺の学匠宗性上人編『日本高僧伝要文鈔』第3に引用する唐僧思託の『延暦僧録』巻3にある「勝宝感神聖武皇帝菩薩伝」

を指摘するにとどめておきたい。

 さて、一行は天宝12載6月頃に長安を出発し、帰国の途に就く。蘇州で日本行きの船に乗船したのは、天宝12載10月23日(『唐大和上東征伝』)。遣唐使船の第2船に乗船した大伴宿祢古麻呂は、鑑真、そしてその弟子思託ら24人を率いて、天平勝宝5年11月16日に出港。

同月21日、阿児奈波島(沖縄)に到着、その後、多禰島(種子島)を経由して、12月20日に薩摩国に到着。

 大宰府到着は天平勝宝6年正月12日、その日に大伴古麻呂は鑑真到着の報を朝廷に送付。

玄昉の大宰府への左遷

 天平17年(745)11月、玄昉は大宰府へ左遷させられる。そして同年11月17日条に「僧玄昉の封物を収む」(『続日本紀』)とあり、しかも「納櫃本経検定並出入帳」(天平17年7月)の同年10月10日条に「玄昉師物検使所」とあるので、その年の10月ごろまでには玄昉は失脚していたと考えてよい。

 そして玄昉は天平18年〈746〉6月18日に、失意のまま大宰府のどこかで死去。唐への留学から帰国したのが天平7年〈735〉であるので、帰国後わずか10年ばかりの間に、玄昉の浮き沈みの大きい人生が終焉を迎えた。

 玄昉の俗姓は「阿刀氏」。阿刀氏の本貫は河内国渋川郡跡部郷。古代には、阿刀連智徳、阿刀宿祢雄足、僧善珠、阿刀宿祢大足などがいる。法相宗の僧。天皇家に近侍する看病僧的存在。天平9年12月、玄昉は皇太后藤原宮子の治療に当たる。精神を患っていた宮子はたちまちに正常な心身に立ち戻ったという。その時から聖武天皇と光明皇后の玄昉に対する絶大な信頼を得ることになった。