2026年4月28日火曜日

調布の価格は?

 まず、『続日本紀』にある

《天平8年(736)5月辛卯【12】》辛卯。諸国調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺。闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依旧貢之。」

の記事に注目したい。このルールは全国に普及しいたらしく、

『周防国正税帳』(天平10年)には、

「布弐丈捌(28)尺価稲弐拾(20)束(以1束、充1尺4寸)」(『大日本古文書』2-240頁)

とある。

とある。これによって、全国的に統一した基準で徴収されていたとしてよい。したがって、

「調布1端は稲20束」

であると判明する。


2026年4月27日月曜日

周防国周防郡の「殷富」(長者)であった凡直氏

『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。

凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に

宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」

とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kgに該当する。

この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に

天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」

とあり、同じ『続日本紀』に

《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」

とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。

さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。

ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、

0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4

したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。

ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に

「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』 天平六年(734)周防国正税帳 文書第247号 コマ420–423(NDLデジタルコレクション)

とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。

ところで、奈良時代の塩生産方式は

製塩の技術体系(奈良時代)

  • 藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)

  • 塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)

  • 竈での煎熬

でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。

 要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、

  • 周防国最大の製塩地帯を管理し、

  • 海産物の集積地を形成し、

  • 国衙(周防国府)の所在地に位置し

国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。

 なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。





同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、

都濃郡:糒430

吉敷郡:糒1733

熊毛郡:糒35994升



2026年4月22日水曜日

設問)鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は誰か?

 設問)横瀬古墳の埋葬者は誰か?


本稿の目的は、鹿児島県大崎町の横瀬古墳(および隣接する神領古墳群)の埋葬者が、「隼人」のものか「和人(ヤマト王権側の人々)」なのものかという問いの解明にある。これにより南九州の古代史において、隼人勢力圏内への大和政権の影響力の浸透の手がかりの一助としたいからである。

結論から言えば、現在の考古学的な見解では「ヤマト王権文化(和人のスタイル)を強く受けて作られたが、その作り手や背景には隼人文化要素も混じり合っている」と考えるのが自然だと思っている。

論点を整理すると以下のとおりである。

1. 形式は「ヤマト(和人)」のスタイル

盾持埴輪という文化そのものは、近畿地方(ヤマト王権の中心地)で発生し、全国へ広まったものだと考える。

• 横瀬古墳の重要性: 横瀬古墳は全長140メートルに及ぶ、当時としては南九州最大級の前方後円墳です。前方後円墳という形自体がヤマト王権との強い繋がりを示す「政治的シンボル」である。

• 技術: 盾持埴輪の造形や配置の仕方は、近畿地方の作法に準じている。つまり、ソフト(思想)やデザインの源流は「和人」側にある。

2. 「隼人」的な要素と地域性

一方で、南九州は古くから「隼人」と呼ばれる人々が固有の文化(地下式横穴墓など)を持っていた地域です。

• 顔の表現: 大崎町の盾持埴輪は、近畿地方のものに比べると、大隅独特の「入れ墨」のような文様が顔に施されているようにも見える。

• 在地での製作: 埴輪に使われている粘土の分析などから、これらは近畿から運ばれてきたのではなく、大崎町の周辺で作られたことが判明した。在地の埴輪職人(?)がヤマトの技術を導入しつつ、自分たち独自の感性で作ったとみても不思議ではない。


結論として

この盾持埴輪は、「和人の文化を受け入れた、あるいはヤマト王権と深く結びついた現地の隼人系政治的指導者(隼人のリーダー層)」を守るために作られたもの、と捉えるのが最も自然だろう。

「隼人か和人か」という二者択一というよりは、「ヤマトの政治制度の中に組み込まれていった、南九州独自の隼人武人像」が描かれていると言えないだろうか。

鹿児島県大崎町横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?

 設問)横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?


仮説:「被葬者」もしくは「聖域」



仮説1: 被葬者(古墳の主)の守護

 古墳に埋葬された主を、敵対する勢力や邪悪な宗教的存在まどか防御すると考えて不都合はない。そして盾持埴輪は武装兵士であるだけに、死後の世界(あの世)でも主人を警護し続ける「ボディーガード」であったと考える。


仮説2: 聖域と俗界の境界を守護する

 埴輪は多くの場合、宗教儀式などを行う空間である古墳の堤や造り出しに置かれている。

 • 結界の役割: 死者が赴く「あの世(聖)」(古墳が入口)と、あとに残された生者たちが暮らす「日常世界(俗)」の境界線の明示化。「聖と俗」という2項対立を必要とする文化装置である。

 • 盾の象徴: 盾は「防御」と「進撃」の2面性をもつ「不動」の象徴である。死者との強いつながりを求める生者には、武力によって築かれた平穏な日常性と、武力によって維持される平和な日々の象徴。特に武人像を据えることで、生者へのメッセージは、死者が作りあげた政治的権力の誇示とその永続性を保証するものであった。


****************

鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は?ーー拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

本論は約3万時余りの拙稿である。ここではその一部のみを掲載する。 



大崎町横瀬古墳とは?

所在地:大崎町横瀬字エサイ(仮宿1029番地)

①前方後円墳(志布志湾の海岸線より約1km入りこんだ標高約6mの水田中にある。墳長137m後円部径80m高さ10.5m,くびれ部幅58m,前方部最大幅88m,高さ11.5mで周囲には濠がめぐっている。後円部は削られて,竪穴式石室の天井石が露出している。)鹿児島県/横瀬古墳


円筒埴輪・形象埴輪などを持つ古墳の西南限が横瀬古墳、東北限は岩手県の角塚古墳(大量の円筒埴輪片・形象埴輪片(人物・鳥・馬・盾・草摺(くさずりなど)が墳丘・周濠跡より出土

③大阪府の陶邑窯の須恵器(5世紀後半~6世紀初頭)出土。 南は横瀬古墳、北は岩手県膳性遺跡で陶邑産の須恵器が流通。

④日本列島の河内・奈良地域を中心地とする文化の波及を想定する。

 ⑤S52・53鹿児島県教育委員会周濠確認。

 H22・23大崎町教育委員会外濠確認。 

H30 S52・53調査時の出土遺物を譲渡 申請

⑥大崎町教育委員会2016『横瀬古墳』大崎町埋蔵文化財発掘調査報告 書(9



拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

飯盛山古墳 → 横瀬古墳 → 唐仁大塚古墳 の三古墳を軸に、志布志湾沿岸で5世紀に展開した首長権力の発展を論じたい。


序論(研究目的)

  • 志布志湾沿岸には、5世紀前半〜後半にかけて連続的に大型古墳が築造された。

  • これらは規模・副葬品・立地・政治性が段階的に変化しており、 首長権力の発展過程を示す重要資料である。

  • 特に海面が現在より高かった古墳時代の地形環境が、 海上交通を基盤とする首長権力の成立に大きく影響した。

第1章 志布志湾の地形環境と古代海岸線

1. 志布志湾の地形的特徴

  • 遠浅の湾で、砂丘帯と湿地帯が広がる。

  • 海面変動の影響を受けやすい地形。

2. 古墳時代の海面変動

  • 海面は現在より 1〜2m高かったと推定。

  • 志布志湾では海岸線が 500m〜1.5km 内陸に入り込んでいた可能性。

3. 横瀬古墳の立地が示す海岸線

  • 南北は砂丘、東西は湿地に囲まれた「海浜型前方後円墳」。

  • 当時は 海を望む位置に築造されていた。

4. 海上ネットワークと首長権力

  • 志布志湾は南西諸島〜瀬戸内を結ぶ海上交通の要衝。

  • 古墳群は、この海上ネットワークを掌握した首長権力の存在を示す。

第2章 飯盛山古墳と初期首長権力

1. 飯盛山古墳の概要

  • 全長80m、鹿児島県最古級の前方後円墳。

  • 志布志港を見下ろすダグリ岬山上に築造。

2. 大隅隼人首長層との関係

  • 被葬者は大隅隼人の首長層、または同等の豪族と推定。

3. 海上交通の掌握

  • 海上ルートの監視に最適な立地。

  • 志布志湾の初期首長権力の中心。

4. 横瀬古墳との連続性

  • 飯盛山(5世紀前半)→横瀬(5世紀中葉)

  • 同一政治圏の連続した首長墓と理解できる。

第3章 横瀬古墳とヤマト政権との接続

1. 規模と構造

  • 全長165m、5世紀中葉では九州最大級。

  • 二重周溝(内溝+外溝)を備える。

2. 出土遺物

  • 大和国陶邑窯産須恵器、円筒埴輪・形象埴輪                           →<朝鮮系渡来人文化および伽耶系文化の系譜も想定すべし>

  • 畿内的儀礼の導入=ヤマト政権との強い関係。

3. 被葬者像

  • 「大陸〜南西諸島〜近畿を結ぶ広域交流を掌握した首長」 (大崎町教育委員会の記述)

4. 立地の特異性

  • 海に近接した砂丘帯に築造された南九州では珍しい例。

第4章 唐仁大塚古墳と南九州盟主権力

1. 古墳群の中心

  • 全長185m、鹿児島県最大の前方後円墳。

  • 周囲に140基以上の古墳群。

2. 副葬品

  • 朱塗り石棺、短甲など。

  • 武力と威信財を備えた首長の墓。

3. 政治的性格

  • 地域政治の統合段階を示す。

  • 横瀬古墳の後継として、南九州の盟主権力を象徴。

第5章 権力の東進モデルの提唱

1. 三古墳の連続性

  • 飯盛山(志布志)→横瀬(大崎)→唐仁(東串良)

  • 首長権力が東へ移動しながら巨大化した。

2. 海上ネットワークの役割

  • 志布志湾の海上交通が権力拡大の基盤。

3. 古代海岸線の影響

  • 海に近接した立地が首長権力の性格を規定。ヤマトと隼人の両サイドのダブルマインドとして、権力構造の解明に資する。

結論

  • 志布志湾沿岸の首長権力は、海上交通を基盤に成立し、 飯盛山 → 横瀬 → 唐仁 の順に発展した。

  • 横瀬古墳はその政治的ピークを示し、ヤマト政権との結びつきが最も強い。

  • 今後の課題は古代海岸線の復元。古墳立地と首長権力の理解に不可欠な分析視点である。











2026年4月21日火曜日

鹿児島県大崎町の地名に関して

 1)大崎町横瀬字大領丸

→「郡大領」が居住した郡衙跡か?

2)菱田に残る条里制の痕跡か?

下住上住(下条上条)
仮宿(5条)

豊住(10条)


2026年4月19日日曜日

昭島市史古代編の記述に異議あり!

 昭島市史の記述に異議あり!

帰化人が多く東国へ配属されるようになったのは、一つには畿内や近江に収容しきれなくなったという理由が考えられる。あるいはまた、未墾地の開拓のために集団移住せしめたのかもしれない。畿内から遠く離れた東山道・東海道の未開地に彼らを集住させることにより、荒涼とした原野が広がり人は稀薄という状態の東国を開拓させ、古代国家の強化をはかったのであろう」【395頁)【二 東国への移住】

この記述の一面性を疑う。この執筆者の視点は、定住・農耕民・稲栽培などであり、その意味では「未墾地の開拓」とか、あるいは「原野が広がり人は稀薄という状態」だとすることに異論はない。しかしながら、東国が無住の荒野であったわけではなく、そこには移動しながら狩猟採集民であった本来の「東国民=蝦夷民」が居住していたはずである。彼らは非定住民であったがゆえに、「未墾地」だと見えるのは定住農耕民の思い違いである。無住の荒野であったのではなく、わざわざ無住にすることで、そして荒野のままであることで蝦夷の民は豊かな狩猟採集を可能にしたに過ぎない。


 

 

天平10年代の長門国豊浦郡の有力豪族は、額田部直一族

 天平10年代の長門国豊浦郡の有力豪族は、額田部直一族であろう。

その傍証として、

「長門国豊浦郡擬大領正八位下額田部直広麻呂」

とある。彼の蓄財ぶりは、以下の通り。

2026年4月15日水曜日

奈良時代の酒の値段は?

 現在の価格に換算できないのは、残念であるが、

清酒:1升は17文(天平宝字6年、『大日本古文書』16-20)

甘酒(「醴酒 こさけ/こざけ):1升は8文から14文(天平宝字6年、『大日本古文書』5-87)

 →「甘い酒」を意味する語源

 →製法:米・麹・酒を混ぜて 一夜で糖化させる「一夜酒(ひとよざけ)」

 →『延喜式』(927年)に「米と麹と酒を用いた酒」と製法を説明

 →アルコールはほとんど含まない

  甘味が強く、現在の米麹甘酒に非常に近い

  別名は甜酒(たむさけ)

2026年4月14日火曜日

律令時代、東山道(平城京から下野国府まで)ハイウエーとサービスステーション【2026年4月1日版)


説明

(16)24/主計上/9/  下野国〈①行程上卅四日、下十七日、〉

⇒②調、

③緋帛五十疋、紺帛六十疋、黄帛五十疋、橡帛廿五疋、絁二百疋、紺布八十端、縹布十五端、榛布十端、自余輸布、

⇒庸、輸布、

⇒中男作物、麻一百五斤、紙、紅花、麻子、芥子、

**************


①ー1:行程上卅四日、下十七日

下野国府の中心「国庁」(政庁)の遺構群は栃木市田村町字宮ノ辺。昭和5111月からの発掘調査で判明。

()栃木県文化振興事業団 1988 『栃木県埋蔵文化財調査報告90:下野国府跡』栃木県教育委員会>。

その下野国府から平城京までの往来の日数規定。上りは34日、下りは17日。これは下限であるので、豪雨であれ、豪雪であれ、地震であれ、いかなる重い荷物を積載していても、その往来日数の原則は規定されていた。

 律令国家は都と日本全国七道諸国の各国府を結ぶ幹線道路、道幅9mから12mで原則的に直線に建設した。特に大宰府を結ぶ山陽道と多賀城を結ぶ東山道は東西を結ぶ大動脈であった。とくに山陽道が外国使を迎える儀礼路であったのに対して、東山道は東北地方の蝦夷との軍用道路でもあると認識されていた。

そもそも『続日本紀』の大宝2年(70212月壬寅(10)条に

「壬寅。始開美濃国岐蘇山道」

とある。また、同じく『続日本紀』和銅6 (713)7月戊辰 (7)の条に

戊辰。美濃・信濃二国之堺。径道険隘。往還艱難。仍通吉蘇路。」

とある。この二つの記事は東山道の建設時期を想定させると理解して良いだろう。

『延喜式』 記載の駅家は全国で402駅。

 

①ー2 さて、下野国府を起点に上京ルートを考えると、誰かが京までの所要日数が34日間と設定。

*下野⇒武蔵(宝亀2年・771年に東海道編入)⇒上野⇒信濃⇒飛騨⇒美濃⇒近江⇒京

の6か国を越えていく官道ハイウェイを疾駆する公民の姿が頻繁であっただろう。なにしろ出張旅費もない、すべてが自費である以上、「雨にも負けず、雪にも負けず」一刻も無駄な時間は使えない。

 ここではいささか視点を変えて、官道の駅家サービスステーションに注目して、そのルートをもう少し詳細に辿るならば、次のとおりである。

①ー3<下野国>国府(栃木市田村町300府野遺跡)

→『倭名類聚抄』記載「国府在都賀郡」

→「国庁跡(奈良時代後期)は、東西・南北各約95mで周囲は板塀がめぐり、南央武には13.8m×4.2mの南門があり、中心部には22.2m×5.4mの「前殿」、その東と西約33mの位置に45.0m×4.8mの長大な南北棟の「東脇殿」「西脇殿」が造営されていました。これらの遺溝のあり方から「前殿」の北方には大規模な「正殿」が存在すると思われますが、現在は宮目神社の社叢となっており未調査です」【下野国庁跡】|文化財検索|とちぎの文化財

→下野国府図 BA62154222_2_128_150.pdf

 

三鴨(MiKaMo)駅(栃木県岩舟町下津原付近か)

→『倭名類聚抄』高山寺本に、7・国郡部第12・下野国都賀郡 「三島」とある。

→『万葉集』3424番歌

 「之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟」

 (「之母都家+野 」は下野であると判断できるが、「家」(け)の甲類)

 この「美可母乃」は「みかもの」と読むので、「三鴨」と同一である。

→したがって、この『倭名類聚抄』下野国都賀郡の記述は「三島」ではなく、「三鴨」である蓋然性が高い。

→この「三+かも」を「御(み)+氈(かも)」と理解できる余地もあるが、後考を俟つ。

足利駅(古代東山道の渡良瀬川渡河点であったと推定されると足利市緑町の中橋北詰付近か、もしくは十念寺付近の説もある)

 

*小松原遺跡や北台遺跡(下野市小金井3-12-9)付近では、道路幅(側溝と側溝の間の距離)はおおよそ12.5 ~ 13.5m

①ー4 新田(にふた)駅(新田郡家推定地は太田市天良町付近)

⇒新田郡衙は群馬県太田市天良町7-1 付近。

 329-463.pdf

⇒にふた(Ni +/ɸu/ +Ta)→にうた(Niu+Ta)→にた(Nita)→にった(Nittata)

 例 新治(Ni/ɸi+はる)

  新座(Ni/ɸi+くら→ Nii+くら)

 

佐位駅(伊勢崎市大字上植木付近か、伊勢崎市上野国佐位郡正倉跡参照)

群馬駅

上野国府(前橋市元総社町一帯か)

 

⇒野後(のじり)駅(安中市字上野尻か、町北遺跡(安中市安中二丁目、道幅約10m、側溝は幅70cm程度

坂本駅( 群馬県安中市松井田町坂本付近 )

 

 

 




①ー5<信濃国>

長倉駅(駅家は佐久 市・小諸市・御代田町にまたがる鋳師屋遺跡群か。宮ノ反A遺跡群は「駅倉」か→90常和、田口、清川、高柳、鍛冶屋、臼田)(91臼田、取出町、本新町、大沢、鍛冶屋、高柳、前山

→軽井沢町追分から小諸へのルートは3通り、

  1、小田井ルート;軽井沢追分→小田井→佐久市→三影新田→三岡→軽井沢小諸

  2、馬瀬口ルート:軽井沢追分→馬瀬口→馬瀬口→小諸

  3、塩野ルート:軽井沢追分→御代田塩野屋→小諸藤塚

         →小諸石峠

→宮ノ反A遺跡群中の官衙跡南側に幅9メートルの道路痕跡あり

清水駅(小諸市付近)

日理駅(長野県上田市常磐城3丁目付近古舟橋北側か。上田市常磐城字唐臼の唐臼遺跡は曰理駅に附属した布施寺遺構 。千曲川の渡り地点)

→なお『続日本紀』神護景雲3年3月辛巳(13日)条に、陸奥国牡鹿郡に

*「日理郡」

がある。『倭名類聚抄』に

*「日理」は「和多里」

とある。現在の宮城県亘理郡。この陸奥国日理郡在住者は信濃国日理駅家周辺から移住した者たちであったと思われる。

→日理駅家推定地に塔心礎がある。この駅家周辺の人々の崇拝を受けた寺院が建立されていたとみて良い。

→地名「唐臼」から推測して、半島渡来人が持参した「臼」の意味か。

 

 

浦野駅(長野県小県郡青木村岡石地区か? この次が保福寺峠(標高1,345m))

錦織駅(旧四賀村の錦部か?。現在の松本市<旧錦部村>七嵐に所在する錦部郵便局付近。)

信濃国府(上田市神科台地と、常田の信州大学繊維学部敷地周辺か)

覚志(かがし)駅(深沢駅箕輪町付近)

宮田駅

育良駅(飯田市)

賢錫(かたぎり)駅(上伊那郡中川村、『倭名類聚抄』高山寺本は「堅錐」

阿智駅(

→下伊那郡阿智村駒場付近もしくは阿智智里・園原地区、 いずれにせよ神坂峠へ向かう古代東山道の入口付近に比定してよい。

→『旧事本紀』神代本紀には、「天思兼命(信濃国阿智祝部祖」)。ところでこの「阿智」とは何か。

ところでこの「阿智」とは何か。その語源に迫ってみたい



*入山峠ルートを想定(標高1034m)。

*ただし入山峠ルートにせよ、旧碓氷峠ルートにせよ峠越えは荷物の運搬の難所。

*上田市駕籠田遺跡:両側を幅80㎝、道路幅450㎝の道路跡

*上田市小泉字長谷川の保福寺南隣接地の道路遺跡で幅12mの側溝

+上田市高田遺跡は東山道と北国みちとの分岐点

 


          <桜井英雄氏作成>

①ー6<美濃国>

坂本駅(中津川市坂本付近)

 恵那駅

土岐駅

可児駅

土岐駅

方県駅

大野駅

不破駅(美濃国府)

 

①ー7<近江国>12mの直線道

坂田駅

横川駅

鳥籠駅

清水駅

篠原駅

近江国府

勢多駅(堂ノ上遺跡)

大津駅家(木津川流域沿い)

平城京

 

①ー8 グーグルマップによると、

栃木県栃木市田村町から滋賀県大津市役所経由で奈良市平城京公園まで徒歩で移動する場合、距離は約520km、時間は約130時間(不眠不休で約6日)

 

<参考情報>

『和名類聚抄』 九居処十〇高山寺本

道路具第百卅三

東山駅 勢多 中略 坂下 野後 郡馬 佐位 新田 以上々野、 足利 三嶋 田部 衣川 新日(田) 磐上 黒川 以上下野

 

 

<参考文献>

足利健亮 「恭仁宮の京極および和泉・近江の古道に関する若干 の覚え書き」『社会科学論集』大阪府立大学(足利1985に収録) 1970

 足利健亮「近江の土地計画」『日本古代地理研究』大明堂 1985 

足利健亮「歴史地理学的見地からみた中山道」『中山道』(中近世鼓 動調査報告書2)滋賀県教育委員会 1996 

櫻井 秀雄 「長野県佐久地域における東山道ルートの考察~清水 駅から長倉駅~」『金沢大学考古学紀要』45号、2024,1-18

堤 隆「第二編 古代 第三章 奈良・平安時代」『御代 田町誌 歴史篇上』、御代田町誌編纂委員会.1998

鳥羽英継2023B 「信濃における末端官衙②~鋳物師屋遺跡(小 諸市分の再検討)(小諸市関口A遺跡にもふれて)~」『千曲』 179 号、東信史学会

 

<参考情報>

宝亀2年(771)以前には武蔵地域には駅家は存在しなかった。『和名類 聚抄』高山寺本・東急本によると、高田郷・橘樹郷・御宅郷・県守郷とあり、また東急本に駅家郷が加わり、さらに名古屋市博物館本に余部郷も加わっている。したがって、東急本は宝亀2年以降の情報を反映していると考えて不自然ではない。

 

 

②調

 

③ー1 緋帛五十疋、

 

 

 

 

15/内蔵寮/50/諸国年料供進:  下野 各四合樽、〈

(6)巻15/内蔵寮/50/諸国年料供進 下野国千斤、

(7)巻22/民部上/36/凡下野、讃岐等国准大国聴卌九戸例損、

(8)巻22/民部上/45/凡諸国健児、皆免徭役、唯志摩、駿河、武蔵、飛騨、上野、下野、佐渡、播磨、長門、阿波、讃岐等国免徭、畿内免課役、其食、畿内用乗田地子、余以国営健児田充之、出羽国出挙給之、隠岐国以国造田三町地子充之、

(9)巻23/民部下/52/年料別納租穀 下野国〈一万一千斛、〉

(10)巻23/民部下/53/年料別貢雑物〉 下野国〈筆一百管、麻紙一百張、麻子三斗、〉

(11)巻23/民部下/57/諸国貢蘇番次 下野国十四壷〈五口各大一升、九口各小一升、〉

(12)巻23/民部下/62/交易雑物 下野国〈布一千四百卅六端、商布七千三段、履料牛皮七張、洗革一百張、鹿角十枚、席八百枚、砂金百五十両、練金八十四両、紫草一千斤、氈十張、櫑子四合、〉

(13)23/民部下/62/交易雑  但下野国砂金者、使徭夫採、食亦充正税、其太宰雑油卅石、中男作物若満此数者、更不交易、

(14)巻24/主計上/5 駿河 伊豆 甲斐 相摸 武蔵 上總 下總 常陸 信濃 上野 下野⇒右十一国麁糸

(15)巻24/主計上/5 輸絹

(16)24/主計上/9/  下野国〈行程上卅四日、下十七日、〉⇒調、緋帛五十疋、紺帛六十疋、黄帛五十疋、橡帛廿五疋、絁二百疋、紺布八十端、縹布十五端、榛布十端、自余輸布、⇒庸、輸布、⇒中男作物、麻一百五斤、紙、紅花、麻子、芥子、

(17)巻26/主税上/30/諸国出挙正税公廨雑稲/下野国正税、公廨各卅万束、国分寺料四万束、興福寺料二万二千束、文殊会料二千束、修理池溝料三万束、救急料八万束、俘囚料十万束、

(18)巻26/主税上/174/禄物価法 下野国絹九十束、綿八束、鍬二束五把、鉄五束、

(19)巻26/主税上/182/  下野二国、上馬五百束、中馬四百束、下馬三百五十束

 

(20)巻26/主税上/191/諸国運漕雑物功賃/東山道⇒近江国、〈駄別稲二束、〉美濃国、〈十二束、〉飛騨国、〈卌五束、〉信濃国、〈六十六束、〉上野国、〈九十束、〉下野国、〈百五束、〉陸奥国、〈二百十束、〉出羽国、〈百卌一束、〉

 

(21)巻28/兵部省/60/凡太宰府官并品官、史生、使部、得考書生、及所部国嶋、武蔵、安房、上總、下總、常陸、上野、下野、陸奥、出羽、越後、佐渡、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門等国郡司、書生等、並聴帯仗、

 

(22)巻28/兵部省/69/諸国健児⇒山城国卌人 大和国七十人 河内国卅人 和泉国廿人 摂津国卅人 伊賀国卅人 伊勢国一百人 志摩国卅人 尾張国五十人 参河国五十人 遠江国六十人 駿河国五十人 伊豆国卅人 甲斐国五十人 相摸国一百人 武蔵国一百五十人 安房国卅人 上總国一百人 下總国一百五十人 常陸国二百人 近江国二百人 美濃国一百人 飛騨国卅人 信濃国一百人 上野国一百人 下野国一百人

 

(23)巻28/兵部省/71/諸国馬牛牧⇒駿河国〈岡野馬牧、蘇弥奈馬牧、〉 相摸国〈高野馬牛牧、〉 武蔵国〈檜前馬牧、神埼牛牧、〉 安房国〈白浜馬牧、鈖師馬牧、〉 上總国〈大野馬牧、負野牛牧、〉 下總国〈高津馬牧、大結馬牧、木嶋馬牧、長洲馬牧、浮嶋牛牧、〉 常陸国〈信太馬牧、〉 下野国〈朱門馬牧、

(24)巻28/兵部省/76/諸国器仗⇒下野国〈甲三領、横刀九口、弓六十張、征箭六十具、胡籙六十具、〉

(25)巻28/兵部省/81/諸国駅伝馬/ 下野国駅馬〈足利、三鴨、田部、衣川、新田、磐上、黒川各十疋、〉

26)巻34/木工寮/134/諸国所進雑物/商布七百六十二段、〈三千七百九十二段内、配修理職之遺、〉駿河国七百段、下野国六十二段、

(27)巻37/典薬寮/28/  下野国十四種⇒青木香廿斤、芎藭十五斤、枸杞二斤八両、黄菊花五両、藍漆九斤、石斛廿斤、秦膠十六斤、干地黄、桃仁、烏頭各二斗、附子四斗、決明子一斗、牡荊子八升、石硫黄二斗三升、

(28)巻48/左右馬寮/4/ 下野国馬四疋、