2023年10月9日月曜日

大宰府管内のエミシ、蝦夷

 1豊前国

『類聚国史』天長 5 年(828)閏 3 月 10 日条

「 豊前国俘囚吉弥候部衣良由、輸酒食百姓三百六十人 。豊後国俘囚吉弥候部良佐閉、輸 稲 九百六十四束 、資 百姓三百廿七人 。衣良由叙 少初位下 、良佐閉叙 従六位上 。

⇒「俘囚」とは蝦夷の別称。

2,肥前国

『類聚国史』天長 5 年 7 月 13 日条   

「 肥前国白丁吉弥候部奥家叙 少初位上 。奥家既染 皇風 、能順 教令 。志同 平民 、動赴 公役 。 修造官舎及池溝道橋等 、未有 懈倦 。加以国司入部之日、送迎有 礼、進退無 過。野心既忘、 善行可 嘉。


3,筑後国

『類聚国史』天長 10 年(833)2 月 20 日条 

「筑後国第五等都和利別公阿比登叙従八位上 。輸 私稲 資 弊民也」



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今、「新・下野市風土記  下野市教育委員会 文化財課」で紹介に変えたい。

5df2ef10bb65a.pdf (shimotsuke.lg.jp)

*「当時の主な政策のひとつとして、対東北政策 がありました。 天  平神護元(765)年には、東北地方に居住 していた蝦 えみし 夷と呼ばれる人々のうち、朝廷側の 政策に恭順し、東国などに移り住んだ人たちに、 それまでの姓 かばね ではなく、新たな姓を与えました。 それまで吉弥候部きみこべの姓を名乗っていた人たちに、 新たに上 毛野公・下毛野公、物 部連の姓を名乗 ることを認めています。上毛野朝臣(上毛野国 国造一族)や下毛野朝臣(下毛野国造一族)、物 部朝臣(軍事に携わる一族)などが陸 奥国や出 で 羽 わのくに 国の平定に携わり、投降してきた蝦夷の人々 (俘 囚ふしよう)を直接受け入れたことから、これらの姓 が与えられたと考えられています。  なお、吉弥候部という姓は、もともとは君子 部と記していましたが、天平宝字元(757)年3 月に孝謙天皇が「これより後、君子部を改めて 吉弥候部と為せ」という詔を出したことで、表 記が変わりました。奈良時代には、何度かこの ような良い意味の文字を使用するように命令が 発布されました。和銅6(713)年5月には「諸国 郡郷名著好字令」という命令が出、全国の国 名を2文字にすることが決められたことにより、 これ以降、下毛野が下野へと変わりました。


エミシ蝦夷が大宰府の防人に

 大宰府市と関係があるのか不明であるが、「太宰府市日本遺産について「日本遺産」につい」には、防人に関して、

「遠い東国から九州へ辺境防備のため派遣された防人たちによる「防人の歌」

万葉集筑紫歌壇 | 日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ (dazaifu-japan-heritage.jp)

とある。たしかにこの定義を否定するつもりはないが、追加情報として、つぎのエミシ蝦夷も防人に動員されたことを付記しておきたい。

*『類聚国史』大同元年(806)10 月 3 日条 

「 勅。夷俘之徒、慕 化内属、居要害地 、足備不虞 。宜在近江国 夷俘六百卌人、遷 大宰府 、置為 防人 。毎国掾已上一人専-当其事 。駈使勘当勿 同 平民 。量 情随宜、不 忤 野心 。禄物・衣服・ 公粮・口田之類、不 問 男女 、依 前格 。但防人之粮、終□永給口分田 者、以 前防人乗田等 給 之。其去年所 置防人四百十一人皆宜停廃 。」

とある。この記事は、陸奥国から近江国へ連れてこられたエミシ「夷俘」600人を大宰府に移配し、「防人」として国土防衛の任に当たらせたとある。そして彼らエミシは生国に帰ることなく、大宰府で骨を埋めた。

九州在住の万葉研究者たちによる浪漫的な防人歌解釈は再考する必要があると予告しておきたい。防人の実態を知らないものによる和歌鑑賞の限界を見るからである。別稿で、私論を発表するつもりである。

今、防人の基礎的理解に関しては、当面は、曾我部静雄著の先駆的論文「<研究ノート>東国出身の防人達 - Kyoto U」に基本的に依拠したい。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249559/1/shirin_044_2_289.pdf