2026年5月18日月曜日

古代上総の政治的動向(試案)

 1)要約

上海上国造と下海上国造は古代上総国(現在の千葉県中部)に存在した「海上国」をルーツとする国造である。養老川・小櫃川の段丘縁辺に建設された巨大古墳群に見るように、東京湾航路と内陸水運を掌握し、ヤマト政権に接近した湾岸首長権力者が登場。5〜6世紀ごろに、海上国は2分割され、さらにヤマト政権によって、武社国造が樹立されたことによって、おのずと海上国造は分離した。




(2)時系列による理解

【3世紀後半〜4世紀】 ・海上国(巨大首長連合)が成立 ・中心:養老川流域(姉崎古墳群) ・ヤマト王権との早期接触(稲荷台1号鉄剣) 【5世紀前半】 ・海上国の最盛期(関東広域に影響力) ・海上国造(単一)として機能 【5世紀後半〜応神朝】 ・海上国が二分される → 上海上国造(本家) → 下海上国造(分家) ・分割理由:王権の政治的再編(香坂王・忍熊王事件後の処分説) 【6世紀前半】 ・武社国造の成立(海上国造領域にヤマト政権がくさびを打つ) ・菊麻国造の台頭(南部で独立) 【6世紀後半〜7世紀】 ・海上国造勢力の縮小 ・国造制の再編(上総国成立へ)

(3)系譜モデル
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)
天穂日命 └─建比良鳥命(海上国造の祖) └─忍立化多比命(上海上国造) └─五十狭芽宿禰 └─久都伎直(下海上国造)

(4)国造別特徴
  • 上海上国造:古墳規模最大、王権との接触最も早い

  • 下海上国造:上海上の南側に派生

  • 武社国造:王権が意図的に「中央にくさびを打ち込んだ可能性」

  • 菊麻国造:地域勢力の自立

(5)ヤマト政権の戦略
① 内的要因(海上国の巨大化) ・養老川流域の首長連合が肥大化 ・内部統治のための分家化 ② 外的要因(ヤマト王権の政治介入) ・香坂王・忍熊王事件後の処分 ・関東の軍事・海上交通の掌握 ③ 地域要因(房総南部の独立化) ・菊麻国造の台頭 ・武社国造の成立(ヤマト政権の強制的配置)
(6)結論に代えて
【西:志布志湾モデル】 飯盛山(初期)──→ 横瀬(中期ピーク)──→ 唐仁大塚(後期巨大化) │ │ │ │(海上交通) │(王権承認) │(地域巨大化) ↓ ↓ ↓ 大隅海峡・日向灘 西日本海上ネットワーク 南九州支配の中核 【東:上総湾岸モデル】 海上国造(初期)──→ 上海上(中期ピーク)──→ 下海上・武社・菊麻(後期再編) │ │ │ │(海上交通) │(王権承認) │(王権による再編) ↓ ↓ ↓ 東京湾航路 東日本海上ネットワーク 東国支配の中核

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2026年5月14日木曜日

相模国司リスト(『続日本後紀』版)→承和7年「相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時

 相模国司リスト(『続日本後紀』版)


1,《承和元年(八三四)正月癸亥【十二】》  「參議從四位上藤原朝臣常嗣爲兼相摸守右大辨如故。」

2,《承和元年(八三四)正月丁卯【十六】》參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上」

3,《承和元年(八三四)正月庚午【十九】》  「是日。任遣唐使。以參議從四位上右大辨兼行相摸守藤原朝臣常嗣爲持節大使。」

4,《承和二年(八三五)八月丁亥【十四】》○丁亥。從四位下滋野朝臣貞主爲兵部大輔。相摸守如故。

5,《承和四年(八三七)六月甲寅【廿三】》 「左衞門督從四位上百濟王勝義爲兼宮内卿。相摸守如故。」

6,《卷八承和六年(八三九)正月甲子【十一】》 「從五位上藤原朝臣貞成爲相摸權守。」

承和7年(840)2月壬申【25】条に見る「壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣」の善状時の国司

7, 《卷十一承和九年(八四二)正月戊申【十三】》從三位百濟王勝義爲兼相摸守。宮内卿如故。」

8, 《卷十三承和十年(八四三)正月辛丑【十二】》從四位下藤原朝臣長良爲兼相摸權守」

9, 《卷十三承和十年(八四三)六月戊辰【十一】》參議從三位勳六等兼越中守朝野朝臣鹿取の卒年記事 「(弘仁)十年加正五位下。遷兵部大輔。兼相摸介。少將如故」

10,《卷十五承和十二年(八四五)正月戊午【十一】》從五位下紀朝臣眞高爲相摸介」

11, 《卷十五承和十二年(八四五)二月戊寅朔》 「河内國讃良郡人相摸權掾從六位下廣江連乙枚賜姓大枝朝臣」

12, 《卷十五承和十二年(八四五)二月丁酉【廿】》の散位從四位下善道朝臣眞貞卒年記事 「(大同)十一年以明經。改授從五位下。兼任越前大掾相摸權介等」

13,《卷十六承和十三年(八四六)九月壬子【十四】》

從四位下藤原朝臣富士麿爲相摸權守。」

14, 《卷十七十承和十四年(八四七)七月己丑【廿六】》

「參議正三位藤原朝臣綱繼の卒年記事弘仁元年授正五位下。五年四月叙從四位下。職歴内外。兵部大輔。右京大夫。左兵衞督。武藏相摸守。」

15, 《卷十八承和十五年(八四八・嘉祥元年)二月甲辰【十四】》

參議從四位上橘朝臣峯繼爲兼相摸守

16,《卷十九嘉祥二年(八四九)正月戊辰【十三】》

 「從五位下藤原朝臣直道爲相摸介。」

17,《卷十九嘉祥二年(八四九)九月丙子【廿六】》

「參議從四位下藤原朝臣良相爲兼右大辨。左近衞中將相摸守如故。」


江戸時代の商人高木善助が書き残した「紫紙金字法華経」(国宝)

 この紫紙金字法華経断簡が捨てられずに、保管されたことに関するエピソードが伝わっている。江戸時代の商人高木善助が彼の旅日記に書き残している。

この紫紙金字法華経が太宰府天満宮へ奉納したという。

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紫紙金字法華経断簡ししきんじほけきょうだんかん

「紫紙金字金光明最勝王経」が国分寺経と呼ばれるのに対して、「紫紙金字法華経」は、諸国の国分尼寺に安置されたため、国分尼寺経と呼ばれる。紫紙に金字で『法華経』巻第8・陀羅尼品(だらにほん)第26を書写した断簡で、天平写経を代表する遺品として貴重である。

詳細情報

種別
文化財指定
員数1幅
作者伝菅原道真筆
時代世紀平安時代・11世紀

2026年5月13日水曜日

相模国大住郡の大領壬生直広主の窮民に対する行為は、「慈善事業」か?

 1)本稿の問題の所在:大住郡大領外從七位上壬生直廣主の調庸代納は善行か?

《巻9承和7年(840)二月壬申【廿五】》○壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣主。代窮民輸私稻一萬六千束。戸口増益五千三百五十人此善状。外從五位下。」(『続日本後紀』巻9)

 この記事によると、本来は徴税請負人であったはずの、大住郡の大領壬生直広主は「窮民」に対する共済策として、彼が私物する稲1万6千束を国衙へ代納したばかりではなく、大住郡の戸口が5350人増加したという。この「善状」で、外従七位上であった彼は「借」外従五位下を3階級特進して授けられたという<『三大格』天長元年八月二十日官符。および、『三代格』天長二年七月八日官符、巻六位禄季禄時服馬料事 参照のこと>。

2)論及すべき点は何か?

この善行記事で記述されていない論点はなにか?

まず、第1に、なぜ調を献納できない「窮民」が出現したのか?

第2に、なぜ、大領壬生直広主だけが稲1万6千束を個人的に所有できたか?観点を変えれば、人々は「窮民」、しかし大領だけは富の蓄積さえ可能であったのは、なぜか?

第3に、なぜ、「窮民」は逃亡・離散しないで、その逆に「戸口増益五千三百五十人」であったのか(仮に1戸約20名だとすれば、約260戸)。つまり、大住郡の「窮民」に加えて、「戸口増益五千三百五十人」の食糧や住居などはどのように調達したのか?

第4に、「戸口増益五千三百五十人」は、どこから大住郡に流入してきたのか?逆な見方をすれば、大住郡のみ「窮民」が出現するほどに「凡田有水旱蟲霜、不熟之処」などの事由があり、郡外は、あるいは国外はいかなる稲の生育状態であったのか?

第5に、なぜ、戸口増益五千三百五十人」の流浪人(?)などを、大住郡の大領壬生直広主は本籍地に帰還させなかったのか?

第6に、なぜ、大住郡以外の地で戸口増益五千三百五十人」が発生したのか?

第7に、戸口増益五千三百五十人」の調庸はどうしたのか?それによって一定の公地に加えて、戸口増益五千三百五十人」分の土地の配分は可能であったほど、新たな開拓地が出現できるのか?

第8に、「稲1万6千束」の代納は大住郡の何人分に該当するのか?

第9に、「稲1万6千束」はあくまでも「代納」であり、慈善事業ではなかった。「贈与」ではない以上、翌年の調庸はどのようになったのか? つまり、相模国大住郡大領壬生直広主のメリットは何であっただろうか?仮に、として単純計算するだけで、相当な利益が生じたはずである。それは暴利をむさぼるというべきか、それとも慈善事業であったか。

→調庸代納によって、位が上がれば、

 墾田永年私財法における所有上限

5位:100町

6位:50町

郡司:30町

初位以下:10町

は無くなるので、そのメリットは大きかっただろう。

第10に、窮民にとって、本年の「稲1万6千束」は翌年の調庸に加算されるのであれば、その利子分を含めて、その翌年は返済できるほど、豊作であったのか?

第11に、なぜ平安京の朝廷側はも徴税請負人を高評価するのか。ここでの問題関心は相模国司と相模国大住郡大領壬生直広主との関係性である。借外五位に推薦されるのも、さらには外從五位下が大住郡大領壬生直広主に授与されるのも、相模国司の推挙であった。

 『続日本後紀』承和10年(843)3月壬子条 

  「相摸国大住郡大領借外從五位下壬生直広主授外從五位下。以去承和七年国司  

  褒挙。今依 格所 授也」

 本稿の筆者の貧弱な知識では、承和10年〈843)当時の相模国司の名を提示できないのは残念である。

<参考論文>

 籔井 真沙美  「八世紀における賑給の意義と役割 ―飢疫記事からみた賑給制度」平成19年度~平成21年度科学研究費補助金(基盤研究(C)課題番号19520574)研究成果報告書 時空間情報科学を利用した古代災害史の研究 」4 


佐藤早樹子「八・九世紀の財物貢献と報賞制度」『史観』182冊、23-42頁、2020年

]森田大貴「8,9世紀の貧窮者救済行為。褒賞者の検討を中心に」『史学』93巻、2024年


 3)

ここまで書くと、日本古代史のプロの方々からお𠮟りを受ける前に、『養老令』賦役令の、

「凡田有水旱蟲霜、不熟之処、国司検実、具録申官」

とある記事を末尾に載録しておきたい。

残念なのは、この相模国大住郡大領壬生直広主の具体的報告書は今日まで残されていないので、彼を顕彰できないことである。


なお、壬生直に関する拙論は別には発表したので、関心のある方はご笑覧ください。


 

防人ら部領使に率いられたパレードは?

 律令時代、防人たちは東国で招集され、部領使に引率されて、難波に向かう。

彼らはバラバラに行進したわけではなく、

*2駅ごとに、つまり約32キロメートル(16キロメート×2)

に移動しては、古代史家にとっては常識であろうが、念のために国文学者の方々への補足説明のために付記する。その記録は?

 

相模国司牒の写真資料の紹介<参考資料、早稲田大学図書館所蔵>

 <参考資料>

相模国司牒



請求記号 Call No.
リ05 03740 0002 0005

タイトル Title

出版事項 Imprint
写, 天平勝寳7[755]
sha

形態 Description
1通 ; 30×49cm

内容等 Notes
重要文化財
東大寺薬師院文書
→造東大寺司 天平勝寳7年5月7日
表装:巻子装(31cm 紙継目裏印:東大寺印)
印記:相摸国印
田中光顕旧蔵

キーワード Keywords
古典籍 / 歴史-日本史(通史・時代史・地方史)

公開者 Copyright

2026年5月12日火曜日

日本の初期横穴式石室墳は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人の墓か?

  井上主税 2023「大和地域の百済系渡来人の様相」『都市と宗 教の東アジア史』(アジア遊学280)勉誠出版

を読む。

 代表作『朝鮮半島の倭系遺物からみた日朝関係』(学生社2014年)の著書を持つ井上主税氏によると、百済漢城期の古墳に関する最近の調査成果が蓄積することに判明したのは、ミニチュア炊飯具(竈・甑・釜・鍋)や釵子(かんざし)を副葬した5世紀後半の日本の初期横穴式石室墳は、楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人の墓であるという。

 その典型は、真弓鑵子塚古墳(真弓鑵子塚古墳発掘調査報告書 : 飛鳥の穹窿状横穴式石室墳の調査、明日香村文化財調査報告書 ; 第7集)や観覚寺遺跡(高取町観覚寺)や清水谷遺跡(高取町清水谷)に代表される、飛鳥周辺に分布する穹窿状(ドーム状)天井をもつ横穴式石室墳であり、それらは東漢氏を代表と する中国系百済人の墓域ではないかと推測する。

 相当に踏み込んだ井上氏の仮説の提出だが、大歓迎したい。

 それまでの行政報告書では、例えば明日香村の場合、

 「渡来系の人々が生活していたとされる大壁住居やオンドル(暖房施設)遺構等も検出されています。また彼らが使用していたとされる陶質土器や韓式系土器等も出土しています。村内からは島庄や岡、奥山といった地域でも確認されており彼らの活動の広さを知ることができます。また檜隈地域には東漢氏の氏寺とされる檜隈寺(大字檜前)や呉原寺(大字栗原)が造営されており、渡来系の人々の住居や寺院、古墳といった遺跡が村内でも数多く確認されています。」真弓遺跡群の調査 | 明日香村 公式ホームページ

とあるだけで、調査者の本意は別として、行政報告である性格上、慎重に仮説の提出を留保している。

「渡来系の人々」までは言及しても、「東漢人」だと断定的に書けないジレンマを示す。もちろん考古学関係者は大人なので、そのあたりは「阿吽の呼吸」で察してはいるはず。

 しかしながら、よもや「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」だとまでは、言い切れないので、それを井上主悦氏が代弁しているだろう。

 井上氏の驥尾に付して、「東漢人は楽浪・帯方漢人を祖 先とする中国系百済人」説に私は賛同する。現在の韓国史学会では、百済国に韓国民族以外の人々が混在していたと認定することは、politicalな流れに逆らうことに不可能である。しかしいずれにせよ、百済が民族的にハイブリッドであったと理解することに躊躇してはなるまい。

蛇足の余談)井上主税氏は韓国大邱にある慶北大学校で研修なさったという。大邱方言の使い手であろう、

*<백 번> 맞심더!



 

2026年5月10日日曜日

相模国に関する2,3の覚書き

冒頭でのお願いーー「相模」と「相摸」の表記に関しては、「相摸」を採用したい。しかし、我が貧弱なコンピュータリテラしーを考えると、便宜上「相模」を表記する。

1)相模の読み

  古名は「さがむ」(「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒迩 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」<記歌謡24>。「Sagamu→Sagami」への母音交代は、古代日本語では

神(Kamu > Kami    を例証としたい。

  例えば、神風:Kamu+風>Kami+風 

 最古の例とは断定できないものの、『古事記』中巻に

加牟加是能(かむかぜの) 伊勢能宇美能(いせのうみの) 意斐志爾(おひしに) 波比母登富呂布(いはひもとほる) 志多陀美能(しただみの) 伊波比母登富理(いはひもとほり) 宇知弖志夜麻牟」

などとある。

2)

上記の考察で、「さがみ」の古形は「さがむ」であったとするのが、わが仮説の出発点である。『先代旧事本紀』「国造本紀」に見る「相武国造」もその漢字表記であった。

とすれば、「さがむ」の語義を解明するためには、単語自体をどのように分析すればよいであろうか。賀茂真淵・本居宣長に始まる語源説は十分に知っているが、ここでそのおさらいをするまでもないので、割愛したい。
 そこで思い浮かぶのは、「酒匂川」である。神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は
「Sakawa川」と呼称されている。
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。先の引用からも判明するように、現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「酒匂」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかと不要なチャチャを入れる方がおいでだからである。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、「o+o」→/øː/(o の長母音)の母音へと交代する。したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さか+わ」であると理解できよう。


3)これまでの(1)と(2)の調査を通して、確認をしたかったのは、相模と酒匂の2単語に共通する

*語根 Saka

の取り出しであった。Sakaを語根に持つ語彙として

*さかひ(Saka)+ 合ひ(Afi) → Saka+Fi  →意味(区画をつける、境界を決める)

*仮説:Sakaは「境界」の意。

つまり、 東海道ルートでのヤマト王権の東国進出時に、既知の駿河国と未知の東国の境界に位置する箱根の峠をイメージすると理解する。駿河国側から見れば箱根、相模国側から見れば足柄であった。

 次に考察すべきは、相模=「さがみ」の古形「さがむ」の 「さか+Mu」の「Mu」である。

我々の目には、『日本書紀』の

*「斉明天皇紀2年「嶺、冠以周垣田身山名、此云大

が飛び込む。つまり「」である。

‐「身中化為中山祗〈中 久呂〉(神代紀上。私記乙本)

などで傍証できるように、「さか+む」が古形であると考えて間違いない。

しかしながら、肝心な「む」の意味が皆目わからない。「武蔵(Mu+さし)」との関連も伺わせるが、それも根拠のない話である。

『倭名類聚抄』高座郡の項では、

*大庭郷:於保無波+郷

と読めという。「於保=大」だとしても「無+波=Mu+場」の図式を適用できるとすれば、そのMuは何だろうか。すぐさまの反論として、「NI→Mu」の通音だという古代史家の常套句に出くわすだろうが、それが正解ではないことは、当方も反論を準備した上での「思いつき」である。

後考を俟ちたい。

追伸)信濃の「金刺(サシ)」と「武蔵(サシ)」とは無関係であろうか。







相模国「酒匂川」の「匂」に関するエッセイ

「酒匂川」

神奈川県の報告書によると、この「酒匂川」は

「Sakawa川」と呼称され、
 「静岡県御殿場 市の富士山東麓に源を発し、神奈川県小田原市を貫流し て相模湾 へ注ぐ流域面積約582km2、幹川流路延長約42kmの二級河川である。 起点から県境に至るまでの上流域(静岡県域)では鮎沢川と呼ばれ、県境を越え て中・下流域(神奈川県域)では酒匂川と呼ばれている。」(令和4年3月、1頁、sakawaseibikeikaku.pdf
という。
 この酒匂川 の「酒匂(さかわ/さこう)」は、古代から中世・近世にかけて読みが揺れ動いた地名であった。現在では「さかわ」(酒匂川=さかわがわ)が定着し、さらに神奈川県酒匂村(さかわむら)と通称されている。

 まず、酒匂を「さかわ」ではなく、現在、姓や地名で「 さこう」という読みから、我々の調査を進めていきたい。なぜなら、本来であれば、「さかわ(酒匂)」だけでよいものの、我々の考察が終わってから、いや「さこう」という形をどのように説明するのかという関連質問に備えて、その対策である。

①河野 かわの Kawa+no →Kä+No   →K/øː/+No  →こうの

②河内 かわち kawachi     →Kä+chi →K/øː/+Chi →こうち

 このふたつの平行事例から判明するように、古代語において、子音音「W」の弱化現象とともに、a の長母音化「 ä 」が発生。「ä + o 」の母音連続で、「o+o」→/øː/(o の長母音)の母音へと交代する。

したがって、酒匂にしても

③酒匂 さかわ SaKaWa  → SaKa+a →SaK+ä → Sak+/øː/(o の長母音)

へと至るという、日本語史で典型的な子音変化をたどった音韻学的変化があるので、この「さこう」形であれ、「さかわ」形であれ、古形は「さかわ」であると理解できよう。

 ここで不思議なのは、漢字「匂」を使用する漢字語構成となっていることである。木簡庫での用例を探せば、出土した木簡には、

①「川匂廣公○辟秦」(平城京、年代未詳)

②「□□□〔匂郡ヵ〕」(平城京、年代未詳)

として、奈良時代においても漢字「匂」を使用している。この漢字「匂」は果たしてどのように読まれたか万葉仮名を持たないだけに、正解に至る道はない。

正倉院文書に

鎹一用経師等曹司門戸打料

「匂(にょう)」の用例を見る。この漢字は「条・箇・本」などに近い数量語であり、細長いもの・釘類・金具類の単位の意味である。

 ここで視点を変えて、Bernhard Karlgren の中古音を紹介したい(上古音は未記載)。
中古音を反映した『広韻』系では:
  • 匂 :女救切

とあり、

  • 声母:娘母(n 系)
  • 韻:尤韻
  • 声調:去声
であり、「njuHもしくはniəuH」(Hは去声)」と再構できる。したがって、古代日本語では
*呉音「ニュウ」漢音「ユウ」
であったので、当然である。「鎹一匂 」は呉音で「にゅう」と読む。

だからと言って、これで「酒匂」は「シュ+ニュウ(もしくはユウ)」だと読んでほしいと要望できないのも、事実とは異なる。

 ところで静岡県磐田市匂坂(さぎさか)」の現存地名での「匂」を「さぎ」と読む例に関心を振り向けてもよいだろう。地名では「さぎさか、さきさか」と読むが、人名となると「こうさか」とも読むようである。この磐田の地は奈良時代には遠江国府・遠江国分寺・遠江国分尼寺が置かれ、遠江国の中心地であった。

この「サキザカ」の読みが時代をいつまで遡るのかは不明であるが、興味深いのは、「匂」を「コウ」と読む事例である。

 遠江国:「匂+坂」を「こう+坂」と読むならば、「川+坂」の意味

 相模国:「酒+匂」を「さ+こう」

と見れば、「こう」→ k+/øː/(o の長母音)→ Ka+a  → KaWa →KaFa→KaPa の音変化を予想させる。したがって、「こうさか(匂坂)」とあれば、「川+さか(坂)」の語形まで想像させるが、その確証はまったくない。磐田市匂坂は天竜川沿いにあるので、この川と意味は合うが、それは「他人の空似」であるかもしれない。

その一方で、「匂坂」を「さき+坂」と読むならば、

「さき:<しり(後・尻)の対>。前方へ突き出ている部分。先端。転じて前途、将来の意。類義語マヘは目方(まへ)で視覚的に前方の位置。

 ①(前方への)突出部

 ②前方

 ③先頭

 その他」(『岩波古語辞典』559頁)

の意味を持つ。したがって、「さき+坂」であれば、「前方の坂」の意味に解する。

とはいえ、いずれにせよ、相模国「酒匂(川)」の「酒匂」の意味は依然として不明であると言わざるを得ない。
あらためて、「さかわ(川)」の語源をさかのぼれば、かりに「さこう(川)」を出発点としても
 *Sak+/øː/(o の長母音)→ SaKa+a  → SaKaWa →SaKaFa(→SaKaPa)
までの道のりを辿りえる。
 すでに別稿で、Saka(さか)は、
 *古語「坂(酒)迎ひ」(①新任の国司が任国に入るとき、国府の役人が国境まで出迎えて
             饗応(「さかもり(酒盛り)」する儀式
            ②(「酒迎へ」ともかく)長途の旅から帰ってきた人を出迎えて饗
             応すること。」
とあるように、「境界」の意味に解しうる。つまり「境界を出入りすること」の意味である。
したがって、「酒匂」とは「さか+Fa(端)」と理解して、
*箱根の山を越えて、東国の最初の国である相模国に入国したときに、東国の「端に位置する場所」と解して、その場で「さか合ひ」の饗宴が行われた。「酒匂川」はその場を流れる河川と理解したい。だからこそ、歓迎・送迎の饗宴の場にふさわしい「酒+匂い」が漢字化されたと考えるのは、偶然であろうか。

付論)『源氏物語』に「匂宮」が登場するように、「匂(現代語は「におい」、古典語は「にほひ」)」の意味は
 「<二は丹で赤い色の土、ホは抜きんでて現れているとこと。赤く色が浮き出ている意味」(『岩波古語辞典』1014頁)
とある。つまり視覚的に美を称賛するイメージを持つ感じである「匂」が、古代に珍重されたとも想定できないだろうか。
ちなみに、相模国は関東ローム層といわれる赤土の層の上にある。

 おっと、忘れるところであったが、相模国足下郡に
*駅家郷
があった。『延喜式』に記載する「小総駅」がそれであるとしてよいだろうが、酒匂川口付近に位置したと考えて良い。『大和物語』144段「今は限りの門出なりける」は、在原業平の子が東下りをするときに、この駅家を通過している。
 我々の推測が的外れでないならば、ここ駅家で
*「さか合ひ」の歓迎・送迎の饗宴
が実施されたとみて良いのではないだろうか。



 





仮に「こう+坂」と分析できるならば、この「こう」は


<参考文献>

磐田市教育委員会文化財課 2014 『特別史跡遠江国分寺跡発掘調査概報』磐田市教育委員会文化財課 



2026年5月5日火曜日

なぜ相模国司は稀少な不動産物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか。

そもそも、なぜ相模国司は平城京内の稀少物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか?

この疑問が、本稿の問題の所在である。

 いまさら夏目漱石の『草枕』の冒頭を語るまでもなく、歴史家でも日本史学研究者などの看板を持たない門外漢だけに、学界の縛りなどとは無縁。

本稿の筆者は自由に想像の翼を広げたい。

 ところで売却後、その「調邸」は平城京内のどこへ移転したのだろうか。遠く相模国から上京した人々(「運脚」)が重い荷を下ろし、休息もしたはずの半公的空間は必ず必要であったはずだが、記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動向などは無関心であろう。

 ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすい。相模国司が緊急に必要となった資金計画とは、何だったのか。あるいは資金難に陥った事業計画であったかもしれないからである。それは何か?

 仮説:天平年間(729–749)における相模国の寺院建設として、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立政策(天平13年=741年詔)の代表的寺院が相模国分寺・相模国分尼寺であったので、第1に想定されるのは建設費への補填であり、第2に相模国分寺・相模国分尼寺建設に従事した工人たちへの給与支払い(奈良大仏建立に従事した工人<作業員>らへの貨幣支払いに充てたとも想定される。

 さて、相模国における天平年間と寺院建設 は次のように整理できよう。

1. 国家政策としての寺院建設(天平13年・741年)

  • 聖武天皇による国家鎮護政策の指示は国家プロジェクト「金光明四天王護国之寺」として全国に建立された国分寺・国分尼寺

  • この詔に基づき、相模国司は国分寺・国分尼寺を海老名台地での建設計画に着手

2.  天平期の巨大伽藍

相模国分寺(海老名市国分南一丁目19)の概略
  • 創建:天平年間(724–749)、もしくは750~760年代(国平健三説、天平勝宝・天平商宝治年間。藤原仲麻呂政権下。752年に東大寺大仏の開眼供養)、さらには弘仁10年(819)の火災以降:前場幸司説など)。

  • 伽藍配置は全国でも珍しい法隆寺伽藍式(塔=西、金堂=東、講堂=北)か。

  • 寺域は東西240m × 南北300mの大規模。

  • 七重塔の基壇は約20m、高さは推定65m

の東国でも最大級の寺院であった。しかもツインとして相模国分尼寺(国分寺跡の北に隣接)建設にも着手せざるを得なかった。しかしながら、この二つの寺院が同時並行に建設されたとは想像しがたいのは、

  • 国分寺よりやや遅れて8世紀後半(天平後期)に整備されたと推測

3. 相模国の特殊性:国府と離れた国分寺

  • 多くの国分寺は国府近くに置かれたが、相模国では国府(平塚市四之宮説が有力)と国分寺が離れている

4, 関東における巨大寺院の成立

  • 七重塔65mは、奈良の主要寺院に匹敵する規模。

  • 相模国の政治的地位以上に、宗教的・象徴的な重視があったと考えられる。

5, 地域開発と寺院建設

  • 海老名台地・丘陵の富士系テフラの上に作られた遺跡は相模川流域の交通・物流の要衝。

  • 寺院建設は海老名地域の開発・富の集積を促進した

  • 海老名台地に巨大伽藍が建設され、関東屈指の宗教拠点となった。


まとめ

当然ながら、この仮説を傍証する資料はない。あくまでも憶測にすぎない。しかしながら、本稿の筆者にとって、論のない論文、仮説のない論文などはあまり価値を認めない。
義務教育もろくに勉強することもなかっただけに、あてずっぽうで、見当違いな文章となっているに違いない。しかし、あれだこれだと考え抜いて、さらに資料を博捜したうえで、たとえ奇妙奇天烈な仮説であろうとも、一歩、先に論を進め、ズバリ歴史の本質に迫りたいと考えている。



岩永省三氏の力編「文武大嘗宮論のための予備的検討 」の一読を推奨する!!

岩永省三氏の力編を一読した。

 岩永省三著「文武大嘗宮論のための予備的検討 」『九州大学総合研究博物館研究報告』第22号、第22号、 2025, pp.81-115 


考古学者として著名な岩永氏であるので、発掘調査記録であると思い込んで読み進めていたところ、豈図らん、それは考古学者による日本古代文献史学への挑戦的なアプローチであった。
どうやら岩永氏の心の中に長年くすぶり続けたモヤモヤ、つまり
 「安閑から文武に至る歴代大王墓に ついて,造営場所,改葬・追葬の有無などの基礎的情 
 報 を整理し,それらの背に,王統の確認・正統化・強化 などの政治的意図があること」
の未確認があったので、それを問題の所在としてスタートさせ、最終目的を
 「藤原宮朝堂院における文武大嘗宮の位置を,既調査地の 検出遺構の詳細な検討によって推  
 定し,その背後にある 持統の皇統観を描き出すことにしたい」
と定めておいでのようである。
 そのキッカケは、本来「大嘗祭で用いられ,儀 式の終了と共に撤去された仮設の建物群」であるだけに、大嘗宮儀礼執行の場とその形成・整備過程など天皇即位儀礼遺構 に見出せるはずもなく、またその変遷も考古学的な調査発掘をしても「物証を持って把握できる」に至らないはずである。しかしながら、岩永氏はその「稀有な例」に遭遇し、発掘調査報告書は執筆できるとしても、その次のステージ、遺構が語る「意味・評価」などに言及できなかった悔しさが残ったようである。それは「奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが 」の接続助詞「~が」に集約されるだろう。
 岩永氏の試みを全面的に支持したい。とりわけ大嘗祭といえば、天皇制の本質に迫る儀礼と考えられてきたので、考古学者は敬して遠ざけてきた問題であっただろう。
 それだけに、岩永氏ご自身が各代の大嘗宮の発掘に携わってきたせいか、
 「平城宮で元正・聖武・淳仁・ 称徳・光仁・桓武の5天皇の即位に伴う大嘗宮が発見さ  れ,奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが (岩永2006a・2006b・2010))」
という点に見て取れる。
岩永氏の分析視点は、
 「即位する天皇の王統上の位置づけ と天皇位継承の正当性が表現されていると考えている」
として明瞭である。
 ただし、この視点は別に斬新ではないが、それまで文献史学や皇族史学、民俗学などの研究によって積み上げられてきた幾多の成果を、考古学的な観点から再検討することに意義がある。その試みは「文武即位に先立つ7世紀の大王家の王統の形成過 程を辿り,文武の即位を強行した持統の皇位継承構想と 皇統観,文武即位の歴史的評価」に直結する手続き上、不可欠であると論文の冒頭で宣言する。
 だからこそ岩永氏の最初の的は、折口信夫らの「大嘗祭論」への反論・破壊であった。それ以後の行論にしても、折口流派の方々、例えば岡田精細司氏らへの追及の手をゆるめない。その詳細は本文一読にゆだねたいが、行間からうかがうに、岩永氏が親和性を持つのは
*大津透氏と倉本一宏氏の問題関心
であったようだ。だからこそ、岩永氏の論述は、考古学者として「異例」にも、
 「26 焼失した飛鳥板葺宮跡地に後飛鳥岡本宮を造営した.その 東方の丘陵には石垣を巡  
 らせた特殊な施設を築き,飛鳥寺の 北西側には漏刻(水落遺跡)や饗宴・儀礼のための大
 規模な 施設(石神遺跡)を設けた.須弥山を象った石像を用いて仏 教行事や夷狄の服属儀
 礼・饗宴を行うなど,王権の神聖化を 図った.この時期には蝦夷居住域への侵攻を日本海
 沿いと太 平洋沿いの双方で進め蝦夷に朝貢させることで,異民族を支 配する「帝国」の体
 裁を整えようとした.」
とまで、彼の思考は発展する。

 さて、岩永氏の既発表の論文、

 ①岩永省三2006a「大嘗宮移動論―幻想の議政官合議制―」『 九 州大学総合研究博物館研
  究報告』
 ② 岩永省三2006b「大嘗宮の付属施設」『喜谷美宣先生古希記念論 集』 
 ③ 岩永省三2010「大嘗宮移動論補説」『坪井清足先生卒寿記念論文 集』下巻
などを知るだけに、「ネタ晴らし」をするのは我が意ではないので、このあたりで擱筆すべきかもしれない。
 それにしても奈良文化財研究所や九州大学などの宮仕えの労を多謝しつつ、それまで考古学者の「職業病」である「遺物が語らないことは、沈黙する」ことの心理的臨界から解放されて、「遺物・遺跡と年代決定」の最強兵器を自由自在に駆使して、古代史学の面目を一新する論考を陸続と発表していただきたい。
 その期待は大きい。

 

 
 

2026年5月2日土曜日

相模国の平城京「調邸」の不動産売買価格「銭60貫文」は高いか、安いか?

 (1)相模国調邸「壱町」の面積

 この土地売買証明書にある物件「調邸壹町在左京八条三坊」は、平城京東市場に隣接する超1級の商業・物流ビジネス地域である。そして、「東西市庄解」(天平勝宝八年<756>)に見るとおり、この敷地の東側に幅2丈の堀河(東市用運搬路の廃絶期は9世紀前半か)が南北に通っていた水運にも恵まれていた。多くの東市バイヤー(東市内で 店舗を開業した経営者<市司 に登録済みの「市人」あるいは「市籍人」、。延喜式に依拠すると、平安京の東市に 51、 西市に33の肆<業種別店舗>)にとって、垂涎の的であったに違いない。

条坊制における 1町(1町=1×1町区画)

 1町 = 60丈 × 60丈、1丈 ≒ 1.818m(大尺)の正方形の区画であるので、

 60×1.818=109.08

 109.08 m×109.08 m11,900m2= 約1.19ヘクタール(0.0119 km²)

である。これを現代の坪数に換算するならば、

ヘクタール=10,000㎡

1坪=約3.3058㎡

1.19 ha=11,900 ㎡

11,900㎡÷3.3058坪=約3600坪


(2)相模調邸の復元予想

奈良国立文化財研究所編『平城京左京八条三坊発掘調査概報ーー東市周辺東北地域の調査』奈良県、昭和51年 3月 、 真 陽 社』によると、この想定される土地(1町=約109m四方)には、外郭構造として

①周囲を築地・板塀などで囲う区画施設

東または南側に正門を設ける配置

であった。その区画の内部には、主要な機能として、調の保管と相模国人の宿泊施設、調の売買などを予想するので、

 「入口近くに丼戸と雑舎があり、奥に主屋と二、三棟の付属屋がある程度で、堀河寄りの未 発掘地を加えて勘案しても、せいぜい4~ 5棟の建物に限られるようである。建物規模は、同様な傾向をもつ十坪、十六坪の例を加えて集計すると、桁行柱間数では2間が14棟、 3間が46棟、 4~ 6間が15棟となって、 3間以下が8割以上を占め、廂付き建物は4棟に限られる。柱 間寸法は4~10尺であるが、そのほとんどが桁行7尺、梁行6尺で、かつ完数値をとらない不揃いなものが多い。」(同報告書、46頁)

③倉庫群(棟数:複数棟)

④一時的滞在用宿泊棟

⑤事務・管理棟:

  • 国司・郡司・調物担当者の執務用建物

に相当する建物群であっただろう。

⑥動線・出入口:

  • 市・道路側(東市西辺)に向けた荷の出し入れ動線

  • 内部は倉庫列の前面に広い前庭(荷置き場)


(3)換算方式

天平勝寳8歳2月6日(西暦 756年)時の1貫文をいかに現代に換算するか?

本稿での計算方法は、独自に 「1貫文=銅銭1000枚=米2石前後が買える額」 とみなし、米価を基準に換算。

  • 米1石 ≒ 150kg

  • 令和7年の米10kg は時価4,000円と規定 → 150kg = 60,000円 → 2石 = 120,000円


この計算から、 1貫文 ≒ 約12万円

 (4)「六十貫文」の換算

「左京八条三坊者 得價銭六拾貫文」

六十貫文 を、上記の方式で計算するならば、

 1貫文 ≒ 12万円 と仮定

  • 60貫文 = 60 × 12万円 = 約720万円

 今回の史料では、東市に隣接する左京八条三坊約3600坪が居抜きで、得価銭六十貫文で売買されたとする記録である。

つまり 平城京の市街地、それも東市に隣接する稀少価値のある商業地域での土地売買 記録である。

平城京の標準的な土地価格は、それを裏付ける詳細な不動産価格データもないものの、

  • 3600坪÷60貫= 1貫あたり60坪(=約198㎡)

となる。

 さらに言えば、相模国調邸(1町=3600坪)が60貫文で売買されたということは、

  • 坪単価:1坪=約0.016貫(=16文)<計算式は1貫=1000文、1坪=16文>

となる。天平勝宝8年段階で、1坪=16文が現代の不動産価格で高いのか、安いのかの判断は皆様にゆだねる。

なお、奈良時代の不動産常識では

  • 町=60丈 × 60丈

  • 1段=360歩(=60×6)

  • 1里=60町

  • 租税の基準:反別計算も60進的な構造

であるので、「60」は土地制度の基本単位であった。

それゆえに、相模国司と東大寺の不動産売買は1貫=60坪」 と算定したらしい。

 この相場感に即していえば、売買価格60貫文は東市に隣接する稀少物件であったので、東大寺にとっては投資物件としてはねらい目の物件であったに違いない。なぜならば、全国に東大寺の班田、つまり班田収授の法の枠外にある「寺田」であり、国家的寺院である東大寺の維持・造営のために恒常的に付与された不輸租田の数は、確かに民部省に保管されていたはずだが、現存しないので、不明。しかしながら、現存する30数点の荘園図の分布から、 大和国・山城国・河内国・摂津国・播磨国・備前国・周防国などに寺領があったと判明するので、全国各地の東大寺「寺田」から平城京東市に搬入される多様な物品と大量な物量に、東大寺はその保管場所を必要としていたに違いない。

寺田は単なる農地ではなく、東大寺という国家的大寺院を支える「全国的な供給ネットワーク」の基盤

すべてが

 


 だから若干割高でも買い求める東大寺側の買い急ぐ理由があったか、あるいは地主の相模国司が売り急いだために取引相場よりも若干安い価格帯であったかは、いずれとも決しがたい。

(5)銭60貫の価値を知るための比較材料(物価調査)

<資料①>平宝字4年6月15日付土師男成銭用文(『大日本古文書』14ノ348~349)

合銭五十貫□(文) 用十貫五百四十五文   七十文       充自泉津運比蘇木雇車両賃        八百五十文     充運氷駄十五匹功   四十六文      充買堝三十六口并運人功   三十文       充買紙三十張直   五貫五十五文    充雑物直東市付価長志貴得万呂   百五十文      充布乃理十斤直   四十文       充前薦十枚直   四貫二百十六文   充買雑物直西市付小豆公万呂   三十八文      充買氷直   五十文       充自 市運銭雇人功

残 三十九貫四百五十五文 三貫七百五十文未 進 自主水司 見三十五貫七百五文

天平宝字四年六月十五日 土師男成

一、前件銭借収司家     大史生上毛野牛養

一、 「以六月十九日、依 牒、充三綱所銭二十九貫九百六十文    知判官下曰佐      出倉人 調付                              上毛野広長

一、銭五貫七百四十五文    付史生三尾張隅足」

 この資料は天平宝字4年【760】6月15日付け、土師男成が支払明細書であり、またその残金証明書である。ただし、彼の手元には、

+35貫705文

であったが、そのうちで東大寺三綱所に29貫960文を渡し、そして史生三尾張隅足に残りの5貫745文を渡したという証文である。

 前後の文脈から考えて、この造東大寺司の役人である土師男成が50貫を持って、東市司の価長(「東市付価長志貴得万呂」)と西市司の価長(「西市付小豆公万呂」)との間で物品の値段交渉を行ったと理解できよう。

 なお、土師男成が50貫をもって、平城京の東西市を駆けずり回った理由は、天平宝字4年6月7日に崩御した光明皇太后葬儀にかかわるショッピングあったに違いない。

<資料②>

他の造営事業の ために、全国から多くの工人・役夫が集められていた。天平六年(七三 四)五月一日付「造仏所作物帳」では、技術者の石工で一日一三文、石 を運ぶ運丁で一〇文(ともに一ノ五五七)、薪や楉(しもと、細長く伸び た若い木の枝)を採り、あるいは市から購入した物資を運ぶ雇人で三~ 五文の功賃を得ており(七ノ三六)、食料は別に支給されて



 しかしながら、本稿の筆者にとっての大きな疑問は、なぜ相模国司は稀少な物件を売らざるを得なかったのだろうか。そして売却後、その機能は平城京内のどこへ移転したのだろうか。後者に関しては全く記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動静などは無関心であろう。

 ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすいが、それは別稿にて紹介したい。


<参考論文>

 市川理恵「平城京東西市における市司と市人」




2026年4月28日火曜日

調布の価格は?

 まず、『続日本紀』にある

《天平8年(736)5月辛卯【12】》辛卯。諸国調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺。闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依旧貢之。」

の記事に注目したい。このルールは全国に普及しいたらしく、

『周防国正税帳』(天平10年)には、

「布弐丈捌(28)尺価稲弐拾(20)束(以1束、充1尺4寸)」(『大日本古文書』2-240頁)

とある。

とある。これによって、全国的に統一した基準で徴収されていたとしてよい。したがって、

「調布1端は稲20束」

であると判明する。


2026年4月27日月曜日

周防国周防郡の「殷富」(長者)であった凡直氏

『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。

凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に

宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」

とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kgに該当する。

この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に

天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」

とあり、同じ『続日本紀』に

《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」

とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。

さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。

ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、

0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4

したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。

ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に

「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』 天平六年(734)周防国正税帳 文書第247号 コマ420–423(NDLデジタルコレクション)

とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。

ところで、奈良時代の塩生産方式は

製塩の技術体系(奈良時代)

  • 藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)

  • 塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)

  • 竈での煎熬

でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。

 要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、

  • 周防国最大の製塩地帯を管理し、

  • 海産物の集積地を形成し、

  • 国衙(周防国府)の所在地に位置し

国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。

 なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。





同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、

都濃郡:糒430

吉敷郡:糒1733

熊毛郡:糒35994升



2026年4月22日水曜日

設問)鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は誰か?

 設問)横瀬古墳の埋葬者は誰か?


本稿の目的は、鹿児島県大崎町の横瀬古墳(および隣接する神領古墳群)の埋葬者が、「隼人」のものか「和人(ヤマト王権側の人々)」なのものかという問いの解明にある。これにより南九州の古代史において、隼人勢力圏内への大和政権の影響力の浸透の手がかりの一助としたいからである。

結論から言えば、現在の考古学的な見解では「ヤマト王権文化(和人のスタイル)を強く受けて作られたが、その作り手や背景には隼人文化要素も混じり合っている」と考えるのが自然だと思っている。

論点を整理すると以下のとおりである。

1. 形式は「ヤマト(和人)」のスタイル

盾持埴輪という文化そのものは、近畿地方(ヤマト王権の中心地)で発生し、全国へ広まったものだと考える。

• 横瀬古墳の重要性: 横瀬古墳は全長140メートルに及ぶ、当時としては南九州最大級の前方後円墳です。前方後円墳という形自体がヤマト王権との強い繋がりを示す「政治的シンボル」である。

• 技術: 盾持埴輪の造形や配置の仕方は、近畿地方の作法に準じている。つまり、ソフト(思想)やデザインの源流は「和人」側にある。

2. 「隼人」的な要素と地域性

一方で、南九州は古くから「隼人」と呼ばれる人々が固有の文化(地下式横穴墓など)を持っていた地域です。

• 顔の表現: 大崎町の盾持埴輪は、近畿地方のものに比べると、大隅独特の「入れ墨」のような文様が顔に施されているようにも見える。

• 在地での製作: 埴輪に使われている粘土の分析などから、これらは近畿から運ばれてきたのではなく、大崎町の周辺で作られたことが判明した。在地の埴輪職人(?)がヤマトの技術を導入しつつ、自分たち独自の感性で作ったとみても不思議ではない。


結論として

この盾持埴輪は、「和人の文化を受け入れた、あるいはヤマト王権と深く結びついた現地の隼人系政治的指導者(隼人のリーダー層)」を守るために作られたもの、と捉えるのが最も自然だろう。

「隼人か和人か」という二者択一というよりは、「ヤマトの政治制度の中に組み込まれていった、南九州独自の隼人武人像」が描かれていると言えないだろうか。