2023年9月21日木曜日

太宰帥の謎ーその3

 太宰帥の職は左遷か。

なるほど菅原道真は左遷された。宇多天皇醍醐天皇に重用されて、右大臣にまで上り詰めた道真であったが、左大臣藤原時平讒言によって太宰帥の職へと左遷される。道真が大宰府に向かう前、京都を出立するときに歌ったに違いない。

『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ』

は高校古典教科書で学ぶだけに、その左遷時の和歌として学生の脳裏に刻まれ、間違いなく悲劇の主人公の歌として喧伝されがちである。だからこそ、太宰帥の職は左遷されたものに用意されたものだというイメージが定着したにちがいない。
 いま、ここで道真神話を再論するつもりはない。
 いや、左遷者の職でもあったにせよ、そうでない場合も想定すべきだと説きたい。

2023年9月17日日曜日

太宰帥宅の資人

 太宰帥に、どのような使用人がいたか。

偶然に止目した『古文書』5-464には、

*知宅事 大師家職 分資人 高来造 廣人

の名が残されている。「資人」は「しじん」もしくは「とねり」と読む。

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2023年9月16日土曜日

大宰府と白鑞

 《霊亀二年(七一六)五月丙申【廿一】》○丙申。勅。大宰府佰姓家有蔵白鑞。先加禁断。然不遵奉。隠蔵売買。是以。鋳銭悪党。多肆姦詐。連及之徒。陥罪不少。宜厳加禁制。無更使然。若有白鑞。捜求納於官司。

浮き沈みの激しかった吉備真備ーー右肩上がりの昇進と雌伏

【蓋棺事定】((杜甫 君不見、簡蘇徯、「丈夫蓋棺事始定」)とも「死して評価が定まる」という言葉がある。

吉備真備の生涯も波瀾万丈であった。浮き沈みの激しい人生の典型と言っても良いだろう、当事者にとって、橘諸兄との協調体制の下での栄華、藤原仲麻呂によって疎まれ筑前守に左遷され、大宰少弐、続いて大宰大弐在任期はいかなる心境であっただろうか。ともすると落魄の思いであっただろうか。

彼の薨伝は次の通りである。『続日本紀』には、

 《宝亀六年(七七五)十月壬戌【二】》○壬戌。前右大臣正二位勲二等吉備朝臣真備薨。右衛士少尉下道朝臣国勝之子也。

霊亀二年。年廿二。従使入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而巳。

天平七年帰朝。授正六位下。拝大学助。高野天皇師之。受礼記及漢書。恩寵甚渥。賜姓吉備朝臣。累遷。

七歳中。至従四位上右京大夫兼右衛士督。

十一年。式部少輔従五位下藤原朝臣広嗣。与玄昉法師有隙。出為大宰少弐。到任即起兵反。以討玄昉及真備為名。雖兵敗伏誅。逆魂未息。

勝宝二年左降筑前守。俄遷肥前守。

勝宝四年為入唐副使。廻日授正四位下。拝大宰大弐。建議創作筑前国怡土城。

宝字七年。功夫略畢。遷造東大寺長官。

八年仲満謀反。大臣計其必走。分兵遮之。指麾部分甚有籌略。賊遂陥謀中。旬日悉平。以功授従三位勲二等。為参議中衛大将。

神護二年。任中納言。俄転大納言。拝右大臣。授従二位。先是。大学釈奠。其儀未備。大臣依稽礼典。器物始修。礼容可観。又大蔵省双倉被焼。大臣私更営構。于今存焉。

宝亀元年。上啓致仕。優詔不許。唯罷中衛大将。

二年累抗啓乞骸骨。許之。薨時年八十三。遣使弔賻之。」


吉備真備の父は、右衛士少尉という下級武官の下道朝臣国勝である。下道朝臣国勝は吉備地方の国造家に誕生した。天武天皇13年に、八色の姓の成立によって「朝臣」を与えられたのも、『新撰姓氏録』左京皇別に吉備氏が属しているように、下道朝臣国勝は吉備に在住していたのではなく、都の下級官人であったからである。

<以下は、金石文拓本史料データベース【検索結果詳細画面】 (u-tokyo.ac.jp)

架番号】拓本237
【史料名】楊貴氏墓誌銘(コロタイプ版)
【外題】
【年紀】天平11年8月12日
【原蔵者】
【原所在地】
【原所在地の現地名】
【銘文の面/個所】
【採択者】内藤湖南氏より送付
【指定】
【装丁】裏打 未表装
【装丁の法量】31.9*35.8
【拓本の法量】31.9*35.8
【採択の法量】20.5*27.4
【参考文献】竹内理三編『寧楽遺文 下巻』(東京堂出版、1962年)969頁

【銘文】従五位下守右衛
土督兼行中宮亮
下道朝臣真備
亡妣楊貴氏之墓
天平十一年八月十
二日記
歳次己夘

【備考】陰刻

***************


この銘文は享保13年(1728)に大和国宇智郡大沢村で発見された墓誌である。すでに岸俊男氏の指摘によって、吉備真備の「亡妣楊貴氏」は大和国宇智郡在住の八木氏一族の出身者であると推定されている。これは正解に近いだろう。とすれば、畿内に居住する下道朝臣国勝が大和国の八木氏との婚姻関係を結んでいることからしても、吉備に本貫を持つとしても、吉備真備は畿内で誕生したに違いない。

なお、下道から吉備への改名は、『続日本紀』に

*「《天平20年(748)11月己丑【丁卯朔23】》○十一月己丑。下道朝臣乙吉備。真事。広三人。並賜吉備朝臣姓」

参照のこと、

さて、22歳になった吉備真備は霊亀2年(716)に遣唐使の一員に加わることとなった。『続日本紀』には

《霊亀二年(七一六)八月癸亥【二十】》○癸亥 ~ 是日。以従四位下多治比真人県守為遣唐押使。従五位上阿倍朝臣安麻呂為大使。正六位下藤原朝臣馬養為副使。大判官一人。少判官二人。大録事二人。少録事二人。

とあるが、上記の薨伝には

霊亀二年。年廿二。従使入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸。我朝学生播名唐国者。唯大臣及朝衡二人而巳

とある。吉備真備の唐国滞在は、下記によって、天平7年(735)であったので、彼の留学は19年間に及んだ。この留学経験、学識、当時にあって最先端の学問を学び、そして天皇に重用されて、異例なほどに出世する。


《天平7年(735)4月辛亥【26】》○辛亥。入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

ところが天平勝宝2年(750)に至って、吉備真備は筑前守に「左降」される。橘諸兄に庇護されたとの対照的に、その次の政権を握った藤原仲麻呂に疎まれたと想定してよい。

《天平勝宝2年(750)正月己亥【10】》○己亥。左降従四位上吉備朝臣真備為筑前守。

しかしながら、その一方で遣唐使の派遣が計画され、『続日本紀』に

*「《天平勝宝2年(750)9月己酉【24】》○己酉。任遣唐使。以従四位下藤原朝臣清河為大使。従五位下大伴宿禰古麻呂為副使。判官・主典、各四人

とある。

ところが吉備真備が筑前守在任中に、遣唐副使に追加任命された。

《天平勝宝3年(751)11月丙戌【庚辰朔7】》○十一月丙戌。以従四位上吉備朝臣真備為入唐副使。

しかしながら、大使の藤原朝臣清河は従四位下であり、従四位上である吉備真備よりも位階が下である。加えて副使の大伴宿祢古麻呂にしても従五位下であり、副使の位階は一致しない。

ところが藤原仲麻呂政権では、これは不協和音を起こしかねないとして、

*「《天平勝宝4年(752)閏3月丙辰【戊申朔9】》○閏三月丙辰。召遣唐使副使已上於内裏。詔、給節刀。仍授大使従四位上藤原朝臣清河正四位下。副使従五位上大伴宿禰古麻呂従四位上。留学生無位藤原朝臣刷雄従五位下。」

に遣唐使一行の位階の調整を行った。すなわち正使藤原朝臣清河は2階級、副使大伴宿祢古麻呂は4階級も昇進させた。藤原北家藤原房前の子である清河はともかくとしても、大伴宿祢古麻呂は大抜擢であった。

 今、ここで大伴宿祢古麻呂の長安における席次問題は後日触れるとしても、吉備真備の登用は彼の中国語堪能さと前回の遣唐使で19年間に達する中国生活を過ごした中国通であったただけに、藤原北家のエリートである清河の指南役であっただろう。

そして吉備真備の帰国は、『続日本紀』にあるように、

《天平勝宝6年(754)正月癸丑【17】》○癸丑。大宰府奏。入唐副使従四位上吉備朝臣真備船。以去年十二月七日。来着益久嶋。自是之後。自益久嶋進発。漂蕩着紀伊国牟漏埼。

であった。しかしながら吉備真備の運はなく、

《天平勝宝6年(754)4月庚午【丙寅朔5】》○夏四月庚午。以従五位上中臣朝臣清麻呂為神祇大副。従五位下秋篠王。粟田朝臣人成並為少納言。従四位上大伴宿禰古麻呂為左大弁。従五位下石川朝臣豊成為右少弁。外従五位下日置造真卯為紫微中台少忠。従五位下当麻真人子老為雅楽頭。従五位上石川朝臣名人為民部大輔。従五位下石川朝臣豊人為主税頭。従五位上大伴宿禰家持為兵部少輔。従四位上紀朝臣飯麻呂為大蔵卿。正五位下中臣朝臣益人為造宮少輔。従五位下藤原朝臣武良志為左京亮。外従五位下文忌寸上麻呂為右京亮。従三位文室真人珍努為摂津大夫。従五位下百済王理伯為亮。従五位下多治比真人土作為尾張守。正五位下大伴宿禰稲君為上総守。従四位上吉備朝臣真備為大宰大弐。従五位下小野朝臣田守為少弐。外従五位下黄文連水分為肥前守。

とあり、遣唐使として帰国後においても、都で活躍する職位を与えられることもなく、大宰大弐を拝命することとなった。

その任が解かれるのは、

《天平宝字8年(764)正月己未【21】》○己未。以正五位下山村王為少納言。従五位下阿倍朝臣子路為左少弁。内蔵助外従五位下高丘連比良麻呂為兼大外記。外従五位下麻田連金生為左大史。従五位下大伴宿禰潔足為礼部少輔。正五位下紀朝臣伊保為仁部大輔。従五位上多治比真人木人為主計頭。外従五位下葛井連立足為助。従五位下甘南備真人伊香為主税頭。外従五位下船連男楫為助。従五位下路真人鷹甘為兵馬正。従五位下小治田朝臣水内為大炊頭。正五位下久世王為木工頭。従五位下穂積朝臣小東人為助。従五位下掃守王為典薬頭。従五位下粟田朝臣黒麻呂為左京亮。外従五位下蜜奚野為西市正。正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。正五位下百済朝臣足人為授刀佐。従四位下仲真人石伴為左勇士率。従五位下大原真人宿奈麻呂為左虎賁翼。従五位下藤原恵美朝臣薩雄為右虎賁率。正五位上日下部宿禰子麻呂為山背守。従五位下大伴宿禰伯麻呂為伊豆守。従五位上粟田朝臣人成為相摸守。従五位上上毛野公広浜為近江介。従五位下藤原恵美朝臣執棹為美濃守。外従五位下池原公禾守為介。従五位下藤原朝臣継縄為信濃守。従五位下田口朝臣大万戸為上野介。従五位下上毛野朝臣馬長為出羽介。従五位下藤原恵美朝臣辛加知為越前守。外従五位下村国連虫麻呂為介。従五位上高円朝臣広世為播磨守。従五位下藤原朝臣蔵下麻呂為備前守。外従五位下葛井連根主為備中介。従四位下上道朝臣正道為備後守。従五位下石川朝臣氏人為周防守。従五位下小野朝臣小贄為紀伊守。従四位上佐伯宿禰毛人為大宰大弐。従五位上石上朝臣宅嗣為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂為豊前守。従五位上大伴宿禰家持為薩摩守。」


までの足掛け9年に及んだ。この間の上司である大宰帥は
①石川朝臣年足 天平勝宝5年(753)9月28日~天平勝宝9載6月16日
②三品 船王  天平勝宝9載(757)7月4日~天平宝字4年1月4日
③藤原朝臣真楯 天平宝字4年1(760)月4日~天平宝字6年12月1日
④藤原恵美真光 天平宝字6年(762)12月1日~天平宝字8年(764)9月18日
の4名であった。

その間の消息を知る一つとして、

*《天平勝宝8歳(758)6月甲辰【22】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。

だけは特記しておいても良いだろう。

<参考>

怡土城に関しては、下記の糸島市役所のHPを参照のこと。

怡土城跡(いとじょうあと) - 糸島市 (itoshima.lg.jp)

そして

「怡土城」築城における人間模様ー藤原仲麻呂と吉備真備・佐伯今毛人糸島市立伊都国歴史博物館 2022 『糸島市立伊都国歴史博物館紀要17』糸島市立伊都国歴史博物館 、2022年刊



もし加えるとすれば、

*『道璿和上伝纂』

の執筆も紹介しておきたい。それは道璿の

*「孫弟子にあたる最澄が『内證佛法相承血脈譜』において引用する吉備真備撰『道璿和上伝纂』の次の文章である。

 正四位下大宰府大弐吉備朝臣真備纂云、大唐道璿和上、天平八載、至自大唐~(下略)」

(息吹敦「日本の古文献から見た中国初期禅宗」『東洋思想文化』2号、39頁、2015年より再引用)

さらに、吉備真備が兵法に優れていたことは、『続日本紀』の

*「《天平宝字4年(760)11月丙申【10】》○丙申。遣授刀舍人春日部三関。中衛舍人土師宿禰関成等六人於大宰府。就大弐吉備朝臣真備。令習諸葛亮八陣。孫子九地及結営向背。

に見る通りである。吉備真備が都から大宰府に派遣された6名に対して諸葛孔明の「八陣図」や孫子の「九地篇」や「結営向背(行軍篇)」を教授したとある。

なお、これまであまり注目されてこなかった記事であるが、

*「《天平宝字6年(762)4月辛未【22】》○辛未。始置大宰弩師。」

にしても、吉備真備の関与があったと予想して何ら不自然さはない。

さて、「人間万事塞翁が馬」。都では、藤原仲麻呂(恵美押勝)に対抗する勢力となった道鏡が台頭してきた。『続日本紀』では、

《宝亀3年(772)4月丁巳【7】》○丁巳。下野国言。造薬師寺別当道鏡死。道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禅行聞。由是入内道場列為禅師。宝字五年。従幸保良。時侍看病稍被寵幸。廃帝常以為言。与天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。宝字八年大師恵美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡為太政大臣禅師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飲食一擬供御。政之巨細莫不取決。其弟浄人。自布衣。八年中至従二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐称八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀~(下略)」

とあるように、道鏡は孝謙太上天皇の信任を得る。これを契機にして道鏡は藤原仲麻呂の専権と対立することとなる。少僧都慈訓法師は藤原仲麻呂派であったので、『続日本紀』に

*「《天平宝字7年(763)9月癸卯【4】》○癸卯。遣使於山階寺。宣詔曰。少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪為綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師為少僧都。

自然な流れで、藤原仲麻呂によって平城京から左降された吉備真備はシーソーのような形で職位が上昇した。「雌伏9年」の時を経て、ついに京都に帰ることとなった。それも造東大寺長官であった。

*「《天平宝字8年(764)正月己未【21】》○己未。~中略~正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。」


吉備真備の前任は葛井連根道であったが、天平宝字7年(763)12月に解任された。長官真備の下の次官には国中連公麻呂を置き、官には主典であった正六位上の美(弥)努連奥麻呂を据え(『古文書』5-382、画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp))、そして正六位上の佐伯宿祢真守(佐伯宿祢今毛人の兄、『古文書』16-433、437など画像表示 - SHIPS Image Viewer (u-tokyo.ac.jp) ri、なお彼の名は「麻毛利 Mamo」と読んだらしい。『平安遺文』1-242)、そして主典に土師宿祢名道などを配置した。

真備の造東大寺長官在任は宝亀元年(770)10月までであった。

吉備真備がなぜ造東大寺長官に任じられたのかが興味深いが、造東大寺司に関する考察は別な機会に譲りたい。

この天平宝字8年9月に、いわゆる「恵美押勝の乱」が勃発して、その乱平定の立役者であった吉備真備は参議・中納言・大納言・右大臣へと駆け上がることになった。これからの栄達は割愛する。

まさに「七転び八起き」の人生であった。




2023年9月14日木曜日

太宰帥の7つの謎ーその2(藤原朝臣乙麻呂の5段階昇進、正五位上大宰少弐から従三位太宰帥へ)

 藤原朝臣乙麻呂は、天平勝宝2年10月1日(750年11月4日)太宰帥任

さて、乙麻呂は 藤原武智麻呂の3男。妻は橘諸兄の弟・橘佐為の4女・真都我(『尊卑分脈』)

*『続日本紀』《天平勝宝2年(750)3月庚子【12】》○庚子。~藤朝臣乙麻呂並為大宰少弐。」

⇒太宰帥は京に在住。大弐は欠員。大宰府の実質的な責任者は藤朝臣乙麻呂であった。

*『続日本紀』
「詔、授正五位上藤原朝臣乙麻呂従三位。任大宰帥。以八幡大神教也。」


⇒天平勝宝2年に乙麻呂は5階も昇進した上に、「太宰少弐から大宰帥」へ栄転。

それは宇佐八幡宮の神託であった(「教」)と考えたい。


なお、藤原朝臣蔵下麻呂の場合、天平宝字8年に従五位下から一気に従三位へ8階級昇進した。これは藤原朝臣仲麻呂軍との戦闘に勝利した軍功であったが、この昇叙の速さは目を引く。


ちなみに、上には上がいる。天平宝字8年9月に藤原朝臣仲麻呂の乱が終焉すると、実兄の道鏡が政治の中枢に進出するとともに、「親の七光」ならぬの兄の恩恵で弟弟の浄人は従八位上から15階級も昇進して、従四位下に任じられた。

昇叙階数

弓削御清朝臣浄人:15

石村村主石楯:14

牝鹿連嶋足:11

池田朝臣真枚:11

大津連大浦:10

中臣伊勢連老人:8

藤原朝臣蔵下麻呂:8

佐伯宿祢家継:8

紀朝臣船守:8

など



다자이후에 가면 大宰府に行ったらーー梅が枝餅の「かさの屋」

 大宰府に行ったら立ち寄りたいのが、梅が枝餅の「かさの屋」。

もち米とうるち米をブレンドした生地に、上品でほのかな甘さの餡入り。

端麗な味。

またお店の後ろの庭園を眺めて、休憩するもよし。

なによりもお店のスタッフのサービスも最高、笑顔が良い。

大宰府天満宮参詣の折には、まよわず参道スターバックスコーヒーの真向かいの「かさの家」で、梅が枝餅を賞味あれ。

茶房 ぎゃらりー かさの家

太宰府 / 甘味処

住所
福岡県太宰府市宰府2-7-24
営業時間
11:00~17:30
定休日
年中無休
o0700058614706635418.jpg (700×586) (ameba.jp)


다자이후에 가면 들르고 싶은 것이, 우매가에  모치의 「카사노야」.

찹쌀과 멥쌀을 혼합한 반죽에, 고급스럽고 은은한 단맛의 앙금이 들어 있습니다.

단아한 맛.

또 가게 뒤의 정원을 바라보고, 휴식을 취하는 것도 좋다.

무엇보다 매장 직원들의 서비스도 최고, 웃음이 좋다.

다자이후텐만궁 참배 때에는, 끊임없이 참배길 스타벅스 커피의 바로 맞은편의 「우산의 집」에서, 매화가 가지떡을 맛보라.

다후사기라리 우산집
다자이후 / 아마도처
주소
후쿠오카현 다자이후시 자이후2-7-24
영업 시간
11:00~17:30
정기 휴일
연중무휴

2023年9月13日水曜日

大宰府学業院にあったという孔子画像と顔真卿画像

 『江家次第』第2、釈奠には、

「或説曰、吉備大臣入唐、持弘文館之画像、来朝安置大宰府学業院、大臣又、命百済画師奉画彼本、置大学寮、云々」

wa03_06348_0005.pdf (waseda.ac.jp)

とあり、その昔、大宰府学業院に吉備大臣(吉備真備)が唐の弘文館にあった孔子と顔真卿の二人の画像を安置したという。そして百済画師に命じて模写させ、それを都の大学寮に飾ったという。

 ただし、その真偽は不明である。