2018年3月29日木曜日

太宰帥とは

平安時代になると、太宰帥に任命されるのは親王であった。したがって、権帥や大弐などが太宰府に赴任するのみで、親王は京都にとどまった。
一方、奈良時代では、大宝2年(702)8月16日の石上麻呂から延暦5年(786)4月11日の佐伯今毛人まで21人の太宰帥が任命された。親王ではなく、臣下であったために、彼らの太宰府への赴任は当然であった。
親王任官の初例は大同元年(806)5月9日の伊予親王であった。官職名は中務卿兼太宰帥。
問題は、「太宰員外帥」と「権帥」とが同一視されていくことである。つまり左遷・懲戒などで流配された者たちを「員外帥」と呼称するが、菅原道真などは「権帥」とも「員外帥」とも呼ばれている。つまり、いつの間にか「権帥」に左遷・懲戒による流配などの意味を帯び始めたことに他ならない。

太宰府の木簡と日下部君

太宰府市蔵司の水田から発掘された木簡に、次の資料がある。

「日下部牛□□
 里長日下部君牛□
□□疾病□□」(
木研37-170頁-(1)(大宰府木簡概報1-1・日本古代木簡選)
跡名大宰府跡蔵司西地区
所在地福岡県太宰府市(旧筑紫郡太宰府町)大字観世音寺字蔵司
調査主体福岡県教育委員会
発掘次数4
遺構番号南北溝(Nトレンチ第Ⅳ層黄色砂質粘土層)
地区名MK037170
この文には、「里」が見えることから霊亀元年(715)以前の木簡だと推定される。注目すべきは、「日下部君」である。蔵司にいかなる理由で埋められたのか不明であるが、日田郡および松浦郡などに居住した日下部君の一族に連なる人間であろうか。「疾病」による休暇願木簡であるらしい。