2020年4月13日月曜日

576番 今よりは城山の道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを

576
太宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守葛井連大成、悲しび嘆きて作る歌1首
今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを
宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井連大成悲嘆作歌一首
従今者 城山道者 不樂牟 吾将通常 念之物乎



基肄城の輪郭。はっきりと石垣が残っている。

 

(1)   筑後守

(国司)=   大国 従五位上
    〃    上国 従五位下
    〃    中国 正六位下
    〃    下国 従六位下
 筑後国は上国であるので、十郡七十郷、百八十七里で


 守一人、介一人、大橡、小橡各一人、大目、少目各一人、史生三人
 郡には大領、少領、主政、主帳がいた

(2)葛井連大成の略歴は、次の官職が知られている。
·         養老3年(719) 711日 新羅使
·         養老4年〈720年〉 510日:白猪史のち葛井連に改姓
天平3年〈730年〉 正月27日外從五位下

・「乙巳、筑前國司言:「新羅使-薩飡--序貞等、來朝」於是、遣從五位下-多治比真人-土作、外從五位下-葛井連-廣成、於筑前、檢校供客之事」

天平15年(743 630日:備後守73日:従五位下(内位

・天平1573
  「庚子、天皇御石原宮、賜饗於隼人等、授、正五位上-佐伯宿禰-清麻呂、從四位下、外從五位下-葛井連-廣成、從五位下、外從五位下-曾乃君-多利志佐、外正五位上、外正六位上-前君-乎佐、外從五位下、外從五位上-佐須岐君-夜麻等久久賣、外正五位下、」

天平20年(748 225日:従五位上。

天平20年〈748年〉1月己未
「己未、車駕、幸散位-從五位上-葛井連-廣成之宅、延群臣宴飲、日暮留宿、

天平20年〈748年〉821日:正五位上

 辛未、以從五位下-大原真人-麻呂、石川朝臣-豐人、並為少納言、從五位下-大伴宿禰-古麻呂、為左少辨、大納言-正三位-藤原朝臣-仲麻呂、為兼紫微令、參議-正四位下-大伴宿禰-兄麻呂、式部卿-從四位上-石川朝臣-年足、並為兼大弼、從四位下-百濟王-孝忠、式部大輔-從四位下-巨勢朝臣-堺麻呂、中衛少將-從四位下-背奈王-福信、並為兼少弼、正五位上-阿倍朝臣-蟲麻呂、伊豫守-正五位下-佐伯宿禰-毛人、左兵衛率-正五位下-鴨朝臣-角足、從五位下-多治比真人-土作、為兼大忠、外從五位上-出雲臣-屋麻呂、衛門員外佐-外從五位下-中臣丸連-張弓、吉田連-兄人、葛木連-戶主、並為少忠、從五位下-藤原朝臣-繩麻呂、為侍從、從五位下-御方-大野、為圖書頭、從五位下-別公-廣麻呂、為陰陽頭、從三位-三原王、為中務卿、從四位上-安宿王、為大輔、正五位上-葛井連-廣成、從五位下-藤原朝臣-真從、並為少輔、中納言-從三位-紀朝臣-麻呂、為兼式部卿、從五位下-多治比真人-犢養、為少輔、神祇大副-從五位上-中臣朝臣-益人、為兼民部大輔、從五位下-阿倍朝臣-鷹養、為主計頭、從五位下-紀朝臣-廣名、為主稅頭、正五位下-大伴宿禰-稻君、為兵部大輔、從五位上-大伴宿禰-犬養、為山背守、從五位上-石川朝臣-名人、為上總守、外從五位下-茨田宿禰-枚麻呂、為美作守、

天平194
「丁卯、天皇御南苑、大神神主-從六位上-大神朝臣-伊可保、大倭神主-正六位上-大倭宿禰-水守、並授從五位下、、以外從五位下-葛井連-諸會、為相模守、」

である。この葛井氏を考えるうえで、忘れてはならないのは、河内国古市郡を本拠地とした西(河内)文首である。『古事記』においては、百済より『千字文』『論語』を将来した和邇吉師の後裔氏族であるが、史上では文首根麻呂(根摩呂・禰麻呂・尼麻呂)が大海人皇子の東国入りに随従した20余人の一人で、壬申の乱では村国連男依らとともに軍勢を率いて進軍し、その論功によって大宝元年(701)に封100戸が下賜された(文首根麻呂墓誌の刻文:「壬申年将軍」奈良県宇陀市榛原八滝出土)。なお、古市郡および隣接する丹比郡には、文首のほかにも多数の百済系渡来氏族が居住しており、丹比郡に居住したのは辰孫王(王辰爾の祖)の後裔を称する氏族群、いわゆる「野中古市人」(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>である。
次の『続日本紀』神護景雲43月辛卯の条にある、
  少女等(をとめら)に 男立ち添(をとこた そ)ひ 踏み平(ふ な)らす 西の都(にし  みやこ)は 萬世の宮(よろづよ みや)
原文:乎止賣良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 與呂豆與乃美夜、
 其歌垣歌曰:
  淵も瀨(ふち せ)も 清く爽(きよ さや)けし 博多川(はかたがは) 千歲を待(ちとせ ま)ちて 澄める川(す  かは)かも
原文:布知毛世毛 伎與久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母、
 每歌曲折、舉袂為節、其餘四首、並是古詩、不復煩載、
 時詔五位已上、內舍人及女孺、亦列其歌垣中、歌數闋訖、河內大夫-從四位上-藤原朝臣-雄田麿已下、奏和舞、賜六氏歌垣人、商布二千段、綿五百屯、
とあり、また始祖の記載に始まって、祖先を顕彰するために作られた「家牒」が注目される。
「斯並国史家牒。詳載其事矣」 にみるように、
 「貴須王者百済始興第十六世王也。夫百済太祖都慕大王者。日神降霊。奄扶余而開因。天帝授。惣諸韓-而称王。降及近肖古王。遥慕聖化。始聘貴国。是則神功皇后摂政之年也。其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別寸。使於百済捜聘有識者、国主貴須王恭奉使旨。択採宗族。遣其孫辰孫王(一名智宗王)、随使入朝。天皇嘉。特加寵命。以為皇太子之師矣。於是。始伝書籍。大◆儒風。文教之興。誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子玄陽君。玄陽君子午定君。◆◆◆生三男。長子味沙。仲子辰仁。季子麻呂。従此而別始為三姓。各因ニ所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。」
とあり、三氏の同祖説を強調した。
 ただし、井上光貞が説くように、
  「地縁的関係の力強さは西文氏系の三氏(文・武生・蔵)の場合にも、船氏系の三氏(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>)の場合にも血縁同胞の精神的=生活的共同の保持強化に大きな役割を果たしたのであるが、それはまた血縁的には恐らく無関係な西文氏系の三氏と船氏系の三氏をも一つの結合へと統一して行ったのである。」
というのは、正鵠を射ているだろう。
 なお、葛井寺(大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21)は葛井連大成の建立と伝えられている。


(2)    不楽しけむ
「さぶし」は「さぶ」と同根で、同じく上二段活用動詞。
「山の端にあぢ群さわきゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば」(万葉集、486)
「ささなみの志賀津の子らがまかり道の川瀬の道を見れば不怜も」(万葉集、218)
などに用例を見る。

(3)   「城の山道」か「城山の道」か
この大宰府から筑後国への官道には、今なお定説はないが、あえて、「山道」の語に拘れば、
案‐①)筑紫野市萩原から日尾山の鞍部に到着し、そこから日尾山(火の尾、烽台)山頂に到着した後、そこから基肄城東北門蹟を縦断して、丸尾礎石群という城内の倉庫十数棟蹟を経由して、基山町城戸に抜ける西側のルート
が推測できる。しかしながらこれでは急峻すぎて、いかに健脚な古代人であろうとも、その山道を通過する時間の長さを考えれば、無理は避けたに違いない。
なぜならば大宰府政庁から南下する官道は基肄城跡(佐賀県基山町)麓を経由して、肥前国府と筑後国府へ分岐する基肄駅(JR基山駅付近)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)の分岐点にさしかかる平坦部を行く、
がある。現在の国道3号線である。本来であれば、直線距離を通行して、筑後国庁へ帰るのが順当であろう。そこで、従来の読みを変えて、「城山の道」と読み替えたい。つまり「基山=城山」説である。
本文は、「今よりは城山の道は」として、大宰府から南下して、筑紫野市山谷から基肄城跡の縁を抜けて、基山町城戸に抜けるルートが「城山の道」であったと提唱する。
そうであれば、基山町立明寺地区遺跡C地点の古代道が参考となる。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めてである。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mであるだけに、その官道の重要性を想定させる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置は不明のままである。
遺跡周辺遠景立明寺地区遺跡C地点の古代道

参考資料
筑紫野市岡田地区で発見された豊後国へ向かう官道(幅9メートル)
岡田地区遺跡官道全景

ちなみに、筑後国の国庁は、現在の久留米市の東側、標高 10~17m程の低 台地上に筑後国府域が広がる。現在の合川・東合川・朝妻・御井町にわたる、東西約 1.5 ㎞、 南北約 700mの範囲。



史記、漢書、後漢書、三國志、晉書,各一部.

太宰府にあったという史記などの唐本はいずこに?

 甲辰,從五位上-奈癸王,為正親正.
 大宰府言:「此府人物殷繁,天下之一都會也.子弟之徒,學者稍眾.而府庫但蓄五經,未有三史正本.涉獵之人,其道不廣.伏乞,列代諸史,各給一本.傳習管內,以興學業.」詔,賜史記、漢書、後漢書、三國志、晉書,各一部.

2020年4月12日日曜日

556番歌 賀茂女王556番  筑紫船いまだも来ねば あらかじめ荒ぶる君を 見るが悲しさ

556番歌 賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(すくねみより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王(なきひだりのおほまへつきみながやのおほきみ)の女(むすめ)そ 筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ 賀茂女王  巻8、1613>番歌にも、その和歌がある。題詞によれば、父は長屋王、母は阿倍朝臣。 長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は胸形君徳善の女尼子娘であり、天武天皇の長子である。壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣であった。 そして持統天皇の後継者的性格を当時の太政大臣は持っていた。 また、 王の母は天智天皇 と姪娘との間に生まれた御名部皇女。したがって長屋王は父母両系において天皇家の孫に当たる。和銅八年(七一五)の時点で、長屋王の年齢は四十歳(懐風藻)あるいは 三十二歳(尊卑分脈、 公卿補任)である。  美濃行幸、養老改元、長屋王の大納言昇任と続いた一連の事件は、 元正女帝即位以来の、律令制の推進者藤原氏と長屋王の対立と妥協の産物である。卑見によれば、「故左大臣長屋王」とある「故」には、単なる幽明境を異にしていると表示するためだけだと思われない。 大伴宿祢三依、 大納言大伴御行の子。御依とも作る。大伴旅人と同じ頃、筑紫に赴任したらしい。したがって、天平元年(729)頃に賀茂女王との親しい関係を持っていたようだ。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年US">(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年<(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。  大伴宿祢三依の歌は、下記の5首を収録する。 ①我(あ)が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万) ②天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578) ③我妹子(わぎもこは常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650) ④>照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690) ⑤霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434) (3)筑紫船 古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された陸上の道は、太宰府道・筑紫大道と呼ばれたが、海上の道を往来したのは、筑紫船。その航路は、遣唐使および遣新羅使の航路から推定できるが、千田稔の考察によると、難波津あるいは難波御津は大阪市南区三津寺町付近に求め、安曇江を北区野崎町付近、その西に新羅江庄を比定すれば堀江は天満川、また難波江には堂島川玉江橋北に求めたいという。そして住吉三津、敷津、榎津も住吉神社周辺に、五泊の位置については河尻泊は尼崎市今福、大輪田泊は旧湊川河口部、魚住泊は明石市江井ケ島、韓泊は姫路市的形に求め得、檉生泊は現在の室津港そのものと考えている。 なお、難波津の形成は、大和王朝による難波堀江の開削と連動しており、5世紀代のことである。 5世紀後半に上町台地の先端部に難波大倉庫群が建設された 。難波地域の砂州を掘削して、作られた難波堀江の開通により、難波地域は 淀川・大和川水系によって畿内中央部と容易に 連絡できるようになった。
テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明"/> テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明" 自動的に生成された説明  "テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明" その難波から畿内中央部への主要ルートは、次の地図の通りであった。

574番~575番 ここにして筑紫や何處白雲のたなびく山の方にしあるらし


574番~575
大納言大伴卿の和ふる歌2
574 ここにして筑紫や何處白雲のたなびく山の方にしあるらし
575 草香江の入り江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして

(1)   ここにして
原文「此間在而」は、「ここにありて」とも解する説もあり。大系が指摘するように、「此間為而」(『万葉集』287)とか「此間◆之氐」(『万葉集』4207)とあるに従う

(2)「何處」
   今は、「いづく」と読む。論者によっては、「いづち」の説あり。「愛し妹を伊都知由可米等」(『万葉集』、3577)が傍証である。『万葉集』には、
 ここにして家八方何處白雲のたなびく山を越えて来にけり(『万葉集』、287
 ここにありて春日也何處雨障み出でて行かねば恋ひつつそ居る(『万葉集』、1570
などが、同様な発想で作られた歌である。

(3)「山の方にしあるらし」
   この句の「し」は、係助詞とみるには弱いので、副助詞ていどの機能を持っていたらしい。「し」の直前の「山の方」を強調するに用いられていたと考えておきたい。
 「独り居てもの思ふ夕に霍公鳥此間ゆ鳴き渡る心しあるらし」(『万葉集』、1476)  
「梅の花散らす冬嵐の音のみに聞きし吾が妹を見らくしよしも」(『万葉集』、1660

(4)草香江
 
難波津は国家的な湊として、軍事・物資・外交など水上交通のターミナルであった。大宰府に來着した朝鮮半島などからの外国人使節、そして大宰府・西国などの官人などが瀬戸内海を往来し、国内各地からの献納物の集散地でもあった。

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『万葉集』巻6には、「5年癸酉、草香山を越ゆる時に、神社忌寸老磨の作る歌」という題詞に「直越のこの道にして押し照るや難波の海と名づけけらしも」があり、同書巻8に収める長歌に「おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば」とみえる。
なお難波の草香江は、難波から奈良への各種のルートの中で、最短の奈良街道の起点であった。
大和・河内の古道
   

572番まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ~573番ぬばたまの黒髪変り白髪けても痛き恋には会ふ時ありけり

太宰帥大伴卿の京に上りし後、沙彌満誓、卿に贈る歌2首

572番 まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
573番 ぬばたまの黒髪変り白髪けても痛き恋には会ふ時ありけり

(1)沙彌満誓
笠氏の出身。父母等は未詳。俗名は麻呂。

笠朝臣麻呂が資料に初見するのは、『続日本紀』の下記の条である。

この日、太朝臣安麻呂らと共に従五位下に昇叙される。文字通り貴族の一員となった。彼の生年が不明だけに、この時の年齢を推測するしかないが、私見だが40歳前後でなかっただろうか。
 
その後、『続日本紀』慶雲3年

に任ぜられ、その職は、『続日本紀』養老4年の
冬十月,庚辰朔戊子,以從四位上-石川朝臣-石足,為左大辨。從四位上-笠朝臣-麻呂,為右大辨。從五位上-中臣朝臣-東人,為右中辨。從五位下-小野朝臣-老,為右少辨。從五位下-大伴宿禰-祖父麻呂,為式部少輔。從五位下-巨勢朝臣-足人,為員外少輔。從五位上-石川朝臣-若子,為兵部大輔。正五位上-大伴宿禰-道足,為民部大輔。從五位下-高向朝臣-大足,為少輔。從五位上-車持朝臣-益,為主稅頭。從五位上-鍜治造-大隅,為刑部少輔。從五位下-阿倍朝臣-若足,為大藏少輔。從五位下-高橋朝臣-安麻呂,為宮內少輔。從五位下-當麻真人-老,為造宮少輔。從五位下-縣犬養宿禰-石次,為彈正弼。從五位下-大宅朝臣-大國,為攝津守。從五位下-高向朝臣-人足,為尾張守。從五位上-忍海連-人成,為安木守。

に免ぜられるまで、14年間にわたり、美濃守の職にあった。一般的に国守の在任期間が3年から4年であったので、彼の任期は異様に長かった。彼の行政マンとしての有能さを高く評価されたからであろう。
野村忠夫氏の整理によると、つぎのようになる。

①中央集権の具体的な一方策である国名用字の改定で、全国的に唯一といえる再度の改定をみたミノで「美濃」の幼児を公定した。
②「関国」美濃とよばせる三関のひとつ。美濃不破関の整備を行った
③越後方面に通ずる「政治の道」として吉蘇路の難工事を完成し使、「殊功」として論功行賞受けた
④全国的にも数少ない、数郡にわたる広域条里を設定し、また中央政府の方針にもとずいて席田郡を建置した
⑤養老改元につながる元正女帝の醴泉行幸を右大臣藤原不比等の四男、介(守の輔佐官)の藤原朝臣麻呂とはかって在地で演出し、極位である従四位上を特授された。
⑥地方行政の監察強化のために全国的に按察使が布かれると、美濃守として尾張・参河・信濃を管轄する按察使になった。


、右大弁といえば、現在の内閣官房長官であろう。この異例な抜擢は元明太上天皇の重用であっただろうが、さほど名門の家柄ではなかっただけに、

 辛亥,令七道按察使及大宰府,巡省諸寺,隨便併合。
 壬子,詔曰:「太上天皇,聖體不豫,寢膳日損。每至此念,心肝如裂。思歸依三寶,欲令平復。宜簡取淨行男女一百人,入道修道。經年堪為師者,雖非度色,並聽得度。」以絲九千絇,施六郡門徒,勸勵後學,流傳万祀。
 戊午,右大辨-從四位上-笠朝臣-麻呂,請奉為太上天皇出家入道。敕許之。

の出家は自然の流れであった。しかしながら養老7年(723)2月に至り、



とあり、大宰府観世音寺の造営別当を命じられた。彼は60歳をはるかに越していたに違いない。

満誓が記録に残る最後は、天平2年(730)正月13日、太宰帥大伴旅人の家で開催された宴歌である。その時、満誓は早や70歳を超えていたと推定される。

ところで、この満誓も罪な男であったらしく、70歳を過ぎて、観世音寺の家女である赤須に子をもうけた。

《卷十二貞觀八年(866)三月四日庚辰》○四日庚辰。太宰府解。觀音寺講師傳燈大法師位性忠申牒。寺家人清貞。貞雄。宗主等三人。從五位下笠朝臣麻呂五代之孫也。麻呂天平年中爲造寺使。麻呂通寺家女赤須。生清貞等。即隨母爲家人。清貞祖夏麻呂。向太政官并大宰府。頻經披訴。而未蒙裁許。夏麻呂死去。清貞等愁猶未有止。寺家覆察。事非虚妄。望請。准據格旨。從良貫附筑後國竹野郡。太政官處分。依請。(『三代実録』)







未定稿

(1)   まそ鏡
原文は「真十鏡」。「麻蘇鏡(まそかがみ)」(万葉集904番)、「真十鏡(まそかがみ)」(万葉集2987番)、「末蘇可吾彌(まそかがみ)」(万葉集4221番歌)と同一。「真十見鏡(まそみかがみ)」(万葉集3314番)、「真墨乃鏡(ますみのかがみ)」(万葉集3885)、「白銅鏡<万須美乃加々見>」(神代紀上)も同一語。
見る・磨ぐ・掛けるなどの枕詞。
古代の鏡面に太陽光を当て壁に反射させると、壁に投影した反射光の中に鏡の背面に刻んだ文様が浮かび上がる現象を前提としなくてはならない。この歌の「見飽かぬ鏡」とは、その文様を見続けて、時間を忘れたからであろう。

(2)   後(おく)れてや~~居(を)らむ
  「や~む」は詠嘆疑問形。
(3)   さびつつ
「さび」は上二段活用。「さぶし(不楽・不怜>)とか「さびし」も、「さび」と同根。複合語「あれすさぶ」、(万葉集172番)、「うらさぶ」(万葉集4214番)、「おきなさぶ」(万葉集4132番)、「かみさぶ」(万葉集4380番)など。
(4)   ぬばたま
枕詞、「黒」「夜」にかかる。「あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜は」(万葉集3732番歌)とか、「ぬばたまの黒き御衣をまつぶさに」(記神代)など。大系には、「ヒオウギの実が黒いによる」とある。ヒオウギ(檜扇、学名:Iris domestica)はアヤメ科アヤメ属の多年草。東アジア原産。日本にも自生し、やや大型の夏咲き宿根草。厚みのある剣状の葉が何枚も重なり合い、扇を広げたように見えることから、この名前がついたか。力強く端正な草姿で、古くから庭植えや生け花材料として親しまれてきました。花が次々と咲き続け、その後に袋状の大きなさやができ、熟すと割れて、中から5mmくらいの黒いタネが出てくる。その「黒いタネ」に興趣を覚えて枕詞となったと推定しておきたい。

(5)「黒髪変り、白髪ても」
   「黒髪」は「くろかみ」、「白髪」は「しらけ」と読む。「くろかみ」は「白妙の袖折り返しぬばたまの久路可美敷きて長き日を待ちかも恋ひむ」(万葉集4331番)とあり、「しらけ」は下二段活用動詞「しらく」の連用形。
なお名詞「白髪」は、「わが黒髪のま白髪になりなむきはみ」(万葉集481番)、「ますらをはをち水求め白髪生ひにたり」(万葉集627番)、「白髪生ふる事は思はず」(万葉集628番)などの用例があり、「白髪白、志良加」(新撰字鏡)から清音「カ」であったと考えるべきだろう。
   
(6)「痛き恋」

   大系は、「逢いたいとはげしく思う心」。

2020年4月11日土曜日

571番歌 月夜よし河音清けしいざここに行くも去かにも遊びて帰かむ



571番歌
月夜よし河音清けしいざここに行くも去かにも遊びて帰かむ




(1)   月夜
読みは「つきよ」ではなく、「つくよ」。

(2)   河音
母音連続回避現象である Kafaoto⇒ Kafato (ao ⇒ a)

蘆城の駅家において耳にする川音は、宝満川である。

(3)原文「河音清之」の「清之」
  両説あり、「さやけし」と「きよし」。この二語の語意を基に、解釈者の判断に委ねたい。私は「さやけし」と解する。
(4)「いざ」
  原文は「率」。『日本書紀』開化天皇紀元条には「率川」が「伊社箇波」とあり、「いさ」と読むと教える。

(5)遊びて帰かむ

  筑紫野市吉木の御笠遺跡群A-1地区では、発掘調査の結果、7世紀後半から8世紀前半ころと考えられる3面に庇を持つ非常に立派な5間×6間の掘立柱建物1棟が発見された。その建物こそ、大伴旅人らが餞宴の場であったようだ。

(6)防人佑
   「さきもりのすけ」と読む。「防人司佑」(「さきもりのつかさのすけ」、329番歌)と同一。

『職員令』69、大宰府条に「防人正一人。【掌。防人名帳。戎具。教閱。及食料田事。】佑一人。【掌同正。】」とあり、防人の名簿、武具や教練・食料田などを管掌していた。

<参考記事>
職員令六九 大宰府條:大宰府【帶筑前國】/主神一人。【掌。諸祭祠事。】帥一人。【掌。祠社。戶口簿帳。字養百姓勸課農桑糾察所郡貢舉。孝義。田宅。良賤。訴訟。租調。倉廩。徭役。兵士。器仗。鼓吹。郵驛。伝馬。烽候。城牧。過所。公私馬牛。闌遺雜物。及寺。僧尼名籍。蕃客。歸化。饗讌事。】大貳一人。【掌同帥。】少貳二人。【掌同大貳】大監二人。【掌。糾判府內審署文案勾稽失察非違】少監二人。【掌同大監】大典二人。【掌。受事上抄。勘署文案檢出稽失讀申公文】少典二人。【掌同大典】大判事一人。【掌。案覆犯狀斷定刑名判諸爭訟】少判事一人。【掌同大判事】大令史一人。【掌。抄寫判文】少令史一人。【掌同大令史】大工一人。【掌。城隍。舟楫。戎器。諸營作事。】少工二人。【掌同大工】博士一人。【掌。教授經業課試學生】陰陽師一人。【掌。占筮相地。】醫師二人。【掌。診候。療病。】算師一人。【掌。勘計物數】防人正一人。【掌。防人名帳。戎具。教閱。及食料田事。】佑一人。【掌同正。】令史一人。主船一人。【掌。修理舟楫】主廚一人。【掌。醯。醢。韲。隗。醬。險。鮭等事。】史生廿人


(7)大伴四綱


天平初年頃、防人司佑(万葉集)。天平十年(738)四月、大和少掾。天平十七年十月、雅楽助正六位上行助勲九等。

本首以外にも、大伴四綱の歌が三首伝わっている。
1、やすみしし我が大君の敷きませる国の(うち)には都し思ほゆ(万3-329
2、藤波の花は盛りに成りにけり奈良の都を思ほすや君(万3-330
3、大伴四縄、宴に吟う歌一首
こと繁み君は来まさず不如帰汝だに来鳴け朝戸開かむ (万8-1499

ところで、大伴氏を表記するとき、宿祢が挿入されるのが通例だが、大伴四綱の場合は「宿祢」を欠いている。その理由は不明。

549番歌 天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

549番歌

5年戊辰、太宰少弐石川足人朝臣の遷任するに、筑前国蘆城の駅家に餞する歌三首

天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

(1)太宰少弐石川足人朝臣


(2)蘆城の駅家

日本の古代律令国家において、律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km、古代の一里は約550メートルで、江戸時代の一里とは異なる)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実質的には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の管理などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
なお、駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使方式があった。
   とおろで蘆城駅に関しても、1978年(昭和53年)福岡県筑紫野市大字吉木(御笠地区)で農地改良事業に伴う工事中に発掘された9棟の建物群が注目される。



(筑紫野市教育委員会、1996331日発行)


 さて、駅制を使うためには利用許可証である駅鈴の交付を受ける必要があり、その駅鈴は中央政府のほかに、大宰府と諸国に常備されていた。駅鈴には剋が入れられ、剋数と同じ数の駅馬が各駅で支給された。駅使は、駅家ごとに駅馬を乗り換え、3駅ごとに食事等の提供を受けた。 駅使は、中央から地方へ派遣されるだけでなく、緊急 事態等の発生時には地方から上京することが義務づけられていた。
ところで663年、唐・新羅連合軍に白村江(錦江河口の古名)で日本軍が大敗したのち、列島安保体制の構築を迫られた天智朝に、この全国的な計画道路が整備された可能が高い。この頃、西日本各地に築城された古代山城は、 その立地が駅路や航路など交通路と深い関係にある。駅制が兵部省の管轄下にあること、緊急通信のための交通制度であることなども、駅制・駅路と軍事の間の密接な関係を示している。つまり、駅路は「軍事の道」であったらしい。したがって、あわただしく建設されたためか、古い段階の駅路には側溝がいい加減で、急いで作ったような印象を受ける例もあるという。このように当初は軍用道路として作られたが、国際情 勢が落ち着いてくるに従い、国内支配のための「情報の道」としても使われるようになる。

(以上は、「古代都市 ~日本人とまちづくりの原点~ 古代の交通網古代におけるインフラ」 中村太一( 北海道教育大学釧路校/准教授)参照)


569番歌 韓人の衣染むとふ紫の情に染みて思ほゆるかも 570番歌 大和へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響みてそ鳴く

569番歌
韓人の衣染むとふ紫の情に染みて思ほゆるかも

570番歌

大和へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響みてそ鳴く

右 二首、大典 麻田連陽春

(1)韓人
原文は「辛人」。「韓」は「嫁於韓白水郎◆<◆(木+何)羅から摩ま能の波陀該はたけ>」(仁賢紀6年)とあることで、「から」と読んでいた。「韓衣からごろも」(万葉集2194番)とか、「韓藍(からあゐ)」(万葉集384番)、「韓碓(からうす)」(万葉集384番)、「韓碓(からうす)」(万葉集3886番)、「韓帯(からおび)」(万葉集3791番)、「韓舵(からかじ)」(万葉集3555番)、「韓鍬(からすき)」(新撰字鏡)、「枳殻(からたち)」(万葉集3832番)、「韓玉(からたま)」(万葉集804番)、「韓室(からむろ)」(播磨国風土記)、などに、「韓(から)」が見当たる。

(2)衣
 この「衣」がいかなる衣装なのか不明。

(3)大和へ
 「へ」は、「いづくへ」「こちらへ」などの「へ」と同じ。

(4)鹿の鳴き声
①「ピャッ!」「ピャッ!」という短い警戒音で、仲間に発信
②「キャ」など、9月~11月の繁殖期に山奥などで聞かれるオス同士の縄張り争いの鳴き声
⇒奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の声きく時ぞ 秋は悲しき(猿丸太夫)
③「イアァオオォォォー!」という発情期のオスがメスを求める激しい鳴き声

この場合は、③.

(1)   麻田連 陽春(あさだのむらじやす)
旧姓は答本(とうほん)。百済系渡来氏族。「出自百済国朝鮮王淮也」(『新撰姓氏録』諸蕃・未定雑姓)。神亀元年(724)五月、麻田連を賜わり改姓。この時正八位上。のち大宰大典として筑紫に赴任、大伴旅人の下臣となる。天平二年(730)十二月、旅人上京の際、筑前国蘆城駅家で餞宴に臨席、歌を詠む(万葉集4-569570)。天平三年(731)六月、肥後の人で相撲使の従人大伴君熊凝が上京途上病死した折、その志を述べた歌を詠む(5-884885)。天平十一年(739)正月、外従五位下。『懐風藻』に、近江守藤原仲麻呂の詠作に和した五言詩一首を載せ、外従五位下石見守、年五十六とある(仲麻呂の近江守兼任は天平十七-西暦745-年九月)。万葉集には上記四首のみ。


朝鮮王准に関しては、朝鮮王准為衛滿所破,乃將其餘眾數千人走入海,攻馬韓,破之,自立為韓王」とあり、「侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 其後絶滅 今韓人猶有奉其祭祀者 漢時屬楽浪郡四時朝謁」とある。


また『東大寺文書』巻五「大宰府牒案」に、天平三年(731)三月従六位上大宰大典と見え、さらに、天平十一年(739)正月に、正六位上より外従五位下に昇叙とある。

『懐風藻』に、「外従五位下石見守麻田陽春 一首」、五言の詩がある。
 和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作 一首
  近江惟帝里   近江は惟れ帝里
  裨叡寔神山   裨叡は寔に神山なり
  山静俗塵寂   山静かにして俗塵寂とし
  谷間真理専   谷間にして真理専らなり
  於穆我先考   於 穆たる我が先考
  独悟闡芳縁   独り悟って芳縁を闡く
  宝殿臨空構   宝殿 空に臨んで構へ
  梵鐘入風伝   梵鐘 風に入って伝ふ
  烟雲万古色   烟雲 万古の色
  松柏九冬堅   松柏 九冬堅し
  日月荏冉去   日月 荏冉として去り
  慈範独依々   慈範 独り依々たり
  寂莫精禅処   寂莫たる精禅の処
  俄為積草   俄かに積草のと為る
  古樹三秋落   古樹 三秋落ち
  寒花九月衰   寒花 九月衰ふ
  唯餘両楊樹   唯だ餘す 両楊樹
  孝鳥朝夕悲   孝鳥 朝夕悲しむ

諸蕃 百済

1  779 左京 諸蕃 百済 和朝臣 朝臣   出自百済国都慕王十八世孫武寧王也     286
2  780 左京 諸蕃 百済 百済朝臣 朝臣   出自百済国都慕王卅世孫恵王也     286
3  781 左京 諸蕃 百済 百済公 公   出自百済国都慕王廿四世孫淵王也     286
4  782 左京 諸蕃 百済 調連 連 水海連同祖 百済国努理使主之後也 誉田天皇[謚応神。]御世。帰化。孫阿久太男弥和。次賀夜。次麻利弥和。弘計天皇[謚顕宗。]御世。蚕織献絹之様。仍賜調首姓   286
5  783 左京 諸蕃 百済 林連 連   出自百済国人木貴公也     286
6  784 左京 諸蕃 百済 香山連 連   出自百済国人達率荊員常也     287
7  785 左京 諸蕃 百済 高槻連 連   出自百済国人達率名進也     287
8  786 左京 諸蕃 百済 広田連 連   出自百済国人辛臣君也     287
9  787 左京 諸蕃 百済 石野連 連   出自百済国人近速王孫憶頼福留也     287
10 788 左京 諸蕃 百済 神前連 連   出自百済国人正六位上賈受君也     287
11 789 左京 諸蕃 百済 沙田史 史   出自百済国人意保尼王也     287
12 790 左京 諸蕃 百済 大丘造 造   出自百済国速古王十二世孫恩率高難延子也     287
13 791 左京 諸蕃 百済 小高使主     出自百済国人毛甲姓加須流気也     288
14 792 左京 諸蕃 百済 飛鳥部     百済国人国本木吉志之後也     288

15 856 右京 諸蕃 百済 百済王     出自百済国義慈王也     298
16 857 右京 諸蕃 百済 菅野朝臣 朝臣   出自百済国都慕王十世孫貴首王也     298
17 858 右京 諸蕃 百済 葛井宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男味散君之後也     298
18 859 右京 諸蕃 百済 宮原宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男智仁君之後也     298
19 860 右京 諸蕃 百済 津宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男麻侶君之後也     298
20 861 右京 諸蕃 百済 中科宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君孫宇志之後也     298
21 862 右京 諸蕃 百済 船連 連 菅野朝臣同祖 大阿郎王三世孫智仁君之後也     299
22 863 右京 諸蕃 百済 三善宿祢 宿祢   出自百済国速古大王也     299
23 864 右京 諸蕃 百済 鴈高宿祢 宿祢   出自百済国貴首王也     299
24 865 右京 諸蕃 百済 安勅連 連   出自百済国魯王也     299
25 866 右京 諸蕃 百済 城篠連 連   出自百済国人達率支母未恵遠也     299
26 867 右京 諸蕃 百済 市往公 公   出自百済国明王也     299
27 868 右京 諸蕃 百済 岡連 連 市往公同祖 目図王男安貴之後也     299
28 869 右京 諸蕃 百済 百済公 公     因鬼神感和之義。命氏謂鬼室。廃帝天平宝字三年。改賜百済公姓   300
29 870 右京 諸蕃 百済 百済伎     出自百済国都慕王孫徳佐王也     300
30 871 右京 諸蕃 百済 広津連 連   出自百済国近貴首王也     300
31 872 右京 諸蕃 百済 清道連 連   出自百済国人恩率納比旦止也     300
32 873 右京 諸蕃 百済 広海連 連   出自韓王信之後須敬也     300
33 874 右京 諸蕃 百済 不破連 連   出自百済国都慕王之後有王也     300
34 875 右京 諸蕃 百済 麻田連 連   出自百済国朝鮮王淮也     301
35 876 右京 諸蕃 百済 広田連 連   百済国人辛臣君之後也     301
36 877 右京 諸蕃 百済 春野連 連   出自百済速古王孫比流王也     301
37 878 右京 諸蕃 百済 面氏   春野連同祖 比流王之後也     301
38 879 右京 諸蕃 百済 己氏   春野連同祖 速古王孫休奚之後也     301
39 880 右京 諸蕃 百済 斯氏   春野連同祖 速古王孫比流王之後也     301
40 881 右京 諸蕃 百済 大県史 史   百済国人和徳之後也     301
41 882 右京 諸蕃 百済 道祖史 史   出自百済国主挨許里公也     302
42 883 右京 諸蕃 百済 大原史 史   出自漢人木姓阿留素西姓令貴也     302
43 884 右京 諸蕃 百済 苑部首 首   出自百済国人知豆神也     302
44 885 右京 諸蕃 百済 民首 首 水海連同祖 百済国人努利使主之後也     302
45 886 右京 諸蕃 百済 高野造 造   百済国人佐平余自信之後也     302
46 887 右京 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   出自百済国比有王也     302
47 888 右京 諸蕃 百済 御池造 造   出自百済国扶餘地卓斤国主施比王也     302
48 889 右京 諸蕃 百済 中野造 造   百済国人杵率答他斯智之後也     303
49 890 右京 諸蕃 百済 真野造 造   出自百済国肖古王也     303
50 891 右京 諸蕃 百済 枌谷造 造   出自百済国人堅祖州耳也     303
51 892 右京 諸蕃 百済 坂田村主 村主   出自百済国人頭貴村主也     303
52 893 右京 諸蕃 百済 上勝     出自百済国人多利須須也     303
53 894 右京 諸蕃 百済 不破勝     百済国人渟武止等之後也     303
54 895 右京 諸蕃 百済 刑部     出自百済国酒王也     303
55 896 右京 諸蕃 百済 漢人     百済国人多夜加之後也     304
56 897 右京 諸蕃 百済 賈氏     出自百済国人賈義持也     304
57 898 右京 諸蕃 百済 半氏     百済国沙半王之後也     304
58 899 右京 諸蕃 百済 大石椅立     出自百済国人庭姓蚊尓也     304
59 900 右京 諸蕃 百済 林   林連同祖 百済国人木貴之後也     304
60 901 右京 諸蕃 百済 大石林   林連同祖 百済国人木貴之後也     304

61 923 山城国 諸蕃 百済 民首 首 水海連同祖 百済国人怒理使主之後也     309
62 924 山城国 諸蕃 百済 伊部造 造   出自百済国人乃里使主也     309
63 925 山城国 諸蕃 百済 末使主     出自百済国人津留牙使主也     309
64 926 山城国 諸蕃 百済 木曰佐   末使主同祖 津留牙使主之後也     309
65 927 山城国 諸蕃 百済 勝   上勝同祖 百済国人多利須々之後也     309
66 928 山城国 諸蕃 百済 岡屋公 公   百済国比流王之後也     310

67 947 大和国 諸蕃 百済 縵連 連   出自百済人狛也     313
68 948 大和国 諸蕃 百済 和連 連   出自百済国主雄蘇利紀王也     313
69 949 大和国 諸蕃 百済 宇奴首 首   出自百済国君男弥奈曽富意弥也     313
70 950 大和国 諸蕃 百済 波多造 造   出自百済国人佐布利智使主也     313
71 951 大和国 諸蕃 百済 薦口造 造   出自百済国人抜田白城君也     314
72 952 大和国 諸蕃 百済 園人首 首   出自百済国人知豆神之後也     314

73 975 摂津国 諸蕃 百済 船連 連 菅野朝臣同祖 大阿良王之後也     318
74 976 摂津国 諸蕃 百済 広井連 連   出自百済国避流王也     318
75 977 摂津国 諸蕃 百済 林史 史 林連同祖 百済国人木貴之後也     318
76 978 摂津国 諸蕃 百済 為奈部首 首   出自百済国人中津波手也     318
77 979 摂津国 諸蕃 百済 牟古首 首   出自百済国人吉志也     318
78 980 摂津国 諸蕃 百済 原首 首 真神宿祢同祖 福徳王之後也     318
79 981 摂津国 諸蕃 百済 三野造 造   出自百済国人布須真乃古意弥也     318
80 982 摂津国 諸蕃 百済 村主   葦屋村主同祖 意宝荷羅支王之後也     319
81 983 摂津国 諸蕃 百済 勝   上勝同祖 多利須須之後也     319

82 1027 河内国 諸蕃 百済 水海連 連   出自百済国人努理使主也     326
83 1028 河内国 諸蕃 百済 調曰佐   水海連同祖       326
84 1029 河内国 諸蕃 百済 河内連 連   出自百済国都慕王男陰太貴首王也     326
85 1030 河内国 諸蕃 百済 佐良々連 連   出自百済国人久米都彦地     326
86 1031 河内国 諸蕃 百済 錦部連 連 三善宿祢同祖 百済国速古大王之後也     326
87 1032 河内国 諸蕃 百済 依羅連 連   出自百済国人素祢志夜麻美乃君也     326
88 1033 河内国 諸蕃 百済 山河連 連 依羅連同祖 素祢夜麻美乃君之後也     326
89 1034 河内国 諸蕃 百済 岡原連 連   出自百済国辰斯王子知宗也     327
90 1035 河内国 諸蕃 百済 林連 連   出自百済国直支王[古記云周王。]也     327
91 1036 河内国 諸蕃 百済 呉服造 造   出自百済国人阿漏史也     327
92 1037 河内国 諸蕃 百済 宇努造 造 宇努首同祖 百済国人弥那子富意弥之後也     327
93 1038 河内国 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   出自百済国主比有王男伎王也     327
94 1039 河内国 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   百済国末多王之後也     327
95 1040 河内国 諸蕃 百済 古市村主 村主   出自百済国虎王也     327
96 1041 河内国 諸蕃 百済 上曰佐     出自百済国人久尓能古使主也     328

97 1057 和泉国 諸蕃 百済 百済公 公   出自百済国酒王也     330
98 1058 和泉国 諸蕃 百済 六人部連 連 百済公同祖 酒王之後也     331
99 1059 和泉国 諸蕃 百済 錦部連 連 三善宿祢同祖       331
100 1060 和泉国 諸蕃 百済 信太首 首   百済国人百千之後也     331
101 1061 和泉国 諸蕃 百済 取石造 造   出自百済国人阿麻意弥也     331
102 1062 和泉国 諸蕃 百済 葦屋村主 村主   出自百済意宝荷羅支王也     331
103 1063 和泉国 諸蕃 百済 村主   葦屋村主同祖 大根使主之後也     331
104 1064 和泉国 諸蕃 百済 衣縫     出自百済国神露命也     331

以上104氏族/全氏族1182=8,8% 諸蕃326氏族の32

(2)   右 二首
万葉集中には、「右の何首」という記述がある。43歌群、188首である。

巻1(54~56、57~58、66~69、71~7274~75)
巻3(385387
巻4(566567
巻6(9971002101310141024102710421043
1739953998
1840464051406640694086 4088
19422242234257425942694272427342784279428142824284
2042954297429843004302430343214327432843304337434643474349437343834384439444014403440444074413442444424444444644484452445344574459448644874488449044934494449645054506451045114513

 この一覧から容易に判明するように、いくつかの特色が認められる。第1は、巻17、巻19、巻20に集中していることである。
 第2には、 
太上天皇、大宝元年辛丑の秋九月・紀伊国に幸せる時の歌(巻1、5456
二年壬寅 太上天皇 参河国に幸せる時の歌(巻1、5758

九年丁丑の春正月に橘少卿并せて諸の大夫等、弾正尹門部王の家に集ひて、宴する歌二首(巻6、10131014
秋八月二十日に右大臣橘家に宴する歌四首、(巻6,102④~1027
などにみるとおり、全43歌群のうち27歌群が饗宴(宴)の場に関連しているところから想定して、本569番~570番歌も饗宴の場の作歌であるだろう。


(3)   大伴旅人餞宴の歌
   題詞によれば、大宰帥大伴旅人が大納言となって上京するに当って、太宰府の官人たちが、筑前国蘆城の駅家での送別の餞宴の席で披露された歌四首中の二首である。旅人が大納言に任ぜられたのは『公卿補任』には「天平2年〈73010月1日」とあり、『萬葉集』には
「天平二年庚午の冬十一月、大宰帥大伴卿の、大納言に任ぜられて帥を兼ぬること旧の如し。京に上りし時に」 (173890題詞) 、
「 (天平二年)冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上りし時に」 (6965題詞・966左注)、「書殿に餞酒せし日の倭歌 四首(5876879) 、
 「聊かに私懐を布べし歌三首(5880882。天平二年十二月六日、筑前国司山上憶良謹みて上る。」、
 「天平二年庚午の冬十二月、大宰帥大伴卿の、京に向かひて上道 せし時に作りし歌五首(3446450 ) 」
とあり、陽春の二首目(570)に
「大和へ君が立つ日の近づけば」とあるので、11月中の餞宴であったと考えられる。餞宴の場「蘆城駅家」 (福岡県筑紫野市阿志岐)は、
「五年戊辰、大宰少弐石川足人朝臣遷任するに、筑前国蘆城駅家に餞せし歌三首(4549551) 」
及び旅人上京時「傔従等別に海路を取りて京  に入りき。 (173890題詞)」、
「天平二年庚午の冬十二月、大宰帥大伴卿の、京に向かひて上道せし時に作りし歌五首(3446450)」とあることで、天平2年12月であった(以上は、川上富吉「麻田連陽春の和歌と漢詩―麻田連陽春伝考続」『大妻国文』第43号、1~17頁、2012年、参照)   
  孝鳥朝夕悲 

2020年4月4日土曜日

566番歌 草枕旅行く君を愛つみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

566番歌

太宰大監大伴宿祢百代等、駅使に贈る歌二首

草枕旅行く君を愛しみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

(1)愛しみ
  原文「愛見」とあり、「うつくしみ」と読む。「うるはし」とも読む。
万葉集中に、「愛しきひのまきてし」(438番歌)とか

大系では、「ウツクシは親子夫婦のこまやかな情愛を感するにいう。慈・仁・恵・親・温・恩などがあたる」〈208頁)とある。


(2)   大宰府
古代日本の国防と外交、西海道と呼ばれた九州地方の統治を担った古代最大の地方 都市であった大宰府は、「人物殷繁、天下之一都会」(、『続日本紀』(神護景雲3年〔76910月甲辰条)と称された、ヒトやモノ・カネ・情報などが国内のみならずアジア各地から集積した。この大宰府は、「ツクシノ オホミコトモチノ ツカサ」と読む。日本から朝鮮半島・中国へ出発する遣晴使 ・遣唐使 ・遣新羅使 の出発の基点であったと同時に、大宰府や筑前国 は 「元成辺賊之難也 。其峻城深陛 、 臨海守者 、 豊為内賊耶 」と外賊を防御する最前 線でもあった 。そのために、都からは多くの官人が赴任した。一方、大宰府管下の西海道諸国(九州各地)からは郡司・兵士・工人 らが上番したり、税物を貢納する農民たちもがいた。また、空海や最澄などの入唐僧・渡来僧は大宰府を発着地として 中国や朝鮮の先進的な文物や宗教を将来した。
ところで大宰府史跡から 出土した木簡の中には、鯛や鯖、生鮑などの海産物が大宰府に上納されたとあり、海の幸・山の幸が、各種の宴会の食材として提供されただろう。

(3)駅使
日本の古代律令国家において、駅は兵部省兵馬司の管轄下にあり、その諸規定は厩牧令に、その運営については公式令にある。
律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実際には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の継立などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
  武丸大上げ遺跡(所在地:福岡県宗像市武丸、奈良時代~平安時代(8世紀後半~9世紀前半、都と大宰府を結ぶ官道「西海道」につくられた駅家の跡か)

(4)志賀
  原文は、「鹿」。

ところで、この駅使の名は未詳であるが、なぜ、駅使に大伴宿祢百代らが歌を送らねばならなかっただろうか。