2023年11月19日日曜日

藤原広嗣兵乱時の大将軍 從四位上-大野朝臣東人の本陣に関する言い伝え

内山寺古事

(一名、筑前国三拾三所道中案内記)

慈悲の栞

直方町旧名東蓮寺と称し元倉久村真言宗内山寺の末寺にして、(中略)、霊(ママ)武天皇拾三年大宰大弐(ママ)藤原の広嗣反しけれは大野東人勅を奉して討伐に向かるときここ(多賀神社)に本陣を構へたりと云へり

大野東人が本陣を構えた場所の口伝オーラルヒストリーである。

万葉集と漁期-主に252番歌を中心に

万葉集と漁期とは一見して全く無縁である。しかし、だからこそ、数多い万葉集研究に活用されないままであった。

 その主な理由は万葉集研究者の大半が「ロッキングチェア学派」であるからだ。

今、その一つとして、252番歌を取り上げたい。周知のとおり、この歌群は「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」と呼ぶ。


252番歌

[題詞](柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首)

荒栲 藤江之浦尓 鈴木泉郎跡香将見 旅去吾乎

荒栲の藤江の浦に釣る海人とか見らむ旅行くわれを

 

*藤江

集中に、藤江を探ると

(1)「やすみしし わが大君の 神ながら 高知らします 印南野の大海(「おふみ)、邑美」の原の 荒栲の藤井(藤江)の浦に (しび)釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多になる 浦 を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く 在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜」【938番歌、山部赤人】

とあり、「印南野の邑美の原の 荒砂の藤井(藤江)の浦に」に見る如く「白き海浜に作られた港津」であったらしい。その位置は不明であるが、明石市藤江字別所にある藤江別所遺跡付近を想定してよい。

「この遺跡は藤江川の河口から約300mさかのぼった、標高約12mと比較的低地に位置しています。このあたりまでは、海が入り込んでいたものと考えられています。」(参考文献:『明石市立文化博物館 1996 『明石市文化財調査報告2:明石市 藤江別所遺跡』明石市教育委員会 』)

とある。浦とあるので、「海・湖・池などの、湾曲して陸地に入り込んだ所」(岩波古語、193頁)であり、ここに鱸(鈴木)やなどを目当てとする海人たち漁民集団の居住地があったらしい。

 この海人たちは、下記の2首にも描写されている。

(2)「沖つ波 辺波静けみ 漁(いざ)りすと 藤江乃浦に 船そ動ける」(939番歌、山部赤人)

(3)「白栲の藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行く 吾を」(3607番歌、遣新羅使)


*鱸(鈴木)

さて、ここで注目したいのは、漁期である。

兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)によると、現在の鱸漁は毎年5月から10月まで、そして鮪をサワラだと仮定すると9月から12月までの漁獲、そしてハマチだとすれば、その漁期は10月から12月だという(明石市に本所を置き、県下の沿海地区を中心に19ヶ所の事業所を有する兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)のHPhttp://www.hggyoren.jf-net.ne.jp/Dictionary/Seto-Naikai-Winter.html)による。

すでに慧眼な方であれば、私の狙いを察知しておいでだろうが、「歌が詠まれた時期」の推測材料に注目する。

つまり、252番歌であれば、柿本人麻呂は5月から10月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定できる。

そして938番歌であれば、山部赤人は10月から12月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定してよい。





2023年11月18日土曜日

大宰府から平城京へ所要した日数

 『続日本紀』では、天平12年の藤原広嗣挙兵が好個の資料となる。

8月癸未【29日),大宰少貳-從五位下-藤原朝臣-廣嗣上表,指時政之得失,陳天地之災異。因以除僧正-玄昉法師、右衛士督-從五位上-下道朝臣-真備為言。其上表文,言玄昉、真備為姦雄之客,覆國之人云云,具在『松浦廟宮先祖次第併本緣起』。然近世以來,有偽書之疑。下道真備,後改吉備真倍。
九月,乙酉朔丁亥【3日),廣嗣遂起兵反。
 敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山
陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。


この記事を忠実に読めば、8月29日に挙兵が在り、翌月3日付けで鎮圧軍を大宰府へ送る手はずが整ったとある。

この電光石火のごとき朝廷の対策は、大宰府からの情報の速さの結果であるが、はたして事実であろうか。


さて、これが実現するためには、次のような条件が求められるだろう。

1,大宰府から北九州の港、もしくは豊前国府までの陸路、そして平城京までの海路の整備

2,瀬戸内海を3日で航行するスピードの速い船と迅速な船員確保、そして食料・水積載

3,難波津から平城京までの古代官道と駅家の整備ー1日

4,加えて、瀬戸内海を航行するに順風と穏やかな波


もっとも養老4年(720)の大隅国守殺害事件も視野に入れておきたい。

 2月壬子【29日),大宰府奏言:「隼人反,殺大隅國守-陽侯史-麻呂。」

3月,癸丑朔丙辰(4日),以中納言-正四位下-大伴宿禰-旅人,為征隼人持節大將軍。授刀助-從五位下-笠朝臣-御室,民部少輔-從五位下-巨勢朝臣-真人,為副將軍。


ちなみに、海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。

*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km
延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>

上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp) 
とも推定できる。


確かに現代のマラソンランナーが640キロメートルを駆け抜ければ、42.195キロメールを3時間を要する走者は15人で、45時間で到着できる。
 そのためには、走路がほぼ平坦であることは不可欠である。そしてすべての河に橋がかけてなくてはならない。前日までの豪雨で川の水笠が増して渡河できない状態にあるなどはもってのほかである。
しかも各駅ごとに、大宰府版走ろメロスのようなrunnerが待機していなければならない。はたして可能だろうか。

なお、『延喜式』(巻24,主計上)では、大宰府から平安京まで海路で30日を要したとある。
奈良時代版「ドラえもんのどこでもドアー」が開発されていたのか。

2023年11月17日金曜日

安曇の読みは「アド」か

 安曇は安積とも安住とも表記されるが、それは「アズミ」の読みが定着したのちのことである。

天平勝宝2年4月12日の日付を持つ「東大寺諸荘文書併絵図など目録」と呼ばれる文書の中に

「民部省符1通4至 (東安曇江 南堀江 西百姓家 北松原) 地4町」

という官符がある。今、京都市に水源を発し、琵琶湖にそそぐ「安曇川」と書き「アドガワ」と呼ぶ川がある。そして千田稔氏の論文(「古代港津の歴史地理学的考察」『史林』1970年)に学んだことであるが、地理局図籍課発行『明治19年大阪実測図』には、「アドエ」と表記される地名がある。千田氏の仮説によれば、この「アドエ」が上記の「安曇江」であるという。

 つまり、「安曇」は「アド」と読む。

(参考資料日本地名大辞典 68頁、1979年)