2020年4月11日土曜日

549番歌 天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

549番歌

5年戊辰、太宰少弐石川足人朝臣の遷任するに、筑前国蘆城の駅家に餞する歌三首

天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

(1)太宰少弐石川足人朝臣


(2)蘆城の駅家

日本の古代律令国家において、律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km、古代の一里は約550メートルで、江戸時代の一里とは異なる)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実質的には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の管理などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
なお、駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使方式があった。
   とおろで蘆城駅に関しても、1978年(昭和53年)福岡県筑紫野市大字吉木(御笠地区)で農地改良事業に伴う工事中に発掘された9棟の建物群が注目される。



(筑紫野市教育委員会、1996年3月31日発行)


 さて、駅制を使うためには利用許可証である駅鈴の交付を受ける必要があり、その駅鈴は中央政府のほかに、大宰府と諸国に常備されていた。駅鈴には剋が入れられ、剋数と同じ数の駅馬が各駅で支給された。駅使は、駅家ごとに駅馬を乗り換え、3駅ごとに食事等の提供を受けた。 駅使は、中央から地方へ派遣されるだけでなく、緊急 事態等の発生時には地方から上京することが義務づけられていた。
ところで663年、唐・新羅連合軍に白村江(錦江河口の古名)で日本軍が大敗したのち、列島安保体制の構築を迫られた天智朝に、この全国的な計画道路が整備された可能が高い。この頃、西日本各地に築城された古代山城は、 その立地が駅路や航路など交通路と深い関係にある。駅制が兵部省の管轄下にあること、緊急通信のための交通制度であることなども、駅制・駅路と軍事の間の密接な関係を示している。つまり、駅路は「軍事の道」であったらしい。したがって、あわただしく建設されたためか、古い段階の駅路には側溝がいい加減で、急いで作ったような印象を受ける例もあるという。このように当初は軍用道路として作られたが、国際情 勢が落ち着いてくるに従い、国内支配のための「情報の道」としても使われるようになる。

(以上は、「古代都市 ~日本人とまちづくりの原点~ 古代の交通網古代におけるインフラ」 中村太一( 北海道教育大学釧路校/准教授)参照)


569番歌 韓人の衣染むとふ紫の情に染みて思ほゆるかも 570番歌 大和へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響みてそ鳴く

569番歌
韓人の衣染むとふ紫の情に染みて思ほゆるかも

570番歌

大和へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響みてそ鳴く

右 二首、大典 麻田連陽春

(1)韓人
原文は「辛人」。「韓」は「嫁於韓白水郎◆<◆(木+何)羅から摩ま能の波陀該はたけ>」(仁賢紀6年)とあることで、「から」と読んでいた。「韓衣からごろも」(万葉集2194番)とか、「韓藍(からあゐ)」(万葉集384番)、「韓碓(からうす)」(万葉集384番)、「韓碓(からうす)」(万葉集3886番)、「韓帯(からおび)」(万葉集3791番)、「韓舵(からかじ)」(万葉集3555番)、「韓鍬(からすき)」(新撰字鏡)、「枳殻(からたち)」(万葉集3832番)、「韓玉(からたま)」(万葉集804番)、「韓室(からむろ)」(播磨国風土記)、などに、「韓(から)」が見当たる。

(2)衣
 この「衣」がいかなる衣装なのか不明。

(3)大和へ
 「へ」は、「いづくへ」「こちらへ」などの「へ」と同じ。

(4)鹿の鳴き声
①「ピャッ!」「ピャッ!」という短い警戒音で、仲間に発信
②「キャ」など、9月~11月の繁殖期に山奥などで聞かれるオス同士の縄張り争いの鳴き声
⇒奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の声きく時ぞ 秋は悲しき(猿丸太夫)
③「イアァオオォォォー!」という発情期のオスがメスを求める激しい鳴き声

この場合は、③.

(1)   麻田連 陽春(あさだのむらじやす)
旧姓は答本(とうほん)。百済系渡来氏族。「出自百済国朝鮮王淮也」(『新撰姓氏録』諸蕃・未定雑姓)。神亀元年(724)五月、麻田連を賜わり改姓。この時正八位上。のち大宰大典として筑紫に赴任、大伴旅人の下臣となる。天平二年(730)十二月、旅人上京の際、筑前国蘆城駅家で餞宴に臨席、歌を詠む(万葉集4-569・570)。天平三年(731)六月、肥後の人で相撲使の従人大伴君熊凝が上京途上病死した折、その志を述べた歌を詠む(5-884・885)。天平十一年(739)正月、外従五位下。『懐風藻』に、近江守藤原仲麻呂の詠作に和した五言詩一首を載せ、外従五位下石見守、年五十六とある(仲麻呂の近江守兼任は天平十七-西暦745-年九月)。万葉集には上記四首のみ。


朝鮮王准に関しては、「朝鮮王准為衛滿所破,乃將其餘眾數千人走入海,攻馬韓,破之,自立為韓王」とあり、「侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 其後絶滅 今韓人猶有奉其祭祀者 漢時屬楽浪郡四時朝謁」とある。


また『東大寺文書』巻五「大宰府牒案」に、天平三年(731)三月従六位上大宰大典と見え、さらに、天平十一年(739)正月に、正六位上より外従五位下に昇叙とある。

『懐風藻』に、「外従五位下石見守麻田陽春 一首」、五言の詩がある。
 和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作 一首
  近江惟帝里   近江は惟れ帝里
  裨叡寔神山   裨叡は寔に神山なり
  山静俗塵寂   山静かにして俗塵寂とし
  谷間真理専   谷間にして真理専らなり
  於穆我先考   於 穆たる我が先考
  独悟闡芳縁   独り悟って芳縁を闡く
  宝殿臨空構   宝殿 空に臨んで構へ
  梵鐘入風伝   梵鐘 風に入って伝ふ
  烟雲万古色   烟雲 万古の色
  松柏九冬堅   松柏 九冬堅し
  日月荏冉去   日月 荏冉として去り
  慈範独依々   慈範 独り依々たり
  寂莫精禅処   寂莫たる精禅の処
  俄為積草   俄かに積草のと為る
  古樹三秋落   古樹 三秋落ち
  寒花九月衰   寒花 九月衰ふ
  唯餘両楊樹   唯だ餘す 両楊樹
  孝鳥朝夕悲   孝鳥 朝夕悲しむ

諸蕃 百済

1  779 左京 諸蕃 百済 和朝臣 朝臣   出自百済国都慕王十八世孫武寧王也     286
2  780 左京 諸蕃 百済 百済朝臣 朝臣   出自百済国都慕王卅世孫恵王也     286
3  781 左京 諸蕃 百済 百済公 公   出自百済国都慕王廿四世孫淵王也     286
4  782 左京 諸蕃 百済 調連 連 水海連同祖 百済国努理使主之後也 誉田天皇[謚応神。]御世。帰化。孫阿久太男弥和。次賀夜。次麻利弥和。弘計天皇[謚顕宗。]御世。蚕織献絹之様。仍賜調首姓   286
5  783 左京 諸蕃 百済 林連 連   出自百済国人木貴公也     286
6  784 左京 諸蕃 百済 香山連 連   出自百済国人達率荊員常也     287
7  785 左京 諸蕃 百済 高槻連 連   出自百済国人達率名進也     287
8  786 左京 諸蕃 百済 広田連 連   出自百済国人辛臣君也     287
9  787 左京 諸蕃 百済 石野連 連   出自百済国人近速王孫憶頼福留也     287
10 788 左京 諸蕃 百済 神前連 連   出自百済国人正六位上賈受君也     287
11 789 左京 諸蕃 百済 沙田史 史   出自百済国人意保尼王也     287
12 790 左京 諸蕃 百済 大丘造 造   出自百済国速古王十二世孫恩率高難延子也     287
13 791 左京 諸蕃 百済 小高使主     出自百済国人毛甲姓加須流気也     288
14 792 左京 諸蕃 百済 飛鳥部     百済国人国本木吉志之後也     288

15 856 右京 諸蕃 百済 百済王     出自百済国義慈王也     298
16 857 右京 諸蕃 百済 菅野朝臣 朝臣   出自百済国都慕王十世孫貴首王也     298
17 858 右京 諸蕃 百済 葛井宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男味散君之後也     298
18 859 右京 諸蕃 百済 宮原宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男智仁君之後也     298
19 860 右京 諸蕃 百済 津宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男麻侶君之後也     298
20 861 右京 諸蕃 百済 中科宿祢 宿祢 菅野朝臣同祖 塩君孫宇志之後也     298
21 862 右京 諸蕃 百済 船連 連 菅野朝臣同祖 大阿郎王三世孫智仁君之後也     299
22 863 右京 諸蕃 百済 三善宿祢 宿祢   出自百済国速古大王也     299
23 864 右京 諸蕃 百済 鴈高宿祢 宿祢   出自百済国貴首王也     299
24 865 右京 諸蕃 百済 安勅連 連   出自百済国魯王也     299
25 866 右京 諸蕃 百済 城篠連 連   出自百済国人達率支母未恵遠也     299
26 867 右京 諸蕃 百済 市往公 公   出自百済国明王也     299
27 868 右京 諸蕃 百済 岡連 連 市往公同祖 目図王男安貴之後也     299
28 869 右京 諸蕃 百済 百済公 公     因鬼神感和之義。命氏謂鬼室。廃帝天平宝字三年。改賜百済公姓   300
29 870 右京 諸蕃 百済 百済伎     出自百済国都慕王孫徳佐王也     300
30 871 右京 諸蕃 百済 広津連 連   出自百済国近貴首王也     300
31 872 右京 諸蕃 百済 清道連 連   出自百済国人恩率納比旦止也     300
32 873 右京 諸蕃 百済 広海連 連   出自韓王信之後須敬也     300
33 874 右京 諸蕃 百済 不破連 連   出自百済国都慕王之後有王也     300
34 875 右京 諸蕃 百済 麻田連 連   出自百済国朝鮮王淮也     301
35 876 右京 諸蕃 百済 広田連 連   百済国人辛臣君之後也     301
36 877 右京 諸蕃 百済 春野連 連   出自百済速古王孫比流王也     301
37 878 右京 諸蕃 百済 面氏   春野連同祖 比流王之後也     301
38 879 右京 諸蕃 百済 己氏   春野連同祖 速古王孫休奚之後也     301
39 880 右京 諸蕃 百済 斯氏   春野連同祖 速古王孫比流王之後也     301
40 881 右京 諸蕃 百済 大県史 史   百済国人和徳之後也     301
41 882 右京 諸蕃 百済 道祖史 史   出自百済国主挨許里公也     302
42 883 右京 諸蕃 百済 大原史 史   出自漢人木姓阿留素西姓令貴也     302
43 884 右京 諸蕃 百済 苑部首 首   出自百済国人知豆神也     302
44 885 右京 諸蕃 百済 民首 首 水海連同祖 百済国人努利使主之後也     302
45 886 右京 諸蕃 百済 高野造 造   百済国人佐平余自信之後也     302
46 887 右京 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   出自百済国比有王也     302
47 888 右京 諸蕃 百済 御池造 造   出自百済国扶餘地卓斤国主施比王也     302
48 889 右京 諸蕃 百済 中野造 造   百済国人杵率答他斯智之後也     303
49 890 右京 諸蕃 百済 真野造 造   出自百済国肖古王也     303
50 891 右京 諸蕃 百済 枌谷造 造   出自百済国人堅祖州耳也     303
51 892 右京 諸蕃 百済 坂田村主 村主   出自百済国人頭貴村主也     303
52 893 右京 諸蕃 百済 上勝     出自百済国人多利須須也     303
53 894 右京 諸蕃 百済 不破勝     百済国人渟武止等之後也     303
54 895 右京 諸蕃 百済 刑部     出自百済国酒王也     303
55 896 右京 諸蕃 百済 漢人     百済国人多夜加之後也     304
56 897 右京 諸蕃 百済 賈氏     出自百済国人賈義持也     304
57 898 右京 諸蕃 百済 半氏     百済国沙半王之後也     304
58 899 右京 諸蕃 百済 大石椅立     出自百済国人庭姓蚊尓也     304
59 900 右京 諸蕃 百済 林   林連同祖 百済国人木貴之後也     304
60 901 右京 諸蕃 百済 大石林   林連同祖 百済国人木貴之後也     304

61 923 山城国 諸蕃 百済 民首 首 水海連同祖 百済国人怒理使主之後也     309
62 924 山城国 諸蕃 百済 伊部造 造   出自百済国人乃里使主也     309
63 925 山城国 諸蕃 百済 末使主     出自百済国人津留牙使主也     309
64 926 山城国 諸蕃 百済 木曰佐   末使主同祖 津留牙使主之後也     309
65 927 山城国 諸蕃 百済 勝   上勝同祖 百済国人多利須々之後也     309
66 928 山城国 諸蕃 百済 岡屋公 公   百済国比流王之後也     310

67 947 大和国 諸蕃 百済 縵連 連   出自百済人狛也     313
68 948 大和国 諸蕃 百済 和連 連   出自百済国主雄蘇利紀王也     313
69 949 大和国 諸蕃 百済 宇奴首 首   出自百済国君男弥奈曽富意弥也     313
70 950 大和国 諸蕃 百済 波多造 造   出自百済国人佐布利智使主也     313
71 951 大和国 諸蕃 百済 薦口造 造   出自百済国人抜田白城君也     314
72 952 大和国 諸蕃 百済 園人首 首   出自百済国人知豆神之後也     314

73 975 摂津国 諸蕃 百済 船連 連 菅野朝臣同祖 大阿良王之後也     318
74 976 摂津国 諸蕃 百済 広井連 連   出自百済国避流王也     318
75 977 摂津国 諸蕃 百済 林史 史 林連同祖 百済国人木貴之後也     318
76 978 摂津国 諸蕃 百済 為奈部首 首   出自百済国人中津波手也     318
77 979 摂津国 諸蕃 百済 牟古首 首   出自百済国人吉志也     318
78 980 摂津国 諸蕃 百済 原首 首 真神宿祢同祖 福徳王之後也     318
79 981 摂津国 諸蕃 百済 三野造 造   出自百済国人布須真乃古意弥也     318
80 982 摂津国 諸蕃 百済 村主   葦屋村主同祖 意宝荷羅支王之後也     319
81 983 摂津国 諸蕃 百済 勝   上勝同祖 多利須須之後也     319

82 1027 河内国 諸蕃 百済 水海連 連   出自百済国人努理使主也     326
83 1028 河内国 諸蕃 百済 調曰佐   水海連同祖       326
84 1029 河内国 諸蕃 百済 河内連 連   出自百済国都慕王男陰太貴首王也     326
85 1030 河内国 諸蕃 百済 佐良々連 連   出自百済国人久米都彦地     326
86 1031 河内国 諸蕃 百済 錦部連 連 三善宿祢同祖 百済国速古大王之後也     326
87 1032 河内国 諸蕃 百済 依羅連 連   出自百済国人素祢志夜麻美乃君也     326
88 1033 河内国 諸蕃 百済 山河連 連 依羅連同祖 素祢夜麻美乃君之後也     326
89 1034 河内国 諸蕃 百済 岡原連 連   出自百済国辰斯王子知宗也     327
90 1035 河内国 諸蕃 百済 林連 連   出自百済国直支王[古記云周王。]也     327
91 1036 河内国 諸蕃 百済 呉服造 造   出自百済国人阿漏史也     327
92 1037 河内国 諸蕃 百済 宇努造 造 宇努首同祖 百済国人弥那子富意弥之後也     327
93 1038 河内国 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   出自百済国主比有王男伎王也     327
94 1039 河内国 諸蕃 百済 飛鳥戸造 造   百済国末多王之後也     327
95 1040 河内国 諸蕃 百済 古市村主 村主   出自百済国虎王也     327
96 1041 河内国 諸蕃 百済 上曰佐     出自百済国人久尓能古使主也     328

97 1057 和泉国 諸蕃 百済 百済公 公   出自百済国酒王也     330
98 1058 和泉国 諸蕃 百済 六人部連 連 百済公同祖 酒王之後也     331
99 1059 和泉国 諸蕃 百済 錦部連 連 三善宿祢同祖       331
100 1060 和泉国 諸蕃 百済 信太首 首   百済国人百千之後也     331
101 1061 和泉国 諸蕃 百済 取石造 造   出自百済国人阿麻意弥也     331
102 1062 和泉国 諸蕃 百済 葦屋村主 村主   出自百済意宝荷羅支王也     331
103 1063 和泉国 諸蕃 百済 村主   葦屋村主同祖 大根使主之後也     331
104 1064 和泉国 諸蕃 百済 衣縫     出自百済国神露命也     331

以上104氏族/全氏族1182=8,8% 諸蕃326氏族の32%

(2)   右 二首
万葉集中には、「右の何首」という記述がある。43歌群、188首である。

巻1(54~56、57~58、66~69、71~72、74~75)
巻3(385~387)
巻4(566~567)
巻6(997~1002、1013~1014、1024~1027、1042~1043)
巻17(3995~3998)
巻18(4046~4051、4066~4069、4086 ~4088)
巻19(4222~4223、4257~4259、4269~4272、4273~4278、4279~4281、4282~4284)
巻20(4295~4297、4298~4300、4302~4303、4321~4327、4328~4330、4337~4346、4347~4349、4373~4383、4384~4394、4401~4403、4404~4407、4413~4424、4442~4444、4446~4448、4452~4453、4457~4459、4486~4487、4488~4490、4493~4494、4496~4505、4506~4510、4511~4513)

 この一覧から容易に判明するように、いくつかの特色が認められる。第1は、巻17、巻19、巻20に集中していることである。
 第2には、 
太上天皇、大宝元年辛丑の秋九月・紀伊国に幸せる時の歌(巻1、54~56)
二年壬寅 太上天皇 参河国に幸せる時の歌(巻1、57~58)

九年丁丑の春正月に橘少卿并せて諸の大夫等、弾正尹門部王の家に集ひて、宴する歌二首(巻6、1013~1014)
秋八月二十日に右大臣橘家に宴する歌四首、(巻6,102④~1027)
などにみるとおり、全43歌群のうち27歌群が饗宴(宴)の場に関連しているところから想定して、本569番~570番歌も饗宴の場の作歌であるだろう。


(3)   大伴旅人餞宴の歌
   題詞によれば、大宰帥大伴旅人が大納言となって上京するに当って、太宰府の官人たちが、筑前国蘆城の駅家での送別の餞宴の席で披露された歌四首中の二首である。旅人が大納言に任ぜられたのは『公卿補任』には「天平2年〈730)10月1日」とあり、『萬葉集』には
「天平二年庚午の冬十一月、大宰帥大伴卿の、大納言に任ぜられて帥を兼ぬること旧の如し。京に上りし時に」 (17・3890題詞) 、
「 (天平二年)冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上りし時に」 (6・965題詞・966左注)、「書殿に餞酒せし日の倭歌 四首(5・876〜879) 、
 「聊かに私懐を布べし歌三首(5・880〜882。天平二年十二月六日、筑前国司山上憶良謹みて上る。」、
 「天平二年庚午の冬十二月、大宰帥大伴卿の、京に向かひて上道 せし時に作りし歌五首(3・446~450 ) 」
とあり、陽春の二首目(570)に
「大和へ君が立つ日の近づけば」とあるので、11月中の餞宴であったと考えられる。餞宴の場「蘆城駅家」 (福岡県筑紫野市阿志岐)は、
「五年戊辰、大宰少弐石川足人朝臣遷任するに、筑前国蘆城駅家に餞せし歌三首(4・549~551) 」
及び旅人上京時「傔従等別に海路を取りて京  に入りき。 (17・3890題詞)」、
「天平二年庚午の冬十二月、大宰帥大伴卿の、京に向かひて上道せし時に作りし歌五首(3・446~450)」とあることで、天平2年12月であった(以上は、川上富吉「麻田連陽春の和歌と漢詩―麻田連陽春伝考続」『大妻国文』第43号、1~17頁、2012年、参照)   
  孝鳥朝夕悲 

2020年4月4日土曜日

566番歌 草枕旅行く君を愛つみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

566番歌

太宰大監大伴宿祢百代等、駅使に贈る歌二首

草枕旅行く君を愛しみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

(1)愛しみ
  原文「愛見」とあり、「うつくしみ」と読む。「うるはし」とも読む。
万葉集中に、「愛しきひのまきてし」(438番歌)とか

大系では、「ウツクシは親子夫婦のこまやかな情愛を感するにいう。慈・仁・恵・親・温・恩などがあたる」〈208頁)とある。


(2)   大宰府
古代日本の国防と外交、西海道と呼ばれた九州地方の統治を担った古代最大の地方 都市であった大宰府は、「人物殷繁、天下之一都会」(、『続日本紀』(神護景雲3年〔769〕10月甲辰条)と称された、ヒトやモノ・カネ・情報などが国内のみならずアジア各地から集積した。この大宰府は、「ツクシノ オホミコトモチノ ツカサ」と読む。日本から朝鮮半島・中国へ出発する遣晴使 ・遣唐使 ・遣新羅使 の出発の基点であったと同時に、大宰府や筑前国 は 「元成辺賊之難也 。其峻城深陛 、 臨海守者 、 豊為内賊耶 」と外賊を防御する最前 線でもあった 。そのために、都からは多くの官人が赴任した。一方、大宰府管下の西海道諸国(九州各地)からは郡司・兵士・工人 らが上番したり、税物を貢納する農民たちもがいた。また、空海や最澄などの入唐僧・渡来僧は大宰府を発着地として 中国や朝鮮の先進的な文物や宗教を将来した。
ところで大宰府史跡から 出土した木簡の中には、鯛や鯖、生鮑などの海産物が大宰府に上納されたとあり、海の幸・山の幸が、各種の宴会の食材として提供されただろう。

(3)駅使
日本の古代律令国家において、駅は兵部省兵馬司の管轄下にあり、その諸規定は厩牧令に、その運営については公式令にある。
律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実際には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の継立などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
  武丸大上げ遺跡(所在地:福岡県宗像市武丸、奈良時代~平安時代(8世紀後半~9世紀前半、都と大宰府を結ぶ官道「西海道」につくられた駅家の跡か)

(4)志賀
  原文は、「鹿」。

ところで、この駅使の名は未詳であるが、なぜ、駅使に大伴宿祢百代らが歌を送らねばならなかっただろうか。


562番歌 暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつうも逢はぬ妹かも

562番歌
暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつうも逢はぬ妹かも

(1)眉根
  「まゆね」と読む。「まよね」と読む説もある。

(2)眉根を搔く

 眉を搔く。「眉がかゆい」のは恋人に会える前兆。したがって、恋人に会いたいときは俗信として、自分の眉を搔く。類歌は 「 眉根搔き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも」万葉集 993番歌

後世になっても、

「眉根掻き紐とき垂れて待ためやもしゑや今宵と言ひてしものを」〈久安百首〉 「雨降るといかでか人を待たざらむ誰 (た) がためかける我が眉根ぞ」(基俊集)

等の例がある。  

561番歌 思はぬを思ふといはば大野なる三笠の社の神し知らさむ

561番歌
思はぬを思ふといはば大野なる三笠の社の神し知らさむ

(1)大野
  現在の大野城市山田大字御笠の森通称舞田か。

(2)なる
  Ni+aru ⇒naru (母音 i )の脱落

(2)知る
  「知る」は支配・管理するの意。
   仁徳記などに「汝が御子やつびに知らむと雁は卵生らし 」とあるように、神の託宣により、仁徳天皇の後継者が「日継」(皇位継承)、つまり国の支配権を所有するとある。

560番歌 恋ひ死なむ時は何せむ生ける日のためこそ妹をみまく欲りすれ

560番歌

恋ひ死なむ時は何せむ生ける日のためこそ妹をみまく欲りすれ

(1)何せむ
  「せむ」は反語。

(2)生ける
   Ikuari ⇒ Ikeri  ua⇒e  二重母音の変化

(3)見まく
  「見む」のク語法。mimu+aku ⇒ mimaku。なお、万葉集中に、ク語法は531例あり。

[参考文献]
大野 晋 (1952), 「古文を教へる国語教師の対話--文法史の知識はどのやうに役立つか--」, 『国語学』 8, pp.87-
早田 輝洋 (1998)「上代日本語の音節構造とオ列甲乙の別」, 『音声研究』 2(1), pp.25-33
安田 尚道 (2009), 「"ク語法 aku説"とその提唱者たち」, 『青山大学文学部紀要』 51, pp.143-

(4)欲りすれ 
  「欲りす」の已然形。「こそ~すれ」と呼応

(5)妹
  愛する妻、もしくは愛する人。

(6)~ム時ハ
   「事おはり、帰らむ日には」(万葉集、5、984番)

559番歌 事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にもわれは会へるかも

559番歌

事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にもわれは会へるかも

(1)生き来しものを
  「生來之物乎」の訓が定まらない

(2)老いなみ
  老いらくの恋。559番歌では「恋」と記すが、560番歌では、「孤悲」と書く。現代感覚で「恋」と理解すべきではなく、むしろ「孤独に(一人で)もだえ苦しい恋」である。
「恋ひ」を表現する文字は、古事記では「古斐」、万葉集では「古非」「故非」「故飛」「孤悲」、日本書紀には「姑悲」

なお、563番歌では「老ゆる」は「耆」に当てる。正倉院文書中の大宝戸籍などを参照すると、66歳以上を「耆老(耆女)」、61歳から65歳を「老夫(老女)」と記す。

(3)吾者遇流香聞
  まず「吾」は、「われ」か「あれ」と読まれてきたが、私は「われ」と読みたい。