太宰大監大伴宿祢百代等、駅使に贈る歌二首
草枕旅行く君を愛しみ副ひてそ来し志賀の浜辺を
(1)愛しみ
原文「愛見」とあり、「うつくしみ」と読む。「うるはし」とも読む。
万葉集中に、「愛しきひのまきてし」(438番歌)とか
大系では、「ウツクシは親子夫婦のこまやかな情愛を感するにいう。慈・仁・恵・親・温・恩などがあたる」〈208頁)とある。
(2) 大宰府
古代日本の国防と外交、西海道と呼ばれた九州地方の統治を担った古代最大の地方 都市であった大宰府は、「人物殷繁、天下之一都会」(、『続日本紀』(神護景雲3年〔769〕10月甲辰条)と称された、ヒトやモノ・カネ・情報などが国内のみならずアジア各地から集積した。この大宰府は、「ツクシノ オホミコトモチノ ツカサ」と読む。日本から朝鮮半島・中国へ出発する遣晴使 ・遣唐使 ・遣新羅使 の出発の基点であったと同時に、大宰府や筑前国
は 「元成辺賊之難也 。其峻城深陛 、 臨海守者 、 豊為内賊耶 」と外賊を防御する最前 線でもあった 。そのために、都からは多くの官人が赴任した。一方、大宰府管下の西海道諸国(九州各地)からは郡司・兵士・工人
らが上番したり、税物を貢納する農民たちもがいた。また、空海や最澄などの入唐僧・渡来僧は大宰府を発着地として 中国や朝鮮の先進的な文物や宗教を将来した。
ところで大宰府史跡から
出土した木簡の中には、鯛や鯖、生鮑などの海産物が大宰府に上納されたとあり、海の幸・山の幸が、各種の宴会の食材として提供されただろう。
(3)駅使
日本の古代律令国家において、駅は兵部省兵馬司の管轄下にあり、その諸規定は厩牧令に、その運営については公式令にある。
律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、
大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
駅の所管は国司にあったが、実際には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の継立などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
(4)志賀
原文は、「鹿」。
ところで、この駅使の名は未詳であるが、なぜ、駅使に大伴宿祢百代らが歌を送らねばならなかっただろうか。
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