勝安麻呂をめぐる三つの記録
――「閹人・残疾」を手掛かりとした日本古代宦官存在論のための作業仮説――
はじめに
日本古代史において、「宦官」はきわめて扱いにくい存在である。
中国・朝鮮半島の古代国家では、宮廷、とりわけ後宮を支える制度として宦官が存在したことは周知の事実である。これに対して、日本の律令国家については、しばしば「宦官制度は存在しなかった」と説明される。
しかし、この「存在しなかった」という理解は、果たして「宦官が存在しなかった」ことを積極的に証明した結果なのだろうか。それとも、制度として明確に確認できる史料が少ないことから導かれた理解なのだろうか。
本稿は、この問題を正面から解決しようとするものではない。
一人の人物――勝安麻呂――に注目する。
現在確認できる二種類の史料には、勝安麻呂という同じ名を持つ人物が現れる。
第一は、『御野国加毛郡半布里戸籍』に見える勝安麻呂である。
第二は、平城宮推定造酒司宮内道路南側溝から出土した木簡に見える勝安麻呂である。
さらに重要なのは、第一の戸籍史料における勝安麻呂が、「閹人・残疾」として記載されていることである。
ここから、一つの途方もない作業仮説が成立する。
美濃国加毛郡半布里戸籍に記載された「閹人・残疾」の勝安麻呂と、平城宮の木簡に記載された「勝安麻呂」が同一人物であるならば、後者はかつて宮廷、とりわけ後宮に関係する勤務経験を持った人物であり、老年に達した後、美濃国へ戻った人物ではなかったか。
もちろん、これは証明された事実ではない。むしろ、現段階では証明することのできない仮説である。だからこそ、本稿ではこれを「作業仮説」と呼びたい。
1 第一の史料――『御野国加毛郡半布里戸籍』の勝安麻呂
『御野国加毛郡半布里戸籍』は、古代日本の人口・家族構成・身分・身体的属性などを具体的に知ることのできる極めて重要な史料である。
その中に、
勝安麻呂
という人物が登場する。さらに、この勝安麻呂について重要な情報が付されている。
閹人・残疾
ここで「閹人」は見過ごすことのできない語である。「閹」は基本的には男性を去勢することを意味する。したがって「閹人」は、文字通りには去勢された男性を意味する。
そして中国史上、この「閹人」は単なる身体的特徴を表す語にとどまらず、宮廷、とりわけ後宮に奉仕する男性、すなわち宦官との関係において使用されてきた。
しかし、ここで一足飛びに、
閹人=宦官=宮廷勤務者
と同一視することはできない。この三者は明確に区別しなければならない。「閹人」という語が示すのは、第一義的には身体的状態である。それがただちに日本の律令国家における制度的な「宦官」を意味するとは限らない。したがって、ここで重要なのは、「閹人」という一語だけから宦官制度の存在を結論づけることではない。
むしろ、
なぜ日本の戸籍に、わざわざ「閹人」と記載された男性が存在するのか。
という問いを立てることである。
2 第二の史料――平城宮の木簡に現れる勝安麻呂
もう一つの史料が、平城宮推定造酒司宮内道路南側溝から出土した木簡である。
その記載は、
「縫○御服所請/鯵壱拾陸隻/小鰯一升……
已上四人日料依命婦・宣所請如件
……五月廿二日勝安麻呂……別当史生阿閇」
というものである。ここで注目すべきなのは、木簡の内容だけではない。
末尾に、
五月廿二日 勝安麻呂
とある。
つまり、平城宮という中央宮廷空間において、勝安麻呂という人物が行政的な文書処理に関与していることが確認できる。
しかも木簡は、単純な私的文書ではない。「御服所」「日料」「命婦」「宣」「請」「別当」「史生」など、宮廷内部の物資支給・人員管理・文書処理を思わせる語彙が集中している。
ここで重要なのは、
勝安麻呂という人物が、少なくとも宮廷の業務空間に接続していた
ということである。これだけでも興味深い。しかし、第一史料の勝安麻呂が「閹人・残疾」であったことを重ねると、問題の性格が変わってくる。
3 二つの史料を重ねる
ここで、二つの史料を並べてみよう。
| 史料 | 勝安麻呂に関する情報 |
|---|---|
| 『御野国加毛郡半布里戸籍』 | 勝安麻呂。「閹人・残疾」 |
| 平城宮出土木簡 | 勝安麻呂。宮廷関係業務に関与 |
この二つだけなら、まだ何も断定できない。
最大の問題は当然、
二人の勝安麻呂が同一人物なのか。
ということである。
古代において同名人物が存在することは十分にあり得る。したがって、「勝安麻呂」という名前が一致しただけでは、同一人物説は成立しない。しかし逆に言えば、
同一人物ではないことも、現段階では証明されていない。
ここに研究上の余地がある。そこで、仮に両者を同一人物とした場合、どのような人生像が描けるかを考えてみたい。
4 「ある作業仮説」の提出
仮説として、勝安麻呂の人生を次のように描いてみる。若年期から成年期にかけて、勝安麻呂は美濃国にいた。その後、何らかの経路によって中央へ移動する。そして平城宮において、宮廷内部の業務に従事する。そこで、御服関係の物資、人員、日料などを扱う業務に関係した。さらに年齢を重ねる。やがて五十代に達する。そして宮廷勤務を終え、美濃国へ戻る。
その人物が、戸籍において、
「閹人・残疾」
と記録されている。
もし、この連鎖が成立するならば、極めて重大な問題が浮かび上がる。
それは、
日本の律令国家において、身体的に「閹人」とされた男性が、宮廷内部で勤務していた可能性
である。
さらに一歩進めれば、
日本にも、制度として明確に組織化された「宦官制度」とは別の形で、宮廷における去勢男性の奉仕・勤務が存在した可能性
を考えることもできる。ここが、本作業仮説の最も大胆な部分である。
5 「後宮」という問題
ここで、さらに重要な注意を必要とする。
「平城宮に勤務した」ことと「後宮に勤務した」ことは同じではない。
したがって、
勝安麻呂=後宮勤務者
と断定する史料は、現在のところ存在しない。繰り返すが、肯定も否定もできない史料である。しかし、もし「閹人」という身体的属性を持つ男性が宮廷内部で勤務していたとすれば、次に問うべき場所の一つとして後宮が浮上する。なぜなら、去勢男性が宮廷に置かれることには、単なる身体的理由だけではなく、宮廷女性空間との関係という問題が生じるからである。
そこで仮説を一段階進める。
勝安麻呂は、宮廷、とりわけ後宮に関係する職務に従事していたのではないか。
ただし、これはさらに一段階飛躍した仮説であり、想像だと反論されても、それは率直に応諾する。しかしながら、
史料的事実
→「勝安麻呂」という人物が戸籍と木簡に現れる。
史料的事実
→戸籍の勝安麻呂には「閹人・残疾」という記載がある。
史料的事実
→木簡の勝安麻呂は平城宮の業務に関係する。
ここから先の、
「同一人物である」
「宮廷勤務以前または勤務中に去勢された」
「後宮に勤務した」
という部分は、すべて仮説である。この階層構造を崩すつもりはない。
6 なぜ「老人になって美濃へ戻った」という仮説が重要なのか
ここで、年齢が重要な意味を持ってくる。もし木簡の勝安麻呂と戸籍の勝安麻呂が同一人物であり、戸籍記載時に五十代に達していたとすれば、彼はすでに若い宮廷労働者ではない。五十代は、古代社会において十分に老年性を帯びた年齢である。
そこで、
宮廷勤務
↓
長期間の中央滞在
↓
老年化
↓
美濃国への帰還
↓
戸籍への記載
という人生経路を仮定することができる。ただし、これは立証できない。
しかし、もし成立すれば、戸籍に残された「閹人」という一見孤立した情報と、平城宮木簡の「勝安麻呂」という人物情報が、一つの人生史として結びつく。
つまり、
戸籍は「地方に戻った老年期の勝安麻呂」を記録し、木簡は「中央宮廷で働いていた勝安麻呂」を記録した
という可能性である。これは、単なる同名人物の比較ではない。一人の人物の人生を、地方戸籍と中央宮廷木簡という異なる史料体系から復元する試みになる。
ところで、ここで、なぜ勝安麻呂が御野国加毛郡半布里に居住するようになったかに関する私の推論も提示しておきたい。『半布里戸籍』には、実は勝安麻呂だけではなく、
- 不破勝族=不破郡の勝族
- 各務勝族=各務郡の勝族
- 宮勝族 =都の勝族
が居住しており、本戸籍内でも、有力氏族である秦氏との間で、例えば、 ①戸主弟秦小麻呂〈年四十二正丁〉―小麻呂妻勝族百売〈年卅七正女〉 ②中政戸不破勝族金麻呂―戸主妻秦人弥屋売〈年六十正女〉 のように婚姻関係を結び、集落内の有力氏族秦氏の姻族として一定の勢力を有したに違いない。
ちなみに、従来、半布里戸籍の総人口1,119人のうち、秦人・秦人部・勝など、氏姓や集団表示から渡来系と考えられる人物は497人と計算されてきた。さらに、私の計算では敢臣族岸臣を吉士・吉志系の渡来人とみなせば、少なくとも10人を加えることができ、直接に渡来系と認定できる人物は507人、全人口の約45.3%となる。しかし、この507人をもって半布里の渡来系人口の「実数」とすることはできないものの、この集落に過半数に近い半島系渡来人が集団で居住し、同じ半島系渡来人である勝安麻呂にとって、親和性があったに違いない。
仮説の屋上屋を重ねることとなるが、美濃国に川原寺式瓦の分布が1 1 か所におよんでいることを考えると、彼ら半島系渡来人の勢力拡大には壬申の乱が契機となった可能性が高い。各務郡・不破郡に分布する川原寺系寺院はその論功行賞の結果であったと推測する。
7 「宦官制度はなかった」という命題をどう扱うか
ここで、最も慎重にならなければならない。「日本には宦官制度がなかった」という研究上の理解があるとしても、本稿から、
「だから日本には宦官がいた」
と逆転させることはできない。それでは、確実な史料の裏付けないままに、論理が飛躍してしまうからである。そしてすぐさま有識者からの反論の嵐となるだろう。本稿が提起するのは、もっと限定された問題である。
「日本古代には宦官が存在しなかった」という理解を、改めて一次史料から検証する必要があるのではないか。
という問題提起である。「制度としての宦官」と「去勢された男性が宮廷に勤務すること」
は、別問題である。したがって、仮に勝安麻呂が宮廷勤務の「閹人」であったとしても、それだけで日本に中国・朝鮮半島と同じ意味での「宦官制度」が存在したことにはならない。
むしろ興味深いのは、
律令国家は、制度として「宦官」を明記していないにもかかわらず、必要に応じて去勢男性を宮廷労働力として利用していたのではないか。
という可能性である。もしそうならば、それは「宦官制度の有無」という二分法では捉えられない。
8 「制度がない」と「人がいない」は同じではない
ここに、この作業仮説の核心がある。古代国家について、
「制度として規定されていない」
ことと、
「そのような人間が存在しなかった」
ことは、同じではない。
例えば、律令の職制表にある職名と、実際の宮廷現場で必要とされた人員配置が完全に一致するとは限らない。木簡が示すのは、まさにその「現場」である。
そこには、
人名
日料
食料
物資
命婦
宣
請
別当
史生
などが現れる。つまり、制度史料だけを見ていると見えにくい、
「実際に誰が、何をしていたのか」
という問題が見えてくる。
勝安麻呂についても同じである。
もし彼が実際に宮廷で働いていたのであれば、律令の制度表に「宦官」という名称が存在するかどうかとは別に、
「閹人である男性が宮廷業務に組み込まれる」という実務上の現象
が存在した可能性がある。
9 「妄想」と批判された場合、どう答えるか
この仮説には、当然ながら大量の反論が可能であると予想している。
「同名異人ではないか」
「閹人だからといって宦官とは限らない」
「木簡から後宮勤務は確認できない」
「美濃へ戻ったことも証明できない」
「そもそも二つの史料を結びつける根拠が弱い」
など。すべて正しいと私自身も全面的に同意し、本稿はこれらを否定しない。
むしろ、これらの反論を受け入れたうえで仮説を提示する。
本稿は、勝安麻呂が宦官であったことを証明するものではない。
異なる史料に現れる勝安麻呂を同一人物として仮定した場合、「閹人・残疾」という記載が、平城宮における彼の存在とどのように結びつくのかを検討する作業仮説である。したがって、これは結論ではない。また、「日本古代に宦官制度が存在した」という主張でもない。
むしろ、
既存の「日本古代に宦官は存在しなかった」という理解を、もう一度一次史料から検証するための、史料探索上の仮説
なのである。
そして、ここが重要である。仮説が証明できないことと、仮説に研究上の価値がないことは同じではない。優れた作業仮説は、答えを与えるためだけに存在するのではない。
それまで見えていなかった史料を、
「ひょっとすると、ここに関係する史料があるのではないか」
という目で探すために存在する。
10 この仮説から何を探すべきか
この仮説を採用するなら、次に探すべき史料は明確になる。
第一に、勝氏・勝安麻呂の系譜資料である。
第二に、美濃国の戸籍・計帳類を再検討し、勝安麻呂とその家族・年齢・居住地・身分関係を確認する。
第三に、平城宮木簡を「勝安麻呂」という文字列だけで検索する。
第四に、勝氏・渡来系氏族と宮廷勤務との関係を調べる。
第五に、「閹」「閹人」「宦」「残疾」などの語を、正倉院文書・木簡・戸籍・計帳・令集解・古記録全体から横断的に検索する。
第六に、後宮関係の木簡・正倉院文書において、去勢男性を示唆する記載がないかを再検討する。
そして第七に、
「宦官」という制度名を探すのではなく、「閹人が何をしていたか」を探す。
これが最も重要な将来プランであり、研究戦略になるだろう。
11 この仮説が本当に面白い理由
この仮説の面白さは、「日本にも宦官がいた」というセンセーショナルな結論そのものにはない。むしろ、
「古代国家の制度と、実際にそこで働いていた人間との間にズレがあったのではないか」
というところにある。律令は国家の設計図である。しかし木簡は、国家が実際に動いていた現場の記録である。そして戸籍は、その人間が地方社会の中でどのように登録されていたかを記録する。
もし、中央の木簡と地方の戸籍が、一人の「勝安麻呂」によって接続できるならば、それは極めて興味深い。
一人の人物を媒介として、
宮廷 ― 官司 ― 労働 ― 身体 ― 移動 ― 地方社会
が一本の線で結ばれるからである。
そして、その線の途中に、
「閹人・残疾」
という、これまで十分に掘り下げられてこなかった身体情報が存在する。
おわりにかえて――「証明」ではなく「探索の起点」として
勝安麻呂について、現段階で確実に言えることは限られている。戸籍に「勝安麻呂」が存在し、「閹人・残疾」と記載されている。また、平城宮出土木簡に「勝安麻呂」が現れ、宮廷関係の業務に接続する。これ以上を確実な事実として語ることはできない。
しかし、二つの史料を同一人物と仮定した瞬間、歴史像が変わる。そこには、
美濃の男性
↓
中央への移動
↓
平城宮での勤務
↓
宮廷・後宮との関係?
↓
老年期
↓
美濃への帰還?
↓
戸籍への登録
↓
「閹人・残疾」
という、一人の人物の人生を想定することができる。もちろん、その多くはまだ空白であるり、正共に空白であり続けるかもしれない。しかし、歴史研究において重要なのは、空白を想像で埋めることではない。
どの空白に、どの史料を探せばよいのかを示すことである。
したがって、本稿の立場は明確である。
本稿は、勝安麻呂が宦官であったことを証明するものではない。
異なる史料に現れる勝安麻呂を同一人物として仮定した場合、「閹人・残疾」という記載が、平城宮における彼の存在とどのように結びつくのかを検討する作業仮説である。
そして、
これは結論ではなく、既存の「日本古代に宦官は存在しなかった」という理解を再検討するための、史料探索上の仮説である。
この意味で、この仮説の価値は、証明の確実性にあるのではない。
むしろ、
「閹人」という一語を、戸籍の片隅に置かれた特殊な身体情報として終わらせず、平城宮という国家中枢で働いた可能性のある一人の人物の人生と結びつけて考えてみること。
そしてそのことによって、
「日本古代には宦官はいなかった」という、あまりにも自明視されてきた命題そのものを、もう一度史料の側から問い直すこと。
そこに、この「ささやか作業仮説」の本当の意味がある。
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