2020年4月11日土曜日

549番歌 天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

549番歌

5年戊辰、太宰少弐石川足人朝臣の遷任するに、筑前国蘆城の駅家に餞する歌三首

天地の神を助けよ 草枕旅ゆく君が家に至るまで

(1)太宰少弐石川足人朝臣


(2)蘆城の駅家

日本の古代律令国家において、律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km、古代の一里は約550メートルで、江戸時代の一里とは異なる)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実質的には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の管理などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
なお、駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使方式があった。
   とおろで蘆城駅に関しても、1978年(昭和53年)福岡県筑紫野市大字吉木(御笠地区)で農地改良事業に伴う工事中に発掘された9棟の建物群が注目される。



(筑紫野市教育委員会、1996331日発行)


 さて、駅制を使うためには利用許可証である駅鈴の交付を受ける必要があり、その駅鈴は中央政府のほかに、大宰府と諸国に常備されていた。駅鈴には剋が入れられ、剋数と同じ数の駅馬が各駅で支給された。駅使は、駅家ごとに駅馬を乗り換え、3駅ごとに食事等の提供を受けた。 駅使は、中央から地方へ派遣されるだけでなく、緊急 事態等の発生時には地方から上京することが義務づけられていた。
ところで663年、唐・新羅連合軍に白村江(錦江河口の古名)で日本軍が大敗したのち、列島安保体制の構築を迫られた天智朝に、この全国的な計画道路が整備された可能が高い。この頃、西日本各地に築城された古代山城は、 その立地が駅路や航路など交通路と深い関係にある。駅制が兵部省の管轄下にあること、緊急通信のための交通制度であることなども、駅制・駅路と軍事の間の密接な関係を示している。つまり、駅路は「軍事の道」であったらしい。したがって、あわただしく建設されたためか、古い段階の駅路には側溝がいい加減で、急いで作ったような印象を受ける例もあるという。このように当初は軍用道路として作られたが、国際情 勢が落ち着いてくるに従い、国内支配のための「情報の道」としても使われるようになる。

(以上は、「古代都市 ~日本人とまちづくりの原点~ 古代の交通網古代におけるインフラ」 中村太一( 北海道教育大学釧路校/准教授)参照)


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