高島正憲「 奈良時代における収入格差について」『経済研究 』Vol. 71, No. 1, Jan. 2020 「特集:実証経済学の展開 」
本論文は計量史学(Quantitative Economic History /Cliometrics)の観点から考察を加えた論文であるだけに、これまで全く接したことのない分析視点からアプローチに驚きさえ覚え、さらにはその実り多い研究成果に感銘を深くした。計量史学という分析視点が有益な戦術兵器となることに、その可能性を感じた。
⇒Evaluating "What If" Scenarios: Cliometrics often uses counterfactual models (e.g., "What would the U.S. economy have looked like without the development of railroads?") to estimate the precise value or impact of specific technological and institutional changes.
1. この論文における主要な「発見」(評価できる貢献)
本論文の最大の貢献は、従来は別々に分析されることが多かった「農民の制度的収支」と「官人の身分的給与」を、統一的な計量尺度(米の「石」換算)に換算し、制度論的・数量的に比較・統合した点にあるだろう。
① 農民の現実的な税負担構造の可視化(土地税よりも「人頭税・出挙」の重さ)
構造の解明: 従来「公租公課(田租)」は収穫の3%程度と低く抑えられていたと解釈されがちでしたが、本論文は調・庸・雑徭といった「人頭税(人にかかる課役)」や、利息付き強制貸付である「出挙(すいこ)」を包括的に試算したことに、斬新さがある
。 具体的数値: 農民(1戸約20人想定)は制度上の収入の3割〜4割弱(全国平均36.3%)を徴収されており、その内訳のうち土地税(田租など)は2〜3割に過ぎず、人頭税(調庸・雑徭)や出挙の利息が全体の7割以上を占めていたこと気づき、それを数値で明確化した点は大きな功績である。
② 官人内部における極端な構造的格差の提示
絶対的格差: 正一位(約6.1万石)や正三位(約1.8万石)といった上級貴族(第1集団)の収入は圧倒的であり、農民一戸の年収(約45〜76石)や一般官人の収入(数石〜数拾石)とは数千倍〜数万倍の桁違いの差が存在していたことを明示した
。 中央(京官)と地方(外官)の逆転現象: 正五位以下の「一般官人(第3集団)」においては、平城京に勤める京官よりも、大宰府や国司といった地方(外官)勤務の官人のほうが支給額(給与)が高く設定されていたという制度的特徴を数値で確認・整理した
。これまでこのような数値による中央官人-地方官人の対比を知らないだけに、その発想の新鮮さに驚いた。
③ 「前近代の経済成長と格差」という歴史経済学的問いへの接続
クズネッツの仮説(近代化に伴う格差拡大と収縮)の前段階として、1000年以上前の古代律令国家が「最初から制度的に極めて巨大な身分格差を内包して成立・機能していた」という歴史的エビデンスを提示した点に大きな意義があり、この論文が学界に裨益を与える最大の貢献である。
2. 本論文の「欠陥」・「限界」(構造上の課題)
ところで、経済学(数量史学)的アプローチとして極めて優秀である一方で、歴史実証的・制度の実体論としては、以下のような明確な「欠陥(限界)」や問題点を提出して、高島氏のご教示を仰ぎたい。
① 「制度上の収入」と「実収(現実)」の解離(実体経済の無視)
最大の問題点: 著者自身も「制度上の収入による推計」と明記しているように、律令制の最大の特徴は「制度と実態の急速な剥離」にある。
具体例:
農民の逃亡・浮浪: 周知のとおり8世紀後半には口分田の班給自体が形骸化し、農民の逃亡や偽籍(男性を女性と偽って報告し調庸を逃れる)が横行した。1戸20.6人という戸籍データ自体が「現実の家族構成」ではなく税逃れの虚構であった可能性が極めて高い点は、高島氏も十分に知り尽くしたうえでの議論を展開している、たとえそうだとしても、その実態とのずれは高島氏の研究視野には、どのようには寧されるのだろうか。
官人の未給・未納: 律令国家の財政難により、五位以下の官人に規定通りの「季禄」や「禄物」が満額支給されることは稀であった。したがって、この推計値は「法律通りの理想的モデル」の計算に留まり、「古代人が実際に手にしていた実質所得」とは大きく乖離している点は、いかに説明なさるだろうか。
② 出挙(すいこ)の性質に関する解釈の単純化
出挙の利息(5割または3割)を単なる「税・負担」として計算に入れているが、実際には出挙は公的な金融・救済制度の側面と、地方官人が不正な収奪(利息の二重徴収など)を行う私的搾取の側面が混在していた
。これを「制度上の定額負担」として一律に農民のマイナス計上(33〜40%を占める最大要因)と評価することには、歴史実態としての慎重さを欠きはしないだろうか。
③ 官人側の「非公式収入(加徴・不正・自墾地)」の不計上
官人(特に国司などの外官)の実際の収入源は、法令上の給与(位田・職田・季禄等)だけではない。彼らは現地での「不当な徴収」「自墾地(私有地)の拡大」「交易による富の蓄積」など、法令外の巨大な実質収入を得ていた(だからこそ「外官」の利権が大きかった)。法令上の数値だけを比較すると、官人層の実質的な富や購買力を著しく「過小評価」することになるが、高島氏のご意見を伺いたい。
④ジニ係数等の計量分析の断念と分析の「記述的」限界
古代地中海世界などの先行研究(Fochesato & Bowles 2017)では遺跡データ等から資産格差のジニ係数(0.7〜0.9)を出していることを序言で挙げながら
、本論文は史料的制約からジニ係数等の標準的な不平等度指標の算出を断念し、階層ごとの数値を比較・記述するにとどまっている。経済学論文としては、統計的推論やインパクト評価の観点で「推計して並べた」という段階を出ていない点が惜しまれる。
まとめ
高島氏のこの論文は、「律令国家というシステムが、制度設計の段階でどれほど巨大な不平等(農民からの重課税と上級貴族への極端な富の集中)を前提として設計されていたか」を、数量的にクッキリと浮き彫りにした点で非常に高い学術的発見がある。この見解は定説化するだろう。しかし、歴史学的な実体解釈としては、「法律(制度)の数値」をそのまま「古代人の実際の生活・収入」と見なすことはできず、「理想上のモデルのシミュレーション」という限界を抱えている点が、最大の「欠陥・課題」と考える。
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