半布里戸籍とは何か
――異なる人的集団が交錯する社会を、国家はいかに「戸籍」にしたのか――
「御野国加毛郡半布里戸籍|(正倉院文書)を、古代の「家系図」あるいは単純な「人口台帳」として理解することには、根本的な限界がある。
この戸籍が記録しているのは、血縁によってきれいに区分された家族集団ではない。そこに見えるのは、県主系、秦人・秦人部、漢人・漢人部、勝・勝族・不破勝族・各務勝族、さらに敢臣族岸臣など、異なる出自や人的集団に属する人々が、一つの地域社会のなかで生活し、婚姻し、子を生み、労働し、扶養し、ときには自らの属する氏族とは異なる戸に入りながら生きていた姿である。
したがって、半布里戸籍を理解するためには、「渡来人が何人いたか」という人口集計から出発するのではなく、異なる人間集団が同じ地域社会のなかで、どのように接触し、結び付き、再編成されたのかを考えなければならない。
現段階の研究では、半布里戸籍の総人口1,119人のうち、秦人・秦人部・勝など、氏姓や集団表示から渡来系と考えられる人物は497人とされる。さらに、敢臣族岸臣を吉士・吉志系の渡来人とみなせば、少なくとも10人を加えることができ、直接に渡来系と認定できる人物は507人、全人口の約45.3%となる。しかし、この507人をもって半布里の渡来系人口の「実数」とすることはできない。
なぜなら、現実の村落社会では、氏族の境界と生活の境界は一致しないからである。例えば、県主系の男性と秦人系の女性が婚姻すれば、その間に生まれた子は、父母二つの人的ネットワークを持つことになる。その子がどの戸に入り、どの氏姓によって記録されるかは、血統そのものとは別の問題である。さらに、その子が別の集団の人間と婚姻すれば、人的関係はさらに複雑になる。
したがって、半布里社会には「県主」と「秦人」、「秦人」と「勝」、「勝」と「岸」というように、異なる集団の境界を越えて人間関係が形成されていた可能性がある。いわゆる「ハーフ」を単純に人口に加えるという問題ではない。重要なのは、異なる出自を持つ人間が、現実の生活のなかでどのように同じ社会に組み込まれていったかである。
このことを端的に示しているのが、勝安麻呂である。「 御野国加毛郡半布里戸籍|では、勝安麻呂は「寄人」として「敢臣族岸臣目太戸」に記載される。
ここには二重の所属がある。一方では、彼は「勝」という氏族的名称を持つ。しかし、生活・行政上の所属単位としては、岸臣目太の戸に入っている。
すなわち、
氏族としての所属 ≠ 戸籍上の生活単位
である。
これは極めて重要である。「寄人」は戸籍上の些細な付記ではない。むしろ、戸籍が把握しようとしている現実の社会が、単純な血縁共同体として存在していなかったことを示す重要な痕跡なのである。さらに勝安麻呂には、「年五十三、閹人、残疾」という注記がある。53歳という年齢情報だけでは処理できない身体的・社会的条件を持つ人物として、国家は彼を特別に記録している。しかも彼は、自らの「勝」という氏族名を保持しながら、別の氏族の戸に「寄人」として編成されている。
そこには、一人の人間の50年以上の人生が圧縮されている。
彼はどこで生まれたのか。
誰に育てられたのか。
どのような労働をしたのか。
誰と婚姻したのか。
何故、勝氏の戸ではなく岸臣目太の戸に入ったのか。
その過程で、どのような人的関係を形成したのか。
そして、53歳となった時点で、国家は彼をどのカテゴリーに入れて処理したのか。
戸籍には、その人生の大部分は書かれていない。書かれているのは、わずか一行である。しかし、その一行こそが、古代社会の現実を示している。
ここで、戸籍を見る視点を逆転させる必要がある。従来、戸籍は国家が人間を正確に記録した「人口台帳」として理解されがちであった。しかし実際には、国家が把握したいのは、生身の人間そのものではない。
国家が必要としていたのは、
人間 → 戸 → 続柄 → 性別 → 年齢 → 身分・身体状態 → 課役計算
という形に変換された、行政処理可能な情報である。現実の社会には、血縁、婚姻、居住、労働、扶養、主従、移住など、無数の関係が存在する。それを国家は、そのまま記録することができない。
そこで、
- 誰の戸に属するのか
- 誰の子なのか
- 何歳なのか
- 男か女か
- 正丁なのか小子なのか
- 疾病や身体的事情があるのか
- 寄人なのか
という標準化された情報へ変換する。この意味で、半布里戸籍とは単なる「人間の一覧」ではない。それは、複雑な現実社会を、国家が処理可能なデータへ変換する装置である。
そして、ここで「渡来人」という概念も再検討する必要がある。秦人453人、その他の勝・漢人などを加えた497人、さらに岸=吉士系を加えた507人という数字は重要である。しかし、それは戸籍に明示された氏姓・集団名から直接把握できる人口にすぎない。現実には、婚姻によって人間は集団の境界を越える。
だからこそ、
氏姓から判定できる渡来系人口
と、
婚姻・親子関係を含めた渡来系人的ネットワークに接続していた人口
とは区別しなければならない。
後者は、前者より広い。
さらに、「寄人」のような異姓者を分析すれば、戸という行政単位の内部に、複数の人的集団が組み込まれていた実態が浮かび上がる。
ここに「現場のロジック」がある。
つまり、半布里の人々は、国家が後から付けた「県主」「秦人」「勝」「岸」といったカテゴリーに沿って、完全に分離して暮らしていたのではない。
むしろ逆である。
現実の生活では人々の関係は混ざり合い、国家の戸籍ではそれが再び分類される。
この二重構造こそ、半布里戸籍を読む鍵ではないだろうか。
したがって、半布里戸籍とは何か。
私は、現段階では次のように定義したい。
半布里戸籍とは、異なる出自・氏族・人的集団が婚姻・居住・労働・扶養・寄人関係などを通じて交錯していた地域社会を、律令国家が「戸」という行政単位に再編成し、課役その他の国家的処理が可能な情報へ変換した記録である。
そして、この定義に立てば、「勝安麻呂」は周辺的な一人物ではなくなる。
彼は、
勝という氏族的アイデンティティを持ちながら、岸臣目太戸の寄人として生活する
という、一見矛盾した二重所属を示す。
だからこそ彼は、半布里戸籍という「国家のデータ構造」の内部に、そこへ完全には収まりきらない生身の社会が存在していたことを示す。
戸籍の一行から、私たちが読むべきなのは「何人いるか」だけではない。そこから読み出すべきなのは、
人がどこから来て、誰と結び付き、どこで暮らし、なぜ別の戸に入り、国家によってどのようなカテゴリーに変換されたのか
という、一人ひとりのライフストーリーである。ただし、布里戸籍は、その人生を直接は語らない。しかし、語らないからこそ、記録されたわずかな「氏」「戸」「続柄」「寄人」「年齢」「身体注記」の組合せから、逆にその社会の構造を復元することができる。
半布里戸籍とは、人間を数えた帳簿ではない。人間が生きた複雑な社会を、国家が行政情報へ変換した、その変換過程の痕跡なのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿