西本昌弘「八・九世紀の内裏任官儀と可任人歴名」を読む
(1)論文の結論
西本の結論は次の4点に集約できる。
第一に、八世紀の任官儀礼は、平安時代になって突然成立したものではない。
『内裏式』『儀式』などから、かなり古い段階から体系的な内裏任官儀が存在した可能性が高い。
第二に、正倉院のA・B歴名を単純に「除目聞書」とする早川説には再検討の余地がある。
「除目聞書」の成立時期を八世紀まで遡らせる直接的証拠は乏しい。
第三に、A・B歴名は、むしろ八世紀の「可任人歴名=下名」の案文・写しと見る方が、平安時代の下名との形式的・機能的な対応を説明しやすい。
第四に、八世紀の任官制度では、儀礼そのものよりも、その前後に組み込まれた「任官者名簿―確認―唱名―文書化」という文書行政の仕組みが重要だった。
(2)正倉院文書『続々修24ノ5断簡7(4)裏』、通称「天平十年上階官人歴名」の一部)を読む
正倉院文書・古代史研究の知見に基づき、この史料からは、次の特筆を認められる。
1. 史料からの「発見」
この史料から読み取れる最も重要な発見は、「天平10年(738年)当時、藤原広嗣が『大養徳守(大和守)』と『式部卿』を兼任していたこと」、そして「中央の主要省庁(式部省・兵部省)や畿内・諸国の長官(国司)として、藤原氏・大伴氏をはじめとする特定氏族の重要人物が集中的に配置されていたこと」である。史料冒頭の1行目に注目してほしい。
式部大丞大伴犬甘 兵部大丞大伴古万呂 大養徳守藤原広嗣〈兼式部卿〉
主なポイント:
- 藤原広嗣への権力集中
- 藤原広嗣が「大養徳守」という畿内重要国の長官であり、中央の主要な官衙筆頭である「式部卿」を兼任していたこと。
- 大伴氏と藤原氏の武官・文官への重点的配置
- 大伴犬甘(式部大丞)、大伴古万呂(兵部大丞)、大伴四綱(少掾)など、大伴氏の有力人物が軍事・式部関係の要職に名を連ねていること。
- 東国・北陸・南海など全国国司のリアルタイムな一覧
- 遠江守(百済王孝忠)、越前守(藤原乙麻呂)、陸奥介(百済敬福)などをはじめとして、天平10年時点で、どの国の国司・官人が誰であったかが判明。
2. 「なぜ」そのようになっているのか(背景と理由の考察)
なぜこのような官人配置になっていたのか、当時の政治状況(天平9年~10年の歴史的文脈)からを紐解きたい。
① なぜ藤原広嗣が式部卿と大養徳守を兼任していたのか?
- 藤原四兄弟の相次ぐ全滅(天平9年の天然痘大流行): 天平9年(737年)、猛威を振るった天然痘(疱瘡)により、政権の中枢にいた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)がわずか数ヶ月の間に全員死亡した。
- 藤原式家による権力掌握の焦り: 四兄弟の死後、政権は橘諸兄(橘諸兄政権)や玄昉・吉備真備らに移行していく。宇合の長男である藤原広嗣は、式家の惣領として藤原氏の勢力を維持・拡大するため、式部卿(人事権を握る超重要ポスト)と大養徳守(都の膝元である大和国の軍事・行政権)を兼任し、一時的に強力な権力基盤を握った。しかし、橘諸兄政権との対立が激化したことで、それも風前の灯火でしかなかった。
② なぜこの直後に「広嗣の乱(天平12年)」が起きたのか?
- この史料(天平10年)の直後、橘諸兄政権によって広嗣は中央(式部卿)から追放され、大宰少弐へと左遷される。
- 大宰府への左遷に強い不満を抱いた広嗣は、天平12年(740年)に玄昉や吉備真備の除名を求めて九州で挙兵した(藤原広嗣の乱)。この史料に見る見る「大養徳守
兼 式部卿」という肩書は、広嗣が失脚・左遷・挙兵へと向かう一連の事件直前の姿を瞬間的に捉えている。
③ なぜ大伴氏(古万呂・四綱ら)が要職に配置されているのか?
- 大伴氏は伝統的な軍事氏族である。日本各地を襲ったパンデミックによって社会・政治が極度に混乱した天平9~10年において、藤原氏のライバルである大伴氏は橘諸兄政権支持勢力として、藤原氏を牽制する役割も担っていたと想定される。
したがって、この断簡は、単なる名簿ではなく「古代史の巨大な転換点(天平9年の天然痘大流行から天平12年の藤原広嗣の乱へ至る過渡期)の政治構造をそのまま切り取ったタイムカプセル」である。
0 件のコメント:
コメントを投稿