2026年9月6日日曜日

(再論)なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのかーー中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性

 

結論:中央官衙における正税帳の財政的審査と郡稲帳の証拠性


1 問題の所在――なぜ越前国郡稲帳は中央に残ったのか

「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いを立てるとき、問題は単に「なぜこの文書が保存されたのか」という保存史の問題にはとどまらない。むしろ、なぜ一地方の財政帳簿が中央へ送付され、その後も一定期間保持され、最終的に東大寺写経所で反故紙として再利用されるに至ったのか、という問題として考える必要がある。この問いをさらに掘り下げれば、律令国家における地方財政文書の作成・提出・照合・審査・保存・廃棄という、文書行政そのものの仕組みに到達する。

とりわけ重要なのは、越前国郡稲帳が単なる地方内部の業務帳簿ではなく、中央に提出されることを予定した正式な公文書であったという点である。天平5年(733)閏3月6日付の継目裏書には、

「越前国郡稲帳 天平五年潤三月六日 史生大初位下阿刀造佐美麻呂」

とあり、その作成日と担当者が確認できる。また、郡稲帳には越前国印が多数押され、国司による署名も認められる。したがって、これは郡衙内部でのみ使用された私的な作業帳簿ではなく、国司の責任において正式に作成された公的帳簿であったと考えられる。さらに重要なことに、同じ阿刀造佐美麻呂は天平3年(731)2月26日付の越前国正税帳にも登場し、正税帳の中央への提出を担当している。すなわち、郡稲帳と正税帳には、作成・提出実務の段階から人的な連続性が認められる。

ここから、次の問題が生じる。中央政府は、なぜ正税帳だけでなく、郡稲帳をも必要としたのであろうか。

2 天平4年度郡稲帳が示す「郡別財政モデル」

天平4年度の越前国郡稲帳をみると、各郡の財政状況がかなり具体的に把握されている。

敦賀郡

  • 定郡稲 3,086束6把
  • 出挙 1,036束(利518束)
  • 死馬皮 1張=10束
  • 都合 3,614束6把
  • 用 726束5把
  • 残定 2,888束1把

丹生郡

  • 定郡稲 1,294束5把4分
  • 出挙 1,294束5把4分
  • 利稲 617束2把7分
  • 加賀郡からの移入 2,000束
  • 死馬皮 3張=30束
  • 都合 3,881束8把1分
  • 用 2,437束7把
  • 残定 1,444束1把1分

足羽郡

  • 定郡稲 15,598束3把8分
  • 出挙 7,360束
  • 利稲 3,605束
  • 合納 18,015束
  • 残 8,230束3把8分

江沼郡

  • 定郡稲 7,296束
  • 出挙 6,246束
  • 利稲 3,123束

加賀郡

  • 定郡稲 37,882束8把3分
  • 出挙 12,111束
  • 利稲 5,890束

これらの数字から重要なのは、単に各郡の「財政規模」が判明することではない。郡稲帳では、

定郡稲 → 出挙 → 利稲 → 郡間移送・雑収入 → 用 → 残

という形で、郡ごとの稲の増減過程が追跡可能になっている。したがって郡稲帳は、単純な「残高表」ではなく、

  郡に存在する官稲が、どこから入り、どのように運用され、何に使用され、最終的にい 

  くら残ったのかを追跡するための財政記録

として理解することが可能である。特に丹生郡については、加賀郡から2,000束が移送されている。これは郡単位で完結した会計ではなく、郡と郡との間で財源が移動していたことを記録する帳簿でもあったことを示している。

3 郡稲帳は正税帳の「下位帳簿」なのか

ここで我々の作業仮説を提出したい。

  「天平4年度の郡稲帳は、単独で完結する財政帳簿であると同時に、国単位で作成される

  正税帳を成立させるための基礎的な情報を含んでいたのではないか。」

正税帳が国単位の収支を把握する帳簿であるのに対し、郡稲帳はその内訳を郡単位で示す。

したがって両者の関係を、

  郡稲帳 → 国衙で集計・整理 → 正税帳 → 中央へ提出

という情報処理過程として考えることである。ただし、この段階では「郡稲帳が正税帳作成の唯一の基礎資料であった」と断定することはできないにしても、むしろ、

郡稲帳は、正税帳を作成・確認するための基礎的な下位帳簿ないし関連帳簿の一つであった

とするのが妥当であると悟るからである。

4 中央政府はなぜ郡稲帳を必要としたのか

ここで、冒頭の問題設定に戻りたい。文書の流れを、

第1段階 郡稲帳には何が記録されているのか

第2段階 郡稲帳はどのような目的・機能をもつ文書なのか

第3段階 なぜ郡稲帳は中央へ送付されたのか

第4段階 中央では、それをどのように利用したのか

という四段階に分けて考えるならば、次のような知見を得る。このうち、第3段階については、少なくとも越前国郡稲帳が中央へ上進された事実は確認できる。したがって、問題はもはや「中央へ送られたのか」ではなく、「中央は何のためにそれを必要としたのか」である。

ここで、いくつかの可能性が考えられる。

  1. 正税帳記載数値の照合
  2. 地方財政の収支状況の確認
  3. 出挙の運用状況の把握
  4. 郡間移送を含む官稲の移動状況の確認
  5. 国司・郡司の財政責任を確認するための資料
  6. 後日の再計算・再照合に使用する資料

これらは相互に排他するものではない。むしろ、郡稲帳という帳簿の構造を考えるならば、中央政府にとって重要だったのは、単に「いくら残ったか」という最終残高ではなく、

  その残高が、どのような収入と支出の積み重ねによって形成されたのか

を確認できることであったちがいない。

5 「監査証拠」という作業仮説

ここで本稿では、あえて「監査」という概念を作業仮説として導入したい。

ただし、これは現代の会計監査制度をそのまま奈良時代に投影するという意味ではない。

重要なのは、郡稲帳そのものが、

  • 数量を記録する
  • 収入と支出を区別する
  • 残額を計算する
  • 郡間の移送を記録する
  • 郡司の氏名を記載する
  • 国司が関与する
  • 国印を押す
  • 数字を大字で記載する

という構造を備えていることに、改めて思い出さなくてはならない。というのも、このことで後から第三者が数字を確認し、責任の所在を追跡できる文書構造になったからである。特に数量を記載する帳簿に大字を使用することは、数字の改竄を防ぐという文書技術上の意味を持っていたと考えられる。したがって、郡稲帳は、

「数字を記録するための帳簿」

であるだけではなく、

「誰が、どの数量について、どのような責任を負って報告したのかを固定し、後日の照合を可能にする帳簿」

として理解すべきであると教える。この意味で、郡稲帳を「財政監査の裏付け証拠」と捉えることは、現時点では有力な作業仮説となりうる。


6 ここで「人間」を入れる

さらに注目したいのは、こうした帳簿制度を、単純な行政技術の問題としてだけ理解しないことである。官稲を管理するのは人間である。

そこには、

  • 善意による奉仕
  • 組織への忠誠
  • 私的利益の追求
  • 背任
  • 横領
  • 窃盗
  • 数字の操作

など、さまざまな人間行動が入り込む可能性がある。したがって、律令国家が細かな数量を記録し、責任者を明記し、印判を押し、数字を大字で記すという仕組みを整備した背景には、単なる「行政の合理化」だけではなく、人間が管理する財物には、必ず誤謬と不正の可能性があるという、極めて現実的な行政上の認識が存在した可能性がある。この視点からみると、郡稲帳は単なる「地方財政史料」ではなく、

  「律令国家が、地方官人によって管理される財物をどのように可視化し、記録し、責任化

  し、中央から確認可能な状態にしたのか

を示す史料として再評価したい。

7 人事記録との接続

さらに郡稲帳には、財政情報だけでなく、国司・郡司などの人名・官位・勲位が記載されている。

たとえば、

  • 新任能登国史生少初位上大市首国勝
  • 新任大目従七位上勲十二等中臣高良比連新羅
  • 従六位上勲九等坂合部宿祢葛木
  • 敦賀郡少領外従八位上勲十二等角鹿直綱手・主帳無位螺江比良夫
  • 丹生郡大領外従七位下勲十二等佐味君浪麻呂
  • 足羽郡少領外正八位上勲十二等海直大食・主政無位品遅部広耳
  • 大野郡か、郡司大領正八位下勲十二等江沼臣武良士
  • 検舶使従六位上弟国若麻呂

などの名前を確認できる。これらは単なる「人名録」ではない。誰がどの財政単位を担当していたのかという財政責任者の特定と、誰が現地行政に関与していたのかという行政組織の把握が、同じ文書の中に組み込まれているのである。したがって、郡稲帳には、

  財政情報+人事情報+責任者情報+公的認証

が一体となっているとの考えて良いだろう。ここに、この帳簿が単なる郡衙内部の業務帳簿を超えて、中央政府にとっても意味を持つ理由の一端を見ることができる。


8 現段階での結論

以上を踏まえるなら、現時点では次のように結論づけるのが妥当ではないだろうか。

越前国郡稲帳は、各郡の官稲について、その収入・運用・移送・支出・残額を記録するとともに、郡司・国司などの責任主体を明示し、国印によって公的文書として認証された財政帳簿であった。

そのため、郡稲帳は国衙内部の業務にのみ使用された帳簿ではなく、中央政府が国単位の財政状況を確認し、正税帳その他の財政情報を照合する際にも利用しうる文書であった可能性が高い。

したがって、郡稲帳を「中央における財政監査の証拠資料」と位置づけることは有力な作業仮説となる。ただし、現存史料だけから、太政官・民部省・主税寮のいずれが、どの段階で、具体的にどのような照合・審査を行ったかを確定することはできない。

今後必要なのは、正税帳と郡稲帳との数値的対応関係を具体的に検証するとともに、他国の郡稲帳・正税帳、さらに中央官司に残る勘会・審査関係文書を比較し、地方帳簿が中央でどのように利用されたのかを明らかにすることである。

その作業によって初めて、「なぜ越前国郡稲帳が正倉院に残ったのか」という問いは、「律令国家はいかにして地方財政を中央から検証可能なものにしたのか」という、より大きな問題へと展開することになる。

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