2026年9月6日日曜日

(再論)海上国造の分立とヤマト王権 ――東京湾岸における地域権力の再編―

 

海上国造の分立とヤマト王権

――東京湾岸における地域権力の再編――

1 要約

上海上国造と下海上国造は、現在の千葉県中部から東部にかけて展開した「海上(うなかみ)」地域を基盤とする国造である。

ここでいう「海上」は、後世の律令制下における「国」と同じ意味での国家ではない。むしろ、東京湾岸から内陸部に広がる水上交通・生産・軍事・祭祀などを掌握した在地首長層の政治的領域として理解する必要がある。

とくに養老川流域には、姉崎古墳群をはじめとする大型古墳が集中しており、早くから強力な首長権力が形成されていたことがうかがえる。また、稲荷台1号墳出土鉄剣に象徴されるように、この地域の首長層がヤマト王権と早い段階から接触していた可能性も指摘されている。

この地域の重要性を考えるうえで、最大のポイントは「海」である。

東京湾は、単なる漁撈の場ではない。

それは、

房総半島―武蔵―相模―上総―下総を結ぶ海上交通路

であり、さらに養老川・小櫃川などの河川交通によって内陸部へ接続する交通ネットワークでもあった。

したがって、海上地域の首長権力は、単に一地域の農業生産を支配するだけではなく、

海上交通・河川交通・物資輸送・人間の移動

を掌握することによって政治的・経済的な力を形成した可能性がある。

『国造本紀』によれば、上海上国造は天穂日命八世孫の忍立化多比命を祖とし、成務朝に国造に任じられたとされる。一方、下海上国造については、上海上国造と同祖であり、久都伎直が応神朝に国造に任じられたとされる。つまり、伝承上は両者が同じ祖先系譜につながりながら、国造として成立した時期には差がある。

このことは、海上地域が最初から二つの独立した国造によって支配されていたというより、

一つの強力な地域権力を基盤として、後に複数の政治単位へ分化した可能性

を考える手掛かりとなる。


2 「海上」をどう理解するか

「海上」という地名は、単純に「海に近い土地」を意味していたのではない可能性がある。

この地域では、東京湾岸と河川交通が密接に結びついていた。

とくに養老川・小櫃川は、房総半島内部へ向かう重要な水上交通路となり得る。

したがって「海上」という地域名称の背後には、

海と河川を利用した交通ネットワーク

が存在していた可能性がある。

この観点から見るならば、海上地域の首長権力を「農業を基盤とする地方豪族」とだけ理解するのは不十分である。

むしろ、

海上交通と内陸交通との接点を掌握した水上交通型の首長権力

として捉えることができる。

ここで、市原郡に残る「海部郷」に注目したい。

『和名類聚抄』には上総国市原郡の海部郷が見え、さらに天長5年(828)の庸布銘文には、

「上総国市原郡海部郷戸主刑部小黒人」

と記されている。したがって、「海部」という地域名称が8世紀を超えて残存していたことは確認できる。

ただし、ここから直ちに、

「伊勢湾から航海に長じた海人集団が黒潮に乗って房総へ移住した」

と結論づけることには慎重でなければならない。

海部という名称は、古代国家が海上交通・漁撈などに関わる人々を組織した「部」の名称である可能性があり、その成立過程については、在地の海民集団と王権による編成の双方を考える必要がある。

したがって、本稿では、

「海部=外部から移住した海人集団」

とは直ちに断定せず、

「海上地域における海上交通・漁撈・水運などに従事する人々が、王権の支配組織に組み込まれていった可能性」

として扱いたい。


3 時系列による理解

【3世紀後半~4世紀】

  • 養老川流域を中心として有力な首長勢力が形成される
  • 姉崎古墳群など大型古墳の築造
  • 東京湾岸と内陸部を結ぶ交通ネットワークの形成
  • ヤマト王権との接触が始まった可能性

【4世紀後半~5世紀】

  • 海上地域の首長権力が成長
  • 東京湾岸の海上交通における影響力を強める
  • ヤマト王権との政治的関係が深化

【5世紀~6世紀】

ここで大きな転換が起こった可能性がある。

『国造本紀』の伝承によれば、上海上国造と下海上国造は同祖であるが、国造としての成立時期が異なる。

  • 上海上国造
  • 下海上国造

という分化を想定することができる。

ただし、これは「5世紀に実際に国土が二分された」という意味ではなく、

海上地域を支配した首長権力が、王権との関係の変化のなかで複数の政治単位へ再編された

と理解する方が適切である。

【6世紀】

房総半島では、上海上・下海上だけではなく、武社・菊麻・馬来田・須恵・伊甚など複数の国造が確認される。

この状況は、房総半島全体が単一の政治勢力によって支配されたのではなく、

複数の地域首長権力が並立し、その上にヤマト王権との政治的関係が形成されていった

ことを示唆する。

【6世紀後半~7世紀】

  • 国造層の王権への組み込み
  • 評・郡制への移行
  • 旧国造系豪族の郡司化
  • 「国造」から「郡司」への政治的役割の転換

という大きな再編が進行する。


4 系譜をどう読むか

『国造本紀』の系譜は、次のように伝える。

天穂日命
   │
   └─(八世孫)忍立化多比命
              │
              └─ 上海上国造
                   
   └─ 上海上国造と同祖
          │
          └─ 久都伎直
                 │
                 └─ 下海上国造

ここで重要なのは、これをそのまま実際の血縁系譜として読む必要はないということである。

古代の系譜は、

政治的な正統性・同族意識・王権との関係

を表現する装置でもある。

したがって、「上海上国造と下海上国造が同祖である」という伝承そのものが、

両者が別個の起源を持つのではなく、同じ地域的政治勢力から派生したことを記憶していた可能性

を考えさせる。

ここに私は、海上地域の政治構造を考えるうえで重要な手掛かりがあると考える。


5 国造別にみた房総の政治構造

上海上国造

養老川流域を中心とする地域に形成された有力首長権力を背景として成立したと考えられる。

大型古墳の存在、東京湾へのアクセス、内陸河川との接続を考えると、

房総中部における海上交通・物資移動の重要拠点

であった可能性がある。

下海上国造

上海上国造と同祖とされながら、異なる時期に国造として成立する。

したがって、

上海上地域の政治的分化、あるいは王権による再編の結果として成立した政治単位

という仮説を提示できる。

武社国造

武社国造は、房総半島北東部に位置する。

その成立を単純に「ヤマト王権が海上国にくさびを打ち込んだ」と断定することはできない。

しかし、房総半島に複数の国造が配置されている状況を考えるならば、

ヤマト王権が房総各地の在地首長を個別に編成し、政治的ネットワークを構築していった

可能性を考えることはできる。

菊麻国造

菊麻国造は、現在の市原市北部付近を中心とする地域に比定される。

その存在は、海上地域周辺においても複数の政治勢力が形成されていたことを示す。

したがって、「海上国」という一つの地域名から、単一の政治権力を想定するのではなく、

複数の首長勢力が競合・連携する政治空間

として理解する必要がある。


6 ヤマト王権の戦略

ここで、房総におけるヤマト王権の関与を考えてみたい。

従来のように、

「ヤマト王権が房総を征服し、国造を置いた」

という一方向的なモデルだけでは、地域の複雑な政治構造を説明しにくい。

むしろ、次の三つの要素が重なっていたと考えたい。

① 在地勢力の巨大化

養老川・小櫃川流域では、農業生産だけでなく、水上交通を利用した物資・人間の移動が可能であった。

これを掌握した首長は、周辺地域に対して大きな政治的影響力を持つことができた。

② ヤマト王権によるネットワーク化

ヤマト王権にとって房総は、

  • 東国への交通
  • 太平洋側への海上交通
  • 人員・物資の移動
  • 軍事的動員

という点で重要な地域であったと考えられる。

したがって、巨大な在地勢力を単純に排除するより、

在地首長を王権の政治秩序に組み込み、その地域支配力を利用する

という方法が合理的であった可能性がある。

③ 地域勢力の分化

上海上・下海上・菊麻・武社などの複数の国造が存在することは、

房総の政治空間が一つの巨大首長権力から、複数の政治単位へ再編された

ことを示す可能性がある。

ここに、国造制の本質を見ることができる。

国造とは単に「地方官」だったのではない。

むしろ、

在地首長権力を王権の政治秩序の中に編成するための制度

として理解する必要がある。


7 「海上国の分割」という仮説を再考する

以上から、本稿では次の作業仮説を提示したい。

海上地域には、東京湾岸と養老川などの内陸水運を掌握する有力な在地首長権力が形成されていた。

その政治的勢力が成長する一方、ヤマト王権の東国への関与が強まることによって、海上地域は単一の首長権力としてではなく、複数の政治単位へ再編されていった可能性がある。

上海上国造と下海上国造が「同祖」とされながら異なる時期に国造として成立したという伝承は、この政治的分化の記憶を反映している可能性がある。

さらに、武社・菊麻など周辺地域に別個の国造が成立することによって、房総半島の政治空間は、複数の地域首長を王権のネットワークに組み込む構造へと変化した。

ここで重要なのは、「ヤマト王権が一方的に地方を征服した」と考えるのではなく、

在地勢力の成長 → 王権との接触 → 政治的提携 → 地域勢力の分化 → 王権秩序への編成

という相互作用として考えることである。


8 結論に代えて――「海」を支配した者

上海上国造・下海上国造を考える場合、最大の問題は「国造」という制度そのものではない。

むしろ、その前提となった、

なぜこの地域に強力な首長権力が成立したのか

という問いである。

その答えの一つとして、本稿は「水上交通」に注目した。

養老川・小櫃川などの河川と東京湾を結ぶ交通網は、房総半島の内部と外部を接続する。

そこでは、

人が動き、物が動き、情報が動く。

そして、それを掌握する者は、農地そのものを支配する以上の政治的力を持つことができる。

したがって海上地域の首長権力を、

「農業生産を基盤とする地方豪族」

という一面的なモデルで理解するのではなく、

「海と河川を媒介として、人・物・情報の流れを掌握した水上交通型の地域権力」

として捉え直す必要がある。

この視点から見るならば、上海上国造と下海上国造の分立は、単なる国造の「配置」の問題ではない。

それは、

一つの巨大化した地域権力を、ヤマト王権がどのように政治的ネットワークへ組み替えていったのか

という問題になる。

そして、この過程で形成された複数の国造が、後に評・郡制の成立によって郡司へと転換していくならば、古代房総の政治史は、

「在地首長制 → 国造制 → 評・郡制」

という単純な制度交替としてではなく、

「地域交通を掌握した首長権力 → 王権との政治的連携 → 複数の地域権力への再編 → 王権行政への組み込み」

という、より長期的な政治構造の変化として捉えることができる。

上海上国造と下海上国造の問題は、その変化を読み解く重要な窓口なのである。

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