論評 平川南論文「古代における里と村」
――「村」を制度単位から行政実務の場へ再定位するために」
1 はじめに
平川南「古代における里と村――史料整理と分析――」は、『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集(2003年、45―74頁)に掲載された論文である。
本論文の出発点は、古代日本の地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」の関係が、長い研究史を有するにもかかわらず、なお明確にされていないという問題認識にある。平川は、その原因を、従来の研究において「里」と「村」の時期的変遷と史料別の検討が十分に整理されてこなかったことに求める。
平川論文の重要性は、ここから「里」と「村」を単純な上下関係として捉えるのではなく、両者が成立した歴史的過程と、史料における表記の実態を一つずつ検証した点にある。
しかし、平川論文によって「里」と「村」の関係が整理されたからといって、問題が終わったわけではない。
むしろ逆である。
「村が何であったのか」という制度史上の問題から、「村では実際に何が行われていたのか」という行政実務史上の問題へ、研究課題を一段進める必要がある。
本論評では、まず平川論文の到達点を確認し、そのうえで、そこからなお残されている問題を、行政実務・情報処理・人的媒介という観点から検討したい。
2 平川論文の基本的到達点
(1)「里」と「村」を固定的な行政階層として捉えない
平川論文の第一の功績は、「国―郡―里」という律令制の行政組織を、そのまま現実の地域社会の構造と同一視することに慎重な姿勢を示した点にある。
平川によれば、歴史的過程としては、まず各地域に「村」が成立し、その村のまとまりを基礎として各戸を五十戸に編成し、行政単位として「里」が成立した。そして、その結果として「里」と「村」が併存する状況が生じたと考えられる。
ここから重要な帰結が導かれる。
すなわち、史料に現れる「村」を、律令制上の「里」の単純な下位区分として理解することはできない。
「村」と「里」は、成立時期も性格も異なる可能性があり、その後の史料において両者が併存するため、個々の史料を検討しなければ、その関係を確定できないのである。
これは、「里=制度」、「村=その下位」という単純な行政階層モデルを相対化する重要な成果である。
(2)「村」の実態を史料の用例から再構成する
第二の功績は、「村とは何か」を抽象的に定義するのではなく、古代史料の中で、どのような場合に地名が「村」と表記されるのかを検討するという史料論的手法を採用したことである。
この方法は重要である。
「村」という言葉が存在する以上、そこに制度上の固定された意味を与えるのではなく、
どの史料に、
どの時期に、
どのような文脈で、
「村」という表記が現れるのか
を確認する必要があるからである。
したがって平川論文は、「村」という語の意味を一つに固定することよりも、史料に現れる「村」の多様性そのものを歴史的事実として把握する方向を示した論文と評価すべきである。
(3)「里と村」の関係を歴史的過程として捉えた
この点は、本論評において特に高く評価したい。
平川論文は、「里」と「村」が最初から並列的に存在したと考えるのではなく、
村の成立 → 村を基礎とする五十戸編成 → 里の成立 → 里と村の併存
という歴史的過程を想定する。
この見方によって、「里」と「村」の関係を静的な行政組織図ではなく、地域社会と国家的行政編成との接触によって生じた歴史的な重層構造として理解する道が開かれた。
この点に、平川論文の理論的な強さがある。
3 平川論文の意義――制度史から現場史へ
平川論文をさらに大きな研究史の中に置いてみると、その意義は「里と村の関係を整理した」ということだけではない。
それは、律令国家の地方行政を、法令に記された行政組織図だけから理解することの限界を明らかにした点にある。
律令制を、
国 → 郡 → 里
という上から下へ向かう行政組織として理解すると、村は制度図の中にうまく位置づけられない。
しかし、実際の地域社会には村が存在し、その村を基盤として里が編成されたのであれば、国家の行政制度は、既存の地域社会をそのまま置き換えたのではなく、地域社会の既存のまとまりを利用しながら行政的編成を重ねたと考える必要がある。
ここに、平川論文の大きな意義がある。
ただし、ここで一つの問題が生じる。
それは、
村が国家行政の「制度単位」ではないとして、では国家行政は村を具体的にどのように利用したのか。
という問題である。
私は、この問いこそ平川論文の次に置くべき研究課題だと考える。
4 平川論文からさらに問うべき問題
(1)「村とは何か」から「村で何が行われたか」へ
平川論文の最大の成果は、村を単純に「里の下位区分」とする理解から研究を解放したことである。
しかし、その成果をさらに進めるならば、次に問うべきなのは、
「村は何をする場所だったのか」
という問題ではないだろうか。
たとえば、村が史料に登場する場合、
- 人口の把握
- 土地の把握
- 生産物の把握
- 租税・出挙などの把握
- 労働力の把握
- 交通・移動の把握
- 命令の伝達
など、国家行政が必要とするさまざまな情報と接触している可能性がある。
そうであるならば、村は単なる「地理的集落」ではなく、国家が地域社会を把握する際の情報取得の場として機能していた可能性がある。
ここには、平川論文とは異なる研究視角が開かれている。
(2)「村」を行政情報の生成地点として考える
ここからさらに一歩進めたい。
律令国家の行政は、中央政府が地方を直接見ることによって成立していたのではない。
中央が必要とする情報は、
地域社会 → 村 → 郡 → 国 → 中央
という複数の段階を経て、行政情報へと変換されたはずである。
したがって、「村」を考える際には、
村は行政組織のどこに位置するか
だけではなく、
村で発生した情報が、どこで、誰によって、どのような形式に変換され、上位機関へ送られたのか
を問う必要がある。
この観点から見ると、「村」は行政組織図の一項目ではなく、行政情報の生成・確認・集約が行われる現場として再定義できる可能性がある。
これは、平川論文を否定するものではない。
むしろ、平川論文が「村」を固定的な制度単位から解放したことによって、初めて可能になる次の段階の研究である。
5 「村」と「郡」の間を誰が結んだのか
この問題から、さらに人的媒介の問題が生じる。
もし村が行政情報の生成地点であったなら、その情報は誰によって郡へ届けられたのか。
また、郡から村へ命令が伝達される場合、その命令は誰によって実施されたのか。
ここで重要になるのが、刀禰などの地域社会と行政機構を接続する人的存在である。
ただし、この点を「平川論文の欠点」と単純に断定するのは適切ではない。
平川論文の主題はあくまで「里」と「村」の関係の史料整理と分析であり、人的媒介機構そのものを体系的に論じることが論文の第一の目的ではないからである。
したがって、より正確には、
平川論文によって「村」の位置が再検討された結果、次の研究課題として、「村」と「郡」を接続する人的・行政的媒介機構を明らかにする必要が生じた
と評価すべきである。
これは「批判」というより、平川論文から導かれる研究課題の拡張である。
6 平川論文を越えて――「村」を行政システムの中で捉える
以上を踏まえると、「村」を次のような三つの層に分けて考えることができる。
第一層 社会的実体としての村
人々が居住し、土地を耕作し、生産活動を行う地域社会としての村。
第二層 行政情報の生成地点としての村
人口・土地・生産・租税・労働など、国家行政が必要とする情報が発生し、確認される現場としての村。
第三層 上位行政機構と接続する地点としての村
村で把握された情報が郡・国へ集約され、逆に郡・国からの命令が村へ伝達される行政ネットワークの末端としての村。
この三層を区別するならば、「村は制度的な行政単位ではない」という命題と、「村は国家行政にとって重要であった」という命題は矛盾しない。
むしろ、
制度上の単位ではないからこそ、国家行政が現実の地域社会に接続するための重要な現場になった
という逆説が見えてくる。
7 平川論文への評価
以上から、平川論文の評価は、当初の草稿よりも少し違った形で提示するのが適切である。
平川論文の第一の功績は、「村」を律令制の行政階層の中に無理に位置づけるのではなく、その成立過程と史料上の用例を分析することによって、「里」と「村」の重層的な関係を明らかにしたことである。
第二の功績は、「里」と「村」を静的な制度概念ではなく、時期差・地域差・史料差を伴う歴史的存在として捉えたことである。
第三に、その成果によって、律令国家の地方行政を「国―郡―里」という制度図だけでは捉えきれないことが明確になった。
しかし、その先には新たな問題が残されている。
それは、
「村が制度上どこに位置するか」ではなく、「村が律令国家の行政実務の中で何をしていたのか」
という問題である。
この問いに答えるためには、「村」の用例分析だけではなく、木簡・帳簿・命令文書・人名資料などを相互に組み合わせ、村で発生した情報がどのように収集され、確認され、集計され、郡・国へ送られたのかを復元する必要がある。
8 結論――平川論文を「終点」ではなく「出発点」として
平川南「古代における里と村」は、「里」と「村」の関係をめぐる従来の固定的な行政階層モデルを再検討し、村の成立と里の編成、両者の併存という歴史的過程を提示した重要な研究である。
その意義は、単に「村は里の下位単位ではない」と指摘したことにとどまらない。
むしろ重要なのは、律令国家の行政を、制度として上から見るだけではなく、地域社会の側から見直す必要性を明らかにしたことにある。
しかし、ここで研究を止めるべきではない。
平川論文が明らかにしたのは、
「村がどのように存在していたのか」
という問題である。
これに対して、次に問うべきなのは、
「村で国家行政が何をしていたのか」
である。
さらに、
「村で収集された情報は、誰によって、どのように加工され、郡・国の行政文書へ組み込まれたのか」
という問題へ進むことができる。
この視点に立てば、「村」は単なる地理的集落でも、律令制の行政組織図に収まらない例外的存在でもない。
それは、地域社会と国家行政とを接続する実務上の接点、すなわち行政情報が生成される現場として捉え直すことができる。
したがって、平川論文は「村」の研究を完成させた論文というよりも、むしろ「村」を制度史の枠から解放し、行政実務史・情報史へと研究を進めるための重要な出発点を築いた論文として評価すべきである。
そして、この方向から木簡、帳簿、牓示札、郡符、戸籍・計帳、正税帳・郡稲帳などを再検討すれば、「村」という存在が古代国家の行政システムの中で果たした具体的役割を、従来とは異なる角度から復元できる可能性がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿