我々の前提
正税帳を読んだ人間が何を考え、何を疑い、何を命じ、何を確認し、そして何を「処理済み」としたのか
ここで、次のような問いを設定したい。
「誰が、どのポストを、誰に与えたのか」
たとえば国司・郡司を単なる「行政官」として見ると、
中央 → 国司 → 郡司 → 里
という命令系統しか見られない。しかし、これを人間の利害関係から逆向きに見れば、次のリストが思い浮かぶ。
- どのポストが「儲かる」のか
- どのポストが「権限を持つ」のか
- どのポストが「物資に接触できる」のか
- どのポストが「人を動員できる」のか
- どのポストが「数字を書き換えられる」のか
- どのポストが「数字を確認する側」に回れるのか
- そして、誰がそのポストを獲得したのか
- 誰がそのポストに任命できるか
とはいえ、ここで注意を喚起したいが、われわれは「古代官僚も私利私欲があっただろう」と言う単なる「性悪説」を考えているのではなく、正税帳そのものを、人間の利害が制度の中で残した痕跡として読むという分析視点の構築である。
ここまで行くと、正税帳理解はまったく異なったベクトルに向かう。ここで「現場のロジック」で考えてみると、例えば、
「帳簿上の数字が合わない。」⇒「なぜだ?」⇒「単なる記載ミスなのか」
それとも、
「誰かにとって都合のいい数字だったのか。」=「どのポストが「数字を作成・集計・確認・訂正できる」のか」
という推測さえも思い浮かぶ。これまでの「平和で、善良な古代官僚」の理解はいったん保留して、古代官僚の「利害」(the vested interests of ancient officials)をキーワードとして、正税帳を一覧してはどうだろうか。その視点に立てば、「国司は何をしたか」ではなく、
なぜ、その人物が、その場所の、その職に就いているのか。
を問うことになる。
突然に時代を現代に戻せば、唐突すぎるとは知っているが、現代の政治家にとっても、
物資(カネ)を握る者は人を集める
ポストを握る者は人を従わせる
人脈を持つ者は次のポストを得る
ポストは再び物資と人脈を生む
つまり、古代律令制とても、正税帳はこの循環の“痕跡”を記録した帳簿 として読むことに無理はないはずである。重ねていえば、我々の視点を導入すれば、古代官僚を「善良で、公平無私な行政官」として扱う従来の理解をいったん停止し、
利害循環モデルを導入して正税帳を読み直すべきだ
という問題提起に逢着する。古代律令社会が生み出したのは、
任官 → 任地 → 権限 → 物資への接触 → 人的ネットワーク → 次の任官
という循環が存在した可能性である。すると、「律令国家は中央集権国家だった」という教科書的な一枚絵が崩れる。中央が地方を完全に支配していたのではなく、
中央が地方のポストを配分することによって、地方の人的ネットワークを統御していた
という別の国家像が見えてくるからである。さらに大胆に言えば、
ポストの配分こそが、律令国家の人事政策であると同時に、利害関係の配分政策だったのではないか。官職は単なる「行政機能」ではなく、資源へのアクセス権である。
我々は、「古代官僚=腐敗官僚」だと認定するつもりはない。研究対象にすべきなのは、
「制度上の役割」と「個人的・集団的利害」がどこで重なるのか
だと考える点にある。たとえば、
- 郡司にとって郡稲は何を意味するのか
- 国司にとって正税・出挙稲の管理は何を意味するのか
- 倉庫担当者にとって「入庫・出庫の確認」は何を意味するのか
- 運送担当者にとって「逓送」は何を意味するのか
- 検査する官人にとって「数字の不一致」は何を意味するのか
このようにみると、利害=私欲ではなく、
利害=そのポストに付随する利益・権限・責任・リスク
として分析できると考えられ、静態的な正税帳研究から、その先の古代律令国家の本質の一端を把握できる糸口となるはずだという信念さえ生まれる。先に、正税帳はこの循環の“痕跡”を記録した帳簿だという作業仮説を提起した。その意味は、「正税帳が利害循環そのものを記録している」という意味ではなく、
本来は財政管理のために作成された帳簿が、その作成・確認・提出・訂正の過程を通じて、官人の利害関係や権限配置の痕跡を結果的に残している
だと認識しているからである。その点では、帳簿は人間を消しているように見えて、実は人間を消し切れていないと言えば、言い過ぎだろうか。様々な数字の背後に、
- 誰が数えたか
- 誰が確認したか
- 誰が承認したか
- 誰が責任を負ったか
- 誰にとってその数字が有利だったか
が残っていると考えたい。したがって、我々の観点を越前国郡稲帳分析に重ねると、さらに興味深い事実を指摘できる。丹生・足羽・敦賀・江沼を単なる行政区画として見るのではなく、それぞれの郡が「何を握っていたのか」の視点の導入である。
足羽は出挙。
敦賀は交通・逓送。
丹生は物資の集散・再配分。
江沼は境界・物資・外交的接点。
もしこうした差異が実際に確認できるなら、
郡司にとって、すべての郡が同じ価値だったとは限らない。
となる。「郡司になった」という事実だけでは足りない。問うべきは、「どこの郡司になったのか」である。古代の官職研究を、官職名の研究から「ポストの経済価値」の研究へ転換する発想の逆転である。だからこそ、我々の問いは
そのポストは、だれが、いつ、どんな形で配分し、その結果は?
へとつながる。これまでのように、「誰が任命されたか」という人名表を作るだけでは足りない。より積極的に、
① ポストの種類
↓
② そのポストが握る物・人・情報・権限
↓
③ そのポストを誰が推薦・任命したか
↓
④ 任期中に何をしたか
↓
⑤ どの帳簿に、その人物の仕事の痕跡が残るか
↓
⑥ 任期終了後、その人物がどこへ移ったか
まで追跡すれば、正税帳は単なる「国家財政の決算書」ではなくなるだろう。
「人間関係の痕跡を残した行政データベース」
と定義づけてもよいレベルに到達すれば、次は
正税帳を読むとは、数字を読むことではない。
その数字を作った人間を見ることである。
誰が集めたのか。
誰が運んだのか。
誰が計算したのか。
誰が確認したのか。
誰が署名したのか。
そして、誰にとって、その数字が「正しい数字」でなければならなかったのか。
そこまで考えたとき、正税帳の向こう側に、初めて人間が現れる。
そこにいるのは、「律令国家」という抽象的な国家ではない。
カネを必要とし、権限を求め、ポストを欲しがり、仲間を作り、親分を選び、子分を抱え、ときには制度の隙間を利用する、生身の人間である。
だからこそ、次の問いが生まれる。
そのポストを、いったい誰が配ったのか。
いつ、誰に、何を期待して与えたのか。
そして、その人事によって、古代国家のカネと権限は、実際にはどのように流れたのか。
となり、「律令国家の制度史」ではなく、ポストをめぐる人間の歴史として、考える視覚が求められる。だからこそ、
「尾張国正税帳が中央に届いた瞬間、中央官僚の頭の中では何が始まったのか」
という問いも設定される。これは事実である、従来の説明通りに、
国司が正税帳を作成する
↓
中央へ提出する
↓
民部省・主税寮が勘会する
は間違いないからである。実際、制度上、正税帳が民部省主税寮で監査を受け、問題があれば損益帳が作られ、正税帳が返却されるというシステムが機能していたはずである。しかしながらその「勘会」というブラックボックスを開けるならば、次のような段階的な情報処理をしたと推定している。
1 第一段階――「これは信用できる帳簿か?」
最初に見るのは、細かな数字ではない。帳簿そのものの成立条件である。尾張国正税帳は、天平6年(734)度のものが現存し、冒頭に国全体の収支、その後に郡別の収支が並ぶことが確認できる。したがって、中央側からすればまず、
必要な項目が揃っているか?
国全体の数字と郡別数字がつながるか?
前年からの繰越・当年収納・支出・残高が連続しているか?
添付される枝文・関連帳簿と照合できるか?
を確認するだけでよいはずである。これは現代で言えば、「この経費は妥当か?」を議論するのではなく、決算書として成立しているかを最初にチェックするのが、一般的なやりかたである。
2 第二段階――「数字は合っているか?」
ここから、計算。中央官僚にとって最も重要なのは、
収納高
+ 前年度からの残高
+ 出挙による収益
- 支出
= 現在高
という基本的な関係が成立しているか。そして、国全体の数字と郡別数字が一致するか。「尾張国が報告している数字」と「尾張国が本当に持っているはずの数字」の一致を確認する作業は不可欠である。「正税帳」という名前の意味を改めて考えると、「正しい税帳」だから正税帳なのではなく、中央が「正しい」と判定できることが重要だったと言い換えるべきである。
3 第三段階――「その数字は、なぜそうなった?」
帳簿というのは、「数字が合った」で終わることはない。例えば、「今年の出挙利稲が少ない」
とする。すると中央官僚は、「計算は合っている。でも、なぜ少ない?」と考えるだろう。その逆もある。「この郡だけ異常に利益が多い。」ならば、
「なぜだ?」
という論理法である。中央が欲しがったのは単なる「正しい数字計算」ではなくて、
数字の背後にある行政活動の説明
だったのではないだろうか。だからこそ、中央官衙には、「異常値こそ、中央官僚が次に調べるべき情報だった。」となる。
4 第四段階――「その国司は業務に精励しているか?」
話題を変えるが、正税帳が人事資料に変換すると考える発想に転換できないだろうか。尾張国の財政状態を見てみよう。すると、
- 収納は十分か
- 出挙は適切に運用されているか
- 不足はないか
- 支出は過大ではないか
- 災害・損田などの事情はどうか
- 国内巡行をきちんと行っているか
などが列挙される質問が飛び出したはずである。浮かび上がるのは、天平期の正税帳には残る国司の国内巡行である。彼らはその旅費支出を通して、各地の収穫状況や損害調査などの行政活動を確認したはずである。すると正税帳は、
財務報告書 → 行政活動報告書
へと移行する。そして、その先に、待ち構えているのは、太政官による
「この国司は有能なのか?」
という評価である。
5 正税帳 → 国司評価 → 人事
私はここで、さらに一段踏み込みたい。中央官衙は尾張国正税帳を見ても「尾張国の財政状態」だけを評価したのではない。むしろ、「尾張国を誰に任せておくべきか」という判断材料にすることも十分に想定できる。それゆえに、正税帳 → 国司評価 → 人事という回路である。繰り返すが、天平6年の尾張国正税帳について、これを直接「国司の勤務評定表だった」と証明する史料は、今の段階で見つかっていない。したがって、除目が開催されたと証拠づける史実として断言するのではなく、あくまでも正税帳が国司評価に利用された可能性にとどまるものの、一つの作業仮説として置きたい。
6 では「評価」は何を意味したのか?
とはいえ、国司に対して、国の財政運営が「良い/悪い」という単純な評価ではなかったにちがいない。むしろ中央の評価基準は各国を、大-上-中-小などの郷数で分類しているものの、それは中央にとって、人事を実施するに、どの国に何名の国司を派遣すればよいかを算定する基準にすぎなかった。最も関心を寄せたのは、
A 安定している国:収納・出挙・支出・残高が正常
B 注意を要する国:数字は合うが、収益率・支出等に異常
C 問題国:欠損・未納・不整合がある
D 要調査国:数字だけでは説明できない
問題のない国は通す。
異常のある国だけ、慎重にみる。
という行政合理性を採用したはずである。
7 そして最も面白い「その次」
次の問いは、
「さらにその評価をいかに活用しただろうか」
である、この問いは次の4点に分かれる。
① 返す:問題なし⇒「処理済み」
② 問い返す:数字がおかしい。⇒「説明せよ」
③ 補填させる」欠負・未納・損失があれば、⇒「誰が埋めるのか」となり、責任の所在論が発生する。
④ 人事に利用する:「この人物を次も使うか?」「別の国へ回すか?」「中央へ引き上げるか?」「この人物には、もっと重要なポストを与えてよいか?」
である。
8 「正税帳」の再定義
従来は、正税帳=地方財政の決算書だと説明して、だれも疑いを持たなかった。しかしながら、常識的にみて、正税帳=地方財政を中央が評価するための情報装置だと考えるならば、さらに大胆に言えば、
正税帳とは、地方で発生した「カネ・物・労働・行政行為」を中央が読み取り、それを「正常/異常」「許容/不許容」「信用/不信用」へ変換するための行政情報システムだった。
とみなせるならば、われわれは古代の官僚組織はあらたな側面から照射できるに違いない。
9 「尾張国正税帳」再読の試み
さて、我々の観点から尾張国正税帳を「何が書いてあるか」ではなく、
「中央の役人がどの順番で読むことを想定して作られているか」
という視点で読み直したい。本稿の論者にとって、仮に次の順番を置きたい。
① 形式確認
↓
② 総額確認
↓
③ 国―郡間の突合
↓
④ 前年度・当年度の比較
↓
⑤ 異常値の発見
↓
⑥ 異常の理由確認
↓
⑦ 国司・郡司の行政能力の評価
↓
⑧ 補填・是正・返却等の処理
↓
⑨ 次年度の行政・人事判断への利用
ここまで行けば、正税帳は単なる「決算報告書」ではなくなる。中央官僚の意思決定フローを逆算できる史料になると言って、無理はないだろう。それを踏まえれば、
誰が最初に見るのか。
本当に「まず最初に太政官が読む」のか、それとも、
国 → 正税使 → 民部省 → 主税寮 → 勘会 → 必要に応じて太政官
という情報処理の階層があったと想定すべきか。というのは、各官衙の、それぞれの部署で、異なる階層で「読む目的」が違ったのではないかという見込みに逢着するからである。
主税寮は数字を見る。
民部省は国の財政状態を見る。
太政官は、その結果を政治・人事・統治判断へ変換する。
もしこの役割分担が史料的に立証できるならば、
「正税帳という情報が、古代国家の意思決定システムの中をどう移動したか」
という研究にも発展できるのではないだろうか。だからこそ、次の課題として浮かび上がるのは、、尾張国正税帳の各項目を一つずつ取り上げ、「中央の役人なら最初にどこを見るか」を実際にシミュレーションする段階に到着していると考えるが、それは後日にゆだねたい。
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