2020年4月4日土曜日

566番歌 草枕旅行く君を愛つみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

566番歌

太宰大監大伴宿祢百代等、駅使に贈る歌二首

草枕旅行く君を愛しみ副ひてそ来し志賀の浜辺を

(1)愛しみ
  原文「愛見」とあり、「うつくしみ」と読む。「うるはし」とも読む。
万葉集中に、「愛しきひのまきてし」(438番歌)とか

大系では、「ウツクシは親子夫婦のこまやかな情愛を感するにいう。慈・仁・恵・親・温・恩などがあたる」〈208頁)とある。


(2)   大宰府
古代日本の国防と外交、西海道と呼ばれた九州地方の統治を担った古代最大の地方 都市であった大宰府は、「人物殷繁、天下之一都会」(、『続日本紀』(神護景雲3年〔769〕10月甲辰条)と称された、ヒトやモノ・カネ・情報などが国内のみならずアジア各地から集積した。この大宰府は、「ツクシノ オホミコトモチノ ツカサ」と読む。日本から朝鮮半島・中国へ出発する遣晴使 ・遣唐使 ・遣新羅使 の出発の基点であったと同時に、大宰府や筑前国 は 「元成辺賊之難也 。其峻城深陛 、 臨海守者 、 豊為内賊耶 」と外賊を防御する最前 線でもあった 。そのために、都からは多くの官人が赴任した。一方、大宰府管下の西海道諸国(九州各地)からは郡司・兵士・工人 らが上番したり、税物を貢納する農民たちもがいた。また、空海や最澄などの入唐僧・渡来僧は大宰府を発着地として 中国や朝鮮の先進的な文物や宗教を将来した。
ところで大宰府史跡から 出土した木簡の中には、鯛や鯖、生鮑などの海産物が大宰府に上納されたとあり、海の幸・山の幸が、各種の宴会の食材として提供されただろう。

(3)駅使
日本の古代律令国家において、駅は兵部省兵馬司の管轄下にあり、その諸規定は厩牧令に、その運営については公式令にある。
律令によれば、公的任務を帯びた官人のために用意された国内交通制度が 2 種類存在した。駅制と伝馬(つたわりうま)制である。 駅制は、駅路に沿って原則30里(約16km)ごとに配置された駅家を利用して、駅使という使者が行き来する交通制度である。各駅には、駅長・駅子といった人員と、駅馬が配備されていた。駅馬は官道の種類によって、 大路(都城-大宰府間)20匹、中路(東海道と東山道の本 道)10匹、小路(その他)5匹が用意されていた。駅馬は、9ランク(上上・上中~下下)に分けられた戸のうち、中中戸以上の戸に飼育が割り当てられた。
 駅の所管は国司にあったが、実際には駅戸から選ばれた駅長が運営責任を持った。駅の管理、会計、駅馬・駅子(馬子)の継立などである。近年、兵庫県龍野市で山陽道に属する布施駅家(子犬丸遺跡)は発掘されたことで判明したのは、駅には、駅門、駅長執務室、炊事場、駅使の休息室、駅馬の繋留場所、井戸、駅稲や食料の倉庫などがあった。
  武丸大上げ遺跡(所在地:福岡県宗像市武丸、奈良時代~平安時代(8世紀後半~9世紀前半、都と大宰府を結ぶ官道「西海道」につくられた駅家の跡か)

(4)志賀
  原文は、「鹿」。

ところで、この駅使の名は未詳であるが、なぜ、駅使に大伴宿祢百代らが歌を送らねばならなかっただろうか。


562番歌 暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつうも逢はぬ妹かも

562番歌
暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつうも逢はぬ妹かも

(1)眉根
  「まゆね」と読む。「まよね」と読む説もある。

(2)眉根を搔く

 眉を搔く。「眉がかゆい」のは恋人に会える前兆。したがって、恋人に会いたいときは俗信として、自分の眉を搔く。類歌は 「 眉根搔き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも」万葉集 993番歌

後世になっても、

「眉根掻き紐とき垂れて待ためやもしゑや今宵と言ひてしものを」〈久安百首〉 「雨降るといかでか人を待たざらむ誰 (た) がためかける我が眉根ぞ」(基俊集)

等の例がある。  

561番歌 思はぬを思ふといはば大野なる三笠の社の神し知らさむ

561番歌
思はぬを思ふといはば大野なる三笠の社の神し知らさむ

(1)大野
  現在の大野城市山田大字御笠の森通称舞田か。

(2)なる
  Ni+aru ⇒naru (母音 i )の脱落

(2)知る
  「知る」は支配・管理するの意。
   仁徳記などに「汝が御子やつびに知らむと雁は卵生らし 」とあるように、神の託宣により、仁徳天皇の後継者が「日継」(皇位継承)、つまり国の支配権を所有するとある。

560番歌 恋ひ死なむ時は何せむ生ける日のためこそ妹をみまく欲りすれ

560番歌

恋ひ死なむ時は何せむ生ける日のためこそ妹をみまく欲りすれ

(1)何せむ
  「せむ」は反語。

(2)生ける
   Ikuari ⇒ Ikeri  ua⇒e  二重母音の変化

(3)見まく
  「見む」のク語法。mimu+aku ⇒ mimaku。なお、万葉集中に、ク語法は531例あり。

[参考文献]
大野 晋 (1952), 「古文を教へる国語教師の対話--文法史の知識はどのやうに役立つか--」, 『国語学』 8, pp.87-
早田 輝洋 (1998)「上代日本語の音節構造とオ列甲乙の別」, 『音声研究』 2(1), pp.25-33
安田 尚道 (2009), 「"ク語法 aku説"とその提唱者たち」, 『青山大学文学部紀要』 51, pp.143-

(4)欲りすれ 
  「欲りす」の已然形。「こそ~すれ」と呼応

(5)妹
  愛する妻、もしくは愛する人。

(6)~ム時ハ
   「事おはり、帰らむ日には」(万葉集、5、984番)

559番歌 事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にもわれは会へるかも

559番歌

事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にもわれは会へるかも

(1)生き来しものを
  「生來之物乎」の訓が定まらない

(2)老いなみ
  老いらくの恋。559番歌では「恋」と記すが、560番歌では、「孤悲」と書く。現代感覚で「恋」と理解すべきではなく、むしろ「孤独に(一人で)もだえ苦しい恋」である。
「恋ひ」を表現する文字は、古事記では「古斐」、万葉集では「古非」「故非」「故飛」「孤悲」、日本書紀には「姑悲」

なお、563番歌では「老ゆる」は「耆」に当てる。正倉院文書中の大宝戸籍などを参照すると、66歳以上を「耆老(耆女)」、61歳から65歳を「老夫(老女)」と記す。

(3)吾者遇流香聞
  まず「吾」は、「われ」か「あれ」と読まれてきたが、私は「われ」と読みたい。

2020年3月29日日曜日

556番歌 筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ


556番歌
賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(すくねみより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王(なきひだりのおほまへつきみながやのおほきみ)の女(むすめ)そ
筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ

(1)  賀茂女王 
巻8、1613番歌にも、その和歌がある。題詞によれば、父は長屋王、母は阿倍朝臣。
長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は胸形君徳善の女尼子娘であり、天武天皇の長子である。壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣であった。 そして持統天皇の後継者的性格を当時の太政大臣は持っていた。 また、 王の母は天智天皇 と姪娘との間に生まれた御名部皇女。したがって長屋王は父母両系において天皇家の孫に当たる。和銅八年(七一五)の時点で、長屋王の年齢は四十歳(懐風藻)あるいは 三十二歳(尊卑分脈、 公卿補任)である。
 美濃行幸、養老改元、長屋王の大納言昇任と続いた一連の事件は、 元正女帝即位以来の、律令制の推進者藤原氏と長屋王の対立と妥協の産物である。卑見によれば、「故左大臣長屋王」とある「故」には、単なる幽明境を異にしていると表示するためだけだと思われない。

(2)   大伴宿祢三依
    大納言大伴御行の子。御依とも作る。大伴旅人と同じ頃、筑紫に赴任したらしい。したがって、天平元年(729)頃に賀茂女王との親しい関係を持っていたようだ。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。
 大伴宿祢三依の歌は、下記の5首を収録する。
①     我(あ)が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万4-552)
②     天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578)
③     我妹子(わぎもこ)は常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650)
④     照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690)
⑤     霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434)

(3)筑紫船
古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された陸上の道は、太宰府道・筑紫大道と呼称された。海上の道を往来したのは、筑紫船。その航路は今後の検証にゆだねるが、遣唐使および遣新羅使の航路から推定して、難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へのルートであったようだ。

なお、難波津の形成は,大和王朝による難波堀江の開削と連動しており,5世紀代のことであったる。5世紀後半に上町台地の先端部 に難波大倉庫群が建設された 。難波地域の砂州を掘削して、作られた難波堀江の開通により,難波地域は 淀川・大和川水系によって畿内中央部と容易に 連絡できるようになった。難波津は,このように倭の五王の外交・軍事 拠点として設定されたため,当初は交易機能は 副次的であり,文化・情報の流入口として重要 な意味を持ったと考えられる。倭の五王たちは, 博多津を経て難波津に出入りする外交使節によ り,国際情勢の情報を独占し,南朝の宋などの 中国王朝から冊封を受けることにより,権威を 確保した。また,中国王朝から回賜された奢侈 品を独占し,それを分与することによって文化 的威信を獲得した。 難波に大郡・小郡・館などの外交施設が置か れ,難波宮が建設された。

2020年3月28日土曜日

天平の読み

今日では、「天平の甍」などの小説名でもそうであるが、一般的に「てんぴょう」と読む習わしである。

しかしながら、山田孝雄が指摘するように、
*テンビャウ
であった。

『年号読方考証稿』 著者 山田 孝雄 、  宝文館出版 、平成元年復刻版