2020年3月29日日曜日

556番歌 筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ


556番歌
賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(すくねみより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王(なきひだりのおほまへつきみながやのおほきみ)の女(むすめ)そ
筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ

(1)  賀茂女王 
巻8、1613番歌にも、その和歌がある。題詞によれば、父は長屋王、母は阿倍朝臣。
長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は胸形君徳善の女尼子娘であり、天武天皇の長子である。壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣であった。 そして持統天皇の後継者的性格を当時の太政大臣は持っていた。 また、 王の母は天智天皇 と姪娘との間に生まれた御名部皇女。したがって長屋王は父母両系において天皇家の孫に当たる。和銅八年(七一五)の時点で、長屋王の年齢は四十歳(懐風藻)あるいは 三十二歳(尊卑分脈、 公卿補任)である。
 美濃行幸、養老改元、長屋王の大納言昇任と続いた一連の事件は、 元正女帝即位以来の、律令制の推進者藤原氏と長屋王の対立と妥協の産物である。卑見によれば、「故左大臣長屋王」とある「故」には、単なる幽明境を異にしていると表示するためだけだと思われない。

(2)   大伴宿祢三依
    大納言大伴御行の子。御依とも作る。大伴旅人と同じ頃、筑紫に赴任したらしい。したがって、天平元年(729)頃に賀茂女王との親しい関係を持っていたようだ。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。
 大伴宿祢三依の歌は、下記の5首を収録する。
     ()が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万4-552
     天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578
     我妹子(わぎもこ)常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650
     照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690
     霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434

(3)筑紫船
古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された陸上の道は、太宰府道・筑紫大道と呼称された。海上の道を往来したのは、筑紫船。その航路は今後の検証にゆだねるが、遣唐使および遣新羅使の航路から推定して、難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へのルートであったようだ。

なお、難波津の形成は,大和王朝による難波堀江の開削と連動しており,5世紀代のことであったる。5世紀後半に上町台地の先端部 に難波大倉庫群が建設された 。難波地域の砂州を掘削して、作られた難波堀江の開通により,難波地域は 淀川・大和川水系によって畿内中央部と容易に 連絡できるようになった。難波津は,このように倭の五王の外交・軍事 拠点として設定されたため,当初は交易機能は 副次的であり,文化・情報の流入口として重要 な意味を持ったと考えられる。倭の五王たちは, 博多津を経て難波津に出入りする外交使節によ り,国際情勢の情報を独占し,南朝の宋などの 中国王朝から冊封を受けることにより,権威を 確保した。また,中国王朝から回賜された奢侈 品を独占し,それを分与することによって文化 的威信を獲得した。 難波に大郡・小郡・館などの外交施設が置か れ,難波宮が建設された。

0 件のコメント:

コメントを投稿