延暦寺僧侶・円仁による唐巡礼日記『入唐求法巡礼行記』には,唐代後期(830~840年代)の中国沿海岸部に展開した在唐新羅人社会を記述する貴重な文献である。
張保皐の海上ネットワー
クの一端が、大宰府に見ることが出来る。
(1)蒲生京子「新羅末期の張保皐の台頭と反乱」(『朝鮮史研究会論文集』18,1979
(2)李永沢「張保皐海上勢力に関する考察」(『韓国海洋大学論文集』14,1979)
(3)金文経『唐代の社会と宗教』(崇実大学出版部,1984)
(4)李基東「張保皐とその海上王国」(『張保皐の新研究』,莞島文化院,1985;『新羅社会史研究』一潮 閣,1997
(5)坂上早魚「九世紀の日唐交通と新羅人-円仁の『入唐求法巡礼行記』を
中心に」(『MUS EUM KYUSHU 文明のクロスロード』28 号,1988)・
(6)佐伯有清『円仁』(吉川弘文館,
1989)
(7)李宗勳「中国山東半島における張保皐と新羅人たち」(『張保皐海上経営史研究』イジン出版
社,1993)
(8)金文経「張保皐海洋王 国の人々」(『張保皐海上経営史研究』イジン出版社,1993)
(9)李炳魯「九世紀初期環シナ海貿易圏の考察」(『日本学誌』15,1995)
(10)金光洙「張保皐勢
力の興亡の歴史的意味」(『張保皐と清海鎮』慧眼,1996)
(11)呉洙政「張保皐在唐活動の背景」(『淑明韓
Kyoto Sangyo University
NII-Electronic Library Service
166 近藤 浩一
国史論』2,1996)
(12)金文経『張保皐研究』(図書出版淵鏡文化社, 1997)
(13)堀敏一「唐代新羅人居留地と日本僧円仁入唐の由来」(『古代文化』50-5,1998a)
(14) 同「在唐新羅人の活動と入唐交通」(『東アジアの中の古代文化』研文出版,1998b)
(15)権悳永「在唐新
羅人社会の形成とその実態」(『国史館論叢』95,2001a)
(16)権悳永「在唐新羅人社会と赤山法花院」(『史学
研究』62,2001b)
(17)権悳永『在唐新羅人社会研究』(一潮閣,2005)
(18)許逸・チェジェス・姜祥沢・李昌億
共著『張保皐と黄海海上貿易』(国学資料院,2001)
(19)李侑珍「9 世紀在唐新羅人の活動について」(『中
国史研究』13,2001)
(20)曺凡煥「張保皐と赤山法花院-赤山法花院と 9 世紀の東アジア世界-」(『対外文物交流研究』海上 王張保皐記念事業を会,2002
(21)李鎔賢「張保皐の貿易活動-その交易組織面からの接近-」(『対外文物交流研
究』2,2003)
(22)徐侖希「清海鎮大使張保皐に関する研究-新羅王室との関係を中心に」(『震檀学報』
92,2001)
(23)田中俊明「アジア海域の新羅人-九世紀を中心に-」(『東アジア海洋域圏の史的研究』京
都女子大学研究叢書,2003)
2016年7月3日日曜日
大宰府のフードライフ
大宰府のフードライフ(裏道編)
WEB上のグルメ情報には、確かに「Restaurantエッセンス」のような高級店が数多く紹介されている。しかし、大宰府の裏道で、しっかり頑張っている「地元のお店」も多い。
今回は、太宰府市役所近辺を紹介したい。
1,軽食さくらーー日替わりランチは、おばちゃんの苦心作。
2,そば処一耕ーー8割そばは美味
3,松井ーー鰻丼がよい
4,都府楼珈琲ーーご主人の品が漂うランチは絶品
WEB上のグルメ情報には、確かに「Restaurantエッセンス」のような高級店が数多く紹介されている。しかし、大宰府の裏道で、しっかり頑張っている「地元のお店」も多い。
今回は、太宰府市役所近辺を紹介したい。
1,軽食さくらーー日替わりランチは、おばちゃんの苦心作。
2,そば処一耕ーー8割そばは美味
3,松井ーー鰻丼がよい
4,都府楼珈琲ーーご主人の品が漂うランチは絶品
木村製麺所の「天ぷら明太子天うどん」がお勧め
うどん屋さんといえば、今や2極化していよう。高級店もしくは廉価なチェーン店である。日本国内に数多くあるうどんチェーン店が、どこでも、いつでも均一の味であるのに対して、このうどんは大きく異なる。
*宰府うどん
大宰府の木村製麺所は本店こそ別な場所にて製造しているが、そのアンテナショップが大宰府参道通りにある。いわゆる小鳥居小路の一角にひっそりとある。「ひっそり」と書くのは、西鉄太宰府駅から天満宮に向かう道で、左側の小路に大宰府館が見えたならば、その道を進めば良いが、なにせ人通りがない。まばらであるので、勇気がいるものの、お店に飛び込んだならば、満足すること請け合い!!
オーナーが太宰府市内に製麺所「木村製麺」を経営する方であり、その製麺所から直に運び込んだうどんに、オーナー夫人手作りの絶品のスープが加われば、美味しくないはずがない。加えて、オーナーのうどん茹でがまた心にくい。うどんチェー店や立ち食いうどん店などと違い、額に大粒の汗を流しながら、一杯一杯のうどんを丁寧に茹でている。
狭い調理場では、オーナー夫人が天ぷらを揚げている。
私のお勧めはトッピング「明太子天ぷら」。」(260円)である。
望むらくは、「さいふうどん」の特徴を教えて欲しい。
*宰府うどん
大宰府の木村製麺所は本店こそ別な場所にて製造しているが、そのアンテナショップが大宰府参道通りにある。いわゆる小鳥居小路の一角にひっそりとある。「ひっそり」と書くのは、西鉄太宰府駅から天満宮に向かう道で、左側の小路に大宰府館が見えたならば、その道を進めば良いが、なにせ人通りがない。まばらであるので、勇気がいるものの、お店に飛び込んだならば、満足すること請け合い!!
オーナーが太宰府市内に製麺所「木村製麺」を経営する方であり、その製麺所から直に運び込んだうどんに、オーナー夫人手作りの絶品のスープが加われば、美味しくないはずがない。加えて、オーナーのうどん茹でがまた心にくい。うどんチェー店や立ち食いうどん店などと違い、額に大粒の汗を流しながら、一杯一杯のうどんを丁寧に茹でている。
狭い調理場では、オーナー夫人が天ぷらを揚げている。
私のお勧めはトッピング「明太子天ぷら」。」(260円)である。
望むらくは、「さいふうどん」の特徴を教えて欲しい。
刀伊ーー同一時期に日韓海峡圏の対岸を震撼させた海賊は?
大宰府を襲撃した「刀伊」とは何かを考えるときに、参考となる資料は次の通りである。
1,同一時期に、日韓海峡圏の向かい側を震撼させたのは、女真人であったこと
2,女真族の氏名に「曰押閒伊·曰惱一伊·曰排門異·曰佛徐逸·曰滿尹伊」とあり、「刀伊」の意味は不明とは言え、無関係とは思えないほどに語形の類似が想像できること
(1)『高麗史』卷四、世家 卷第四顯宗 2年(1011)8月
「東女眞百餘艘, 寇慶州」
(2)『高麗史』卷四、世家卷第四、顯宗 3年(1012)2月
「壬子 三年 春二月 甲辰 女眞酋長麻尸底, 率三十姓部落子弟, 來獻土馬, 三十姓, 曰阿干頓·曰尼忽·曰尼方固·曰門質老·曰弗遮利·曰居質阿·曰黏閒逸·曰尼質阿·曰耶邏多·曰邀揭囉·曰要悅逸·曰鬱唁·曰烏臨大·曰蒙骨拽·曰暈底憲·曰徒怠·曰耶兀逸·曰拏乙信·曰拏乙晏·曰冬骨逸·曰支闍逸·曰魚瑟殷·曰麽乙逸·曰塗沒尼·曰云突梨·曰押閒伊·曰惱一伊·曰排門異·曰佛徐逸·曰滿尹伊.」
(3)『高麗史』卷四、世家卷第四、顯宗 3年(1012)5月
「五月 己巳 東女眞寇淸河·迎日·長鬐縣. 遣都部署文演·姜民瞻·李仁澤·曹子奇, 督州郡兵, 擊走之.」
参考までに、『大鏡』中、道隆の条に
「かの国におはしまししほど、刀夷国の者、にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、~~」
参考までに、『大鏡』中、道隆の条に
「かの国におはしまししほど、刀夷国の者、にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、~~」
毎年2月に大宰府を来訪した中国人商人
『朝野群載』巻5,朝儀下には、「宋国の商客王瑞、柳忩、丁載」の名が見える。その交易品の名前は未記載であるが、彼等は大宰府に「上古待二八月之順風、所往反也」(同書)とあり、2月に来訪し、半年間大宰府に滞在した後、8月に旅立ったという。
蕃客所に関して
国立公文書館所蔵文書には、「応徳2年9月蕃客所注進案」が保存されている。本来は観世音寺所蔵文書であっただろう。
蕃客所とは、大宰府に設置された「外国人担当の役所」、つまり外務省と法務省を兼ねる役所である。そこで、「注進呉楽所役事」とあり、「呉楽」によって、大宰府を来訪した外国人の無聊を慰めるエンターテインメントを提供していたようである。
蕃客所とは、大宰府に設置された「外国人担当の役所」、つまり外務省と法務省を兼ねる役所である。そこで、「注進呉楽所役事」とあり、「呉楽」によって、大宰府を来訪した外国人の無聊を慰めるエンターテインメントを提供していたようである。
2016年7月2日土曜日
大宰府と契丹
(1)『
百
練
抄』
寛
治
6
年
(1092)6月27
日
条
「 諸 卿 定 申 本 朝 商 客 渡 契 丹 事」
(2) 『 中 右 記』 同 日 条
「 有 陣 定、 是 大 宰 府 解 状 也、 唐 人 隆 現 為 商 客、 初 通 契 丹 国 之 路、 銀 宝 貨 等 持 来、 子 細 見 解 状」
(3) 『 中 右 記』 同 年9 月13 日 条
「 検 非 違 使 等 於 左 衛 門 府、 勘 問 商 人 僧 明 範、 件 明 範 越 立 趣 契 丹 国、 経 数 月 帰 朝、 所 隨 身 之 宝 貨 多 云 々、~中略~ 契 丹 者 本 是 胡 国 也、 有 武 勇 聞、 僧 明 範 多 以 兵 具 売 却 金 銀 條、 己 乖 此 令 歟
(4)『 後 二 條 師 通 記』 同 年10 月22 日 条
「昨 日 陣 定 事 ~中略~ 被 定 最 初 契 丹 事~中略~ 或 随 勅 定、 或 猶 可 被 拷 明 範 僧 也、 或 明 範 陳 詞、 可 被 問 帥 者」
大宰府権帥藤原伊房が「 商人僧 明範」を代理として契丹国に対して「以 兵 具 売 却 金 銀 條」とある。今風に言えば、武器輸出である。
なお、『遼史』道宗本紀、大安7年9月己亥の条には、「 日 本 国 遣 鄭 元 鄭 心 及 僧 応 範 等 二 十 八 人 来 貢」とある。
「 諸 卿 定 申 本 朝 商 客 渡 契 丹 事」
(2) 『 中 右 記』 同 日 条
「 有 陣 定、 是 大 宰 府 解 状 也、 唐 人 隆 現 為 商 客、 初 通 契 丹 国 之 路、 銀 宝 貨 等 持 来、 子 細 見 解 状」
(3) 『 中 右 記』 同 年9 月13 日 条
「 検 非 違 使 等 於 左 衛 門 府、 勘 問 商 人 僧 明 範、 件 明 範 越 立 趣 契 丹 国、 経 数 月 帰 朝、 所 隨 身 之 宝 貨 多 云 々、~中略~ 契 丹 者 本 是 胡 国 也、 有 武 勇 聞、 僧 明 範 多 以 兵 具 売 却 金 銀 條、 己 乖 此 令 歟
(4)『 後 二 條 師 通 記』 同 年10 月22 日 条
「昨 日 陣 定 事 ~中略~ 被 定 最 初 契 丹 事~中略~ 或 随 勅 定、 或 猶 可 被 拷 明 範 僧 也、 或 明 範 陳 詞、 可 被 問 帥 者」
大宰府権帥藤原伊房が「 商人僧 明範」を代理として契丹国に対して「以 兵 具 売 却 金 銀 條」とある。今風に言えば、武器輸出である。
なお、『遼史』道宗本紀、大安7年9月己亥の条には、「 日 本 国 遣 鄭 元 鄭 心 及 僧 応 範 等 二 十 八 人 来 貢」とある。
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