2016年7月2日土曜日

王則貞とは誰か?

『 朝 野 群 載』 巻 20 「 異 国」
「 高 麗 国 禮 賓 省 牒 大 日 本 国 大 宰 府
 貴 国 有 能 理 療 風 疾 医 人。 今 回 商 客 王 則 貞 廻 皈 故 郷、 回 便 通 牒、 及 於 王 則 貞 処、 説 示 風 疾 縁 由、 請 彼 処、 選 擇 上 等医人、 於 来 年 早 春 発 送 到 来、 理 療 風 疾、 若 見 功 定 不 輕 酬 者。 今 先 送 花 錦 及 大 綾 中 綾 各 11 段、 麝 香10 臍、 分 附 王 則 貞、 賚 持 將 去 知 大 宰 府 官 員 処、 且 充 信 儀。 到 可収 領 者。」

とある。

『高麗史』文宗27年7月丙午の条には、
「東南海都部署奏、日本國人王則貞松永年等四十二人來、請進螺鈿‧鞍橋‧刀‧鏡匣‧硯箱‧櫛書案‧畵屛‧香爐‧弓箭‧水銀‧螺甲等物、壹歧島勾當官、遣藤井安國等三十三人、亦請獻方物東宮及諸令公府、制、許由海道、 至京」
とある。しかし、日本人にしても、「王」氏を名乗るのは奇妙であり、高麗人たちにしても、不思議だと感じたはずである。



大宰府に届いた医師派遣要請


(1) 『 朝 野 群 載』 巻 20 「 異 国」
「 高 麗 国 禮 賓 省 牒 大 日 本 国 大 宰 府
 貴 国 有 能 理 療 風 疾 医 人。 今 回 商 客 王 則 貞 廻 皈 故 郷、 回 便 通 牒、 及 於 王 則 貞 処、 説 示 風 疾 縁 由、 請 彼 処、 選 擇 上 等医人、 於 来 年 早 春 発 送 到 来、 理 療 風 疾、 若 見 功 定 不 輕 酬 者。 今 先 送 花 錦 及 大 綾 中 綾 各 11 段、 麝 香10 臍、 分 附 王 則 貞、 賚 持 將 去 知 大 宰 府 官 員 処、 且 充 信 儀。 到 可収 領 者。」

(2)『朝野群載』
 大 宰 府 解 申 請 官 裁 事 、 言 上 高 麗 国 牒 壹 通 状 右 商 人 往 反 高 麗 国、 古 今 之 例 也、 因 茲 去 年 當 朝 商 人 王 則 貞、 為 交 関 罷 向 彼 州 之 間、 禮 賓 省 牒 壹 通、 相 副 錦 綾 麝 香 等 所 送 也、 是 則 聞 医 師 経 廻 鎭 西 之 由、 牒 送 旨、 件 則 貞 所 申 也 者、 異 国 之 事、 為 蒙 裁 定、 未 検 知 件 錦 綾 麝 香 等、 何 況 不 請 取、 先 相 副 件 牒 状、 言 上 如 件、 謹 解、 承 暦 4 年 3月5日


(3) 『 帥 記』 承 暦4 年 9 月4 日 条
「次 匡 房 申 云、 付 誰 人 可 遣 乎、 殿 下 宣 云、 若 遣 王 則 貞 者、 子 細 語 示 彼 朝 歟、 有 如 此 往 反 之 輩 乎、 ~中略~ 少 選 帰 参 云、 随 人 々 申、 可 候 返 牒、 至 于 王 則 貞、 永 不 可 遣 高 麗、 若 竊 往 反 者、 可 誡 所 由 之 日、 可 下 知 歟 者、


(4) 『 本 朝 続 文 粋』 巻11「 牒」
「 日 本 国 大 宰 府 牒 高 麗 国 禮 賓 省 却 廻 方 物 等 事 ~中略~ 况 亦 託 商 人 之 旅 艇、 寄 殊 俗 之 単 書、 執 圭 之 使 不 到」

(5) 『 師 守 記』 貞 治6 年5月9日 条

 承 暦 4 年10月2日 大 宰 府 官 符。
「略 右 大 臣 宣、 奉 勅、 所 請 医 人 輙 難 差 遣、 所 送 方 物、 宜 被 返 却、 早 以 府 司 之 返 牒、 擇 使 者 発 遣、 但 至 商 人 王 則 貞 者、 宜 任 法 罪 科」


結果的に、『本朝続文粋』巻11に見るとおり、高麗の医師派遣要請を断ることとなるが、傑作なのは「日本的な落としどころ」である。いったんは医師丹波雅忠を派遣することに決定するが、万が一高麗国に於いて丹波雅忠の医療行為に効なければ日本国の面目が立たないという理由で、高麗の要請を断る。しかもその断りにしても、国家の名ではなく、大宰府からの返書としてである。


大宰府解文と「鶏 林 府」

『 権 記』 長 徳3 年 (997)10 月1 日 条

「乂 申 高 麗 国 案 内 事、 定 申 云、 先 日 言 上 府 解 不 注 到 鶏 林 府 成 犯 者 交 名、 今 日 解 文 巳 注 其 名、 仍 須 追 討 彼 成 犯 則 矢 等 類 之 由、 注 載 報 府 」

とある。その「鶏 林 府」とは朝鮮政府であるが、その朝鮮半島で犯罪を犯した日本人の氏名が大宰府に届き、その外交的交渉は大宰府の業務で有ったと知る。

対馬と朝鮮半島とのトランスボーダー

(1)『三代実録』貞観十二年(870)2月12日条
「先是大宰府言、 対馬島下県郡人卜部乙屎麻呂、 為捕二鸕鳥、向新羅。乙屎麻呂為新羅国所執、 縛囚禁土獄。 乙屎麻呂見彼国、挽運材木、構作大船、撃鼓吹角、簡士習兵。乙屎麻呂竊問防援人、答曰、為伐取 対馬島也。乙屎麻呂脱禁出獄、纔得逃帰。」

この記事を見ると、対馬人卜部氏が自由に朝鮮半島に渡航している。

(2)『朝野群載』巻20・異国  承暦4年(1080)3月5日大宰府解、 大宰府解申請官裁事、言上高麗国牒壹通状、右商人往返高麗国、古今之例也。因茲去年当朝商人王則貞、為交 関罷向彼州之間、礼賓省牒壹通、相副錦綾麝香等所進也。是則聞医師経廻鎮西之由上。牒送旨、件則貞所 申也者。異国之事為蒙裁定、未検知件錦綾麝香等。何况不請取。先相副牒状言上如件、謹解。

とあり、「右商人往返高麗国、古今之例也」の記事に注目すると、これまた商人は自由に日韓海峡圏を自由に往来している。
とあり、「

源俊頼の『散木奇歌集』所載「唐人」

源俊頼の『散木奇歌集』には「はかたにはへりける唐人とものあまたもうてきてとふらひける」とある。

この歌の含意は、博多に存在したチャイナ・タウン居住の「唐人」たちが弔問に大宰府に来訪したと言う。

前大宰大弐藤原惟憲は大富豪

藤原実資の著『小右記』(長元2年7月)には、
「11日、戊辰、昨夕前大弐惟憲妻入京、即参内云々、惟憲明後日入洛、随身珍宝不知其数云々、9国2島物掃底奪取、唐物又同、已似忘恥、近代以富人為賢者、惟憲献白鹿于関白云々」
とあり、大宰大弐の惟憲は、九州各地の品々を「奪取」し、さらには「唐物」交易で富を蓄積したとある。その権限の大きさを知る。

大宰府を襲撃した「刀伊」は女真族か?ーー「野蛮な民族」を意味する「되」(トゥエ)とは、九州大学付属図書館のホームページ

九州大学付属図書館のホームページには、

「刀伊の入寇~九州を襲った異民族」の特集があり、


「1019年4月17日に、京都の藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに2通の手紙が到着しました。
その手紙の送り主は当時、大宰府に赴任していた藤原隆家(ふじわらのたかいえ)からで、日付はそれぞれ4月7日と4月8日でした。受け取った藤原実資は自身の日記である『小右記』に、刀伊の来襲を伝える部分を引用して書き残しています。
「刀伊国の人が、50余艘で対馬島にやってきて殺人や放火した。要衝の地を警備し、兵船を派遣した。」
「異国船(=刀伊の船)が乃古嶋(能古島)に到着した。」(『小右記』寛仁3年(1019年)4月17日条)
 現在ならば新幹線で数時間で着いてしまう京都ですが、当時はおよそ10日ほどかかって、手紙が都へ伝えられています。この手紙によって、はじめて刀伊の来襲が都に伝えられました。
 日本側に残された史料では、日本を襲撃した主体を一貫して「刀伊」(とい)と表現しています。
この刀伊の正体は、中国の満州地方を中心に居住していた「女真族」のこと指しています。
ただし、日本側が「刀伊」の正体を「女真族」であると見破っていたのかは定かではありません。
その証拠に、当初、日本の朝廷は襲撃の主体を当時、朝鮮半島にあった高麗王朝ではないかと疑っていました。
日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」

とある。

関連記事は『朝野群載』巻20、「異国」の条にも、
「大宰府解申請官裁事  言上刀伊賊徒或撃取或逃却状」
とあり、ほぼ同文が掲載されているが、『小右記』がさらに詳細である。

『小右記』寛仁3年(1019)8月3日条

同年七月十三日大宰府解

「言上対馬島判官代長岑諸近越二渡高麗国、隨下身為刀伊賊徒被虜女捨人上帰参状、中略、件 諸近以去六月十五日、晦跡逃亡、仍其由言上先了、而以今月七日諸近到来、申云、~略~不如下相尋老母委 中命於刀伊之地上。欲レ申事由於島司、渡海制重、仍竊取小船、罷向高麗国、将近刀伊境、欲問存亡。爰彼国通事仁礼罷会。~中略~即申云、 ~中略~欲罷還本土之~」


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さて、ここで問題は「刀伊国」とは何かである。九州大学の説明では、

*日本側が女真族のことを「刀伊」(とい)と表現していた理由としては、朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)に日本側が漢字をあてたものと考えられています」


とあるが、「朝鮮半島の言葉で夷狄(野蛮な民族)を意味する「되」(トゥエ)」とは何だろうか。

そもそも1019年頃に、「野蛮な民族」を意味する「되」(トゥエ)などという語形はもつ言語学的資料はない。2点の語学的知識の不足のために、この説明はいささか勇み足である。

確かに、
①白鳥庫吉「オランカイ及び刀伊の名義について」『白鳥倉吉全集』第5巻所収
②池内宏「刀伊の賊」『満鮮史研究』中世第1冊、吉川弘文堂、1979年
とあることに依拠しており、九大図書館の欄執筆者も異見なく、踏襲したに違いない。