2026年9月20日日曜日

『式部省とは何かーー『続日本紀』に見る式部省関連記事分析を通して

  式部省には、

国司の功過・行能・景迹

考状

式部省

巡察所見との勘会

人物の銓衡・黜陟

太政官

という、かなり明瞭な情報処理回路が史料上で確認できる。

さあ、その組織は、

   ①式部卿

②式部大輔
③式部少輔
④式部員外大輔・員外少輔
⑤式部少丞・大丞
⑥式部省官人の兼官・転任・死亡
⑦人物伝に現れる式部省在任歴

1)まず「任官記事」の時系列化

年月日人物位階式部省職記事の性格
大宝2・正月17日大伴宿禰安麻呂従三位式部卿任官
慶雲3・7月11日巨勢朝臣太益須従四位上式部卿任官
和銅1・3月13日下毛野朝臣古麻呂従四位上式部卿任官
養老2・9月19日藤原朝臣武智麻呂従四位上式部卿任官
同日穂積朝臣老正五位上式部大輔任官
同日中臣朝臣東人従五位下式部少輔任官
同日波多真人与射従五位下式部員外少輔任官
養老4・10月9日大伴宿禰祖父麻呂式部少輔任官
同日巨勢朝臣足人従五位下式部員外少輔任官
養老5・6月26日紀朝臣為臣麻路従五位下式部少輔任官
同日下毛野朝臣虫麻呂従五位下式部員外少輔任官
天平13・7月23日紀朝臣麻路正五位上式部大輔任官
天平15・6月30日大原真人麻呂従五位下式部少輔任官
天平17・9月13日巨勢朝臣堺麻呂従五位上式部少輔任官
天平18・3月5日藤原朝臣仲麻呂正四位上式部卿任官
天平18・3月10日平群朝臣広成正五位上式部大輔任官
天平18・11月5日巨勢朝臣堺麻呂従五位上式部大輔昇進・転任
天平勝宝6・7月13日阿倍朝臣小嶋従五位下式部少輔任官
天平勝宝?※要本文照合
天平宝字8・10月29日石川朝臣永年従五位下式部少輔任官
神護景雲1・3月20日紀朝臣広名従五位下式部大輔任官
同日藤原朝臣小黒麻呂従五位下式部少輔任官
神護景雲1・8月29日布勢朝臣人主従五位上式部大輔任官
宝亀元・6月3日藤原朝臣家依正五位上式部大輔任官
宝亀元・9月16日藤原朝臣宿奈麻呂従三位式部卿任官
宝亀元・10月23日多朝臣犬養従五位下式部少輔任官
宝亀2・閏3月1日藤原朝臣家依従四位上式部大輔再任・転任
宝亀2・11月19日紀朝臣古佐美従五位下式部少輔任官
宝亀5・3月5日藤原朝臣是公正四位下式部大輔兼任兼官
宝亀7・3月6日多朝臣犬養従五位下式部少輔任官
同・3月24日石川朝臣真守従五位上式部少輔転任
宝亀10・9月28日藤原朝臣雄依従四位下式部員外大輔任官
天応1・6月27日藤原朝臣是公正三位式部卿兼中衛大将任官
延暦1・8月25日石川朝臣真守正五位下式部大輔任官
延暦2・5月15日紀朝臣古佐美従四位下式部大輔任官
延暦2・7月25日藤原朝臣種継従三位式部卿兼近江按察使任官
延暦4・8月14日笠朝臣江人従五位下式部少輔任官
延暦5・2月17日紀朝臣船守従三位式部卿兼任
同日大中臣朝臣諸魚正五位上式部大輔任官
延暦6・3月22日安倍朝臣広津麻呂従五位上式部少輔任官

このうち、たとえば養老2年9月19日の記事は、卿・大輔・少輔・員外少輔を一挙に配置しているので、式部省の組織構成を見るうえで、重要視して良い。


また、養老4年10月9日には式部少輔と員外少輔が同時に置かれ、養老5年6月26日にも少輔・員外少輔がセットで現れます。


2)「人事の流れ」

1 式部卿は、最初から「別格の人事ポスト」

大宝2年の大伴安麻呂から始まり、慶雲3年の巨勢太益須、和銅元年の下毛野古麻呂へと続きく、一連の人事を時系列でみると。

特に和銅元年3月13日の記事は、

中納言

左右弁

式部卿

治部卿
民部卿
兵部卿……

という形で六省卿が一斉に配置される記事となっている。しかも、『続日本紀』の和銅6年の記事には、

「銓衡人物。黜陟優劣。式部之任。務重他省。」

とありる。この記述によると、「式部省の職掌説明」ではなく、人事権を扱う官司として式部省を国家自身がどう位置づけていたかを示す一次史料と言わざるを得ない。


2)「人事情報データ」との接続

たとえば、

藤原家依

を見ると、

  • 宝亀元年6月3日 式部大輔
  • 宝亀2年閏3月1日 式部大輔
  • 宝亀元年の別記事では兼官
  • その後さらに別官へ展開

というように、単発の「任官記事」ではなく、

式部大輔というポストを経由して、その人物がどこへ動いていくか

を追える。宝亀2年閏3月1日の式部大輔任官も本文で確認できます。

同じことが紀古佐美にもできる。

  • 宝亀2年11月19日 式部少輔
  • 延暦2年5月15日 式部大輔
  • 延暦4年10月12日 式部大輔兼参議
  • その後も式部大輔として「如故」

という少輔→大輔→参議級官人という移動ルートを追える。宝亀2年11月19日の少輔任官、延暦2年5月15日の大輔任官

3)「式部省人事」と「人事そのもの」の関係

『続日本紀』には式部省について、

「凡国司。毎年実録官人等功過行能并景迹。皆附考状申送式部省。省宜勘会巡察所見。」

という記事に出会う。国司について、

国司の実績記録
→ 考状
→ 式部省
→ 勘会
→ 人事

という回路が史料上確認できる。さらに和銅6年には、

「銓衡人物。黜陟優劣。式部之任。」

と明記される。我々にとって、

「正税帳を読んだ人間が、何を疑い、何を確認し、何を評価したのか」


人事評価

任官・除目

という問題と、かなり強く接続する。

4)「式部省表」の4層構造

A ポスト

式部卿/大輔/少輔/員外大輔/員外少輔/少丞……

B 人物

誰がそのポストに就いたか。

C 前後の人事

その人物が

どこから式部省へ来たのか
式部省からどこへ出たのか
兼官したか
昇進したか
死亡したか

D 式部省がその人物について何をしたか

ここが本丸です。

たとえば、

考状

式部省の勘会

銓衡

黜陟

任官

という**「人事情報の処理過程」**まで拾う。

単なる官職表ではなく、

式部省は、どのような情報を受け取り、誰について判断し、その判断がどのような人事記事として『続日本紀』に現れるのか

を追いたい

5)式部省の「人事記事」と「式部省の職務記事」

例えば大宝元年には、

「本司月終移式部。然後、式部抄録。申送太政官。」

とあり、これは式部省が他司から人事情報を受け取り、抄録して太政官へ送る処理である。

さらに大宝3年には、

「巡察使所記諸国郡司等、有治能者。式部宜依令称挙。」

とあり、巡察情報から式部省が人材を挙げる。そして和銅元年には、式部史生の不正・審査漏れまで問題になる。式部省そのものの人事記録

だけでなく、

式部省が「人事情報を処理した記録」

がある。。

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