2021年10月3日日曜日

古代における海外からの医薬品輸入に関するリスト

 古代における海外からの医薬品輸入に関するリスト 下記のURLからの転載。ここでの紹介は、労作オリジナル サイトへの案内であるので、かならずその原典で確認してほしい。



 医博士の奈率王有陵陀と採薬師の施徳潘量豊・固徳丁有陀が百済より来る。

日本書紀 呉人・智(知)聡が 「内外典・薬(本草?)書・明堂図等百六十四巻」 を持参(新撰姓氏録) 大宝律令(医疾令)で医生・薬園生のテキストに「本草」(『本草集注』)を指定(<833 703="" span=""> 上巻」の記述、また薬名を万葉仮名ではなく人参・西(細)辛・久(苦)参などの漢名かつ呉音で記し、本草知識の半島経由を示唆(丸山、2007)

731(天平3年).7.17

2021年8月17日火曜日

天平7年および天平9年の疱瘡流行に関する記事(大宰府を中心に)

 天平7年・ 9年の疱瘡

『続日本紀』には、天平7年の流行病は「■(わん)豆瘡」と記述し、「俗に裳瘡」とある。天平9年の流行病は「疫瘡」と記す。典薬寮勘文では、「疱瘡、■(わん)豆病、■豆瘡」と記す。太政官符では「赤班瘡」とある。



『続日本紀』巻12には、この天平7年及び天平9年の疱瘡流行に関係を有する記事は、下記の通りである。

 天平七年(七三五)

 ◎八月乙未(12)。勅日。如聞。比日大宰府疫死者多。思欲救療疫気以済民命。是以。秦 幣彼部神祇。為民祷祈蔦。又府大寺及別国諸寺。読金剛般若経。偽遣使賑給疫民。井加湯 薬。又其長門以還諸国守若介。専斎戒道響祭祀。

 ◎八月丙午(23)。大宰府言。管内諸国疫癒大発。百姓悉臥。今年之間欲停貢調。許之。

 ◎閏11月戊成(17)。詔。以災変数見。疫病不己。大赦天下。自天平七年閏十一月十七 日昧爽以前大騨罪以下。罪無軽重。巳発覚末発覚。己結正末結正。及犯人虐。常赦所不免。 威赦除之。其私鋳銭。井強盗窃盗。並不在赦限。但鋳盗之徒応入死罪各隆一等。高年百歳 以上賜穀三石。九十以上穀二石。八十以上穀一石。孝子順孫。義夫節婦表其門間。終身勿 事。鯨寡惇独篤疾之徒不能自存者。所在官司量加賑他。 ◇是歳。年願不稔。自夏至冬。天下患魂豆癒俗日英癒。夫死者多。 天平八年(七三六) 

◎十月戊辰(22)。詔日。如聞。比年大事所管諸国。公事稽繁。労役不少。加以。去冬 疫癒。男女惣困。農事有廃。五穀不鏡。宜免今年田租令続民命。 


天平九年(七三七) 

◎四月(19)。大事管内諸国。疫癒時行。百姓多死。詔奉幣於部内諸社以祈祷蔦。又 賑他貧疫之家。井給湯薬療之。

 ◎五月壬辰(19)。詔日。四月以来。疫早並行田甫燥萎。由是。祈祷山川。葵祭神祇。莱 得効験。至今猶苦。朕以不徳実致玄災。思布寛仁以救民患。宜令国郡審録菟獄。掩骸理解。 禁酒断屠。高年之徒。錬寡惇独。及京内僧尼男女。臥疾不能自存者。量加賑給。又普賜文 武職事以上物。大赦天下。自天平九年五月十九日昧爽以前死罪以下。威従原免。其八虐劫 賊。官人受財柾法。監臨主守自盗。盗所監臨。強盗窃盗。故殺人。私鋳銭。常赦所不免者 不在赦例。

 ◎六月甲辰朔(1)。廃朝。以百官官人患疾也。(朝を廃む、百官の官人疾を患えるを以てな

り)

・6月11日 小野老死去

 ◎七月丁丑(5)。賑給大倭。伊豆。若狭三国飢疫百姓。散位従四位下大野王卒。

 ◎七月壬午(10)。賑給伊賀。駿河。長門三国疫飢之民。

 ◎七月乙未(23)。大赦天下。詔日。比来。縁有疫気多発。祈祭神祇。猶未得可。而今 右大臣。身体有労。寝膳不穏。朕以側隠。可大赦天下政此病苦。自天平九年七月廿二日昧 爽以前大騨罪己下威赦除之。其犯人虐。私鋳銭。及強窃二盗。常赦所不免者。並不在赦 限。

・7月13日 参議藤原麻呂死去

・7月25日 右大臣藤原武智麻呂死去

・8月5日 参議 藤原宇合死去

 ◎八月甲寅(13)。詔日。朕君臨宇内稽歴多年。而風化尚擁。黍庶未安。通旦忘窺。憂労 在叢。又自春己来災気連発。天下百姓死亡実多。百官人等開卒不少。良由朕之不徳致此災 殊。仰天漸悼。不敢寧処。故可優復百姓使得存済。免天下今年租賦及百姓宿負公私稲。公 稲限八年以前。私稲七年以前。其在諸国能起風雨為国家有験神未預幣吊者。悉入供幣之例。 給大宮主御盃。坐摩御重。生嶋御重及諸神祝部等爵。

 ◇是年春。疫癒大発。初日筑紫来。経夏渉秋。公卿以下天下百姓。相継没死不可勝計。近代 以来末之有也。 


事実、『続古事談』第五諸道には

「もがさと云病は、新羅国よりおこりたり。筑紫の人うをかひける 船、はなれて彼国につきて、その人うつりやみてきたれりけるとぞ」

とある(『壇嚢紗』に同文)。

2021年7月11日日曜日

大宰府の垣

 『菅家後集』に見る、

*城に盈ち郭に溢るる幾くの梅花ぞ

とある「郭」こそ、都府楼が左郭、右郭に分かれていた周囲を取り囲む垣があったからこそ、この歌が成立したらしい。

2020年4月13日月曜日

576番 今よりは城山の道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを

576番
太宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守葛井連大成、悲しび嘆きて作る歌1首
今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを
宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井連大成悲嘆作歌一首
従今者 城山道者 不樂牟 吾将通常 念之物乎



基肄城の輪郭。はっきりと石垣が残っている。

 

(1)   筑後守

守(国司)=   大国 従五位上
    〃    上国 従五位下
    〃    中国 正六位下
    〃    下国 従六位下
 筑後国は上国であるので、十郡七十郷、百八十七里で


 守一人、介一人、大橡、小橡各一人、大目、少目各一人、史生三人
 郡には大領、少領、主政、主帳がいた

(2)葛井連大成の略歴は、次の官職が知られている。
·         養老3年(719) 閏7月11日 新羅使
·         養老4年〈720年〉 5月10日:白猪史のち葛井連に改姓
天平3年〈730年〉 正月27日外從五位下

・「乙巳、筑前國司言:「新羅使-薩飡-金-序貞等、來朝」於是、遣從五位下-多治比真人-土作、外從五位下-葛井連-廣成、於筑前、檢校供客之事」

天平15年(743年) 6月30日:備後守。7月3日:従五位下(内位)

・天平15年7月3日
  「庚子、天皇御石原宮、賜饗於隼人等、授、正五位上-佐伯宿禰-清麻呂、從四位下、外從五位下-葛井連-廣成、從五位下、外從五位下-曾乃君-多利志佐、外正五位上、外正六位上-前君-乎佐、外從五位下、外從五位上-佐須岐君-夜麻等久久賣、外正五位下、」

天平20年(748年) 2月25日:従五位上。

天平20年〈748年〉1月己未
「己未、車駕、幸散位-從五位上-葛井連-廣成之宅、延群臣宴飲、日暮留宿、

天平20年〈748年〉8月21日:正五位上

「 辛未、以從五位下-大原真人-麻呂、石川朝臣-豐人、並為少納言、從五位下-大伴宿禰-古麻呂、為左少辨、大納言-正三位-藤原朝臣-仲麻呂、為兼紫微令、參議-正四位下-大伴宿禰-兄麻呂、式部卿-從四位上-石川朝臣-年足、並為兼大弼、從四位下-百濟王-孝忠、式部大輔-從四位下-巨勢朝臣-堺麻呂、中衛少將-從四位下-背奈王-福信、並為兼少弼、正五位上-阿倍朝臣-蟲麻呂、伊豫守-正五位下-佐伯宿禰-毛人、左兵衛率-正五位下-鴨朝臣-角足、從五位下-多治比真人-土作、為兼大忠、外從五位上-出雲臣-屋麻呂、衛門員外佐-外從五位下-中臣丸連-張弓、吉田連-兄人、葛木連-戶主、並為少忠、從五位下-藤原朝臣-繩麻呂、為侍從、從五位下-御方-大野、為圖書頭、從五位下-別公-廣麻呂、為陰陽頭、從三位-三原王、為中務卿、從四位上-安宿王、為大輔、正五位上-葛井連-廣成、從五位下-藤原朝臣-真從、並為少輔、中納言-從三位-紀朝臣-麻呂、為兼式部卿、從五位下-多治比真人-犢養、為少輔、神祇大副-從五位上-中臣朝臣-益人、為兼民部大輔、從五位下-阿倍朝臣-鷹養、為主計頭、從五位下-紀朝臣-廣名、為主稅頭、正五位下-大伴宿禰-稻君、為兵部大輔、從五位上-大伴宿禰-犬養、為山背守、從五位上-石川朝臣-名人、為上總守、外從五位下-茨田宿禰-枚麻呂、為美作守、」

天平19年4月
「丁卯、天皇御南苑、大神神主-從六位上-大神朝臣-伊可保、大倭神主-正六位上-大倭宿禰-水守、並授從五位下、、以外從五位下-葛井連-諸會、為相模守、」

である。この葛井氏を考えるうえで、忘れてはならないのは、河内国古市郡を本拠地とした西(河内)文首である。『古事記』においては、百済より『千字文』『論語』を将来した和邇吉師の後裔氏族であるが、史上では文首根麻呂(根摩呂・禰麻呂・尼麻呂)が大海人皇子の東国入りに随従した20余人の一人で、壬申の乱では村国連男依らとともに軍勢を率いて進軍し、その論功によって大宝元年(701)に封100戸が下賜された(文首根麻呂墓誌の刻文:「壬申年将軍」奈良県宇陀市榛原八滝出土)。なお、古市郡および隣接する丹比郡には、文首のほかにも多数の百済系渡来氏族が居住しており、丹比郡に居住したのは辰孫王(王辰爾の祖)の後裔を称する氏族群、いわゆる「野中古市人」(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>である。
次の『続日本紀』神護景雲4年3月辛卯の条にある、
  少女等(をとめら)に 男立ち添(をとこた そ)ひ 踏み平(ふ な)らす 西の都(にし  みやこ)は 萬世の宮(よろづよ みや)
原文:乎止賣良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 與呂豆與乃美夜、
 其歌垣歌曰:
  淵も瀨(ふち せ)も 清く爽(きよ さや)けし 博多川(はかたがは) 千歲を待(ちとせ ま)ちて 澄める川(す  かは)かも
原文:布知毛世毛 伎與久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母、
 每歌曲折、舉袂為節、其餘四首、並是古詩、不復煩載、
 時詔五位已上、內舍人及女孺、亦列其歌垣中、歌數闋訖、河內大夫-從四位上-藤原朝臣-雄田麿已下、奏和舞、賜六氏歌垣人、商布二千段、綿五百屯、
」
とあり、また始祖の記載に始まって、祖先を顕彰するために作られた「家牒」が注目される。
「斯並国史家牒。詳載其事矣」 にみるように、
 「貴須王者百済始興第十六世王也。夫百済太祖都慕大王者。日神降霊。奄扶余而開因。天帝授◆。惣諸韓-而称王。降及近肖古王。遥慕聖化。始聘貴国。是則神功皇后摂政之年也。其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別寸。使於百済捜聘有識者、国主貴須王恭奉使旨。択採宗族。遣其孫辰孫王(一名智宗王)、随使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以為皇太子之師矣。於是。始伝書籍。大◆儒風。文教之興。誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子玄陽君。玄陽君子午定君。◆◆◆生三男。長子味沙。仲子辰仁。季子麻呂。従此而別始為三姓。各因ニ所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。」
とあり、三氏の同祖説を強調した。
 ただし、井上光貞が説くように、
  「地縁的関係の力強さは西文氏系の三氏(文・武生・蔵)の場合にも、船氏系の三氏(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>)の場合にも血縁同胞の精神的=生活的共同の保持強化に大きな役割を果たしたのであるが、それはまた血縁的には恐らく無関係な西文氏系の三氏と船氏系の三氏をも一つの結合へと統一して行ったのである。」
というのは、正鵠を射ているだろう。
 なお、葛井寺(大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21)は葛井連大成の建立と伝えられている。


(2)    不楽しけむ
「さぶし」は「さぶ」と同根で、同じく上二段活用動詞。
「山の端にあぢ群さわきゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば」(万葉集、486)
「ささなみの志賀津の子らがまかり道の川瀬の道を見れば不怜も」(万葉集、218)
などに用例を見る。

(3)   「城の山道」か「城山の道」か
この大宰府から筑後国への官道には、今なお定説はないが、あえて、「山道」の語に拘れば、
案‐①)筑紫野市萩原から日尾山の鞍部に到着し、そこから日尾山(火の尾、烽台)山頂に到着した後、そこから基肄城東北門蹟を縦断して、丸尾礎石群という城内の倉庫十数棟蹟を経由して、基山町城戸に抜ける西側のルート
が推測できる。しかしながらこれでは急峻すぎて、いかに健脚な古代人であろうとも、その山道を通過する時間の長さを考えれば、無理は避けたに違いない。
なぜならば大宰府政庁から南下する官道は基肄城跡(佐賀県基山町)麓を経由して、肥前国府と筑後国府へ分岐する基肄駅(現JR基山駅付近)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)の分岐点にさしかかる平坦部を行く、
がある。現在の国道3号線である。本来であれば、直線距離を通行して、筑後国庁へ帰るのが順当であろう。そこで、従来の読みを変えて、「城山の道」と読み替えたい。つまり「基山=城山」説である。
本文は、「今よりは城山の道は」として、大宰府から南下して、筑紫野市山谷から基肄城跡の縁を抜けて、基山町城戸に抜けるルートが「城山の道」であったと提唱する。
そうであれば、基山町立明寺地区遺跡C地点の古代道が参考となる。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めてである。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mであるだけに、その官道の重要性を想定させる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置は不明のままである。
遺跡周辺遠景立明寺地区遺跡C地点の古代道

参考資料
筑紫野市岡田地区で発見された豊後国へ向かう官道(幅9メートル)
岡田地区遺跡官道全景

ちなみに、筑後国の国庁は、現在の久留米市の東側、標高 10~17m程の低 台地上に筑後国府域が広がる。現在の合川・東合川・朝妻・御井町にわたる、東西約 1.5 ㎞、 南北約 700mの範囲。



史記、漢書、後漢書、三國志、晉書,各一部.

太宰府にあったという史記などの唐本はいずこに?

 甲辰,從五位上-奈癸王,為正親正.
 大宰府言:「此府人物殷繁,天下之一都會也.子弟之徒,學者稍眾.而府庫但蓄五經,未有三史正本.涉獵之人,其道不廣.伏乞,列代諸史,各給一本.傳習管內,以興學業.」詔,賜史記、漢書、後漢書、三國志、晉書,各一部.

2020年4月12日日曜日

556番歌 賀茂女王556番  筑紫船いまだも来ねば あらかじめ荒ぶる君を 見るが悲しさ

556番歌 賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(すくねみより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王(なきひだりのおほまへつきみながやのおほきみ)の女(むすめ)そ 筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ 賀茂女王  巻8、1613>番歌にも、その和歌がある。題詞によれば、父は長屋王、母は阿倍朝臣。 長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は胸形君徳善の女尼子娘であり、天武天皇の長子である。壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣であった。 そして持統天皇の後継者的性格を当時の太政大臣は持っていた。 また、 王の母は天智天皇 と姪娘との間に生まれた御名部皇女。したがって長屋王は父母両系において天皇家の孫に当たる。和銅八年(七一五)の時点で、長屋王の年齢は四十歳(懐風藻)あるいは 三十二歳(尊卑分脈、 公卿補任)である。  美濃行幸、養老改元、長屋王の大納言昇任と続いた一連の事件は、 元正女帝即位以来の、律令制の推進者藤原氏と長屋王の対立と妥協の産物である。卑見によれば、「故左大臣長屋王」とある「故」には、単なる幽明境を異にしていると表示するためだけだと思われない。 大伴宿祢三依、 大納言大伴御行の子。御依とも作る。大伴旅人と同じ頃、筑紫に赴任したらしい。したがって、天平元年(729)頃に賀茂女王との親しい関係を持っていたようだ。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年US">(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年<(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。  大伴宿祢三依の歌は、下記の5首を収録する。 ①我(あ)が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万) ②天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578) ③我妹子(わぎもこは常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650) ④>照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690) ⑤霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434) (3)筑紫船 古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された陸上の道は、太宰府道・筑紫大道と呼ばれたが、海上の道を往来したのは、筑紫船。その航路は、遣唐使および遣新羅使の航路から推定できるが、千田稔の考察によると、難波津あるいは難波御津は大阪市南区三津寺町付近に求め、安曇江を北区野崎町付近、その西に新羅江庄を比定すれば堀江は天満川、また難波江には堂島川玉江橋北に求めたいという。そして住吉三津、敷津、榎津も住吉神社周辺に、五泊の位置については河尻泊は尼崎市今福、大輪田泊は旧湊川河口部、魚住泊は明石市江井ケ島、韓泊は姫路市的形に求め得、檉生泊は現在の室津港そのものと考えている。 なお、難波津の形成は、大和王朝による難波堀江の開削と連動しており、5世紀代のことである。 5世紀後半に上町台地の先端部に難波大倉庫群が建設された 。難波地域の砂州を掘削して、作られた難波堀江の開通により、難波地域は 淀川・大和川水系によって畿内中央部と容易に 連絡できるようになった。
テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明"/> テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明" 自動的に生成された説明  "テキスト, 地図 が含まれている画像 自動的に生成された説明" その難波から畿内中央部への主要ルートは、次の地図の通りであった。