2020年4月12日日曜日
556番歌 賀茂女王556番 筑紫船いまだも来ねば あらかじめ荒ぶる君を 見るが悲しさ
556番歌
賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(すくねみより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王(なきひだりのおほまへつきみながやのおほきみ)の女(むすめ)そ
筑紫船(つくしぶね)いまだも来(こ)ねば あらかじめ荒(あら)ぶる君を 見るが悲しさ
賀茂女王
巻8、1613>番歌にも、その和歌がある。題詞によれば、父は長屋王、母は阿倍朝臣。
長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は胸形君徳善の女尼子娘であり、天武天皇の長子である。壬申の乱の功労者であり、持統朝の太政大臣であった。
そして持統天皇の後継者的性格を当時の太政大臣は持っていた。 また、 王の母は天智天皇 と姪娘との間に生まれた御名部皇女。したがって長屋王は父母両系において天皇家の孫に当たる。和銅八年(七一五)の時点で、長屋王の年齢は四十歳(懐風藻)あるいは
三十二歳(尊卑分脈、 公卿補任)である。
美濃行幸、養老改元、長屋王の大納言昇任と続いた一連の事件は、 元正女帝即位以来の、律令制の推進者藤原氏と長屋王の対立と妥協の産物である。卑見によれば、「故左大臣長屋王」とある「故」には、単なる幽明境を異にしていると表示するためだけだと思われない。
大伴宿祢三依、 大納言大伴御行の子。御依とも作る。大伴旅人と同じ頃、筑紫に赴任したらしい。したがって、天平元年(729)頃に賀茂女王との親しい関係を持っていたようだ。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年US">(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年<(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。
大伴宿祢三依の歌は、下記の5首を収録する。
①我(あ)が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万)
②天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578)
③我妹子(わぎもこは常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650)
④>照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690)
⑤霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434)
(3)筑紫船
古代に都と筑紫を結ぶ官道として整備された陸上の道は、太宰府道・筑紫大道と呼ばれたが、海上の道を往来したのは、筑紫船。その航路は、遣唐使および遣新羅使の航路から推定できるが、千田稔の考察によると、難波津あるいは難波御津は大阪市南区三津寺町付近に求め、安曇江を北区野崎町付近、その西に新羅江庄を比定すれば堀江は天満川、また難波江には堂島川玉江橋北に求めたいという。そして住吉三津、敷津、榎津も住吉神社周辺に、五泊の位置については河尻泊は尼崎市今福、大輪田泊は旧湊川河口部、魚住泊は明石市江井ケ島、韓泊は姫路市的形に求め得、檉生泊は現在の室津港そのものと考えている。
なお、難波津の形成は、大和王朝による難波堀江の開削と連動しており、5世紀代のことである。
5世紀後半に上町台地の先端部に難波大倉庫群が建設された 。難波地域の砂州を掘削して、作られた難波堀江の開通により、難波地域は 淀川・大和川水系によって畿内中央部と容易に 連絡できるようになった。
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その難波から畿内中央部への主要ルートは、次の地図の通りであった。
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